
はてなキーワード:体育祭とは
さっきケンタッキー・フライド・チキンの店舗前を横切ったらさ、よく見えねーけど、なんか女子高生っぽい白い制服の集団が、楽しそうにしてたわけですよ
それをみて思ったのがさ、俺は結局、女子高生になりたかったというか、女子高生である瞬間が欲しかったんじゃねえかってこと
厳密に言うと女子高生ならなんでもいいってわけじゃなくてさ
・パッと見でなんの部活に入ってるかわからない(運動部の快活さも、吹奏楽部や美術部の陰湿さもない)
・それなりに朗らかだけど、なんとなく笑顔に陰があるような感じがする
・カバンに古い映画(バックトゥザフューチャー等)のキーホルダーをひとつだけ付けている
・電車の中でスマホを見ないようにしているが、それは謎の見栄によるもので、家ではメチャクチャスマホを見ている
・写真に映るのをなんとなく嫌がる
・運動神経が悪い
・陰口を言わない(人のことをあまり悪く思わないので、言えない)
・授業に出てきた本(現代文の小説や、世界史で紹介される名著)を買って読んでいる(が、中身はそこまで分かってないらしい)
・仲のいい2人くらいの女子だけは(名前)ちゃんと呼び、あとの人は全員(苗字)さんと呼ぶ
・どうでもいい雑学に強い
・星とかに詳しい
・川が好き
・授業中はメガネ
・猫がいると「お、ネコだ」と言うが、近寄らない
・静かだけど喋ると面白い人、的な扱い
・駅のホームで、人がいない端っこのほうに行きがち
・登校時間が遅い
・友達といるときは箒でエアギターやってる姿などもまれに見られる
・無地の服を着がち
・授業中、全然寝ない
・髪は後ろで括っていることが多い
・スマホケースに何の装飾もない
・体育祭のフォークダンスでは、わりとちゃんと手を繋いでくれる
・踊り自体は下手
そんでさ、ケンタッキー・フライド・チキンで楽しそうにしている3人組の中の、いちばん大人しそうな子が俺でさ、でも、会話の中でちょいちょい面白いことを言って、「もー増田ちゃん!!」とか言われてるってこと
3人が解散したあと、笑顔で2人を見送って、スッとクールな表情になって歩き出すんだけど、足元で小石を蹴ったりしているということ
イヤホンを取り出して聴き始めた曲は、British Grenadiersみてえな、クラシックなのかなんなのかわかんない、聴けばわかるけど聴こうと思って聴いたことはないような曲であるということ
駅のホームで偶然彼女を見かけて、会釈をしたら、向こうも眉を上げてはにかみながら会釈を返してくれて、しかもなんか片手まで挙げてくれる、ということ
そういう感じのね
弟は「良い奴」だ。明朗快活で行動によどみが無く、それゆえ友好関係も広い。物怖じしない性格で、自分の望みを果たすためには投資をためらわない。中高で入っていたバスケットボール部ではキャプテンを務め、体育祭では応援団長の役目を買って出ていた。なんというか、いわゆるクラスの一軍である。
弟は専門学校を出たのちに、水産系の企業に就職した。船に乗って遠洋に出ていたこともあった。いまは別業界に転職しているが、話を聞く限りどうやら職場の人間関係は良好で、金払いも良かったようだ。僕は大学院生なので、弟に高い食事を奢られたことがある。
僕は弟のことが嫌いではない。それどころか、むしろ応援している。弟は、僕にできないことができる。まごうことなく「人間」をしている。僕は忙しそうにしている店員さんに遠慮なく自分の要望を伝えることができないし、友達を家にたくさん呼んで、楽しくお酒を飲んだり笑い話をするなんてこともできない。はっきりと言うが、なにかこの状況に不足があるとするならば、それは僕にあると思う。どちらかといえば僕がひとでなしなのだ。自己の土台があやふやで弱く、諸般の「実際」に関わる能力に劣っているのだ。
ところで僕は幼少のころ、弟にいじめられていた。兄にも関わらず。年子なので年齢差は小さかったし、弟の方が身体が大きく、力も強かった。下賤な言い方をすると、「オス」として優秀だった。
食卓で、弟の好きなものを先に食べたら、肩を箸で刺されたことがある。僕は、そこで泣いたりしたら負けたことを認めてしまうと思って、余裕を見せるアピールのつもりでへらへら笑っていたが、実際ものすごく痛かった。傷跡は25になった今でもはっきり残っている。ゴキブリ用の殺虫スプレーを顔面に散布されて、顔の筋肉が麻痺痙攣したこともある。母親が外出中でのことだったが、当時、母には打ち明けられなかった。中学生になっても弟が怖かった。共用のWiiUを占有されていた。弟が塾通いで不在の時にだけ、ひそひそ隠れてゲームをしていた。暴力や、人格の否定が怖かった。自分の弱さを突き付けられるのが怖かった。僕は勉強机に「死にたい」と書いた。希死念慮というほど固まった願望ではなく、本当に死にたかったわけではない。ただ、自分の弱さと、居場所の無さに情けなく、それら問題を誰かにどうにかしてもらいたかった。母にそれは見つかり、「命は大切にするもの」と叱られて終わった。ささやかでみじめな抵抗だった。
弟から結婚の報せを受けたその瞬間のこと、僕には目立った感情の動きがなかった。驚きがなかった。ただ、「まあ、だよな」との納得があった。嬉しさもなかった。「まあ、これは弟の話で、人生で、兄の自分のことではないからな」と、頭に自分と弟とを分別して考える壁が生えていた。置いていかれる悲しさもなかった。「まあ、自分が結婚できないのは当然だし、他人から愛を感じたこともないし、そういうものだろうな」と受け入れた。
僕は後付けで感動した。感動しておくことにした。こういうとき、兄ならば結婚を祝福するのが普通だろうと思って、「おめでとう」と言い、表面上喜んだ。
僕はひどく自己嫌悪した。僕はなんという砂漠で、渇いていて、不気味なんだろうと思った。弟の結婚ひとつも、心根から喜べないのか? どこまでも人間のロールプレイで、周りの真似事で、そして愛を受け取れないのか? 弟にいじめられていたからだろうか? もし弟に昔のことを誠心誠意謝られたら、僕の中に情動は沸き起こってくるのだろうか? こんなことを考えていては、慶事に対する何かしらの冒涜ではないだろうか?
