
はてなキーワード:初孫とは
おめでとうが9割、残りは「あーあ、やられた」という感じの後ろめたい気持ち。
私は最低な姉です。ごめんね。でも絶対にそんなことを家族には言わないし、きちんとお祝いもするので許してほしい。
いまも母と妹から送られてくる赤子の写真に既読をつけずにこの文章を書いている。
私は三姉妹の長女でもうすぐ三十歳になる。子供が産まれたのは真ん中の妹(つまり三姉妹の次女)で私とは2歳離れている。
下の妹が生まれた頃のことはうっすらだけど覚えているが、真ん中の妹が生まれる前のことは何も覚えていない。物心ついた頃から私はずっと姉だった。「お姉ちゃんなんだから」とかそういう姉の役割を押し付けられるようなことを母親から言われたことはあまりなかったと思うけど、昔はずっと一人っ子に憧れていたのを覚えている。一人っ子のどういう部分に憧れるのか、その当時はあまり深く考えていなかったが自分だけの親が欲しかったのだと思う。
私が何かを始めるときは大体真ん中の妹とセットだった。習字教室に通い始めるときも、学習塾に通い始めるときも、一緒に始めることになり送り迎えは二人一緒だった。
一番下の妹は少し歳が離れていることもあってか、私たちとは別のタイミングで別の習い事を始めていた。ピアノ教室やスイミングに通っていたのは一番下の妹のみで、当然ながら母はそこへ三女のためだけに送迎をする。私はそれが気に入らなかった。
そういった不満があったからか中学生くらいまでは妹二人とは全然仲が良くなかったし、母とも喧嘩ばかりしていた。喧嘩して、妹の前で叱られて部屋にこもる。けど部屋といっても妹の部屋とアコーディオンカーテンで区切られているだけだから完全に一人にはなれず、泣いているのを妹に知られるのが嫌でとりあえず布団をかぶっていた。けど、大きな家ではないので妹と母が楽しそうに話す声や私のことを悪くいう声なんかが聞こえてきたりして、凄まじい疎外感を覚えてまた泣いたのを覚えている。
大体いつも母とぶつかるのは私で、妹たちは横目でそれを見ていてたまに口を挟んでくる。それに私がキレて妹にあたる。そしてまた母がキレる。母が妹たちを庇う形になるのが本当に嫌だった。「妹のことばっかり」と何度思ったか分からないし、私はずっと「自分は姉妹の中で一番母から愛されていない」と思っていた。
母の愛情やありがたみを素直に受け取れるようになったのは、大学進学を機に一人暮らしを始めてからだった。妹に対してもいつもムキになってしまって申し訳なかったと思うようになったし、家を出てからは妹に対してうっすらと抱いていた敵という感覚がなくなった。そこからは母とも妹ともうまくやれていると思う。わりと頻繁に連絡をとっているし一緒に食事に行ったりする。母とは就職活動のときに少し喧嘩をしたが、妹とは家を出てから一度も喧嘩をしていない。
働き始めてからはずっと誕生日と母の日はプレゼントを欠かさず贈っているし、年始にはお年玉を渡している。別に何もいらないよ、と言われるが渡さないとなんか気が済まないし、前年よりも高い金額のものを渡さなければという謎の焦燥感がある。
ずっと親孝行の気持ちからそうしていると思っていたが、一昨年くらいにふと「違うかも」と思った。もしかすると私は、かつて自分が満足いくまで得ることができなかった(と思っている)母親からの愛情や関心をプレゼントやお金で取り戻そうとしているのかもしれない。三姉妹の中で私が一番母にお金を使っているし、今なら自分が一番になれるはずだという気持ちが多分私の中にはある。母はきっと私たちを平等に育てたのだろうと頭では分かっているけど、あのとき妹に奪われた母からの愛を取り返したい。
けどどんなプレゼントも初孫にはきっと敵わないんだろうな、と気がついてしまった。母は何も聞いてもないのに妹の予定日や体調を逐一連絡してくるし、妹の出産準備の買い物に付き合うのも大変そうにしていたけどすごく真剣だった。私にとってはずっとお母さんでしかないから自分の母が祖母になるなんて全く想像もつかなかったけど、やはり母も初めての孫が生まれるのが嬉しかったんだろうな。
母から初孫の写真がたくさん送られてきた。産んだ妹よりも多く送ってくる。その母の喜びの先にいるのが自分でないことが悔しいし悲しい。
これから先私が子供を産んでも当たり前だが初孫にはならないし、初めての孫が生まれるわくわくを私から母にあげることはできない。
妹の産んだ赤ちゃんはかわいかった。妹に目元がよく似ていた。姪っ子として大切にしてあげたいと思う。
こんな伯母さんで本当にごめんね。
ずっと、手を握っている。
80歳を迎える父親は、長年の飲酒と喫煙で病院のベッドから身を起こすこともできなくなっていた。
長期入院の中、認知症も現れ始め、混濁した意識の中で息子の手を誰ともわからず握り続けている。
冷たく乾き、死を思わせる掌のいびつな肉のたるみ。受け取るその感触は、人が往生していく過程としてよくあるものなのかもしれない。
