
はてなキーワード:二十三とは
おじさんたちは若い男が二十三十も年上の女と結婚して羨ましいと思うのか?
おばさんが嫉妬するなら若いイケメンと結婚したおばさんに対してじゃないか…
と思ったけど磯野貴理子みたいな末路が見えるからあんまり羨ましくはないな…
https://tensor.art/articles/913142837325893483
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建久六年九月二十三日、晴。都の東、秋葉と称する地に、かつて群集せし者どもの事。かれら、若き日に「我こそは世の主役たらん」と声を揃へ、電脳の祭壇に集ひ、奇異なる装ひにて舞を舞ひ、「麻生を讃へん」「オタクは麗し」と叫び、虚飾と欲に心奪はれし者なり。街路には色鮮やかなる絵巻の幟立ち並び、怪しき音曲響き合い、かれらは夢幻の世に醉ふが如く、夜を徹して彷徨ひけり。
されど、年月無情にも流れ、四十路に及び、髪は薄れ、かつての志は色褪せ、心は虚し。秋葉の地にて、かれら、紙に描かれし美姫を求め、電脳の網に縋り、名声と女人の歓心を欲せしが、何一つの技も身につけず、ただ見栄と欲に溺れしのみ。或る者は、情報工学の道に踏み入りしが、心底志なく、ただ金銭と誉れを追い求め、知識は錆びつき、口にするは虚しき自慢話。「我、塔の館に住む」「財を成せり」と語るも、里人は顧みず、嘲笑を浴す。
同日、秋葉の街路にて、かつての祭りの残響を追い、色褪せし者ども、なおも怪しき絵巻の前に佇み、過ぎし日の栄光を求めんとす。されど、若き女たちはかれを見て恐怖を抱き、遠ざかる。里人、かれらを評して曰く、「斯様な者は社会の塵にすぎず、秋葉の祭壇に迷ひし亡魂のごとし」と。かつて高らかに「我は凡夫にあらず」と叫びし者、今や巷の嘲笑の種となり、電脳の闇に怨嗟を吐き、世を呪うのみ。
斯の如く、秋葉の地に集ひし者ども、欲に溺れ、己を省みざるが故に、終に世の底に沈む。されど、里人、かれらをただ嘲るのみならず、憐れみの心も持つ。忠義と節度を重んじ、志を磨くべし、と語り合ふ。されば、秋葉の祭りは、人の心の盛衰を映す鏡なり、とぞ。
私の世界は、丁寧に、そう、まるで細胞の一つ一つにまで神経を行き届かせるようにして磨き上げられた、半径およそ十メートルほどのガラスの球体であり、その球体の中心には、世界のすべてであり、法であり、そして揺るがぬ神であるところの、生後六ヶ月の息子、光(ひかる)が、ただ健やかな呼吸を繰り返している。その完璧な球体を維持すること、それこそが水無月瑠璃(みなづき るり)、すなわち三十一歳の私に与えられた唯一にして絶対の使命であったから、私は今日もまた、タワーマンション二十八階、陽光が白磁の床にまで染み渡るこのリビングダイニングで、目に見えぬ埃の粒子と、あるいは時間という名の緩慢な侵食者と、孤独な、そして終わりなき闘争を繰り広げているのであった。北欧から取り寄せたというアッシュ材のテーブルの上には、一輪挿しに活けられたベビーブレスの、その小さな白い花弁の影さえもが、計算され尽くした角度で落ちており、空気清浄機は森の朝露にも似た清浄さを、ほとんど聴こえないほどの羽音で吐き出し続け、湿度計のデジタル表示は、小児科医が推奨する理想の数値、六十パーセントを寸分違わず指し示しているのだから、およそこの空間に、瑕疵という概念の入り込む余地など、どこにもありはしなかった。かつて、外資系のコンサルティング会社で、何億という数字が乱れ飛ぶ会議室の冷たい緊張感を、まるで上質なボルドーワインでも嗜むかのように愉しんでいた私自身の面影は、今やこの磨き上げられたガラス窓に映る、授乳のために少し緩んだコットンのワンピースを着た女の、そのどこか現実感を欠いた表情の奥に、陽炎のように揺らめいては消えるばかりであった。
思考は、そう、私の思考と呼んで差し支えるならば、それは常にマルチタスクで稼働する最新鋭のサーバーのように、光の生存に関わる無数のパラメータによって占有され続けている。次の授乳まであと一時間と二十三分、その間に終わらせるべきは、オーガニックコットンでできた彼の肌着の煮沸消毒と、裏ごししたカボチャのペーストを、一食分ずつ小分けにして冷凍する作業であり、それらが完了した暁には、寝室のベビーベッドのシーツに、もしかしたら付着しているかもしれない、私たちの世界の外部から侵入した未知のウイルスを、九十九・九パーセント除菌するというスプレーで浄化せねばならず、ああ、そういえば、昨夜翔太が帰宅時に持ち込んだコートに付着していたであろう、あの忌まわしい杉花粉の飛散経路を予測し、その残滓を、吸引力の変わらないただ一つの掃除機で完全に除去するというミッションも残っていた。これらすべては、愛という、あまりに曖昧で情緒的な言葉で語られるべきものではなく、むしろ、生命維持という厳格なプロジェクトを遂行するための、冷徹なまでのロジスティクスであり、私はそのプロジェクトの、唯一無二のマネージャーであり、同時に、最も忠実な実行部隊でもあった。誰がこの任務を私に課したのか、神か、あるいは生物としての本能か、はたまた「母親」という名の、社会が発明した巧妙な呪縛か、そんな哲学的な問いを発する暇さえ、このシステムは私に与えてはくれなかった。
夫である翔太は、疑いようもなく、善良な市民であり、そして巷間(こうかん)で言うところの「理想の夫」という、ほとんど神話上の生き物に分類されるべき存在であった。彼は激務の合間を縫って定時に帰宅すると、疲れた顔も見せずに「ただいま、瑠璃。光は良い子にしてたかい?」と、その蜂蜜を溶かしたような優しい声で言い、ネクタイを緩めるその手で、しかし真っ先に光の小さな体を抱き上げ、その薔薇色の頬に、まるで聖遺物にでも触れるかのように、そっと己の頬を寄せるのだ。週末になれば、彼はキッチンで腕を振るい、トマトとニンニクの匂いを部屋中に漂わせながら、私や、まだ食べることもできぬ光のために、絶品のペペロンチーノやカルボナーラを作り、その姿は、まるで育児雑誌のグラビアから抜け出してきたかのように、完璧で、模範的で、そして、どこか非現実的ですらあった。誰もが羨むだろう、この絵に描いたような幸福の風景を。友人たちは、私のSNSに投稿される、翔太が光をあやす姿や、手作りの離乳食が並んだテーブルの写真に、「理想の家族!」「素敵な旦那様!」という、判で押したような賞賛のコメントを、まるで祈りの言葉のように書き連ねていく。そう、すべては完璧なのだ。完璧なはずなのだ。このガラスの球体の内部では、愛と平和と秩序が、まるで美しい三重奏を奏でているはずなのだ。
――だというのに。
夜、ようやく光が天使のような寝息を立て始め、この世界のすべてが静寂という名の薄い膜に覆われた頃、ソファで隣に座った翔太が、労わるように、本当に、ただ純粋な愛情と労いだけを込めて、私の肩にそっと手を置く、ただそれだけの、あまりにも些細で、そして無垢な行為が、私の皮膚の表面から、まるで冷たい電流のようにして内側へと侵入し、脊髄を駆け上り、全身の毛穴という毛穴を、一斉に収縮させるのである。ぞわり、と。それは、神聖な祭壇に、土足で踏み込まれたときのような、冒涜的な不快感であった。あるいは、無菌室で培養されている貴重な細胞のシャーレに、誰かが無頓着なため息を吹きかけたときのような、取り返しのつかない汚染への恐怖であった。彼の指が触れた肩の布地が、まるで硫酸でもかけられたかのように、じりじりと灼けるような錯覚さえ覚える。私は息を止め、この身体が、この「水無月瑠璃」という名の、光のための生命維持装置が、彼の接触を、システムに対する重大なエラー、あるいは外部からのハッキング行為として認識し、全身全霊で拒絶反応を示しているのを、ただ呆然と、そして客観的に観察していた。
「疲れてるだろ。いつも、ありがとう」
翔太の声は、変わらず優しい。その瞳の奥には、かつて私が愛してやまなかった、穏やかで、そして少しだけ湿り気を帯びた、雄としての光が揺らめいているのが見える。それは、私を妻として、女として求める光であり、かつては、その光に見つめられるだけで、私の身体の中心が、熟れた果実のようにじゅくりと熱を持ったものだった。だというのに、今の私には、その光が、聖域である保育器を、ぬらりとした舌なめずりをしながら覗き込む、下卑た欲望の眼差しにしか見えないのだ。許せない、という感情が、胃の腑のあたりからせり上がってくる。この、二十四時間三百六十五日、寸分の狂いもなく稼働し続けている精密機械に対して、子を産み、育て、守るという、この宇宙的な使命を帯びた聖母に対して、己の肉欲を、その獣のような本能を、無邪気に、そして無自覚にぶつけてくるこの男の、そのあまりの鈍感さが、許せないのである。