これは嫉妬ではなかった。弟は僕にとって、嫉妬を抱く対象ではない。ステージが違いすぎる。比べても仕方が無い。だからこそ、余計に自分が目立つ。このステージにはもはや自分しかいなかった。横に並ぶものはほかにいなかった。
被害者意識にまみれた、この醜い自分をどうにかしたい。癒えない傷ばかり抱えてうじうじとしている自分を殺したい。もしかしてこれが希死念慮か? 僕は何年か越しに、また「死にたい」と書くことになるのか?
こんど両家の顔合わせがある。どんな面下げて僕は行けばいいのだろうか。少しでもマシな気分になれることを祈る。
祭りないとなんかずっとつまんなそーに生きてるじゃん
やった方が良いよ、なんやかんや言っても
__
オリンピックとか万博とか、ここまで盛り上がると思わなかったもん、なんだ好きなんじゃんって
本当に誰も行かないならやめたほうが良いけどさ
学校の行事みたいなもんで、文句言いながら結局楽しむやつが割と出るならやったほうがいいんじゃね
ほっといても個々人はパーティーするわけでもないし、民間は確実に儲からないとやらないしさ
もちろんやるならちゃんとやって欲しい、反省点は多い、上手くやってほしい
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ごめん、「もっと」って語弊があった、個人的には今くらいのペースでいいとは思う
お前らは要は体育祭とか学祭で文句言ってるめんどくさがりってことだろ?結果だけ見ると
国はよくわかってるわ
Permalink |記事への反応(27) | 00:07
かつて公立高校の教師をしていた。何年も前に辞めて、今は別の教育業に従事している。その頃の思い出が脳裏によぎることが最近よくある。どこかで書いたら心の整理がつくのではと思った。
なお、この日記は身バレ防止のために、ChatGPTにお願いして文体を変えている。鼻に付く文章があれば申し訳ない。
これから書くのは、最後に赴任した高等学校でのことだ。実は普通の高校ではない。訳アリの子が通うための高校だった。
いわゆる、事情がある子というのがいて、全日制の高校に進学するとか、通い続けるのが難しい。そういう子が通うための学校である。仮にポジティブ学園としよう。
3部制を採用していて、午前・日中・夕方以降の3つの中から、自分にとって都合のいい時間帯を選んで履修できる。早い子だと、普通の高校生のように3年で卒業する。
制服か私服か、自由に選ぶことができる。アルバイトができるし、メイクもピアスも全て大丈夫。髪染めもOKで、ピンクや青髪で学校に通う子もいる。
ここに来る前、私は全日制の高校にいた。地元では人気のあるところだった。毎年冬にある推薦入試の倍率は20倍を超える。そういう学校である。人口だと約40万人が在住する地域だったが、その中でもトップに近いところだった。
真面目な生徒たちに囲まれてたと思う。彼らは偏差値の話もしていたけど、それ以外にも部活動とか友達との交流とか、文化祭・体育祭など、とにかく人としての「生きる力」というか。そういうのに溢れていた。
当時の私は、まだ30代のヒラ教師だった。それが高校生のあるべき姿だと思っていた。学業が一番で、余った時間で部活動その他の自己を高める活動に取り組むのだ。
だが、ポジティブ学園に赴任して、現実を思い知らされた。自分がこれまでに教えてきた生徒らは、いわゆる上澄みというやつだった。毎日学校に通学して、学業や部活動や趣味に打ち込むことができる時点で、高校生としては相当できる方である。
今でも思い出す。ポジティブ学園に通う生徒らは……教室の隅でうつむく子や、理由をつけては学校を休む子。授業など聞く気すらない子、授業中に堂々を飲み食いする子。なんというか、彼らには当時の県教委が教育の柱としていた理念のひとつ、「生きる力の醸成」が通用しなかった。
そうした生徒たちに、私は何もしてやれなかった。何をしたらいいのか分からなかった。ただ毎日、教科書に従って授業を進めるだけ。彼らに対して指示や指導をすることはあったけど、そもそも内容を理解できてるかも怪しい。
一応、入学試験はあるのだが、実質的に全員合格させるスタイルだった。普通の高校に行けない子――そういう子のための最後の受け皿としての役割を、ポジティブ学園は担っていた。
最初に話したとおり、ここは「訳アリの子」が通う学校である。不登校経験者とか、昼間は家業を手伝う子とか、家計を支えるために夜働いている子。様々な事情を抱えて、全日制のレールから外れることになった生徒たちが、自分のペースで学び直す場所だ。
赴任の初日、当時の校長は私に言った。「ここは、生徒たちが『それでも学びたい、高校生をしたい』と選んでくれた場所です。先生の役目は、彼らの気持ちを全力で応援することです」ってさ。
さっきと矛盾するようだが、生徒たちはひたむきだった。普通の高校生と一緒で、やる気のある子はいるし、そうでない子もいる。昼間の授業中、うるさい教室の中でも真剣にノートをとる生徒とか。放課後になると、「じゃあ働いてくる~」といった感じでアルバイト先に向かう子もいた(ほぼ金髪の子だった)。
夜間部の教室だと、疲れ切った顔で教科書と向き合う生徒もいた。全日制の「普通」とは違うけれど、彼らには彼らの「普通」があった。
赴任してから次の年度、就職指導を担当することになった。人生初経験である。私は民間企業で被服の営業の仕事をしていた。泥臭い仕事を約十年やっていたということで、白羽の矢が立ったのだと思われる。
これまでの学校では就職する子や、専門学校に行く子は稀だった。仮にいたとして、実際なんの指導も必要なかった。受け入れ先の企業も「なんでこの学校の子が……」といった顔パスに近い扱いだった。
履歴書の書き方一つとってもそうだ。社会人でいうところの空白期間。不登校だったとか、全日制の高校を中途退学したとか、中学卒業してからフリーターだったとか、あるいは何もしてなかったとか。
そういう経歴を書く場面になると、彼ら彼女らは詰まってしまう。無理もない。これまで何度も、そのことで心を痛めてきたのだから。
私は履歴書を読み直す度に、「君の経験は無駄じゃない。乗り越えた証拠なんだ。学校、来てるじゃないか!」と声をかけた。最初は疑いの眼差しだった生徒たちも、次第に心を開いてくれるようになった。心を開いてくれない子もいたけど、それは致し方ないのだ。
私は教師だから、「いつかは通じるはず。別に今じゃなくても、数年後だっていい」と思って就職指導をした。
秋のある日。就職関係のイベントがあった。「○○圏域 企業と学校の交流会」みたいな名称だった。これは、企業と学校(大学、専門学校、高等学校、専修学校その他もろもろ)のそれぞれの担当者が各ブースで話し合いの場をもつというものだ。
