
はてなキーワード:先入観とは
この映画、なかなかのもんだな。
おそらくその原因は、映画冒頭のハイジャックのシークエンスがあるだろ?
あれを色んなところで見すぎて映画自体に対する印象が固定されてしまってたんだろうな。
変な先入観が出来ていた。
とくに印象に残ったのは、終盤にハサウェイがつぶやくじゃない?
「そうだよなクェス」とか、って。
あれがね、いいよね。
ゾッ、と、背筋に一瞬ゾゾゾ、ってするくらいに、ゾッとするんだよ。
おい、なんだよ、こいつ、きっちりとクェスの亡霊に取り憑かれてるんじゃないか……。
って。
ギギ・アンダルシアとセックスしようとしないのも、それのせいかよ?
なんだ色々と、大人の顔して悩んでるように見えて、お前、シャアとかと一緒で昔自分が殺してしまった少女の亡霊に取り憑かれてるだけなんじゃないか、、、って。
しまったね。
Amazonプライムで済まさずに、ちゃんとIMAXのリバイバル上映見に行くべきだった。
失敗した。
いや、1作目はかなりいい。
ただ、ちょっと導入のとっつきがあんま良くないのは仕方がないとは言え、もったいない。
なんだ、これ?みたいな演技があるじゃないギギ・アンダルシアとか。
あれがね、この映画の乗り越えなくてはいけないハードルになってるし、印象が悪くなる原因にもなってる。
仕方ないんだけどね。
でもいい映画だ。
これをつくるやつは2作目もいいもん作ってるに決まってる。
期待は高まるぞ。
日本公開を考えてタイトルつけれんか~という理不尽なツッコミをしつつ、思ったよりも好きな感じのゾンビものパロディ映画だった、63点
バーでハメを外して知らんイケメンの家で目が覚めたテレビカメラウーマンのデブ(デボラの略称)が男からさっさと家から追い出されると外はゾンビだらけに。イケメンと手を組み逃避行の末、イケメンの家に逃げ込むも実はこの騒動がイケメンの実家の問題だったことが分かり再び逃走、自警団による街の封鎖から逃げ出したりしつつテレビで街の実情を訴えたデブはなんだかんだで助かるのだった。
と、いうわけでデブっていうのは肥満体のデブじゃなくてデボラのデブで日本の配給会社がもうなんでもええわ!とヤケクソになってこのタイトルを付けたわけではなく、原題も「NIGHT OF THE LIVINGDEB」という出会いがしらの特大ノイズ。冒頭のバーのシーンでデブ(主人公)とデブ(肥満体)が一緒に飲んでるところから始まるから余計に混乱する。
で、この作品を完走できるかどうかはこのデブをどう感じるかによる。っていうかこの作品に出てくる奴ら全員ちょっとっていうかだいぶおかしくてその中でも主人公であるデブは自信過剰で自意識過剰で空気が読めないイカれたクソポジティブオタクっていうドカ盛り属性でメチャクチャウザい。こいつをウザ面白いと思えなかったら90分もたないと思う。
一方でヒロインになるイケメンも過剰に意識高い系で顔に自信がありすぎるし、なんか常に髪を直してる。これは日本でいうところのアイドル主演映画で顔には汚しが入るのに髪がサラサラみたいなののアメリカ版パロディなんだろうな。
感じ悪い金持ちや権力者、なんか調子乗ってる自警団気取りの奴らと映画あるあるがどんどん登場する。
そんなこんなであるあるネタでカリカチュアされすぎた奴らがゾンビ映画をパロディし続ける映画。
笑いもしょうもない小ネタをひたすら重ねていくスタイルで本当にバカバカしいし不謹慎。
例えば、隣人の老人の様子を見に行くと死んでいる。それを見たデブは老人の手をそっと胸の上に直して顔に手を置き瞼を引き上げる。イケメンが「なんで目を開けさせたの?普通は閉じるだろ」と突っ込んで目を閉じさせるもデブは「天に昇っていくさまを表している」と目を開けさせる、対抗して閉じさせるイケメン、また開けさせるデブ。といった「死体の目を閉じさせるシーン」パロを延々とやったりする。
他には車で逃げだしたデブがなぜか蛇行運転してわざとゾンビを轢きまくりながら「イエーイ!40ポイント!」とか言いながら爆走するシーンとかもシンプルイカれてるし、そこでイケメンが「もし治療方法が見つかったらどうするんだ!」と諫めるのも、言われてみれば確かにその視点なかったなと思わされる。
パロディ要素を抜くとバカみたいにスカスカの映画なんだけど、撮った人はゾンビ映画好きなんだろうなっていうのがかなり伝わってきてよかった。
スカスカの中でもモテずに生きてきたオタクのデブが逃避行を通じてイケメンといい感じになって気持ちが通じ合い、最終的にテレビ局から街の外にメッセージを送るシーンは結構よくて。いかにもオタク女子みたいな服装だったデブがキャスターのドレスを身にまといヘアメイクもバッチリして(誰がやったんだ)、カメラに挑む。
