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はてなキーワード:倭寇とは

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2025-10-13

和光倭寇

右とか左とかって言われるのは、前提条件に愛国心倫理観必要なんだけど、それが全くない

かつての既存政党官僚、医家、法律家貿易家などの営利団体に買収され、税金タダ乗り制度を作り、日本人法律力や組織力、防御力を弱める教育をしたし

戦後JICAを作り見せかけの貿易黒字も作った

 

石破はマトモな異色のほうかもしれないがJICA金融どうすんだかね

anond:20251012110947

Permalink |記事への反応(0) | 12:45

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2025-09-12

国連宇宙委員会の初代委員長は、日本郵船関係者

移民増加も、もちろん彼らと銀行利益

現代倭寇は、裁判所移民を利用している

Permalink |記事への反応(0) | 16:25

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2025-08-11

内日本人だけ見てても嘉靖倭寇とか南京大虐殺とかあったの理解できるし、国際化できる日本人なんて稀かもな

ベトナム人は海後勝雄の大学に騙されてるし

Permalink |記事への反応(0) | 11:09

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2025-08-04

anond:20250803221826

日本天皇万世一系なのは、一番強い武士団と組んで、巧妙な搾取政策をしてきたから。帝と言われていたが武士の食料調達係。むしろ万世一系スネ夫だ。スネ夫スネ夫なので本当は責任のある地位にいたくない。

貨幣発行とデノミ刀狩り、銃器推奨、戦国時代倭寇徴兵オランダ船や中国への海賊ローマ法王島津コネクション。

オランダ江戸を封鎖して海賊は一通り収まったが、350年後にまた開けられてしまったプロテスタント傭兵の島。司法独立していない。

Permalink |記事への反応(0) | 05:57

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2025-04-21

欧米中心史観に基づく問題のある用語をchatgptに聞いてみた。

https://x.com/pre_dk/status/1914149915388940583

結構オランダ人長崎出島日本における植民地認識してたりする。

オランダ人出島をkolonie(植民地)と呼んでるそうな。

上記ツイート見て面白そうだったのでchatgptに似たようなフレーズいか聞いてみた。


1. “Japanwas discoveredby the Portuguese in 1543”

discovery発見)=「それまで世界地図の空白地だった」という大航海時代メタファー

実際には倭寇琉球貿易中国史料に日本記述は山ほどある。


西洋が見つけてあげた”物語に収まり日本側の連続した対外関係が消える。


2. “Commodore Perry openedJapan tothe world” (1853–54)

主語米海軍動詞=opened(能動)、客体=日本受動)。

江戸後期の対ロシア清朝交渉長崎オランダ商館経由の情報収集が見えなくなる。


文明開化アメリカ恩恵」という進歩史観が固定。


3. “Japan’s sakoku policy = a closed country”

鎖国=完全孤立」と描くが、実際はオランダ中国朝鮮琉球などと交易使節往来が続いていた。

“閉じた日本西洋がこじ開けた” というヒーローナラティブを下支え。


4. “Meiji Restoration = modernization along Western lines”

欧米モデル=唯一の近代化ルート」と単線的に語る。


富国強兵殖産興業国内思想アジア情勢の中で選択された側面が大きい。


5. “FeudalJapan” というパッケージ

欧州中世的 “封建制” と江戸幕藩体制をゴッタ煮。

士農工商家禄制の固有性が “feudal(遅れている)” のひと言で失われる。


割と使えるね。人種差別論争でもAIは猛威を揮いそう。

Permalink |記事への反応(3) | 14:58

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2025-03-20

anond:20250320122853

wikipediaすら見たことない人はこういう意見になるのね……

実は台湾大陸政権統治されていた時期って意外なほど最近から

あの位置にあるのに17世紀オランダ統治下に入るまで本島には明の拠点すらなく

最初の城もオランダ統治下で建設された

しろ歴史的には倭寇拠点として認知されてたし

澎湖諸島倭寇を追い出したのも16世紀

もちろん漢民族の影響は大きいけど清帝国での200年ぐらいしか統治してないし

なによりそのあと一回日本に取られたのが大きいわな

全く別の歴史的経緯をたどってしまった


民族的にも住民純粋漢民族ではなく

オーストロネシア語族である原住民との混血が9割だと判明している

歴史的科学的なこと言えば明らかに「別の国」なんだよな

しろそれを政治的な話で捻じ曲げてるに過ぎない

Permalink |記事への反応(1) | 15:15

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2024-11-19

ニコニコ倭寇

昔は人気実況者だった記憶があるけど今みたら千とか二千再生とかですごく落ち込んでるのな

Youtube軸足移したのかと見てみたらそっちも低再生数だし不思議

なんか不祥事でも犯したのかな?

