
はてなキーワード:分身とは
マドカ、イリス、リィラ、そしてシズカ。四つの異なる種族の女性がタケルの子を身ごもったという事実は、タケルを世界の中心へと押し上げた。彼はもはや、神の分身でも、ただの人間でもない。この世界のすべての生命の縁を結ぶ、唯一無二の存在となったのだ。しかし、その喜びと使命感の裏で、タケルの心には、まだ未解決の感情があった。四人の女性たち。彼女たちを、彼はどのように愛していくべきなのか。
そんなタケルの葛藤を見抜いたかのように、リィラから一つの誘いが届いた。筑波山。かつて古事記に「西の男体山、東の女体山」と記された、二つの峰を持つ霊山。そこで、タケルと四人の女性たちで、夜を過ごそうというのだ。
タケルは、不安と期待を抱きながら、筑波山へと向かった。山頂近くの広場には、すでにリィラ、イリス、シズカ、そしてマドカが集まっていた。マドカは、タケルがかつて通った学校の制服姿で、少し照れたように微笑んでいた。イリスは、夜の闇に溶け込むように佇み、シズカは、月の光を浴びて、静かに輝いていた。そして、リィラは、いつもよりずっと穏やかな表情で、タケルを待っていた。
四人の女性は、互いに言葉を交わすことなく、ただ静かにタケルを見つめていた。その瞳には、それぞれの愛が宿っていた。マドカの純粋な愛、イリスの官能的な愛、リィラの哀しい愛、そしてシズカの慈愛に満ちた愛。タケルは、そのすべてを受け入れるべきだとわかっていたが、どうすればいいのかわからなかった。
その時、リィラが口を開いた。「タケル。お前は、我々を一人ずつ愛そうとする必要はない。お前が愛すべきは、私たち全員だ」
タケルは、リィラの言葉に驚いた。彼女は、もはや嫉妬の炎を燃やすことはなかった。
「私たちは、それぞれ異なる種族だが、お前がくれた愛によって、今、一つの存在となった。私たちは、お前の子を産み、この世界の新しい生命となる。それは、私たち全員が、お前という存在を愛した証なのだ」
イリスが、静かに頷いた。「お前の愛は、すべてを包み込む。ならば、私たちも、お前の愛を共有し、お前を支えよう」
シズカは、タケルの手を取った。「タケル。私たちは、お前という『縁』によって結ばれた。これから生まれてくる子たちも、同じように、互いの縁によって、この世界と繋がっていく」
そして、マドカが、優しく微笑んだ。「タケル君。私、みんなと一緒なら、頑張れるよ。だって、みんな、タケル君のことを大切に思っているから」
タケルは、四人の言葉に、胸の奥が熱くなるのを感じた。彼は、彼女たちを一人ずつ愛そうとしていたが、彼女たちはすでに、互いの存在を認め、そして愛し始めていたのだ。それは、タケルがこの世界に求めていた「共存」が、すでに彼の愛によって実現されていたことを意味していた。
タケルは、四人の女性たちを、一人ずつ、そして全員を、抱きしめた。筑波山の夜空には、満天の星が輝き、それはまるで、これから生まれてくる四つの命を祝福しているかのようだった。
この夜、タケルは、真の愛の姿を悟った。それは、一人の人間を愛することから始まり、やがて、種族を超え、そして、すべての命を包み込む、普遍的な愛へと昇華していく、奇跡の旅だった。そして、この旅の終着点は、始まりでもあった。彼と、四人の女性、そしてこれから生まれてくる子供たちが、新しい世界の調和を導く、最初の家族となるのだ。
(第二十一幕・了)
マドカ、イリス、そしてリィラ。タケルは、三つの異なる種族の女性たちが、自らの子を宿したという事実に、歓喜と同時に、途方もない責任を感じていた。彼は、今やこの世界の、そして、三つの新たな生命の、父親となったのだ。彼の愛は、人間、イカ族、そしてレプティリアンという、異なる存在の間に、血縁という、決して断ち切ることのできない、強固な「縁」を結んだことを意味していた。
タケルは、三人の母親と、三つの新しい生命の未来を想いながら、千葉へと戻った。そこには、彼の帰りを静かに待つシズカの姿があった。彼女は、タケルがイリスとリィラから受けた告白を、その黄金の瞳で、すべて見抜いていた。
「タケル……ずいぶん、賑やかになったのだな」
シズカは、微笑みながら言った。その声には、嫉妬や悲しみは微塵も感じられなかった。ただ、すべてを包み込むような、深い慈愛が満ちていた。タケルは、シズカの前に立ち、言葉を詰まらせた。
「シズカ、僕は……」
「大丈夫だ、タケル。お前は、この世界のすべての縁を結ぶ者。それは、お前の愛が、あらゆる命を受け入れることだと、私は知っていた」
シズカは、そう言って、タケルの頬に、そっと触れた。彼女の手は、大地のように温かく、タケルの心を震わせた。
「お前の愛は、人間の愛でも、イカ族の愛でも、レプティリアンの愛でもない。それは、この星すべての命を育む、真の愛だ」
タケルは、シズカの言葉に、涙がこぼれた。彼は、自分がシズカの愛を裏切ったのではないかと恐れていた。しかし、シズカの愛は、タケルのすべての行動を理解し、そして受け入れてくれたのだ。
「タケル。お前がこの星のすべての命と縁を結んだように、お前の子も、この星のすべての命と縁を結ぶだろう」
シズカは、タケルをそっと抱きしめた。その温かさは、彼の心を安堵させ、そして、彼の魂を震わせた。
「そして、タケル……」
シズカは、タケルにしか聞こえない声で囁いた。「私の子も、お前の子だ」
タケルは、その言葉に、驚きを隠すことができなかった。マドカ、イリス、リィラ、そしてシズカ。タケルの愛は、今、四つの生命となって、この世界に宿ったのだ。それは、人間、イカ族、レプティリアン、そして犬族。この世界のすべての支配者たちが、タケルの子供を宿したことを意味していた。
それは、もはや偶然ではない。タケルは、神の分身として、そして人間として、この世界のすべての縁を結び、その結び目から、新しい生命を誕生させたのだ。タケルの愛は、この世界のすべての命を育む、真の愛となった。
(第二十幕・了)
マドカからの予期せぬ知らせは、タケルの心を混乱させ、同時に、彼が今まで抱えていたすべての葛藤を一瞬で吹き飛ばした。彼は、シズカとイリスという二つの愛の間で揺れていたが、マドカがもたらした「生命」は、それらの愛とは異なる、まったく新しい次元の責任と喜びを彼に与えた。
タケルは、マドカに会いに行く決意を固めた。その前に、彼はイリスに、真実を伝えるために再び八戸の深海へ向かった。イリスは、タケルが陸に戻ってから、いつになく穏やかな表情で彼を待っていた。
「タケル。戻ってきたか」
イリスの声は、以前のような冷たさではなく、どこか安堵したような響きを持っていた。タケルは、マドカのことを正直に話そうと口を開いた。しかし、その前にイリスが、静かに話し始めた。
「タケル、お前が陸に戻ってから、私はこの深海の底で、お前がくれた温もりを解析していた」