企業からは採用担当者が、学校からは就職支援の担当者が出席する。参加団体は企業だけでも100社を超えていた。学校からは、その地域の学校という学校はほぼすべて出席していた。
ここに、私と校長の2人で出かけた。目的は、企業の方々にポジティブ学園を知ってもらうこと。うちの学校にはただでさえ偏見が多い。少しでも解きほぐす必要がある。
たくさんの企業ブースが立ち並ぶ中、それこそ時間が許す中、多くの企業ブースに足を運んだ。校長自らが話をしていた。約十分ごとに挨拶から始まって、学園の概要説明、どういう子がいるかや、これまでの就職実績など。
そして、いつも最後に、「わが校には、難しい状況にある子が通っています。それは事実です。そういう状況でも、彼らは自分の道を切り開く努力をしています。面接の際に見かけましたら、どうぞよろしくお願いします」と相手先企業に伝えるのだ。
企業の反応は……まあ、社交辞令みたいな感じだった。「わかりましたよ、でもうちの会社の採用対象かどうかはねぇ」という表情だった。
そういう反応になるのも無理はない。ポジティブ学園は、県道沿いの大きな平地にある。昔は地域の伝統校が鎮座していた。少子化で別の学校と合併になり、校舎が空いたところに県教委がポジティブ学園を創設した。
例えば、毎朝の登下校時、いや昼以降の登下校時でもそうなのだが……校舎前の県道には、ダボっとした私服で、髪を染色していて、ひと昔前の不良漫画(今時でいうと薫る花は凛と咲く)の雰囲気を漂わせた未成年が闊歩している。初めてその光景を見る人からすると、「そういう高校なんだ……」という感想になる。
だから、企業担当者がうちの学校に対してそういう態度になるのは、ある種の必然だと思っていた。偏見を持たれてもしょうがないって、当時30代半ばだった自分は感じ取っていた。
そうでない企業もあった。社交辞令とかじゃなくて、真剣にこちらの話を聞いてくれる。というか、むしろ聞きたいという恰好で話に臨んでくれる。
半導体装置を作っている会社がそうだった。その時も、校長は満面の笑みで相手方の採用担当者に熱心に話をしていた。
「○○さんは、福山を代表するハイテク企業でいらっしゃる。我が校にも理系の才能を持つ生徒がたくさんいるんです。どうか、偏見なく見てやってください」
そしたら採用担当者は、少し戸惑った表情になって、「私達を馬鹿にしないでください。もちろんですよ(^^)」と答えてくれた。
それから数年か後のこと。ポジティブ学園の進路実績だが、創立当初からずっと変化はなかった。大学進学者だと地元にある限りなくボーダーフリーに近いところか、地元の専門学校、地元の民間企業だった。そもそも、ここまでたどり着ける子自体が少ない。入学した子のうち1/3以上は中途退学してしまう。
その年のことはよく覚えている。3年生に1人の生徒がいた。名前は仮にケンタとする。プログラミングが好きな子だった。授業中も休み時間も、ずっとPCの画面とにらめっこしていた。授業中にも堂々と副業的なことをしていたが、単位は取っているので見逃していた。
ケンタは、数学や情報処理の成績が抜群だった。数学の問題でも、いつの間にか自分で勝手にアレンジして、勝手に問題を解くようなプログラムを組んだこともあった。
それを友人に共有しようとしたが、難しい様子だった。能力・興味的な部分もあるし、自分だけのノートPCを持ってる子が少ないのもある。
ケンタは中学校の時は不登校だったらしい。原因は、特定の誰かからいじめられたわけではなく、「教室という空間がなんか違うと思った」からだと言う。
大人だったら「息苦しい」ということになるのだろうか。全日制の高校には行きたくないと、自らこの学校を選んだ。
私は、彼の才能を埋もれさせてはいけないと思った。彼とは幾度となく話をしたけれども、ただ生きにくい性格であるだけで、才能はあるのだ。
私は就職戦線が始まる直前にケンタを呼んだ。「この会社を受けてみないか?」と誘ってみた。さっき上の方で話した半導体装置の会社である。半導体以外にも、ディスプレイや機械制御装置も手がけていた。
ケンタは驚いたような、呆れたような様子だった。「知らない会社ですけど、半導体には興味ありますけど、無理だと思います」と言ってた。
「お前はできる。この会社は理系の才能を求めてるし、才能を正当に評価してくれる」
と言うしかなかった。実際、私の出身地域では評判の高い企業だったし、2025年現在では全国的に知名度のある企業にまで成長している。
強引に進めるしかないと思った。何しろ、ケンタは卒業後の進路を決めてなかった。とりあえず先延ばしにしている印象だった。
そこで、ケンタをどうにか説得して、彼の履歴書を添削して、推薦状も書いた。履歴書には、不登校だった過去も、ポジティブ学園を選んだ理由も正直に書かせた。彼のプログラミングに対する情熱を備考欄にこれでもかというほど書き連ねるようにした。
面接練習のとき、ケンタは口ごもることが多かった。相手の目を見て話すことが苦手だった。コミュニケーションが苦手なタイプ。正直、公式な場での会話が難しい子だと思う。
けれど、たどたどしい感じになっても、自分の思いはちゃんと伝えてくる子だった。
「大丈夫だ。プログラミングの話になったら、お前はきっと大丈夫」
※AtCoderで最高位に近い色だった
私はそう言って、彼を送り出した。自分には確信があった。あの会社は、肩書きや学校名じゃなくて、実力で人を判断する会社だと。あのイベントの時、うちの校長の言葉に耳を傾けてくれたんだって。
約一か月後、職場に電話がかかってきた。あの会社の採用担当者からだった。胸がざわついた。
以下、話の内容である。言葉の感じも、当時の手帳を元に大体そのままにしてある。
「あの、ケンタ君の件で、社内で検討を重ねた結果、今回は採用を見送らせていただくことになりました」
「なぜですか?」
「プログラミングのスキルは、正直高いです。うちの主任技術者も高く評価しました。ただ……」
※この時私は、苛々とともにペンをカチカチしていた
「ただ、入社後のサポート体制を考えた際にですね。彼が当社の環境に馴染むことができるか、という点に懸念が残りました。不登校経験があるということも、正直に申しまして、入社後のメンタル面のリスクを拭い切れませんでした」
「それは、偏見ではないのですか?」
言ってしまった!と心の中で後悔した。先方の声が少しだけ硬くなった。
「そう言われても仕方ないかもしれません。しかし、会社の事情があります。我々もギリギリまで議論を重ねました。安易な気持ちで彼を採用して、もし彼が再び辛い思いをすることがあれば、それはお互いに不幸です。今回は本当に申し訳ありません」
電話が切れた後は、多分……しばらくボーっとして、職員室の椅子に座ったままだった。