父はかつてモーレツに勤労し、財を成し、親を含む三世代の家族に富をもたらした。
家族がひとり、ふたりと減り、残った自身も家を離れ、管に繋がれ四人部屋の窓から人生の落陽を眺める生活となった。
目が薄く開く。週末のバラエティが流れる、プリペイドカードが差し込まれたテレビを眺めながら、聞く。
「入院、長くなりそうだから父さんの口座から落ちるようにしたいんだけど、いい?」
父は弱々しく首を振った。
人のいなくなった家の寂れる速度は速い。
入院のため祖父を知らない六歳の初孫の娘を連れて、実家の玄関に入る。
踏まれる事のなくなった廊下は変形が始まり、庭のコンクリートの割れ目からはセイタカアワダチソウが飛び出す。
しゃがみ込んで、大きく発達した後ろ足を娘が食い入るように見つめる。
「人がいなくなって、植物が増えたからなあ。他にもいろんな虫がいるかもよ?」
読み込みが長い。購入して四年は経っている。
明日朝イチの業務効率化会議の資料変更の通知がポップアップする。
寂れと隣り合わせの住まいで暮らし、数年で古びる端末を手に、効率を語る先の仕舞いは、このバッタほど子どもをエキサイトさせるものではないだろう。
鳥の羽を拾った娘の小さな手を握り、車に乗り込む。握り返す力の強くなったことに驚き、嬉しく思う。
「ああ、また行かなきゃな」
消え入るような秋風が、ドアの隙間から忍び込んだ。
離婚事由:嫁の不倫、専業だけど家事何もしない(結婚時点から)、子供も托卵
財産分与:なし(婚前契約で双方の稼ぎはそれぞれの物で生活費などは共有口座に入れると言うのを無職としていたのもある)
結婚理由:相方が就活うまく行ってなくって病んでたのでまぁ結婚してみる?で結婚
めっちゃ清々した、職歴もない30半ばの女を世間にリリースしてすまん
子供は托卵だけどどっちと暮らしたいか聞いたら俺とがいいと言うので引き取る
(相方も子供いらん言うてるし、間男も要らないそうなので俺はいるので俺が育てる)
そらまぁ家事全部やってたの俺か時々頼むお手伝いさんだし相方マジで何もしないからな
家事何もやってないで共有財産主張も無理だし子供産んだ!も托卵だしで今後どうするんだろう
俺に対する慰謝料もどうやって払うんだろう?可哀想だから分割で年明けから毎月3万円ずつにしたけど職歴なしで仕事あるんかな
義両親も相方縁切りで孫を育てるって言ってる俺と今後も付き合いたいそう
16年前のガンが再発し、再闘病8年目の今年2月、これ以上の治療は困難とのことで緩和ケアへ移行することになりました。
この時私は妊娠6ヶ月でした。念願の初孫だと喜んでくれていたので、この告知はとてもショックでした。
予定日は7月2日、母の余命は4ヶ月ほどだろうと言われました。主治医の先生には被るのではないかとまで言われたそうです。
去年は友達と九州へ旅行に行ったり、好きなアーティストのコンサートに行っていたのに、本当に急でした。
もちろん里帰り出産なんて出来ませんでした。さらに今後、私がお腹の子を育てていく際に母の支えが無いのだということに絶望しました。孫の手を引くお母さんを見ることは出来ないんだと、孫を甘やかすおばあちゃんがいないのだと。
しかし1番悲しいのは母自身です。私は期待を持たせて悲しさが大きくなるのが怖くて、孫に会わせたい、孫を抱いて欲しいという願いをグッと飲み込み、母は母の病気に向き合って、私は私の出産を頑張るからと伝えました。
遠出を避けなければならない妊娠後期ギリギリまで何度も帰省しては、母にたくさんお腹を撫でてもらいました。撫でてもらうたびに、お腹の子に会わせたいという淡い思いで胸がいっぱいになりました。
最後に会ったのはGWでした。またね、頑張るんだよと声を掛けてくれた姿は比較的元気そうでしたが、今思えば妊婦の私を気遣って無理をしていたのでしょう。
その後、母はみるみるうちにやつれていきました。ご飯が咀嚼出来なくなり、ゼリーなどの流動食ばかり食べていたようです。肺に水が溜まり、心臓が痛くなり、起き上がるのが苦しくなっていたのです。また薬の副作用や症状の悪化でせん妄が顕著に現れていました。テレビ通話やメッセージが支離滅裂になっていく母の姿を見るのは辛かったです。
しかし私のお腹の子はどんどん大きくなって来ます。とうとう正期産の日になりました。その当日の妊婦健診時の「いつ生まれて来てもいいからね」という先生の言葉を聞いたからなのか、はたまたこの後のことが分かっていたのか、その日の夜、子は予定より3週間も早く産まれてくれました。
小さく生まれたものの、2510gとギリギリ体重をクリア、増加率も問題なく、一緒に退院することが出来ました。
旦那が無事に出産したと実家にメッセージを送ると、混濁していた母の意識が急にはっきりして、母子の無事を泣いて喜んでくれたと聞きました。喜怒哀楽を娘にあまり見せない親だったので、大泣きする母の姿が想像できませんでした。
