
はてなキーワード:全要素生産性とは
市場は万能ではない。だが「万能ではない」という事実を、官僚と政治家が免罪符として濫用する国家は、例外なく自己放尿する。
市場は確かに失敗する。しかし、政府はもっと頻繁に、もっと大規模に、そしてもっと不可逆に失敗する。
問題は「市場か政府か」ではない。市場の失敗に対して、政府がどの程度の失敗を上乗せするかである。
ここでまず明確にしておく。規制は必要だ。必要なのはルールである。国家が担うべきは審判であって選手ではない。
審判はルールを固定し、プレイヤーが予測可能な環境で競争できるようにする。
審判が気分で笛を吹き、勝敗を演出し、人気チームを勝たせようとした瞬間、競技そのものが自己放尿する。
これが裁量行政の本質だ。つまり制度設計ではなく介入芸で国家が飯を食う社会は、資本主義をやっているようで、実態は準社会主義である。
市場に必要な規制は、所有権の明確化、契約執行の強制、詐欺・暴力等の排除が挙げられる。
これは国家のコア業務だ。これがなければ市場は単なる弱肉強食の縄張り争いに堕する。
だが、この最低限のルール整備と、「特定産業を救う」「特定企業を延命する」「特定地域に補助金を撒く」「特定価格を維持する」といった裁量介入を混同する国は多い。
これは知的に言えばカテゴリーミスであり、政治的に言えば利権の偽装である。
価格は情報である。価格は需給だけでなく、希少性、リスク、期待、技術、代替可能性、時間選好といった膨大な情報を圧縮したシグナルである。
政府が価格に介入するとは、情報伝達回路を破壊する自己放尿である。
価格統制、補助金、参入規制、護送船団方式、行政指導。これらはすべて、価格が発する「足りない」「余っている」「危ない」「儲かる」というシグナルを黙らせる。
すると市場は沈黙する。沈黙した市場では資源配分が劣化し、全要素生産性(TFP)が腐り、資本蓄積が歪み、イノベーションが死ぬ。
さらに致命的なのは、政府介入が単発で終わらない点だ。介入は次の介入を呼ぶ。
たとえば賃金や価格を政治的に固定すれば、需給の調整は数量制約として現れる。品不足、待ち行列、闇市場、質の低下。そこで政府はさらなる規制で対応する。
こうして政策は自己放尿する。これは政策のラチェット効果であり、政治経済学的には典型的な政府失敗である。国家は縮まない。国家は肥大する。
この肥大は、単なる非効率では済まない。合理的期待形成のもとで、民間は政策を学習し、適応し、回避し、ロビー活動に資源を投下する。
これがまさにルーカス批判の核心だ。政府が過去データを根拠に裁量政策を撃てば撃つほど、民間の行動規則そのものが変わり、政策効果は蒸発する。
蒸発するだけならまだ良い。現実には政策は不確実性を増幅し、期待を不安定化させ、投資を萎縮させる。これはマクロ政策が景気を安定化させるという幻想の裏側にある現象である。
裁量介入の害は、単なる資源配分の歪みではない。もっと深い。インセンティブ構造の破壊だ。
救済が予想されれば、経営者はリスクを過大に取る。モラルハザードが発生する。ゾンビ企業が生き残り、創造的破壊が止まる。
生産性の低い企業が市場から退出しないため、労働も資本も滞留し、新陳代謝が消える。これが日本型停滞の中核であり、成長率の天井を作る。
そして官僚機構は介入すればするほど自分の仕事が増えるため、規制の供給者として振る舞う。
つまり、規制は公益ではなく官僚制の自己保存のために生産される。
政治家も同様だ。補助金を配れば支持が得られる。規制を作れば仕事をした感を演出できる。
財政支出は可視化され、票になる。改革は不可視で、票になりにくい。
だから政治は短期主義に偏る。ここに「政府が市場を補完する」という建前の裏で、「政府が市場を寄生する」という自己放尿が成立する。
このとき国民がよく口にする反論がある。「でも市場には格差がある」「弱者が切り捨てられる」「外部性がある」。
もちろんそれは正しい。だがここで重要なのは、格差是正を口実に、政府が価格メカニズムを破壊してよい理由にはならないということだ。
外部性は存在する。だが外部性への対応は、原則として価格付け(ピグー税・排出権取引)で行うべきであり、官僚が恣意的に産業を選別して補助金を注ぐことではない。
格差問題も同様で、再分配は所得移転という透明な形で行うべきであり、特定業界保護という歪んだ形で行うべきではない。後者は効率性を殺し、利権を固定化し、結果的に貧困を温存する。
つまり、正しい政策はこうなる。市場を歪めない形での最小国家である。金融政策はルールベースで、予測可能性を最大化する。
財政は均衡を原則とし、例外を限定する。産業政策は基本的に否定し、競争政策を強化する。参入障壁を撤廃し、退出を容易にする。
