
はてなキーワード:公立学校とは
日本共産党による、新宿区役所の管理職に対する赤旗の押し売り(パワハラ)が話題だ。(https://www.sankei.com/article/20251015-YAL7UACXSJI7NFBFRQI63XHAWY/)
定期的に話題になるが、今回は現職の新宿区議会の渡辺議員が解説していて非常に興味深い。(https://watanabemichitaka.hatenablog.com/entry/2025/10/16/163754)
昔から、地方公務員や図書館、公立学校に対して赤旗の押し売りがなされていたことは有名だ。ここでは、年間どの程度の金額を売り上げているのか見ていきたい。
もちろん、推論に推論を重ねた試算になるので、
というものにしたい。
渡辺議員が「課長に昇進が決まった係長に対しても行われていた。」としているように、一般的に課長級の職員に対して勧誘が行われている。
課長級の職員の割合は自治体によって大きく違うが、東京都の基礎自治体の場合おおむね2.5%から15.0%ほど(都庁は10.0%)。
埼玉県庁で5.0%、秋田県庁で10.5%、川崎市で10.4%、さいたま市で10.4%、東京都青梅市で10.0%、東京都府中市で7%、山口県萩市で19.2%、京都府長岡京市で24.5%など(各自治体Webより。年度は若干の前後あり)。基本的に役所の規模が小さくなるほどに割合は高くなる。
ここではかなり低めに見積もって5%で考えてみよう。
地方公務員数は280万人。ただ、この中には警察官や教員なども含まれている。今回対象となる一般行政職はおおむね95万人程度(総務省Webより)
産経新聞の記事によると、「先輩管理職から、過去断ることができた人は1人のみと教わり、購読した方が無難というアドバイスをもらった」とのことであり、相当な高率で取らされていることが推測できる。
ただ、これも低めも低めに見積もっておおよそ8割の職員が取らされていると考えよう。
すると、対象人数は95万人×5.0%×80%で3.8万人。
ちなみに、とある県庁で課長職を務めたことのある私の経験からいうと、当時の購読率は100%だった。
赤旗の購読料は月額3,497円(日刊版)または990円(日曜版)。
とすると、日曜版なら3.8万人×990円×12月で約4.5億円、日刊なら約16億円となる。
かなり低めに見積もって、年間4.5億円〜16億円(おそらく実際はその倍以上)のカネが、地方公務員に対する赤旗の押し売りにより日本共産党に流れ込んでいると思われる。
ちなみに、私が課長職を務めていた頃は、皆、日刊版を購読していた。
各地の公立図書館や公立学校においても、共産党議員団の働きかけによって、一般紙と並んで何故か政党機関紙である赤旗が購読されていることが多くある。これも相当な収入源になっていることが推測される(館長や校長が個人的に購読させられているのか、図書館予算や学校予算から購読しているのかは知らない)。
ちなみに、話題になった自民党の裏金(単純な誤記載や記載漏れなどを全て含む)が、5年間でおおよそ22億円、即ち1年間で4.4億円。それと同等以上、というかおそらくその数倍以上のカネが毎年毎年日本共産党に流れ込んでいることになる。
Permalink |記事への反応(10) | 21:33
公立学校の設備の古さ、教員による性犯罪、刑罰の軽さ、再犯防止施策の遅さ――これらを並べて見ると、日本という国は子どもを「大人なら耐えられない環境」に放置して平然としているんだな、と思う。
まず物理的環境の話だ。トイレが汚くて和式だらけ、夏はエアコンが入らず教室は蒸し風呂、老朽化した体育館や給食室。これらは単なる不便どころか、子どもの健康や学習環境に直結する問題だ。安全で清潔な学びの場を用意することは、教育投資の基本中の基本であるはずなのに、予算配分や更新計画が後回しになっている学校が多い。
次に教員の性犯罪とその処遇の問題だ。教育現場で起きる性犯罪は、被害者が子どもであるという点で影響が甚大だ。被害の長期的な精神的被害、学校への信頼喪失、家庭の不安――その代償は測り知れない。しかし、発覚しても処罰や処遇が緩く、再発防止策が後手に回るケースが多い。被害の事実を隠そうとする組織的な対応も指摘されてきた。子どもを守る立場にある者が加害者になることの恐ろしさと、それを許してしまう制度的欠陥を直視すべきだ。
