
はてなキーワード:任意後見とは
下手すると40〜50代から終活やってる人もいるけど、正直アホかと思う。
正気とは思えない。
終活に関わっている人間で、「終活とは何か」をはっきり説明できるのは、高齢者と日常的に関わっていて、かつ相談業務を担っている人間だけだ。
具体的には、病院のメディカルソーシャルワーカー、介護施設の相談員、役所のケースワーカー。
話が逸れた。終活とは何か、という定義は一旦置いておく。ここではまず、「意味のない終活」と「意味のある終活」を並べてみる。
・墓や骨に関する希望を考える
・献体
・既往歴、飲んでいる薬、かかっている病院等をまとめる
・親族と死後のことについて話し合う
どうだろう。
共通点も薄いし、粒度もバラバラなものが並んでいるように見えるかもしれない。
じゃあ改めて考えてほしい。終活は何のためにやるのか。
「自分が納得のいく死に方をするため」?
違う。
人はそう簡単に死なない。
まず慢性疾患になる。全身が痛くなり、動くのもしんどくなる。
だんだん認知機能が落ち、場合によっては入退院を繰り返し、介護保険サービスを使うようになる。
この過程で、自分自身の客観的な情報が整理されていないと、本当に詰む。
一生懸命、葬儀のやり方を考えておくことなんて、死に近づく過程では一ミリも役に立たない。
実際に死んだあと、戸籍と財産の全体像が分かっていると、親族はめちゃくちゃ楽だ。
これが分からない、しかも親族間で揉める、となると年単位の泥沼が始まる。
「葬儀なんてしなくていい!献体してくれ!」じゃなくて、お前の口座を全部リストアップして、冷蔵庫に入れておいてくれ、という話だ。
特に「誰が」「何を」やるのかを、自分のケースに置き換えて考えてほしい。
それが終活だ。
死ぬ側が一方的なホスピタリティを期待して、わがままを叫ぶことではない。
特に「迷惑をかけたくない」「できるだけお金をかけたくない」は、元気なうちによく言いがちな戯言だ。
迷惑はかかる。
認知症になれば、排泄が一人でできなくなれば、倒れたら、必ず誰かの手が必要になる。
多くの人は、自分は死ぬまで元気で、最後はぽっくり死ねるという誇大妄想を抱いている。
さて、ここまであえて触れずにきたが、終活において「しっかり動いてくれる親族がいるか」は、最重要ファクターだ。
いるなら、その親族と積極的に関係を作っておくことが一番大事。
「迷惑をかけたくない」と言って連絡も取らない、なんて愚策は論外だ。
一方で、そうした支援者がいない人はどうするか。
要するに「死後事務」を誰にどう任せるかという話だ。
依頼する相手は、「自分が85歳のとき、相手は何歳か」を必ず考えること。
親族もいない、金もないなら、行政の支援を積極的に使うしかない。
具体的には、地域包括支援センターと関係性を作ること。
国も本当は、これくらいはっきり言いたいはずだ。
ただ、「しっかりした子どもがいるかどうか」で話を分けるわけにもいかないし、墓探しからでも興味を持ってもらえる方が都合がいい。
衰えるほどに人と関わること。
終活は、それだけでいい。
任意後見人のが友達でもなれるからカルト宗教が悪用するというのと、
裁判を経由しないと使えず、親族などから訴えないと適応できない成年被後見人とは別物だろう。
カルト宗教が悪用することを前提に制度づくりをしないとならないのはそうだ。その上で任意後見人をカルトが悪用するから成年被後見人は良くないって筋違いもいいとこ。筋違いの批判は詐欺師やカルト宗教がよく使う手口だな。
成年被後見人の話をしているが。
カルト宗教は人を騙す詐欺組織という側面もあるから法律として裁判と要件を決めて枠組みを作らんとならん。
任意後見人の話を混ぜ込むということ自体、カルト宗教と宗教を混ぜ込んで宗教だから叩いてはならないみたいに、境界をわざとぼやかして非難の対象にさせないという統一教会の工作か?
