
はてなキーワード:共産圏とは
俺は彼のブログや著書にお世話になった大勢のITエンジニアの一人だ。
今は専門とする分野こそ変わったが、彼のブログに大きく書かれた「漢」という字は今も印象深く残っている。
あるユーザーがあのアイコンを使って、歯に衣着せぬ攻撃的な主張を展開し、政治的には主に左翼(勝手に認定した者も含む)に怒っているのだ。
実家に帰ったら親がネットで真実を知ってしまったような気持ちになった。
よく会社の名前を背負ってこんな事が言えるなというものも多い。
例えば中国や北朝鮮を、その政治的な極右性を無視し共産圏だからと盲目的に左翼だと捉えていたりする。
彼は一体、毎日朝起きて何を見聞きしているんだろう。
日本オラクルは自社で飼ってるこのネトウヨについて思ってるんだろう。
日本オラクル内ではネトウヨのエコーチャンバーが醸造されてるのだろうか。
彼のXには、「このアカウントでのツイートは私自身の見解であって、所属団体や組織を代表する見解ではありません。」とあるが、今どきこんなもの何の効力もないのは周知の事実だ。
それをあえて書き、一方で彼のはてブプロフィールにはそう書いてないので、彼のブコメは日本オラクルを代表するものなのかも知れない。
これ話すと長くなるよ?
倭国、大和、日本、朝鮮、越南のように冊封体制の周辺国は必ず2文字以上を名乗った(名乗らされた)
韓国が日本から独立する際にこれを考慮するかは重要課題で、当初から中国(中華)の2文字と揃えない方が外交的な刺激を抑えられる、という意見があった。
そこで3文字国号も検討されたが、日本が日本国表記にするという事情もあり、これとも摩擦を避けるために4文字国号が検討された。
それはへりくだりすぎだろという反論も当然あったため、折衷案で大をつけて大韓民国、略称として韓国が成立した
ちなみに朝鮮民主主義人民共和国は「そんなの知らんが」で一蹴して共産圏の名前になったし、それが原因で長年略称としての北朝鮮を受け入れず抗議していた
(ちなみに日本の場合は正式名称が日本国で、日本は略称。これも中国配慮の一説があるが根拠に乏しい)
欧米の政策方針の違いなんて、単なる地政学上の関心の違いでしかない。
そんなの、ロシアと中国に対する扱いが180度違うことで普通にわかるだろ?
ロシアと中国はもと共産圏で今も仲良し、国際決議でもだいたい歩調を合わせてて、全く同じ陣営なのは誰でも知ってること。
それなのに欧州はプーチンを悪魔のように罵り中国とは密に取引をして、トランプはプーチンと仲良くして中国と徹底的に敵対している。
こんなの、単にその国に対して「近い脅威」かどうかの違いでしかない。
ヨーロッパはトランプやプーチンの何倍も人を殺してる独裁者でも、自分の陣営なら称賛する。
ハンガリーへ仕事で行った時に知ったんだが、ハンガリーは旧共産圏なので物価が安い国で、今でもロシア語がけっこう通じるような国だ。
今はEUなので簡単にオーストリアのウィーンに行けるが、ウィーンとハンガリーのブダペストでは物価に2~3倍ぐらいの差がある。
ハンガリーはとても良い国だが、金銭的にはEUの中で屈辱的な立場にある。
しかしそのハンガリーに、大勢のウクライナ人が出稼ぎに来ていた。これは戦争よりずっと前かららしい。
ハンガリーが元共産圏で、多少なりともロシア語が通じるのがメリットなんだろうと思う。
しかしそれでも、ハンガリーに出稼ぎに来た方が、ウクライナで働くよりずっと稼げる。
このひどい経済格差を前提として知っておかないと、この戦争の本質を見誤ると思う。
ロシアに依存していても経済状態が改善するめどが立たないので、ウクライナは西側にすり寄ろうとした。それをロシアが攻撃した。
要約
この投稿では、アメリカがウクライナを見捨てることの影響について論じられている。
1.ブダペスト覚書の意義
1994年にウクライナが核を放棄した代わりに、米英露が独立と主権を尊重すると約束したが、ロシアの侵略とアメリカの支援の不確実性によって、その信頼が揺らいでいる。
-ロシアの勝利 →プーチンの領土拡大が加速し、東欧諸国が次の標的になる。
- 核不拡散体制の崩壊 → 核を手放したウクライナが侵略されたことで、北朝鮮・イランなどが「核を持つべき」と確信する。
-同盟国の信頼喪失 →NATO諸国や台湾が「アメリカは約束を守らない」と疑い、自衛のために動く。
-国際秩序の崩壊 →専制主義の台頭、西側の弱体化、ドル基軸体制への不信が進む。
3.歴史の教訓
チェコスロバキア(1938年)、ベトナム(1970年代)、アフガニスタン(2021年)の例を挙げ、アメリカが撤退するたびに敵対勢力が増長し、より大きな戦争が起こったと主張。
4.結論
ウクライナを見捨てることは「短期的な平和」を得るが、「長期的な混乱と戦争」を招く。自由主義国際秩序の終焉につながる可能性があり、独裁者に譲歩することはさらなる戦争を呼ぶ。
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主張の妥当性
筆者の主張は、論理的には一貫性があり、歴史的な事例とも整合する部分が多い。特に以下の点は妥当性が高い。
ウクライナが核を放棄した結果、安全が保障されなかったことは事実であり、今後、他国が「核を手放すと危険」と考える可能性は高い。特に、北朝鮮やイランのような国が「核こそが安全保障の鍵」と結論づけるのは現実的な懸念だ。
ロシアがウクライナで勝利すれば、モルドバやバルト三国などに圧力を強める可能性は十分ある。プーチンは「ロシア帝国の復活」を掲げており、侵略の正当化に歴史的な前例(クリミア併合など)を利用してきた。
