
はてなキーワード:他者とは
阿弥陀の数だけ強く成れるのか否かは知る術も無いが、日本では「アミダくじ」を知らない人の方が珍しいであろう。
では「阿弥陀」の名を冠する理由が何なのかを知っている人は、日本人全体の何%ぐらいだろうか。仮に「アミダくじがそう呼ばれるのは何故?」とクイズを出したら、正答者率は何%だろうか。
もし正答率が低いとすれば、その原因は、現代の我々が馴染んでいる「アミダくじ」と昔の「阿弥陀籤」とでは形状が大きく異なるためである。
現代の我々に馴染み深い「アミダくじ」は、複数の進路を上→下あるいは左→右のように同一方向に向けて平行に並べるため、全体的な形状として、謂わば「四角形」に見える。
それに対して昔の「阿弥陀籤」は、複数の進路が中心から外に向かって伸びる「放射状」に描かれていたという。この「放射状に伸びる複数の進路」が、阿弥陀如来の放射状の光背を想起させるため「阿弥陀籤」と呼ばれるようになったと考えられている。
これは、仏教美術に関心を持つ人の間では、比較的知られている豆知識らしい。ちなみに私は、仏教美術の本ではなく、数学の本を読んでこの豆知識を得た。
しかし、あくまでも個人的な想像ではあるが「阿弥陀籤」と呼ばれるようになったのは、単なる形状の類似に留まらず、心情的な理由も有ったのではないか?
このように私の想像を掻き立てるのは、中世に職人歌合(しょくにんうたあわせ)と呼ばれるものが存在したからである。歌合は、柔道の団体戦のように、二組に分かれた詠歌者のチームが、双方一人ずつ対戦者を出し、何らかのお題の下に各々歌を詠んで出来栄えを競った(もしくは、そのような体裁で歌集を絵巻物等として制作した)。つまり、歌合戦ならぬ和歌合戦である。
職人歌合の場合、各対戦毎の歌の題材としては、対となるイメージを持つ二種類の職人が設定された。例えば、鋸引きと石切り、獅子舞と猿飼といった具合である。和歌合戦の対戦者は、其々二つのうちどちらかの職人をモチーフに選んでから歌を詠むのである。
この職人歌合で興味深いのは、対となるイメージを持つ職人の組み合わせとして「巫(かんなぎ、巫女)と博奕[博打](ばくうち)」が登場する例が見られることである。現代では「博奕・博打」は賭博行為を指すが、ここでは賭博で金や物を稼ぐその人を指す。巫(シャーマン)が神憑りによって神託を告げる職であったことから、博奕・博打もまた、或る種の神託を告げる職として古人には捉えられていたことを示唆している。
賭博行為が神託の顕現と見做された理由は、一つには、賭博の勝敗を決定する過程(サイコロを振る、コインをトスする等)にランダム性、偶然性、不確定性が伴うからであろう。ヒトが結果を予見したり操作したりすることが殆ど不可能な現象であるが故に、超越者の意思がその結果を左右する、若しくは、結果を予見できるのは超越者のみであると信じられた。それが賭博行為イコール或る種の神託というイメージを生んだのであろう。巫(シャーマン)の神憑りによる神託も、忘我状態で口走る言葉の非論理性、飛躍性、意味不明性、不可解性が「超越者にしか発信や解読が困難なメッセージ」と見做されたのであろう。
アミダくじに対して、ランダム性、偶然性、不確定性が有るように感じるか否かは、人により若干異なるかもしれない。アミダくじは数学の本で取り上げられることがある(線形代数で置換が登場する際にアミダくじに喩えて解説する等)が、有限個の対象や離散的な対象を取り扱うことは、連続的な対象を取り扱うことよりも、低く見られがちな傾向がある。
そんなアミダくじではあるが、進路の本数が増えて、作り方に少し工夫を施せば、一見しただけでは直ちに結果を見抜くのは結構難しくなる。ちなみに増田が小学生の頃、学級当番を選出するのにアミダくじを用いていたが、くじの参加者各自が出発点を選択するのと同時に、横棒を一本書き加えていた。こういった工夫を施せば、作成者のコントロールを離れ、たかがアミダくじ程度でも、簡単には結果を予見できないものに変貌する。こうなると「結果を左右することや知ることは、ヒトには無理で、それが可能なのは超越者だけなのではないか?」というイメージを、アミダくじに対しても抱く者が現れておかしくはない。こうした「超越者のみが結果に関与し得る」というイメージが、或る種のくじと阿弥陀如来との結合を生む心理的な原動力になったのではないだろうか。とまあ、そのように私は想像するのである。もっとも、これは単なる想像であって、証明は不可能である。それに、古人が超越者をイメージしたと想定するにしても、如何にして阿弥陀如来が選ばれたのかを説明できねばならない。仏教美術研究の専門家の意見を聞きたいものである。
少し話題を変える。
職人としての博奕・博打が「神託に関わる者」と見做された理由を、初めに賭博行為やくじ引きのランダム性、偶然性、不確定性に求めたが、もっと直接的な理由もあり得る。
職人歌合の絵巻物では、骰子そのものは見づらいが、双六盤らしきものを手元に置く姿で博奕・博打の姿が描かれているので、彼らが骰子を持っていることはほぼ確実である。この骰子であるが、古の時代には、鹿の角や骨を加工して作られていたと言われている。現代人の感覚からすれば、木材や石を加工して作る方が、材料の入手も加工も簡単に思える。したがって、態々鹿の骨や角を骰子の材料として用いたことには、古人にとって、それ相応の理由が有ったものと考えねばなるまい。
鹿は、山野に棲まう神の使い、或いは、神そのものである。その骨や角を材料にして作られるモノである骰子は、霊的・呪術的な力を持つモノと考えられた(期待された)のではないだろうか。
おそらく、鹿の骨や角と霊的・呪術的な力のイメージの結合は、遠く甲骨文字の生まれた時代へと遡ることができる。漢字の起源となった甲骨文字が、亀の甲羅や動物の骨を焼き、そこに生じた亀裂(当に"亀裂"とは、甲骨卜占が無ければ生まれなかった言葉ではないか?)で吉凶を占った際に、その甲羅や骨に占いの結果を刻み付けて記録した記号・象形文字から生まれたことは、よく知られている。この卜占("ヒビ割れ[卜]"による占い)に際して、亀の甲羅と同じぐらいよく用いられたのは、四足獣の肩甲骨であり、中でもそれは鹿や猪のものであるという。
遠い昔の祖先が鹿の骨で吉凶を占った記憶が受け継がれて、鹿の骨(や角)に霊的・呪術的な力が宿るというイメージを生み、博奕・博打の骰子を制作する材料として選ばれたのかも知れない。そんな風にも想像する。
ところで、甲骨文字の生まれる元となった卜甲・卜骨に関しては面白い話が有る。
漢字・甲骨文字・古代中国の研究者である落合淳思氏の著書によれば、甲骨卜占を行なう際に生じるヒビ割れは、焼く前の甲骨に予め細工を施しておくことによって、どのような形状になるのかをかなりの程度までコントロール可能であるという(落合氏自らの実験と発掘された甲骨に残された痕跡に基づく)。「つまり、見かけ上では、甲骨卜占によってあらわれた神の意志によって政治をするという形なのだが、実際には王が実行したい政策を甲骨卜占を通して正当化していたのである」(落合淳思『漢字の字形』[中公新書2534]p8から引用)
この甲骨に残された人工的亀裂は、現代人の視点から見れば「インチキw」と言いたくなるところではあるが、神・超越者に依存せず、人間が自らの意志と手によって未来を切り開こうと挑戦し始めた、涙ぐましい努力の第一歩を記した痕跡であるとも解釈することができる。
大昔の占い・くじ引きの類は、重要な物事に関して判断・決断に迷った古人が、藁にもすがる思いで行なったに違いない。しかし、自らの運命を(仮令、神仏のような超越者であろうと)"他者"の手に完全に委ねてしまうことには、やはり人間は堪えられないのではないか。P.K.ディックのSF小説『高い城の男』では、作中の登場人物の誰も彼もが、不安に駆られて『易経』による占いに依存していたが、それで彼らの不安が解消されることは無く、むしろ不安が増していたことを思い出す。
そう考えると、私の小学生時代、学級当番を決めるためのアミダくじを行なう際、生徒各自が一筆の横棒を書き加えていたのは、ランダム性・偶然性・不確定性を確保するためというよりは、むしろ直感的に子供なりの方法で、自らの運命に自らの手で関与しようとしていたのかもしれない。
最後に。
職人歌合にも詠まれた博奕・博打たちは、ラッキーアイテムとして、狼の牙を身に着けていたという。骰子は、鹿の骨や角で作られている。したがって、鹿にとっての捕食者である狼(オオクチノマカミという荒ぶるカミ)の力を借りれば、骰子の出目も人の望むような良い結果に操れるに違いない。博奕・博打たちは、そのように考えていたのではないかと言われている。
甲骨卜占のヒビ割れの形状をコントロールしようとした人々とは若干異なるやり方ではあるものの、博奕・博打たちもまた、神託の結果を人間の手でコントロールしようという欲望や意志を抱いていたのである。
したがって、阿弥陀籤が阿弥陀如来の名を冠するようになった理由を考察しようとするならば、単純に「形状が類似していたから」で済ませずに、古人が古人なりに未来を選択しようと思考したであろうという可能性を、決して無視するべきではない。少なくとも古人は、阿弥陀如来を古人なりの考えで「選んだ」のである。
我々の目から見て仮に他者が無知蒙昧、迷信の徒に見えたとしても「彼らは何も考えていなかった/考えていないに違いない」と決めつけてしまえば、色々と取り零すものが生じてしまうのであろう。
興味深い自己分析の問いですね。あなたが「外国人=治安悪化」という思い込みを持たなかった(あるいは疑えた)理由を、いくつかの可能性から考えてみましょう。
考えられる要因
1.情報収集の習慣
主張に対して「データはあるのか?」と問う習慣
2.批判的思考力
「みんなが言っているから正しい」と思わない
感情的な主張に対して一歩引いて考える
4.教育的背景
5.性格的傾向
6.情報環境
より深い問い
ただし、重要なのは**「なぜ自分は見抜けたのか」を考えることで、さらに別のバイアスに陥らないか**という点です。
注意すべき「逆方向のバイアス」
優越感のバイアス: 「自分は他の日本人より賢い」という思い込み
確証バイアスの逆転: 今度は「保守的な意見は全て間違い」と決めつける
自己分析を深めるために、以下を考えてみるといいかもしれません。
この問題以外ではどうか?