ケダモノ。
その言葉が、私の内で、教会の鐘のように、低く、重く、そして厳かに反響する。そうだ、この男はケダモノなのだ。私がこの清浄な球体の秩序を維持するために、どれほどの精神を、どれほどの時間を、どれほどの自己を犠牲にしているのか、そのことを何一つ理解しようともせず、ただ己の種をばら撒きたいという原始の欲動に突き動かされているだけの、ただのケダモノなのだ。
そんなはずはない、と、脳のどこか、まだかろうじて「かつての私」の残滓が残っている領域が、か細い声で反論を試みる。これは翔太だ、私が愛した男だ。雨の匂いが充満する安ホテルの、軋むベッドの上で、互いの名前を喘ぎ声で呼び合いながら、世界の終わりが来るかのように貪り合った、あの夜の彼なのだ。パリへの出張中、セーヌ川のほとりで、どちらからともなく互いの唇を求め、道行く人々の冷ややかな視線さえもが、私たちのためのスポットライトのように感じられた、あの瞬間の彼なのだ。結婚記念日に、彼が予約してくれたレストランの、そのテーブルの下で、こっそりと私のスカートの中に忍び込んできた、あの悪戯っぽい指の持ち主なのだ。あの頃、私たちは互いの肉体という言語を、まるで母国語のように自在に操り、その対話の中に、世界のどんな哲学者も語り得ないほどの、深遠な真理と歓びを見出していたはずではなかったか。あの燃えるような記憶は、情熱の残骸は、一体どこへ消えてしまったというのだろう。それはまるで、昨夜見た夢の断片のように、あまりにも色鮮やかで、それでいて、掴もうとすると指の間から霧のように消えてしまう、遠い、遠い銀河の光なのである。
「瑠璃…?」
私の沈黙を訝しんだ翔太が、私の顔を覗き込む。私は、まるで能面のような無表情を顔面に貼り付けたまま、ゆっくりと彼の手を、自分の肩から、まるで汚物でも払いのけるかのように、そっと、しかし断固として取り除いた。そして、立ち上がる。
「ごめんなさい。少し、疲れたみたい。光の様子を見てくるわ」
それは、完璧な嘘であり、そして、完璧な真実でもあった。私は疲れていた。だがそれは、育児という名の肉体労働に疲れているのではなかった。私という個人が、水無月瑠璃という一個の人格が、「母親」という名の巨大なシステムに呑み込まれ、その歯車の一つとして摩耗していく、その存在論的な疲弊に、もう耐えられなくなりつつあったのだ。これは、巷で囁かれる「産後クライシス」だとか、「ホルモンバランスの乱れ」だとか、そういった便利な言葉で容易に片付けられてしまうような、表層的な現象ではない。違う、断じて違う。これは、一個の人間が、その魂の主導権を、自らが産み落とした別の生命体に完全に明け渡し、「装置」へと、あるいは「白き機械」へと、静かに、そして不可逆的に変質していく過程で生じる、存在そのものの軋みなのである。
聖母、とはよく言ったものだ。人々は、母という存在を、無償の愛と自己犠牲の象徴として、何の疑いもなく神格化する。だが、その実態はどうか。自己を失い、思考も、肉体も、感情さえもが、すべて「子」という絶対的な存在に奉仕するためだけに再構築された、ただのシステムではないか。私は聖母などではない。私は、高性能な乳製造機であり、汚物処理機であり、そして最適な環境を提供する空調設備が一体となった、ただの生命維持装置に過ぎないのだ。この気づきは、甘美な自己陶酔を許さない、あまりにも冷徹で、そして絶望的な真実であった。そして、この真実を共有できる人間は、この世界のどこにもいやしない。翔太のあの無垢な優しさでさえ、結局は、この優秀な装置が、明日も滞りなく稼働し続けるための、定期的なメンテナンス作業にしか見えないのだから、その孤独は、宇宙空間にたった一人で放り出された飛行士のそれに似て、どこまでも深く、そして底なしであった。友人たちがSNSに投稿する「#育児は大変だけど幸せ」という呪文めいたハッシュタグは、もはや、この巨大なシステムの異常性に気づいてしまった者たちを、再び安らかな眠りへと誘うための、集団的な自己欺瞞の儀式にしか思えなかった。
寝室に入ると、ベビーベッドの中の光は、小さな胸を穏やかに上下させながら、深い眠りの海を漂っていた。その無防備な寝顔は、確かに、この世のどんな芸術品よりも美しく、尊い。この小さな生命を守るためならば、私は喜んで我が身を投げ出すだろう。だが、それは、この身が「私」のものであった頃の話だ。今の私にとって、この感情は、プログラムに組み込まれた命令を遂行しているに過ぎないのではないか。愛でさえもが、システムを円滑に稼働させるための、潤滑油のような機能に成り下がってしまったのではないか。そんな疑念が、毒のように心を蝕んでいく。
私は、息子の傍らを離れ、再びリビングへと戻った。翔太は、ソファの上で、テレビの光をぼんやりと浴びながら、所在なげにスマートフォンをいじっている。その背中は、拒絶された雄の、どうしようもない寂しさを物語っていた。かつての私なら、きっと背後からそっと抱きしめ、「ごめんね」と囁いて、彼の寂しさを溶かしてやることができただろう。しかし、今の私には、もはやそのための機能が、インストールされていないのである。
私は、彼に気づかれぬよう、書斎として使っている小さな部屋に滑り込んだ。そして、ノートパソコンの冷たい天板に触れる。ひやりとした感触が、指先から伝わり、かろうじて、私がまだ血の通った人間であることを思い出させてくれるようだった。スクリーンを開くと、真っ白な光が、闇に慣れた私の網膜を焼いた。カーソルが、無人の荒野で、点滅を繰り返している。何を、書くというのか。誰に、伝えるというのか。この、言葉にもならぬ、システムの内部で発生したエラー報告を。この、機械の内部から聞こえてくる、魂の悲鳴を。
それでも、私は指を動かした。これは、誰かに読ませるためのものではない。これは、祈りでもなければ、懺悔でもない。これは、私という名の機械が、自らの異常を検知し、その原因を究明し、あるいは再生の可能性を探るために、己の内部へとメスを入れる、冷徹な自己解剖の記録なのだ。
『これは、私という名の機械が、自己を観察し、分解し、あるいは再生を試みるための、極秘の設計図である』
その一文を打ち終えた瞬間、私の内側で、何かが、硬い音を立てて、砕けたような気がした。それが希望の萌芽であったのか、それとも、完全なる崩壊への序曲であったのか、その時の私には、まだ知る由もなかったのである。ただ、窓の外で、東京の夜景が、まるで巨大な電子回路のように、無機質で、そして美しい光を、果てしなく明滅させているのが見えた。私もまた、あの無数の光の一つに過ぎないのだと、そう、思った。
自己を機械と定義したからには、次なる工程は当然、その性能向上のための最適化、あるいは、旧弊なOSから脱却するための、大胆にして静かなるアップデート作業へと移行せねばならぬのが、論理的な、そして必然的な帰結であった。そう、これは革命なのだと、私は深夜の書斎で、青白いスクリーンの光に顔を照らされながら、ほとんど恍惚とさえいえる表情で、そう結論付けたのであった。かつてロベスピエールが、腐敗した王政をギロチン台へと送り、新しい共和制の礎を築かんとしたように、私もまた、この「母親という名の献身」や「夫婦の情愛」といった、あまりにも情緒的で、非効率で、そして実態としては女の無償労働を美化するだけの前時代的な概念を、一度完全に解体し、再構築する必要があったのだ。そのための武器は、かつて私が外資系コンサルティングファームで、幾千もの企業を相手に振り回してきた、あの冷徹なロジックと、容赦なき客観性という名のメスに他ならない。愛という名の曖昧模糊とした霧を晴らし、我が家という名の王国を、データとタスクリストに基づいた、明晰なる統治下に置くこと、それこそが、この「水無月瑠璃」という名の機械が、オーバーヒートによる機能停止を免れ、なおかつ、その内部に巣食う虚無という名のバグを駆除するための、唯一の処方箋であると、私は確信していたのである。
かくして、週末の朝、光が心地よい午睡に落ちた、その奇跡のような静寂の瞬間に、私は翔太をダイニングテーブルへと厳かに召喚した。彼の前には、焼きたてのクロワッサンと、アラビカ種の豆を丁寧にハンドドリップで淹れたコーヒー、そして、私が昨夜、寝る間も惜しんで作成した、全十二ページに及ぶパワーポイント資料を印刷したものが、三点セットで恭しく置かれている。資料の表紙には、ゴシック体の太字で、こう記されていた。『家庭内オペレーション最適化計画書 Ver. 1.0 〜共同経営責任者(Co-CEO)体制への移行による、サステナブルな家族経営の実現に向けて〜』。翔太は、そのあまりにも場違いなタイトルを、まるで理解不能な古代文字でも解読するかのように、眉間に深い皺を刻んで見つめた後、恐る恐る、といった風情で私に視線を向けた。その瞳は、嵐の前の静けさにおびえる子犬のように、不安げに揺れている。まあ、無理もないことだろう。彼にしてみれば、愛する妻が、突如として冷酷な経営コンサルタントに豹変し、家庭という名の聖域に、KPIだのPDCAサイクルだのといった、無粋極まりないビジネス用語を持ち込もうとしているのだから。