「コストを払ってまで私たち2人を助ける必要があるのかという疑問はあると思う。でも、こんなひどい状況でも真実の愛を私たちは見つけた。だから最初の疑問への答えはYesよ。みんなは私たちを助けるべきよ」というような演説をする。いや、どういうことだよ!と思いつつも「コスト」じゃなくて「愛」で助け合うのが人間だと、利己的の塊のデブがポジティブを貫き通したメッセージはなんか妙な説得力があってよかった。
しかしその後、後ろから洗われたゾンビにデブは肩を噛まれてしまいその様子もテレビ中継される。
そして街の外ではTikTokやテレビであの映像は本当かどうかを自称有識者らが話し合い、ご意見表明し、助けるべきかどうかの議論が活発化し挙句の果てには「デブの雄姿を見て私も勇気を出して彼にプロポーズしたの!」と隙あらば自分語りはじめるバカまで現れててんやわんや。ここ好きポイント。
で、結局噛まれたデブは助かるんだけど、これ意外にちゃんと考えて作られてたなってなるのが「ゾンビは人を食べる」は描かれてるけど「噛まれた人がゾンビになる」は作中で一切描かれてない。「噛まれること」と「ゾンビになる」は別問題だったという驚愕のオチが出てくるんだけど、これも言われてみれば確かにそうだなって。
そして救助隊に「ゾンビだからって先入観で見ちゃダメだよ。それともゾンビヘイト?」ってイケメンが窘められて、イケメンが「そんなわけないだろ、俺の友達にもゾンビはいるし」とまさかの「I have blackfriends」構文で返すという展開も嫌いじゃない。
そんなこんなで低予算ながらも徹底的にゾンビ映画や社会をパロディしたいい意味でしょうもない映画。正直、映像としての見応えはあんまないし、特殊メイクは明らかにヘタクソだけど主人公たちを楽しく観察できるならそこまで悪い映画でもなかったかな。
17世紀にヨーロッパで広まったフランシス・ベーコン(FrancisBacon)の思想(ベーコニアン主義)について説明します。
ベーコンは、科学の力で人々の暮らしを豊かにし、社会を良くするという大きな夢を持っていました。その象徴が、彼の著作『ニュー・アトランティス』に登場する「サロモンの家」という架空の研究所です。
この構想は、当時の人々に強い影響を与えました。サミュエル・ハルトリブやコメニウスといった教育・社会改革者たちは、ベーコンの計画を「宗教的な争いを終わらせ、社会を平和にするための土台」だと考えました。彼らは、農業や鉱山技術を改良し、あらゆる知識をみんなで集めることで、より良い世界を作ろうとしたのです。
この「科学者が協力して研究する」という理想は、後にイギリスの「王立協会」という組織が生まれるきっかけにもなりました。
オランダなどのヨーロッパ大陸では、ベーコンの考え方は「正しい思考を身につけるための道具」として活用されました。これが「精神の治療薬(メディキナ・メンティス)」と呼ばれたものです。
人間には、物事を正しく見るのを邪魔する「思い込み」や「偏見」がどうしても備わっています。ベーコンはこれを「イドラ」と呼び、どうすれば取り除けるかを説きました。
当時の哲学者たちは、学生が新しい哲学を学び始める前に、まずベーコンの考え方を学ばせました。そうすることで、古い考え方や間違った先入観を捨て去り、まっさらな状態で真実を探究できるように訓練したのです。いわば、知的な「デトックス」のような役割を果たしました。
17世紀の終わりに向かうにつれ、ベーコンのスタイルは徐々に主流から外れていきました。その主な理由は、科学の進歩の仕方が変わったことにあります。
ベーコンは「たくさんの事実を観察し、データを集めること(自然誌)」をとても大切にしました。しかし、次第に科学の世界では、物事を「数式」や「機械のような仕組み」で説明するやり方が中心になっていきました。
例えば、オランダのベークマンという学者は、ベーコンが物質を「生き物のような性質」で捉えている点に疑問を持ち、もっと数学的に考えるべきだと批判しました。そして最終的には、ニュートンが登場し、数学に基づいた物理学が確立されたことで、ベーコンの観察中心のアプローチは、科学の主役の座を譲ることになったのです。
なんのかんのと言いつつ、もうちょっと答えたいなとか、これは言っておいた方がいいかな? ということが細々とあったので追記しておきます。
もともと文章を書くのが好きで、書いてるだけで楽しくなってしまいついつい長くなってしまう性質なので、興味ある人だけ読んでいただければ。
まず実家暮らしです、子供部屋おじさんってやつですね。で、親と住んでいるので、正直孤独を感じる事は生活のなかであまりありません。「孤独」というのが感覚としてあまりピンときていません。兄や弟が居るのも関係しているかも。これだけでも「孤独耐性」について印象が変わったんじゃないでしょうか?