母がしっかりと会話できたのはこの日が最後でした。
介護をしている姉から送られてくる母の様子は、かなり厳しいものでした。言葉が出てこなくて癇癪を起こしてしまう、姉の顔を忘れてしまった、ベッドから起き上がれなくなった、トイレに行けなくなったとゆっくりと、しかし着実に一生を終える階段を登っているようでした。
ついに1週間前、母が入院になりました。最後の入院になるだろうとのことでした。医者の見立てというものはすごいです。2月の段階ではここまで進行するとは思えないほど元気だったのに。
私は姉に伝えました。1ヶ月健診が終わったら帰るから、それまで頑張るんだよと伝えて欲しいと。
子が早く生まれてくれたから、早くに外出できるようになったのです。母に抱かせられるかもしれない。諦めたはずの期待が溢れてしまいました。
無事に1ヶ月健診を終え、急いで実家に帰省しました。母を見舞う前日、姉から「ご飯が食べられなくなった。それに伴って持病の薬を全て中止した」と言われました。全身に転移したガンとは別に心臓の持病を抱える母にとってそれは、最期へのカウントダウンでした。
月曜日、特別に許可をもらい子を連れて病室に向かいました。母は息をしていました。意識はほぼなく、呼吸器をつけてやっとしていた息ですが、心臓を動かして待ってくれていました。痩せて骨と皮だけになった母の手を取り、子の手を触ってもらいました。発熱していたこともあり、温かい指先でした。目を少し動かし、私を、子を追っているように見えました。待っていてくれてありがとう、私もお母さん頑張るよと伝えて病室を後にしました。
その日の深夜、日付が変わる時に母は旅立ちました。主人に子を預け、最期に立ち会うことが出来ました。
息を引き取った母を見て、ああ本当に待ってくれたのだと思いました。また、子は母の命の時間を知っていて早くに生まれてくれたのだと思いました。
そうとしか思えないのです。
そう思ってもよいでしょうか。
母の病気が治らないと知った時、奇跡なんてものはなく、神もいないのだと悟りました。
でも抱かせることは叶わなかったけれど、無事出産できたことを知らせることができ、孫の写真を見せられて、直接孫の顔を見せることも、孫の手に触れさせてあげられたことも出来ました。
このタイミングが偶然のものだとしたら、出来すぎだなあと笑ってしまいます。
そして未明に母が帰宅し、授乳の合間を縫って仮眠を取り、やっとジワジワと母が逝ってしまったことを実感しています。
死に目に遭えたからとしても、やはり私のこの先の人生に母の姿がないことに変わりはありません。その事実がどうしようもなく辛く、悲しく、胸に重くのしかかってきています。寝不足のまま、微かに一階から流れくる線香の匂いを嗅ぎ、理由なく泣き続ける子をあやしながら、広くなって静かな家の廊下を歩いていると、今日がきっと人生で1番辛い日なのだと思います。
程度は変わるのでしょうが、一生この辛さは消えないのでしょう。ここに母がいたら、母だったら何を言ってくれただろう、と。道ゆくおばあちゃんと孫の姿を見かけるたびに、私は一呼吸置いて鼻の奥が痛くなるのを堪えるのでしょう。
それでも我が子を抱きながら、この子と母の奇跡のような巡り合わせを思い出して、痛みを少しだけ溶かしていくのだと思います。
義実家とは結婚の時に縁が切れています。そのため頼れる家族が、認知症を患う父と陸の孤島と呼ばれる県内の果ての地で教鞭をふるう姉しかいません。
アレコレ夫と毎日相談しながら準備するのは楽しい。今のところ経過も順調。
うちの両親が初孫フィーバーしてるのが唯一の悩み。ありがたいんだけどね。
色々とうちの両親のペースに乗せられてしまっている。
戌の日のお参りに弟夫婦も同席することを許可してしまい、義母アウェーな空気にしたり。
実母から「出産後は里帰りするわよね?するでしょ?そうしなさい!」と毎日連絡が来て辟易している。電話ではイライラした口調で話されるから本当に嫌。
出産子育ては私達夫婦の問題だから、主導権渡したくない。もしこれがシングルマザーな状況だったら全力で頼らせてもらってただろう。
当事者は私と夫なんだ。私達の意向を差し置いての意見は私の両親のエゴに他ならないと思う。
本音を言えば戦力として頼りたいけど、こんなにグイグイ来られると素直に「よろしくお願いします」と頭を下げたくなくなってしまう。
そんな反面、もう老い先短い両親だから多少やりたいようにやらせてやりたい気持ちもある。
正直、私自身そこまで子供を切望した訳ではなく。夫や両親の喜ぶ姿を見たい一心で数年に渡る不妊治療に取り組めた。後悔したくないと思ったからだ。
実母から、
今日何しているんだ、腹帯しろ、里帰りの決断を早く今すぐにしろ、犬の散歩は一切するなとか細々したことを怒ってるんだか苛立ってるんだか、語気荒く毎日電話してくるのがしんどい。これストレスで赤ちゃんに良くないんじゃないか?