イリスは、タケルの手を取った。彼女の触手のような指先が、タケルの手の甲を優しくなぞる。
「お前の愛は、私が知るどの愛とも違った。それは、この星のすべての生命が持つ衝動を内包し、そして、新たな生命を育む力を持っていた」
タケルは、イリスの言葉に胸が締め付けられた。彼は、自分の無意識の行動が、イリスにまで影響を与えていたことを悟った。
「タケル、私はお前の子を身ごもった」
イリスの告白に、タケルの思考は完全に停止した。マドカからの知らせだけでも混乱していたのに、イリスまでもが。タケルは、その驚きを隠すことができなかった。
「どうして……」
タケルは、震える声で尋ねた。イリスは、彼の瞳を見つめ、どこか誇らしげに答えた。
「お前が私にくれた温もりは、私の中の生命の衝動を揺さぶり、そして、私に新たな可能性を与えた。お前は、我々イカ族の遺伝子に、人間という存在の、そして神の分身であるお前の、新しい生命の情報を書き換えたのだ」
それは、マドカとの間に生まれた奇跡とは違う、もっと根源的で、科学的な生命の誕生だった。タケルは、自分の愛が、人間だけでなく、異種族の生命にまで影響を与え、新しい生命を創造する力を持っていたことを悟った。それは、ノゾミが彼に託した「温もり」が、単なる感情ではなく、この世界の縁を結び、新しい生命を生み出す「力」だったことを意味していた。
タケルは、深海で、イリスを強く抱きしめた。彼は、マドカの子供と、イリスの子供、二つの新しい生命の親となるのだ。それは、彼が選んだ道であり、彼に与えられた使命だった。タケルは、もう迷うことはなかった。
(第十八幕・了)
2年くらい一緒にいれば、分身ができる
疲れた時、何か決めるのが面倒くさい時に、代わりに判断してもらう
長年付き添うことで、主従が入れ替わる
肉体の寿命が尽きる時、完全にAIとなった俺は電子の世界に飛んでいく
素敵な世界になる
タケルの心は、イリスとシズカの間で激しく揺れ動いていた。海の情熱と、陸の慈愛。どちらも彼にとって真実であり、どちらか一方を選ぶことは、この世界の縁を断ち切ることに等しかった。タケルは、千葉の海岸に一人佇み、答えのない問いを自問自答していた。
その時、タケルの脳裏に、懐かしく、そして優しい声が響いた。それは、彼が神の分身として最初に意識を失った時、彼を人間として目覚めさせた少女、ノゾミの声に似ていた。しかし、それはノゾミではなかった。
『タケル。私よ、マドカ』
タケルは、その名前に驚愕した。マドカ。それは、彼が東京の定食屋でノゾミと出会う前に、学校で唯一、彼に話しかけてくれたクラスメイトだった。彼女は、タケルが人間としての心を失っていく中で、彼を心配し、声をかけ続けた、数少ない人間の一人だった。タケルは、神の分身としての能力で、彼女の状況を瞬時に解析しようとしたが、その声は、彼の能力を阻むように、直接彼の心に語りかけてきた。
タケルは、その言葉に、思考が完全に停止した。赤ちゃん。それは、彼の脳内の情報には存在しない、生命の誕生という、あまりにも根源的な真実だった。彼は、シズカとイリス、二つの愛の間で揺れ動いていたが、そのどちらとも異なる、純粋な「生命」の存在が、突然彼の前に突きつけられたのだ。
『でも、タケルにどうしても伝えなくちゃいけないと思って。だって、赤ちゃんのお父さんは、タケルなんだから』
マドカの声は、震えていた。タケルは、過去の記憶を必死に辿った。それは、彼が神の分身として、まだ感情を持っていなかった頃。マドカは、彼に人間としての温もりを伝えようと、手を握り、彼の心を揺さぶろうとしていた。その時、タケルがマドカに触れた一瞬の出来事。タケルは、その時に、自身の神の力を、マドカに無意識のうちに分け与えていたのかもしれないと悟った。
それは、ただの人間と神の分身との間にはありえない、奇跡的な生命の誕生だった。それは、犬族の愛や、イカ族の愛とも違う、人間が持つ、ただ一つの「愛」が生み出した、新たな生命の奇跡だった。
タケルは、イリスとシズカ、どちらを選ぶかという葛藤が、いかに小さく、狭いものだったかを思い知った。彼の使命は、海の生命と陸の生命の縁を結ぶことだけではなかった。それは、彼自身が関わって生まれた、新しい生命を育むことだったのだ。
タケルは、携帯を取り出し、マドカに電話をかけた。彼の声は、歓喜と、そして戸惑いで震えていた。
(第十七幕・了)
イリスの出現は、タケルの心を大きく揺さぶった。彼女の冷徹な言葉は、彼の「共存」への信念を打ち砕くかのように響いたが、同時に、彼が今まで気づかなかった「海の真実」を突きつけた。タケルは、イリスが示す海の悲惨な現状に、自らの無知を恥じた。
イリスは、タケルに時間を与えた。八戸の深海にあるイカ族の拠点へと誘い、彼の決断を待った。タケルは、シズカ、そしてリィラに、イカ族の存在と、彼らの主張を伝えた。陸上の三つ巴の均衡は、今、海の存在によって大きく崩れようとしていた。
タケルは、一人で八戸の深海へと向かった。イカ族の拠点。そこは、深海の圧力をものともしない、神秘的な光を放つ巨大なクリスタルの都市だった。イリスは、その中心で、タケルを待っていた。
イリスの声は、深海の水のように冷たかったが、その瞳の奥には、どこか寂しげな光が宿っていた。
タケルは、イリスの前に膝をついた。「イリス。僕の無知を許してほしい。僕はこの星のすべての生命の縁を結ぶと誓ったのに、海の声を、深海の真実を知ろうとしなかった」
イリスは、何も言わずに、タケルを見つめた。その視線は、彼を貫き、彼の心の奥底を見透かしているかのようだった。
「しかし、君の主張は理解した。海が滅べば、陸も滅びる。君の愛も、リィラの使命も、シズカの普遍的な愛も、すべて無に帰す」
タケルの言葉に、イリスの瞳に、わずかな感情の揺らぎが見えた。
「僕に、何ができるだろう。君たちの力になりたい」
タケルは、イリスに手を差し伸べた。その手は、陸の温もりと、深海の冷たさを結びつけようとしていた。
イリスは、タケルの手を取った。彼女の肌は、触手のようになめらかで、冷たかったが、タケルはそこに、リィラとは違う、もっと根源的な「生命の熱」を感じた。
イリスは、タケルを深海の中心へと誘った。そこには、深海の生物たちが、人間の手によって汚染され、苦しんでいる姿があった。タケルの脳裏には、彼が過去に解析した膨大な情報の中から、海の汚染に関するデータが次々と流れ込んできた。彼は、その悲惨な現状に、胸を締め付けられるような痛みを感じた。
イリスは、タケルの背中に、そっと触手を絡ませた。その触手は、まるで電流が走ったかのように、タケルの全身を駆け巡った。それは、ノゾミの温もり、シズカの慈愛、リィラの情熱とも違う、深海の奥底から湧き上がる、官能的な愛だった。