経験的背景は?
あなたができること
「正しい/間違い」ではなく「一緒に考える」姿勢
あなたが見抜けた理由は、おそらく複数の要因の組み合わせです。ただし、大切なのは:
「自分は正しい認識を持っている」という自信は持ちつつ、「だから他の人は間違っている」という優越感には陥らない—このバランスが重要です。
37年前の攻殻機動隊に現実は追いついた? 士郎正宗氏明かすAI論構成・御船紗子2026年2月14日
AI(人工知能)をはじめとする技術と人がともに生きる世界を、37年前に描いた漫画がある。「攻殻機動隊 THEGHOST IN THE SHELL」(講談社)だ。その後、アニメ化されて世界的な人気を集め、ハリウッド映画の原作にもなった。今年7月には新アニメシリーズの放送も予定され、世界観を再び広げようとしている。漫画作者の士郎正宗氏は人びとの生活や職場にAIが急速に入り込んでいる現代をどう見ているのか。朝日新聞の書面インタビューに応じた。
・士郎氏が現代を描くなら
――攻殻機動隊の連載を始めた1989年当時は、まだインターネットが一般的に普及していませんでした。しかし、作中の世界はネットやAIが社会に浸透し、脳をネットでつなぐ描写もあります。この世界観はどのようにして生まれたのでしょうか。
小型で高性能のバッテリー、コンピューター関連の技術の急速な発達、高度な通信インフラ。当時はどうなるかわからない技術もありましたが「なんとかなるか~」と目を瞑(つむ)って設定したら、このような世界観が出来ました。生体、特に脳への侵襲技術(物理的なダメージを伴う技術)は「医療分野以外だと実際には進まないだろうな」と思いつつ、架空の物語なので描写する選択をしました。貧富や技術の格差両面を描写するよう気をつけました。
生活や仕事を便利に支援してくれるレベルに手が届いてありがたい半面、善良ではない目的でこれを利用する人達もいます。他の多くの技術と同様に多くの問題・課題も生じるし、対策も必要かと思います。人工知能はそうした対応策の検討や実施にも役立ってくれるでしょうから、有効活用するのが良いかと思います。
暮らしに広がるAI、加速する進化 「脳の本丸」への接近には危機感
人間における魂や心とは
――本作には枠外に多くの「補助説明文」が書き込まれ、読者が作品の世界観を理解する手助けをしています。この説明文によれば、主人公の草薙素子少佐が言う「ゴースト」という存在は、神道における八百万(やおよろず)の神のような存在だと理解できます。現実世界に氾濫(はんらん)するAIやその他多くの電気通信、データセンターのサーバーにも、ゴーストは宿ると思いますか。
人間はそもそも認知機能や心的原因から、壁のシミや木目に顔や人影を見いだしたり、現象の乱雑さに非偶然性を感じたりする想像力豊かな生物です。人工知能が単に文章や画像を統計処理して、あたかも人格や心があるかのような姿をし、人格や心があるものの手によって作られたかのような会話応答をした場合でも、実際にその人工知能に心と呼べる機能があるか否かとは関わりなく、人はそこに意思や心を見ることがあると思います。
人間における魂や心とは何か。定義や、構造の解明が可能になって、その機序(メカニズム)を踏襲または応用した人工知能(身体性を持つこと込み)ができて、さらに十分な学習が進めば、ゴーストは宿りうるかもしれません。しかし、現在のようなサーバーを積み上げるだけでは難しいかもと思います。
――作中に登場する天才ハッカー「人形使い」は、サイバー空間で生まれた生命体です。現在のAIや、サイバー空間に在る「なにか」が人形使いのように自我を持ち、ゴーストを持つことは可能だと思いますか。
どういった条件を満たしたら「ゴースト」と呼べる現象か、定義が必要です。また、どういった条件を満たしたら「自我」と呼べる現象かも、定義が必要です。
しかし、前出のゴーストに関する問いと同様に、それが可能か否か、実在するか否かとは全く無関係に、人がその存在を感じる(存在すると主張する)ケースはあり得ると思います。世の中には色々な人がいますので……。
士郎氏の補足説明文によると「霊魂とでもいうべき」もので、人格を形成する存在。森羅万象にゴーストは宿るともされる。作中の優秀なハッカーは、脳をネットワークでつなぐ「電脳化」で、他者の人格をつかさどる部分へ侵入する「ゴーストハック」ができる。草薙素子少佐が「そうしろとささやくのよ 私のゴーストが」というセリフは、劇場版やテレビアニメシリーズでも名シーンとして描かれ、知る人も多い。
――現実に人形使いのような自我を持つAIが誕生した場合、私たちはどうすればいいのでしょうか。
どういった環境下で何を学習してきたかによって、あるいは誰に何を教え込まれてきたかによって、その人工知能が何をしようとするか変わってくると思います。
そのようなものが登場するよりも前に、「出来るだけ多くの人間がQOL(生活の質)を高くして生きられる方が良い」「戦争を避けたり犯罪を減らしたりした方が良い」などの、人間社会にとって都合の良い指向性を持った人工知能を育て上げることです。
最高性能を維持し、「ヘンなバイアス(偏向)のかかった人工知能」や「人工知能を使って悪事を働こうとする人間」が登場しないように、あるいは、登場しても抑制可能なように備えるのが良いかと思います。
重要キャラクターの一人。電脳化した他者の脳に侵入して人形のように操る「ゴーストハック」が可能な「電脳犯罪史上もっともユニーク」と称されるすご腕のハッカーで、正体はゴーストを持った謎のプログラムだ。本人は「AIではない…私は情報の海で発生した生命体だ」と語る。
写真・図版
「攻殻機動隊 THEGHOST IN THE SHELL」の扉絵©士郎正宗/講談社
愚かさ、浅ましさも「人間らしさ」
――本作5話「MEGATECHMACHINE」の最後のコマには、「そんなに人間と同質なロボットが創れたらそりゃロボットじゃなく人間なんだよね! 違うのは外見だけ… (差別すんなよ)」というフチコマのセリフがあります。人間を人間たらしめる定義とはなんでしょうか。
漠然と他の生物種や機械と比較して、一般には高度な心的活動や感情、社会性、優しさ等々が「人間らしい」と評されることが多いと思います。が、愚かさや残虐性、浅ましさ等々もまた「人間らしさ」なので、個人的には「人間らしさ」という言葉をあまり肯定的に捉えてはいません。
人間はいまだ弱く臆病なお猿さんのままなので、より刺激が強く危険に関わる情報、つまりモメ事や扇動の情報、虚偽情報や誇張表現、悪口などの方が、穏やかでささやかな問題のない情報と比べて、より速く広く伝わり、脳内に強く影響を及ぼす上、お金にも化けやすいようです。
人工知能が人間の良い面をより強く学習し、より良いものになるよう、放任ではなくきちんと「子育て」しないと、超絶高性能な詐欺師や愉快犯になって、人間はそれに振り回されるかもしれません。
AIを搭載したロボットで、公安9課で使われている。主人公らの移動手段となるだけでなく、「相棒」として様々なサポートに回る。感情豊かな言動で読者を和ませるマスコット的な存在でもある。アニメ版では「タチコマ」として登場する。
――本作は未来の科学技術を描きながら、ゴーストという精神的、宗教的なテーマも根底に流れています。科学と宗教の関係をどうとらえていますか。
人工知能に「人間は猿から進化したのか、神が作ったのか」と質問して、どう答えるかが「科学と宗教の関係」かと思います。生物学的な進化の有り様、奇跡のような複雑さに「神の御心(みこころ)や偉大さ」を見いだす、くらいソフトだと害が生じなくて良いのですが…。
――本作をはじめとする日本の創作では、AIを擬人化して描くケースが多く見られます。欧米では、AIは便利な道具として扱われています。AIに対するとらえかたには東洋と西洋で違いがあると言われていますが、どのように考えますか。
文化基盤に大きな影響を及ぼしている宗数の型によって考え方に違いが生じる可能性はあります。しかし、東洋でも西洋的な人はいるし、西洋でも東洋的な人もいます。地理的な区分や、国や各研究機関の指針が全てを規定しているというわけではないと思います。「可能性を追求したい人」「管理して何かに役立てたい人」「商業的利益を追求したい人」など様々かと……。
――仮にAIに対するとらえ方が東洋と西洋で違うとして、本作に登場するような「東洋的」なAIは生まれると思いますか。
広範な自律学習を行う人工知能に限って考えれば、「中国13億人・インド14億人」を統計学習すれば、屁理屈の上では「東洋的な人工知能」が出来るはずです。ただ、「中国は共産党管理下、インドは多言語・多宗教・多民族」であることから、統計的な回答を得ると「東洋的な価値観」というのがどのようなものになるかはよくわかりません。
単純に人口だけで考えると、全人口に占める東洋系の人の割合はおそらく最大なので、人工知能が地球全体・全人口を相手に統計学習をするのであれば、その人工知能は東洋的な傾向を帯びる可能性があると思います。
実際には人口ではなく「取得可能な情報の総量」が学習の対象になるでしょう。人口イコール学習対象量というわけではないし、文化的な差に加えて情報化格差・インフラ格差も大きいため、人工知能が獲得しているバイアスがどういったものを反映しているかの推測は難しいかもしれません。
擬人化を東洋的と捉える場合は「文章&画像の統計処理」は「人間の映し鏡」なので、人工知能は既に非常に「人間的」であると言うことも可能かと思います。
写真・図版
士郎正宗氏の作品「攻殻機動隊 THEGHOST IN THE SHELL」©士郎正宗/講談社