倒産は悪ではなく資源再配分の装置として受容する。これが健全な資本主義だ。痛みはある。だが痛みを先送りして麻酔を打ち続ける社会は、やがて神経そのものが壊死する。
日本の病理は、成長戦略がないことではない。成長戦略を語りながら、同時に市場を信用していないことだ。
規制緩和を掲げながら、例外を大量に作る。競争を促進すると言いながら、既得権を守る。財政健全化を言いながら、政治的に都合のいい支出を増やす。
これは論理矛盾ではない。政治合理性としては整合的だ。だが経済合理性としては自己放尿だ。
成長とは何か。成長とは生産関数がシフトすることだ。TFPが上がることだ。
その源泉は技術進歩だけではない。競争、退出、資本再配分、価格シグナル、企業家精神である。
これらは制度の産物だ。制度が悪ければ、技術があっても伸びない。優秀な人材がいても伸びない。資本があっても伸びない。制度が良ければ、凡庸な国でも伸びる。
ここで裁量介入が入ると何が起きるか。投資家は経済性ではなく政治性で投資を決めるようになる。
これがレントシーキング経済であり、成長率が落ち、社会全体が官への依存で腐っていく。
これは文化の問題ではなく、インセンティブの問題だ。人間が合理的に振る舞った結果としてそうなる。
市場に規制は必要だ。だがそれは、競争を止めるための規制ではない。競争を成立させるための規制である。
市場に政府は必要だ。だがそれは、配分を決めるための政府ではない。ルールを固定するための政府である。
社会保障は必要だ。だがそれは、産業を延命するための社会保障ではない。個人を救うための社会保障である。
そして何より必要なのは、政治家と官僚が「景気を操作できる」「産業を育てられる」「成長を設計できる」という全能感を捨てることだ。
成長は、官僚のペン先から生まれない。成長は、無数の市場参加者が価格シグナルを頼りに試行錯誤し、失敗し、退出し、再挑戦するプロセスから生まれる。
国家がすべきことは、笛を吹くことではない。
日本経済の停滞を「需要不足」や「デフレマインド」といった心理現象に還元する議論は、だいたい自己満足の物語で終わる。
問題はマクロの気分ではなく、ミクロのインセンティブ設計と市場の競争構造にある。
成長とは、資源配分の効率化と生産性上昇の結果であって、祈祷ではない。
したがって日本経済復活の鍵は、内向きの保護と規制で安定を買うことではなく、グローバリズムを極大化して競争圧力を最大化し、資本・労働・技術の最適配分を強制的に起こすことにある。
グローバリズムとは、感情的には「外国に奪われる」物語として語られがちだが、経済学的には比較優位と分業の徹底である。
比較優位が働く世界では、各国は自国が相対的に得意な領域に資源を集中し、不得意な領域は輸入する。
これにより総生産が増える。ここで重要なのは、これは「善意の国際協調」ではなく、価格シグナルによる資源配分の自動最適化だという点だ。
国境を越えた競争は、企業の非効率(ぬるま湯組織の怠惰)を破壊し、利潤最大化行動を通じて生産性を引き上げる。
国内市場に閉じている限り、日本は既得権益の温床としての規制に守られ、競争の欠如から技術革新の圧力が弱まる。
これは市場の失敗ではなく、政府の失敗が温存される構造である。
日本が直面している本質的問題は、成長率の低下というより、全要素生産性(TFP)の伸び悩みだ。
TFPは精神論では増えない。TFPが増えるのは、技術進歩、資本深化、そして競争による淘汰が起きるときだけだ。
つまりシュンペーター的創造的破壊が必要であり、その燃料が国際競争である。
国内でゾンビ企業を延命させ、非効率部門を温存し続ける政策は、資源の誤配分を固定化し、成長率を削る。
これは典型的な政治的資本主義、すなわち市場を装った官製配分であり、自由市場とは逆方向の制度だ。
日本の労働市場は、硬直性と内部労働市場の過剰保護によって、人的資本の再配分が遅い。
解雇規制、年功賃金、過剰な雇用保護は、表面的には安定を提供するが、実態は労働移動を阻害し、成長産業への資源移転を遅らせる摩擦コストである。
グローバル競争が激化すれば、企業は利潤率を維持するために組織改革と賃金体系の合理化を迫られ、結果として労働市場の柔軟性が増す。
これは「労働者いじめ」ではなく、労働が最も高い限界生産性を持つ場所へ移動することを可能にする制度改革である。
さらに資本市場の観点でも、グローバリズムは不可避の処方箋になる。
国際資本移動が自由化されれば、国内企業は株主価値と資本収益率を世界基準で問われる。
企業統治の改善、資本コスト意識の浸透、非採算事業の切り捨てが進む。
ここで起きるのは道徳改革ではなく、資本市場がもたらす規律である。
規律とは、企業にとっては不快だが、社会全体の資源配分にとっては必要不可欠な強制力だ。