アフガニスタン撤退後、台湾や日本でも「アメリカは本当に守ってくれるのか」という議論が起きた。NATO諸国も「アメリカ頼みでは危険」と考え、独自の防衛力強化を進める可能性がある。
4.歴史の教訓
1938年のミュンヘン会談(ナチスへの譲歩)、1970年代のベトナム戦争終結(共産圏の拡大)、2021年のアフガニスタン撤退(タリバンの復権)は、確かに「譲歩によって敵が増長した」例として使える。筆者の指摘は歴史的な事実と一致している。
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主張の限界
ただし、以下の点については、やや過剰な懸念や単純化が含まれている。
トランプ政権がウクライナ支援を削減する可能性はあるが、完全に見捨てるとは限らない。軍事支援を減らしても、外交・経済支援を継続する可能性もある。共和党内でも意見が分かれており、一部は「ロシアを利する行為」だと反発している。
ロシアがバルト三国やポーランドに軍事侵攻するリスクはあるが、NATO加盟国への攻撃は**NATO第5条(集団防衛)**を発動させ、米欧の軍事介入を招くため、リスクが高すぎる。ウクライナとは状況が異なる。
アメリカの影響力が低下する可能性はあるが、ドル基軸通貨が短期間で崩壊する可能性は低い。中国やロシアが代替システムを構築しようとしても、信頼性や流動性の面でドルの優位性は依然として強い。
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筆者の主張は概ね合理的であり、特に核不拡散、ロシアの拡張主義、アメリカの同盟国への影響については妥当性が高い。しかし、アメリカが完全にウクライナを見捨てる可能性や、NATO諸国への即時的な侵攻、ドル基軸体制の崩壊についてはやや誇張がある。
ヴァージニア・ウルフ「灯台へ」は家族旅行あるあるみたいな感じ。ちょっとした会話のささいなことで不機嫌になったり、いろいろと期待してしまったりする。そして、年を取ってから家族の思い出の場所を訪れたりすると、あのとき気づかなかったことがわかる。
基本的にヴァージニア・ウルフがすごい好きで、上みたいな家族の何気ない感情や小さな苛立ちがきれいに救い上げられていて、それらがシームレスに別の人の感情に繋がっていくのがカットの切り替わらない映画みたいでとにかくきれいで、「意識の流れ」とかそういう文学用語を抜きにして、ひたすら浸っていたい。大体、プルーストとかジョイスとかも同じ言葉でカテゴライズされるけれども、資質が全然違う。同じ理屈で「ダロウェイ夫人」も大好き。最高。神保町で買った「波」はちょっと難しかった。
ジーン・リース「サルガッソーの広い海」は「ジェイン・エア」の二次創作というか、正気を失ったモンスターとして出てくる、つまり人格を持って主人公と関わらない、ロチェスター夫人の背景の話(当時の精神病への偏見が見えるね)。ロチェスターってひどいやつだな、何でこんな奴がモテるんじゃいみたいな気持ちになる。
ところでこの作品の原典の「ジェイン・エア」って、叔母にいびられたり闇を抱えたイケメンが出てきたりと、なんとなく女子受けするフィクションというか、ある種の朝ドラのプロットや女子向けラノベに何となく似ている気がするのだが、それらをろくにきちんと見聞きしたわけじゃないのでエアプと偏見であるし、以前に別の作品をこういう女子受けという論点から語ったところ増田ではものすごく叩かれたので、うかつなことは言えない。ついでに叩かれたせいでその作品にまつわる十代の思い出まで汚してしまったような気がした。増田に常駐していると若干煽るような表現をしてしまうようになるので、いい加減に別のSNSへと移住する潮時かもしれない。
あとはそうだな、ロチェスターがイド、ジェイン・エアが自我、リヴァーズが超自我でラストにロチェスターがおとなしくなったイドなんじゃないかって、初めて読んだときに思ったのだが、これはフロイトの本を斜め読みした僕の偏った知識と解釈だと思う。独学って現在の潮流を知らないから偏るんだよ。
フランツ・カフカ「失踪者」をはじめ、彼の長編は大体未完成で、しかもとにかく主人公が訳も分からないままひどい目にあい続けるのだが、例えば女性と恋に落ちる場面があってもさらなる不幸への入り口に過ぎないのである。性欲を見せたら罰を受ける世界観だなって感じた。カフカは短編を読んで気に入ったら長編を読めばいいと思う。未完成だし。威圧的な父の陰/社会の不条理な規範から抜け出せない人におすすめ。いい作品、心を打つ芸術って苦しんだ人間から生まれる。その点共産圏ではすごいいい芸術が生まれているんだけれど、こういう背景を知っていると喜べない。
あとクリスタ・ヴォルフ「カッサンドラ」ね。古典のパロディは基本的に好き。知っていること前提でどうずらすかってのは、原作を知っている映画を観に行く楽しみに似ている。とはいえ、作品としてはそこまで面白いとは感じなかった。この小説は神殿で犯され、捕虜となって異国の地で殺される運命を知っているカッサンドラの視点で語られる、フェミニズム的再解釈で、ギリシア神話の通説とは異なり、ギリシア方のアキレウスの英雄性を否定し、彼を暴力的なけだものと終始さげすむ。一方、トロイア方のアスカニウスやアイネイアスが女性に理解を示す理想的コミュニティを築いているのが、なんというか、安直な善悪の対立みたいで面白くなかった(僕がトルストイをあまり高く評価しないのもそれが理由)。結局カッサンドラがどんな澄んだ心境に至っても、結局は異国で無残に殺される運命は覆らないしね。