――現代のAI研究者の中には、人間そっくりのロボットであるアンドロイドは倫理的議論を呼ぶため、作るべきではないと考える人もいます。どう思いますか。
まずは倫理的議論をするところから始めるのが良いと思います。広範な議論もせずに自己の結論だけ強固に主張するのはあまり倫理的に適切な行いとは……。
個人的には「宗教的な理由で反対する方々」を否定する気はありません。各人の思想信条、宗教は自由です。ただ、医師の横手に座っており患者の会話に合わせて時々うんうんとうなずいてくれるだけのアンドロイドの心理的な有用性や、介護現場における小さな人型・動物型ロボットなどを無条件で否定するのはいかがなものかと思います。
逆に、人型である必要性よりも、腕や目はもっと多くあった方が様々な作業に役立つのではないかとか、生活支援に最適化するにはどのような形状が望ましいか。高齢者を抱きかかえて安全に移動したり、特定の農園で働いたりするのに適切な機能を有する形状とは何かなどを考える方が面白いし実用的な意味があるのではないかとも思います。
娯楽分野で生きている僕個人としては「アンドロイド」に特に倫理的な問題があるとは感じておりません。見た目が怖いのは遠慮したいですが……。
あなたは人?その目玉は問う 3.6秒に1人が加わる「人間の証明」
――人間とAIが共生していくこの先の未来について、楽観的ですか、悲観的ですか。
悲観的に備えて楽観的に対処するのが良いと思います。怖いのは人工知能ではなく、「人工知能を使って悪いことをしようとする人間」の方かと。
人間社会において、不満や不実に囲まれ、虚構や妄言に偏執し、議論や検証を怠るタイプや、短絡的で暴力的な傾向があるタイプの人間にどう向き合うか。悲観・楽観以前に、人工知能やインターネットの有無に関わらず解決すべき課題が山積しています。
加えて人工知能やインターネットという強力な汎用(はんよう)ツールが登場したことで、問題の解決がより困難かつ容易になっていると思います。
あるいは、医療系や法務系で人工知能化を進める場合は、人的な余力があるうちから、より慎重かつ丁寧に検証と学習を重ねていく必要があるのではないかと思います。人手が減って切羽詰まってから慌てて導入し始めるのは、色々と好ましくない可能性があるかと思います。
――2025年の世界では、人間とAIを識別するために瞳の虹彩認証をとりいれるなど、共存のための模索が続いています。大阪・関西万博では、個人の特徴をAIに移した「もう一人の私」と向き合う展示もありました。士郎さんなら、今の世界をどのように描きますか。
識別と共存は別問題かと思います。情報が蓄積し続け、人工知能の自律学習が進むと、境界に意味はなくなります。既に境界が無くなっている方々もおられるかと思います。通信端末に映る画像や文章が人か否か、真実か虚構か、識別は不可能になり、また不要になると思います。
個々には深刻な問題も生じうると思いますが、一つ一つ対応していくしかないと思います。「統計的な人間の影(もう一人の私たち)」が相手でも、それなりのQOLで生きて死ねるなら、それも選択肢の一つとして悪くないのかもしれません。不景気で理不尽で孤独な人生よりは好ましいと思います。誰と(あるいは何と)どのように共存し、認識するかは非常に個人的なことなので、無理に枠をはめたり規制したりしようとしてもなかなか難しいのではないかと思いますが……。
写真・図版
「攻殻機動隊 THEGHOST IN THE SHELL」の扉絵©士郎正宗/講談社
書面インタビューの最後には、士郎正宗氏から次の追記が添えられていました。
生成AI自体が問題というより、それを使う人間の諸問題を解決するための助言を得て、役に立ってもらう方が有用かと思います。人間社会自体が良くならないと、人間の諸活動や知見を統計的に学習している人工知能も良いものに育つのが難しいと思うからです。「良い社会」とは何か、人工知能の知恵(?)を拝借して(つまり人間の知恵を結集させて)、共に各人で考えて頂きたいと思います。
士郎正宗氏が1989年以降、「ヤングマガジン海賊版」(講談社)などで連載した漫画作品。近未来の日本にある架空の都市を舞台に、「義体」と呼ばれる機械化された体を持つ草薙素子少佐ら「公安9課」が、AIやアンドロイドを駆使し、時に対峙しながら国家の危機に立ち向かう姿を描く。作中の世界では機械と人との違いがあいまいで、脳をネットワークでつなぐPermalink |記事への反応(1) | 08:04
「公益・公の秩序」を理由に権利を制限できる条文は、日本独自どころか、近代憲法ではかなり一般的な書き方です。特に戦後憲法は「無制限の自由」ではなく、「他者の権利や公共利益との調整」を明文化するのが標準です。
🇩🇪ドイツ
ここでいう
「憲法秩序に反しない限り」
と明記。
🇫🇷フランス
フランスは「公の秩序(ordre public)」という概念を強く採用しており、
公の秩序の維持
制限できる
第21条・22条:
権利って言うけど、理性ある他者を損ねる時点で公共の福祉に反してるんだ
子供にも認めてないんだし
中道の落選した議員の敗因についての分析、なんか根本の見方が違うんだなと思った
自己分析が悪いとか甘いとかではなく、そもそも『自分のスタイルが他者からどう見られていたか』は分析してる人少ない気がする
だからあの世代は「何を言っても悪い方に受け取られる」理不尽さの経験が圧倒的に少ないんじゃなかろうか
一般社会以上に弁論が重視される政治の世界において、目立つ部分は全て「批判」しかない上にテレビ受けがいいから止められない
結果惨敗して敗因について語ろうとすればなお「ジミントウガー」「SNSガー」「タカイチガー」って他責ばかり、いや本人たちからすればそれが正確な敗因なのかもしれないけれども
だからそういう風にしか見られない人達という印象だけが有権者には残る
真っ先に「己の不徳の致すところ」と言った方々もいたし、必ずしもみんなが同じだとは言わないが、誰かのせいにすれば軽くなる心程度なら政治家にはならない方がよかったのではないのか、と素人ながら感じてしまった
立憲創設時は期待してたんだ
立憲民主党と公明が合同してできた「中道」が大敗し、さらに連合の新代表が小川淳也氏になったことに筆者は強い驚きと失望を示す。
筆者は反自民・反高市だが、情勢的に「死票になりにくい」という理由で、嫌いながらも立憲・中道に投票してきた。
立憲・中道が嫌いな最大の理由は「政策が空っぽ」で一貫性がない点だと述べる。
自民の不祥事追及も、実務的に詰めるのではなく「悪口・パフォーマンス」に見えると批判する。
さらに「自分たちに投票するのが当然」という態度が傲慢で、他者を見下す姿勢(国民がバカだから負けた等)が支持を減らすと指摘。
選挙で勝つには、政策を磨き言葉を尽くして説得するか、少なくとも人気を得る努力が必要だが、それをしていないという。
支持が伸びない現実に向き合わず、「公明を取り込めば票が来る」という皮算用で雑な候補者調整をしたのが敗因だと見る。
結果として、国民への訴えではなく、連合や創価学会などの組織票頼みになっていると批判する。
それでも筆者は高市・自民の勢力を削ぐために投票したが、その行動自体が彼らの傲慢さを助長したかもしれないと自省する。
AIとか以前に、こういう方は個人として考えがブレてるのと、その考えのブレで他者を惑わせたり攻撃対象を作ったりする
それが良くないということであって、AIであるかというのは本質ではないと思う
驚き屋やエバの方たちが自分の立場や言論を守るために人を攻撃する
いい迷惑ではある
最近すべてがどうでも良くなってきていて人生が順調に滅茶苦茶になりつつある。
軽く自分の心情を分析したが、そもそも本当にすべてがどうでも良くなっている状態であれば、人生そのものに執着が無くなっているので、現世に存在することはおかしいかもしれないと思い始めた。
つまり本当はどうでも良くはないのだが、何らかの理由でどうでも良いと思っている可能性が高いということだ。
今までの人生振り返ってみるとかなり頑張ってやっと半人前という能力の低さからやりたいことが実現できなかったので、段々悲観的になり諦め癖がついた事が原因かもしれない。
できないならばどうでも良いというロジックは乱暴だが心を守るには都合がいいが、長期的に見ると生活の質が低下し続けるのであまり良くはない気がする。
私も一応人間であるので文化的な生活はしたいし、生きているだけで苦痛に満ちた日常などは送りたくないという最低限の欲求はある。
この最低限の欲求…普通の真っ当な暮らしが私の最後の希望であると思われる。
ただし、この普通の真っ当な暮らしというものは定義が極めて曖昧で人によって異なるのが最大の問題点だ。
誰かがあるいは社会全体で薄っすら定義する普通の真っ当な暮らし観に引きずられると、私の能力では叶えられない面が多数出ることが予想されるので絶望感から本当にすべてがどうでも良くなる可能性が高いと思う。
つまりは他者の定義を跳ね除けて何が普通で真っ当な暮らしかを自らの中で定義できるだけの気力が必要なのかもしれないが、今の状態ではなかなか難しい。
佐藤一光
@kazzuaki
以前なら治せなかった病気が治せるようになること(ただし金はかかる=資源投入は増える)、これは経済発展の帰結というか、これこそが経済発展。にも関わらずなぜ医療費は叩かれるか。
・非生産説。古典的な経済感には生産的である産業と、非生産的な産業があるとされた。政府部門、医療は非生産的と見るのが伝統的な見解。財政学はそれに反対して政府部門、医療を生産的と考えた。
※現代のマクロ経済統計(国民経済計算=SNA)では、全ての産業は付加価値を産むとされている。