あの時はこう思った。やっぱり、ポジティブ学園の子はそうなんだ。どんなに才能があっても、過去のレッテルから逃れられない。あの日イベントで抱いた期待を裏切られた気がした。
だが、その後の日々で、冷静になって考えてみた。
採用担当者の言葉に嘘はなかった。彼らは、私が抱えていた不安を彼らなりの言葉で伝えてくれただけだ。
採用すれば良いというわけじゃない。無理に引き受けて、彼の心の傷をさらに深くしてしまうかもしれない。
そう考えたとき、彼らの不採用という決断は、ある意味、生徒のことを真剣に考えてくれた結果なんだと思った。
むしろ、偏見だと決めつけて、彼らに向き合わなかった私の方が……傲慢だった。
ケンタに不採用の知らせを伝えると、しばらく沈黙が続いたっけ。
「そうですよね~僕みたいなのが、あんな会社は無理ですよね」ってケンタが言うと、心にグサッときた。
「ごめん」としか言えなかった。生徒に謝る事態なんて、教師として三流以下だと思った。
ここまでがポジティブ学園での思い出である。それからケンタは、遠方にあるコンピューターの専門学校に進学した。私が様々な方向性を提案して、ケンタと話をした結果、彼が自ら考えて決断したのだ。
ケンタが高校を卒業して、何年もの月日が経った。最初のうちは、メールで年に何度か近況報告をもらうこともあった。プログラミングがやっぱり楽しくて、大会にも出場しているといったことだった。
やがて、やり取りをすることもなくなった。それは彼がナニカに集中するようになったからでは、と心の中で期待していた。やがて、ケンタのことを思い出すこともなくなった。
ある日、一通のメールが届いたのだ。ケンタから。内容は、就職先の内定のことだった。「報告があるのですが、○○(※あの半導体の会社)に内定をもらいました」という端的な文章だった。
「うわっ!」と、思わず声を上げてしまった。その端的な文章の下に、いろいろと書き連ねてあった。彼らしく、無駄が一切ない文面だった。
要約すると、専門学校で就職インターンシップに申し込む際、事前説明会があったとのこと。参加した時、人事の方に「ケンタ君だよね?ポジティブ学園の」と声をかけられたという。
「あの時の採用担当者の方が僕のことを覚えてました。『あの時よりも自信に満ち溢れている』って言われました。」
「専門学校で、僕はプログラミングのスキルだけじゃなくて、コミュニケーション能力も、人との関わり方も学びました。飲食店でアルバイトもしました。おかげで、あの時よりも、面接で自分の言葉でしっかり話すことができたんです。あの時、もし会社に受かっていたら、僕は挫折していたかもしれません。…(中略)…でも、先生が僕の可能性を信じてくれたから、僕を諦めなかったから、頑張ることができた。本当に、ありがとうございました」
キーボードを触りながら、返信しようと思いつつも、手が震えてうまくできなかった。
私はあの時、半導体の会社を偏見で判断した。ポジティブ学園の子だから、そういう目で見たんだろうって。そして、生徒の可能性を信じきれず、不採用という結果に囚われた。
でも、本当にケンタに向き合ってくれたのは、彼らの方だった。再認識させられた。成長したケンタを、あの人達は今度もまたちゃんと見て、採用という判断をしてくれた。それだけだ。
ここで結びにする。
あの学園にいた時は、生徒たちの「訳アリ」の部分に目がいってしまうことがあった。でも「訳アリ」なのは、過去の物語によって起きた結果にすぎない。彼らは皆、自分の人生を懸命に生きている。できる子がいたし、できない子もいたけど、未来に向かって進もうとしていた。
私はもう学校教諭ではない。けど、あの頃は就職指導の先生としてだけじゃなく、人として彼らの未来を信じて背中を押し続けたつもりだ。
自分は応援団のひとりに過ぎないと思っていた。でも、応援された生徒は、やがて自分で未来のことを考えて、切り開こうとチャレンジする。そういう人になってほしいと願っていた。
今は、別の形ではあるけど、若い人にものを教えている。学校と違って、純粋に実務上の知識や技術を教える仕事である。
これからも、誰かの未来を応援し続けようと思っている。それが、訳アリの子の就職指導をしてきた、自分にできる使命なんだと思ってる。
LINEオープンチャット「はてなブックマーカー」の1週間分の要約を、さらにAIを使用し、試験的にまとめまています。
https://anond.hatelabo.jp/20240722084249
参議院選挙の期間はつらかった。
というのも参政党が大躍進した結果もそうなんだけど、その過程で外国人問題なるものが選挙の大きな争点になった結果、自分のような外国人のパートナーを持つ人間にとってはマジで辛い日々だった。
自分のパートナーは「えええ、私実は〇〇人なんですよお」って自己申告しない限りは外国人って気づかれないレベルで日本語を上手に話すので、当然日本人ファーストとかその他馬鹿馬鹿しい排外主義的な言説全部聞き取れてしまうのでそれはもう選挙期間中は可哀想だった。
(どこの国でも自国民ファーストは当たり前だろって言う声が聞こえてきそうだけど今回の本筋からは外れているのでこの点についてあまり深く議論する気はない。読み流してくれたら良いと思う)
で、まあ自分のパートナーが心を痛めてるので自分なりに「これはなんとかしないといけないなあ」とおもっていつもはなんとなく投票してるんだけど今回は本当に真剣に考えてみようと思っていろんなところにアンテナも貼って可能な限りいろんな党の演説も聞きに行って色々考えたんだよ。
自分なりにね。
その結果、自分が本当に感動したのが「共産党」だったんだよね。
本当にね、外国人差別とか排外主義を煽る参政党とかに対してしっかりnoを突きつける演説には感動したし、隣にいた自分のパートナーも号泣してたよね。
「私本当にここでこの演説聞けてよかったな」って泣いてたよ。
自分も本当に感動した。
自分と同じように街頭演説に外国人のパートナーと手を繋いで危機に来てる人たちも数組いたしなにより、街頭演説に手話通訳がいたよ。
あれはすごいと思ったね。
自分が外国人差別について触れてもらった時にすごく感動したのと同じように、手話通訳がそこにいることで感動する障がい者の方もいらっしゃるんだろうなぁと思ったよ。
あれは本当に素晴らしかったね。
どうか自分とパートナーの未来を守ってくれって思いながら、本気で投票したんだ。
結果はみんなご存知の通り、今回の共産党は大敗だった。代わりに参政党は大躍進。
だけどその後共産党がこの選挙の総括をどうやるんだろうって思ってた。
たとえ絶望で終わったとしても、これから先に彼らの語る言葉に何か希望をみつけたかったんだけど、
なんか「ここまで自民党を追い込んだ選挙は初めてだ」とかなんとか言ってたよ。
いやいや、追い込んだのは参政党であってお前たちじゃねえだろ?