ちなみに電話まではしないけど実父も意見は同じ。めっちゃLINEしてくる。ストッパーは期待できない。
幼少期から結婚するまで感じていた、居場所が無い、心許せる人がいないと孤独を抱えてたあの頃の気持ちがフラッシュバックする。実家を出てやっと摂食障害が寛解した。
それなのに、親孝行云々で自分はおろか夫と子供も巻き込もうとしてしまってる弱い自分。
どこかできちんと線引きしないと、この2人を傷つけてしまうかもしれない。ちゃんと守らなくては。
押しの強さが無ければ、いい両親なんだけどな〜。
■子どもを欲しいと思えなくてつらい
子どもを産みたい、欲しいと思えなくて、子どもを産んだ人、産もうと決めている人が眩しくて羨ましい。
結婚2年目の30代夫婦で、子どもは設けないことを決めた。私はもともと消極的だけど相手が強烈に望むなら産んでもいいかな(旦那が育休取る前提)と考えていたけど、旦那もそんな感じで、2人で毎日楽しいから変化は望んでいない状態でいる。
選択的子ナシ家庭も市民権を得てきたように思ってもまだまだ周りの家庭には子どもがいる。
子どもを産んで育てている人たちが本当にすごい。自分が生きるだけでもやることたくさんあるのに、少しでも目を離したらすぐ死んでしまうか弱い命を、社会生活を継続させたまま、毎日毎秒守って育てているのがすごすぎる。
私にはとてもできない。周りはできているのに、私は能力が足らなくてきっとできない。怒りっぽくて人間性もよくないから、私の元にやってくる子どもも不幸になる。周りは、長い年月をかけて、小さな赤ちゃんを立派な大人に育てていくという偉業を成しているのに、私にはできない。自分がいかに劣っているかを毎日実感して本当につらい。
実家は円満だったはずで、両親はよく手間をかけて育ててくれたのに、昔の人だから子ども産むのが当たり前と思ってる人たちなのに、私の出来が悪いせいでいまだに初孫を拝めていない。周りの人にはかわいい孫がいて、季節のイベントを一緒に過ごして幸せな老後を過ごしているのに、うちの両親にはその喜びがやってこない。本当にかわいそうで申し訳ない。こんな娘になってしまって、本当にごめんなさい。
子どもを産みたい、欲しいと思えなくて、子どもを産んだ人、産もうと決めている人が眩しくて羨ましい。
結婚2年目の30代夫婦で、子どもは設けないことを決めた。私はもともと消極的だけど相手が強烈に望むなら産んでもいいかな(旦那が育休取る前提)と考えていたけど、旦那もそんな感じで、2人で毎日楽しいから変化は望んでいない状態でいる。
選択的子ナシ家庭も市民権を得てきたように思ってもまだまだ周りの家庭には子どもがいる。
子どもを産んで育てている人たちが本当にすごい。自分が生きるだけでもやることたくさんあるのに、少しでも目を離したらすぐ死んでしまうか弱い命を、社会生活を継続させたまま、毎日毎秒守って育てているのがすごすぎる。
私にはとてもできない。周りはできているのに、私は能力が足らなくてきっとできない。怒りっぽくて人間性もよくないから、私の元にやってくる子どもも不幸になる。周りは、長い年月をかけて、小さな赤ちゃんを立派な大人に育てていくという偉業を成しているのに、私にはできない。自分がいかに劣っているかを毎日実感して本当につらい。
実家は円満だったはずで、両親はよく手間をかけて育ててくれたのに、昔の人だから子ども産むのが当たり前と思ってる人たちなのに、私の出来が悪いせいでいまだに初孫を拝めていない。周りの人にはかわいい孫がいて、季節のイベントを一緒に過ごして幸せな老後を過ごしているのに、うちの両親にはその喜びがやってこない。本当にかわいそうで申し訳ない。こんな娘になってしまって、本当にごめんなさい。
今も授乳中なので増田はアルコールを控えているが、酒豪の義母が事あるごとに酒を勧めて来るのでいい加減嫌いになりそう。
調べてみると確かに「アルコール摂取してから2時間(摂取量にもよるが)経てば授乳しても大丈夫」だそうなのだが、私はそこまでして飲みたいとは思っていない。
流石に今は控えている話を何度も伝えているが、夕食を共にするたびに「こんなに美味しいお酒が飲めないなんて可哀想」「少しだけでも飲みなさい」としつこく勧められるのでうんざりする。
夫に相談して間接的に注意をしてもらったが改善されない(義実家内では義母の権力がトップ。夫の進言はスルーされている。)から、私は「実はお酒の良さが全く分からない」という嘘のカミングアウトをしてみた。これによって私に遠慮なく高級酒を開ける頻度は増えたけど、依然として毎度勧められる状況は変わらない。高級なお酒を目の前で開けられるより、勧められなくなる方が良いと思ったのだけど、思ったようにはいかず。
私は現在妊婦で、先日病院いったら急に切迫早産と診断されて即日入院になってしまった。
夫はそれなりに多忙な現場仕事でなかなか休むのも大変だし、父が上の子4歳を見てくれるというのでその好意に甘えて入院中は実家で預かってもらうことになったのだけど、
これが失敗だった。
実家には大卒からニート歴15年以上の兄弟がいるのだけど、急に幼児が数日泊まるとなれば生活が乱され、さぞストレスだったのだと思う。
甥っ子だから、幼児だから、やむを得ない事情だから、とかそんな甘えは通用しなかった。
うちは無料託児所じゃねえ!あいつ(私)は都合いいようにうちを利用している!とお怒りだったそうだ。
ずっとLINEで母からは子供が言うことを全然聞かないだとかクレームは聞いていたので、都度謝り、もちろん退院した時にはきちんと労いとお礼をしようと子どもを迎えに行った矢先、