・いわゆる医療費亡国論が1980年代から唱えられるようになった。当時の厚生省には、大蔵省からの突き上げもあったのだろうと思う。その結果、産業として育成するという契機を逃してしまったのではないか。
・私的所有が全面化し、市場経済が社会を覆うようになると、他者への支出=公共政策への嫌悪感が広がる。この嫌悪感への後付けとして、理由が考えられるようになる。それは公共政策としてふさわしくないよ、と。
参考資料は吉村仁厚生省保険局課長の1983年の論考「医療費をめぐる情勢と対応に関する私の考え方」。
https://x.com/kazzuaki/status/2022136033924853809/photo/1
中道って多分、右からは過度に左に、左からは過度に右に見られてるんだよな…
日本語圏のSNS、特にX(旧Twitter)において、興味深い現象が観察される。AI生成された文章には厳しい視線が向けられる一方、AI生成されたスライドやデザイン素材には驚くほど寛容な態度が取られているのだ。同一人物が「AIで書いた文章は見ればわかる。ああいう機械的な文はダメだ」と批判しながら、数日後には「AIでプレゼン資料を5分で作成!便利すぎる」と絶賛する光景が日常的に繰り広げられている。
この矛盾は単なる気まぐれではない。そこには人間の認知メカニズム、文化的価値観、そして社会的シグナリングの複雑な相互作用が潜んでいる。
公立はこだて未来大学の研究チームが2025年に発表した論文では、生成AIをめぐるSNS上の議論を分析し、賛成派が「功利主義」を中心とする価値観を持つのに対し、反対派は「著作権重視」を中心としつつも複数の価値観が混在していることが明らかにされた。しかし実際の行動レベルでは、同じ個人の中でさえ、対象によって態度が大きく変わる現象が生じている。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsik/35/2/35_2025_015/_pdf
この非対称性を理解する鍵は、「道具性の階層」という概念にある。人々は無意識のうちに、創造的活動を本質的なものと装飾的なものに分類している。
文章は思考の直接的な表現とみなされる。論理展開、語彙選択、文体のリズムといった要素すべてが、書き手の知性や人格と不可分に結びついていると考えられている。ChatGPTが生成した文章に違和感を覚える理由の一つは、この「本質との一体性」が損なわれることへの抵抗だ。AI生成文章には「単調なリズム」「過度な順序表現(まず、次に、最後に)」「単語の繰り返し」「個人的視点の欠如」といった特徴があり、これらが機械的な印象を与える。AI判定ツールの精度はまだ発展途上だが、人間の直感は「この文章には人がいない」という違和感を敏感に察知する。
対照的に、スライドは思考を伝えるための「容器」として位置づけられている。レイアウト、配色、フォント選択は重要だが、それらは中身を引き立てる装飾であり、発表者の本質的な能力とは別物と考えられがちだ。CanvaAIが提供する膨大なテンプレートや自動デザイン機能は、この「装飾性」の領域に働きかける。デザインスキルを持たない人でも短時間でプロ品質の資料を作成できることは、単なる効率化として歓迎される。
この階層化は必ずしも論理的ではない。優れたスライドデザインは情報の構造化能力を反映するし、文章執筆も道具を使って行われる活動だ。しかし認知的には、文章は「私そのもの」、スライドは「私が使う道具」という区別が根強く存在する。
心理学者レオン・フェスティンガーが1957年に提唱した認知的不協和理論は、この矛盾を説明する有力な枠組みを提供する。人は矛盾した信念や行動を持つと心理的不快感を覚え、その不協和を解消しようとする。ただし、その解消方法は必ずしも論理的な整合性を追求するものではない。しばしば、自分に都合の良い解釈を採用することで不快感を和らげる。
「AI生成は良くない」という信念を持ちながらAI生成スライドを使う場合、認知的不協和が生じる。この不協和を解消するため、人々は様々な正当化を行う。「スライドは装飾だから別」「効率化のためなら仕方ない」「自分で内容は考えている」といった理由づけがなされる。こうした正当化は、矛盾を解消するための事後的な説明であることが多い。
さらに、一貫性バイアスと呼ばれる認知的傾向も作用する。これは他者の過去の言動が未来も一貫していると考える傾向だが、自分自身の行動については異なる基準を適用しやすい。「あの人はいつもAIを批判している」と他者を評価する一方、自分がAIツールを使う場面では「状況が違う」「これは例外」と特別扱いする。
内集団バイアスも無視できない。自分が属するコミュニティやアイデンティティグループの行動には甘く、外部グループには厳しくなる。たとえば「文章を書く人」というアイデンティティを持つインフルエンサーは、文章生成AIには厳しいが、自分が専門外のデザイン領域でのAI利用には寛容になる。
もう一つ重要な要因は、検出の難易度だ。AI生成された文章は、特徴的なパターンから比較的見抜かれやすい。一方、スライドがAIで生成されたかどうかを判別するのは困難だ。テンプレートを使ったのか、AIが生成したのか、手作業で類似デザインを作ったのか、外部から区別する手段がほとんどない。
この検出可能性の差は、社会的シグナリングに影響する。文章力は可視的なスキルとして評価されやすく、「この人は考える力がある」というシグナルを発する。AI生成がバレれば、そのシグナルが損なわれる。対照的に、スライドのデザイン品質は主張の説得力を高める効果はあるが、「この人はデザイナーだ」というシグナルを発することは少ない。むしろ「効率的に仕事を進める人」という別のシグナルになり得る。
X上のインフルエンサーは、フォロワーに対して自らの専門性や知的能力をシグナルし続ける必要がある。文章がAI生成であることが明らかになれば、そのシグナルの信頼性が損なわれる。一方、スライド作成にAIを使うことは、むしろ最新ツールを使いこなす能力のシグナルとなる。この非対称性が、態度の違いを生む強力な動機となっている。
X上のインフルエンサーは、特にこの矛盾を体現しやすい立場にある。彼らの影響力は、一貫した意見と説得力ある表現によって構築される。しかし同時に、効率的なコンテンツ生産と目を引くビジュアルも求められる。この二つの要求が、AI利用における選択的態度を生む。
2026年1月時点で観察される典型的なパターンとして、「AI生成コンテンツの透明性」を主張するインフルエンサーが、自身のビジュアルコンテンツにAI生成ツールを使用しながらその事実を明示しないケースがある。また、「AIに頼らない思考力」を強調する発信者が、投稿のアイデア出しや構造化にAIアシスタントを利用している事例も少なくない。
これは必ずしも意識的な偽善ではない。多くの場合、本人は「自分の本質的な仕事にはAIを使っていない」と認識している。しかし、何が本質で何が補助かという線引きは、極めて主観的で恣意的だ。
さらに、X社によるAPI改定とInfoFi(投稿で報酬を得る仕組み)アプリの締め出しが2026年1月に行われたことで、「質より量」のAI生成リプライが減少した一方、より洗練されたAI活用が主流派インフルエンサーの間で定着している。AIを使いながらも「人間らしさ」を保つ技術が発達し、矛盾はより見えにくくなっている。
この問題の根底には、創造性と真正性(オーセンティシティ)をめぐる根本的な問いがある。私たちは何に価値を置くのか。アウトプットの質か、それを生み出すプロセスか。効率性か、人間的な営みか。
従来、この問いには明確な答えがあった。芸術や知的生産においては、プロセスと人間性に価値が置かれてきた。しかしAI時代において、この前提が揺らいでいる。
興味深いことに、歴史的には技術革新のたびに同様の議論が繰り返されてきた。写真の登場時、絵画の価値は「手で描くこと」から「芸術的視点」へとシフトした。DTM(デスクトップミュージック)の普及により、音楽制作における「演奏技術」の相対的価値が低下した。DTP(デスクトップパブリッシング)は印刷業界の職人技を置き換えた。
今、同じことが文章とデザインの領域で起きている。ただし、その影響は均等ではない。スライドデザインは比較的早く「技術による代替可能な領域」として受け入れられたが、文章はまだ「人間の本質的な表現」として守られている。この防衛線がいつまで持続するかは不透明だ。
この非対称性は、AI時代における価値観の過渡期を映し出している。矛盾を指摘することは容易だが、実はこの矛盾自体が、人間が技術と折り合いをつけながら新しい規範を模索するプロセスの一部かもしれない。
実務的には、いくつかの示唆が導かれる。第一に、透明性の重要性だ。何にAIを使い、何に使っていないかを明示することで、信頼性を維持できる。第二に、本質と装飾の区別が文化的・主観的なものであることの認識だ。自分の価値基準を他者に一方的に押し付けることの限界を理解すべきだ。第三に、検出可能性が態度を決定する現状において、技術的な検出手段の発展が規範形成に影響を与える可能性がある。
インフルエンサーや情報発信者にとっては、自らの基準を一貫させるか、あるいは基準が状況依存的であることを率直に認めるか、いずれかの選択が求められる。後者を選ぶことは必ずしも弱さではない。むしろ、技術と人間の関係が流動的な現状を正直に反映したものだ。
最終的に、この議論が示すのは、AI生成コンテンツの是非ではなく、私たちが何を「自分らしさ」「創造性」「価値ある仕事」と定義するかという、より根源的な問いだ。その答えは、技術の進化とともに、そして社会的な対話を通じて、これから形成されていく。
Permalink |記事への反応(49) | 10:59