ところで、フェミニズムについてはいろいろ話すと長くなるが、僕は女性への不当な扱いや尊厳を奪う暴力には激しい怒りを覚えるし、平等な教育や選挙権・被選挙権に感謝しているし、きちんと耳を傾けなきゃと思う一方で、フェミニストには一定数のとても失礼な人がいるのでどうしても印象が良くならない。リベラリズムを気に入っていてもリベラリストには疑いの目を向けているし、愛国心があっても愛国者を名乗る人は警戒してしまうのと理屈は同じだ(思想が好きで人間が嫌いってことか?)。
ただし、アンチ・フェミニストにも倍ぐらいヤバい人がおり、つまるところ自分の大嫌いな人や対立する価値観と向きあい続けて正気を保つのは難しいってことなのかもしれない。日常的に他人を見くだしたり嘲笑したりするのは、風刺は有効な文学上のレトリックであるとはいえ、その末路がどうなるかは目に見えている。なので、僕も嫌いな人たちの実例を挙げるのはやめにする。右にも左にもいっぱいいるけれどね。そうするとこのエントリの長さが倍になるし、本筋からも離れてしまう。
しかし、やっぱりジェンダーをめぐる歴史は面白いなとも思う。時折SF・ファンタジーで女性だけの政治的な力を持つ集団が出てくるんだけど(たとえば上橋菜穂子の守り人シリーズ「虚空の旅人」)、これは女人禁制のクラブを裏返しにしたものなのかなとか、イロクォイの社会がモデルなのかなとか考える。他にも、ミノア文明はチグリス・ユーフラテス起源の現代文明と違って、壁のない開放的で平和な「女性的」文明だったとか、面白い仮説があったりする(ただし戦国時代にだって城壁が無かった点には注意するべきだ)。否定されたものを含めて仮説を知るのは、先人が知恵を振り絞って、どう考えてきたかを一緒にたどれる思いがする。どのような誤りをしたかは、時代による制約と、文化による偏見を反映しており、それをどうやって乗り越えたか、筋道をたどるのは楽しいし、自分の考えの偏りにも気づく。
それに、右や左の極端な意見をいう人は、今の社会で辛い思いをしていたり、正しいとされている価値観から救われなかったりしたから暴走している面もあるので、彼ら・彼女らの不寛容を叩けば解決するもんでもない。
ミルチャ・エリアーデ「マイトレイ」は留学先の(それともホームステイ先だったっけ?)インドのお嬢さんに恋をする話なんだけれども、相手の文化を読み誤って結局結ばれずに終わる。「え、これはしていいのにこれはタブーなの? なんか地雷踏んじゃった!」「両親から仲を祝福されていると思ってたのに全然違うじゃん? どうなってんの?」みたいな。
それにしても、失恋して「何もかも破滅だ」って気分になって、遠くまで旅に出るってパターンは万国共通なのね。懐かしい。恋が実らなかった僕は大学の夏休み中何キロも不毛なほど東京都内を歩き回っていた。(ただし僕の場合つきあって振られたのではないので、「それは失恋とさえ言わない」と説教してきた同級生がいた。ひどい)。
アルべルト・モラヴィア「軽蔑」は前にも書いたけれど、妻の心離れを察した夫が、「どうすれば僕のことをまた愛してくれるの?」と情けないくらいに相手の顔色をうかがったり、腕力に頼ろうとしたり、嫌いな相手の前にみっともなく頭を下げたりと、一番やっちゃいけないことを繰り返して、とうとう上司に寝取られるお話。で、これは実際に妻と別れた夫が書いた小説なんだけれども、ラストで寝取った相手と妻がひどい結末を迎える。どんだけ妻を恨んでたんだよ。でも、こういう小説からしか得られない快楽というのは確かにある。僕も「愛してよ愛してよ」という飢えが丸見えだったと思うし、だからまったくモテなかった。チクショー。
ところで、(BSS「僕が先に好きだったのに」を含めた)寝取られについてだけれども、文学では読めるくせに寝取られ系のエロ本はまったく興奮しないし、嫌悪しか感じない。
文学を読んでいる時には、「どうせ自分は愛されないんだ、もうダメだ」という観念をもてあそんでも心はそこまで傷つかないというか、屈折した自己愛にじくじくと浸っていられるのだが、パンツを脱いでいるときに自分は男としてダメなんじゃないかって考えをいじくりまわすには僕は繊細過ぎたというか、裸になってそんなことを認めてしまっては、理想からかけ離れた自分に対する嫌悪と、現実社会の中で何とか自分が機能していくための自己愛の、微妙なバランスが崩れてしまう。知的な文学という鎧をしているときと、本能丸出しの全裸のときとでは、股間にパンチを受けたときのダメージが違うのだ(増田で本音を徒然書いて叩かれるとしんどいのもそれ)。
結局のところ、海外文学という幻想に逃げていて、同世代の人間が普通にセックスしていることが受け入れられなかったし、高校生がセックスしていると考えると嫉妬に狂いそうになっていた。倒れそうなほど空腹なのに目の前でご馳走を食べる人を、指をくわえてみているような痛みだった。十代の激しい性欲を受け止めてくれる誰かがいる空想は自分をさいなんだ。今にして思えば、セックスをしているからと言って、良好な関係であるとは言えないとわかる。なんであれだけ文学を読んできたのに、それがわからなかったんだろう? 手に入らなかったものがとても素晴らしいものに見えるからだろうか?
大学生の僕は文学サークルの後輩カップルが普通にセックスしていることを聞いても、上野動物園を一角獣がうろついていることを考えるほうがまだリアリティがあった。こういう人間が、幸せなカップルが出てくる真っ直ぐな十代向けのフィクションを読めると思うか?