子供と話す間もなく、母にどんだけ迷惑かけたと思ってんだ!!謝れ!!と怒鳴られ、ニート兄弟にご迷惑をおかけしましたと母に強制的に謝罪させられる形になった。
こちらが迷惑をかけたのは事実だし、普段子育てしてない人にとっては一緒の生活は苦痛だったろうとは思うので罵声も受け入れ、相手が気が済むまで謝罪したのだけど、
今思い返せば本当に理不尽というか、しんどくなる。
入院中に子どもを実家に預けることは、実家を無料託児所にしてる!!と非難されるほどなんだろうか。
頻繁に実家に子ども連れてご飯を食べにいってるとか、子どもを実家に預けっぱなしで夜まで遊びまくってるとかならわかるんだけど。
今回以外で実家で上の子を預かってもらったのは4年間で2,3回程で、泊まりは今回が初めてだった。
途中休みの日は夫も手土産をもって子供を引き取ってるのでお願いしたのはほぼ平日の間数日だし、直接的なお世話は母と父がやってるだろうし、ニート兄弟は何もしてないわけではないだろうがお怒りになるほどのことだったのかとわからない。
絶対に本人には言えないが、年金も親に払ってもらい、何か病気の療養や障害等事働けない事情があるわけでもなく、自立支援を受けて何か努力しているわけでもなく、ただ毎日好きに過ごして親の用意した食事を食べている人のほうが、実家を都合よく使ってると思う。
子どもを預けること自体は確かに都合よく使うことなんだろうが、初孫も見せ、独身時代には記念日にはお祝いを贈ったり旅行にも連れて行ったりと尽くした分も多少あるので何から何まで一方的に頼りまくっているわけではないのに。
これを夫に愚痴ったら2chのニートネタで一番おもしろいと言われたけど、当事者としては虚無すぎて笑えない。
そして親も親で子育てを経験しているのなら多少はこちらの状況を酌んで合間に入って宥めてくれてもいいんじゃないかと思う。
信じられないことに、母も私を産む時に切迫早産で1か月入院し、義実家に子どもを預けていた経験があるのだ。
それでも今回ニート兄弟に加勢し、怒鳴り散らせる母が私には理解できない。
父はこの二人の行為にかなり悲しさと情けなさを感じたらしいが、指摘等しようものなら火に油を注ぐだけなので何もできない。
母に関しては、あんたのせいで1か月も入院して大変だったんだから!というような人なので、私の気持ちは理解できないのだろう。
義実家は遠方で頼れないし、出産のときの入院時にまた上の子を実家に預けようものなら今度は産後のボロボロの体で新生児を抱きながら土下座させられるかもしれないので笑
自分のメンタルを守るためにも父に協力してもらいながら今度は預けない方向でなんとかする予定。
まぁほんと信じられないんだけど、母は母で、産まれたら、孫ちゃん見に行きたいとか普通に言ってくるだろう。
会わせれば会わしたで、「女の子なのに一重で可哀そう。誰に似たんだ、似てない」とか呼吸するように不愉快なことばかり言うだろうし、ほーんと関わるだけ運気落とされるというか。
いいところに食事に連れてけば(嫌いなものがあって)うわこれ無理とか高い割にはそこまで大したことないねって普通に口に出しちゃうタイプ。
二人とも人の気持ちはわからなすぎるし、自分絶対正しいマンすぎて、そこまではもうどうでもいいけど、攻撃までされるからもう関わりたくない。
「嫁の畑が悪いから。」
初めて言われた時の衝撃が忘れられない。
私が結婚した年
義母「次は私さんね!」
義父「楽しみだなぁ。」
元夫「子ども早く欲しいなぁ。」
私「ですね〜。」
私(は?元夫との行為今まで1度も成功してないのに何を言ってるんだろ…)
私はこの時点で子どもは既に諦めていた。
とは言えどできるでしょって思ってた。
できなかった。まじか…
とりあえず持続できない。
最後までできない。
もどかしさで不機嫌になり、私にあたる。
週1で義務のように言われ、
そして、勿論できない繰り返しである。
まず、射●した事あるのか疑問だった。
(ここまでできないと。)
やんわり聞いてみると1人でした事ないと。
そんなの嘘だと思ってた。
でも本当らしくて衝撃だった。
「俺は病気じゃない!」と
放っておこう。
メモが置いてあった。
「旦那様を病気扱いにする前に、早く妊娠できるように努力すべし。精神的に追い詰められてるなら入院も検討。」
放っておこう。
約1年が過ぎた頃、
元夫「養子を取るか。」
私「そんな簡単じゃないよ?」
元夫「両親には施設は伏せとけ」
元夫「風船かボール入れとけば」
放っておこう。
いよいよおかしくなっているんだろうなと思っていた。
相変わらず行為は成立しない。
義妹第二子ご懐妊。
その時に元夫と祖母の会話が
元夫「俺は考えてるんだけどね」
祖母「嫁がなっとらんのか」
元夫「嫁がね。俺は頑張ってる」
元夫「嫁の畑が悪いからかもしれない。」
笑顔で私に言いやがった。
Xデーに備え始めた。
何かと突っかかり喧嘩が増えた。
Xデーにはまだ準備不足の為、
私は黙るしかなかった。
私は静かに耐えた。
Xデー2週間前くらいに
随分態度もでかくなり王様みたいに
ふんぞり返っていた元夫と喧嘩になった。
夕食いらないという。
私「なら明日に回していい?」元夫「いいよ。」
翌日夜、元夫「旦那様に前日の残り物出すなんて!」私「昨日いいって…」元夫「言ってない!」
翌日朝、元夫のメモ【別居しまーす!家賃○万払ってください!半年以内に出産しないと離婚です!】
勿論妊娠などしていない。
Xデーはもうすぐ。
その日の夜ニヤニヤしながら帰ってきた。
元夫「読んだ?」
元夫「そのままだよ!!相変わらず頭悪いな。半年経ったら離婚だからな。俺は半年待ってやる優しい旦那様だからな。」
2日後、離婚の意を伝え
元夫の答えはNO。
元夫の望み叶えたんだよ?