でもセピア、じゃないひと。名前でん。ごめんだね。の人は普通に復活してたと思うし。

どんだけすごいやらかしやったんだ?

Permalink |記事への反応(0) | 22:45

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2024-10-10

小説 階伯(かいはく)つづき

百済亡命者たち――日本への道

百済滅亡の報せが朝鮮半島全土を駆け巡るとき、そこには絶望だけでなく、わずかな希望が残されていた。それは、百済の地を追われた者たちが、遥か倭の国――大和への亡命の道を選んだことだった。

百済の都泗沘(しひ)が炎に包まれ王族貴族、そして多くの百済の民が散り散りになって逃げる中、一握りの者たちは東へ、海を越えて大和へと渡ることを決断した。彼らにとって、倭はかつて同盟を結び、文化技術を共有してきた縁のある国だった。遠い異国ではあったが、そこに生き延びる希望があると信じていた。

渡海――苦難の旅

夜の海は静かだったが、波は冷たく、命の危機を感じさせた。百済から亡命者たちは、わずかな船団に身を寄せ合い、倭の地を目指した。彼らの目には、故郷を失った悲しみと、新しい土地での不安が浮かんでいた。

中でも、若き百済貴族、武珍(ムジン)は、家族と共に海を渡ることを決断した一人だった。彼はかつて百済王宮官職を務めていたが、新羅と唐の連合軍が攻め込むと、命からがら国を脱出した。彼の目の前には、父祖の地であった百済が失われ、愛した仲間や民が散り散りになっていく姿が浮かび続けていた。

「いつか…いつか、この地に戻ることができるのだろうか」と、武珍は呟いたが、その声は波音にかき消された。

やがて、彼らの船は倭の大地に辿り着いた。彼らを迎えたのは大和朝廷の役人たちだった。百済から亡命者たちが次々と上陸し、武珍もまたその一人として新たな生活を始めることとなる。だが、そこには異国の地での試練が待ち受けていた。

新天地大和

亡命者たちは大和王権に迎え入れられたものの、その生活は容易なものではなかった。彼らは、異国の地で自らの文化風習を持ち込む一方で、大和風土や習慣に馴染む必要があった。特に故郷を失った哀しみが胸に深く刻まれている者たちは、再び自らのアイデンティティを見つけるまでに長い時間がかかった。

武珍もその一人だった。彼は大阪南部に割り当てられた土地で、新しい生活を始めることとなった。この地には既に百済から移民が住み着いており、互いに助け合いながら新たなコミュニティを築いていた。大阪南部河内平野は肥沃な土地であり、農業が盛んだったが、何よりも彼らにとって特別ものは、地名の中に「百済」という故国の名を残せることだった。

「ここは、我々の新たな百済だ」と、武珍は言った。

大和王権の中での百済役割

百済から亡命者たちは、単に新天地生活を始めるだけではなかった。彼らは百済で培った高度な技術文化大和王権にもたらし、その地位を高めていった。特に天智天皇の治世において、亡命者たちは重要役割を果たすこととなる。

天智天皇大化の改新を主導した中大兄皇子)は、近江京を築いた際、百済から亡命者たちを積極的に受け入れた。天智天皇自身百済との強い同盟関係を保っていたため、亡命者たちの技術知識を利用して、近江の地を発展させることを狙っていたのである。武珍を含む百済貴族技術者たちは、天智天皇の招きに応じ、滋賀県周辺へと移住していった。

新羅に滅ぼされ、百済を失ったとしても、我々の技術文化がこの地で花を咲かせるなら、それが我々の新しい故郷となるだろう」と、武珍は自らを励ました。

百済技術者たちは、瓦や製陶技術金属加工、建築技術をもたらし、近江京の発展に寄与した。その中でも、仏教文化先進的な農業技術は、近江の人々にとって大いなる財産となった。百済から亡命者たちは、大和王権の一部として取り込まれながらも、独自文化を維持し続けた。そして、その痕跡は、現代滋賀県に残る渡来系遺伝子の多さにも反映されている。