「瑠璃、これは…一体…?」
「説明するわ、翔太。よく聞いて。これは、私たち家族が、これからも幸せに、そして機能的に存続していくための、新しい聖書(バイブル)よ」
私は、そこから淀みなく、プレゼンテーションを開始した。現状分析(As-Is)、あるべき姿(To-Be)、そのギャップを埋めるための具体的なアクションプラン。家事という、これまで「名もなき家事」という名の混沌の海に漂っていた無数のタスクは、すべて洗い出され、「育児関連」「清掃関連」「食料調達・調理関連」「その他(消耗品管理、資産管理等)」といったカテゴリーに分類され、それぞれに担当者と所要時間、そして実行頻度が、美しいガントチャート形式で可視化されている。例えば、「朝食後の食器洗浄」は、担当:翔太、所要時間:十五分、頻度:毎日、といった具合に。さらに、月に一度、近所のカフェで「夫婦経営会議」を開催し、月次の進捗確認と、翌月の計画策定を行うこと、日々の細かな情報共有は、専用のチャットアプリで行うこと、そして何よりも重要なのは、これまで私一人が暗黙のうちに担ってきた「家庭運営の全体を俯瞰し、次の一手を考える」という、いわば管理職としての役割を、これからは二人で分担する、すなわち、彼にもまた、単なる作業員(ワーカー)ではなく、主体的に思考する共同経営責任者(Co-CEO)としての自覚と行動を求める、ということ。私の説明は、かつてクライアント企業の役員たちを唸らせた時のように、理路整然としており、反論の余地など微塵もなかった。翔太は、ただ呆然と、私の言葉の奔流に身を任せるしかなく、すべての説明が終わった時、彼はまるで催眠術にでもかかったかのように、こくり、と小さく頷いたのであった。
「…わかった。瑠璃が、そこまで追い詰められていたなんて、気づかなくて、ごめん。僕も、頑張るよ。君を、一人にはしない」
その言葉は、疑いようもなく誠実で、彼の優しさが滲み出ていた。私は、その瞬間、胸の奥に、ちくり、と小さな痛みを感じたのを覚えている。違う、そうじゃないの、翔太。私が求めているのは、あなたのその「頑張るよ」という、まるで部下が上司に忠誠を誓うような言葉ではない。私が欲しいのは、私がこの計画書を作る必要すらないほどに、あなたが私の脳と、私の視界と、私の不安を共有してくれるPermalink |記事への反応(0) | 05:15
十月の風が窓を叩く音がした。いや、違う。それは祖父の酒瓶が割れる音だった。
午前二時四十三分。台所は琥珀色の月光に満ちていた。床に散らばるはずのガラス片は、かわりに空中で静止し、それぞれが小さな太陽のように発光していた。破片は星座を描いた。オリオン座。祖父が最後に見上げた、あの冬の夜の配置そのままに。
わたしは素足で台所に立っていた。リノリウムの床は10月なのに真夏の砂浜のように熱く、同時に真冬の湖のように冷たかった。時間が二重に流れている。過去と現在が、ガラスの破片のように重なり合って。
「酒ってのは液体の時計なんだ」
声は骨の中から響いた。祖父の声。でも同時に、わたし自身の声でもあった。振り返ると、食器棚の影に七歳のわたしがいた。将棋盤を挟んで祖父と向かい合う、あの日曜日の午後のわたしが。
浮遊する破片の一つが、ゆっくりと回転しながらわたしに近づいてきた。手を伸ばす。ガラスは指に触れた瞬間、温かい蜜のように溶けて、皮膚に染み込んだ。そして見えた——
1943年、フィリピン。若い祖父が震える手で水筒の蓋を開ける。中身は水ではなく、故郷から持参した最後の酒。彼は一滴も飲まない。ただ匂いを嗅ぐ。故郷の、母の、まだ生まれていない娘の匂いを。
記憶が血管を逆流する。わたしの指先から肘へ、肘から肩へ、そして心臓へ。脈拍が二つになる。わたしのものと、祖父のものと。
「時間は肝臓で濾過される」祖父はよくそう言った。「だから俺は毎晩飲む。過去を消化するために」
でも嘘だった。祖父の肝臓は時間を濾過などしていなかった。蓄積していたのだ。層を成して、地層のように。そして死後七年目の今夜、ついに器が耐えきれなくなった。
空中の破片たちが、ゆっくりと渦を巻き始めた。台所の時計は相変わらず二時四十三分を指している。でも朝日が窓から差し込み始めた。いや、それは朝日ではない。破片たちが放つ琥珀色の光だ。
母が階段を降りてくる足音。でも振り返ると、そこにいたのは二十三歳の母だった。祖父がまだ生きていた頃の。いや、祖父がまだ若かった頃の。
「お父さん?」母が言う。でもその声は、現在の母の声と重なって聞こえる。
酒瓶の首だけが、床に残っていた。ラベルには製造年が書かれている。1943年。いや、違う。見るたびに数字が変わる。1952年。1967年。1985年。2010年。2024年。そして——
「2031年」
まだ来ていない年。わたしは理解した。この酒瓶は、祖父が込めた未来の記憶も含んでいるのだと。彼が見ることのなかった、わたしたちの未来も。
破片の渦が速度を増す。台所の壁が透明になり始めた。隣の部屋が見える。でもそれは現在の隣の部屋ではない。1952年の、母が生まれた日の部屋だ。そしてその向こうに、1943年のフィリピンの密林が見える。さらにその向こうに、2031年の——
突然、すべてが止まった。
破片たちが、一斉に床に落ちた。普通のガラスの破片として。月光は消え、台所の蛍光灯だけが瞬いている。時計は午前六時十五分を指していた。
「あら、お父さんの酒瓶が」母は破片を見つめた。その瞳に、一瞬、琥珀色の光が宿った。「夢を見ていたの。お父さんが若い頃の夢を」
わたしは箒を取りに行った。でも知っている。破片を掃除しても、それは終わりではないことを。
なぜなら、わたしの血管の中で、祖父の1943年がまだ脈打っているから。そしてどこかで、2031年のわたしが、新しい酒瓶に記憶を注いでいるから。
時間は直線ではない。それは発酵し、蒸留され、瓶詰めされる。そしていつか、誰かの台所で、再び割れる。
ガラスの破片を集めながら、わたしは気づいた。その一つ一つに、異なる月が映っていることに。過去の月、現在の月、そしてまだ昇っていない未来の月が。
殺生を禁じてるはずの仏教界だが、日中戦争や太平洋戦争当時に大規模な戦争反対論戦を張った話は聞かない。それどころか、戦時中は積極的に戦意高揚のプロパガンダの一翼を担っていたのだ。
仏教連合会、大日本仏教会、仏教護国団、大日本戦時宗教報国会、戦時教学、皇道禅で調べたらいいと思う。
大体に、如何なる理由があっても絶対に戦争を避けるのが仏教の道であると観てゐるのが支那の仏教徒であり≪理由のある戦争はやってこそ仏教の大慈大悲に叶う所以である≫といふのが日本の仏教徒である
という理屈をこねくり回して、軍部におもねり、檀家の男子を戦地に送り出したのが日本の戦時仏教だ。『仏教の戦争観』(1937 林屋友次郎、島影盟)
浄土真宗本願寺派二十三世門主大谷光照(帝大卒、昭和天皇の従兄弟)曰く、「国家の事変に際し進んで身命を鋒鏑におとし一死君国に殉ぜんは誠に義勇の極みと謂つべし」
寺には天皇を讃える位牌があり、戦死者には名誉の戦士を讃える勇ましい戒名を与えることで戦争を後押しした。鐘や大仏の供出にも積極的に応じた。侵略先での布教もした。
廃仏毀釈が進み、国家神道が大手を振る中で仏教が生き残るための(というよりは、仏教界のお偉いさん達がその地位や財産を維持するための)努力ではあったでしょうね。
ジェンダーフリーは子供の健全な人格を破壊し、結婚離れを加速させる。そうなれば、家族が崩壊するだけでなく、社会の崩壊にも直結する。
http://www.seisaku-center.net/node/286
むしろ母性神話による母親への育児負担こそ虐待を引き起こしてしまうことがある
江戸時代は父親が育児したし、三歳児神話は1960年代に広まったものである
本当かどうか、男女共同着替えは問題があると思うが、男の色とか女の色を否定することが悪い・・という論は関係がない
男の色とか女の色ををやめたところで人間が出産されなくなるわけではない
自信が持てない原因になるのではないだろうか?
そもそも性別固定的役割分自体歴史が浅い。専業主婦だって主流になったのは100年未満の話である
「母性」「父性」を説いたところで親との自覚を持たない人間には届かないのでは?