【君が作った温かい食事が食べたい。君が待つ家に帰りたい。もう一度心を入れ替えるからやり直すチャンスをくれないか。2週間で君の理想の旦那様になるよ。】
菓子パン温かくないしなぁ
あとなんで上から目線なんだろう。
放っておこう。
拝啓 元夫様へ
離婚して数年後、とても優しい方との間に
元嫁の畑悪くなかったみたいです。 敬具
先に書くが、母は亡くなっていないし、これは亡くなったり倒れた母を前に悲観する話ではない。
30代を目の前に控えた人間が、同世代より少し早く迎えたライフステージの変化に漠然と感じたことを書き綴ったものである。
9月某日、母が倒れた。
本当に突然だった。
慌てながらも涙声で電話をくれた兄妹が状況を教えてくれた。
病名は脳内出血だった。
自分よりも動揺する家族の声を前に、悲観することもなく落ち着いて諭すことが出来ていたように思う。
倒れたその晩が“ヤマ”と言われ、覚悟もした。
少し余談だが、母は私が中学生の頃には大病患い、直近は潰瘍性大腸炎と骨粗鬆症と難病に持病を抱えていると聞いている。
だから、という訳では無いと思っているが潜在的にはそういった要因も加味していたのかもしれない。
私は同世代より少し早く入籍し、結婚式を挙げ、父母を招き、恐らく死ぬまで忘れずに居られるであろう幸せな時間を過ごすことが出来た。
さらに、結婚式の翌年には第一子が産まれた。狙ってその通りに叶えられるものでは無い。本当に私は運が良い人間だとつくづく感じた。
生後3ヶ月ほどして父母のいる実家へ帰省し、初孫としてお披露目することができた。口角は上がりっぱなしで、目も細めっぱなしだった父母が印象的だった。今でも写真を見返すと泣ける。それくらいの時間であり、これもまた私の夢だったのだと思った。
やはり私は本当に運が良い。
その後も1歳の誕生日も実家でお祝いすることが出来、張り切って準備をしてくれた母、初孫にデレデレな父を見て、また1つ夢が叶うような感覚にいた。
その数ヶ月後の出来事だった。
決して頑丈な人間では無いことは理解していたし、それがなくても父母は自分より先に居なくなるのが世の常であると覚悟していた。
だから結婚できたことや子どもを授かったこと、それらを父母が健康なうちに行え、全て後悔のない形で終えられた。
それ以外にも父母に伝えたかったことは全て伝えた。文章に残して。
子どもとして“やりたかったこと”としての親孝行は全てやり切った。ここから先はボーナスタイム、私と父母の“贅沢”な時間だと考えていた。
だから、母が倒れて生死の境を彷徨い、生還しても重い障害が残ってしまった状況も不思議と悲観はなかった。
やれることは全てやってきた。
実家で大変な状況になっている家族を遠方から支える。今、目の前にいる私の家族を死ぬ気で守り抜く。
これからはこれだけで十分だと思っている。
大変な事態に陥って私以外の家族は悲しみに暮れ、絶望しているかもしれない。
私も絶望の淵に立ち、少し崩れれば精神が折れてしまってもおかしくなかった。
それでも、今は私には妻と子が居て、私は2人のために折れる訳にはいかないのだ。2人を支えていくために、死ぬ気で戦っていかなければいけない。
父母が居なくなってしまうことを事前に覚悟していたこと、妻と子が悲しい状況も支えてくれたこと、全てが私に覚悟を持たせてくれたと思っている。
一般的には悲観すべき事態なのかもしれないが、そんなに悲観することもなく、飄々と過ごしている。
もっと悲観的な文章に出来れば世間的なウケもいいのかもしれないが、そんなことは1ミリも考えていない。
元々火事場方が張り切ってしまうタイプだからなのかもしれない。
諸々含めて本当に自分は運が良いのだと思った。
おっとー、おっかー、次は俺が2人みたいに頑張る番だから、もう心配はいらないから。これから先の俺から2人に対しての全ては、100%純粋な俺の“我儘”で、“贅沢”だから、遠慮なく受け取ってね。また、近いうちに帰るから。病院にもお見舞いに行くから。
先に書くが、母は亡くなっていないし、これは亡くなったり倒れた母を前に悲観する話ではない。
30代を目の前に控えた人間が、同世代より少し早く迎えたライフステージの変化に漠然と感じたことを書き綴ったものである。
9月某日、母が倒れた。
本当に突然だった。
慌てながらも涙声で電話をくれた兄妹が状況を教えてくれた。
病名は脳内出血だった。
自分よりも動揺する家族の声を前に、悲観することもなく落ち着いて諭すことが出来ていたように思う。
倒れたその晩が“ヤマ”と言われ、覚悟もした。
少し余談だが、母は私が中学生の頃には大病患い、直近は潰瘍性大腸炎と骨粗鬆症と難病に持病を抱えていると聞いている。
だから、という訳では無いと思っているが潜在的にはそういった要因も加味していたのかもしれない。
私は同世代より少し早く入籍し、結婚式を挙げ、父母を招き、恐らく死ぬまで忘れずに居られるであろう幸せな時間を過ごすことが出来た。
さらに、結婚式の翌年には第一子が産まれた。狙ってその通りに叶えられるものでは無い。本当に私は運が良い人間だとつくづく感じた。
生後3ヶ月ほどして父母のいる実家へ帰省し、初孫としてお披露目することができた。口角は上がりっぱなしで、目も細めっぱなしだった父母が印象的だった。今でも写真を見返すと泣ける。それくらいの時間であり、これもまた私の夢だったのだと思った。
やはり私は本当に運が良い。
その後も1歳の誕生日も実家でお祝いすることが出来、張り切って準備をしてくれた母、初孫にデレデレな父を見て、また1つ夢が叶うような感覚にいた。