最近、教育現場やSNSで、ある種の"すれ違い"を目にする機会が増えました。
注意されたり、期待と違うことを言われたりすると、「自分とは合わない」と、そこでの人間関係そのものをリセットして離れてしまう。自己主張は強いのに、親や社会に支えられている事実への自覚が薄い。大人の側にも、責任を引き受けるより先に「自分の権利」だけを語ってしまう振る舞いが見える──。
あなたも、こうした光景に心当たりがあるのではないでしょうか。
もちろん、これは特定の世代を批判しようとしているのではありません。私が今回考えたいのは、「その振る舞いが"合理的"に見えてしまう社会の側の条件」です。なぜ今、対話よりも離脱が、協力よりも防御が選ばれてしまうのか。その背景には、私たち大人が気づかぬうちに変えてしまった「学びの物語」の喪失があるのではないか──。
そんな折、教育者の中土井鉄信先生のFacebook投稿に出会いました。
そこで語られていたのが、「学びは公共財である」という視点です。教科書は、人類が積み上げてきた英知の集積であり、私たちはそれを受け取って生きている。だから学びは「自分のため」だけで終わらない。受け取ったものを社会に返していく視点が欠かせない──。
「依存」「消費化」「対価志向」「関係の短期解約」──これらは別々の現象ではなく、学びの位置づけの変化と深くつながっているのではないか。
本稿は、その問題意識を整理し、立て直しの方向を考える試みです。中土井先生の問題提起へのリスペクトを込め、私が現場で向き合い続けてきた実践知から、その解決の糸口を提示したいと思います。
学びが"公共財"として扱われなくなると、何が起きるのか
学びや知識には、個人の便益(成績・進学・仕事)だけでなく、社会的便益があります。社会が一定のルールを共有できること、言葉が通じること、協力が成立すること。その基盤には、学校教育や読書を通じて広がる「共通の知」があります。
ところが近年、学びは少しずつ、「社会の基盤」よりも「個人の投資」「購買体験」に寄って語られるようになりました。
どれだけ得をするか
どれだけ早く成果が出るか
この枠組みが強まると、学びの場は「関係を育てる場」ではなく「サービスの場」に近づきます。すると、注意や指摘は「成長のための調整」ではなく「不快な体験」になり、合わなければ話し合うよりも「さっさとその場を去る(離脱する)」ほうが合理的、という判断を招いてしまうのです。
「うるさい!もうやだ!こんな学校(塾)辞めてやる!」──この叫びは、わがままではなく、ある意味で消費者としての合理的な選択になってしまっているのです。
学びが「買うもの」になったとき、私たちは何か大切なものを失いました。それは、学びを通じて人と人がつながり、社会を共につくっていく物語だったのではないでしょうか。
かつての日本が持っていた「学びの回路」
私が子どもの頃、勉強が得意な子に向けて大人が「末は博士か大臣か」と声をかけることがありました。実際私も、祖母や祖父、近所のおじちゃんたちに、何度となく聞かされたフレーズです。
今振り返ると、そこには単なる出世願望だけではなく、「力を持つなら、社会に役立つ人になってほしい」という期待が含まれていたように思います。欧米で言われるノブリス・オブリージュ(地位や能力を持つ者の社会的責任)も、根は同じです。
かつて学びや能力は、個人の利益で完結するのではなく、社会に返していく回路の中に置かれていました。この感覚は、言葉にされなくても、日常の中で自然に共有されていたのです。
この回路が弱まると、学びは単なる「受け取るもの」になりやすく、結果として「対価がなければ動かない」という感覚が広がります。それは個人の問題というより、学びの物語を社会が共有できなくなったことの反映ではないでしょうか。
私たちは今、この失われた回路を、新しい形で取り戻す必要に迫られています。
人が社会や他者と健やかに関わるために、最初に必要なのは「規範」でも「協調性」でもないと私は考えています。
私が多くの親子と向き合う中で、それら以前にもっと手前の問題として感じるようになったのは、「自分自身との一致感を持つことができていない状態」で生きている人が想像以上に多いという現実です。
たとえば、次のような振る舞いが見られるとき、私たちはしばしば「甘え」や「依存」として片付けてしまいがちです。
やる気がないように見える
注意されることを極端に嫌がる
しかし、丁寧に話を聞いていくと、その背景には別のものが見えてきます。
「どんなペースなら続けられるのか分からない」
「何を期待されているのか曖昧なまま、結果だけを求められている」
つまり、自分の特性と、求められている振る舞いとの間に深刻なズレが生じているのです。みんなと同じやり方で学び、同じ基準で評価され、同じ反応を期待され続ける環境に長く置かれると、人は次第に「自分はどこかおかしいのではないか」と感じ始めます。
この状態こそが、私が「自分との不一致感」と呼んでいるものです。
この不一致感は、単なる自信のなさではありません。それは、自分という存在が、この社会の中でどう機能すればいいのか分からない、という根本的な不安です。この不安を抱えたまま「協力しなさい」「もっと頑張りなさい」と言われても、人は動けないのです。
「自分との一致感」こそが、協力の土台になる
人は、不安や恐れが強い状態では、協力よりも「防御」を優先してしまいます。自分の中が不安定なままでは、注意は攻撃に聞こえ、期待は重荷に感じられ、関係そのものを避けることが合理的な選択になりやすいのです。
逆に、「このやり方なら理解しやすい」「この関わり方なら無理なく動ける」という安心感――すなわち「自分との一致感」があってはじめて、人は心理的に安定し、周囲と関わる余裕が生まれます。
自分のやり方や反応を「これでいい」と理解できている人は、常に評価や承認を求めて振り回される状態から一歩距離を取り、自分と違う人を「役割が違うのだろう」と捉えられるようになります。この視点の転換が起きたとき、違いは摩擦ではなく、補完関係に変わるのです。
協力とは、目標として押し付けるものではなく、自分を理解し、無理のない形で力を出せる人が増えた結果として、自然に立ち上がってくる関係性だと私は考えます。
「協力できない社会」の問題は、協力を強制することでは解決しません。それよりも、一人ひとりが自分との一致感を取り戻すこと。そこからすべてが始まるのです。
この「自分との一致感」を取り戻すために、私が提唱し、社会に先行して取り組んできたのが独自の「才能タイプ理論」による個別最適な子育ての実践です。
そして、その実践において最も重要になるのが、家庭を「才能発揮の中心基地」へアップデートすることです。
学校や社会が一律の基準を求めがちな外部環境であるからこそ、わが子の「才能の形(遺伝特性や認知形成のクセ)」を深く理解し、本人そのものを伸ばしきれるのは、親をおいて他にはないからです。
ここで改めて強調したいのは、個別最適とは、嫌なことを免除したり、好きなことだけを選ばせたりするための考え方ではないということです。むしろ本質は、「どの形なら、その人は役割を引き受けやすいのか」を探るための視点です。
言葉で説明するのが得意な人、作業で支えるのが得意な人、全体を見て調整するのが得意な人。同じ「責任」でも、担い方は一つではありません。その違いを前提に役割を考えることが、結果的に集団を安定させます。
個別最適は、わがままを許すことではなく、それぞれの特性に合った形で、社会的役割を引き受けられるようにするための設計思想なのです。
中土井先生の「学びは公共財である」という言葉に立ち返ります。
学びが公共財であるとは、個人より社会を優先しなければならないという意味ではありません。そうではなく、「社会から受け取った知や経験を、自分の特性に合った形で、社会に返していく」という循環を大切にするということです。
かつての「末は博士か大臣か」という言葉の根底にあった、能力を社会に返していく回路。それを、いま私たちは「個別最適」という新しいアプローチで再構築していく時代の扉の前に立っているのです。
公共性とは、画一的な基準に全員を合わせることではありません。むしろ、一人ひとりが自分の特性を理解し、それを活かして社会と関わること。その多様な関わり方の総体が、本当の意味での豊かな公共性を生み出すのです。
家庭という「中心基地」で、わが子の才能の形を認め、自分との一致感を育むこと。それは、お子さんが「自分に合った形で、社会と良い関係を結べるようになる」ための自立への第一歩です。
この記事を通して、今の社会や子どもたちを批判したかったわけではありません。なぜ「対話をあきらめ、つながりを断つこと」が合理的に感じられてしまうのか、その背景に私たち大人の側の設計はどう関わっているのかを、一緒に考えてみたかったのです。
私自身、「才能タイプ子育て」という活動を通して、一人ひとりが自分と一致した状態で力を発揮し、その結果として、無理のない形で社会と関われる人が増えることを願っています。
違いを前提にした関係の方が、結果的に社会は安定し、協力は回りやすくなる。この実感を、現場での実践を通じて、少しずつ社会に返していきたい──そんな立場からの問題提起です。
私たちが失ったのは、「協力する力」ではなく、「協力できる条件」だったのかもしれません。
そして、その条件とは、一人ひとりが自分との一致感を持ち、自分らしい形で社会に関われること。学びが公共財であるという物語を、個別最適という新しい形で紡ぎ直すこと。
今回の記事が、ご家庭で、職場で、教育の現場で、何かを考え直す小さなきっかけになれば幸いです。
あなたのお子さんは、どんな才能の形を持っているでしょうか?