歴史的に見ても男女の役割が変化したことが踏まえられておらず、高度経済成長期以降の専業主婦とか三歳児神話的なイメージから脱却できていない。
だからおそらく父親が育児していた江戸時代も、夫婦共働きが普通だった高度経済成長期より前の時代も考慮されていない。
日本人は長らくめちゃくちゃな家庭環境、家族間で生きてきたのだろうか?そうではないだろう
日本人の歴史でも性別に関わるところは変化しているがそれでもそこで大きな混乱はなかったのだから、ジェンダーフリーがそこまで悪影響である根拠は希薄である。
ある時代の男女の役割は昔の時代の男女の役割の否定でもあるのだから。
まるで古代から日本人は(または人類は)母親が育児して父親が外で働いていたかのように主張する印象
現に「「母性は社会的・文化的に作られたもので、高々百年の歴史しかない」という論には批判的に取り上げられている
その一方で、関わりを通じて築かれる家族愛が過少に評価されてしまっている。
自分の子を育てる母性や自分の子を教育する父性がないとダメなら里親制度とか養子縁組制度とか機能しないだろうし、きょうだいとの繋がりも説明は付かなくなるだろうと思う。
男の色や女の色が否定されたところで生殖できなくなるわけではない。
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http://www.seisaku-center.net/node/304
いずれにせよ、今の日本では「三歳児神話」などと批判される「三歳までは母の手で」という日本の伝統的子育て文化が、男女平等の「先進国」ノルウェーでは国家によって保障されているわけだ(中には父親が育児に専念する場合もある)。
同じ筆者かは分からないが「三歳までは母の手で」という日本の伝統的子育て文化と書かれている。
https://www.mhlw.go.jp/toukei_hakusho/hakusho/kousei/1998/dl/04.pdf
三歳児神話は,欧米における母子研究などの影響を受け,いわゆる「母性」役割が強調される中で,育
児書などでも強調され,1960年代に広まったといわれる。そして,「母親は子育てに専念するもの,す
べきもの,少なくとも,せめて三歳ぐらいまでは母親は自らの手で子どもを育てることに専念すべきで
ある」ことが強調され続けた。
では、日本政策研究センターの次の箇所
次に、「大綱」は小中学生の「放課後対策の充実」を掲げている。子供の世話は社会が見るから、安心して働きなさいというわけだが、これまた子供の「最善の利益」を考慮したものとは言い難い。「いつも同じ家に帰ると同じ人がいて同じように迎えてくれる、それが子供の心の安定につながります」(深谷和子東京成徳大教授)との指摘に違わず、多くの子供たちは学校から帰れば母親が迎えてくれることを望んでいるからだ。都内の小学校高学年を対象とした調査では、四十%余の子供が「家で家族の世話をするお母さん(専業主婦)」を望み、「外で働くお母さん」を望んだ子供は二十三%にとどまったことが確認されている。
母親が迎えて来るか来ないかで質問したらそういうデータになるのは仕方ないと思う
しかしこの役割は父親でも良いのである。母親が働いて父親が家に入ったら解決する。
夫婦共働きが素晴らしいかはともかくその下の箇所、父親の育児休業を批判する必要はどこにもない
さらに、「大綱」は育児休業制度の取組を、男性の取得率十%、女性の取得率八十%を目標に推進すると言う。父親に育児休業をとらせ、保育をさせようというわけだ。しかし、これについては、「乳幼児の世話を父親が主としてやれば、当然母乳育児は不可能になる」「育児休業は母親が取ってこそ子供のためになる」(林道義氏)との的を射た批判がある。父親の育児休業奨励策が、果たして子供たちの「最善の利益」に合致するのか甚だ疑問である。
そこまで母乳を与えなければならないかはともかく、要するに母乳さえ与えられたら良いのである。
父親の育休を批判する根拠にも乳幼児の世話を父親が主としてやることを批判する根拠にもならない。
また乳児期の授乳が終わったら子育てにおける父親と母親の性差は完全と言っていいほどに無くなる。
そもそも育児って夫婦のうち誰かが100%背負わなければいけないのだろうか?そうではないし、誰かが育児を抱える、母親が一人で育児を抱えるのは伝統的な子育てではないはずだ。
第十五条 国は、直接間接の侵略や危難を未然に防ぎ、国民の安全及び自国の産業を守り、国家の独立を保ち、子孫に引き継ぐことを目的に、国まもりの総合的な方針を定める (25) 。
第十六条 国は、海外情報も含め、広く国民に多様な情報を知らせる義務を負う。
2報道機関は、偏ることなく、国の政策につき、公正に報道する義務 (26) を負う。
3報道及び情報通信に関わる業務 (27) は、国営または自国の資本で行わなければならない。
4 国は、外国による諜報活動を防ぐ機関 (28) を設置し、必要な措置を講じる。
第十七条 国は、国まもりのため、国内産業を育成し、国産技術及び研究開発を促進する。
2 国は、国内の知的財産を守り、創作者を保護する責任を負う。
第十八条資源は、国内における採掘と開発を第一に (29) 行わなければならない。
2国内で賄うことのできない資源は、一国に偏らず分散して (30)調達するよう努める。
3電気、ガス、水道その他エネルギー供給は、国営または自国の資本で行わなければならない。
第十九条外国人の入国及び在留条件は、国が主権に基づき、自由に決定することができる (31) 。
2土地は公共の財産であり、外国人または外国資本に譲渡 (32) してはならない。
3外国人または外国資本の保有する不動産、法人及び重要な資産に係る権限 (33) は、情報が公開され、法律で定める手続により没収 (34) し、または正当な補償のもと、国が買い戻すことができる。
4外国人の参政権は、これを認めない。帰化した者は、三世代を経ない限り (35) 、公務に就くことができない。帰化の条件は、国柄の理解及び公共の安全を基準に、法律で定める。
第二十条 国は、自衛のための軍隊 (36) (以下「自衛軍」という)を保持する。
3自衛権の発動と解除は、国会の承認を必要とする。ただし、緊急やむを得ない場合は、事後にこれを得るものとする。
5軍事裁判所 (37) を設置し、その構成は法律で定める。ただし、最高裁判所に上訴する機会は保障される。
第二十一条 国は、領土、領海、領空その他主権の及ぶ領域を保全する。
3外国の軍隊の基地、軍事及び警察施設は、国内に設置してはならない (39) 。
第二十二条統治は、國體を尊重し、全国民のため、和の精神をもって行う。
2立法権は国会に属し、行政権は内閣、司法権は裁判所に属する。
3 すべて公務員は、日本国民である (40) ことを要する。
第二十三条政党は、加入する国民の意思によって運営され、その要件は法律で定める。
3 国は、政党の活動を公平に援助し、国民に政党の情報を提供しなければならない。
第二十四条国会は、衆議院と参議院から組織され、内閣総理大臣の指名、法律の制定、条約の承認、予算及び決算の承認、国政の調査を権限とする。
2国会議員の任期は、衆議院四年、参議院六年とし、参議院は三年ごとに半数を改選する。
3国会の議決は、各院の総議員の三分の一以上が出席し、各院の過半数の賛成を要する。
4内閣は、国会を召集し、毎年一回国会を開催する。ただし、各議院の総議員の四分の一以上の要求があるときは、三十日以内に (41)国会を召集する。
第二十五条内閣は、総理大臣及び国務大臣で構成され、国政全般を統括し、法律及び予算を執行する。
2内閣総理大臣は、国会議員の中から選出され、国務大臣の任免、最高裁判所長官の指名、自衛軍の指揮権を有する。ただし、衆議院の解散は、第四項の場合に限るものとする。
3内閣は、国家の安全に支障ある場合を除き、国会及び国民の求めに応じ、国政に関する情報を提供する。
4衆議院で不信任の議決があったときは、内閣は総辞職するとともに、その判断により、衆議院を解散することができる。衆議院の解散中に、緊急の必要があるときは、参議院が法律で定める特別の権限を有する。
第二十六条裁判所は、法律上の紛争を解決し、法律、条約、命令、条例について憲法適合性の判断を行う。
3裁判所は、裁判手続及び内部規律について規則を定める権限を有する。
4裁判官は、次の各号のいずれかに該当した場合、その地位を失う。
一 定年に達し、または心身の故障のために職務を執ることができない場合
二国会の弾劾または法律に定める国民の審査により罷免された場合
第二十七条 国は、制定した法律、実施した政策、歳出及び選挙の公正について、その評価を行って国民に公表する委員会(以下「評価委員会」という。)を設ける。
2評価委員会は、公益の確保を目的として、内閣に助言及び勧告を行うことができる。
3評価委員会に関する構成員の選任その他の事項は、法律でこれを定める。
第二十八条法案の審議につき、いずれかの議院において総議員の三分の一以上の要求があったとき、または内閣が必要と判断したときは、内閣は、国民投票を実施することができる。国会は、その結果をふまえ、採決を行うものとする。
2 成立した法案につき、一定の期間内に有権者の一定数以上の同意を得た請願が提出されたときは、内閣は、国民投票を実施することができる。国民投票で過半数の賛成があったときは、国会は、当該法案につき再審議を行わなければならない。
第二十九条 国は、円を単位とする通貨を発行する権限を有する。
2紙幣の発行は、法律に基づき、国が監督する中央銀行に委ねることができる。
3 国は、通貨発行及び金融政策が、外国または国際機関の干渉を受けないよう措置を講ずる。
第三十条財政は、経世済民を目的とし、通貨発行により資金を調達することを原則とする。
2予算は、内閣が作成し、国会の承認を得る。決算は、会計検査院による検査及び評価委員会による評価を毎年公開し、国会の承認を得る。
3 国の財務状態は、すべての会計につき、簡潔明瞭に (42)国民に示さなければならない。
4皇室の財政は、皇室の総意により決定された方針に従って内閣が予算を編成する。
5地方自治体の財政は、原則税収をもって賄い、不足する場合は国の予算より充当する。
6地方自治体は、日本の伝統文化の存続普及のための予算を設けなければならない。
第三十一条 税は唯一の財源ではない。税及び社会保険料の設定変更は、国民の生活に配慮し、法律に基づくことを要する。
2 税及び社会保険料の国民所得に占める割合(国民負担率)は、特段の事情がない限り、国民所得の四割 (43) を超えてはならない。
第三十二条憲法は国の最高法規であり、日本の国柄を示すものであって、これに反する法律、条約 (44) 、命令、条例その他の行為は効力を有しない。
2国際機関の決定や勧告は、憲法または日本固有の慣習に反する場合、効力を有しない。
第三十三条 この憲法の改正は、各議院の総議員の過半数の賛成で発議し、法律で定める国民投票において、有効投票の過半数の承認を得て行う。
以上
(2)しらすとは、国民の実情を広く知って日本を治める意味の古語である。
(3) 君民一体とは、天皇と国民が一体となって国を治める意味をいう。
