
はてなキーワード:仏教用語とは
暇空茜(水原清晃/42歳)と音無ほむら(江藤貴紀/44歳)は以前は仲良しだった
音無は東大卒で塾経営者をしつつ大黒柱は同じく東大卒の妻であり子供もいたが、ある時期からColabo仁藤夢乃にのめりこみ、仁藤曰く「古参のストーカー」と化し、妻子に逃げられ塾も経営破綻
ますます仁藤にのめりこみ様々な陰謀論を唱え、その陰謀論を垂れ込まれた暇空がパクって騒いだことで、国会でも取り上げられるほどの「Colabo問題」へ発展した
二人は仁藤叩きの同士として仲良しこよしだったが、次第に暇空は仁藤に飽きて、男子大学生堀口英利叩きに走るようになった
音無は堀口のことがどうでもいいので暇空の方針に意義を唱え、好きなことを好きなようにやりたい暇空と対立
ブロックしたり解除したりをイチャイチャと繰り返す関係になった
堀口に夢中な暇空だったが、Twitter上で暇アノンと激しいレスバを繰り広げていた堀口は突然アカウントを削除し、暇アノンには監視しかできないユートピアInstagramに移住してしまった
暇空は次第に、堀口のInstagramでの投稿は偽物によるもので、本人は地元の高崎市で逮捕されているという説「高崎物語」を提唱
やがて「高崎物語はミスリードされたシナリオだ」と気づき、実際には立川を本拠地に置く新興宗教団体「真如苑」に堀口が監禁されているという「立川物語」だと開眼した
堀口の母が一時期真如苑にはまり、脱会したが堀口が愚痴っていた時期があったのが根拠だ
仁藤や堀口を敵だとミスリードされた時期もあったが、彼らは本当はそれほどの悪人ではなく、全ては真如苑が自らの闇から目を逸らさせるために仕組んだものだと悟り、暇空ははじめて仁藤と堀口に謝罪した
監禁されている堀口を開放することで事態が好転するとわかり、暇空は刑事告訴の取り調べで頻繁に会っている検察らに真如苑の闇を訴えかけているという
真の敵が真如苑だとわかった今、それならば仁藤叩きを仕組んだ音無は真如苑の手先だと暇空は知ってしまった
暇空茜
@himasoraakane
②添付アイコンの髪飾りがコンパスだが、真如苑ではコンパスは「聖地コンパス」として固有名詞にされるほどのグッズでデザインが同じ
④耳飾りのカギはロマサガ2のロックブーケがモデルといってるが嘘、ロックブーケはカギモチーフがない
⑤コンパスをモチーフにしてるのはあきらかなのにコンパスに関する言及がない
https://pbs.twimg.com/media/Ge_i6rna4AA3LEj.png
https://pbs.twimg.com/media/Ge_i_XAbwAAblMu.png
https://pbs.twimg.com/media/Ge_jEUdasAAd85l.png
ネームド暇アノンの「ホットケーキくん」は「法華経」を由来とした真如苑関係者
「アルパカ社長」は「アルパカ」は漢字だと「羊駱駝」と書き駱駝が仏教で重要な動物のためやはり真如苑関係者
暇空側のふりをしながら焚き付けていた者たちの中からも多くの真如苑の手先が見つかった
また、暇空が不当に退学に追い込まれた母校東大寺学園も仏教関係の男子校であり、真如苑との縁が深い
かつて彼が退学へと追いやられたときから既に真如苑のシナリオは始まっていたのだ
仏さんとは若干ニュアンスが違うかな。
大雑把に言えば、その人が死んだら仏さんかもしれんが。
羅漢(らかん)とは仏教用語では、阿羅漢(あらかん)の略で、最高位の修行に達した聖者のことを指し、
https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/shokai/bunya/kaiga/rakanzo.html
まぁおっさんおばさんの集落で高校生・女子大生です🥺ってやるよかええけどね
●みなさんは未婚のシングルについてどう思われますか?
●私はどう息子を育てていくべきでしょうか?(親のことなんて気にならないようにしてあげたいですが、大きくなってどう説明したらいいのか、学校で虐められないか)
●今の日本の性教育ではどこまで学校で教えてくれるのでしょうか?