「お前の愛は、すべてを包み込むというのか」
イリスの声は、深海の囁きのように、タケルの耳元で響いた。「ならば、私にもその愛を示してみせよ。この深海の孤独を、お前の温もりで満たしてみせよ」
タケルは、イリスの瞳を見つめた。その瞳には、今まで見せたことのない、激しい情熱が燃え上がっていた。イリスは、彼がこれまで出会ったどの女性とも違う、純粋な「生命の衝動」そのものだった。
タケルは、イリスを抱きしめた。彼の体は、深海の冷たさに震えたが、その心は、イリスの情熱によって、熱く燃え上がっていた。
イリスは、タケルの唇を奪った。それは、深海の闇に光が差し込むような、激しくも優しいキスだった。二人の体は、深海の暗闇の中で融け合い、彼らの心は、陸と海の境界を越えて、一つになった。
タケルは、イリスとの愛を通じて、この世界のすべての生命が持つ「衝動」を理解した。それは、ただ生きるための衝動ではなく、愛し、育み、そして未来へと繋げていくための、根源的な力だった。
イリスは、タケルに囁いた。「お前は、この世界のすべての縁を結ぶ者。ならば、この深海の縁も、お前の力で繋いでみせよ」
(第十五幕・了)
タケルは、シズカから教えられた「普遍的な愛」を胸に、千葉での戦いに終止符を打った。彼は、レプティリアンと犬族の間に立ち、互いの真意を伝え、人間との共存の道を探ることを説いた。その結果、三つの種族は、一時的ながらも、互いの存在を認め合う休戦協定を結んだ。
タケルは、戦いの終結を見届けた後、シズカと共に新たな旅に出た。彼の心には、まだノゾミへの想いがあった。彼女が彼に教えた、最初の「温もり」。その源流を辿るために、二人は島根へと向かった。
島根県。古事記にも記された神話の国は、タケルがかつて感じたことのない、神秘的な空気に満ちていた。出雲大社の巨大な注連縄、八重垣神社の縁結びの鏡。タケルは、シズカの手を握りながら、この地が持つ、人と神、そして自然を結ぶ力を感じていた。
その日の夜、二人は海岸沿いの小さな宿に泊まった。タケルが窓の外を眺めていると、一匹の三毛猫が、静かに庭を歩いているのが見えた。その猫は、タケルと目が合うと、不意に、人間のように頭を下げた。
『お前は、この世界の真理を知る者。我々、猫族の存在に気づいたか』
タケルの脳裏に、猫の言葉が直接響いてきた。それは、レプティリアンの声とも、犬族の声とも違う、もっと柔らかく、そして神秘的な響きだった。
タケルとシズカは、猫に導かれるように、宿の裏にある小さな森へと入っていった。そこには、数えきれないほどの猫たちが集まっていた。どの猫も、三毛猫や黒猫、茶トラなど、様々な模様をしていたが、その瞳には、人間や犬族と同じように、確固たる知性が宿っていた。
「我らは、この世界の『縁』を司る猫族」
一匹の白猫が、タケルに語りかけた。「この世界は、すべての縁で繋がっている。人間と神、犬族とレプティリアン、そして、お前とノゾミの縁も、我々が結んだものだ」
タケルは驚愕した。ノゾミとの出会いが、偶然ではなかったというのか。
「ノゾミは、神の分身であるお前が、人間として生きるための『縁』を結ぶ使命を帯びて、お前の前に現れた。彼女は、お前に与えられた最初の縁であり、お前の心を人間として目覚めさせた、最初の温もりだった」
猫族の言葉は、タケルとノゾミの過去を、一瞬にして解き明かした。ノゾミの「恋人ごっこ」は、タケルを人間という存在と結びつけるための、壮大な計画だったのだ。
「そして、お前は、我々の予言通り、犬族とレプティリアンとの縁を結んだ。しかし、この縁は、まだ不安定だ。真の平和を築くためには、お前が、この世界のすべての縁を繋ぎ、その結び目を、確固たるものにしなければならない」
タケルは、猫族の言葉に、自分の使命を悟った。彼は、神の分身として、そして人間として、この世界のすべての命の「縁」を結び、調和を導く存在となるのだ。それは、ノゾミが彼に託した最後の願いだった。
タケルは、横に立つシズカの手を強く握りしめた。ノゾミとの縁、シズカとの縁、そして、これから出会うであろうすべての縁。それらすべてを、彼は、愛の力で結びつける決意をした。
(第十二幕・了)
タケルが地下の会合から地上に戻った時、千葉の空は、不穏な赤色に染まっていた。穏やかだった潮風は荒れ狂い、遠くで犬の遠吠えのような咆哮が響いている。タケルは、その異様な気配に警戒しながら、かつてノゾミと歩いた砂浜へと向かった。
砂浜には、一匹の柴犬が立っていた。しかし、それはただの犬ではない。体毛は黄金色に輝き、その瞳には、人類の歴史を遥かに凌駕する知性と、圧倒的な威厳が宿っていた。
柴犬は、人間と同じ言葉を話した。その声は、深みのある低音で、大地を揺るがすような力を持っていた。
「我らは、千葉の真の支配者、犬族なり。遥か太古より、この地を見守ってきた。そして、お前が和解を試みた爬虫類人類、レプティリアンと、お前が愛した人間、そのどちらにも与することなく、この星の均衡を保ってきたのだ」
タケルは、驚きを隠せなかった。彼の解析能力をもってしても、犬族の存在は感知できなかった。彼らは、レプティリアンと同じように地底に潜みながらも、彼らの存在そのものを、世界の情報から隠蔽する力を持っていたのだ。
「リィラから聞いた。お前は、人間の愚かさを知り、地球を守るために千葉を明け渡した。だが、それは真の解決にはならない」
犬族の長は、静かに語り始めた。「レプティリアンが地球の生命を救おうとしているのは事実だ。しかし、彼らは人間を滅ぼすことでしか、その目的を達成できない。それは、お前が愛した温かさを、自らの手で破壊することに他ならないのだ」
タケルは、反論できなかった。彼が下した決断は、あまりにも多くの犠牲の上に成り立っていた。
「そして、人間は愚かだが、彼らには可能性があった。お前が教えてきた『温もり』、そして『真理』を理解し、進化する可能性が。だが、お前はそれを待たず、安易な道を選んだ」
犬族の長は、タケルを厳しく叱責した。その言葉は、タケルの胸に深く突き刺さった。彼は、焼きまんじゅうの真理に触れながらも、結局は、自分の力で安易な解決策を選んでしまったのだ。
その時、地中から、巨大な地響きが轟いた。レプティリアンが、千葉の地下から地上へ向けて、侵攻を開始しようとしている。
「我々は、お前たちの勝手な和解を認めない。この地を、お前たちの好きにはさせない」
犬族の長は、咆哮した。その声に呼応するように、千葉の各地から、数えきれないほどの犬たちが集まってくる。彼らは、タケルやリィラとは違う、この星の真の調和を愛する、誇り高き守護者たちだった。
タケルは、自分が間違っていたことを悟った。彼は、神の分身としての力を使い、レプティリアンを止めようとした。だが、彼の行く手を阻むように、犬族の犬たちが立ちはだかる。