(5)神聖は君主の属性でもあり、皇祖皇宗の神霊と一体として詔勅を発し、祭祀を主宰する事実による。
(6)詔勅は、国民に権利義務を生じさせず、法的拘束力を有しないが、公共の利益のために発せられる。
(7) 裁可とは君主の裁量で許可すること。これにより生じる君主の拒否権のことを veto(ベトー)という。再度の奏請の規定により拒否は一度に限られる。
(8)摂政は、天皇が未成年、御不予(御病気)等の理由による臨時の役職であり、天皇の権限を代行する。
(9) 暦は、明治六年から導入された太陽暦や、それ以前の太陰暦などをいう。
(10)国民の国政参加機会の拡充(参政権の年齢引下げ、国民投票など)からくる要請である。
(11)規範的要件だが、我が国に対する害意がないことをもって足りると解すべきである。
(13)権利を「権理」と記したのは、right の翻訳として、「理に適った」という趣旨を含む用語として適切だからである(福沢諭吉は翻訳として二つの用語を用いていた)。
(14) 国が国民の権理とともに、公益の最低限度を確保すべきことを定める条文である。
(15)私益より公益が優先することは、権利や自由が公共の福祉のもと認められることと同じ趣旨である。本憲法において、公共の利益(公益)をより具体化して定めている。
(17)尊厳をもって生存する社会権も含めた包括的な基本的権利をいう。
(18)日本国憲法では権利や自由は、原則として公共の福祉(公益)による制約があるとされた。本憲法においても、権利や自由は、本憲法に定める公益と適合する範囲に限られ、濫用を禁止する趣旨である。
(19) 将来の政治参加に向けて、国民が情報を適切に判断し、問題を解決する主体性をもった教育をいう。
(20)フリースクールなど義務教育課程における様々な選択肢を設ける趣旨である。
(22)新型コロナウイルスの予防接種が全国的に事実上強制され差別されたことへの教訓と反省による。
(23)政治に参加する義務は、直接に投票義務や政党加入などを義務付けるものではなく、日本国憲法における勤労の義務と同様、その能力や機会に応じた行動に努めるものである。
(25) 今や情報、経済、産業等の諸分野が、国まもりに関係しており、全体像の取りまとめが必要である。
(26)現在は放送法の規制はあるが、新聞やインターネット上の報道には規制がない。
(27)新聞、テレビ、ラジオ、衛星放送、郵便、電話、インターネット、SNS、クラウドに関わる業務を言う。
(28)防諜機関は、外国の諜報・宣伝・謀略等の工作活動を阻止することを任務とする国の組織である。
(29)石油、石炭、レアメタルなど重要な鉱物は国内調達やその可能性を優先すべき訓示規定である。
(30)大東亜戦争時に石油を特定の一国に依存したことへの教訓と反省による。
(32)無償及び有償の譲渡を含む。外国人及び外国資本による土地買収を規制する趣旨である。
(33)国内の土地建物、国内企業の株式、国内法人の持分・出資・社員権などの権利をいう。
(34)没収は、犯罪や不正の取得など例外的な場合に限られる。
(35)三世代とは、日本国籍でない者が帰化し、その者を一代として、曽孫において初めて公務就任権が認められる。外国人の帰化による政治介入を防止する趣旨である。
(36)軍隊とは、交戦権を有し武力行使を任務とする国家の軍事組織をいう。通常、陸海空軍に分かれる。自衛隊は交戦権がなく、必要最小限度の防衛を任務とする点で異なる。本憲法の軍隊は、自衛権の行使を任務とする。
(37)軍事裁判所は軍隊及び軍人に関する事項を審理するが、最高裁判所が終審裁判所となる。
(38) 常駐とは、意に反して又は合意に基づく恒常的な駐留をいう。一時的な訓練や寄港のための滞在は含まない。
(39) 本条二項三項が本来の状態であるが、その実現のためには、本憲法に基づく国まもりの施策を実施し、段階を踏む必要があると考えている。
(40)帰化の場合第十九条第四項により三世代を経ることを要する。公益従事義務、情報漏洩の禁止。
(43)国民の平均的な所得の四割を超えない趣旨である。財務省の統計では、戦後、平成二十五年に初めて四割を超えた。なお、党の政策では三割五分の実現を目指している。
日本人の月見という習慣はそういう美意識がどっかで湧いたってわけじゃなくて「典故」と「信仰」の二つのルートがあるのですのだ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2531074
典故ってのは何かにつけて漢籍(漢文の本)を引用したりなぞらえること。特に風物表現で多いのが漢詩。
例えば「四季」ってのは漢詩で季節を表現するのに擬えて和歌を詠んで散文にも応用されて行ったもんだし、日本文化独自性が高い俳句でも多い。
また例えば芭蕉は「象潟や雨に西施がねぶの花」って俳句を詠んでるけど、西施ってのは中国四大美女の一人で、悲劇の死を遂げた女性。んでさ、この人が溺死させられたって伝説があるので西湖と名付けられた湖があるんだけど、ここって今は内陸の湖なんだが昔は潟湖(ラグーン)だったのよ。で、芭蕉が訪れた時代の象潟もラグーンで、松島のような多島海でとても美しかった。でもそこで「きれい」って言っちゃうとあたまのわるいひとイラストみたいになっちゃうってんで、悲劇の美女西施→潟湖の西湖の風景という諧謔というか教養連想ゲームをやってるわけです。
やべぇ例示だけなのに長くなってしまったな。因みにこの象潟は芭蕉の後に地震があって、輪島の海岸みたいに隆起して芭蕉が感嘆した景色は無くなってしまった。今は田んぼの中に丘が点在する風景になってる。
こんな風に昔の日本は漢籍を引用するのが教養だったんで、そういう知識は最早常識だったんやな。
んで、月見の方も平安時代に貴族がやり始めたんだけど、やっぱり漢籍の記述で中国で古代からやってるという中秋節を真似たんや。旧暦8/15(太陽暦では9or10月)に月餅やら何やらを並べて宴をする。貴族の間でもっと多かったのが船を出して、水面にゆらゆらと写る月を眺めて宴をしてうたを詠んだりしてた。こういうのを観月という。
んで、これが段々と庶民にも伝播して行ったらしいんだけど、正直江戸時代までの間の庶民の動向って言うのはよー判らんのや。何故なら庶民文化が栄えたのって江戸時代で、それまでは庶民間の事柄を紙に記すって事が殆どなかったから。
で、もう一つのルートが月待講ってやつ。江戸時代には庶民が比較的裕福というか生活に余裕ができ、色んな民間信仰が現れた。そしてそれらが紙に残った。
例えば山講。山ってのは霊的なもので、それに登るって事が霊的体験とされていた。山は女人禁制で「○○山講」という幟をもって山伏みたいな格好で延々と歩いて行って登山を敢行する。信仰の場だったのだな。
富士山が世界遺産に登録されたのは、別に日本人に愛されてるからとかじゃなくて、こういう信仰があって今の登山がそれと連続的って事ですのよ。
例えば庚申講。道教とか神道、民間医療なんかがごちゃ混ぜになった信仰で人間の体には三尸(さんし)の虫っていうのが住んでて60日ごとの庚申の日に寝てる間に閻魔大王に悪事をチクるから徹夜で宴会してチクるのを止めさせようぜという、今となってはなんだそれな信仰だ。
都電に「新庚申塚」って電停がある様に、日本中あちこちに庚申塔が建てられてその近くの家で飲み食いされていた。今はこんな風に放置されてる。
https://maps.app.goo.gl/FM8d8fD19SAK3Ubc7
こういう「講」(信仰の寄合)の一つに月待講というのがあった。お月様信仰やな。
月には月齢があって、新月、三日月、満月、半月と形が代わるけど、その各々に別個の信仰があった。んで、この信仰は別にお月様だけに影響を受けてるんじゃなくて、土着の信仰が仏教と結びついていた。
仏教では色んな観音様や菩薩が居るけど、月齢ごとに別の本尊を崇めていた。この辺はカトリックの職業別聖人信仰に似ているね。
月齢ごとに信仰があると言っても、今みたいに電車と車で好きな場所に行ける訳じゃないから、この村は○○夜、あの街は○○夜と分かれていた。
で、その中で非常に多かったのが二十三夜、十九夜、十五夜だったってワケよ。
二十三夜は特に多くて、日本中に地名として残ってる。こんな風に
https://maps.app.goo.gl/KDXw6ZBhwiyA4bYZ7
また、「三夜」と省略されて地名になっている所も多い、三夜様とかね。
もう一つ特別なのが十九夜で、これは如意輪観音が本尊。右膝立てて右ひじ突いてる観音様だ。
これは「安産講」として特別で、女の人以外は参加禁止の集まりだった。
これも十九塔があちこちに残っているが、地名としては「子安」というのが残ってる場合が多い。
「子安寺」が子安の由来の場合も多いが、そもそも昔の寺には色んな神様も祀られていた神仏習合だったんで、当然十九夜待が行われて居た寺もあって、それで子安寺になったケースもあるのだな。
十五夜はいうまでもなく満月待やね。本尊は大日如来、阿弥陀、薬師、観音様、地蔵、虚空蔵と、オールキャストだ。
で、庚申講もそうなんだが、段々信仰がどうこうっていうのはいい加減になって行って、単なる寄り合い、宴会、食事会の言い訳になって行っちゃうわけよ。十九夜とかも「観音様、どうか子宝と安産を」と願うっていうよりただの女子会になってまう。「観音様が持ってる宝珠ってチンタマーニって言うんだって」「うちの亭主も二つ持ってるワイよギャハハ」とかなっちゃうってワケ。
それで段々都市化が進むと寄合なんてジジババくせえとか軽視されて廃れて行っちゃった。でも場所によっては昭和40年代まではやってたらしい。
月見でお団子お供えして食べるっていうのは完全にこっちの月待講が由来なんね。
一方、ススキ飾るのは、旧暦8/15(太陽暦9or10月)の中秋節由来やね。
だから二つがごっちゃに混ざってるってこと。
新月の次の日:既朔
十四夜:小望月、待宵
十六夜:既望
十七夜:立待
十八夜:居待
十九夜:寝待
廿夜:更待
これも漢籍典故による特別視から月待などの各月齢ごとの神聖視へと変化していくにあたって生まれた表現と考えられるのだ。
日本産ゲームのリプレイ動画とか見てると、このへんのことが海外では認識されていないので「これってなに?」みたいな英語コメントが付いているのを目にするのだ。まぁそれは当たり前だ。
大抵、西洋のルナティック=満月が人を狂わす、と日本の月を愛でる習慣、月のうさぎが合わさっているので割とハイコンテクスト。
でもそれに日本語で答えているコメントが月を愛でる習慣が信仰から来ているってことが判ってないので説明できていないっていうのを目にする。
近所の今まで気が付かなかった「○○夜」「子安」の地名を発見して訪れてみるっていうのも自文化の勉強なんですよ、草むらの中に○○夜塔が残っているのを発見するって事もあるんですのよ。
ついでに花見なんだが、これも昔からある風習だったけど、江戸幕府が奨励して盛んになったんすよ。
江戸幕府は水防工事を沢山やったんだけど、堤防って突き固めが緩いと崩れてきてしまう。でも昔は機械が無い。
そこで堤防に桜を植えて「花見やれ」と奨励したのだ。すると毎年人がどやどややってきて歩くから土が締まるって寸法だ。だから川べりには桜が多いのだね。特に古い堤防は桜の名所になっているってわけ。つまりは官製文化の面があるの。