ちなみに実家暮らしはいいですよ、お金のかかる趣味が無いのもあって、収入が並でも貯金がたまります。おかげでNISA口座にもある程度余裕をもってお金を移せる。
友達はまぁいます。定期的に遊んだり何か食いにいったり、という感じです。あと創作関係の友人もいますね。そっちも飲み会とかたまにあったりします。
友人の中には女性も居るし、仕事の同僚にももちろんいます。そして「恋愛から降りた」おかげか変に意識することなく、同性の友人や同僚と同様に接することができています。
そもそも既婚者も居るし年齢が大分違う人も居るので、「恋愛から降りた」ことが別段関係無い場合も結構ある気もしますが。
(元の増田で「女性と関わろうとしない方がいい」と書きましたが、大袈裟に書きすぎたかもしれません、友人や同僚としては普通に関わっています。その位なら自分の面倒臭い部分を出さずに普通に関わることもできますし)
あと根本的な問題として、数年、いやもしかしたら十年くらい? 女性に対して恋愛感情とか異性として惹かれる、みたいなことはなかったです。人間として友人として創作者としてリスペクトならいくらでもありますが。
中学高校くらいまでは好きになる事は割とあったので、元々そういう感情が薄いとかではないはずですが、大人になるにつれ少なくなっていきましたね。特に意識的に恋愛から降りてからは心当たりが無いです。
あとね! これも重要なことなんですが、創作って時間を食うんですよ。自分は普通に働いてるし、ゲームもしたい、たまに友人と遊ぶ日もある、ここに書いてない別の趣味もある、そんな中で休日に創作の為の時間も確保したいって考えると、正直言って恋愛とかは「時間がもったいない」という感覚もあるというのが正直なところです。
まだまだ描きたいものがいくらでもあるんですよ。形にしたい作品、アイデアがある。でもサボり癖があるもんだから、結構時間を確保しても実際に創作につかえるのはそのうち何割かです。そんななかで、恋愛とか、異性とか、そういうのに割く時間、考えれば考えるほど無いんですよ。
というかそもそも具体的に好きな人も居ないのに、そんなこと考えること自体、馬鹿馬鹿しいと思いませんか。
個人的にはエスパーかメンタリストでもない限り、あの文章からこうした背景を読み取るのはほぼ不可能だろうし、あの文章で何かを分かった気になるのは危ない事だと思います。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20260115115404
それが無理な人も居る、という話です。そして無理なのに頑張ろうとした結果、女性に被害を与えてしまったり、嫌な体験をさせてしまったりする場合もある。(婚活やマッチングアプリで女性が出会ったヤバイ男性のエピソードとか探してみると、暗澹たる気持ちになれますよ……)
それどころか、(自分はたまたまそうなりませんでしたが)出来ないのに恋愛等に執着するあまり、ミソジニーに走ってしまう人も出てきてしまうかもしれない。こんな不幸、止めた方がよくないですか?
あなたの想像する最大限に不細工で最大限にコミュ力のない、そして女性に対する価値観が歪んでしまっている人を想像してみて下さい。
その人があなたのコメントを見て「よぉし! 俺は結婚した方がいいな! 女性と関わろう!」と張り切った結果、どんなことが起こるか想像してみて下さい。
もちろんあなたは「普通の人としての思い遣りをお互いが持っていれば」と書いた、と主張するかもしれませんが、コミュ力の無い人にそれがちゃんと伝わると思いますか?