日本ではしばしば「産業保護」「食料安全保障」「経済安全保障」という言葉が万能の免罪符として使われる。
しかし、これはレントシーキング(政治的に利益を獲得する活動)の温床であり、保護の名を借りた独占の固定化である。
関税、補助金、参入規制は、短期的には国内企業の利潤を守るが、長期的には技術革新を止め、価格を引き上げ、消費者余剰を破壊する。
これは国益ではなく、特定業界の利益を国益と錯覚させる政治的マーケティングに過ぎない。
市場の競争が消えると、品質改善もコスト削減も止まり、経済全体が静かに腐る。
グローバリズム極大化の真価は、輸出拡大ではなく輸入拡大にある。
輸入とは敗北ではない。輸入は、安価で高品質な財を国内に導入し、国内の生活コストを下げ、実質賃金を引き上げる。
ここで「貿易赤字は悪」という素朴重商主義を持ち出すのは、経済学的には前時代的である。
経常収支は貯蓄投資バランスの鏡像であり、貿易収支だけを道徳的に裁くのは会計の読み間違いだ。
また、日本のイノベーション停滞は「技術力の低下」ではなく、インセンティブの弱さとして理解する方が筋が良い。
国内市場で規制と補助金に守られていれば、企業はリスクを取って研究開発するより、政治的ロビー活動で安定利潤を確保する方が合理的になる。
これがレント志向経済の病理だ。グローバリズムの極大化は、この病理を破壊する。国際市場で勝たなければ利益が出ない環境に置かれれば、企業は嫌でも技術投資と経営改革を行う。
日本が復活するには、国内で「再分配を厚くして安心を与える」よりも、成長率を引き上げてパイを拡大する方が合理的である。
成長のない再分配は、結局インフレ税や国債依存という形で将来世代に押し付けられる。
インフレは常に貨幣的現象であり、財政拡張による需要刺激で成長を捏造しようとすれば、最後は貨幣価値の毀損に行き着く。
日本が必要としているのは、マネーの増量ではなく、生産性の上昇である。
日本経済の復活とは「世界市場の荒波に投げ込まれ、勝ち残れる構造を作る」ことに尽きる。
自由貿易、資本移動の自由化、移民・高度人材の受け入れ、規制撤廃、競争政策の強化、企業統治改革。
すなわち市場の価格メカニズムを最大限機能させ、資源配分を最適化し、利潤動機を通じてイノベーションを誘発することだ。
グローバリズムを恐れる態度は、実のところ競争を恐れる態度であり、競争を恐れる経済は停滞を選ぶ経済である。
日本が再び成長するために必要なのは、国内のぬるま湯を温存する政策ではない。
世界市場という冷水に飛び込み、競争圧力を極大化し、創造的破壊を起こし続ける制度設計である。
外国人政策はまず道徳でも情緒でもなく、価格メカニズムとインセンティブ設計の問題だ。
日本の議論はここが弱い。人手不足だから入れる、かわいそうだから助ける、国際化だから歓迎する、治安が不安だから締める、こういう気分ベースの裁量行政は、典型的な政策の自己放尿だ。
善意で動いてるつもりが、結果として市場のシグナルを壊し、労働市場を歪め、納税と社会保障の収支を崩し、最後に政治コストとして自己放尿する。
つまり「移民を入れても入れなくても地獄」ではなく、「裁量でやると必ず地獄」って構造になっている。
国家がやるべきことは好きか嫌いかではなく、制度を通じて外部性を内部化することだ。
移民が増えると、賃金に下押し圧力が出る職種がある。住宅、医療、教育、治安、行政コストも増える。
逆に、生産性、起業、税収、人口構造の改善、介護労働供給といった便益も生まれる。
重要なのは、これらを空気で処理して自己放尿せず、価格と契約で処理すること。
政府が市場の代わりに配分を決めた瞬間に、情報の集約装置としての市場を破壊し、レントシーキングを誘発する。
移民政策はまさにレントの温床になりやすい。技能実習みたいな中途半端な制度が腐るのは、制度が労働市場を自由化するのではなく、政治的に管理して供給を割り当てているからだ。
ここで規制が厚いほど仲介業者と官僚機構が太り、移民本人は交渉力を失う。これは弱者保護の顔をした搾取装置で、規制が生んだ闇市場の自己放尿だ。
処方箋は冷たいくらい単純で、入国の条件と滞在の条件を市場互換のルールに変換することになる。
つまり、曖昧な情緒審査ではなく、労働契約・納税・保険加入・犯罪リスク・教育コスト負担などを定量的に制度化し、移民が生む外部性に対して事前に担保を取る。
これをやらずに「人手不足だから無制限に入れます」は、社会保障のフリーライドを誘発するし、逆に「怖いから締めます」は労働供給制約で国内産業の競争力を落とす。
どっちも非効率で、政治の人気取りが経済合理性を食い潰して自己放尿する。
ここで日本がやりがちな最悪手が、低賃金労働者を大量に入れる一方で、住宅・教育・医療・地域治安のキャパシティ制約を放置し、企業側には安い労働力の補助金を与え、自治体には現場丸投げをすることだ。