https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigirokua.nsf/html/kaigirokua/002615620030226004.htm
次に、東京集中は自然に起こっているんだ、これは経済の流れであると言う人がおりますが、これは全く間違いでございます。
戦後、昭和十六年体制、あるいは一九四〇年体制と言われる中で、官僚が猛烈な勢いで東京一極集中を無理やり進めてまいりました。そのやり方というのは、まず、産業、経済の中枢管理機能を全部東京に移す。そのために、全国的な産業団体の事務局は東京都に置かなければならない、二十三区に置かなければならないという指導を徹底しました。
だから、もともと大阪にありました繊維業界の団体も、強引に、あの日米繊維交渉のときに無理やり東京に移しました。十年かけて移しました。名古屋にありました陶磁器工業会も移しました。京都にあった伝統産業振興会も東京に移しました。
かくして、主要な企業の本社は東京に移らざるを得ない。団体が東京に移りますと、団体の長になるような大企業の社長は、何々工業会の団体長になりますと週に三回ぐらい東京に呼び出される仕掛けになっていますから、地方に本社を置いていられない。これでどんどんと移転した。これが第一であります。
二番目は、情報発信機能を、世界じゅうで類例がなく、日本だけが東京一極集中いたしました。
例えば、印刷関係で申しますと、元売を東京一極に集中しております。今これがまた問題になっておりますけれども、東京にしか日販とかトーハンとかいう元売会社はございません。したがって、関西で出版していたエコノミストやPHPは発行が一日おくれる。大阪で印刷した本を川一つ挟んだ尼崎で売るためにも、必ず東京へ持ってこなけりゃならなくなっております。これは非常に強い犠牲でございます。したがって、雑誌の場合は締め切りが一日早くなる。これで東京以外で雑誌をつくることができなくなりまして、全部東京へ無理やり移しました。これは国土政策懇談会でも何回も問題になりましたが、政府、官僚の方は頑固に譲りません。香川県や長野県でも元売をつくろうという動きがありましたけれども、ことごとくつぶされてしまいました。
また、電波につきましては、世界に類例のないキー局システムをつくって、キー局は東京にしか許されていない。そして、キー局でないと全国番組編成権がございませんから、すべて東京都スルーの情報しか流れないようになっています。
さらに、文化創造活動も東京に集中いたしました。だから、特定目的の施設、例えば歌舞伎座でありますとか格闘技専門体育館でありますとかいうのは、補助金の関係で東京にしかつくれないようになっています。これで歌舞伎役者は全員東京に住むようになって、関西歌舞伎は一人もいなくなりました。あるいはプロレス団体も、東北地方にみちのくプロレス、大阪に大阪プロレスがあるだけで、四十団体はことごとく東京に集められました。
https://www5.cao.go.jp/99/e/kgiji/19990531chiiki.html
ここにも記述してありますが、日本の地域政策は、昭和初め、昭和16年ごろの決定がございまして、日本全体を有機型地域構造にするというような決定がございました。有機型というのは、人間の体のようにするということです。人間の体であれば頭は1つだということで、全国の頭脳機能を1つに集める。それは首都東京でなければいけない。
頭脳機能というのは、産業・経済の中枢管理機能と、情報発信機能と、文化創造活動である、こう定めました。そして、各地に地方中核都市をつくりまして、北海道なら札幌、東北6県なら仙台、中国なら広島とする。ここは地方限りの頭脳機能をもつ。各県限りのものは、県庁所在地に置くという、段階的なヒエラルキーをつくりました。
そして、すべての文化創造活動、情報発信機能、産業・経済の中枢管理機能を東京に集めることにする。その手法として様々なことがとられました。例えば、産業・経済の中枢管理機能を東京に集めるためには、各産業別、職業別に全国団体を作り、この全国団体の本部事務局は東京都に置かせるという政策をとりました。
私が通産省に入りました1960年代は、まさにこの政策を継続し、強化する真っ最中でございました。この方針に反して地方に、東京以外に、全国団体の本部があると、一日も早く東京へ来なければいけない。その対象になりましたのが、大阪にありました繊維業界、名古屋にありました陶磁器業界の2つでございまして、繊維業界については再三圧力をかけておりましたけれども、なかなか成功しませんでした。ところが、うまい具合に68年に、あの日米繊維交渉、これを折衝するにあたって、まずアメリカと折衝する前の条件は、紡績協会が、各種団体が東京に本部を移すことだ、こういう話をいたしました。
当時の局長室に、「敵は米国にあらず、大阪なり」という有名な看板を掲げられて、新聞にも出たことがあります。
いろいろ折衝したのですが、なかなか職員も大勢おられてそう簡単にいきませんで、日本繊維工業連合会という屋上屋の団体をつくりました。
銀行協会などもずっと東京にあったのですが、銀行協会長は東京にある銀行からしか出さないということがずっと続いて、三和と住友はダメということになっておりました。それが、70何年でしたか、本社機能を東京に移すことを条件に、まず住友銀行、次いで三和銀行が会長銀行になりました。それぞれ、会長銀行になると勲一等がもらえる、こういう仕掛けになっております。
それから、名古屋の陶磁器工業会も70何年に移転しまして、今は、陶磁器輸出組合だけが名古屋に残っております。
同様に、情報発信機能につきましても、非常に厳格に東京集中を行いました。吉本さんも東京へ進出しておられるようでございますけれども。そのもとになっているのは、NHKにつきましては全国放送は東京中央放送局から行う、民放につきましてはキー局は東京都にしか置いてはいけない。準キー局というのが大阪や、名古屋や、福岡や、札幌にあります。キー局でなければ全国番組編成権がないのです。準キー局は、キー局から番組と時間を割り当てられて放送するという仕掛けになっていまして、近畿地方だけとか、中国地方だけというのならいいのですが、それ以外はダメ。だから、例えば、広島カープという球団が広島球場で試合をやっているときでも、これを全国放送するときには東京のキー局でなければ放送できないというので、東京のテレビ局から全員が行っているというような仕掛けになっているわけです。
それから、全国的な文化創造活動を東京に集めるという仕掛けはどうしたかといいますと、特定の目的をもった文化施設は東京以外につくらせない。これは補助金交付規則で決めた。他のところでは、汎用性のある、劇場でいいますと多目的ホール、体育館でいいますと一般体育館(これはバレーボール、バスケットボールが2面取れる平場があるということが条件であります)、展示場でいいますと一般団体用展示場・美術館でなければいけない。格闘技専門の体育館とか、歌舞伎専門の劇場とかいうのは、東京以外につくってはならないということにしたのです。これも厳格に守られていまして、今でも、格闘技専門の体育館というのは、東京には、国技館、武道館等4つほどありますが、東京都以外ではまだないです。それから、歌舞伎座も、最近は南座が改装して、松竹座も民間ではやっていますけれども、国立劇場は両方とも東京へつくったというような形で、かなり厳格に守られております。
そうしますと、劇団や楽団をやる人のうち、素人は多目的ホールでも、歌舞伎は歌舞伎らしきものができますが、劇団や楽団を本格的にやる人は本物のところでないとできませんから、結局、東京でないと劇団はやれないということで、関西歌舞伎はなくなりました。シンフォニーも13か14が東京にある。25のうち6割以上が東京にある。ニューヨークでも5つぐらいなのに、東京だけ13も14もあるような格好になっている、というような仕掛けを作りました。
金烏臨西舎
鼓声催短命
泉路無賓主
此夕離家向
夕陽が沈む。
寺では鐘が鳴っている。私の命はきわまった。
冥府には主もなく客も来るまい。
この夕暮れに家を離れ、私はそこへと向かうのだ。
懐風藻。大津皇子辞世。六朝体の流麗な韻律を維持し乱れない。後世の仮託とされるが詩にあるとおり皇子は夕刻に連行され翌日処刑された。遺体は近江の二上山に葬られた。望まぬ争いに巻き込まれ継母によって殺される二十三歳の青年の最期の声が聞こえるだろうか。
最初に声を聞いたのは古い時代の歌人や詩人だった。いつのころからか伝承が生まれた。曰く「皇子は無実」と。沈潜する伝承に形をあたえたのは明治時代の折口信夫だった。しかしこの時代、『日本書紀』を疑うことは禁じられていた。折口は『死者の書』という不気味な小説を著わしこれを表象した。戦後の歴史学者がそれを受けた。『日本書紀』の詳細な解読が始まったのだ。暗喩に満ちた断片的な記述が発掘で得られた傍証史料とあわせて詳細に検討された。緊迫した皇位争い、持統女帝のすさまじい性格が浮かび上がっていく。考古学者は近江朝における二上山の位置と意味を検討し、それが反逆者にふさわしくない手厚い葬礼であることを指摘した。不比等のかけた封印が解かれた。皇位争いは、皇子の意志をはるかに超えた次元で、大津、草壁それぞれを擁立しようとする天智系、天武系という巨大な勢力どうしの闘争として行なわれていた。このとき国家の中枢では、ふたたび「壬申の乱」のような状況におちいることとシンボルの1人が犠牲になることの費用対効果が、非情にも計量されたのだった。皇子は政治的犠牲として殺害され、そこには後の持統天皇が関与していた可能性が高いという現代の学説はこうして築かれた。そのために費やされた時間は1000年を超えている。微細な記録の断片から何らかのメッセージを読み取り忘却の彼方に沈んだ記憶に光をあてる歴史学は、ときにはこのような作業に信じがたいほどの労力を傾注する。それを可能としたのは懐風藻なのか、それとも後世の歌人や研究者なのか。答えは両方であろう。
アーカイブはただ記録する。その声を聞けとまでは言わない。聞くかどうかは閲覧者にゆだねられる。アーカイブの価値は基本的にはその編纂手法によって決定されるのだが、より厳密には、その価値は送り手と受け手の関係性の中に存在する。アーカイブはそれを、ときには時空を越えて繋ぐ。
すごいよこいつ、全部間違ってる
ちなみに下に行くほど決定的におかしい、誰が見てもわかるぐらいの間違いの指摘になる
風呂で使う歯ブラシにタオルにローション等々入浴介助の経費として何の問題があるんじゃ
「しないので」ってしとるやん
誰が決めてるのそれを
(ちなみにセックス抜きでもソープ嬢が性的サービスであることは
ある法律の条文に載ってるくらいなので清掃員レベルの収入だったらそっちの方が問題になる、そしてこいつはその条文を知らない、あとで述べる)
まあ日本語おかしい奴なんて現代にはいちいち突っ込めないほどいるけど
専門分野の説明でこんなに日本語壊れる専門家はあんま居ねえと俺は思うよ
しいて日本語だけ正しくすると
俺はそういう言い回しは初めて聞いたけどさ
それになんで税務署員がそんなこと気にするの?