そんなことにまで責任は持てない、と思うかもしれませんが、だとしたら「コミュ強以外の人」という範囲指定は若干不用意だったかもしれません。そこには、まぁなんというか、(自分も含め)いろんな人が含まれますから……。
リスクを取らない、責任を持ちたくない、そんなのは恋愛に限らず生きること全てにおいて言えることじゃないの?俺は嫌だね。生きることは選択すること、選択した結果に責任を持つことだと思ってる。
これはある程度は共感する部分もあるんですが、自分なら人生のそういう部分は、恋愛ではなく創作などでチャレンジしたいですね。みんながみんな恋愛でそれをやらないといけないですか?
あなたが創作をする人か、しない人か、わかりませんが、もしいまやっていないなら、やってみることをオススメしますよ? やってみるとたのしいし、やりがいがあります。(と、こういう言い方をもし鬱陶しいと感じたら、同じ事を自分もしてしまっていないかどうか考えてみるのも一つの手です)
恋愛以外の事では(仕方なく、の場合も多々ありますが)選択は普通にしてますよ。(あ、でも仕事ではわりとリスク回避的ですね正直、自分の人生において優先度はそこまで高くないので)
これについては、すでにパートナーがいる場合はそれでOKじゃないかな? と思います。(人によっては、現代においてはパートナー間の同意でさえ危ぶんでいる人は居るようですが、自分はそこまで過激な立場ではありません)
一方でパートナーがいない状態からパートナー状態へジャンプする際は、それとはちょっと質の異なる困難さがありそうだな、と思っています。これは片方がそもそもパートナーになりたいと思っていない(もう片方だけがそう思っている)状態に発生しうるハラスメントや加害や不本意な体験等を含みます。
これは元々そういうことを考えていた訳では無く、いま思い付いたことですが、そうしたリスクへのチャレンジをある種の有限な資源と考え、それを意図的に分配する、という考えなんかどうでしょう?
つまり、例えば「恋愛」に関してはリスクを取らない代わり、「人助け」については人よりリスクを取るようにしてみよう、などと考えることです。そうすれば全体のリスクは等量のまま、「人助け」などのより重要な事柄にリスク資源を割けるかもしれません。
といっても自分の場合は、「人助け」等と立派なことは言えず、「創作」にそれを割いてしまう、なんてオチになるかもしれませんが……。
一旦こんな感じでしょうか。また気になったものがあれば追加しておきます。
とりえあずほかに言いたい事があるとすれば、なんというかみんな、恋愛にこだわりすぎじゃないですか?
例えば女性と関わる時、いちいち恋愛の事とか考えるとしたら、ちょっと気持ち悪くないですか? 普通に友人とか同僚として、同性と同じように接すればよくありません?
なんでそんなに「孤独耐性が無い」とか考えたがったり、恋愛させたがったりするのか、へんですよ、普通に。一回思考をリセットして、まっさらな気持ちで自分を客観的に見てみて下さい、へんな事言ってますよ。
なんというか、他人に呪いをかけようとしている様に見えますよ?
別に異性とは友人として普通に関わればいいじゃないですか、「人として接する」ってそういうことじゃないですか?