亡命者たちの遺産

時が経つにつれて、百済から亡命者たちは日本列島に根を下ろしていった。大阪南部には「百済」や「加羅伽耶)」といった故国の名を冠する地名が残され、滋賀県には亡命者たちの末裔が多く住み着いた。彼らの遺伝子は、日本列島の中で異質な文化を生み出し、後の日本文化に大きな影響を与えた。

武珍も、かつての仲間たちと共に大阪南部で新たな百済を築き上げた。そして、彼の子孫たちは、百済の血を引き継ぎながらも大和王権に忠誠を誓い、その技術知識を後世に伝えた。

故郷は失われたが、我々の血は生き続ける。我々の文化は、この新しい土地で栄え続けるだろう」と、武珍は亡命者たちと共に夜空を見上げ、倭の地で新しい未来を夢見た。

こうして、百済亡命者たちの物語は、日本歴史の中に深く刻み込まれていった。朝鮮半島を追われた彼らは、決して故郷を忘れることなく、新しい大地でその魂と誇りを守り続けたのである

朝鮮半島奪還――日本宿命としての目標

天智天皇近江京を築いた時、百済から亡命者たちは日本の地に根を下ろし、新しい生活を始めた。しかし、彼らの胸には常に故郷である朝鮮半島への想いが宿り続けていた。日本という国がまだ形成されつつある時代、その根底には、失われた「伽耶」や「百済」を取り戻すという強い願望が隠されていた。

天智天皇は、ただ単に新しい京を築いただけではなかった。彼の統治の下で、大和王権は次第に「日本」という国としての形を整えていった。しかし、その目標の一つには、かつて倭人支配していた朝鮮半島南部――伽耶百済の地を再び日本の手中に取り戻すという、壮大な夢が秘められていた。

朝鮮半島に築かれた前方後円墳存在――それは倭人がその地を支配していたことを示す確かな証拠だ。前方後円墳日本発明された墓制であり、その巨大な墳墓が朝鮮半島南部にも点在している事実は、かつてその地が倭人にとっての故郷であったことを物語っている。

失われた故地の奪還――幾度かの挑戦

天智天皇時代を過ぎても、この「朝鮮半島奪還」という目標は、日本歴史の中で幾度となく浮上してきた。その後、豊臣秀吉時代には、それが現実のものとして動き始める。

豊臣秀吉朝鮮出兵文禄・慶長の役

秀吉は、天下統一を成し遂げた後、自らの野望を東アジア全域に広げようとした。その第一歩として選んだのが、朝鮮半島への侵攻だった。1592年、秀吉大軍を率いて朝鮮に進軍し、かつて倭人支配していた地を取り戻し、さらには中国大陸まで征服するという壮大な夢を抱いていた。

「我が倭の祖先の地、伽耶百済を取り戻す時が来た。朝鮮半島は、我々日本人の手に再び戻るべき土地である

秀吉のその言葉には、単なる領土拡張を超えた、失われた故郷を取り戻すという深い信念が込められていた。だが、朝鮮戦役は厳しい抵抗に遭い、秀吉計画は失敗に終わる。朝鮮半島の奪還は成し遂げられず、秀吉の死をもって日本軍は撤退余儀なくされた。

しかし、この「朝鮮奪還」の試みは、単なる軍事的野心の産物ではなかった。それは、古代から続く日本人の潜在的な願望――かつての倭人領土である朝鮮半島南部を再び自らの支配下に置くという、宿命的な思いの表れだったのだ。

倭寇――小規模な奪還の試み

大規模な侵攻が失敗に終わったとしても、歴史の中で日本朝鮮半島との間には、常に緊張と抗争が続いていた。その中で、倭寇(わこう)と呼ばれる海賊集団が、朝鮮半島沿岸部中国大陸沿岸を襲撃する形で、奪還の意図を示し続けていた。

倭寇の多くは、正規日本軍ではなく、小規模な武装集団だったが、彼らもまた、朝鮮半島南部をかつての倭人の地として捉え、そこに自らの足場を築こうとした。彼らの襲撃は、単なる略奪ではなく、失われた倭人故郷を再び支配するための小さな試みの一環だったと言えるだろう。

倭寇活動14世紀から16世紀にかけて活発化し、朝鮮中国を混乱に陥れた。特に朝鮮半島南部はその影響を強く受け、倭寇侵略によって多くの地域が荒廃した。これは小規模ながらも、日本朝鮮半島との長い歴史的な繋がりを象徴するものだった。