税務署員が気にするのは売上を隠してないかとか経費を膨らませてないかということであって
その所得の発生源が入浴介助かおまんこかなんてことに関心を持ちませんが?
逆に「おまんこを売ってるのに単価が安すぎる、売上控除してませんか?」って追及ならしてくる可能性がある、あいつらはマジでそういう奴らだ
お前は税務署職員と会話したことがない。あって確定申告相談ぐらいだろう
言ってみろマジで
お前はどう見ても税理士ではないのがよくわかりました、ありがとうございました。
ありえないね。
完全歩合制で一括で渡されて源泉されずに経費も自己負担、これは独立事業者とみなされる可能性が高いだろ?
ソープ嬢は掛け持ちなんかいくらでもいるし店もポンポン変わるよな?独立事業者っぽいね
・個人事業主として確定申告してるなら独立事業者とみなされる可能性高いな
ここ重要だよな?何より税理士なら最初に思いつくポイントなんだが
なんで一言も触れない?
ちなみに俺の知る限り
見たことも聞いたこともないのは年末調整で済ませてるソープ嬢だ
店が社保や労災保険を提供してるなら雇用関係とみなされやすいが
ソープ嬢が自由に仕事を選んで労務管理がないなら請負契約に近いな
現実どっちだよ?
という風に雇用関係というのは実態に基づいて総合的に判断するんですが結論を書くと
店と雇用関係を結んでるとみなされるソープ嬢というのは極めて珍しい、ほぼあり得ないです
騙りにしたってお粗末すぎる
いやこいつはマジですげえな
お前は風営法をなんだと思ってるんだ?
というか、お前は何なら詳しいんだ?
風営法の第2条第6項読んで来てくれ
https://laws.e-gov.go.jp/law/323AC0000000122/#Mp-Ch_1
この法律において「店舗型性風俗特殊営業」とは、次の各号のいずれかに該当する営業をいう。
一 浴場業(公衆浴場法(昭和二十三年法律第百三十九号)第一条第一項に規定する公衆浴場を業として経営することをいう。)の施設として個室を設け、
「対象外かも」と思いついて何故条文を調べないのかもわからない。
てかお前なんなの?
税務は全く知らない、
ソープランドもエアプ、
風営法すら完全に間違ってる、
君はなにならできるの?
突っ込める場所はまだまだある(というかほぼ全文突っ込める)けどすでに長すぎるからもういいや
騙るために調べるほどの能力や根気もない能無し、
具体的な法律を挙げるのに条文を確認することすらできないボンクラ、
しかし、性風俗産業に従事する人々は、社会保障や災害時の支援など、基本的な権利が十分に提供されていない場合が多いです
このような不平等な状況では、「税を払うべき」という道義的な説得力が弱まるし、重要な社会問題でありこの焦点を無視して話をするのは社会正義に適わないかと思います
これが手掛かりになると思う。
こいつの正体はつまり、「れいわとか支持しそうな感じの頭の悪い善人」だよね
頭の悪さ無能さの全てを闇雲な善への指向性で許されようとしてる感じの人
でも身の回りの善で満足できずに社会に大声を出しちゃう感じの人
なのに社会のこと一切調べない知ろうとしない学ばない、もしくはそんな能力もない人
何一つ真面目に考えない調べない
でも善であろうとする
その結果もう滅茶苦茶な受け売りや思い付きで叫ぶ
その叫びに重みがなかったり笑われたりすれば税理士だとかどうとか平気でうそをつく
社会的に言えばまあこいつは善人なんだ
この平気で嘘つく性格も「善の目的だから」 「立場の弱い女への同情だから」で社会的にはセーフになったりする
これは本当にどうにもならんぜ
嘘つく性格もなおりゃしない
「嘘つかないで身の回りの人に親切にして仕事をきちんとして正しく生きなさい」ではダメなの
そういう本当の善だと退屈で死んじゃうからね
こういうのがネットに何千万人かいるのが今の日本なんだ どこの国もそうだろうけど
発端になった「ソープ嬢は納税しなくていい増田」も善人だよな、知識が間違いだらけで馬鹿にされまくっただけで
それの敵討ちに来た自称税理士もすごく似た感じの善人だよな、知識が間違いだらけなうえに平気で嘘つくってだけで
ちなみにこのこいつの最善の部分ですら書いてることがガバガバというか不正確で、
(社会的偏見はあるし、近年は何故か左翼がふしだら狩りするのもある。AV女優はしのぎを奪われて危険な海外売春する憂き目に)
コロナはいろいろ不公平や不合理があったと思うけど、飲食店への給付金すら基準が変だったし、風俗店だけがどうこうではないよね
あと上の繰り返しになるけどソープ嬢って個人事業主であって従業員じゃねえから
風俗店にコロナ給付金出てもあんま潤わなかったと思うしそれは業種のせいじゃなくて個人事業主だからだよね
けど、諄々とこういう話聞かせてもこいつの頭には入らないわけ
うるさーいってなるだけ
悪い制度があるから国に反抗すゆー!とか単純じゃないと駄目なの
ここではさすがに劣勢を悟って引き上げたとしても
性格や思考は何も変わってないからまたよそで同じことやるし嘘もつく
こいつのようなれいわ的善人とか、サーカス大好きな国民民主的当事者とか、そういうのがそれぞれ何百万人何千万人いるんだ
ネットのおかげでこういうの同士の呼応共鳴しやすさは段違いになっちまったし適当な嘘も格段に広めやすくなってた
気分害した関係者はごめんな
でもほんとにやべーやつもりもり増えてるぞ
そしてみんな善人なんだ
はてなはまだその全容に気づいてないと思う
鹿とか熊とかの増加に気づくのは里に降りて来た時だが
その時はもう野山はとんでもない爆増で禿山になっている
Permalink |記事への反応(20) | 19:54
ワイズ先生(@YS_GPCR)が、性交同意年齢の16歳以上引き上げについて合理的な根拠がないと主張されている。
ttps://twitter.com/YS_GPCR/status/1770800526998819269
こういうふうに、説明つかないでしょ?
ttps://twitter.com/YS_GPCR/status/1771143471996551171
??