三十代になってから、中高生の頃に現代文の先生が教材として使った石田衣良「4TEEN」やその続編で「6TEEN」を読んだのだが、主人公が美少女と知り合い、幸運なことに彼女が処女を卒業したがっていると聞いてそのままラブホに直行してベッドインし、童貞を卒業するシーンを見つけ、とにかく馬鹿馬鹿しい気持ちになり、なぜこんなものを読まなきゃならんのかと腹が立ってしょうがなかったのである。
ウワァァ━━。゚(゚´Д`゚)゚。━━ン!! それ以外は男子の友情を描いた割といい作品だと思う。
こんなJ-POPの歌詞やポカリスエットのCMのような感傷マゾに浸っていた僕が(どれくらいの感傷マゾヒストだったかっていうと、カラオケではポルノグラフィティの失恋ソングばかり歌っていたし、深夜までネットをしてて、さすがに寝ようかという前に、EOEの「Komm, süsserTod」、「雲のむこう、約束の場所」ED「きみのこえ」、坂本真綾「tune the rainbow」を聞いてすごく感傷的になって布団に入る習慣だった。新海アニメのなかでヒロインが名前を呼んでくれるシーンがあって、それで情緒をぐちゃぐちゃにされていたのである。絶対ラブプラスをやっちゃいけない人間だったと思う)、何でラノベを読まなかったのかというと、ライトノベルではどうせエロイベントがあっても本番はしないだろうと思い込んでいたからだ。そうやって背伸びをし続けた結果良くも悪くも今の自分がある。
とはいえ、今にして思えば、普通に現代の小説を読んでおけばよかった気がしないでもない。
続く。
確かこれが初めて読んだビートニック文学の一つだった。車でアメリカ大陸の各地を巡っては行き当たりばったりの旅をする話で終わりも尻切れトンボ、「なんだこりゃ」とひっくり返りながら読んだ。だが、こいつら一生そのまま放浪するんだろうなという感じがあっていい。ちなみに、これ以降も細部には触れないとはいえネタバレをガンガンかましてくので嫌な人は読まないでほしい。あと、この文章は半ばが自分語りというか、酔っ払いが管を巻いているようなものだと思っていただきたい。そもそもこの感想だってほとんどが曖昧な記憶と印象を頼りに書いているのであり、いたっていい加減なものだ。そもそも、僕は正規の文学教育を受けていない、一介の理系のアラフォーのおっさん、文学少年崩れに過ぎないのである。
ところで、これを薦めてくれた友人は「ブローティガンを読むといい」と教えてくれた。文学サークルで村上春樹「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の幻想パートをもとにした小説を書いていた僕に、その元ネタの一つだと言って手渡してくれたのが「西瓜糖の日々」だった。妙な世界なんだけれども向こうは完全に常識だと思っている語りがすごく好きだし、こちらの世界に存在する物事がいくつか欠落しているのもなんだかいい。
なお、厳密には池澤夏樹の文学全集ではなく文庫版で読んだのだけれど、訳者が同じだったのでここに記載する。そもそも全部順番に読んだわけじゃないしね。
年端もいかない少女と同棲したり酒を飲んでだらしない生活をしたりするゴーギャンとその祖母の過激派フェミニストの二人を主役に据えたお話。この二人が現実に同じ一族から出ているのがまず面白いのだが、自分が生きたいように生きたというかそういう風にしか生きられなかった点ではよく似ている。型どおりに生きられないのよね。
このゴーギャンの祖母フローラ・トリスタンは、作中ではどこにでも出かけては結婚制度の有害さで一席をぶったり、関係ないときにも社会改革の話をしたり、貴族の子弟が幼い少女の性を慰み者にしたと突然告発したりと、かなりアグレッシブな人のようにも書かれているのだが、当時の人権状況はそれ以上にヤバかったってのは頭の中に入れて置かないといけないし、彼女のキャラは作中の誇張もあるだろう。余談だけど作中で言及されるフーリエの空想的社会主義って輪廻転生や数万年後の未来史を含んでいて結構オカルトっぽいのね。
タイトルがまずかっこいい。
プラハの春・ソ連侵攻前後のチェコを舞台にした四角関係小説なんだけれど、いろんな人の現実に向き合う態度が批評されている。その中で全体主義に埋もれてしまう人間の弱点を指摘しているのだけれども、真摯というよりもどこか軽やかというかシニカルだ。ドイツのことわざにいわく、「一回やっただけではやったことにならない」。しかし、人生は一度きり。さて、それでは本当に生きることってできるのか? 屁理屈のようだが、深刻な問いだ。
時系列が入り組んでいるし、作者がちょくちょく顔を出してスターリンの収容所で死んだ息子とか関係なさそうな話をするもんだからちょっとややこしいんだけれど、浮気者の外科医が政治の嵐で一介の窓ふき職人として暮らしているっていう設定の恋愛劇、面白そうでしょ?