刑罰の軽さと再犯防止の遅さが追い打ちをかける。性的犯罪に対する量刑や運用が被害の重さを反映していなければ、加害者の責任は軽く扱われる。しかも立件や起訴のハードル、被害者が声を上げにくい現実、支援制度の不足が重なれば、抑止力は機能しない。再犯防止のための治療プログラム、登録制度、監視と支援の仕組みが不十分なままでは「また同じことが起きる」構図は変わらない。
こうした学校現場の劣悪な環境と制度的怠慢は、少子化の社会的背景とも無関係ではない。自分が子ども時代に嫌な思いをした人間は、自分の子どもに同じことを経験させたくないと考えるのが自然だ。教育施設の安全性や教員の信頼性が不安定な社会で、子どもを産み育てる決断をする人が増えるはずがない。つまり、学校の現場と国の子育て支援政策の摩耗は、少子化を加速させる構造的要因になっていると思う。
対策は単純だが緊急性が高い。施設の全面的な更新・衛生改善・エアコン設置などのインフラ投資を急ぐこと。教員採用と研修で児童保護の知識と倫理教育を徹底し、採用時の身辺調査や定期的な監査を強化すること。性犯罪が発覚した場合の透明な処分基準と被害者支援体制の確立、再犯防止のための医療的・心理的プログラムの導入。さらに、被害報告が無視されないよう第三者機関による監視と通報ルートを整備すること。これらは全部、子どもの安全と将来の社会を守るための投資であり、先送りにする理由はない。
結局のところ、子どもを「大人なら耐えられないけど子どもだから大丈夫」と放置する社会は自滅的だ。教育の現場に最低限の安全・清潔・信頼を取り戻せば、親たちの不安は和らぎ、子どもを産み育てる社会的条件は改善される。少子化対策も福祉も経済支援も大事だが、まず学校から手を付けるべきだと思う。社会が子どもをまともに扱わない限り、未来は明るくならない。
試験で点を取る能力と研究する能力について前者は当然学力というぴったりな言葉があるとして後者を仮に科学力(知性というと批判を買いそう)とでも呼んでおくときこれらはある程度の段階までは重なっていると思う。
でも理3を目指すとかになってくると同じ問題を一分一秒でも早く解く技術を磨くような努力になってくる。
ようするにそんなことをいくら実現させても実用上は問題にならない。問題が解けるのだとしてもそれがあまりにも時間がかかるのなら社会的にも賢いとはみなされないし実用上でも問題になってくるかもしれないが、
そんな二時間ちょっとの試験に収まるようにひたすら同じようなレベルの問題を安定して十分とかで解けるようになる(こういう人たちにとっては二、三十分かかっただけで安定しないということになる)ということが達成できたからといってそんなものは知性と言えるのか?あ、言っちゃった。
ノーベル賞の自然科学部門を取った人でも理3に受かるとは限らない。でも逆も当然。
学力とよばれるものはある程度鍛える分には科学的なアプローチへの理解力を高めたりして知性の向上と直接結びついていると言えると思うけど、最難関レベルに受かるような学力というのはもはや学力自体のために学力しているような、その試験に受かるためという目的に完結したものになっているように思える。これは綺麗に特定のルールに縛られた競技で好成績をひたすら目指していくということに置き換えられるように思う。
公立学校が学力をあげようなんてことを軽々しくスローガンにしているのには考え物だというふうに感じる。学力を極限まであげようとした先に何があるのかということをそこまで深く考えているようには必ずしも思えない。
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例えば私立学校だったら、いじめで暴力とか恐喝までいったらいじめた方が退学も全然あるんだが、だから公立学校より
私立学校にいきたい、いじめでも義務教育だと退学できないとかあるんだが、職場の方はいじめた方が同じく暴力や恐喝レベルのことやらないと
ただ精神的苦痛を与えただけだと無傷ってことあるからな。セクハラとかパワハラで裁判までいくとか労災扱いということはあるけど
それでも職場いじめって加害者側が無傷だよな。かといって暴力で返すとこれは大人同士なんで裁判、警察沙汰になる。
職場いじめで精神壊れた人の社会復帰の話だよな。社会復帰できるだけ偉いよ。精神壊れたまま障害年金や生活保護で行きていくハメになる人どれだけいるか
「外国人排除主義」と過剰に騒ぎ立てる人々こそ、冷静な議論を妨げるノイズであり、日本人自身の尊厳を切り売りする危険な存在。
だが、逆に問いたい。たった2.5%の外国人がいないと社会が成り立たない国って、何?