戦前日本朝鮮半島

そして、最も大規模で決定的な奪還の試みが行われたのは、20世紀初頭の戦前日本だった。明治維新を経て近代化を果たした日本は、軍事力を強化し、再び朝鮮半島に目を向けるようになった。1905年日露戦争勝利した日本は、朝鮮半島への影響力を強め、最終的には1910年朝鮮併合することに成功した。

これにより、ついに日本はその「歴史的な故地」を取り戻すかのように、朝鮮半島を自らの領土として統治することとなる。豊臣秀吉が夢見た「朝鮮半島奪還」の夢は、この時に現実のものとなったかのように思われた。

しかし、この支配もまた、長くは続かなかった。第二次世界大戦の敗北と共に、日本朝鮮半島から撤退せざるを得なくなり、再びその地は遠い存在となった。

朝鮮半島南部――倭人故郷としての歴史的意義

イスラエルユダヤ人にとって失われた故郷であったように、朝鮮半島南部倭人――すなわち日本人にとっての歴史的な故地であり、その奪還は、古代から目標であった。日本前方後円墳朝鮮半島南部に点在していることも、その歴史的なつながりを証明している。これらの墳墓は、単なる埋葬の場所ではなく、倭人がこの地に深く根を下ろしていた証拠だ。

天智天皇からまり豊臣秀吉戦前日本、そして小規模な倭寇――いずれも朝鮮半島南部を取り戻すという潜在的な思いを抱いて行動していた。この「奪還の夢」は、日本歴史の中で脈々と受け継がれてきた宿命とも言える。

現代においても、日本朝鮮半島関係は複雑でありながらも、歴史的な繋がりは消えることなく残っている。かつて倭人が歩んだ地、朝鮮半島南部――それは、日本にとって単なる隣国土地ではなく、彼らの魂が宿る場所であったのだ。

Permalink |記事への反応(0) | 17:10

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2024-05-02

学歴コンプレックス卒業した 2/4

https://anond.hatelabo.jp/20240502193038

大学2回生の頃~

学生時代は、健康づくりのために、鹿渓館(学生棟)という建物の地下2階にある【トレーニングルーム】に通っていた。授業が終わった後に、週に三度くらいかな。

ここでは、体育会部活支配(?)が圧倒的だった。柔道とか空手とか陸上とかラグビーとかウェイトリフティングはもちろん、数多くの部活トレーニングルーム使用していた。めちゃ狭かった思い出がある。

自分のように体育会でない者は、ひたすらにベンチプレスの順番を待つしかなかった。でも、なかなか空かないんだよな。ベンチプレス。あとは、体育会利用者が優先という空気があったし、実際そっちの方があるべき姿だと思っていた。

ただ、自分の番が周ってきて、ベンチ台でバーベルとか持ち上げたりするじゃん。その時にさ、ガーーーンッ!! という大きい音がするのだ。見れば、隣のスペースでアップライト気味に胸~頭上にバーベルを上げていた柔道部の人が、バーベルを放り投げるようにして床に落とすのだ。

あれは、マジでびびったわ。重さが50kg以上もある物体を放り上げるだけの筋力が俺にもあれば、驚かずに済んだのかもしれない。

結局、夕方以降にトレーニングルームを使うのはやめて、早朝にトレーニングする派に転向したんだっけ。朝だったらベンチプレスも、腹筋台も、エアロバイクも、大型鏡の前も空いている。

確か、カブトムシその他の甲虫類が、クヌギコナラの樹液を深夜に吸うのって、スズメバチ回避してるんだよな。日中スズメバチとやり合うと甲虫側がボロ負けするので、彼らは仕方がなく時間帯を変えて樹液を吸うのだ。俺もその仲間だった。正体は甲虫である

ただやはり、体育会の人たちはバックグラウンドが違うこともあって、正直無理なことがあった。特に野球部柔道部といった上意下達イメージがある部活は、当時の自分からするとヤベーことばかりしていた。

3.柔道部とそれ以外の部活の人

 夕方以降にキャンパスから下宿に帰ろうとする時、北側キャンパス中庭付近で、体育会の人たちがバイオレンスなことをしていた。例えば、誰かのTシャツの胸あたりを両手で掴んで、ブンブン振り回していた。後は、後輩にエレベータートイレの前のタイル貼りのところで、床オナをさせていた。あれは振りだったと信じたい。通りすがりの人は普通にスルーしていた。