こんなことを私から言われるのは意外かもしれないですけど、もし意外に感じるとしたら、それは偏った先入観で物事を見てしまっているからですよ。
人はほとんどの場合、自分の想像の中からしか考えることはできないものです。この文にせよあの文にせよ、今これを読んでいるあなたは、文章を素直に読んでいると言うより、自分の経験や想像とそれを照合しながら、ある種の妄想を組み立てている、といった方が正確な場合があります。
あなたは文章を通して私を読んでいるのではなく、文章に反射されたあなた自身のこれまでの経験、想像、その他諸々を読んでいるのかもしれません。あなたはあなた自身の経験や想像から外に出る事は出来ないんです。
だから文章から筆者の事を見透かそうなんて妄想からは離れた方がいいです。で、その妄想から離れれば、別に大したことは書いていませんよ。
ただ私はリスクが大きいし怖いから恋愛から降りるし、女性とは恋愛とか意識せず友人とか普通の関係でいればいいし、恋愛が無くても人生は普通に楽しい。そしてもしミソジニーとかに走る原因になってるんだとしたら、みんなも自分の様に恋愛から降りてみるのはどう? と誘っている。その程度のことしか書いていません。
はい、こういう事なんですね。分かり易いサンプルなんで引用させて頂きます。
この方は「実家暮らし」という結果に対し、「孤独耐性無い」という原因が整合するように見えるから、「孤独耐性無い」→「実家暮らし」という因果を主張している訳です。(あと細かいですが、「孤独耐性無い」→「孤独が好きなら」の飛躍もありますね)
でもある結果と整合する原因が1つとは限らない、という点を多くの人は見逃してしまう。
つまり、「孤独耐性無い」以外の原因から「実家暮らし」という結果が生まれている可能性を見落としてしまうんです。こういうミス、人間はやってしまいがちなんです。
例えば文章を読めば「実家暮らしはいいですよ、~~、収入が並でも貯金がたまります。」と実家暮らしの経済的利益が書いてある。これも「実家暮らし」という結果に整合する原因ですよね。(文中に書いてあっても見落としてしまう、思い込みの怖い所です)
この時点で「孤独耐性無い」こそが「実家暮らし」に整合する唯一の原因である、という命題は否定され、「孤独耐性無い」はあくまで「実家暮らし」の原因かもしれない可能性のひとつに落とされます。
従って「孤独耐性無いって指摘は合ってる」とは言えなくなる訳ですね、あくまで「かもしれない」可能性のひとつであり、そうした単なる可能性を決め付ける事それ自体をハラスメントですよ、と言っている訳です。
重要な事は、ある一つの結果に対し、原因は複数考えられ得る、という事です。そのためある原因が結果に整合するからと言って、その原因が事実であるとは結論できません。
もっと図式的に表現してみましょうか。ある結果Aに対し原因①、原因②、原因③……原因Nが考えられるとき、ある原因①は特権的に正しいとは言えない、という事です。
同じミスは最初の増田の追記で挙げた人も犯してしまっているし、「(みんなもどう?)」と誘っていることから孤独耐性が無いと決めつけてしまった人も犯してしまっています。「ミソジニーを減らしたいから」などの孤独耐性とは別の原因②や③がある可能性を見落としてしまった。
こうした決め付け、可能性の見落としは、この方達が特別苦手とかではなく、人間はそもそもこういうミスをしてしまいがちです。
だから「文章から筆者の事を読み取ろう」なんて手に余る事は最初からやめておいた方がいいんです。あなた方には、人間には、そんなこと出来ないんです。(やりたくなるのはわかりますけどね)
朝起きてどんな反応になってるだろうなー(コメントとか増えてないかもなー)、と思い仕事しながら見てたら、前回より肯定的(?)なコメントが多くてちょっと安心しました。こういうとこ平凡というか普通ですね自分。
とりあえず今回、事前に想像してたよりずっとまだ今の世の中にも恋愛至上主義的な人って多いんだなー(そして多分自覚が無いんだろうなー)と実感しました。(はてなは高齢者が多いから、というのもあるかもしれませんが)
で、自分はたまたま創作という別のよりどころがあったり、遊んだりする友達が居たり、金銭的にも余裕があったり、「文章から筆者の事を読み取るなどフィクション」と分かっているからブレなかったものの、
そうでない人がこれだけのプレッシャーに晒されたら、本来恋愛を諦めた方が平穏に生きられる人でも、恋愛を「求めさせられ」てしまうだろうな、とも。
そうしてその結果間接的に女性にも被害が出たり、ミソジニーに陥る人が出てきてしまっても、この人達はその自覚が無いままこういう事をつづけるんだろうな、とも。
世に蔓延ってしまったミソジニーの何割かは、こうした恋愛至上主義の残留によるプレッシャーのせいだったりするんじゃないかな? と思うなどしました。
ちょっと角度を変えてみましょうか。
たとえば私が女性だったら、同じ様なコメントしてました? 女性が「恋愛から降りた」と言ってもやっぱり「孤独耐性が無い」とか、それでも恋愛や結婚をすすめたり、します?
そもそもその可能性って実はまだ残ってたり。じつは私は女性で、男性にかかる恋愛や結婚に関するプレッシャーの女性との違いを明らかにするために、非モテ男性を演じて書いていたのかもしれませんよ?
そう言われてみると、なんだか女性っぽい価値観が変に混じっていたような気がしてきません?