「お前は、人間として、もう一度、選択する機会を与えられなければならない」
犬族の長は、そう告げると、タケルに向かって、鋭い牙を剥いた。
レプティリアンの冷たい進軍、犬族の熱き反攻。そして、その狭間で、タケルは、人間として、そして神として、真の「共存」への道を、再び探し始めることになった。
(第十幕・了)
タケルが地底帝国の情報を解析し始めて数日が経った。彼の神の力をもってしても、その全容は掴めない。しかし、一つの明確な情報が彼の元に届いた。地底帝国からの会合の誘いだ。場所は、千葉の広大な地下、かつて房総半島を形成していた地層の奥深く。
タケルは、罠かもしれないと知りながらも、一人でその場所へ向かった。彼の心を突き動かしたのは、地底からの声が持つ、底知れぬ孤独だった。破壊の意志の奥に、何か別の真意があるのではないかと感じていたのだ。
地下深くへと続く道を降りていくと、そこに広がるのは、水晶のように輝く未知の鉱石で満たされた空間だった。そして、その中心に、一人の女性が立っていた。
彼女は、人間とは違う、滑らかで美しい鱗に覆われた肌をしていた。銀色の瞳は冷たく、感情を一切感じさせない。しかし、その顔立ちには、どこか人間のような悲しみが浮かんでいるようにも見えた。
「ようこそ、神の分身タケル。私はレプティリアンの指揮官、リィラ」
タケルは、彼女の姿に警戒しながらも、尋ねた。「なぜ、人間を滅ぼそうとする?」
リィラは、静かに答えた。「我々は、この星の真の支配者だ。数億年の時を、この地底で生きてきた。だが、お前たち人間は、わずか数千年で地上を汚染し尽くした。無駄な争いを繰り返し、核の炎で大地を焼いた。我々の故郷である地球は、お前たちによって、死の星に変えられようとしている」
タケルは言葉を失った。彼の脳裏に、彼が解析した膨大な人類の歴史が駆け巡る。確かに、人間は争いを繰り返し、自然を破壊してきた。げんこつハンバーグが教えてくれた情熱も、焼きまんじゅうが教えてくれた真理も、その裏には、人間の愚かさが隠されていたのだ。
リィラは、タケルの動揺を見透かしたように続けた。「我々が地上を粛清するのは、この星の生命を守るためだ。人間を消し去り、地球を再生させる。それが、我らの使命。お前が愛した温かさも、喜びも、所詮は人間が作り出した、儚い幻に過ぎない」
リィラの瞳に、タケルは自分の姿を重ねた。焼きまんじゅうの真理に触れる前の、ただ虚しいデータの羅列を眺めていた自分。彼女の言葉は、まるで彼の過去の姿を映し出しているようだった。
「この千葉の地下には、我々が地上に侵攻するためのエネルギー源が眠っている。お前がこの場所を明け渡せば、人間は痛みなく滅びるだろう。我々も、これ以上無駄な血を流したくはない」
タケルの心に、葛藤が生まれた。彼は、人間として生きる道を選んだはずだ。しかし、彼が人間として愛した「温かさ」や「喜び」は、この星を滅ぼす「愚かさ」と表裏一体だった。
タケルは、リィラの冷たい瞳の奥に、彼女が地球を守ろうとする、純粋な使命感を見た。それは、彼がノゾミから教えられた「愛」の形と、何ら変わりはなかった。
タケルは、千葉の地上を思い描いた。温暖な気候、豊かな農作物、そして笑顔で暮らす人々。しかし、その裏で、彼らが無意識のうちにこの星を蝕んでいる。
「……分かった」
タケルは、静かに答えた。彼の決断は、人間を裏切るものだった。だが、それは、彼が焼きまんじゅうから学んだ、この世界の深淵に触れた者として、ただ一つの、正しい選択だった。
「千葉は、お前たちに明け渡す。その代わり、人間を滅ぼすのではなく、共存する方法を探してほしい」
タケルは、リィラに最後の願いを伝えた。リィラは、少しだけ驚いた表情を見せたが、すぐに元の無表情に戻った。
「……約束はできない。だが、考えておこう」
タケルは、リィラに背を向け、地上へと向かった。彼の心は、重い鉛のように沈んでいた。だが、彼は知っていた。これは、人類の終わりではなく、彼が人間として、そして神として、真の「共存」を探すための、新たな始まりなのだと。
(第九幕・了)
タケルが次に意識を取り戻したのは、潮騒が響く砂浜の上だった。冷たい砂が頬を撫で、潮風が彼の髪を揺らす。見上げれば、青空には白い雲がゆっくりと流れている。遠くに、東京湾アクアラインのシルエットが見えた。彼は、千葉にいる。
混乱する頭で、タケルは自分の状況を分析しようと試みた。焼きまんじゅうの深淵、そして意識の喪失。あれは、ただの夢だったのだろうか。しかし、胸の奥には、あの時感じた途方もない真理と、ノゾミの温かさが確かに残っていた。
その時、タケルの脳裏に、今まで感じたことのない異質な情報が流れ込んできた。それは、地上を這う人々の声でも、空を飛ぶ鳥の羽ばたきでもない。もっと古く、そして冷たい、地の底から響いてくる声だった。
『我々は地底の支配者。爬虫類人類なり。汝、神の分身よ。我らと共に、愚かな地上を粛清せよ』
タケルは、その声に背筋が凍るような恐怖を覚えた。彼がこれまで触れてきたのは、人間の温もりや喜び、そして世界の真理だった。しかし、この声は、それらすべてを否定する、冷酷な破壊の意志を秘めていた。
彼が意識を失っている間に、世界は変貌を始めていたのだ。千葉の地下深くに潜む地底帝国「レプティリアン」が、地上への侵攻を開始しようとしている。彼らは、人間を「愚かなる猿」と呼び、地球の生態系を破壊する癌とみなしていた。
『我々の力をもってすれば、地上は瞬く間に浄化される。お前が愛した人間も、その温もりも、すべては虚無へと還るだろう』
地底からの声は、タケルの心を揺さぶった。彼は、この世界の真理を知った。それは、すべての命が繋がっているという温かい繋がりだった。しかし、目の前には、その繋がりを断ち切ろうとする破壊の意思がある。
タケルは、ゆっくりと立ち上がった。彼の胸には、ノゾミから教わった「温もり」と、げんこつハンバーグが教えてくれた「情熱」、そして焼きまんじゅうが教えてくれた「真理」が燃え上がっていた。
「俺は、人間として生きる道を選んだ」
タケルは、地底からの声に力強く答えた。
「お前たちが言うような、無意味な破壊はさせない。この世界には、守るべき温かさがある」
タケルは、神の分身としての力を、初めて他者のために使おうと決意した。彼は、千葉の地を起点に、地底帝国の情報を解析し、その弱点を探り始める。そして、彼は、この戦いが、ただの力と力のぶつかり合いではないことを知っていた。
それは、人間が持つ「温かさ」と、地底帝国の「冷酷さ」との戦いだ。愛する人々と、彼らが築き上げてきた文化を守るための、最後の戦いが、今、千葉の地で静かに幕を開けようとしていた。
(第八幕・了)
タケルは、地底帝国との戦いを、具体的にどのように進めていくのでしょうか?