 基本的に、体育会人達はやりたい放題だった。2024年現在と比べれば、あの頃の世界は「実績があれば何でもよかろう」の世界だった。実際、彼らはある程度の実績を出している。

 例えば、先ほどの鹿渓館の中にある部室棟について、2階とか3階の日当たり良好なスペースは体育会が占めていた。部室の出入口は中がいつでも見えるように、目線の高さの0.5㎡ほどがガラス張りになっているのだが、彼らはそれすら張り紙で覆い隠していた。たまに、男性女性の怒声や、うめき声や、金切り声が聞こえていた。一体、中で何が行われていたのだろうか……。

 ちなみに、【文化系部活】は地下1~2階に生息していた。ジメジメとした暗い空間である。そこで毎日部活動をしていた。最新の大学キャンパスを見る限りは、おそらく今でも其処に彼ら彼女らは生きているのだろう。



まあ、でもこの頃って、だいたい20才くらいだったからだろうか。なんでも楽しかった記憶がある。

大学の構内だと、学食でごく稀にだけど、同じゼミの人と一緒にご飯を食べることがあった。京都山間部にフィールドワークに行く関係で、事前に同じチームで親睦を深めるのだ。半強制イベントだったけど、ああい体験って、あの時分じゃないとできない。

大学近くでも、例えば喫茶店がふたつあったんだけど、社会福祉カフェの方に割と行っていた記憶がある。お値段が安いからだけじゃなくて、なんか、どんな人でも受け入れるというか。そういう感覚がよかった。

教授が言うには、昔は大学に接している市道の上に、お昼時にたくさんの屋台が出店していたらしい。むかし、食中毒みたいな事件があってからは締め出しにあったみたいだけど、人生で一度は観てみたかったな。

大学の構外だと、ちょっと北の方にはおいしいラーメン屋とか、南の方にはカフェとか、中華料理のお店とか、いろいろあったな。文芸サークルの皆でよく利用していた。



4.野球部の人たち

 今はどうか知らないが、大学の授業の出席確認に際しては、出席カードを提出する形式だった。時代の先を行っている大学だと、学生証をピッとやれば出席したことになるらしい。

 どうでもいいけど、今って授業は15回中10回以上出ないと単位をもらえないらしい。厳しいんだな。あと、年間に取得できる上限単位は42らしい。ちょっとなすぎるよ。俺の時だと、大学3回生の前期終了時点で最低110単位は取っていたはずだ。

 さて、あれは大教室での授業の時だったか。秋だったと思う。佛大の若き学生がこの日記を見ている可能性はほぼゼロかと思うが、5号館の101という大きい教室(余談だが同志社講義室に似てる)で、中国明朝歴史の授業中だった。当時の日記によると、倭寇とか康熙帝とか足利義満とか、そのあたりの絡みがある回だったとある。もちろん全く覚えていない。

 授業が始まると、出席カードが前の席から回ってくるのかな~と思いきや、一番前の人が一番後ろの席まで配り切る形式だった。自分が出席カードを受け取ると、すぐ後ろには野球部と思しき人達がいた。彼らは、「すんません、出席カード追加で5枚くれる?」と発言していた。

 出席カードを配ってる人が「すいませんね~」と言って去ろうとすると、「おいお前、待てやコラ!!」と野球部人達が彼に絡み始めた。出席カードを配ってる彼も引かず、収まる気配がなかった。

 これはいかん、と思って俺は、「ちょっとちょっと~」と騒いでいた。やがて中年ほどの先生がやってきて、彼らをひと睨みすると、何事もなかったように騒ぎは収まった。

後輩に「当たり屋やれ」 佛教大野部員、無期停学に

(以下は個人ブログURL長大のため短縮化)

https://x.gd/2hdl3

 上記ニュースは私が入学する前の出来事だが、大学体育会というのは、どこもこんな感じだろうと思う。佛大野球部も、京滋リーグという枠ではほぼ無敵だった。その線でいくと、日本大学もそういう感じだったのだろう。結果だけは出していた。

 結果を出しているうちはいいのだが、佛教大学だって、やりすぎるといずれは日本大学福山大学のように、不祥事(大麻とか)>実績となってしまい、とんでもない結末を迎える。

教職員に対する懲戒処分について(令和6年2月13日

https://www.bukkyo-u.ac.jp/news/info/20240213-26933.html

 上記のように、今でも事件はあるといえばあるが、こういうのはいいよ。間違った人材(臨時雇いの研究者)を雇ってしまったんだろう。大学はいわば騙されてしまったわけだ。次から気を付ければいい。