ちょくちょく出てくる作者の言葉、これは政治批判というよりも、人間の弱さや神の不在に対する諦念に近い。でも、例えば美しい理念に酔って自己満足に浸る「キッチュ」な態度をはじめとして、クンデラの作品でうまく言語化されていることは多い。個人的に純文学は基礎研究だと思っていて、みんな知っているけれども名づけていない(しばしば望ましくない)感情に名前を与えることがその役割の一つだ(余談だが、僕は政治的にはかなり左寄りなんだが、リベラルの人が正しさ競争というか、自分がどれだけアンテナと意識が高いかを鼻にかけてしまう瞬間に気づくことがあり、そんなときにたいそう居心地が悪いし、無数の人が実際に正しいかどうか自分の中で検討せずに「価値観をアップデート」していくのがプロパガンダみたいですごく怖い。まず自分の価値観・内面をどうするかは完全に個人の問題なのに、価値観や思想にまで触れてこようとするのが見知らぬ他人のベタベタした手がどこからともなく伸びてくるみたいだし、何も考えずにアップデートした人たちはバックラッシュが起きたときに結局それに流されて、下手すりゃ前よりも悪化してしまうだろう。たぶんリベラリズムが好きでもリベラリストはそうでもないんだ。閑話休題)。
作者の顔が割と見えるというか、虚構が虚構であると割り切っているところがあるのがクンデラのメタフィクション風の長編なのだけれど、芥川龍之介の「煙草と悪魔」を読んで以来、こういう語り口がすごく好きなのだ。そういうわけで、某創作講座でメタフィクションを書いたら「言い訳しながら小説を書くな」「このままでは一生成功はおぼつかない」とボロクソに貶されたことがある。悲しい。
あとは、登場人物が普通にモテるので、そういうのが気に食わない人にはあまりお勧めしない(というか、クンデラの小説のキャラってときおり人生における性的快楽の総量を最大化しようと行動している節がある)。僕がテレビドラマを見ないのもそれが理由だ。自分よりも顔のいい男がモテているのを、労働ですり減って帰って来たあとに見る気にはなれないし、ではモテていなければどうなるかと言えば、自分の不器用な振る舞いを指差して笑っていると感じるのである笑。
それはさておいてクンデラは面白かったので何冊か買ったし、再読もした。
これは読むタイミングがあまりよくなかったなと感じている。というのも、この本を読んでから数年後に、経済的には困っていないか、経済的には困っているのだけれども事態を解決しようとしない自堕落な貴族や金持ちの話を読むのが猛烈に好きになった時期があるのだ。たぶん金に困らない奴がうだうだする話が好きになったのはプルースト「失われた時を求めて」以来だ。「人間は暇になると恋愛遊戯に走るか、虚飾にまみれた儀礼を作るか、格付けや番付を作り始める」という趣旨の磯田道史「殿さまの通信簿」か何かの記述を思い出す。あらすじを調べると、上の感想とはかなり懸け離れてるのだが、読んだ内容と心に残していくものは若干ずれているものだ。
この話は基本的には悪魔が魔術・幻術で社会をひっかきまわすドタバタなのだが、冒頭の首ちょんぱがお好きならハマる。背景のイエス・キリストの実在とか彼の処刑にかかわったピラトの救済とか(を描いた劇中劇)はわからなくてもいい。勢いがすごい。ブルガーコフはこういうドタバタが多い。強烈なのは「犬の心臓」で、これは犬を手術で人間にしたらガラの悪い野郎になって人間の権利を侵害するようになるんだが、これはどう見ても革命に乗じてやりたい放題やっているならず者の風刺である。「運命の卵」は確か放射線かなんかを当てた卵からかえった動物が巨大化して街を襲う怪獣大行進である。
自分は悪魔の話が好きだ。ゲーテ「ファウスト」のように際限なく願いを叶えるのも好きだし、アシモフ「小悪魔アザゼル18の物語」のように、悪魔が契約を忠実に守るが穴があり、うまくいかず皮肉な結果になったりするのも好きだ。こういうアイロニーというか、破滅の運命を避けようとして逆にドツボにハマるのは、ギリシア神話やシェイクスピア「マクベス」なんかでも見られ、好物だ。
昨今の情勢からロシア文学が好きだとは言いづらいのだが、自分はまちがいなくロシア文学に命を救われている。ドストエフスキーの、激重感情で身が今にもはち切れそうな人々や、自分の狂気を強烈な理性で押さえつけてはいるものの今にもバランスを崩してしまいそうな人々の存在が、自分のことを受け入れることのできなかった二十代の自分を救ってくれていた。世界に平和が訪れたら、サンクトペテルブルクを流れる白夜のネヴァ川沿いを歩いてみたい。……とここまで書いて気づいたのだが、ブルガーコフはキーウ出身でゴーゴリと同じくウクライナ文学に分類されるじゃないか! 知識が古いままだとうかつなことが言えない。
残雪「暗夜」はカフカが好きな僕は楽しんだ。基本的に何かが欠落したよくわからない世界で、よくわからない理由で翻弄される人間の話が好きだ。これは偏見だが、共産圏は映画を含めてこういう不条理な作品がひたすらうまい。現実が同じくらい不条理だからかもしれない。それが理由で、共産主義時代の東欧文学や映画にハマった時期がある。当時は自分の周りのあらゆることが不条理に感じられていたのだ。とはいえ、カフカのところでも述べるが、これだけ人が苦しんだということは胸が痛い。当時の僕は自分の悩みと痛みのことしか考えられず、不条理なものを求めて東欧に接近していたのである。
バオ・ニン「戦争の悲しみ」はよくわからなかった。これを読んだのが二十歳を迎えるかどうかの頃で、戦争で傷ついた女性がなぜ相手かまわず性交渉を行うようになるかが作品から読み取れなかった。ただ、自分が文学から女性の性について学ぼうとし始めた遠因かもしれない。なんで文学から学ぶんだよというツッコミはしないでほしい。他に学ぶルートが無かった。だから偏ったサンプルばかりで、ある程度バランスの取れた、ハッピーな性生活を送っている人はどうなのかが全然わからない。だって極端な人じゃないとフィクションにするのって難しいからね。
続く。
共産主義は平等を原則としてるが、中国では職業や地域によって賃金に差があった。
また、同じ職業でも人によっては差があり、査察官が実際に見て決めるんだが、査察官が素晴らしいと思えば給料が上がり、そうでなければ給料が上がらない――一言でいうと成果主義を実施した富士通と同じことをやっていたからである
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jshrm/10/1/10_43/_pdf/-char/en