とおもったね。
ていうか、もっと悔しがれよと思った。
自分みたいな、共産党に想いを込めて信じて投票した人たちに対して「負けてごめんなさい。本当に悔しいです」とかそう言うのないの?って。
なんか、負けたくせに人間味もなくて爽やかな顔してまるで白組が勝った体育祭で、赤組の団長が「負けたけどみんなで戦えて団結できたことが誇りだったと思う」みたいな爽やかな顔していうスピーチあるじゃん。
でも選挙って体育祭じゃないわけで、こちとら自分の未来を賭けて命懸けで投票したつもりだったのに、当の本人たちはなんで負けたくせに爽やかなんだ?って思っちゃったよな。
そこまではまだ違和感で済んでたけど、
どこに投票したら良いかはわかんないけど、国民として選挙には参加したいと思ってるフワフワしてる人な。だけど今回初めて自分と自分のパートナーの生活が脅かされるような政党が出てきたから本気で考えて投票したんだよ。
なんで共産党に投票したかというと、共産党の議員さんと街頭演説のスピーチが本当に素晴らしかったからだよ。それしかない。
だから投票した段階では自分と共産党一対一の物語だったんだけど、選挙が終わったら一度は涙を流すくらいに入れ上げた政党だから気になって色々見てるとマジでがっかりすることが増えたよね。
それが、参政党カウンターをやってる一部の過激な人たちから始まるわけ。
あいつらさ、共産党支持ってでかい声で叫びながら、参政党の女性議員に中指立てたり、でかい声で演説遮ったりするだろ?
ヘイトスピーチを許さないとかなんとか言ってるけど、なんでお前たちが人様の言論をヘイトスピーチかそうじゃないかを分ける側にいるって勝手に決めてるんだよ。
あと、中指立てんなよ。
女性に対して何やってんだよ。
大体、自分は共産党のトップが女性で、女性の働き方とかそういう他の政党があんまりやってない女性問題を女性目線でやってる姿勢もリスペクトできると思ってたんだぞ。
それなのに、その共産党支持しながら女性に中指立てるって、お前たちは中指立てていい女とそうじゃない女で選別でもしてんのか?
だけど何よりもがっかりしたのは、そういう馬鹿どもを叱りつけるんじゃなくて一緒に写真撮ってる共産党の議員どもな。
お前らも全部馬鹿だよ。
何やってんだよ。
あのな?中指立てでスモークたいて人の言論を罵声と暴言で打ち消すような人間世間から見たらヤバい奴らでしかないんだよ。わかるか?わかんねえのか?
それと仲良しこよしで写真撮ってsnsにばら撒かれて、それで民心がついてくるとでも思ってんのか?
なんでヤバい奴らと写真撮ってただでさえ誤解されやすい党名背負って、どうして選挙で負けてニコニコしてんだよ。
「参政党が勝ったのは人が不幸になれば喜ぶ日本人がたくさんいたから。日本人は性格悪い」
とか、
とか、虫唾が走るような発言ばっかり繰り返して、他者を見下すために共産党を使ってるようなインフルエンサーともなかよしこよし。
なんでこんなことすんの?
マジで言いたいんだけど、自分は参政党はじめとして排外主義掲げてる変な政党が本気で怖いんだよ。
だから戦ってもらわないと困るわけ。
あと、多分同性婚とか夫婦別姓とかそういうことを求めてる人たちだって本気でそれを実現して欲しくて共産党に投票してると思うんだけど、自分含めてそういう人たちに報いるためにあんたたちがやるべきことは議席を増やす、選挙に勝つことじゃないんか?
勝つ気があるなら、変な奴とつるむなよ。
共産党の名前を使って、エリート気取って大衆()を冷笑してる薄寒いインフルエンサーどもと手を切れや。
街頭演説で消費税減税のための財源の話なんてしたって、参政党に流れるような今苦しい人間には届かないんだよ。
自分がここまで怒ってるのは、自分が信じた対象が蓋開けてみたら高学歴文系大学生のサークル活動みたいになってたことを見抜けなかった自分にムカついてるからだよ。
そうだよ、共産党なんて信じた自分が馬鹿だったのかもしれない。
仲間内で気持ちよくなって、どんどん世間と溝が開いて、美しく消えていくのかもしれないね共産党は。
だけど自分は共産党があの日、追い詰められた自分とパートナーの前で反差別を叫んでくれたこと、排外主義にNOと言ったことだけは忘れられない。
だけど、多分次の選挙で自分は共産党には票入れられないと思う。
共産党が有権者と支持者に報いるためには選挙に勝つ一択なんだ。
そのくせその本番で負け続けて綺麗事ばっかり言ってるインテリサークルみたいなところにこれ以上自分の票をどぶに捨てるわけにはいかない。
自分みたいに思ってる人はたくさんいると思う。
そんで自分が書いたこの文章さえ、「共産党を支持してる愚かな大衆とは違う自分」に酔いしれてる沈みゆく船の客たちの餌にされるんだろうな。
多分見られない。
きっとこのまま消えていくんだろうな。
残念すぎて、泣けてくるね。
弱者男性だが、大体世間ではチー牛オタク弱者男性で運動も勉強も仕事も出来ないというのが定説になっており
リベラルやフェミニストほどそれを口汚く罵る傾向があるのは増田なら周知の事実だろう(複垢フェミなどのフェミ系とかよく目にするだろうし)
俺自身は勉強と運動に苦手意識があり年収も低いから間違ってはいないだろう
他の弱者男性増田たちも身体スペックは様々だろうし良かったら書いて欲しい
父親が陸上競技のエリートで(元県記録持ち)増田は運動よりゲームっ子だったが、遺伝なのか足だけはクラスで速かった
自分はテニス部だったが、周囲曰く不良の人間だったのでサボりの常習犯でもあった