 ただ、卒業生の一人としては、学生という本質的存在についてはキッチリ管理して、自分のように不愉快な思いをする学生を無くしてほしいと感じている。

不満ばかりを書いてる気がする。

大学生活、楽しいことはいっぱいあった。例えば部活がそうだ。文芸部(サークル)である

文章を書くのが好きだった。それこそ子どもの時分から中学でも高校でも、そういう系の部活がよかったけど、運に恵まれなかった。大学生になって、ようやく文字作品創造する喜びを得ることができた。

あとは、学園祭だ。その名も鷹稜祭(おうりょうさい)というイベントなのだが、年に一度の楽しみだった。一度だけ実行委員になったことがある。みんなで何かひとつのものを作る、といったら大げさだけど、最初は何をしたらいいか全くわからない……という段階から、次第にステップを踏んでいって、尻上がりにイベントづくりが面白くなっていく。

最初の一歩を踏み出すのが早ければ早いほど、ドンドンと楽しくハイになっていって、最終日を迎える頃には、自らがイベントと一体になっている。自分仕事ひとつになっていく感覚

こういう感覚は、仕事はもちろん、趣味活動だってある。精神的な意味で、自分とナニカが溶け合ってひとつになっている感覚である。そのナニカは、人によって違う。パートナーや仲間だったり、参加してる社会のものだったり、取り組んでいる事柄だったり、特定空間だったりもする。

ひとつ、少なくともひとつ大学に進学してよかったと思えるのは――これまでの人生で一番、没頭できるものを見つけられたことだ。これだけで大学に進んでよかったって、そう思える。

あとは、アニメがそうだな。それまでのアニメって、安っぽい作画が多かった。特に子ども向けアニメはそうだ。ポケモンはまだいいけど、デジモンとかはひどいものだった。この頃から、なぜかはわからないが綺麗な作画が増えていった。

どのアニメかは忘れたけど、女の子ドンパチやる系の朝のアニメで、必殺技ダンスバンクがあったのだ。サンバを踊ってたんだけど、最後に「ウー!マンボ」ってやるんだよな。「サンバなのかマンボなのかどっちなんだよwwwwww」と、当時は大笑いした記憶がある。

え、そんなもの面白いのかって? 当時はまだ20代前半である。箸が転んでも面白い年頃なのだ

https://anond.hatelabo.jp/20240502193040

Permalink |記事への反応(2) | 19:30

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2024-04-16

anond:20240416135557

前期倭寇日本人だよ

Permalink |記事への反応(0) | 13:56

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anond:20240416120311

それ以前も倭寇が暴れ散らしたりしてるし基本的日本人って攻撃的だよな

Permalink |記事への反応(0) | 12:12

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2024-01-24

anond:20240124052504

日本でいうとそうだな~

・昔そこは国土の中心だった:奈良京都

・そこが国土の中心になるはずだった:福岡倭寇)? 満州

中間を取った……ただし、二大都市の:名古屋

・中心にある都市首都になれなかった:名古屋

首都が中心になるように国土を切り取った:静岡成田

 

よし名古屋首都移転しよ☆彡

Permalink |記事への反応(0) | 23:17

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2023-11-01

韓国に盗まれ対馬仏像

歴史書に何百年も前に倭寇がきたとういう記述があるという状況証拠だけで日本に盗まれたって認定してるんだってね。

最高裁日本所有権が認められたけど、盗まれものというのは確定してるらしい。

ナショナリズム歴史認識が歪みすぎだわ。

仏像が帰ってきても盗品認定されてたら気分悪いね

Permalink |記事への反応(2) | 13:10

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2023-10-26

韓国人倭寇の時に奪われた仏像から仏像韓国のものだ!」

韓国裁判所仏像は今は日本のものから返す」

一方

ユダヤ人イスラエルあたりは紀元前に奪われた土地からイスラエルユダヤ人のものだ!」

イギリス人せやな

韓国裁判所おかしい!

Permalink |記事への反応(0) | 12:11

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2023-09-02

関東大震災における朝鮮人虐殺に関して、官房長官都知事スルー

一部右翼ウヨと言うべきか、に忖度している?