これ気になるね。令和はどうなってるのかしら
ワイは通ってた学校はなんかのモデル校だったから海外の性教育アニメ見せられたな
ノリノリでズッコンバッコンバッタンしとったけど、それを見て子どもが笑うと言う演出が作中にあった
あの時の冷え冷えとした空気感が忘れられないわ
そのあと例によって例のごとく感想文を書かされたのだけど、その時の空気感も忘れられない
仏教用語的にも日常使いのあきらめ受け入れるみたいなニュアンスでも『諦観』ってこういう時に使うんやなって・・・
あと、『コンドームは完全に避妊できないよ』もやったな。中学で
けど、性教育は学校以前に親の仕事だぞ。今も昔も親が子どもの発達に合わせて教えるもの
差別はいけないことだと言っている奴は違いが分かるのだろうか?
そんなの区別でも選別でも該当するだろうが。そうでなきゃ「これは差別ではなく区別」なんて言ってねえよ。
あのさあ、俺が聞いてんのは、「本質」の違いだって言ってるだろうが。実質の話なんかしてねえよ。
検索条件だけ変えて、この条件だけ該当したのでこれは差別、みたいなこと聞いてねえんだよ。
書いてあること見ろよちゃんと。
これが一番しっくりくる。
選別から弾かれて悲しまないとでも思ってんのか、脳味噌お花畑か?
お天気か何かだと思ってんのか。理由さんはなくなり、本日は差別の模様、ところによりぴえんが降るでしょう。
何かさあ、これにぶら下がってるツリーを見ると、結局一生懸命差別と区別と選別は別だと力説しているようで、条件によって簡単に入れ替わったりするものでしかないように見えるんだが?
つまり本質的な違いなんか無いと、お前らが証明(そうでなくても論理の補強)してしまっているように見えるんだが。
差別と区別の違いを単なる無教養の底辺、ゴミのお前が理解できる必要があんのか?
プリキュア見てる時にそれが割り込んできてキツいって気持ちはわかるよ
じゃあ別の例で
単行本の雑談コーナーに幸福の科学のちゃんぽん仏教用語出てきたりさ
何よりそんなルールはねえとか自由が優先だとかはもちろんそうだけどね
あとさあ
民主主義の建前では政治的な発言の自由は勿論めっちゃ大事なんだけど
何党支持でも黙っとけって思っちゃうよ俺は
芸能人や漫画買って「一般人レベルかそれ以下の見識しかねーのに影響力ばっかでかい人」じゃね?
何かにかぶれてからの発言は大体きっつくて痛々しいとしか思えない
別にプリキュア先生の発言がそうだってんじゃなくて一般論的にはね
芸能人で自民支持のやつでもアンチ自民のやつでも発言をよく見てみろよ
どう見てもただの考え浅いむきになったバカだぜ
彼等には一票の権利を与えればそれで十分なんだよ
母親一家がクリスチャン、親戚の独身女性全員がシスターという珍しい家で産まれた。
大学生になって英文学の授業を取った時に英語で聖書を読み、初めてキリスト教に興味を持った。
社会に出て働くようになってから人間の残酷さとあたたかさを同時に味わったり、人も自分も良くも悪くも変わってしまうんだなと悲しくなったりした。
聖書を読み、寝る前にその日の出来事や感じたことを神様に語り祈るようになった。この世で唯一変わらない神様の存在を思うと、自分らしく人を大切に生きられるような気がした。
ある時、私はラジオから流れてくる曲に衝撃を覚えた。初めて聴く曲なのに異常に心地よく懐かしく感じた。その時点で彼のファンになった。
すぐに彼の他の曲を調べ全部聴いた。YouTubeでアップしていた動画を何度も見たりインタビュー記事を読んだりした。
彼の音楽だけでなく、彼の愛に溢れた言葉に感動した。手帳に書いてみたりした。
しかし最近になって、それが彼の言葉ではなく、サティヤ・サイ・ババの言葉だったことが分かった。今までずっと聴いてきて感動していた音楽にも宗教の教えががっつり織り込まれていた。
要するに、私はクリスチャンでありながら、別の宗教の考えにずっと浸っていたということになる。そのことに気付き、私はものすごくショックを受け頭がぐちゃぐちゃになった。