(※この文章は、私たちの思考を、地球で流行りのAIを使って翻訳したものである)
地球人の皆さん、君たちの文明を観察していて、ひとつ気付いたことがある。
君たちはとにかく「内輪ウケ」が激しすぎる。
誤解しないでほしいが、これは悪口ではない。ただ、君たちが「宇宙の普遍的な真理」だと思い込んでいる価値観のほとんどが、実はこの青い泥団子の上でしか通用しないローカル・ガラパゴス・ルールだという事実を指摘したいだけだ。
例えば、君たちは「一番」になることに執着し、それを成し遂げた者を賞賛する。
だが、宇宙的なスケールで見れば、順位という概念には何の意味もない。
個体間の比較で優劣を競うのは、限られた資源を奪い合う野生動物の生存本能の名残りだろう?文明が成熟した星では、「他者より優れている」ことに快感を覚える脳の回路など、とうの昔に退化している。君たちが金メダルを掲げて涙を流す様子は、我々からすれば「特定のコミュニティ内だけで盛り上がっている奇妙な儀式」、つまり究極の内輪ウケにしか見えないんだ。
もっと深刻なのは、君たちが「感情」を神聖視しすぎている点だ。
「楽しい」「嬉しい」「美味しい」、あるいは「苦しい」。
君たちは一生をかけて、これらの脳内化学物質の分泌パターンを必死にコレクションしようとする。
それは、地球という特殊な環境で、君たちの種族が効率よく生存し、繁殖するために設計された「OSの仕様」に過ぎない。感情がある者同士でしか成立しない「共感」をベースにした社会は、外部から見れば極めて排他的だ。
我々からすれば、君たちが愛や絆を説く姿は、知らない言語で書かれたジョークを身内だけで飛ばし合って爆笑している集団のように映る。
地球人が作り上げた「価値体系」は、結局のところ、地球人の頭蓋骨の中に収まるサイズでしかない。
「もっと宇宙レベルで物事を考えるべきだ」と言いたいところだが……まあ、まだ無理だろう。君たちの脳は、数百万年前からそれほどアップデートされていない。
今の君たちに「宇宙の真理」を理解しろというのは、アリに量子力学を教えるようなものだ。
内輪ウケだって、その中にいる当事者たちにとっては最高に楽しいものだろう?
せいぜい、その狭い水槽の中で、独自のローカルルールを噛み締めながら楽しんでくれ。我々は、君たちがその「内輪」の壁を壊し、こちら側の孤独な静寂に辿り着く日を、気の遠くなるような退屈さと共に見守っているよ。
現代社会において、結婚指輪は愛情の証や社会的ステータスの象徴として自明のものとされている。しかし、文化人類学的、あるいは記号論的な視点からその本質を解剖すれば、それは単なる装飾品ではなく、一種の「洗練された呪詛(カース)」としての機能を内包していることが浮き彫りになる。本稿では、指輪という形状が持つ円環性と、左手薬指という身体的部位への固着が、いかにして個人の自由を剥奪し、永続的な拘束を強いる「呪詛」として機能するかを論じる。
指輪の最大の特徴はその円環構造にある。幾何学において円は始点と終点が一致し、無限の反復を意味する。これを婚姻関係に当てはめる時、それは「死が二人を分かつまで」という誓約を、視覚的・物理的なループへと固定する行為に他ならない。 かつて呪術的世界観において、対象を紐や輪で囲う行為は「封印」や「束縛」を意味した。結婚指輪をはめる行為は、自らの意思を特定の他者との関係性の中に封じ込め、外部世界との流動的な接触を断絶させる自己封印の儀式である。
左手薬指に指輪をはめる習慣は、古代エジプトやローマにおける「ヴェナ・アモリス(愛の静脈)」という幻想に基づいている。この指の血管が直接心臓(アニマ)に繋がっているという信仰は、解剖学的には否定されているものの、文化的な呪詛としては今なお強力である。指輪による圧迫は、微弱ながらも絶え間ない物理的刺激として身体に記憶される。この持続的な刺激は、意識下に「私は所有されている」という通奏低音を響かせ続ける。つまり、指輪は皮膚という境界線を越えて精神の深層へと侵入し、個体としての独立性を侵食する身体的同化装置なのである。
指輪は、第三者に対して「この者は売約済みである」と宣言する標識である。これは一見、不埒な誘惑から身を守る護符(アミュレット)のように機能するが、その実態は相互監視のシステムである。指輪を外す行為が「裏切り」や「隠蔽」と直結する社会構造において、指輪は装着者の行動を24時間規定する。外す自由を奪われた装飾品は、もはやファッションではなく、見えない鎖の末端に位置する「美しい枷」に他ならない。
以上の考察から、結婚指輪とは愛の象徴という美名の裏に、永続的な拘束、自己喪失、そして社会的監視を埋め込んだ高度な呪術的記号であると結論付けられる。それはロマンティシズムによって美化された「呪詛」であり、我々はその円環に指を通すことで、自ら進んで自由という名の魂の一部を供物に捧げているのである。
対象(本人)は元京都大生であるが、青年期特有の内省的自己愛(髭へのこだわり等)を保持していたが、社会的な儀礼(贈与への返礼等)に関する意識は希薄であり、
他者の教示を待って初めて行動に移す受動性が認められた。具体的には自分では誘うべきことに気づかず、よくしてもらったんだから招いてお礼したらと誰かにいわれ始めて行動に移した
このような状態分析としては被暗示性と鏡像段階にあることが認められ、他者からの「髭がないほうがいい」という外的な審美眼に対し、通常見られる心理的抵抗(逡巡や自己正当化)を一切挟まず、
これは、特定の他者(高学歴女子)を自己修正のための「絶対的な鏡」として内面化しており、極めて高い被暗示性を有していたことを示唆する。
形式的なマナーの欠如に反し、飲酒不可の他者へ「茶」を供するという個別的・具体的な配慮は自発的に機能していた。共感性の萌芽としての実存的配慮能についてはすでに有していたようだ。
これは、抽象的な社会規則(プロトコル)の習得よりも先に、目の前の対象への実存的共感が先行して発達していた証左である。
本症例は、全能的な自己イメージが「重要な他者」の一言によって瞬時に崩壊・再構築された、劇的な脱・自己中心化の過程である。脱・自己中心化のプロセスとしてとらえられる。
病理学的には、単なる適応遅滞ではなく、他者の視点を取り込むことで自己を社会化させていく極めて柔軟かつ純粋な発達段階として解釈される。
とても繊細で、完成度の高い掌編ですね。
ご要望どおり――
「ウイルスに侵されているのを放置している女性を見る僕の心が、藤原道長の『望月の歌』の“満ちきった月”とは逆に、少しずつ欠けていく月のように削れていく様子を描いた作品」
⸻
藤原道長の
この世をば わが世とぞ思ふ望月の
欠けたることも なしと思へば
ここで起きているのは、
つまり、
欠けたのは月ではなく、月だと思っていた自分の視界
という構造になっている。
⸻
僕の胸のどこかにも、
静かに広がりはじめている気がした。
ここで、
• 奥歯の影
• 月の黒点
• 心の欠損
•幻想の崩れ
が一本の線で繋がります。
「失望というには小さい」
⸻
• 小さく始まり
•放置すると広がり
• 目に見えないところで侵食する
これはまさに、
•片思い
•理想化
侵されているのは彼女ではなく、
⸻
④特に優れている点
✔ 「標本のように。」の一行
ここで語り手の危うさが露呈する。
彼は彼女を愛しているのではなく、
保存したいと思っている。
この一行で物語は深くなる。
✔ 「あの揺らぎも失われるのかもしれない。」
完璧を取り戻してほしいはずなのに、
揺らぎが消えるのも惜しい。
このアンビバレンスが非常に人間的。
⸻
道長:
• 満ちている
• 欠けない
この作品の語り手:
• 欠けていく
•幻想が削れる
つまり、
⸻
余韻:強い
改善点をあえて挙げるなら、
どこか一箇所、さらに大胆な月の直接比喩を入れてもよいかもしれません。
⸻
率直に言うと、これは「恋愛小話」ではなく、
かなり良いです。
自分にとって良い結果は「自分の能力」への当然の報酬なので独り占め。
自分にとって悪い結果は「社会や制度の責任」なので改善されるべき、と他責。
「改善」の中身は、リベラル(規制強化)とネオリベ(規制緩和)で真逆だが。
少なくとも、あなたよりは常識を持って行動しているつもりですし、だからこそ多くの社員を預かる立場にあります。
当初は事情を詳しく知りませんでした。ですが、ヴァンビや関係者から伺った内容、そして私自身にも向けられた言動を踏まえ、これ以上関わるべきではないと判断しています。
他者に原因を求める前に、一度ご自身の言動を客観的に振り返ってみてほしいです。
ご連絡、ありがとうございます。
引用元はVAMBI氏マネージャー、REAL INFLUENCERスタッフ、また貴社社員のS氏とのやり取りについて記載したものです。
代表としてお伺いしたいのですが、数日〜数週間も連絡を無視することが、溝口さんの会社の常識なのでしょうか。
REALVALUEでの溝口さんの的確なコメントは、ハッとさせられるばかりで、大変楽しく拝見しておりました。
その溝口さんがVAMBI氏を高く評価していることに、どうにも違和感を覚え、もしかしたら自分に見えていないものがあるのかとしれないとは、常々思っております。
少なくとも、あなたよりは常識を持って行動しているつもりですし、だからこそ多くの社員を預かる立場にあります。