そういうところは別に切り捨てても余裕で権力は維持できるはずなのに、なにをビビっているんだろうか

稲田朋美ジェンダー問題でのムーブとか思うとさ、全然余裕だよね

あと思うのは、ウヨっぽい人々は古代倭寇とか、秀吉朝鮮侵攻については何も言わないけど

朝鮮人虐殺や南京事件についてはやたらとなかったことにしたがる

沖縄戦日本軍民間人邪魔者とかスパイ扱いして殺した話とかも

明治維新以前と以後で日本は別の国になったと考えているのかもしれないけど

その割に、万世一系とかなんとか言うよね

日本人の一部が、昔ひどいことをしたのは事実なんだけど、そういうことを認めたがらないメンタリティーってなんなんだろう

いやさ、現在でも一部の日本人は子供虐待したり、特殊詐欺をやったり、いろいろ「悪いこと」をしているわけじゃん

それすらもなかったことにするのかね

国家主義とか国粋主義とかをひとつ宗教と考えれば、理解はできる

国=神なので、それは無謬であるはずっていうこと

自分が間違っていると思いたくはないので、無謬であるコンセプトを絶対視する

一昨日から昨日にかけて、映画福田村事件』を各地上波が取り上げていたのは、まだ前に進もうという意思を感じた

マスコミしろ政治家しろ、我々が育てていくしかないのよ

Permalink |記事への反応(0) | 06:37

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2023-08-11

anond:20230811150117

鎖国が終わったなら倭寇でしょ!!

Permalink |記事への反応(0) | 15:12

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2023-03-17

anond:20230317213252

倭寇を題材にした小説は2作読んだことがあるけれど、どちらかがすごく面白かった

片方は津本陽の「天駆ける倭寇」だがそれが面白かったほうかどうかは忘れてしまった

人間が回答するとこんなふうに曖昧


もう一方は白石一郎の「海王伝」「海狼伝」かも

Permalink |記事への反応(0) | 22:07

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ChatGPTに噓をつかれて映画を見たけどまあまあ面白かった件

日本史をChatGPTに教えてもらっていた。室町時代の話で「倭寇」という海賊がでてきて、面白そうだと思い、聞いてみた。

倭寇を題材にした小説映画はありますか?』

==

倭寇を題材にした小説映画は数多くあります。以下に代表的ものを挙げてみます

小説

宮本武蔵五輪書』:宮本武蔵倭寇として活躍する場面が描かれています

内田康夫赤い指』:現代日本人が、倭寇遺産を探す物語です。

大岡昇平海峡』:朝鮮半島舞台にした、倭寇朝鮮人との戦いを描いた歴史小説です。

映画

黒澤明監督天国と地獄』:江戸時代商人が、誘拐された娘を救出するために、倭寇首領と手を組む話です。

中村登監督海賊とよばれた男』:倭寇海賊として活躍した男を描いた映画です。

神代辰巳監督二百三高地』:第二次世界大戦中の日本軍アメリカ軍の戦いを描いた映画ですが、倭寇が登場する場面もあります

その他にも、テレビドラマ漫画アニメなどでも倭寇を題材にした作品が多数存在します。

==

ほほう、黒澤明映画面白そう!と思ってアマプラで見たのだが待っても待っても倭寇は出てこないし、よく考えたら江戸時代舞台でもなかった。

まあでも三船敏郎はかっこいいし山﨑努の若いころの演出も見れたし話しも面白かったからよかったのだが、ChatGPTを安易には信じない方がいい……

Permalink |記事への反応(2) | 21:32

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2022-03-16

anond:20220316165247

倭寇倭国付近活動していたという意味でそう呼ばれた多国籍海賊であり、倭人割合は少ない定期

Permalink |記事への反応(0) | 16:53

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anond:20220316164658

逆に倭寇で遥か昔から東アジア侵略しまくってるけどね。

Permalink |記事への反応(2) | 16:52

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2020-11-04

anond:20201104144632

まるで倭寇みたいだぁ……(直喩

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2020-10-04

本物の果実酒が飲みたい

梅酒や杏(あんず)酒のような甘い果実酒が好きだ。でも本物の果実酒とは違う気がする。市販されているそれらの酒は、ほとんどが梅や杏をホワイトリカー(廃糖蜜を主原料とした焼酎)に漬けて製造したものだろう。果実甘味香りはするけれど、アルコールの味や香りホワイトリカー由来の物だ。それが果実酒として本物ではないと感じさせる。

しかし、ワインは赤でも白でも安物でも本物の果実酒だと感じる。それはアルコールブドウ由来だからだ。もしもブドウホワイトリカーに漬け込んで酒を造ったとしたら、それはワインともブドウ酒とも違うまがい物の酒となるだろう。しかし、漬け込む果実ブドウでなければ果実酒と認められるのだ。これはおかしいのではないか