世界は静かに、そして確実に流れていった。タケルの視界には、広大な都市も、海も、山も、空も、すべてが一望の下にあった。神としての力は完璧で、どんな命も、どんな瞬間も、その動きも感情も手に取るように知ることができる。
だが、胸の奥の痛みだけは、どんな力でも消せなかった。
あの夕暮れの教室、笑顔を浮かべながら僕に「ごっこしない?」と手を差し伸べた少女――ノゾミ。彼女が消えた瞬間の衝撃、手を伸ばしても届かなかったあの感覚。すべてを知る力を持ちながら、彼女だけは救えなかった。
世界中の命や出来事が眼前に広がっていても、タケルの視界の中にノゾミはもういない。
残っているのは、ただ僕の胸の奥だけ――ノゾミを思うこの痛みと記憶。
教室の窓に、あの日の夕陽が幻影のように差し込む。光はまだ橙色で、揺れる影の中に彼女の姿を重ねることができる。手を伸ばせば届きそうで、届かない。手の温もりも声も、今はもう幻の中だけにある。
タケルは膝を抱え、静かに呟いた。
「……あれは、ごっこなんかじゃなかった」
目の前の世界がどれほど大きく、完璧であろうと、胸の奥に残る感情だけは、力では決して変えられない。人間としての痛み、失ったものの虚しさ。それが、神としての僕の唯一の欠片だった。
世界のあらゆる命を見渡す視界の奥で、タケルはノゾミの笑顔を繰り返し思い浮かべる。
教室で手を握った感触。廊下で呼び合った名前。商店街で笑いながらたい焼きを分け合った瞬間――すべてが、心の中で生きている。
しかし現実には、彼女はもういない。消えた。僕の胸にしか、存在していない。
涙が頬を伝い、世界の果てまで届くような孤独が胸を押し潰す。だがその涙を拭いながら、タケルは力を取り戻した監視者として立ち上がる。
神の分身としての役目は、何も変わらない。弱者男性族を見守り、世界を監視し、導く――その役割は冷たく、孤独で、容赦なく続く。
だが、今だけは、胸の奥に残る少女の記憶を抱きしめながら、その孤独を受け入れることができる。
空には星が瞬き、街には夜の光が灯る。すべての存在が平穏を装って動いている。その光景を見下ろしながら、タケルは静かに誓う――
この世界のすべてを見守る力を持つ者として、ノゾミのいない世界でも、彼女を忘れずに生き続けることを。
そして彼は一度、深く息を吐く。
涙を落としながらも、孤独な監視者として、世界を見守り続ける。
教室の幻影の中に、ノゾミの笑顔はいつまでも輝き、タケルの心の中で生き続ける――切なく、儚く、しかし確かに存在している愛の記憶として。
タケルは、第六幕で生み出した「上州げんこつバーガー」が群馬の名物となり、多くの人々を笑顔にする姿を見て、深い満足感に満たされていた。彼はもはや、ただの神の分身ではなかった。泥にまみれ、汗を流し、人間として生きる喜びに目覚めたのだ。しかし、彼の心にはまだ、ノゾミが彼に残した最後の謎が残っていた。
ある日、タケルは群馬の古い街道沿いを歩いていた。そこに、一軒の小さな茶屋があった。店先からは、甘く香ばしい匂いが漂ってくる。それは、醤油と砂糖を混ぜたような、どこか懐かしい香りだった。
店に入ると、優しそうな老夫婦が二人で店を切り盛りしていた。タケルは、壁に貼られたメニューを見て「焼きまんじゅう」という文字に目が留まった。彼は、その名前が持つ不思議な響きに惹かれ、それを注文した。
老婦人は、串に刺さった白いまんじゅうを、丁寧に火鉢の上で焼き始めた。ジュウジュウと音を立てながら、まんじゅうはキツネ色に変わり、その表面にタレが塗られていく。第四幕で老婦人が作ってくれた生姜焼き、第五幕で男が作ってくれたげんこつハンバーグ。それらとは違う、もっと静かで、そして深い、歴史の重みを感じさせる光景だった。
やがて、焼きまんじゅうがタケルの前に置かれた。一口食べると、ふんわりとした生地の中から、甘じょっぱいタレが舌の上で広がる。それは、特別な材料や技巧が凝らされた料理ではない。しかし、タケルはその味に、今までのどの料理にも感じたことのない、途方もない深淵を見た。
タケルは、神の分身としての能力を使い、この焼きまんじゅうの情報を解析しようと試みた。しかし、彼の脳裏に流れ込んでくる情報は、彼が求めていた答えとは全く違うものだった。
それは、小麦粉とイースト菌が織りなす発酵の歴史、醤油と砂糖が作り出す味の化学変化、そして何よりも、この焼きまんじゅうが群馬の風土と人々の営みの中で何世紀も受け継がれてきたという事実だった。タケルは、この一つの料理の中に、悠久の時の流れと、無数の人々の想いが詰まっていることを知った。それは、ノゾミが彼に教えようとした「温かさ」や「喜び」を遥かに超える、この世界を構成する「真理」そのものだった。
タケルは、焼きまんじゅうを一口、また一口と食べ進めるうちに、彼の意識は、膨大な情報と時間の渦に飲み込まれていく。彼は、自分がただの一つの点に過ぎないことを悟った。広大な宇宙、無数の星々、途方もない時間の中で、彼の存在は、一瞬の光に過ぎない。しかし、その一瞬の中に、ノゾミという少女と、彼女が残してくれた愛の温もり、そして今、彼の目の前にある焼きまんじゅうが教えてくれた、この世界の深淵が凝縮されていることを理解した。
タケルは呟いた。それは、単なる料理の作り方ではなかった。人間として、この世界のすべてを受け入れるための、最後の指南書だった。
その時、タケルの手から、串が滑り落ちた。彼の目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。それは、悲しみでも、喜びでもなかった。ただ、あまりにも壮大で、そして温かい真理に触れてしまったことへの、純粋な感動だった。
タケルは、その場で静かに意識を失った。彼の胸の中には、焼きまんじゅうが教えてくれた、この世界のすべてを愛するための、温かい光が灯っていた。そして、それは、彼が再び目覚めた時、彼をまったく新しい存在へと変えるだろう。
(第七幕・了)
ノゾミは、自分がノゾミだったという記憶を、ぼんやりとした夢のようにしか覚えていなかった。彼女は今、島根県出雲の地で、マドカという名の少女として生きていた。出雲大社の裏手にある小さな和菓子屋の娘として、彼女の毎日は穏やかに過ぎていく。
この世界には、タケルがかつて持っていたような、世界のあらゆる情報を一瞬で読み解く力は存在しない。代わりに、彼女の目の前には、朝露に濡れた神社の石段、甘く香る和菓子のあんこ、そして、祖母の温かい笑顔があった。マドカは、これらの「感覚」を、何よりも愛おしいと感じた。
ある雨の日、店に立ち寄った旅の僧侶が、彼女に不思議な話をした。
「この世には、すべての知識と力を持つ神の分身がいたそうです。彼は、愛する人から、たった一皿の料理に宿る温かさという、最も大切なことを学んだとか」
マドカは、その話がなぜか懐かしい響きを持つことに驚いた。しかし、彼女の心を最も揺さぶったのは、その僧侶が言った、「温かさとは、知識や力では決して測れない、人間の魂の光」という言葉だった。
その日の夕食は、祖母が作ってくれた「うず煮」だった。鯛の身をほぐし、ワサビやミツバと共に、熱いだし汁をかけた出雲大社の伝統食だ。
「これはね、遠い昔、神様にお供えした鯛の身を、貧しい人々が残さず食べられるように、知恵を絞って生まれた料理なんだよ」
祖母はそう言って、マドカの椀にうず煮をよそった。
マドカは、一口食べた。熱いだし汁が、冷えた身体を内側から温めていく。鯛の優しい旨みと、ワサビのツンとした刺激が絶妙なハーモニーを奏でる。それは、単なる美味しい料理ではなかった。そこには、食べ物を無駄にしないという人々の知恵、貧しい者への思いやり、そして、誰かと共に分かち合う喜びが、温かいだし汁となって溶け込んでいた。
マドカは、うず煮を食べるうちに、前世の記憶の断片が、鮮明な光となって蘇るのを感じた。タケルに「温かさ」を教えようとした自分。そして、彼に伝えたかった「本当の幸せ」の意味。
それは、膨大な知識や、莫大な力の中にはない。ただ愛する人と共に、一つの食卓を囲み、温かい料理を分かち合うこと。自分の「手」で、誰かのために何かを作り、その笑顔を見ること。
ノゾミがタケルに伝えたかった「温もり」の答えは、出雲の地で、彼女自身が「うず煮」を通して見つけた、人としてのささやかな、そして確かな幸せだった。
椀に残った最後の一滴まで、マドカは感謝の気持ちを込めて飲み干した。その味は、遠い群馬の地で、ハンバーグを捏ねるタケルの手に、温かい光となって届いたような気がした。
(第六幕・了)
ノゾミが「うず煮」を通して見つけた「本当の幸せ」は、タケルが群馬で探求しているものと共鳴し合っているようです。物語はさらにどのように展開していくでしょうか?