その数ヶ月後の出来事だった。
決して頑丈な人間では無いことは理解していたし、それがなくても父母は自分より先に居なくなるのが世の常であると覚悟していた。
だから結婚できたことや子どもを授かったこと、それらを父母が健康なうちに行え、全て後悔のない形で終えられた。
それ以外にも父母に伝えたかったことは全て伝えた。文章に残して。
子どもとして“やりたかったこと”としての親孝行は全てやり切った。ここから先はボーナスタイム、私と父母の“贅沢”な時間だと考えていた。
だから、母が倒れて生死の境を彷徨い、生還しても重い障害が残ってしまった状況も不思議と悲観はなかった。
やれることは全てやってきた。
実家で大変な状況になっている家族を遠方から支える。今、目の前にいる私の家族を死ぬ気で守り抜く。
これからはこれだけで十分だと思っている。
大変な事態に陥って私以外の家族は悲しみに暮れ、絶望しているかもしれない。
私も絶望の淵に立ち、少し崩れれば精神が折れてしまってもおかしくなかった。
それでも、今は私には妻と子が居て、私は2人のために折れる訳にはいかないのだ。2人を支えていくために、死ぬ気で戦っていかなければいけない。
父母が居なくなってしまうことを事前に覚悟していたこと、妻と子が悲しい状況も支えてくれたこと、全てが私に覚悟を持たせてくれたと思っている。
一般的には悲観すべき事態なのかもしれないが、そんなに悲観することもなく、飄々と過ごしている。
もっと悲観的な文章に出来れば世間的なウケもいいのかもしれないが、そんなことは1ミリも考えていない。
元々火事場方が張り切ってしまうタイプだからなのかもしれない。
諸々含めて本当に自分は運が良いのだと思った。
おっとー、おっかー、次は俺が2人みたいに頑張る番だから、もう心配はいらないから。これから先の俺から2人に対しての全ては、100%純粋な俺の“我儘”で、“贅沢”だから、遠慮なく受け取ってね。また、近いうちに帰るから。病院にもお見舞いに行くから。
・夫は結婚話が出た時に、同居したいくらい、マスオさんになりたい、入婿で構わないと言っていた
ということで、妻実家側は姉の姓を名乗るのだと思っていたところ、婚姻届を書く段階になって夫の父が「妻の姓を名乗るなんて許さん」と大騒ぎして、結局夫側の姓を名乗ることになった。
妹である私も、私の両親も、「こいつ土壇場で言っていた事を平気でひっくり返しちゃう奴なんだ」と夫に対して思った。
すぐに子供に恵まれたんだけど、初孫なのに両親はトーンダウンして姉は実家からの能動的なサポートが殆ど受けられなかった。私もなんか白けてしまい、姪とは正月に姉が連れてきた時に会うだけ。両親も私も、自分から姉の子供に会いに行くことはない。
だって、土壇場で「他人のウチの子」になっちゃったんだもん。なんか興味失せちゃった。
姉の夫側は遠方で資産もなく、すでに孫が何人もいるため、金銭的なサポートゼロ、助けに来てくれることもない。なのに、自分の家の姓を孫に名乗らせてる。
男性の姓を名乗ることが一般的だから、妻側の実家も強くは言わず、距離を取った。
姉は名義変更なら何やらで細々と1年くらい事務作業があったと言ってた。
一番の不利益は妻実家がトーンダウンして冷ややかになったことだと思う。姉の姓を選んでくれていれば、夫側の父親が発狂しなければ、姉は両親から手厚いサポートを受けられたと思う。
姉はずっと後悔してるらしい。
自分のことじゃないけどめちゃくちゃ緊張している。だって三つ子だもんな。
息子のお嫁さんは大丈夫っすよ〜と強気だったけど、本心は分からない。何はともあれ母は強しだ。
しかし息子は仕事が忙しいからと出産に立ち会わないつもりらしい。我が息子ながら喝だなと思う。
仕事の都合くらいつけられるものじゃないのかとか、ハイリスク出産で何が起きるか分からないだろうなどと色々と考えたものの、口うるさい爺になりなくないので夫婦で決めたことならと口を出すのはグッと堪えた。代わりにこんなところで愚痴っている情けない爺だ。
仕事人間の息子だから、育児の手伝いなんてほとんどしないだろう。でも三つ子だ。いくらタフなお嫁さんでも体力も睡眠時間も削られて大変だろうと思う。
お嫁さんの実家は遠方だが、里帰りもしないらしい。近場で手が空いている大人は俺くらいだと聞いた。
何かあったら手伝うからいつでも言ってねと声をかけてはいるものの、お嫁さん的には義父なんかが来ても困るよな。
生前の妻には「もし孫が生まれたら余計なことはしないで金だけ出す爺になりなさい」と言われているのでその通りにしたいけど、三つ子だし、息子もあんな奴だしなあという思いが俺を不安にさせる。
誰かにお願いされたわけではないが、とりあえず育児本を買って、令和の育児をある程度学んでいる。
もしお嫁さんからヘルプを求められた時にビシッと対応できる格好いいジイジになりたいんだ。
俺の妄想なんだけど、お嫁さんを昼寝させて、その間にミルクをあげて、哺乳瓶を消毒して、オムツ替えまでした状態で返せたらかなり格好いいかなと思うんだが、どうだろう。
下に、履修済みの項目を書くので、俺が格好いいジイジになるために不足している実践的な知識を教えて欲しい。
オムツ編
・新しいオムツを尻の下に敷いてから、古いオムツを剥がして交換する
ミルク編
・授乳の後はゲップさせる
・哺乳瓶は洗浄後消毒する
・離乳食はまだ先
寝かしつけ編
・横向きに抱っこする
・仰向けで寝かせる
・息してるかチェックする