テニス部のペアがかなり悪い奴で部も不良が多く(学校で酒のんだり軽かったり重かったりする放火騒動を起こしてる。増田は周りの認識とは別に真面目に生きたいと思ってたので犯罪とイジメはしなかった)
3年間の間にテニス部の顧問は俺の存在を無視し、練習を教えた事はなく俺はテニス部の友達から全ての技術を教わった
こんな状態なので俺の部活での成績は地方大会で良くて4回戦レベルで終わり二度と部活動はしたくないと思った
なおその不良一味の一人が後にあるスポーツで日本代表のメンバーになる
年末で祖父母の家に行くと従兄弟たちがいつもいるが、自分以外は全員クラスで一番ぐらいに足が速く体育祭ではクラス対抗リレーやクラス選抜リレーのアンカーを務めていた(陸上部はいなくて大体サッカー部か野球部)
増田はクラス対抗リレーで3回走らされたりクラス代表の選抜リレーに参加はしていたが、別に一番速い訳ではなかった
100mを中学生時代にギリギリ12秒台で走れて幽霊部員の割に速いねって言ってもらえても11秒で走れる訳ではなかった
なので若干親戚内ではこの時点で引け目はあった
ちなみに従兄弟は勉強も仕事も出来て、年収は聞いてないが平均年収が900万以上の有名な企業に新卒正社員で入ってるので年収は高いだろうと思われる
あと、仲の良かった従兄弟はイケメンで妻子持ちだが、俺と同じくグレてた従兄弟はイケメンで元ホストだが独身だ
多分弱者男性というのはスペックより環境で生み出されるのだろう
逸れた話を戻すと
大人になってから筋トレを始めると、人生初めてのベンチプレスに挑戦したその日に90kg、次の日に100kgを挙げる事は出来た
バーベルスクワットがシンプルにおっかなかったのと、俺みたいな筋トレカジュアル勢はジムのフリーウエイトエリアの空気が苦手なのだ
下半身のトレは何していいか分からんからレッグプレス175kg(マシンの最高設定)を片足で20回ずつぐらいやってた
運動に対して心理的な苦手意識があったのと、長距離走が本当に昔から苦手で才能もないが、不思議と性に合って継続することが出来た
最初は3キロ程度しか続けて走れず、ちょっと頑張るとすぐにシンスプリントになったり膝やったりしていた(今もすぐに膝は痛くなる)
今は走力は5キロまでなら何とかキロ4分切る程度で走れるが、10キロだと辛いのでキロ5分ぐらいで走りたい程度の走力で、ダラダラとスピードを挙げつつ走れる距離を伸ばそうと思っている
多分ランナーとしてはスピード型(パワー型?)でスタミナが壊滅的なんだろう
この靴なんか合わないんだけど……って思いながらも買った時高かったので未だに履いてる
「高3夏より前から受験勉強に本腰入れる奴とかキッショいカスだから」
こういう方針の県立名門進学校、どの地方(特に九州)にも必ずあるけど戸塚ヨットスクールとか昭和の受験少年院とかと同じノリとしか思えない。
「ほんと全部の競技が単なるレジャーだった。刑務所のソフトボール大会に近い」
伝統進学校出身なのにこう振り返る知り合いがいてかなり衝撃受けたんだけど、もしかして他にもそういう進学校って平気である?
俺も全国的に有名な伝統進学校出身(OBは学者や次官や大使や大臣や大企業社長や芸術家だらけ)なんだけど、
「現役合格なんぞ捨ててガチのガチで体育祭に打ち込むべき」という文化で、
それこそ体育祭に消極的で受験勉強やる奴は軽蔑を一身に浴びるくらいの勢いだった。
部活の定期戦とかで交流がある隣県のトップ高もどうやら同じような感だったので、伝統進学校というのはそういう所ばかりなんだと思ってたからびっくりした。
学校って「自由な発想を大事にしよう」って言うくせに、その発想が通知表に反映されたことは一度もなかった。
「みんな違ってみんないい」とか「個性を大切に」って言うくせに、違うことをしたら「空気読めよ」みたいな視線が飛んでくる。
だったらさ、最初からはっきり言ってくれたらよかったんじゃないの?
「これは競争です。偏差値を上げた人が将来の選択肢を多く持てるルールです」って。
「運動ができないと体育祭でつらい思いをするかもしれないけど、それはそういう構造です」って。
そしたら子どもながらに、「ああ、なるほど」って納得できた気がする。
少なくとも、「自由」って言っておいて評価してくる矛盾に苦しむことはなかった。
でも、自分にしかない興味があって、言葉にできない表現があった。
でも、評価はされなかった。
「がんばってるね」じゃなくて、「それって君がやったの?」って聞いてほしかった。
きっと、そういうふうに感じてる子どもって今もたくさんいると思う。
評価されなくていいから、まずはちゃんと話を聞いてあげてほしい。
「自由でいいよ」って言うなら、本当に自由にさせてあげてほしい。
もしそれができないなら、最初から「ルールはこうだ」って言ってあげてほしい。
それだけで、救われる子どもはたくさんいると思う。
昔ならラジオ局のライブラリーからCDかレコード持ってきてかけたり、マニアックなDJなら自前のCDかレコード持ってきてかけたりしてたそうだけど。
ホッテントリした↓でも触れられてるが、スマホ繋いでサブスクの曲かけるのは著作権的にアウトだよね?
サブスクじゃなくダウンロード購入した曲ならフィジカルと同じ扱いでセーフ?それともアウト?
中学の体育祭でBGMに流す曲をリクエストしてCD持って来てください!と募集があったが、サブスク全盛のご時世でCDが全く集まらない事態になっていた -Togetter
邦楽ならデジタル配信限定やサブスク限定の曲でもプロモーション用のCDをラジオ局に配ってたりするのかな?