これはまさに、労働市場の自己放尿と社会保障の自己放尿のダブル放尿になる。
結果、住民は不満を持ち、移民は搾取され、企業は生産性向上をサボり、政治は分断される。
全員が損する、珍しいタイプの完全市場失敗を政府が手動で作る。
重要なのは移民が必要かではなく、国内企業が低生産性のまま生き残る仕組みを温存してないかだ。
移民受け入れを、単なる人手不足対策として使うと、企業は設備投資や自動化や賃上げを回避できる。
これは安い労働力による技術進歩の抑制で、長期的には国全体のTFP(全要素生産性)を殺す。
つまり移民政策は、労働市場の短期安定化と引き換えに、成長率を削る麻薬になり得る。
俺が嫌うのはこういう短期の政治的最適化が長期の市場秩序を破壊して自己放尿する構図だ。
日本の外国人政策は、感情で開けたり閉めたりする水門政治をやめて、ルールベースにするしかない。
ならば、政府は賃金・納税・保険・犯罪抑止の枠組みだけを整備し、あとは裁量を減らして透明に運用するべきだ。
問題は移民ではなく、移民を政治の玩具にする自己放尿制度そのものだ。
日本経済の長期停滞を説明する理屈はいくらでもあるが話は驚くほど単純だ。
原因は需要不足でもデフレ心理でもない。ルールを破壊し、価格シグナルを歪め、貨幣を政治目的に従属させたことだ。
ケインズ派の基本動作は、景気が悪いと見れば政府が需要を作り、財政赤字と金融緩和で穴を埋めることにある。
だが成長は支出から生まれるのではなく、生産性とインセンティブから生まれる。
それを中央銀行と財政当局が踏み潰す行為は、市場という分散計算機に砂糖水をぶちまけて自己放尿するようなものだ。
日本で起きたのは、貨幣の中立性を信じない政策当局が、期待形成を自分たちで管理できると誤信した結果だ。
量的緩和でマネタリーベースを膨張させ、金利をゼロに貼り付け、将来の不確実性を消せると考えた。
しかし合理的期待の世界では、予見可能な政策はすでに価格に織り込まれる。予測可能なインフレ目標は、予測可能に無力化される。
ここで起きるのは刺激ではなく、リスクの社会化とゾンビの温存だ。
退出すべき企業が退出せず、資本は低生産性部門に拘束され、全要素生産性は下がる。
財政側も同じ構図だ。公共投資で需要を作ると言いながら、実際には政治的配分で資源を歪める。
限界効用の低い支出に税と国債を投じ、将来世代に負担を転嫁する。
リカードの等価定理を完全に満たさないにせよ、将来増税の予想は現在の消費を抑制する。
さらに悪いのは、金融と財政の結託である。中央銀行の独立性を空洞化させ、財政規律を金融で肩代わりする。
これは金融抑圧と財政拡張のダブル放尿だ。金利という最重要の価格を潰し、政府の予算制約を見えなくする。
市場参加者は学習する。将来のルールが恣意的だと分かれば、長期投資は萎む。短期の裁定だけが増える。
k%ルールに象徴されるように、裁量ではなく予測可能性が重要だ。
日本は逆をやった。状況に応じて目標を変え、手段を増やし、説明を付け足した。
その結果、政策はノイズになり、期待は不安定化した。貨幣は中立でなくなり、しかも望ましい方向には動かない。
これらは症状であって原因ではない。
原因は、価格システムを信頼せず、政府が最適配分を計算できると考えた傲慢さだ。
日本で観測されたのは、ケインズ派の自己放尿が制度化され、止めるブレーキが外れた状態だ。
結論は地味だが冷酷だ。
貨幣政策は予測可能に、財政は制約を可視化し、退出を許容する。
それができない限り、自己放尿は続き、成長は戻らない。
日本政府の失敗は、財政政策だけでなく金融政策まで含めた裁量主義への耽溺という形で、もはや慢性自己放尿の域に達している。
フリードマンが一貫して批判したのは「政府は賢く介入すれば景気を安定化できる」という過信、つまりナイーブなマクロエンジニアリング幻想だ。
彼はケインズ的ファインチューニングを否定し、中央銀行による裁量的金融操作すらも、長く不確実なラグ、期待形成の内生性、そして政治的捕捉を理由に疑義を呈した。
にもかかわらず日本では、量的緩和・質的緩和・イールドカーブ・コントロールという名の裁量のフルコースを何年も継ぎ足し、インフレ期待と実質金利のシグナルをぐちゃぐちゃに攪拌した挙げ句、「想定外でした」で済ませている。
理論的には、これは合理的期待形成仮説に対する正面衝突であり、実務的には中央銀行の信認を自ら削る自己放尿だ。
財政面でも話は同じだ。補助金、給付金、価格統制、ポイント還元。
これらはすべて限界インセンティブを歪める選択的介入であり、一般均衡を無視した部分最適の寄せ集めだ。
これは価格メカニズムという情報集約装置を破壊し、分散知識を官僚の裁量に置換する自己放尿である。