皆さんコメントありがとう。思いがけず伸びていたので今更だが内容を少しぼかした。
金を出す以外で爺にできることは…と思って書いてみたが、こんなにも「口を出せ(息子に)」の意見が多いとは思わなかった。ちなみに金は出している。
色々な意見やアドバイスを参考に、適切な距離感は守りつつできる範囲でサポートしていこうと思う。
また、「スケベ爺」「ペット感覚」「自分も子育てしなかったくせに」など憶測であれこれ言われたのは爺も傷ついた。やめてほしい。
初孫が3人も生まれるのだからと育児の勉強をするのの何が悪いんだ。これが実母や姉妹、仲の良い義母なら言われないだろうに、悲しい男女差別よ。
俺には血縁の実子がいないのでオムツ替えをしたことこそないが、息子たちの父親になった日から精一杯育児に向き合ってきたつもりだ。
Permalink |記事への反応(37) | 23:36
音痴のガキがキッッッッツイよおおおお
明日実家帰るけど姪がクソほど音痴のくせにアイドルに憧れてて所構わず歌いまくるからガチでキツいよおおお
以前「もう少し静かにできない?」って優しく注意しただけで子供なんだからいいじゃないの!みたいな総叩きに遭ったし、そうかといってやんわり「音程間違ってるよ?」って指摘しただけでギャン泣きされてやっぱり俺が悪者みたいな空気になったからお触り禁止でキツいよおおおお
もっと酷いのは耳栓持参したら「叔父さんがわざと目の前で耳塞いだ」って泣かれて姉に「当てつけみたいな真似すんな!」って騒がれたことだよ…対策もさせてくれないのかよ……
申し訳ないけど老若男女問わず音痴の歌って気持ち悪くて聞いてて不快だから全く可愛くないよお
姉にアレなんとかしてよ母親でしょって言ったけど子供に嫌がる事言って泣かせる方がおかしいだろたまにしか帰ってこないんだから我慢しろよって逆ギレされたよ……
親は初孫可愛いでなんも言ってない事は容易に想像がつくから期待してないけどさあ
弟には会いたいし親父が数年前に腰やってるから心配ってのもあるし、あと俺だけ帰ってないってなったら居心地悪いから口実つけて帰らないとかは避けたいけど、姪の歌だけが苦痛だよ…
身内がスパイウェアやって賢い主婦(激寒)主張してんのマジで恥ずかしい死にたい。
米国でスパイウェア扱いされてる云々知らないにしても、どう考えても怪しいだろ。あのCM見て「あらお得」って思わんだろ。
あのYouTubeとかで流れるクソウザいCMが最近はTVでも流れてる、って聞いてから「まさか」と思って姉にやってないか聞いてみたらビンゴだった。
以前からどこで調べたんだか分からない怪しい通販サイトで偽のブランドバッグ買ってたり、実家に通販会社からカタコト日本語電話が掛かってきたりしてたけど、やっぱりか…。
昔からネットリテラシーが低く、何かネット関連のトラブルがある度に教えろと電話をかけてくる。
以前は怪しい通販サイトから偽のブランド品の買い物をしたりしていた。
以前、「ネットがウィルスに掛かった」と言われてよくよく話を聞くと、広告で出るポップアップを踏んだだけ、ということもあった。
しかし何か起こるたびに教えてもこっちのことをオタク扱いするだけなので最近は辟易している。姉は決して調べるということをしない。
曰く「ネット詳しくてもキモイだけ」 「もっと大事なことが世の中にはたくさんある」んだそうな。(是非知りたいね。)
そんなんでも最近結婚して出産までしたので、流石に落ち着いたかなと思っていた。旦那もいるし。
先日、地元の知り合いの結婚式で帰省した際、姉と話す機会があった。
その中で、何となく心配だったので、「Temuやってないよね?」と聞いてみたところ「え?やってるよ」とアッサリ回答された。
流石に心配になったので、クレジットカードデータなどが不正に利用されたなどセキュリティ的に危ないこと、安物買いの銭失いであることを伝えたところ、ため息をつかれ、怒涛の既婚マウントが始まった。
…etc
※ちなみに姉が言う「個人でできるビジネス」とはとどのつまり転売ヤーの事らしい…。もうこの時点で私は説得を諦めた。呆れ通り越して大分恥ずかしかった。
私と姉が不毛な論争をしていたところ、騒ぎを聞きつけた両親がこれ幸いとばかりに介入してきた。ただし、姉の味方として。
どうやら両親の中では気難しい理屈をこねまわすネガティブ思考な私より、初孫を見せてくれた姉の方がカーストが上らしい。
…クソがよ。
→だろうね。お前のお友達Fラン以下の学歴、出来婚、バツありの低能ばっかだもんねw
→賢い主婦は不要な買い物はしませんwちゃんと必要なものを目利きしますw
→なんでもかんでもクレジット決済して出費管理してないからだろw
→ビジネス(激寒)将来考えてる人は貯金位出来るんだよね普通w
ていうかさ、いつ個人情報流出させるか分からない情弱が身内に居るのに結婚とかできるわけねぇだろw
こんな明らかASD、ADHDの疑いあるようなギリ健の身内と両親、人様に見せられんわww自分もギリ健製造機になるかもとか見られるやんw
クレジット情報抜かれるだけでもどえらいことなのに。将来的に子供作ったりしたときに、家族の個人情報が悪用されて進路ダメにされるとか考えられねぇのかなコイツら。
池沼が育てたガキはどんな育ち方すんのかなw姉のガキとか絶対将来厄介事持ってくるじゃんw
情弱のアホが身内に居るとホンマ大変やわぁw明らかハンディになる血縁切れるように政府はさっさと法整備しろよな。いやその前にスパイウェア野放しにすんなよな。