でも洋楽はそういうのなさそう。
体育祭か何かをサボって空き教室に逃げ込んで、同じくウンチ(運動音痴)の陰キャの友人と漫画を回し読みしていた気がする
当時漫画といえばジャンプかりぼんかちゃおくらいしか知らなかったので、漫画の題材といい画力といい作風といい、乙嫁語りを読んだ衝撃はまさに革命レベルだった
当時はまだ2巻くらいしか出てなくて、今すぐ続きが読みたかったし結末が知りたかったが、およそ1年間隔という発行ペースを知り、一生完結しない気がして絶望した
さて当時私の心を捉えたのはパリヤさんだった
不器用で愛想がないが、よそ者だった主人公のアミルさんを助けて歳が離れているが友人になるのだ
乙嫁語りは嫁というだけあり、登場人物は適齢期のお姉様が多く、13,14歳のパリヤさんには親近感があった
不器用なところも好感が持てた
普通、りぼんとかなら不器用な主人公はそれが魅力として周囲からむしろ愛されたりするのだが、パリヤさんは不器用さが災いし、ガチで地元で浮いているのだ
パリヤさんに縁談話が持ち上がった際、私は何年かかってもパリヤさんの嫁入りを見届けると決意した
「丈夫そうだから」という一点突破でパリヤさんを選んだ猛者である
パリヤさんに感情移入するだけあって甘酸っぱい青春は送らなかったが、兎にも角にも結婚した
ていうかまだ結婚していない
掲載誌が変わり、今はどこで掲載しているのかすらわからなくなってしまった
パリヤさんを見る目は娘を見る目に変わってしまったが、やはり私は今でもパリヤさんの乙嫁姿を期待して最新刊を買ってしまうのである
20代女オタク、高校生までは絵に描いたような二次元オタクで中学校高校時代は同志たちと教室の隅でデュフデュフ笑っていた。
中学高校とそんな生活を送っていたので周りに一緒にハマれる友人がいるはずもなく、そもそもKーPOPなんてものはダンス部の陽キャが嗜むものだと思ってた。
KーPOPにハマって早5年ぐらい経つけど、まだオタク友達ができない。連番なんかチケットの同行しかしたことないし、その後も交流が続く人はまずいない。
繋がりたいタグを巡回しても、みんな「オタク」と言いつつめっちゃ可愛いんだよな......。私のような芋ブスはお呼びじゃないんだよなぁ.....。と思ってしまい、病むだけ。最初は単番の方が気楽でいいや〜なんて思ってたけど、最近は現場に行くたびに虚しさが勝ってしまう。
価値観が合って、趣味も合う自分の理想の人なんて簡単に現れるわけないよな...とは思うけど、どこかで期待してしまう。私だって本当はもっと若い頃からアイドルにハマってキラキラ推し活したかった。ライブで連番してうちわで顔隠しながら自撮りしたかったな〜〜!!もっと言えば高校の時に体育祭とか文化祭でティアラとか付けたかったな〜!!!!
青春コンプ拗らせすぎててやばい。こんな人間は近くにいるだけで不愉快になっちゃうから、誰ともつるまないほうがいいのかな。恥ずかしいし情けないけど、次の現場こそは(次も単番だけど!)開演前に写真を撮れるお友達作れますように!!
高校生の時に都立青山高校っていう東京都ど真ん中の高校に通ってた実情を書いてみる。
都会にいるっていうのが、どういう文化レベルなのかの一例となれば幸い。
青高は東京メトロ銀座線の外苑前駅の近くにあって、ヤクルトの本拠地の神宮球場の目の前の高校。
高校生クイズ選手権時の予選会が神宮球場にあったりしたんだけど、そこで一番近い学校だっていう事で注目されてた時もあった。すぐに敗退してたけど(笑)
国立競技場も近くて、僕は高校生の時はサッカー部だったんだけど、「いま一番国立近い学校だから(物理)」みたいな冗談はことは友達には言ってた。
まぁ、もっと近くに國學院高校っていう学校があって嘘なんだけど。
僕は大江戸線の国立競技場前って駅から青高まで歩いてたんだけど、国立競技場の敷地内を歩きながら学校に通ってたのは、なんか誇らしかった気持ちがあったかな。
あと高校生の時はお金がまじでなかったから(お小遣いが月3000円〜5000円だったから)滅多に行かなかったのだけど、ホープ軒で食べるラーメン美味しかった思い出がある。(今思うと全然美味しくないが)
立地はこんな感じ。
次にイベントについて書いていく。
確か5、6月ぐらいに体育祭があってその一環とし、応援団を作って、応援合戦みたいなのをやるのがあった。
応援団をやる人は2、3週間くらい応援団の練習をするんだけど、練習場所が代々木公園だった。
定期がある人は電車乗っていくんだけど、みんながみんな定期あるわけじゃなくて、代々木公園までは歩いていくってのが恒例になってた。
外苑前から原宿超えて代々木公園まで行く道ってのは結構面白くて、
インテリアショップとか眼鏡屋とかブラジル大使館とかあったり、
表参道を歩いたりとか、原宿の竹下通を歩いたりとかしながら、代々木公園まで行ってた。
今はなき原宿のコンドマニアで「お前買ってこいよ」「やだよ、お前いけよ」「なんでだよ!じゃあ一緒に行こうぜ」みたいやりとりをやってたりした。結局買わないんだけど、当たり前だけど。しょうもないけどそういうの楽しかったような気がする。今思うと全然面白くないが。
11月には外苑祭っていう文化祭があるんだけど、外苑祭では1年生から3年生の全部のクラスが劇だったりミュージカルをやるってのが伝統になってて、夏休みから外苑祭の前までは、「神宮外苑の絵画館」前のちょっとした広場的な場所で練習をしてた。
正直僕は外苑祭に乗り気じゃなかったから、全然練習参加しなくて数回だけしか行ってないくても、なんか思い出にはなってるね。
文化レベルって観点では、絵画館の建物自体がすごい美しい建物だったし、絵画館と銀杏並木の風景っていうのはすごく美しかったのは、高校生でも感じる部分があった。
イベント的にはそんなもんがメインで、その他の時期は普通に駅と学校を行ったり来たりするだけの生活してた。
個人的には、学校に自転車を置いたのもあって、学校サボって自転車乗って、原宿行ったり、246を赤坂方面まで走らせて、皇居らへんまでいったりとかは楽しかったな。
あと僕は部活やってたからバイトはしてなかったけど、周りの人とかは学校周辺でバイトやってる奴もいた。そういう奴は結構大人な世界を垣間見えたんじゃないかな。お金も増えるしね。
僕は遊ぶ金なんて全くなかった。だから高校生の場合、都心のど真ん中にあったとしても、そこまでは楽しめてなかったんじゃないかな。
まぁでも表参道とかの建築を見て、建築学科に進むっていう決断をしたので影響は大きかったのかもしれない。
お金が無いなりに楽しんだって思えるのは、原宿の古着屋でHanjiroっていうお店が全盛期だったんだけど、そこで100円になってる服を買ってた。てかそれしか買えなかったんだけど、あれは楽しかったな。
あとはまぁ、今はもうない明治公園でフリマがやってて、そこで 安く売られてる服とかを買ってたりしたな。
もちろん高校時代を都会で過ごした影響はかなり大きかったんだけど、僕の中で影響が大きかったのは、やっぱり大学ですね。100倍くらい大きいんじゃないかな?
高校の時は受動的にやること っていうのが多くて、能動的には動けなかった記憶があるけど、
大学生になったらぼぼ全部自分で考えて、行動するから大学生の時の方が、濃密な時間を過ごせたと思ってる。
まぁ今なら、文化ってインターネット発なのが多いし、都会にいなくても、最先端な文化に触れられるのじゃないかな?