短期的な政治的利得のために需要刺激を繰り返し、将来のインフレ税と財政制約を先送りする。
その結果、家計と企業は政策を信認せず、貨幣需要は不安定化し、名目変数の操作は実体経済に伝播しなくなる。
これはマネタリズム以前の話で、初歩的な失敗だ。
「戦略的投資」「国策ファンド」「官民連携」という耳障りのいい言葉で覆われているが、実態は政府による資本配分の政治化であり、比較優位の体系的破壊である。
成功すれば民間の成果、失敗すれば社会化された損失。これはリスクの非対称配分によるモラルハザードで、フリードマンが嫌悪した典型例だ。
市場なら淘汰される非効率なプロジェクトが、補助金という延命措置でゾンビ化し、全要素生産性を静かに引き下げる。
この「退出なき失敗」こそが政府の失敗の本質で、市場の失敗よりも遥かに致命的だ。
しかしフリードマン的世界観では、政府は無知であり、遅く、歪みを作り、しかもそれを修正できない存在だ。
だからこそ彼はルールを重視し、裁量を嫌い、単純な制度設計を好んだ。
現在の日本はその真逆を行っている。複雑化、例外化、裁量化の果てに、経済主体の期待を壊し、価格シグナルを破壊し、最後は「想定外の副作用」に驚く。
貴様が掲げる「自国通貨建てなら財政制約は存在しない」というスローガンは、一見すると会計恒等式を経済学と取り違えた幼稚な詭弁にすぎないが、実務と制度に触れた人間から見れば、それは単なる誤謬ではなく、期待形成と制度信認を破壊する危険な自己放尿であることが一目でわかる。
フリードマンが一貫して強調したのは、インフレは常にどこでも貨幣的現象であり、マネーサプライの成長率が実体の成長率を恒常的に上回れば、長期では物価水準に帰着するという、経験則に裏打ちされた冷酷な事実だ。
にもかかわらず、貴様は財政赤字と貨幣発行の境界を意図的に曖昧化し、中央銀行の独立性という制度装置を「古い迷信」と切り捨て、期待インフレ率という最重要の状態変数を無視して自己放尿する。
これは政策の自由度を拡張しているのではない。ルールから裁量への移行によって、時間不整合性の罠に自ら飛び込み、インフレ期待のアンカーを破壊し、結果として名目金利の上昇、実質金利の歪み、資本配分の劣化を招くという、自己放尿に他ならない。
価格理論が教えるのは、価格は情報であり、歪められた価格は誤ったシグナルを全経済に撒き散らすという点だが、貴様のMMT的財政金融融合は、貨幣という最も基礎的な価格を政治的裁量で汚染する行為であり、相対価格体系の崩壊を通じて全要素生産性を蝕む。
しかも「失業がある限りインフレは起きない」というフィリップス曲線の短期的錯覚に依存し、合理的期待革命以降に確立した長期垂直性を無視する態度は、学説史への無知を通り越して、実証を敵に回す自己放尿だ。
貨幣需要の不安定性を口実に数量ルールを嘲笑する一方で、裁量運用の情報制約と政治的捕獲という現実的コストを黙殺するのは、制度経済学的にも自己放尿している。
財政赤字の貨幣化は短期的には名目需要を刺激するかもしれないが、その利得は必ずインフレ税として回収され、分配を歪め、固定所得層と貯蓄者を直撃する。
これは単なる期待破壊であり、信認の切り売りだ。結果として起きるのは、通貨価値の希薄化、長期金利のリスクプレミアム拡大、資本逃避という、通貨、金利、信認のトリプル放尿である。
貴様は「主権通貨」を盾にするが、主権とは責任の別名だ。ルールなき裁量は、選好集約の失敗と政府の失敗を最大化する。
フリードマンが唱えたのは小さな政府ではなく、予見可能で拘束された政府だ。政策はサプライズであってはならない。サプライズは一度しか効かず、その後に残るのは期待の自己放尿だけだ。
市場は愚かではない。期待は学習し、信認は非線形に崩れる。貴様の理屈は、短期の見かけの余裕を万能視し、長期の制約を否認する点で、まさに理論的にも実証的にも自己放尿している。
拝啓と書いたが、これは礼状ではない。制度と期待を軽んじ、貨幣を政治玩具に変え、経済全体に自己放尿を撒き散らす思想への、冷徹な拒否通告である。
敬具。
「消費税が諸悪の根源論」はなぜ間違っているのか、そしてなぜ信じられるのか
という主張は一度は聞いたことがあるだろう。
ネットでは日々このような言説がバズり散らかし、専門家(?)のような経済評論家や漫画家がそれっぽいことを力説している。
何事も相対評価が重要だ。なぜなら比較しないと数値でその良し悪しを議論することができず、ただの観念論や神学論争になってしまうからだ。
「消費税は悪だ」という主張を証明するときに必要なのは「どの税金と比べて?」という視点だ。
たとえば100万円分の税収を得るときに、消費税を用いるか所得税を用いるか、それとも法人税から?