この程度の外国人がいないと、日本の社会は成り立たなくなっているなら日本の政治・制度設計の脆弱であり政治が無能ということ。
今後は地方での外国人労働者の増加が目立ち、2050年ごろには1割に達するとの予測
「多文化共生、多様性を尊重する社会をつくりたい」と野田代表が訴え
ピークに対し窃盗がかなり減っているが、一方で詐欺や暴行など一部の犯罪は増加しており、「増えていないから」と楽観視するのもまた軽率であり、現実を見誤る危険がある。
都合のいいデータだけを切り取って「偏見はやめよう」とか言う前に、数字の中身を正確に分析すべきだ。
「日本は閉鎖的」と言われるが、欧米の移民政策を見れば一目瞭然。フランスでは公立学校でスカーフすら禁止され、アメリカでは移民への暴力的な対応が日常茶飯事。スウェーデンやドイツでは移民排斥デモが連日行われている。
それに比べ、日本はどうだ?コンビニ、農業、介護現場で外国人労働者が受け入れられ、むしろ依存し始めている。生活保護の受給や子育て支援も一部では整っている。それでも「排除主義」なのか?
一体、何をもって“排除”だと騒いでいるのか。定義すら曖昧な感情論が先行しすぎている。
日本人が自分たちの国の未来を考え、慎重に外国人受け入れの議論をする。それがなぜ「排除」なのか?
むしろ、「日本人ファースト」すら許さない雰囲気こそが、真の排他主義だ。
日本は日本人の国だ。その当たり前の前提を否定する者が、他国の人権を語る資格などない。
在留外国人増、国想定の倍に 24年末は最多376万人 - 日本経済新聞
「外国人1割時代」25年後に到来か 地方で高まる受け入れ熱:朝日新聞
Widespread discrimination and intolerance persists across theEU
IQ130超え、全人口のうち上位2%のIQであることが入会条件の団体、「Mensa」に入ってみた。
あまりにも生きづらく発達障害を疑う声も多かったので、WAISを受けてみた。一つだけ”異常”が見つかった。Mensaに入れる程度に、IQが高かったのだ。「IQが高い」「生きづらさ」で検索してみると、Mensa内で活動している自助グループのようなものが見つかったので、入会してみることにした。会費、安いし。
最初は、イベントへの参加も戦々恐々だった。高IQの人々が知力でマウントを取り合うような環境を想像していたのだった。だけど、予想とは全然違った。
最終学歴も職業も収入も、けっこうバラけている。そうはいっても、大卒やブランド大卒やコンサルや高収入者の割合は、世の中全体に比べれば高いようだ。とにかく、そういうことを自慢してマウントを取り合うような人々は見あたらない。いるのかもしれないけど、目立たない。
会員だけの集まりで、よく耳にするのは、「人口の2%だなんて、天才にしては多すぎるし、ギフテッドと言われてもね」という発言。会員のほとんどは、選ばれた何かだなんて思ってない。体重は、多いからといって喜べるものではない。身長も、高すぎれば服の選択肢が減るし、頭をぶつける機会が増える。それと似たような捉え方に見える。
IQが高いメリットを享受していると言える人は、意外に少ない。知力で勝負するタイプのテストでは、確かに不利にはなりにくい。だけど、難関校に進学したり競争率の高い就職先に就職したりしたら、周囲に似たような人が増えていく。その中で競争したり生き残ったりしていくわけだから、有利だと感じる場面は減って当然だ。
IQが高いことのメリットを享受したいと考える人たちは、いることはいる。だけど多数派ではない。