僕が好きなVtuberのぽこぴーとか滋賀県出身で電車ない土地に住んでそうだけど、最先端いってる。
僕が高校生の時は、まだスマホとかなかったし(シャって開くタイプの携帯とか、インフォバーとかが流行ってた時期だったし)、高校生の時は家族パソコンしかなかったし、ニコニコ動画も知らないし2ちゃんねるも知らない。パソコンの授業の時に友達が「スーパーマリオのTAS動画」見せてくれた時も「おもしれー!TASさんって人まじで超マリオ上手いやんけ!!!」って思ってたレベルだったから、
住んでる場所の影響大きかったと思うが、今はどんどん差が縮まってきてる。
タイトルの意味が分かる人、良ければ雑文に付き合っていただきたい。
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中学受験が終わった。
うちの娘は1年前に私立見学をはじめ、娘が行きたいと言った2校に絞って受けた。
グレーの画面、不合格スタートだったものの、最終的にはどちらからも合格をもらえ、
娘の中受偏差値は40台、いわゆるボリュームゾーンにも届かないボリュゾ未満帯だ。
それでも中学受験を目指したのには明確な理由があるのだが、それは割愛する。
ここでは2026年以降にボリュゾ未満帯を目指す沼親さん達へ、
私の親としての経験と対策が参考になればと記しておこうと思う。
なお、「どこでもいいから私立にいきたい」という方にはこの記事は一切刺さらない内容である。
うちは足を運んで見学し、親子で納得した学校をピックアップして受験校を選んだ。
基本は子どもの気持ちを尊重したが、この学校のここ無理かも…みたいなところは、
娘に微妙な情報を出してちょっとだけ子どもの気持ちをコントロールし、受験校を決めた。
熱望校があるボリュゾ未満帯の沼親さんだけ、
「へー、こんな例もあったんだ」くらいの参考程度に、以下読み進めてほしい。
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まずは、受験の意思がある個人情報を提供するところから親の仕事が始まる。
学校行事(文化祭、体育祭)の参加は学校の雰囲気をつかむのにはいいが、受験対策にはならないと感じた。
あくまで受験生対象のイベントに行き、その学校を受験する意思があることを先方に見せよう。
最後の説明会で「2年にわたってご参加いただいた方もいました、ありがとうございます」と学校が話していたのを覚えている。
オススメは3校以内。ボリュゾ未満帯の場合は、チャレンジ校枠はないほうがいい。
そもそも偏差値で「ボリュゾ未満」とされているんだから、器用にいくつも対応することはできない。
(うちは過去問題集は1校しか買わず、もう1校は説明会でもらった問題集とネット情報のプリントで済ませた)
絞ることで過去問の傾向もつかみやすく、勉強しやすくなったと感じる。
このため、第一志望を決めたら進学塾にも早めに伝えておくといい。
うちは進学塾からも「第一志望の子がいる」と情報を伝えてもらい、
説明会の回数と塾からの情報で学校側に自分の子が本気で第一志望であると
答え合わせをするような感じだ。
その1に加え、個別相談はできるだけ行き、第一志望であることをさらに学校側にアピールした。
特に12月、1月に設定された入試直前の説明会や入試体験のチャンスはフルで活用。
n回目の情報もうなずいて聞き、10冊目かもしれないパンフレットも笑顔で受け取り、
個別相談ではとりあえず第一志望であることを伝えたうえで、適当な質問をする。
うちは第一志望に50%以上の判定がでていなかったので、
ボーダーラインギリギリの点数なのだけどどうやって加点を狙えばいいか、など
受験する意志があること、合格のためにしたほうがいいことなどを聞いた。
あとは娘ががんばって過去問をずっと解いた。答えを覚えるくらい解いた。
同じ問題は出ないけれど傾向はつかめるから、数字が入れ替わるだけの問題なんかも出る。
そしてうちの娘には、特待点は狙わずに、とにかくボーダー+10点程度を目指せと話し、
具体的にどの教科で〇点以上、みたいな目標を立てた。
算数では大問題ごとに分類して、計算ではいくつ正解、文章題ではいくつ正解のような感じの目標にした。
※これは過去問と同じ傾向で出す学校に限るので、入試説明会等で聞いて対策は変更する必要があるかも※
【その6】試験日程の組み方
まずは第一志望のn回をすべて埋め、そのあとで第二志望の入れるところを入れていった。
娘は第一志望のチャンスがn回ある、と先を見ることができたし、
全日程の出願で、学校にもまた「この子は本気で第一志望なんだ」と伝えることもできたかと思う。
※試験回数で受験料金が変わる学校は要検討でもいいかもしれないが、少なくとも私が見た範囲の都内ボリュゾ未満帯校は
だいたい一度試験料を払うと全日程出願可だったので、第一志望はフルで登録した※
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と、長々と書いたのだが、うちはいかにその学校が第一志望かを伝えること、態度で示すことに
割と注力したことは読んでお分かりいただけただろう。
ボリュゾ未満帯は学校側としても確保したい生徒の取り合いかなと思ったので、
この子は合格を出したら入学するということを言葉と行動で示すことは大事かなと動いた次第である。
実際、初日には不合格だったのだが、翌日の試験会場で先生から声をかけてもらい、
「昨日の点数はあと少しだったから、最後まであきらめずに受け続けてほしい」という言葉をいただいた。
たくさんの受験者(数十人はいた、100人近かったかもしれない)がいるのに、ピンポイントでうちの娘に個別にエールをいただき、
これで娘は心が折れることなく試験を受け続けたので、この第一志望ですアピールはかなり効いたと思われる。
実際、合格の出た試験では、娘が「目標点は絶対超えたと思う」と自信満々に戻ってきたとき、
また、これは推測なのだが、基本的に受験は点数で切られるシビアな世界だが、
定員が割れたときの繰り上げ合格などのラインは開示されていないので
この第一志望か否かは加点要素になるかもしれないと考えた。
合格ボーダーよりはるかに低ければ箸にも棒にも掛からないだろうが、
ボーダーあと少しの点ならば、もしかしたら繰り上げ連絡のときに引き上げてもらえるかも…なんて。
と長くなったが、以上がボリュゾ未満帯の親として行った伴走の記録である。
第一志望がいわゆる人気校すぎではなかったことからできたことかもしれないのだが、
伴走としてできることの記録の一つとして、ボリュゾ未満帯の沼親さん達の励みになれば幸いだ。
受験組の皆さんに🌸がたくさん咲くことを願う。