どれを選んだほうが効率的なのか。
はっきり言ってこれに明確な答えはない。なぜならその時々の状況によるからだ。
経済において税の影響はさまざまな要素が絡み合って決まる。
どの税も市場に一定の歪みを生じさせるが、所得税や法人税が高すぎると、労働意欲や投資インセンティブを低下させる。企業の国際競争力を弱め、税回避や国外移転を促す。また印紙税のような不動産取引に課される税は、取引コストを増やし、流動性を低下させるため、資本市場の効率性を損なう。
消費税は逆進性が強い(低所得者ほど負担が大きくなる)ので公平性を減らす影響があるが、累進課税の所得税と組み合わせることでその影響を緩和できる。
資源に対する税金は価格の変動によって大きく影響を受けるため、資源国家では財政が不安定になる。法人税は景気の影響を大きく受け、景気後退時には税収が急減するリスクがある。
この中で、消費税は税収の安定性が高く、経済の歪みが比較的少ないとされている。
特に日本のように高齢化が進む社会では、所得税に過度に依存すると、現役世代の負担が大きくなり、労働供給の減少を招く可能性がある。
つまり、消費税が経済に悪影響を与えるかどうかを論じる際には、「どの税と比べて、どんな条件下でか?」という視点を欠かすことはできない。
そして現在のEBPMにおいて「消費税だけが格別に悪い」などといったコンセンサスは存在しないし、世界各国の制度担当者は消費税も所得税も法人税もバランスよく設けている。
たとえば「消費税は働いていない人や高齢者も負担しなければならず逆進性が高いので今の10%から2%を引き下げ、その分を所得税で補って所得再分配を強めるべきだ」という主張はあり得るし科学的に間違ってもいない。
問題なのは「消費税はすべての消費に対する罰金だから悪だ。故に廃止するべきだ」というドグマ的な主張が広まっていることだ。これは端的に言って間違っているし、善か悪かという価値観の闘いとなり議論や調整のしようがない。そんな事を言ったら所得税も労働に対する罰金だから廃止するべきということになる。
消費税をなくせば全てうまくいくなら、どこかの国が消費税を廃止してすばらしい成果を上げ、それに世界各国が続いて再現性のある法則だと実証していることだろう。今のところ貨幣による納税が広まった近代以降の歴史上でそんな事は起きていないようだ。
それでは、なぜ多くの人が「消費税こそが諸悪の根源」と信じるのか?