Mensa会員の中には、発達心理学や教育学のプロもいるし、特別支援教育に携わる専門職もいる。IQが知力のごく一部だけを測定している非常に不完全な尺度であり、活用には慎重さと注意が必要であることは、その人々がよく知っていて、周囲の会員に語ってくれる。そもそもIQは、要支援の知的障害者を発見して適切な支援を行うために開発されたものであるらしい。その目的のためには、確かに有効だということだ。だけど、高い側はどうなのか疑問が持たれていたりもするらしい。IQが70だと、100の人々の中では不利になる。でも、30多くて130だと同様に100の人々より「有利」とは言えないらしい。それは、実感ベースで納得できる説明だ。
Mensaの中で時々目立つのは、IQが高いゆえの生きづらさの共有。近年は、公立学校でも「浮きこぼれ」「ギフテッド」を疎外しないようにという動きがある。だけどそれ以前、高IQの子どもたちは辛い思いをすることが少なくなかったようだ。
子ども時代に高IQであることが判明した場合、「勉強させない」「進学させない」といった方向の圧力が家庭から加えられることも少なくなかったようだ。背景にあるのは、親の嫉妬や劣等感、家業を継いでもらわなくては困るという思惑など。また高IQが学業成績に結びつかなかった場合、その子のIQを知っている教師が低い評価をすることもあったようだ。そのような語りが漏れると、他の会員から「私も」「そういう話は他でも聞いたことが」といった共感や理解が語られる。私も同感だ。というより、私と同じような経験をしてきた人々が周囲にたくさんいるという経験は初めてだ。
入会して数ヶ月間、いろんなイベントに参加して社交を楽しんでいるうちに、2つのことに気がついた。
まず、Mensaの実質的な役割の一つは「ピアサポート」、仲間による支え合いだ。
障害者の世界でもフェミニズムの世界でも、「ピア」の力は非常に重要視されてきている。精神科入院患者が異様に多い日本の状況を解決する方法の一つとしても、「ピアサポート」は注目されている。地域で生活するにあたって、輪別と闘うためにも差別的な社会と折り合っていくためにも、仲間はいたほうが良いに違いない。
身長が高かったり体重が多かったりする人々のために専用のファッションサイトがあるように、おそらく、高IQの人々にも何かが必要なのだろう。そして、まずは同類で集まってみることが大切なのだろう。
人口の2%だから、100人いれば自分以外にもう1人いるかもしれないけど、その1人と仲良くなれるかどうかは分からない。
1000人いれば、自分以外に19人いそうだが、その19人をどうすれば見つけられるのか。
同じ特性を持った人々の集まりがあり、そこに数千人が集まっていれば、同じ高IQという特性を持ち、気が合ったり話が合ったり共に活動出来たりする人を見つけられるかもしれない。
今のところ、私にとってのMensaの意義は、そういうところにある。
次に、Mensa会員になると「多様性」について考える機会が増え、「多様性」を大切にしたくなるかもしれない。「IQ130以下の人がいない」という意味で多様性が阻害されている団体であるゆえに、逆説的に。
「ダイバーシティー」とも呼ばれる「多様性」は、もちろん大切なのだろう。だけど、どうすれば実現できるのか? どのような人がいても「共生」できるという世界は、本当に実現することができるのか? 人間は、多様性が尊重されて全ての人が共生できるユートピアを作って維持できるほど賢明なのか?