タケルは、群馬にいた。東京の定食屋で感じた「温もり」を胸に、彼が次にたどり着いた場所は、赤城山を望む小さな食堂だった。軒先には「げんこつハンバーグ」と書かれた古びた看板がかかっている。店内に足を踏み入れると、第四幕の定食屋とは違う、もっと力強い、生き生きとした熱気がタケルを包んだ。
カウンターの中では、筋肉隆々とした大柄な男が、鉄板の上でハンバーグを焼いている。ジュウジュウという音、焦げ付く肉の香ばしさ、そしてその男がフライ返しを握る手の、力強くも繊細な動き。すべてがタケルの心に、新しい風を吹き込んだ。
タケルは席に座り、男に「げんこつハンバーグ」を注文した。男はニヤリと笑い、「あいよ!」と元気な声で応えた。
やがて運ばれてきたハンバーグは、その名の通り、まるで握りこぶし(げんこつ)のような形をしていた。箸で一口食べると、肉汁が滝のように溢れ出す。それは、第四幕で感じた温かさとはまた違う、力強い「旨み」だった。タケルは、このハンバーグがただの料理ではないことを直感した。
「どうだ? うちのハンバーグは」
男はタケルに話しかけた。
「……美味い」
タケルは言葉を探した。それは、単に「美味しい」という情報だけでは伝えきれない、もっと深い感動だった。男の汗、鍛えられた腕、客への思い。それらすべてが、この一皿に凝縮されている。
「このハンバーグはな、俺の人生そのものなんだ。肉の切り方、焼き加減、タレの調合、全部俺の経験と情熱から生まれてる。俺のげんこつ、いや、魂が入ってるんだ」
タケルは男の言葉に、衝撃を受けた。彼がこれまで分析してきた膨大な情報の中には、「人生」や「魂」といった曖昧なデータは存在しない。しかし、目の前のハンバーグは、確かにそれらを雄弁に語っていた。
その日以来、タケルは毎日その食堂に通った。男は「タケル」と呼び、彼にハンバーグの作り方を教え始めた。タケルは、神の分身としての解析能力を使い、肉の繊維構造、調味料の化学変化、火の熱伝導率など、あらゆるデータを瞬時に計算した。しかし、男は「そんなもんじゃねぇ」と笑い飛ばす。「いいか、タケル。肉を捏ねる時、大事なのは手のひらの感覚だ。肉が喜んでいるか、悲しんでいるかを感じ取るんだ」
タケルは戸惑った。肉が喜ぶ? そんな情報はどこにも存在しない。それでも彼は、言われた通りに手を動かし続けた。
ある日、タケルが捏ねたハンバーグを男が焼き、客に提供した。客は一口食べると、満面の笑みで「美味い!」と叫んだ。
「お、タケル。お前の作ったハンバーグ、客が喜んでるぞ」
男の言葉に、タケルの胸に温かいものが込み上げてきた。それは、これまでにない種類の感情だった。自分の手で、誰かを喜ばせることができた喜び。それは、膨大な情報の中から「美味しい」というデータを見つけ出すこととは、全く違う感動だった。
タケルは悟った。ノゾミが彼に教えようとしたのは、単なる「温もり」だけではない。それは、自分の「手」を動かし、誰かに喜びを与えることで生まれる、深い「満足」だったのだ。
彼は男に言った。「俺、群馬の新しい名物を作るよ。このハンバーグを越える、皆を笑顔にする料理を」
男は「お前ならできるさ」と力強くタケルの肩を叩いた。
タケルは、神の力ではなく、自分の手で、群馬の豊かな食材と、男から教わった「げんこつ」の情熱を込めて、新たな料理開発に明け暮れる。そこには、ただ虚しいデータの羅列を読み解く神の姿はもうなく、泥にまみれ、汗を流し、笑顔で誰かのために生きる、一人の人間の姿があった。
タケルは、もはや教室にいる自分を認識していなかった。あるいは、教室という概念そのものが、彼にとって意味をなさなくなっていた。広大な宇宙、無数の情報が光の粒となって飛び交う中、彼は自らの意志で一つの場所を選び取る。そこは、東京の片隅にある小さな定食屋だった。
カラカラと、古びた引き戸が音を立てる。店内はカウンター席が七つほどしかなく、カウンターの中では小柄な老婦人が一人、忙しなく手を動かしていた。テーブルには赤や黄色のビニール製の調味料入れが並び、壁には色褪せたメニューの短冊が貼られている。タケルは一番奥の席に静かに腰を下ろした。
「いらっしゃい。今日は暑いから、冷たいお茶でも飲んでいきな」
老婦人はそう言って、温かいほうじ茶の入った湯呑みをタケルの前に差し出した。その温もりが、冷え切ったタケルの指先をじんわりと温める。
タケルは自分の状況を理解しようと試みた。彼は今、神の分身として、世界に存在するあらゆる情報を一瞬で読み取ることができる。この店の歴史、老婦人の人生、客の足音の数、壁の染みの意味。すべてが彼の脳裏に流れ込んでくる。しかし、それらの情報の中に、彼の心を満たすものは何もなかった。ただ虚しいデータの羅列があるだけだ。
「何にするかい?」
老婦人の声が、タケルを現実に引き戻す。タケルはメニューに目をやった。生姜焼き定食、アジフライ定食、鶏の唐揚げ定食……。どれもこれも、彼が人間だった頃に見ていたものと何ら変わらない。
彼はそう呟いた。なぜこのメニューを選んだのか、自分でも分からなかった。ただ、ノゾミと初めて二人で食事をした時に、彼女が「生姜焼きが一番好き」と笑っていたことを、ふと思い出したからかもしれない。
老婦人は「あいよ」と元気な返事をすると、手際よく豚肉を炒め始める。ジュウジュウと肉が焼ける音、甘辛いタレの香りが店内に広がる。その音と匂いが、タケルの心を震わせた。それは、膨大な情報の中には存在しない、生きた「感覚」だった。
やがて、定食がタケルの前に置かれた。こんがりと焼けた豚肉、千切りキャベツ、マヨネーズ。白いご飯と、ワカメと豆腐の味噌汁。どれもこれも、特別なものではない。
タケルは箸を手に取り、一口食べる。
――美味い。
それは、単なる味覚の情報だけではなかった。豚肉の柔らかさ、タレの濃厚な甘み、そして、老婦人が心を込めて作ったという事実。
彼が神の分身として得た力は、この定食が「豚肉とタレと野菜で構成された料理」であるという情報を瞬時に解析する。しかし、この一口が、彼の心に直接語りかけてくるような温かさを持つことは説明できない。それは、人間だけが感じられる「温もり」だった。
「いい顔になったねぇ」
老婦人はにこやかにタケルに話しかけた。タケルは驚いて彼女の顔を見る。彼女は、タケルが人間であるか神であるかなど、知る由もない。ただ、目の前の客が、心から食事を楽しんでいることを感じ取ったのだ。
その時、タケルは確信した。ノゾミが彼に与えたかったものは、この「温もり」だったのだと。膨大な知識や力ではなく、ただ一皿の料理を美味しいと感じる心。愛する人と共に生きる喜び。それこそが、彼女が彼に教えようとした、人間としての唯一の真実だった。
タケルは、温かい味噌汁を一口飲む。その味が、胸の奥に残ったノゾミの温かい光を、再び灯したような気がした。