ソースによると共産主義が実施された書記は基本給+歩合給みたいな感じで、がんばれば給料が上がる仕組みだった。ただ、その過程で歩合給を増やすために不正――不動産仲介でいうとだましたりして、うその書類を書いて住宅ローンでアパートを買わせることが横行した。また、業種によっては生産量で歩合給が決まるので、自分だけ生産量を増やすために他人の足を引っ張ったり、新しいやり方だと効率が上がるが、一時的に生産量が落ちるので新しいやり方の導入を渋ったり…なんてことが横行した。また国全体で売り上げが上がらず、今まで通りの経営を続けていたのでは赤字になってしまい、歩合給の金額を減らすようになってしまった。その結果、いくら頑張っても給料が上がらず、労働者はろくに働くことがなくなった。やる気がない販売員とか共産圏だといるがそれはこのような仕組みが原因である。
Whataboutism(「そっちこそどうなんだ」を詭弁とする概念)って、あれアメリカと資本主義勢力が自分たちの罪を認めたくなくてひねりだしたそれこそ詭弁だからね
そりゃ「生活レベルが低い」はずの共産圏に人種差別とか指摘されてしかも実際にそうだったら顔真っ赤にするわな
資本主義は弱者を救わんけど、Whataboutism(というかそれを言い続けたソ連・社会主義勢力の圧力)はアフリカや貧困層や弱者ほか諸々直接的にも間接的にも救ってくれたよ
ソ連や中国が「お前こそどうなんだ」と言い続けなかったら俺たちは今でも給料低くて今よりさらにクソみたいな福祉制度の中で生きてたわけだからそこは感謝する、そんで俺たちも言っていこう
「Whataboutism、詭弁」って言われ続けようが相手(相手が社会ならその中の弱者)にどうなんだどうなんだと言い続けるのが正解
大学時代、俺の行ってた学部はひとつだけ独立したキャンパスを持っていた もともと別大学だったのが統合されたので、前大学のキャンパスをそのまま使っていた感じだ
キャンパスがある場所はまあ山で、「何もない山奥」というにはそれなりにものがあるんだけど、しかし他の街中にあるキャンパスと比べるとかなり見劣りする立地だった
そこは彩都という街で、彩都はバブル時代にガンガン山を切り拓いて計画都市の高級住宅街をやるぞー!つって途中まで景気良くやってたんだけど、バブル崩壊かなんかで計画がオシャカになってしまって、全てが途中で投げ出された……みたいなストーリーを持っていた これは俺が人から聞いた話を適当に脳内補完したものなので、全然間違っている可能性アリ
背景はとにかく実際のところ、彩都はでかいマンションやいい感じの住宅街がフツっと途切れて途中からただ切り拓かれただけの更地になり、更地の先は切り拓かれてすらいない山となる、という、独特の景観を持っていた
そんでキャンパスのまわり、徒歩でフラッといける圏内に安いチェーン店とかはなく、歓楽街みたいなものも当然なく、交通手段はモノレール(割高)がメインなので行きにくい、というような感じで、とにかく隔絶された雰囲気があった
講義が少ない日にキャンパスのまわりをフラフラ散歩してみたりすると、もう全然人とすれ違わなくて、道は広くて綺麗、マンションはデカい、気軽に入れるウェルカムな雰囲気の店は全然ない、というので、なんつうのかな、知らんけど共産圏みたいというか、そういう独特の孤独感っていうんですかね、ソリチュード、そういうものがあったように思う
あっでも、在学中にでっけえディスカウントスーパーができて、そこはちょっとウェルカム感あったな いや、無かった気もする 売ってるものが全部デカくて、店内通路も妙に広くて、冷房がムチャクチャ効いてて激寒、ずっとオリジナルのコマーシャルソングが流れている、という空間だった
やっぱあの街って"そう"だったわ デカく、孤高 そういう雰囲気があって、それは実のところ好ましかった
そう、好ましかったんですよ
で、それはそれとしてですよ、この前久しぶりに大学の近くに行ってですよ、ちょうど俺が卒業したくらいに移転したという、新しいキャンパスを覗いてみたわけですよ
すげえ立派だったんだよなあ
まず、なにやら大規模な都市計画が動いたってハナシで、中心市街地から伸びていた電車の線を二駅ぶんくらい延伸して、その駅に直結する形でキャンパスが設けられているわけよ
そんでなんか、大学ってだけではなくて市民交流の場も兼ねよう、みたいな構想があったらしくて、図書館なんかが市民図書館と大学図書館を合体させたオシャレな感じの建物になっている
俺たちの時代には図書館には当然なにも入ってなかったし、そもそもキャンパス内にあるのは最低限の機能を備えた学食だけだった(ササミチーズカツはマジで美味かったですけどね)
大衆に迎合したからといって専門性も損なわれていない感じだった 1階は広く読みやすい本が集められてて、3階とか4階に行くと誰が読むねんって感じの本の集合になっていた まったく悪くなかった 自習室とかワーキングスペースみたいなのもあって、全体的にカッコよかった
まあ実際、よく考えると俺たちの時代の図書館にもそういうのはあった気がするんだけど、根本的な機能が同じでも、古く薄暗い場所にあるものと新しく明るい場所にあるものでは、後者の方がイケて見えるわけじゃないですか
そういうことなんですよね
そんでこれはまあ偶然なんだろうけど、キャンパスに隣接するところに酒メインのスーパーとか揚げたて天ぷらのチェーンとかそういうものがある
俺が大学時代、わざわざ地図を見ながらバスに乗って来て、天ぷらを食って酒スーパーを覗いて帰ったあのコースが、キャンパスに隣接している
キャンパスの建物自体もなんかよくわかんねえ網目状の構造物がついてたり、ガラス張りっぽい感じだったりしてカッコいい
直結する駅は地下(?)にあって、そこまで降りるエスカレーターが長くてアイコニックだ 駅構内でキューバサンドを売ってたり、謎のアーティストがジャズみたいなのを演奏していたりもした
俺は彩都が好きだったし、空きコマに巨大ディスカウントスーパーに走って100円のタコ焼きを買って、ボロボロの部室でひとりそれを食うのはかなり良い体験だったと素直に思っている
いっぽうで、あの新しいキャンパスで大学時代を過ごしていたら、俺はもっと文化的な4年間を過ごせていたんじゃないか?という思いも捨てきれない
あのわかりやすくカッコいい図書館にだったらもう少し通ってたかもしれん 天ぷらを常食していたかもしれん スーパー銭湯の常連になってたかもしれん