それの何が悪いの?別にいいと思うものが何個あってもいいじゃん?と思う人もたくさんいると思うし、その考えを不思議だとは思わない。私もショックを受けた自分にびっくりした。
正直、自分はかなり信仰心低めのクリスチャンだと思っていた。神様を信じているというより、自分のために神様の存在を利用しているというか。神様を話を聞いてくれるイマジナリーおっちゃんみたいに思っている、という風に自分では思ってた。
でも実は私は心の奥底では辛い時に教えに導かれたことをものすごく感謝しているんだと気付いた。だからこそ、知らないうちに別の宗教のリーダーの言葉をありがたがっていたことが、神様への裏切りのようで言葉にできない気持ちになった。
彼の音楽は今でも大好きなので聴き続けたいという気持ちはもちろんあるけど、今回の出来事があってなんとなく怖くなってしまった。
キリスト教以外のものを受け入れたくないわけではない。当然神社も行くし仏教用語いいなと思うこともあるし新興宗教に傾倒してるアーティストの曲を聴いたりしてる。でもそれは「これは◯◯という宗教に基づいたものだ」という知識が最初からあるから。
元々「これはこの宗教の影響を受けた音楽です」と言われていればそうなんだなあと楽しめたのにと思うけど、日本では彼がそれを公言するのが難しいのと私がものを知らなさすぎた。
無宗教の人からしたら、楽しいお料理教室に通ってフライパンとかも買ったけど実はマルチの巣窟だったことを後から知ったみたいな感覚に近いかもしれない。そのマルチが悪質かどうかは置いといて、マルチはマルチだから、最初からマルチって分かってたらまだショック受けなかったのに…みたいな(マルチ批判ではなくあくまで例え)
Permalink |記事への反応(28) | 23:26
「人間万事塞翁が馬」は、普通だと「にんげんばんじさいおうがうま」と読むが、それは間違いであり、本来は「じんかんばんじ」と読むべきである、という人々が存在する。「人間万事塞翁が馬」における「人間」とは、「人」を表す「人間(にんげん)」ではなく、人と人の間、つまり「世の中」を意味する「人間(じんかん)」を意味しているからだ、という主張である。
この「塞翁が馬(塞翁失馬)」の故事は『淮南子』を出典とする。ただし字句としては「人間万事」も「塞翁」も『淮南子』には出てこない。ではどこからきたのかというと、中国の禅僧・晦機元煕の詩の「人間萬事塞翁馬 推枕軒中听雨眠」という一節からである。あるいは中国本土では王士端の「人間万事塞翁馬 只生歓喜不生愁」のほうが有名らしいが。いずれにせよこれらの「人間」は確実に「世の中」という意味で使われている。なぜなら中国語の「人間」に「人」という意味はないからである。
ではやっぱり「人間万事」は「じんかんばんじ」と読むべきなのか、というとそういうわけでもない。そもそも、「世の中」という意味の「人間」は「じんかん」と読むべし、というルールがないからである。
「人間」の語源は「人の世界」「世の中」という意味の仏教用語「人間」である。これは漢音で読めば「じんかん」となるが、仏教用語は呉音で読むことが多いので「にんげん」という読みで広まった。実際、いまでも辞書で「人間(にんげん)」を引けば、「人の住む界域。人間界。人界。人間道。」という説明が載っている。
しかし、やがて「にんげん」は「人」そのものを指すように変化していったが、あまり使われていなかった「じんかん」は「世の中」を指す意味のまま残った。そういう流れなので、「にんげん」は人を、「じんかん」は世の中を指す、というような使い分けがあるわけではなく、「世の中」を表すのに「にんげん」と読んでもいいのであるが、それだと「人」という意味と紛らわしいので、敢えて「じんかん」と読むことが多い、という程度の話なのである。
よって「にんげんばんじ」は間違いではない。もちろん「じんかんばんじ」が間違いというわけでもないが、多数派の読み方をわざわざ否定してイキる必要はないと思う。
Permalink |記事への反応(10) | 14:03