人間はおそらく、完全な多様性には耐えられない。処理しなくてはならない情報が多すぎて、人間の能力では処理しきれなくなる。言語も価値観も見た目も違う人々が、旧約聖書のバベルの塔のようにゴチャ混ぜにされたら、多様性を尊重して共生するというわけにはいかないだろう。そのヴィジョンを共有することすらできないのだから。
そこにいる人々が処理できる範囲まで多様性を減らさないと、共生はできない。だけど限定付きの共生を実現しながら、各個人や各社会集団が処理できる情報量を少しずつ増やしていくことはできる。その延長に、いつか多様性を喜び合う共生社会が実現するかもしれない。多様性の「限定解除」だ。といっても、向こう数十年や数百年では無理そうだし、その前に人類滅亡という成り行きもありそうだけど。
高IQ集団の中で多様性と共生を経験した会員たちの中には、IQではなく別の何かで多様性を減らした別の集団の中での多様性や共生を自然に実現する人々が、一定の割合で現れるだろう。他の特性や志向性を持った人々の集団、たとえばフェミニストやLGBTQや障害者の集まりからからも、そういう人々が一定の割合で現れてきたのと同じように。その人々が少しずつ世の中を変えていく成り行きには、希望を託してよさそうな気がする。
誰もが、自分が持って生まれるものを選べない。時代も親も家庭も性別も選べない。与えられたものを使って、試行錯誤を重ねていくだけだ。そして、「選べない」ものが不幸をもたらすことは、誰もが選べない以上は避けようとするのが人道だろう。
「生まれた後なら選べるものもあるのだから自己責任」という考え方もあるけれど、自己責任のもとで何を選ぶことができるのかを含めて、あらゆる人が実は狭い選択肢しか与えられていないのだと思う。せいぜい、「今日、昼食に使える200円の範囲で、コンビニおにぎりの何を選ぶか」程度の選択肢だ。
選べない中で、選べるものは選び、小さな満足や達成を積み重ねていく。誰もが、そうしている。高IQでも、そういうふうに生きて悪いわけはないはずだ。
自分と共通するところのある人々との出会いや交流の中に閉じこもってしまうのは、どういう共通点があっても良くない。だけど、仲間とのつながりは必要だ。高IQだからといって、「私は一人ではない」と実感してはならないはずはない。
私は、持って生まれた高IQという特性が自分を不幸にせず、結果として自分の周囲の不幸も減らせるように、Mensaと仲間たちとの出会いを活かしていきたい。
なぜ小中の(高は知らん)フリースクールには学校法人の認可を受けたところがないのか?
フリースクールを運営しています。現在は株式会社ですが、学校法人取得に向けて動いています。現在、学校法人のフリースクールやってらっしゃるところありますか?デメリットありましたか?
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14289836444
回答者が揚げ足とっているが、この質問者の立てたい学校像自体は想像がつく。
ようは不登校みたいな事情がある人間も含めて対象年齢の人間を誰でも受け入れ、卒業資格を与えることもできるような学校が作りたいのだろう。
それを本来の用法に反してフリースクールだと言っているのは、今の私立や中高一貫等の特殊な公立学校には試験を課してないところがひとつたりともないからだろう。
大学には放送大学という入学条件が無試験で学位を与えることができる学校が存在しているのに、中高ではあっちゃいけないという理屈はないよなあ。
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社会構造・政治・経済・生活インフラの観点から整理してまとめると、こんな感じになります。
• 毎年4万件以上の銃による死者
•学校、教会、スーパー、音楽フェス——どこでも銃撃事件が起きる
→ 一つの国に“価値観の異なる2つの国家”が同居している状態
•水道管が鉛だらけ(フリント水害問題)、電力網が崩壊(テキサス州大停電)
→テック大国に見えて、生活インフラは発展途上国レベルの場所もある
•ホームレスが増加する一方で、隣の高層マンションでは年収3000万の暮らし