酒の歴史人類発祥よりも古い。エチルアルコールブドウ糖の発酵で生成されるので、理論的には果物が腐らず発酵するだけで酒ができるのだ。よって文明や知性が酒造に必要とは必ずしも言えない。日本には猿酒という伝承があり、猿が木の洞(うろ)に果実を貯めて造った酒のことを言う。サルナシはその伝承から名付けられている。海外では伝承ではなく実際に動物が酒に酔う姿が観測されている。それも霊長類に限ったことではない。アフリカゾウがヤシ酒を飲んだり、ヘラジカ発酵したリンゴで酔ったりするそうだ。アフリカ大陸にはマルーラという糖度の高い果物があり、様々な野生動物がマルーラで酔っ払っている姿をYouTubeなどの動画サイトで見ることができる。

野生動物が様々な果実酒飲酒を堪能しているのに比べて、私の果実酒文化はなんと貧しいことだろうか。ホワイトリカーで作ったまがい物の果実酒我慢しているなんて。思うに、人類文明発祥とともに多様な果実酒文化を失ったのではなかろうか。

農耕と牧畜の発展により世界四大文明が生まれて、食糧供給コントロールする社会が生まれるとともに穀物由来の酒も発明された。その最初黄河文明黄酒であるコメやキビを原料とした酒で、紹興酒代表的黄酒である黄酒でも日本酒でもビールでも、ブドウ糖の無い穀物をわざわざ糖化させてまでしてアルコール醸造してきたのはその方がメリットがあるからだろう。果物ではなく穀物で酒を造る利点として、生産量・生産効率・保存性・主食への転用ざっと考えられる。

さら果実酒の衰退を加速化させたものとして蒸留発明が考えられる。蒸留技術アリストテレスが師プラトンから受け継いだ四元素説の応用からまれた。ちなみに蒸留熱力学理解不要であり、四元素説言葉を用いて以下のようにカッコよく説明することができる。

蒸留とは水(アクア)の形相(エイドス)【冷・湿】となって水中に溶解している酒精スピリタス)を、火(イグニス)の力で空気(エア)の形相(エイドス)【熱・湿】へ転換させて高純度の酒精スピリタス)を抽出することである

閑話休題蒸留技術シルクロードを通じて伝搬したことで、果実発酵させなくても蒸留酒に漬け込むだけで果実酒を造れるようになった。日本例外でない。倭寇時代焼酎が伝えられ、梅酒江戸時代誕生したと言われている。梅の焼酎漬けではなく、梅そのもの発酵させて醸造した事実はないかを調べてみたが、残念ながらわからなかった。そもそも、梅はブドウに比べて糖度がずっと低いので、アルコール発酵させるのは困難だろう。

日本ワイン以外の本物の果実酒はなかったのだろうか。そもそも国産ワインが登場したのは明治時代歴史が浅く、それ以前にワインが作られなかったのも不思議だ。ブドウ古事記で登場する程に歴史のある果物であり、黄泉平坂でイザナギ黄泉醜女に投げつけたという伝説がある。他に古事記で登場する果物に、柿・桃がある。どちらも糖度の高い果物アルコール発酵可能なはずだが、柿酒や桃酒などというものは見聞きしたことはない。そもそも歴史存在たかどうかもわからなかった。焼酎漬けではない柿酒や桃酒などという代物があればぜひ飲んでみたいものだ。

Permalink |記事への反応(1) | 13:12

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2020-01-23

anond:20200123183227

倭寇とんかつは千円ちょっとですごくおいしい

Permalink |記事への反応(0) | 19:13

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2020-01-15

anond:20200115150912

倭寇あんだけ無双できたんやからいけるいける。

Permalink |記事への反応(0) | 15:09

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2019-11-06

ウィーン芸術展の公認取り消しって異常なの?

ウィーン反EUEU死刑復活なんかの政治的主張を盛り込んだ芸術展やっても公認してくれるのかね?

皮肉とかじゃなく普通に疑問として

他の国はどうなんだろう?

アメリカ公認撤回どころか確かめちゃくちゃ文句言ってたし

中国言わずもがなだし

韓国も土着倭寇言われて出版停止とか訴えたりされてたけども

欧州だけはそれでも公認続けてるのかね

Permalink |記事への反応(1) | 11:44

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