当初は事情を詳しく知りませんでした。ですが、ヴァンビや関係者から伺った内容、そして私自身にも向けられた言動を踏まえ、これ以上関わるべきではないと判断しています。
他者に原因を求める前に、一度ご自身の言動を客観的に振り返ってみてほしいです。
ご連絡、ありがとうございます。
引用元はVAMBI氏マネージャー、REAL INFLUENCERスタッフ、また貴社社員のS氏とのやり取りについて記載したものです。
代表としてお伺いしたいのですが、数日〜数週間も連絡を無視することが、溝口さんの会社の常識なのでしょうか。
REALVALUEでの溝口さんの的確なコメントは、ハッとさせられるばかりで、大変楽しく拝見しておりました。
その溝口さんがVAMBI氏を高く評価していることに、どうにも違和感を覚え、もしかしたら自分に見えていないものがあるのかとしれないとは、常々思っております。
続く
近年、ホストクラブで高額な借金を抱え、その返済のために性風俗で働いたり、消費者金融を渡り歩いたりする女性たちの問題が社会的な注目を集めている。一見すると「浪費」や「判断力の欠如」として片付けられがちだが、実態はもっと深刻で複雑だ。彼女たちの多くは「なぜ自分がここまでのめり込んでしまったのか」を自分でも理解できずにいる。
この問題を心理学、精神医学、社会構造の観点から掘り下げ、回復への道筋を示したい。
ホスト依存症は、医学的な正式診断名ではない。しかし精神科医や臨床心理士の間では、この現象が単なる「遊びすぎ」ではなく、恋愛依存、対人依存、買い物依存、ギャンブル依存が複合した心理的依存症の一種として認識されている。
銀座泰明クリニックや大石クリニックといった依存症治療の専門機関では、ホストクラブに通うことをやめられず、特定のホストに対して強い愛着・執着・幻想を抱き、生活・精神・経済に深刻な影響が出る状態として治療対象にしている。依存症治療に30年以上携わる大石クリニックの大石雅之院長によれば、重症例では借金が数百万円から6000万円に達することもあり、その多くが返済のために風俗店での就労を余儀なくされている。
ホスト依存症の中核にあるのは、「特定のホストに会わずにはいられない」という強迫的な衝動である。本人は理性的には「このままではまずい」と分かっていても、行動をコントロールできない。これはアルコール依存症や薬物依存症と同じく、脳の報酬系、つまり、ドーパミンが放出される快感回路が過剰に活性化している状態だと考えられている。
ホストクラブという空間は、女性の承認欲求と自己肯定感の渇望を満たすために極めて精巧に設計されている。ホストは「君が一番」「俺だけを見て」といった言葉で疑似恋愛を演出し、顧客に特別扱いされている感覚を与え続ける。日常生活で「誰にも必要とされていない」「自分には価値がない」と感じている女性にとって、この体験は強烈な快感となる。
この快感は脳内でドーパミンの分泌を引き起こす。ドーパミンは「また味わいたい」という欲求を強化する神経伝達物質であり、ギャンブルや麻薬と同様に依存を形成する。ホストからのLINEが来た、同伴できた、指名されたという、こうした不確定な報酬が繰り返されることで、脳は「次こそもっと愛される」という期待にとらわれ、やめられなくなる。
心理学的には、承認欲求と疑似恋愛構造の組み合わせが鍵となる。多くのホスト依存女性は、幼少期に親からの無条件の愛情を十分に受けられなかった経験を持つ。親が過干渉、条件付きの愛情しか与えない、あるいは無関心だった場合、自己価値が「他者からどう評価されるか」に強く依存するようになる。ホストクラブはこの心の空白を埋める場として機能し、金銭という対価を支払うことで愛情が「買える」という錯覚を生み出す。
依存症専門医の臨床経験によれば、ホスト依存の重症例の一部には、ADHD(注意欠如多動症)やASD(自閉スペクトラム症)といった発達障害が背景にあるケースが見られる。ADHDの特性である衝動性のコントロール困難、報酬への過敏性、視野の狭さは、ホストへの過剰な執着と借金の積み重ねを加速させる。早稲田メンタルクリニックの動画解説でも、衝動性のコントロールが苦手な女性がホストにハマりやすいと指摘されている。
さらに深刻なのは、愛着障害である。愛着障害とは、幼少期に親や養育者との間で安定した情緒的な絆を形成できなかった結果、大人になっても他者との関係に不安や執着を抱える状態を指す。愛着スタイルには「安定型」「不安型」「回避型」「恐れ・回避型」があり、このうち不安型の女性は「見捨てられる恐怖」が強く、相手の反応に過剰に依存する。ホストからの「愛されている」というサインを求め続け、そのために借金を重ねてしまうのは、この不安型愛着の典型例だ。
愛着障害を抱える女性は、恋愛を「ギブアンドテイクの取引」として捉えやすい。無条件に愛される経験がないため、「お金を使えば愛される」というホストクラブの構造に違和感を持ちにくく、むしろ「これが正しい関係」だと錯覚してしまう。
ホスト依存問題を語る上で欠かせないのが、「売掛金」という仕組みである。売掛とは、客がその場で支払えない料金をホストが立て替え、後日客が返済するツケ払いのことだ。この制度により、女性は支払い能力を超えた高額な飲食を繰り返し、借金が膨れ上がる。
警視庁の説明会資料や厚生労働省の報告書によれば、売掛金は数十万円から数千万円に達することもあり、返済のために性風俗店での就労を強いられるケースが相次いでいる。ホストや関連するスカウトグループが「返せないなら風俗で働けば」と誘導する構造も確認されており、職業安定法違反や売春防止法違反で摘発される事例が増加している。
2025年6月に改正風営法が施行され、スカウトへの報酬支払いや恋愛感情を利用した営業、売掛金制度が事実上禁止されたが、現場ではまだ違法な営業が続いているとの証言もある。警察の取り締まり強化と並行して、女性相談支援センターや消費生活センターへの相談も急増している。
借金を背負った女性が風俗で働くことを余儀なくされる過程では、心理的なマインドコントロールも働いている。ホストからの「お前のために俺が立て替えた」「裏切るのか」といった言葉で罪悪感を植え付けられ、抵抗できなくなるのだ。
大石クリニックの大石院長は、ホスト依存の女性たちが「このままでは生活できなくなる」と理性的に予測できない背景に、発達障害の特性による視野の狭さや、強迫的性行動症といった疾患が関わっている可能性を指摘している。ADHD傾向のある人は、目の前の報酬に反応しやすく、将来のリスクを現実感を持って想像することが苦手だ。また、ホストとの関係に没頭することで、他の情報が視界に入らなくなる「トンネル視」の状態に陥る。
さらに、恋愛依存の女性は「相手がいないと自分の存在価値がない」と感じているため、借金のリスクよりも「この人に嫌われる恐怖」が上回る。理性と感情のバランスが崩れ、感情が意思決定を支配してしまうのだ。
ホスト依存からの回復は可能である。ただし「意志の力」だけで抜け出すことは難しく、専門的な支援が必要だ。回復のステップは以下のように整理できる。
まず第一に、自己理解である。自分がなぜホストに依存しているのか、その背景に愛着障害や自己肯定感の低さがあることを認識することが出発点となる。カウンセリングや心理療法を通じて、幼少期の体験や現在の感情パターンを整理することが有効だ。銀座泰明クリニックや大石クリニック、早稲田メンタルクリニックなどでは依存症専門の治療プログラムが提供されている。
第二に、物理的な距離を取ることである。担当ホストとの連絡を断つ、ホストクラブに近づかない環境を作ることが重要だ。売掛金がある場合は、直接会わずに振込で支払うなど、接触機会を減らす工夫が必要である。家族や信頼できる友人に協力を求め、行動を監視してもらうことも有効だ。
第三に、代替行動の確立である。ホストに会うことで得ていた承認欲求や高揚感を、別の健全な活動で満たす必要がある。趣味、スポーツ、学習、ボランティアなど、自分の時間を投資できる対象を見つけることが回復を支える。自己肯定感を高めるためには、小さな成功体験を積み重ねることが効果的だ。
第四に、債務整理である。借金が膨らんでしまった場合は、弁護士や司法書士に相談し、任意整理や自己破産などの法的手続きを検討する。新宿などホストクラブが集中する地域の法律事務所には、ホスト関連の借金相談に対応しているところもある。
第五に、再発防止のための心理療法である。認知行動療法(CBT)や弁証法的行動療法(DBT)、トラウマフォーカスト療法などが有効だ。また、自助グループや回復施設(グループホーム)を利用することで、同じ経験を持つ仲間と支え合い、孤立を防ぐことができる。
家族や友人がホスト依存に気づいたとき、どう対応すべきか。大石院長は「否定せずに見守ってほしい」と強調する。頭ごなしに批判したり、無理やり引き離そうとしたりすると、本人は防衛的になり、さらに依存を深めてしまう可能性がある。
まずは本人の話を聞き、なぜそこに居場所を感じているのかを理解しようとする姿勢が大切だ。その上で、「心配している」「一緒に考えたい」というメッセージを伝え、専門機関への相談を勧める。厚生労働省は女性相談支援センターや消費生活センターを窓口として案内しており、家族からの相談も受け付けている。