もちろんただの可能性ですが
この増田を読んでもまだプロファイルがやめられない人が一部居るようですが、では逆にそういう人を自分がプロファイルしてみましょうか?
何故そうまでして私をプロファイルしたいのか、この程度の文章で他人のことなど分からないのに分かった気になりたいのか、どうして「孤独耐性が無い」と思いたいと思ってしまうのか?
それは「恋愛から降りる」という他人の選択があなたの世界観に相容れず、あなたの世界観を壊してしまうから、どうしても否定したくなってしまっているからです。
つまりこれは私の問題というより、あなたの問題が引き起こした結果なんです。
恋愛や結婚を否定されると、自分の人生がどこか否定されたような気がしてしまう(本当は恋愛も結婚も否定されておらず、ただ他人が「降りる」という選択をしただけなのに)、そうした感覚を拭うために「孤独耐性があるならこんなことは書かないはずだ」といううっすい根拠で素人プロファイリングにいつまでもしがみついてしまう。
どうです? 当たって無いでしょう?
何度も言ってる通り、文章からその筆者の人格とか気持ちとか耐性とか、そんな事分かる訳が無いんですよ。上記のプロファイルもテキトーなことをそれっぽく言ってるだけです。
所詮こんなもんなんです。当たりません。文章から書いた人の事が分かるなんてのは、そう思うと気持ちよくなるだけのフィクションなんです。
もし上記のプロファイルが「当たってる」とかドキッとかしてしまったら、普通に詐欺とかに引っ掛からないように気を付けた方がいいですよ、当たってると思う事自体、騙されてるだけですから。
でも、こんな長い文章をこれだけの人が読んでくれたのは、普通に嬉しいです。そういうの、素直に喜んじゃう性質なので。
これが自分の文才ゆえだと思うのはさすがに調子乗り過ぎですね。おそらく文才とかは関係なく、なにかしら人々の琴線に触れる何かにかすってたんでしょうけど、それが何かとか考え出すとそれも結局素人認知プロファイルにしかならないのでやめておきます。
Permalink |記事への反応(33) | 23:44
別に先入観で食わず嫌いしてるわけじゃなくて実際まずいからな。ツナマヨとか吐くわ。
カレーそばもうどんと違ってもそもそしちゃって全部食おうとするの飲み込むたびに嗚咽が起こって苦行だったわ
そりゃサラダ系ならマヨネーズも使い方次第でありだろうしマヨネーズ自体が全くダメなんて一言も言ってないわけでこういう何事も例外があって決めつけるモンじゃないってさかしらぶってるやつの方が実体験なく適当言ってる浅い感じがするわ
dorawiiより
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ラノベ自体は好きでも嫌いでもない、中には面白い本もあるよねって感覚だったんだけど、
学生時代にラノベが大好きな友人から色んな本を薦められて読んでて、その中の一冊が本当に面白くなく(主観や好みではなく、"駄作"だと言い切れるレベル)、
「ラノベだけを読んでる層ってこれが面白くない本だって分からないんだ…」と思ってから、若干の見下しが入ってる。
"駄作"という超曖昧な表現を押し通そうとしたせいで物議を醸していて申し訳ない。
遠い昔の話で作品名を覚えていないし、別に名前を出して批判するつもりも無いんだけど、本の内容に触れると、「正義だと思っていた主人公が実は悪だったという大どんでん返し」をしようとして、叙述トリックの構築に失敗し、物語として破綻してしまっているような本だった。
「主人公の親友は、家庭内虐待により精神を病んで自殺しました。そこで主人公は親友の家族に復讐していくのですが、物語の終盤、そこまで出番のなかったキャラが突然現れて語り出し、実は主人公は親友をいじめていて、そのいじめも親友が自殺する原因だったことが分かりました。主人公の精神はおかしくなっているので、今までの物語は主人公の妄想が含まれ、都合の悪い記憶は全て抜け落ちていました。主人公が実はいじめっ子だったという伏線は特に張っていません。
ところで、あなたは主人公が正義だと思ってこの本を読んでましたよね?そういう先入観を持ったあなたも、加害者の一部だ!!!」
みたいな本だった。
読んだあと、まじで何を見せられたんだろう、みたいな気持ちになった。
読んだあとにすぐにレビューを見に行ったところ、それなりに評価が良かったので私は頭を抱えて、