キャンパスを出て散歩すっぞ!と思って外に出る道を歩いてたら「マムシに注意」って書いてある看板が立ってて心底ビビったり、キャンパスの裏にある山を登ってそこにある公園のトイレに入ったらカマドウマみてえな虫がメチャクチャ死んでたり、ああいう体験も確かに悪くはなかった リトアニア語の集中講義を受けるなら、ああいう孤立した場所で受けるほうがより没入感が出てよかったと思う
悪くはなかった一方で、あと何年か遅く生まれていたら、あるいはもっとアーバンなキャンパスライフを送ることもできていたのかも、と思うと、少し悔しかったりするわけですよ
人生ってそういうもんですよね
以前、ここで、志位和夫氏(日本共産党の前委員長)の論文を取り上げて日本共産党の特徴を書いた。(消されたのでウェブアーカイブから)
このたび神谷氏の除籍問題が話題となっており、共産党の言い分が興味深いので記録しておこうと思う。
県委員会総会での討論の内容を、それぞれの県委員が個人の判断で公開することを認めれば、総会での自由な討論を阻害することにもなります。県委員会総会の内容を公開する場合は、県常任委員会の責任で発表すべきことがらです。県委員会総会での討論内容を個人の判断で公開する行為は、党内での自由な発言、討論を保障した党規約の精神を踏みにじる行為です。
何故討論の内容を公開してはいけないのか。
内容を自身に都合の良いように歪曲や捏造をしていたらこの批判もわかるが、共産党のウェブを読む限りは公開した事自体を問題視しているようだ。
一般的な感覚だと、公開してはいけないとする共産党の見解は意味不明である。
そこで、前掲増田でも示した、志位和夫氏の書いた論文「変節者のあわれな末路」を例に共産党の考え方を理解してみよう。
(変節者のあわれな末路より)
結社の自由にもとづいて自発的な意思で政党に加入した者はだれであれ、出版、言論の自由をふくむ自らの基本的人権をその政党の目的実現にむけて行使すべきである
基本的人権の行使に条件を付けているのも驚きだが、ここで注目すべきは「政党の目的実現にむけて」の部分だ。
「共産主義の実現」ではなく、「政党の目的実現」としているのがポイントで、ここでいう政党というのは共産党の組織のことを指し、個人にとっての地方の委員会、地方の委員会にとっての中央を指している。
つまり、神谷氏がブログで委員会の見解と異なる主張をし、またそのために議論の内容を公開したことは、言論の自由を「政党の目的実現」以外の目的で行使したことに他ならず、共産党として許容できるものではない。
基本的人権の行使は共産党に奉仕するためになされるべきであるというのが基本である。
(変節者のあわれな末路より)
わが党は、「伊里」が、彼の反党文書のなかで、「理論派閥の容認」「党外出版物での批判の容認」「横の交流拡大」などの、民主集中制を完全に否定する主張をおこなっていることを、彼の解党主義、分派主義のあらわれとしてきびしく批判した
神谷氏のブログは組織に対する批判であることは明らかだが、共産党では引用論文のとおり「党外出版物での批判」を厳しく禁じている。
神谷氏のブログは印刷はなされていないため狭義の出版物ではないかもしれないが、性質としては出版物に近く、共産党として許容できるものではない。
このあたり、石破茂が冷遇はされているものの党を追われず、未だに総理総裁候補として名前の挙がる自民党(良く言えば議員一人一人の独立性が高く、悪く言えばまとまりや一貫生がない)とは全く党の性質が違うと言える。
余談だが「横の交流拡大」の否定も共産党らしい。地区組織間で交流されてしまうと、中央に反発するために団結される(=分派の形成)可能性があるためだろう。
(変節者のあわれな末路より)
坂本中央委員からつぎのような指導を受けたことをみずから明らかにしている。
「議案提出の主体は、…代議員有志など複数であってはならない」「党会議の事前に文書を配布することはできない」「事前に他の代議員と討論したり、自分の提案に対する支持を、…求めてはならない」
議論は党の内部の公式な場で行われるべきであり、事前の根回しや賛同を募ることは認めていない。
当然それでは込み入った議論や利害調整はできないので、結論は議題や進行をコントロールできる党中央の意見に従わなければならない、となる。
神谷氏のブログも、自身の意見への賛同を求めるためのものであることは明らかであり、許容できるものではない。
(有名なアネクドートより)
と考えている(このあたり昨今のリベラルやポリコレと言われるものとの親和性が極めて高い)ため、党外にむけた反対言論を許容する余地はない。
以上のことから、神谷氏の除籍は共産党の論理として極めて当然のことと言える。
というか共産党のこういう性質は公知のものだと思っていたけど、若い方々にはそうでもなさそうなのが意外だった。昨今の共産党による宣伝活動(ソフト路線のアピール)は一定程度の効果があるようだ。
Permalink |記事への反応(31) | 08:55
熱量が薄れて文章が短くなり、対象へのリスペクトが失われて興味本位の乱文になり始めている。かつてのように事実関係をきちんと確かめず、表層的な調査や単なる和訳で終わっている。
短文では、読者の知的好奇心も満たせまい。
そろそろ潮時だろう。
| 投稿日 | 記事名 | ブクマ数 |
|---|---|---|
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| 2024/6/10 | ズボンを下ろしてパンツ見せて腰を振る動画と超ハイレグなエアロビ | 67 |
ネットの浅瀬ではこれくらいが限界だ。ネットにアップロードされていない郷土史的な情報は、書籍に当たらなければならない。当たり前だが情報はタダじゃないのだ。汗を流して足を運ばねば、肝心のところはわからない。
得られたのは、論文ではほんの一行で済むような事実を実証するのにも、膨大な労力が費やされている実感だ。以前はライターになるのはどれくらい大変かを実感したと書いたが、こういう実感は、泥臭い調査をする真っ当な情報発信者に対する敬意を持つことにつながる。