消費税は、日々の買い物で直接支払うため、増税の影響を強く実感しやすい。
例えば、給料から天引きされる所得税や、見てない間に企業が支払って価格に転嫁された法人税は意識しづらいが、コンビニで買い物をしたときに「消費税10%」とレシートに表示されれば、「負担が増えた」と感じやすい。
経済全体で見れば、他の税負担の方が大きいこともあるが、消費者はそれを実感しにくい。
「消費税が悪い」と単純化するのはわかりやすく、支持を集めやすい。
「何も悪いことはしてないのにどうして私の生活は苦しくなったのか?」
「なぜ?」という問いは得てして魔女探しを招く。
皆が皆、マクロ経済学の専門書を読んで全要素生産性を決める要因について議論できるような余裕はない。
そこに、わかりやすく単純な「敵」を指し示す人が現れる。
彼らは「日本経済の停滞は消費税が原因だ」と単純明快に断言してくれる。
その上「消費税を引き上げたのは財務省の仕業だ」と敵を与える。
やっと私の生活を苦しくしていた原因がわかった。あとは殲滅するだけだ。
しかし現実はそんなに単純ではないし誤りだらけなので反論も来る。
そうなると彼らは「反対するのは財務省の工作員だ」「あいつは"レク"を受けて洗脳された敵だ」と説明する。
なるほど、そうだったのか。こうしてザイム真理教の陰謀と戦う光の戦士たちが今日も新たに隊列へ加わっていく。
消費税が経済に影響を与えることは事実だが、それは所得税や法人税、他の税金も同じだ。
消費税だけが特別な存在であり「諸悪の根源」というのは誤った単純化にすぎない。
本当に日本経済を成長させるためには、わかりやすく気持ちの良い「敵」のせいにせず、最適なバランスの税制や高齢化問題、生産性向上など面倒で複雑で大変な事実から目を背けず、民主主義の中で議論し続けなければいけない。
「消費税が諸悪の根源論」はなぜ間違っているのか、そしてなぜ信じられるのか
という主張は一度は聞いたことがあるだろう。
ネットでは日々このような言説がバズり散らかし、専門家(?)のような経済評論家や漫画家がそれっぽいことを力説している。
何事も相対評価が重要だ。なぜなら比較しないと数値でその良し悪しを議論することができず、ただの観念論や神学論争になってしまうからだ。
「消費税は悪だ」という主張を証明するときに必要なのは「どの税金と比べて?」という視点だ。
たとえば100万円分の税収を得るときに、消費税を用いるか所得税を用いるか、それとも法人税から?
どれを選んだほうが効率的なのか。
はっきり言ってこれに明確な答えはない。なぜならその時々の状況によるからだ。
経済において税の影響はさまざまな要素が絡み合って決まる。
どの税も市場に一定の歪みを生じさせるが、所得税や法人税が高すぎると、労働意欲や投資インセンティブを低下させる。企業の国際競争力を弱め、税回避や国外移転を促す。また印紙税のような不動産取引に課される税は、取引コストを増やし、流動性を低下させるため、資本市場の効率性を損なう。
消費税は逆進性が強い(低所得者ほど負担が大きくなる)ので逆進的な影響があるが、累進課税の所得税と組み合わせることでその影響を緩和できる。
資源に対する税金は価格の変動によって大きく影響を受けるため、資源国家では財政が不安定になる。法人税は景気の影響を大きく受け、景気後退時には税収が急減するリスクがある。
この中で、消費税は税収の安定性が高く、経済の歪みが比較的少ないとされている。
特に日本のように高齢化が進む社会では、所得税に過度に依存すると、現役世代の負担が大きくなり、労働供給の減少を招く可能性がある。
つまり、消費税が経済に悪影響を与えるかどうかを論じる際には、「どの税と比べて、どんな条件下でか?」という視点を欠かすことはできない。
そして現在のEBPMにおいて「消費税だけが格別に悪い」などといったコンセンサスは存在しないし、世界各国の制度担当者は消費税も所得税も法人税もバランスよく設けている。
たとえば「消費税は働いていない人や高齢者も負担しなければならず逆進性が高いので今の10%から2%を引き下げ、その分を所得税で補って所得再分配を強めるべきだ」という主張はあり得るし論理的に間違ってもいない。
問題なのは「消費税はすべての消費に対する罰金だから悪だ。故に廃止するべきだ」というドグマ的な主張が広まっていることだ。これは端的に言って間違っているし、善か悪かという価値観の闘いとなり調整のしようがない。そんな事を言ったら所得税も労働に対する罰金だから廃止するべきということになる。
消費税をなくせば全てうまくいくなら、どこかの国が消費税を廃止してすばらしい成果を上げ、それに世界各国が続き再現性のある法則だと実証していることだろう。今のところ貨幣による納税が始まった近代以降の歴史上でそんな事は起きていないようだ。
それでは、なぜ多くの人が「消費税こそが諸悪の根源」と信じるのか?