•中流家庭でも家賃・医療費・教育費に耐えられず転落するケース多数
→ 実質“資本制カースト社会”。社会移動が困難になりつつある
•社会保障は州ごとに差があり、「どこに住むかで生存権が変わる」
•労働は即解雇OK(at-will雇用)、退職後の医療保障もない場合が多い
→ 「助けない国」。個人主義が極まりすぎて、“国家としての温度”が低い
7. 住むには高すぎるコスト
8. 実は“選ばれた人だけの国”になっている
• 大多数は「必死に生きるか、転落するか」の社会構造に巻き込まれる
→夢の国だったアメリカは、すでに“能力・金・運”が揃った人だけが勝てる国に変貌済み
結論:
今のアメリカは「極端な自由と極端な格差が共存する、不安定なハイリスク国家」。
見た目は先進国、中身は分断国家。生きるには強さか運が必要な国。
君が「ここには行きたくない」と思うのは、超正解。
一般的には、日本の学年制度では4月1日から翌年3月31日までの期間に誕生日を迎える子供が同じ学年になります。10歳の子供の場合、通常は小学4年生ですが、以下のようなケースではそれ以外の学年に所属している可能性があります。
考えられるケース:**
🤗
やめてください!😡
一般的には、日本の学年制度では4月1日から翌年3月31日までの期間に誕生日を迎える子供が同じ学年になります。10歳の子供の場合、通常は小学4年生ですが、以下のようなケースではそれ以外の学年に所属している可能性があります。
考えられるケース:**
🤗
一般的には、日本の学年制度では4月1日から翌年3月31日までの期間に誕生日を迎える子供が同じ学年になります。10歳の子供の場合、通常は小学4年生ですが、以下のようなケースではそれ以外の学年に所属している可能性があります。
**考えられるケース:**
- **早生まれや遅生まれの影響**: 年齢は10歳でも、誕生日が学年の区切りと関係していて、小学3年生または5年生である場合。
- **海外の教育制度**:海外の学校に通っていて、日本の学年と異なる場合。
- **飛び級や留年**: 何らかの特別な事情で学年を変更している場合。
講師歴は2年ないぐらい(2023年9月から講師を始めた)。中学校と高校をそれぞれ1校ずつ経験してみた。その中で、高校生を相手にする大人としては自分は甘すぎるんじゃないかということに気づき、大学時代からの夢だった高校教諭の道を諦めた。2023年度に勤務していた中学校がかなり大変なところで、そこで適応障害になりながらもなんとかやりきった達成感が忘れられなかったというのもある。あと、今年度勤務している高校もかなり大変なところで、転学者退学者停学処分者の対応に追われている同僚たちを見て、「これは無理だ!」と思った。
とにかく経歴として大変なところでの勤務歴しかないし、自分自身県内でも「治安が悪い」とよく言われる地域に住んで公立学校に通っていたので、いわゆる困難校に配属されるのは火を見るより明らかだった。実際電話がかかってきた学校は数年前にちょっとしたトラブルがあり、今でも時々その対応に追われているような学校。困難校だし副担任スタートだろうな、と思っていたが、先日校長と面談したら担任をやってもらおうと思っていると言われてしまった。
ここで問題なのは、自分は今まで副担任の経験しかなく、かつ副担任という立場を最大限利用して、「優しい先生」というポジションを獲得していたことだ。
こんなことは自慢にも何にもならないが、特に今年度は怒られた生徒や言いたいことを言えない生徒のアフターフォローに徹した。担任より自分のほうが生徒と年齢が近く、本音で話しやすかったらしい。ありふれた日常生活の愚痴を聞くこともあれば、かなり悩んでいる生徒に真面目に返答したこともあった。そうやって「優しい先生」という印象を持たせて好かれる対象になっていく度に、絶妙な居心地の悪さを感じざるを得なかった。私のそれはいつも「怒る誰か」「分かってくれない誰か」がいないと成立しないからだ。
「分かってくれない誰か」になるつもりはない。担任だからこそ、(特に受け持つクラスの)生徒に最大限に寄り添って、信頼関係を築きたいと思っている。