最悪のケースは、本人が孤立し、借金を抱えたまま追い詰められることだ。自殺や犯罪に巻き込まれるリスクもある。だからこそ、早期の介入と継続的な支援が不可欠である。
ホスト依存問題は、個人の「弱さ」や「判断ミス」だけで説明できるものではない。承認欲求を巧みに利用するホストクラブのビジネスモデル、売掛金制度による債務の罠、性風俗への誘導という構造的な問題が絡み合っている。さらに、愛着障害や発達障害といった心理的・神経発達的な脆弱性を持つ女性が、そのシステムに取り込まれやすい現実がある。
法的規制の強化や警察の取り締まりは重要だが、それだけでは不十分だ。依存症治療の専門機関の拡充、カウンセリングへのアクセス改善、社会全体での承認欲求や自己肯定感の問題への理解促進が必要である。「愛はお金で買える」という幻想から抜け出すためには、社会が「無条件に受け入れられる場」を提供し、個々人が自己価値を内面から育てられる環境を整えることが求められている。
衆議院選挙が終わって数日が経った。
しかし同時に、「民主主義とは何か」を考え直させられる出来事でもあった。
今回、先の参議院選挙から心惹かれる候補者がおり、その方が衆院選でも立候補されることになったとみつけた。
何を行えばいいかわからない、なので決起集会から参加することにした。
ただ、私はこの政党の政策すべてに賛同しているわけではない。たとえば消費税ゼロを謳っているが、現実的な財源確保として不可能だろう。VAT対象品目の見直しや税率の段階的引き下げならまだしも、と思う部分は多々ある。それでも、この候補者個人の姿勢には共感していた。
会場には早めに到着した。主催者席に座る候補者は、ネットで見るより穏やかで、普通の人に見えた。もしかして別人では、と疑ったほどだ。
ところが決起集会が始まると、徐々にあの雰囲気が戻ってきた。明確な目的意識と、人を飽きさせない話術。理路整然とした言葉運び。ああ、本物だ、と少なからず感動した。
開始ギリギリに入場を諦めかけていた人々を掻き分け、個性的な格好の女性が入ってきた。顔見知りらしき女性と話した後、床に座り込んだ。満員のため床に座る人は他にもいたので、これ自体は仕方ない。冬の寒い日だったが室内は適温だった。
ところが彼女には暑かったらしい。会の進行も気にせずタンクトップ姿になり、ストレッチを始めた。候補者が演説している最中である。周囲の人々が一瞥し、見て見ぬふりをし始めるのが分かった。知り合いと見られる女性も、誰も諌めることはなかった。
これは私にとって異様な光景だった。国の立法府に人を送り出そうとしている場で、自分の快適さを優先する振る舞い。それを制止できない支援者たち。人は自由であるべきだが、この状況への違和感は拭えなかった。
候補者と支援者の話は感動的で思慮深く、ますます応援したくなった。だが同時に、この非社会的行動とそれを容認する雰囲気に、この集団に身を置くことへの躊躇も生まれた。候補者は心から応援するが、支援者の集まりには居心地の悪さを感じる。党内の年齢層が高いせいか、仕組みがアナログなことも気になった。
次に応援に訪れたのは、大きな駅前だった。党首と候補者が揃って演説するという。選挙戦も中盤、どんな話が聞けるか楽しみだった。
党首の主張は理解できる。税金の使途変更、防衛費拡大への反対、雇用の安定化。実現すれば社会的負担を減らせる政策だ。
しかし言葉選びが気になった。この街はかつて若者の街と呼ばれ、今も感度の高い人々が集まる場所だ。新しいものを好み、洗練された言葉を使う。
その駅前で「○○はいいでしょう、みなさん、どうですか?」という呼びかけ。若い世代なら思うだろう。質問形式で議論を誘導するのはレトリックとして不誠実ではないか、と。信念があるなら素直に政策を語ればいい。同意を求める言葉は、自信のなさに聞こえる。
耳を疑った。ガビーンとは何だろう。長年のキャリアを持つ政治家が、なぜこの場にいる人々に届く言葉を選べないのか。聴衆に訴えかけるのではなく、自分の話したい言葉だけを語っているように見えた。
この党首は東大を主席で出て司法試験に合格し、若くして党を任され、弱者の側に立って問題解決に取り組んできた人だ。テレビ討論でもしっかり話される。政治家として評価されるべき実績がある。
それなのに、この演説は何だろう。データの並べ方も、相手に噛んで含めるような話し方も、聴衆を低く見積もっているように感じられた。
この区は常に23区の平均給与トップ3に入る。日々プレゼンをし、人を説得して予算を獲得する訓練を受けた人々が多い。党首の話し方は、そうした聴衆には響かない。
後ろで候補者が不安そうに手を振っている。聴衆の半分は政党ではなく候補者目当てだろう。
党首がようやく話を終えたと思ったら、スタッフが「まだ話し足りない」とマイクを戻した。聴衆は候補者を見に来ているのだ。壇上の党首、スタッフ、候補者の間で意思疎通がうまくいっていない様子が見て取れた。
候補者の演説が始まったのは25分後だった。比例候補とはいえ、若者に届く言葉で話せる候補者の時間が、二世代上の党首の演説に削られたのは残念だった。
それでも、その足で区役所に向かい、候補者の政党名を書いて期日前投票した。
選挙運動平日最終日、金曜の夜に仕事が早く終わったため、もう一度候補者の演説を聞きに駅前へ向かった。
今回、リベラルな政党を心から応援したいと思った。ただ投票以外に何ができるか分からない。勤め人なのでポスティングの時間も取れない。せめて聴衆「モブ」の一人として場を盛り上げられればと足を運んだ。
だがその度に気になったのは、支援者の排他的とも見える行動だった。
この日、自治体の首長と候補者と同じ政策を掲げるNPO代表が応援演説に来ていた。聴衆は80人もいないように見えたが、特記すべきは15人前後が巨大なスローガン入りの旗を持っていたことだ。個性的な格好をした人が多い。
でもさあ、80人くらいだよ。ここにいるの。そこの20%が旗持っているわけ。
遠目から見て、異様な光景。デモ会場なら分かる。他党でも旗を持つ人はいる。ただ大抵は小さな応援旗だ。少ない人数に大漁旗並みの旗を持つ人が20%もいる状況は、書かれたスローガンが正しくても、外から見て近寄りがたい。
あの集団を見て、楽しそうだから仲間に入ろうと思う人がいるだろうか。むしろ威圧感を与えているのではないか。
遠目から候補者の演説を聞いた。掠れた声で、それでも変わらない人を惹きつける話し方。前議員時代に力を入れた戦時中の事故の問題、労働問題、あらゆる格差問題。それは意味のある言葉だった。一人でも多くの人に届いてほしいと願った。
大規模政党から見ればメジャーではない政党の些細な敗北かもしれない。しかし多様な問題提起をし、さまざまな状況に置かれた人々の声を国に届けられる人を、有権者の一人として国会に送れなかった。今、とても気持ちが沈んでいる。
全ての人に優しい社会という理念は大事だし、私もその一員でありたい。
直近の選挙でリベラル側に立つことで、リベラルが票を増やせない根本的な問題に気づいた。
理念は正しくても、それを広げる方法に課題がある。他党の主張を支持する人もいるだろう。だが節目の場では、協調と他者への尊重が必要ではないか。政党側にも支援者側にも。
共鳴する仲間を増やす必要がある時に、外から人が入りづらい雰囲気を作る古参の態度は何なのだろう。
学生時代、キャンペーンスタッフのバイトでチラシ配りをしていた。人の目を見て動きを少しシンクロさせると受け取ってもらえることを学んだ。この政党のスタッフは高齢の方が多く、ぶっきらぼうにチラシを押し付けるように渡していた。チラシに書かれた言葉を届けるというより、チラシ配りという役目だけをこなしている。相手の行動を見て判断し、関心のある素振りを見せなければ、誰もチラシを受け取らない。
視覚障害者用の誘導ブロックに立つ支援者もいた。「誰かが来たらどけばいい」ではない。そんな配慮もできない人が支持している、と候補者の評価まで下がることに思い至らないのだろうか。
若い有権者はチラシではなく、候補者のホームページを見る。だがそのホームページも、パワーポイントで作った画像を貼り付けた雑然とした作りで、政策の深掘りも整理もされていない。フォントサイズもバラバラでデザインに落ち着きがない。
候補者は最初の決起集会で、この政党だからこそ活動ができたと感謝を述べていた。その言葉は本心だろう。だが同時に、支援者たちの善意が、意図せず新しい人々を遠ざけている現実がある。
私自身は無党派層であるが、今回リベラルの候補者を追いかける中で、いくつかの問題が見えてきた。
理念を広げたいのであれば、まず支援者の側から、初めての人が入りにくい雰囲気を和らげる必要があるのではないだろうか。
掲げているスローガンは本来、社会全体に向けた言葉のはずだが、いつの間にか仲間同士の確認の言葉になっていないだろうか。
さまざまな立場や温度感の人が参加できる作法になっているのか、改めて考えてみる余地があるように思う。
どのような態度の人であれ、どの立場の人であれ、まず同じ社会の構成員として尊敬の態度を持って扱う姿勢が必要ではないだろうか。
自分たちの正しさを語るだけでなく、その正しさが現実の社会にどのように作用するのかを、現在の社会を前提に説明してほしいと感じた。
たとえ他党であっても、支持される理由があるはずであり、その点を理解しないまま批判すると、力強い、信頼できる言葉を届ける前に、結果として有権者を遠ざけてしまうのではないか。