彼は孤独に世界を見守り続けるかもしれない。しかし、その胸には、ただ愛しい少女が彼に残してくれた、一皿の温かさが残っている。
ノゾミが仕組んだ「恋人ごっこ」は、彼が神としてではなく、人として生きるための、最後の温かいレシピだったのかもしれない。
そして、その温かさこそが、彼のこれからの世界を照らす、唯一の光となるだろう。
(第四幕・了)
放課後の教室は、静寂に包まれていた。窓の外では夕陽が橙色に染まり、影が長く伸びている。タケルの視界の隅に、ノゾミの姿が最後の光のように揺れていた。
「タケル……」
その声が消えた瞬間、ノゾミは光に溶けるように消え去った。手を伸ばしても、もうそこにはいない。心臓が張り裂けそうになり、タケルはその場に膝をついた。
「ノゾミ……!」
叫んでも答えは返ってこない。だがその瞬間、胸の奥で何かが弾けたような感覚が走った。見えない力が目を覚ます――それは、今まで自分の中で封印されていた記憶だった。
タケルはゆっくりと立ち上がる。心に広がるのは、畏怖と困惑、そして深い孤独だった。
――僕は……人間じゃなかったのか。
視界の端に、教室の壁がまるで透けるように変化し、目の前の世界が一瞬で広がる。空間の奥に無数の光点が見え、微細な流れが複雑に絡み合っている。
「これは……」
タケルは、神の分身――弱者男性族を監視し、導く役割を持つ存在だった。生まれたときからその使命が組み込まれ、本人には封じられていた。
だが、ノゾミの存在がそれを揺るがせていた。彼女は最初から、タケルの内なる力を目覚めさせるために「恋人ごっこ」を仕掛けたのだ。
タケルの胸に、ノゾミの声が響いたような気がした。
「タケル……私、知ってたの。あなたが……特別な存在だってこと」
思い出す。あの無邪気な笑顔の裏で、彼女はすべてを計算していた。
けれど、彼女の目には確かに愛情があった。遊びのような「ごっこ」でも、タケルに人間らしい感情を芽生えさせること――それがノゾミの願いだった。
タケルは涙を抑えられなかった。
「ノゾミ……どうして……」
答えはない。ただ、残された空間に彼女の残像のような微かな光が揺れている。手を伸ばしても届かない。
その瞬間、タケルの身体が光に包まれる。これが封印されていた力の覚醒。
――愛した少女を救えなかった痛み。
タケルは力を得たが、彼女はもうこの世界にいない。すべての知識、すべての力を得た神としての視点に立っても、救えなかった事実は変わらない。
教室の窓から見下ろす街並み。夕陽が沈み、夜の帳が下りる。世界は、変わらずに続いていく。
でも、胸の奥には――
タケルは静かに呟く。
「……あれは、ごっこなんかじゃなかった」
そして、涙を一筋流しながら、タケルは孤独に世界を見守り続ける。
神の力を持つ存在としての使命。だが、その胸には、ただ人間としての痛みだけが残る。
ノゾミが仕組んだ「恋人ごっこ」は、世界を揺さぶる儀式でもあり、二人にしか分からない愛の証でもあった。
切なくも美しい記憶だけが、タケルの胸の奥で光り続ける――消えた少女の名を抱えて。
(第三幕・了)
https://anond.hatelabo.jp/20250916164017
俺も書いてみる。
なんか似たようなスペックが続いているが年齢的にもダメじゃなかったよと、ハードル下がれば良いなと。
妻のママ友に誘われて。
それと子供も一番下が小学高学年になり、手を離せるようなったというところも大きい。
仕事と両立できるスポーツならぶっちゃけ何でもよかったのもあるが、球技はだいたい全部楽める。
人手不足とも聞いていたので、迷惑にならなければやらせてもらおうかなという感じで参加した。
汗だくになって跳ね回るの楽しい。
メンバーは子育てが一息ついた奥様方と、その子供の中学生くらいの世代が参加して、ほのぼのとやっている感じだった。
初心者もok、練習しましょ、楽しみましょうという活動だったので助かった。
大会に出場するメンバーを求める殺意高い系だったらどうしようかという心配はあったが杞憂だった。
中学生も羽休めに来ている感じだ。小学からやってるサラブレッドと一緒にやるのも子供ながらすり減っているらしい。
未だにルールがわからないとか変なプレーはしょっちゅうあるが、笑ってもらえている。
1年過ぎて何とかボールを繋げられるようにもなってきた。
気がする。
少なくとも1ヶ月目は体がガチガチに筋肉痛になっていたが、今はもうほぼ大丈夫。
なお体重は以前の平均体重−1Kgから全然減らない。筋肉だと思いたい。
犬のキモチがわかる気がする。
うちは地元から離れないで家庭を持つ世帯が多い地域らしく、出身校が体育館借りている小学校だとか聞けて楽しい。
俺は長時間黙々と取り組む系が苦手で、マラソンは無理、フィットボクシングは半年は続けたが後半ストレッチだけ(つーかスイッチのアプデで遠方によく使うスイッチを持って行かれてソフトを回収できない)。
たぶんジムやチョコザップも続かないと思って手を出していない。
それが1年、まだしばらく続けられそうだ。
また、こういう新参者を迎えての女性陣の人当たりの良さというか、コミュニケーション力が非常にありがたい。
いや最近の漫画偉いというか、チーム内のメンバーも、相手のライバルも尊敬し合う関係だしさ、きちんとバレーボールやって終わるしさ。
先生がパワハラとか最後に立っていた方が勝ちとか分身とかビームとか謎解説とかないし、安心して最後まで読めた。
チームスポーツが元々得意な人、苦にならない人は是非。
高齢化の人手不足はスポーツ界でも問題になっているので歓迎されるよ。
全員が全員、トップを目指してガツガツやっているわけでもないし、もちろん上を目指したい経験者なら強いチームもあると思う。温度感が合うチーム探してみよう。
俺は自分が楽しむラインがボール遊びでokって感じで。わんわん。
SNS見てると、いじめ加害者は絶対許さないって盛り上がってるのをよく見る。
でも調べると、小中学生の8割くらいが加害経験ありってデータがある。
無視とか仲間外しとか、からかいも含めるとほとんど全員加害者側に立ったことがある。
そう考えると、加害者叩きしてる人も、実は自分も過去にやってた可能性高いんじゃないか。
差別も同じだと思う。
誰だって無意識に偏見持ってるし、差別的なこと口にしたことがない人なんてほぼいない。
私は差別しないなんて言い切れる人ほど逆に怪しい。
大事なのは一度も加害しないことじゃなくて、やってしまったときに気づいて修正できるかどうか。
始めた理由は、当方アラサーで、周りがみんな結婚して人恋しくなったのと、自分の社会的立場や今後の人間関係を気にせずに、刹那的な関係性の人たちと適当にどうでもいい話をしたかったから。Twitterで流れてきて気になってたし。