「本当に自分で何も考えないで本を読むタイプの人は、これを読んで「確かに自分は加害者だったのか…!」とか思ったりするのかもな」
という最悪の結論を出した。
ラノベ好きに向けた本を、普段ラノベ以外の本も読む自分が読んだことで、評価にズレが生じたのだろう、と考えることにしたのだ。
具体的に書いた結果、自分の性格が悪すぎてびっくりしてしまう。
結論を言うと、見下し癖は良くない。
Permalink |記事への反応(21) | 11:01
ラーメンって、スープが絡んだ麺を啜った時に一番美味しいように作られてるんじゃないかと思ってる。
スープが絡んだ麺を味わうより先にスープを飲んで、「こういう味かぁ」ってネタバレを食らいたくない。
二口目でスープを飲む。
ラーメンはスープから行くのが一般的になってるのは知ってるし、スープ派の方はどうぞスープから味わっていただいて構わないのだけど、自分的には麺からいきたい理由があってそうしているので貫きたい気持ちがある。
けど、「こいつラーメン好きとか言っておいてスープから飲まないのかよ…」とか思われてないかなって少し気にしてしまう。
なによりお店に嫌がられてたら、それは申し訳ないのでやめたい。
お店におすすめの食べ方が掲示してある場合は、ラーメンを提供してくれるお店への敬意として、基本的にそれに従うようにはしてる。
「お椀を持ち上げてスープを啜って味わってください」って書いてたとこだけはひっくり返しそうでやめたけど。
増田で論点をずらして結論だけを置き逃げするタイプの言及は、典型的なストローマンや話題のすり替えであり、本来まともに相手をする価値はない。
しかし放置すると、議論の雰囲気によっては誤誘導される読者が出るため、最低限の釘刺しは必要になる。
彼らの狙いは「すり替え後の論点を読者に補完させること」で、自らの主張の矛盾を隠すことにある。
この手の逃げ方を封じるには、「論拠」ではなく「観点」、つまりその結論がどの立場から出てきたものなのかを当人に示させることが最も有効だ。
立場が明示されれば、侵略国にとって都合が良い前提に立っていたり、党派的正義の中に市民生活の視点が欠けているといった“隠された前提”が露呈するためである。
近年「ソースを出せ」が効かなくなっているのは、立場を隠したまま「自分に都合の良い正しさ」を創作する荒らし的手法が横行しているからだ。
正しさは立場に依存するため、立場の秘匿が最大の武器になっている。
日本国内でも、日本の正しさを語ると言いながら「有事の際に日本はどうあるべきか」という思想的立場を伏せることで、同盟国を見捨てる選択を正当化するケースが見られる。
論点ずらしがぶら下がっている元の話題が政策提言である場合について返答例を挙げると
「あなたはどの立場から、どの将来像を想定して、何を望んでいるのですか?」
となるかと。
この問いに対して、論点ずらしをする人は 「立場」 「推論プロセス」 「代替案」 のいずれかを省略してくる。
それらをすべて書いてしまうと、論の繋がりが破綻していることが傍目に明らかになるか、あるいは辻褄を合わせられずに書き切れなくなる。
また、論点ずらしの元が何らかの「指摘」であった場合の返答例を挙げると
「その指摘が当てはまらないあなたの立場は何ですか? その立場から見て、元の話題とどう関連するのかを最低限説明してください。」
となるかな。
これも、相手は 「立場」 または 「元の話題との接続」 のどちらか、あるいは両方を省略してくる。
結局のところ、増田における論点ずらしで反論を困難にしているカラクリは
という一点に尽きるんではなかろうか。
ここでは「参考にする価値は無いんだ」なと伝われば充分と割り切ることも肝要ですかね。
「読む価値が無い」といったレベルまで追い込む必要は基本的に無い。
細田守の「果てしなきスカーレット」に否定的な意見が多いのは、結局のところ「エンタメは予定調和を求められる」からだろうな
最高のエンタメを定義するとしたら、「概ね思った通りのラストに行き着くんだけど、期待していたクオリティよりも高くって、途中に程よい意外性がある」みたいなものでしょ
だから「完全に予期できなかった」「事前に思っていたものと違った」「何が起こっているのか一度ではわからなかった」みたいなものには、大きい拒否反応が起こる
物語がどーしたとか、あのセリフが云々とか、引用のやり取りが…みたいのは全部後付けの理屈で、まずは「思った通りのものだったか」という見る側の先入観との一致・不一致が、全体の反応を決定づけるだろうな