昨年の秋、父が70少し過ぎで身罷った。
40年来の糖尿病持ちであったが、ずっと血糖値の自己管理ができていたのと母が食事のカロリー計算をしていたこと、あとはおそらく運が良かったのもあり、長患いにしては失明することも足を切ることもなく元気に過ごせていた。
ただ、最後の1年は認知症になって血糖値の自己管理ができなくなり、高血糖で入院したが医者と喧嘩して退院した後、週一で在宅看護を頼んで自宅療養して様子をみていた。血糖値の上下はありながらも比較的平穏に過ごしていたが、最期の1週間は急速に弱って歩けなくなり、在宅介護と在宅医療の準備を進めていた矢先に心不全で急逝した。
結局は長年の糖尿病で体が全体的に弱っていたのが諸々の引き金となったということなんだと思う。
認知症になるにはだいぶ若い年齢だったことに加え、普段の会話にはあまり不自然な点はなかったことから発見が遅れ、高血糖で入院した際に医者に「認知症の疑いがあります」と言われて検査したらそれなりに進んだアルツハイマー型認知症(脳血管性もちょっとある)で、要介護2に認定された。
父が要介護になる少し前に、増田の義母(80代)もある日突然歩けなくなり、要支援2から要介護4にジャンプアップしたことから、介護に関する多少の前提知識は持っていたため、介護関連の手続きは増田が引き受けた。
一昨年~昨年にかけてかなりバタバタして、「さぁ、これから本格的に在宅介護だ頑張るぞ」と気合を入れた矢先の突然の別れだったので、悲しさよりも拍子抜けした感が先に立ち、その後も涙に暮れて過ごすという感じにはならなかった。
母も兄も同様で、家族にあまり悲壮感はなく、家族みんな「やれる事はやった末の結果だ」とは思っている。
「もっと早く気づいていたら」とあの状況を回避する世界線を今も考えるが、どうにかなるビジョンが思い浮かばないので、おそらくどのルートを辿っても詰んでいたということだろう。
今月、母がワクチンを接種した。
実家が全国屈指のワクチン予約困難地域であるため、大規模接種センターで接種することにして私が母の予約をとり、当日も道案内がてら付き添ったんだが、「これ父さんがボケずに存命だったら、母さんと自分の二人分予約とって『俺はPCに詳しいから』とか得意げに自慢してたよね」という我が家あるあるの話をして笑いながら、ふと「そうか、これから折につけ『父さんが生きてたら〜』って話しながら生きていくんだな」と思い至った。
死んだ時には実感はなかったし、悲嘆に暮れることもないが、これから日々の中で父の不在に思いを巡らすんだと思う。
明日が父の日で、「そういえば父さんがいない父の日って初めてだな」と思ったので書いてみた。
あとは、これから家族の介護が必要になる人もいると思うので、増田の経験(2件だけど)から少しだけ。
・家族の介護保険証(65歳以上に届く青い三つ折りのやつ)の在り処と地元の地域包括支援センターの場所は普段から認識しておいた方がいい:本人不在でも、介護保険証持って包括支援センターに駆け込めばプロに相談に乗ってもらえる。向こうはいろんなケースを見てきた百戦錬磨の人達なので、自分の頭だけで考えるより良い方策を知っている。義母の介護でも父の介護でも地域担当のケアマネさんにとても助けられた。
・親が認知症になると銀行から預金を引き出せなくなるので、その前に手を打っておいた方がいい:任意後見制度とか家族信託なんかは基本的に「認知症になる前に契約しておく」ものなので、認知症になってからだと成年後見制度一択になってしまう。最近は銀行も認知症サポートのサービスを始めてるみたいだけど、これも基本的には事前に手続きが必要。
とはいえ、老化と介護は本当に個人によって状況が異なり、一意に「これ」という方策はないので、あくまでも個人の経験談として。