はっきり言って、ブルマーが学校で採用されていた地域・年代を正確に理解することは、一個人の能力を超えている。redditで質問スレを立てることも考えたが、調査対象の地域と年代が膨大になると気づき、諦めた。学校で採用されていた地域の大まかな分布は、イングランドから北欧・中欧・東欧・旧ソ連を含む共産圏、それから日本とごく一部の東アジア地域、及びイスラエル、というのが当面の結論だ。イスラエルをヨーロッパにも分類しているウィキペディアを見ると納得できそうだ。だが、例えばイングランドのすぐそばのアイルランドではブルマかどうだったかさえ分からない(追記:ブクマカによれば、イスラム圏では体育の授業がない地域もあるそうだ。そうなると、女性の体育の授業があった地域ではかなりの割合でブルマーが採用されていたことになる)。
ぜひとも、どこかの大学で研究してもらいたい。できれば、日本の研究と同じように、採用された経緯や背景にあった思想、つまり自立と恥じらいの葛藤・共犯みたいなも知りたい。
ブルマをはいて運動していた人がいつまでも生きているわけではない。SNSの画像も理由もわからずにBANされる。アーカイブはいつまでも保存されるわけではない。魚拓を取ってもいつまで残るか。
ところで、証言といえば不思議なのは、ブルマーについて好きだったとか嫌いだったかとか腹が立ったとかと情報発信しているのが、ほぼ英語圏と日本語圏に限られていることだ。服装フェティシズムがこの言語圏で強いのか、個人が情報発信するモチベーションの違いなのか、自分の検索能力なのか、理由はわからない。
例えばチェコのフェイスブックでも、ブルマーがどうだったかとかあまり書かれていない。懐かしいとか今の子はもっと運動させるべきとかそんな言葉が多い。
もちろん、書きたいこともないではない。例えば天皇陛下のお好きな映画は大林宣彦「転校生」だが、ってことは小林聡美のトップレスをご覧になったのかなとか、そんな小ネタがある。
しかし、どう書いてみても面白おかしい小話になってしまい、リスペクトが失われているのがよくわかる。表現の自由とつなげたところで、面白く書く自信が無い。だから、終わりにする。
以上。
よくもここまで続いたもんだ。
いつか誰かがこの研究を引き継いでくれることを祈って擱筆する。
はてな匿名ダイアリーとはてなブックマーク、それから他のSNSで拡散してくれた皆様、そして読んでくれたあなた。
お世話になりました。
【終】
【メモ】
https://x.com/ShinyaMatsuura/status/1792754892182061227
(スレッド)
これ以上は服飾史の沼に潜らねばわからないだろうなあ。
https://gatchinasport.ru/sport-segodnya/vidy-sporta/sportivnaya-gimnastika/
Слева направо 2 - Тамара Бояринцева, 7 - Юлия Пархоменко
すなわち
左から右へ 2 -タマラ・ボヤリンツェワ、7 -ユリア・パークホーメンコ
https://osskse.splet.arnes.si/2019/04/23/gimnastika-v-osnovni-soli-program-gimko-2019/
IT業界は"民主化"という言葉を使うし、その定義は一般とはたしかに異なる。しかし、ここでの民主化とは、ツールへのアクセスが容易になることを指す。
たとえば、生成AIにおいては、以前はモデルが提供されていたものが、ChatGPTなどの対話型フロントエンドが利用可能になり、誰もがGPTモデルを使えるようになることを言う。
重要なのは、アクセス容易性を民主化と呼んでいるのあり、ツールから得られる利益の平等な分配を目指しているわけではない。
むしろ、アクセスの容易性は競争を刺激することが目的で利用されることが多い。利用には才能は必須である。
それを理解していれば、"才能の民主化"という謎のキーワードを使うわけがない。
勘違いを招く原因の一つは、オープンソースソフトウェアに見られるゆるふわ共産圏の考え方である。ただし、OSSの成功は、ソフトウェアがデジタルデータであり複製が容易であるという資源問題の解決によってもたらされている。
資源の平準化によって成立しただけであり、資産の平準化など目的とはしていないのである。ましてや、開発者の権利が消えてるわけではなく、むしろ厳重に尊重するのがオープンソースの考え方である。
既得権益扱いして権利や資産の解放の道具に使おうなどという頭の悪い奴がなぜ推進サイドという技術者よりの世界に沸いてるか本当に謎である。
OSSなどは雑草のように草むらから勝手に生えてくることなどないのである。開発者やメンテナの彼らの多大な努力の上にかろうじて存在しいてる砂上の城だ。
全体への貢献度と個人の努力を天秤にしてたまたま収まっている歪な関係でしかない。個人を蔑ろにしてよいどころか個人への貢献への還元はむしろ大きな課題なのである。
絵師の立場とOSSの開発者は似ている部分がある。彼らの貢献によって応用的効果を私達が受けている。ただし、開発者が自らその立場を選んでるいるのに対して、絵師は選択肢も与えられてないというのは、やはり不自然な流れなのは当然なのだ。
元の怪文章から感じる最大の違和感は、技術推進をしているサイドでありながら、IT技術が20年もかけた課題に対して一切の無頓着であり、IT技術者としてもお気持ち表明したくなるところにある。
また、さらに推進派の言う既存の法律で十分主張も馬鹿らしい。情報処理の基本リテラシーに、容易性の課題がある。 複製性や伝播性などのそれである。
複製容易で言えば、紙に描く絵を真似るための努力と、コピーペーストによって複製するそして公開されるというのは全く別なのである。
個別の複製そのものは既存の法律で容易に解決できるものである。しかし、デジタルによる複製容易を持つとそれまでは難しかった問題が解決することで様々な副次的な効果が重なり応用的な問題が発生するのが当たり前なのである。
AIは複製容易とは言い切れないが類似の何からの容易性を獲得しているのである。だからこそ、メリットも大きわけでしょう。定義さえ難しい新たな容易性の可能性による応用的な状況なんて普通慎重になるのが当たり前。
情報処理の単位一つでもあったら確実にやる超基本の基本で、この程度が抜け抜けで、"議論"など言ってるのが非常に怖い。
もし君らが、技術を推進しIT技術者を名乗るなら、やるべきことは話し合いではない。
なにが起きているのか何が既存とは異なるのか。それがどのような応用的作用を産んでいるのか、それが逆にどんな応用的問題を産んでいるのか。
注意深く観察することことそが、議論の最初である。ましてや、誰かの発言を叩き潰すただの嫌がらせや暴挙を議論議論と呼んでる場合じゃない。