「14歳は性教育が足りないため、成人は14歳と性交すべきではない、という理屈は、年齢差5歳以下なら犯罪とならないことと辻褄が合わない」
に対して
ttps://twitter.com/YS_GPCR/status/1771402538862150118
「権力勾配」って、学校の先生と生徒とか上司とかの関係を言っていると思うんですけど、権力を利用して手籠めにしたのか、同意のある関係なのかは、個別に判断すればいいわけで、一律で禁止する合理性がない
ttps://twitter.com/YS_GPCR/status/1771404710995779643
これは「砂山の詭弁」の変形ですね。今回の性交同意年齢の議論は、グラデーションがありボーダーラインを便宜的に決めるしか無いものの一種です。だから、14歳を主張する人に「13や15はいけないのか?」と詰問することはできる。
個人的には性交同意年齢引き上げには合理性があると思うが、改めてその理由を問われると即答できない。そこで、政府答弁による公式の制度趣旨を調べたので、メモとして共有しておこう。
強制わいせつ罪、強制性交等罪は、性的自由、性的自己決定権を保護法益としております。性的行為に関する自由な意思決定の前提となる能力がそもそもない場合には、暴行等の意思決定に影響を及ぼすような状況がなかったとしても保護法益が侵害されると考えられるところ、その能力がないと言える年齢として、現在は十三歳未満、すなわちおおむね小学生の年齢層の者は行為の性的意味を認識する能力が一律に欠けるということから、現行法では十三歳未満がいわゆる性交同意年齢とされていると考えられます。
もっとも、性的行為に関して有効に自由な意思決定をするための能力の中身といたしましては、行為の性的意味を認識する能力だけではなく、行為の相手方との関係において、行為が自分に及ぼす影響について自律的に考えて理解したり、その結果に基づいて相手方に対処する能力が必要であると考えられます。
そして、十三歳以上十六歳未満の者はおおむね中学生の年齢層でありまして、性的な意味を理解する能力が一律に欠けているというわけではないことから、一律に相手方や状況を問わず性的行為に関する自由な意思決定の前提となる能力に欠けるとまでは言えない一方で、先ほど申し上げた後者の能力は十分に備わっておらず、対等な関係の下でなければ性的行為について有効に自由な意思決定をする前提となる能力に欠けると考えられるところでございます。
そして、相手方が年長である場合には、一般に、その年齢差が大きくなるほど、両者の間の社会経験や知識の差異などによりまして、その年齢差自体から対等な関係にあるとは言えなくなると考えられるところ、この性交同意年齢の問題は、性的行為をしたこと自体で直ちに性犯罪が成立するとするものとする規定でありますことから、刑罰の謙抑性の観点から、双方の年齢が要件を満たすだけで例外なくおよそ対等な関係はあり得ず、有効に自由な意思決定をする前提となる能力に欠けると言えるものであるものとすることが必要であると考えられます。
本法律案におきましては、そのような観点から、心理学的、精神医学的見地も踏まえまして、いわゆる性交同意年齢を十六歳未満とした上で、十三歳以上十六歳未満の者に対する性的行為について処罰対象となる得る者を、その者が生まれた日より五年以上前の日に生まれた者としているところでございます。
アウトラインで要約すると、以下となる(なお、「意味認識能力」などは便宜的な表現で専門用語ではないことに留意。3/25一部修正)。
以上のように考えるとワイズ先生の議論に対する違和感は、被影響認識能力と関係対処能力が当事者の年齢差に大きく左右されることを無視している点に根差すことに気付く。直観的に考えても、14歳と15歳のカップルと、14歳と25歳のカップルの違いは何かといえば、年長者と年少者間の年齢による社会経験の差と、その差が年少者側に与える影響の度合いである。
もっとも、改正後刑法の年齢区分が関係対処能力などの獲得と本当に対応していると証明できるかと問われれば、なお議論の余地はある。しかし、その点は単なる科学的な問題にととまらず価値判断の問題でもあり、国会で多数決で決めるという民主主義によって決する他あるまい。
結論を書き忘れていた。
以上より、性交同意年齢を引き上げて性交を一律で禁止することに、少なくとも法が備えるべき合理性はあると自分は考える。もちろん、年齢区分の妥当性について、生物学のように厳密に実証することはできず、この点につき異論はありうるだろう。しかし、理論的、経験的根拠を有する制度趣旨が政府から提示され、国会で一定の議論が交わされた上で多数決で刑法改正をした以上、性交同意年齢引き上げは法としては十分な合理性を持つ。
ワイズ先生は年齢区分の客観的な妥当性について議論を続けそうな雰囲気だが、もともと法律というのは完全に客観的というわけではい。法は価値判断を包含するものであり、最終的には選挙で選ばれた国会議員が多数決するという民主主義によって制定する他ない。逆に、価値判断をほとんど含まない問題については民主主義は不要である。例えば、ある物理現象のメカニズムは何かは、選挙で選ばれたわけでもない物理学者達が数理モデル化と実験を行い、その論文化と討議を通じて合意を形成して決まる。ここには価値判断の対立がなく、ほぼ客観的に議論が決する。法律はそうではないので、多少の客観性の欠如は国会議員の多数決で補う他ない。
少なくとも、以下の「年長女性の嫉妬」という下世話な動機で法改正されたわけではないのは確かだ。
ttps://twitter.com/YS_GPCR/status/1771403509134758353
これはもともとの論点の「性交同意年齢を引き上げようとするのは結局年長女性の嫉妬」という根拠の一つだけど、権力勾配のある性的関係を一律で禁止しようとするのは、望んで高権力の相手を好きになる人の自由を踏みにじってるわけです。それを「グルーミングされただけ」などで押し切る強引さがおかしい
ttps://marshmallow-qa.com/messages/0ba4dc8f-aeef-493f-b199-88ebcde853fd?utm_medium=twitter&utm_source=answer
「不同意的、強制的な関係を防ぐために、成人と未成年で"真実の愛"が成立する例が一部あったとしても潰す」とほぼ同旨の政府側答弁が、既になされている。
(中略)
例えばなんですけれども、十五歳で高校に入学しました、それで、シングルの成人の教員と相思相愛、愛し合うんですね、気持ちで愛し合いました、そして、結果、性行為を交わしたとします。それで、高校卒業と同時に婚姻関係となるケースも考えられます。私が高校時代なんかは、同級生が高校卒業したら結婚しちゃったというのは割とあったんですね。
このケースなんですけれども、円満に、穏やかに結婚生活、夫婦生活を行っていたとしても、今現在行っている、営んでいるそういう御家庭があったとしても、当時、お連れ合いのどちらかが、男女限りません、どちらかが十五歳当時でした、そのとき性行為を交わしていましたということが判明すると、その片方のパートナーは、六月以上十年以下の、有罪、拘禁刑の罰則対象となりますね。
(中略)
十五歳の高校生と二十三歳以上の大卒の先生という前提で申しますと、その年齢差は五年以上年長という要件に該当いたしますので、結婚したとしても、それからその結婚生活が円満だったとしても、その行った当時の年齢差ということで判断すべきことでございますので、改正後の刑法第百七十六条第三項又は百七十七条第三項の罪が成立し得るということになります。
例えば無許可の拳銃所持の内、美術的な鑑賞目的の事例が極少数存在するが、その他のほとんどの事例はそうではなく何らかの犯罪行為の準備が疑われるので一律に所持そのものを処罰する、というロジックは十分に合理的である。同様に、成人と未成年で"真実の愛"が成立する例は極少数存在するが、他のほとんどの例はそうではないので一律に処罰する、というロジックは理に適っているように見える。
なぜワイズ先生批判派は上記のロジックを援用しないのだろうか。また、ワイズ先生はこのロジックならば異論はないのか。何が論争の争点だったのか、よく分からなくなってしまった。
それで、健康大事マンブラザーズの人たちはまぁだいたいは、更年期老年期を想定して健康大事を唱えてるんだよね。
だって二十三十代で健康壊す人はよほどの不運かエクストリーム不健康なやつでしょ。
普通の人間が普通に暮らしてるなら、健康に気をつけなくても健康に生きられるんだよ。
翻って更年期老年期なんてのは身体が老化してるんだから、誰しもが体に不具合が発生するわけで、それを拾って、不健康なのはやっぱり良くない、健康が大事!健康に気をつけようって言ってるけどそれって、死ぬのはやっぱり悲しい、死ぬのに気をつけようとかと一緒で、不健康になるのは人間として生まれいでた瞬間から確定していた未来なので何ってんだという雰囲気がある。
じゃあ健康大事MANブラザーズはHIITやってんのかと、断食してんのかと、サーチュイン遺伝子とかオートファジーとかいいません、基本を大事にコマの絵を忠実に守ってるのかと。
断言するけど健康大事MANブラザーズは、アホだから何も知らんのに健康健康言ってて、マジでコマの絵の存在すら知らないと思われる。
健康大事MANブラザーズはマジで無意味なお経唱えるのやめたまえ。
特に健康になんの問題もない若めな人たちに健康大事健康大事言う意味がわからない。
彼ら健康大事お経を唱えても彼らの未来、彼らが更年期老年期になるに当たっての心身の不調は防げない、んなの道に落ちている軍手以上に明らかである。
発話を通じてマジでバッファローのゲロをぶちまけてるのと同じで迷惑だと思われる。(今私は若者の例を憑依しています)
それとも更年期老年期の身体の不調を防げると思ってるのだろうか?だとしたらそれは妄想なのでやっぱり健康大事MANブラザーズはカルト宗教であると言える。
健康や生活習慣に関することは極めてプライベートな問題であり、健康的に過ごせている人も多くいるにも関わらず、十把一絡げに自分が不健康だから他の人間も不健康な生活をしているに決まっているという、極めて傲慢な視点による狂った説教をしている。
健康な人にやってるくらいなら迷惑な老人の戯言まで言えるけど、世の中には生まれつきの身体障害の人までいて、彼ら彼女らは注意深く生活してても心身に大きな負荷があって、そんなのは健康を大切にとか言うゴミみたいな言葉は、傷つけられたり歯クソみたいに役に立たないことはあれ、有用になることはない。
おっと、障害者でも無いくせに憑依させて代弁してしまった。この点については俺の想像であり、俺の想像があるき出したことによる俺自身の不愉快だ。この点は注意してくれ。私は身体に障害があるけど健康に気をつけてって言われても平気だよと言う人はそれでいいです。そのとおりであり、私の不快感表明の材料に引っ張り出してしまいすみませんでした。
ともあれ、不健康な人にとっては、そんな事お前なんかよりも100倍わかってる話を、傲慢に健康健康情報度0%で説教カマしてくるゴミムーブだし、健康な人にとってはお前なんかよりも健康について十分対策しているわカス!って感じになりますし。