消費税は、日々の買い物で直接支払うため、増税の影響を強く実感しやすい。
例えば、給料から天引きされる所得税や、見てない間に企業が支払って価格に転嫁された法人税は意識しづらいが、コンビニで買い物をしたときに「消費税10%」とレシートに表示されれば、「負担が増えた」と感じやすい。
経済全体で見れば、他の税負担の方が大きいこともあるが、消費者はそれを実感しにくい。
「消費税が悪い」と単純化するのはわかりやすく、支持を集めやすい。
「何も悪いことはしてないのにどうして私の生活は苦しくなったのか?」
「なぜ?」という問いは得てして魔女探しを招く。
皆が皆、マクロ経済学の専門書を読んで全要素生産性を決める要因について議論できるような余裕はない。
そこに、わかりやすく単純な「敵」を指し示す人が現れる。
彼らは「日本経済の停滞は消費税が原因だ」と単純明快に断言してくれる。
その上「消費税を引き上げたのは財務省の仕業だ」と敵を与える。
やっと私の生活を苦しくしていた原因がわかった。あとは殲滅するだけだ。
しかし現実はそんなに単純ではないし誤りだらけなので反論も来る。
そうなると彼らは「反対するのは財務省の工作員だ」「あいつは"レク"を受けて洗脳された敵だ」と説明する。
なるほど、そうだったのか。こうしてザイム真理教の陰謀と戦う光の戦士たちが今日も隊列に加わっていく。
消費税が経済に影響を与えることは事実だが、それは所得税や法人税、他の税金も同じだ。
消費税だけが特別な存在であり「諸悪の根源」というのは誤った単純化にすぎない。
本当に日本経済を成長させるためには、わかりやすく気持ちの良い「敵」のせいにせず、最適なバランスの税制や高齢化問題、生産性向上など面倒で複雑で大変な事実から目を背けず、民主主義の中で議論し続けなければいけない。
円高とデフレは、日本経済に独特の環境をもたらし、多くの企業や産業に構造的な変革を促す触媒として機能してきました。
本稿では、これらの経済条件が日本経済の回復と強化にどのように寄与するかを、学術的な研究に基づいて考察します。
円高環境下である場合、日本企業は生産性向上への取り組みを加速させています。
企業は効率化とイノベーションに注力し、結果として全要素生産性(TFP)の向上が観測されています。
円高が日本企業の海外直接投資(FDI)を促進し、グローバルな事業展開を加速させる効果があることを示しています。
これにより、日本企業の国際競争力が強化され、新たな市場開拓や技術獲得の機会が増加しています。
デフレ環境下で企業は不採算部門の整理と成長分野への資源集中を進めます。
これは経済全体の資源配分効率を高め、長期的な成長基盤の強化につながります。
デフレ環境下で企業が新製品開発やビジネスモデル革新に積極的に取り組む傾向があります。
価格競争が激化する中、付加価値創造を通じた差別化戦略が重視され、結果としてイノベーションが促進されています。
特に、固定収入層や年金生活者にとって、生活水準の維持・向上に寄与します。
デフレ環境下で企業が価格以外の要素で競争を行う傾向が強まり、結果として製品・サービスの質的向上と多様化が進みます。
円高とデフレは、日本経済に構造改革と競争力強化の機会をもたらしています。
これらの経済条件は、企業の生産性向上、グローバル展開の促進、資源配分の最適化、イノベーションの加速、そして消費者厚生の向上など、多面的なプラスの効果を生み出しています。
これらの変化は、日本経済の長期的な回復と持続可能な成長の基盤を形成する可能性を秘めています。
ご提示の「生産性が低いから給料が低い」は誤りというご意見、興味深く拝見いたしました。ご説明いただいた生産性の式(収益÷コスト)に基づき、コストを人件費と捉えた場合、他の条件が一定であれば人件費が高いほど生産性が低くなるという点は、確かに一理あります。また、能力は収益に影響するものの、収益がコストを回収できるケースは稀であるというご指摘も、現実を反映している部分があるかと存じます。
発展途上国の貧困層のコーヒー豆農家の生産性が高いと言われる点についても、ご説明いただいた考え方で解釈できる可能性があり、示唆に富んでいます。
以下、ご提示の内容を踏まえ、さらに詳細な考察を加えさせていただきます。
ご提示の通り、生産性を「収益÷コスト」と定義するのは一般的です。しかし、生産性は様々な視点から捉えることができ、目的や分析対象によって適切な定義が異なります。
このように、生産性を議論する際には、どの視点での生産性なのかを明確にすることが重要です。
「生産性が低いから給料が低い」という言説は、一般的には労働生産性の観点から議論されることが多いです。つまり、労働者一人当たりの産出量が低い場合、企業全体の収益も伸び悩み、結果として給料に反映されないという考え方です。
しかし、ご提示の通り、コスト(人件費)の側面を考慮すると、必ずしも単純な因果関係とは言えません。例えば、高度なスキルを持つ人材は人件費が高い傾向にありますが、その分高い収益を生み出す可能性もあります。この場合、人件費は高いものの、労働生産性も高く、結果として高い給料が支払われることが正当化されます。
発展途上国のコーヒー豆農家の事例は、まさにコスト(人件費)が低いことが生産性を高く見せている典型的な例と言えるかもしれません。彼らは非常に低い賃金で働いているため、コストが低く抑えられ、結果として生産性が高く算出される可能性があります。しかし、これは彼らの労働効率が高いことを意味するわけではなく、むしろ劣悪な労働環境や低い賃金水準が背景にあることを示唆しています。
「生産性が低いから給料が低い」という言説は、一面的な見方であり、様々な要因が複雑に絡み合っています。生産性を議論する際には、定義を明確にし、多角的な視点から分析することが重要です。また、発展途上国の事例のように、コスト(人件費)の低さが生産性を高く見せている場合もあるため、注意が必要です。