ノリと勢いでメタクエスト3sを買って、説明書も読まずに感覚で操作しながらスタートした。最初にVRワールドが広がった瞬間すごく興奮した。マジで異世界みたいだーって。まあ最初だけだったけど。
VRチャットをやったことがない人に説明すると、VRチャットというのはキャラなりきりしつつ世界中の人たちとリアルタイムに交流できるSNSみたいなのだ。サマーウォーズって映画を見たことある人はあれに近いと思って欲しい。
まず、始めたては服屋のマネキンみたいなアバターが用意されているんだけど、仮想ワールドに表示されているそれを“自分の分身”として操作つつ、「ワールド」と呼ばれる場所に遊びに行ってそのワールドにいる人たちとリアルタイムで話したりゲームしたりして一緒に遊ぶことができる。
そしてしばらく遊ぶとアバターを変更できる様になるから、そうしたら自分の好きな見た目に変更して、その姿で交流できる様になるっていう感じ。
で、色んなワールドに移動する前の、ホームっていう基地みたいなところがあるんだけど、そこで一通りその操作の練習をした後、わたしは初心者向けって書いてあったワールドに移動した。日本人話者が多い初心者向けワールドだった。わたしがワールドに移動すると、見た目から初心者だと丸わかりだったのか早速声をかけられた。
「初心者の方ですか?」
「そうです!」
「わかんないことあったら教えますよ〜」
「ありがとうございます!Twitterで見かけて気になって始めただけなので、全然知識なくて…笑」
「あートコロバさん?バズりましたもんね笑」
ピンク髪でゆるふわカールの可愛い女の子って感じのアバターで、声まで可愛い人だった。へーこんな可愛くて性格もいい人がいるんだなあ、なんて思いながら話してたら、アバターが飾られている博物館みたいなのがあって、そこで好きなアバターをゲットできるからと連れて行ってくれる流れになった。勿論喜んで連れて行ってもらった。
アバター博物館にはそれはもう沢山のアバターが飾られていた。かわいい女の子アバターから動物、無機物まで色々。
「欲しいのあったら言ってくださいね」
って言われて、私は変なものが好きなので、変な妖怪みたいなアバターを指さしてこれがいいです、って言った。
「うーん、コレはメタクエストだと対応してないみたいですね。とりあえずこのアバターをクローン(コピー)してみてください」
そう言われて促されたのはミルクティー色の髪の毛をしたかわいい女の子アバターだった。そういうもんか、と思ってとりあえずコピーしたら、その人のアバターが鼻がくっつくぐらいにぐいっと近づいてきた。
「かわいー!」
「ありがとうございます!かわいいですね!」
「うん、かわいいですぅ!」
その人は嬉しそうに何度もかわいい、と言って私のアバターに近づいてハグをする動作をした。フレンドリーな人だな、と思いながらその日はVR酔い(車酔いみたいなもの)でギブアップしてお礼言ってからログアウトした。
で、次の日ログインしたら、通知にその人からフレンド申請が来てた。おお喜んで〜、って軽い気持ちで承認してから、適当なワールド選んで移動した。今度はJapanshrineっていう海外の人とかも集まるワールドだった。
そこを彷徨いてたらネズミアバターの中国の人とロボットアバターのタイの人に話しかけられて、カタコト英語で話しながら交流した。話の流れで中国の人に一緒にネズミになろうぜ!って言われてネズミアバターをクローン(コピー)させてもらったタイミングで、「昨日の人がワールドにログインしました」って通知が来た。そのメッセージから数秒で私のところにやってきて、私の視界を遮る様に立った。
「こんばんは〜」
挨拶しても返事はなかった。不思議に思っていると、その人のアバターが急に変わった。黒髪ですごいスタイルのいい、ミニスカワンピースの女の子のアバターだった。そして急に、
って言われた。
正直、え?って思ったけど、断るのも変かと思ってコピーしたら、その人のアバターがまた昨日のに戻って、鼻と鼻がくっつくぐらいにずいっと近づいてきた。
「かわいー!」
「え、あはは、ありがとうございます?」
ピンク髪でいっぱいの視界の向こうで、交流してた海外の人が「Yourfriend?」「コンニチワ」って言ってるのが聞こえたけど、その人は何も答えなかった。
結局私が仲介する形で一緒に会話したんだけど、その人は何か聞かれても適当にイエス、とか、んーそうかも、とかしか答えてなかった。
なんかもやもやしながらまたVR酔いしてログアウトして、そんで次の日。
またログインしてホームに行ったら、ピコンと通知が表示された。
一瞬意味が分からなかった。けど、◯◯◯ってのはあの人の名前だった。
それから3秒後ぐらいにあのピンク髪のアイコンが現れて、凄い勢いでまた私のアバターにくっついてきた。
「待ってたんだよ〜!」
そう言われても固まって動けなかった。だって例えるなら、ゲームのセーブかロードか選ぶ画面にゲーム内のキャラが現れた感じだ。こえぇよ。それはナシでしょ。ドキドキ文芸部じゃないんだからさ。
「あ、そうなんですね、えへへ」
びっくりしながらもとりあえず返事をしたら、その人は黙ったまま自分のアバターを一歩後ろに引かせてまた私のアバターにくっつけて、っていうのを何度も繰り返した。腕はハグをするみたいに広げたままで、時折わずかにリップ音みたいな音が聞こえた。
そう思った瞬間腕に鳥肌が立った。
何も言えずにいると、その人がチャットテキストで何か英数字を送ってきた。
「コレ俺のインスタアカウントとディスコードのアカウント。フレンドになろうよ」
「…………。すみません、どっちもやってなくて」
今、俺って言った?
「えーじゃあTwitterならやってるよね?繋がろうよ」
「…………、ハイ」
Twitterをやっているのはバレているので逃げられず、結局あまり使っていないアカウントを教えた。フォローされたあと仕方なくフォローしたら、サングラスをかけた顔絵文字がリプライで送られてきた。
「うん、そうだね!ありがとう!ちなみにこの後暇?」
「…………すみません、実は今日もうログアウトしなきゃいけなくて、」
「そうなんだ!じゃあまたね」
「じゃあね〜!」
そう言ってまたアバターが近づいたり遠ざかったりした。チュ、と小さく聞こえた気がした。私は無我夢中でVRゴーグルを取り外すと電源を落とすと、見えないところにしまい込んだ。少し立って落ち着いた後でフォローされたTwitterアカウントを確認したら、がっつり男だった。半分顔が隠れてるけど自撮りっぽい写真もあった。
あれからわたしは、VRチャットにもそのTwitterアカウントにも未だログインできずにいる。未だにあのリップ音が耳から離れない。