しかし、担任である以上は怒らないといけないということも自分自身理解している。
本当に怒るのが苦手だ。自分が学生だった時代に怒られるのが苦手だったせいか、怒られたあとのあの居心地の悪さやモヤモヤ感を想像して、怒るに怒れなくなっていく。
授業で生徒が寝まくっていても、起きている生徒を褒めること、軽口っぽく「起きなさい!」と肩を叩いて生徒らを起こして回ることで対処してきた。私語がひどい生徒は退場させてもかまわない、と高校では教わったが、結局一度も退場させることはなかった(退場させたほうが絶対いいだろうなと思う場面はあった)。
今後もこれでいいよなと思う反面、怒る場面は怒らないとメリハリがなくなるよなとも思う。しかし怒り方が分からない。人権を侵害するような発言、人の命を軽んじる行い、法に触れる行為には厳しく対処していくつもりだ。しかし厳しく対処する過程で、怒らないとどうしようもない時に怒れるだろうか、と今から心配している。
怒らずにいい担任になれるだろうか。
ネット上の、特に創作とかが関わる分野で否定的に言われる、議論の悪しき形式としての「学級会」仕草。他の分野でもあるのだろうが。
用法の通り、小学校の「学級会」の記憶がめっちゃネガティブにしか働いてない人が多すぎる。まあ私もそうなのだが。
普通に考えたら、少なくとも公立学校の10歳とか12歳の子どもに、「民主的」な制度なんて運用できない。私立とかはわからないが。
普段の友人・好き嫌い関係の延長か大人の顔色伺いにしかならない。「それじゃだめなんだよ」という逆説的な理解も難しい。だって議長でも会長でも有識者でもなく中立的でもなく贔屓すらする謎の第三者「先生」がいるから。
これは茶番であり・背景に大人がいるからやってるだけだと、頭のいい子供は察するだろうし。大人がやらせたいだけ。「民主的」だったことにしたいだけ。
だがもっと悪いことに、ネット上・「界隈」の学級会には先生なんていない。オブラートもフィルターもない。快不快が直結する。
本当に、「ここまで「問題」(問題ではない)のこと考えてんの私だけ!」「今○×って言いましたァ〜!?」「なんでわかってくんないの!?」「ちょっと今の発言を聞いた~?」って揚げ足取りやクソしょうもない言質の取り合い、慇懃無礼の擦り付け合いしかない。
それがわかってるのに、なぜかやたら人が巻き込まれ、公のことでも何でもないのに「そうだったことになる」ことすらあったりする。知らんがなとしか言いようがないのだが。
「巻き込まれたくないが、意識せざるを得ない」というそれ実質参加させられてんのと同じじゃんという場面すら生じうる。
当人たちには真面目な議論のつもりでも、少なくとも後から「あれは『学級会』だったね」と振り返られるなら何かが間違ってたということだ。
学級会仕草はその狭い(他者にはどうでも良い)界隈を腐敗させる。ネットの言論も腐敗させる。空気を腐敗させる。
どうしたらいいんだろうか。いやどうしようもないというあきらめもある。「「学級会仕草をやめるには」という学級会」の開催みたいな本末転倒な事態すら招きかねない。
ここまでくると、小学校でむしろ「学級会」という不毛な記憶を植え付けないでくれ、とすら思っている。(小学校でドッジボールやらせるなの亜種になりそうだが……)
車に向かってペコペコしながら小走りに渡る歩行者をよく見る。
非常に不愉快
下級国民のワタクシのために上級国民であらせる自動車運転手様がわざわざブレーキを操作し停止して下さった
「おいこら下級歩行者め、邪魔だジャマだ、お車様が通る、道を譲れ」
となる
戦後モータリゼーションが始まってから3世代、4世代でこの道路文化をやってる
これまで歩行者で虐げられていたが今後はクソ歩行者を蹴散らして走るゾ、その権利を手に入れた、となる
「手を上げて渡りましょう」
で、日本の交通事故が諸外国と比較して顕著に少ないならいいんです、政策として正解なんだけど
実に愚かな国だなぁと
ちなみに2016年のデータ
歩行中(轢き殺された人) 1644人
同、アメリカ
歩行中(轢き殺された人) 5987人
日本以外では堂々と横断するのが当たり前で、その権利があると子供の頃から叩き込む