はてなキーワード:主体とは
仮に馬鹿を一瞬騙せた所で夫婦別姓なり同性婚なりを口に出した瞬間にその馬鹿共は離れて確実に次の選挙負けるから無理なんだわ
そして支持率ガタ落ちでレームダック化した政府が外交でまともな結果出せるわけないでしょ
誰が一瞬権力持つ為だけに高い金払って膨大な時間と労力使って立候補すんだよって話
多数派取るとか言ってるけど候補者集めるだけでも絶望的だわそんなもん
つーか馬鹿騙すだけで多数派取れると思ってるようだが他にも同じ様な事する候補者が居たら票が割れた結果共倒れになるだけ
今どき馬鹿が一つに集結するのは二大政党制のアメリカみたいな国ぐらい
そのアメリカですら物凄い僅差での馬鹿の勝利だったわけで他の国じゃ多数派取る程馬鹿が勝つとか夢物語でしかない
あと候補者だって無から急に出現する訳じゃなくて人間なんだから当然過去の経歴や発言を見られる
そして夫婦別姓や同性婚を推進したくて政治を志す奴なんて絶対に何かの活動してんだからその時点で馬鹿に取ってはアウト
陰謀論という被害妄想で何も無い所ですら発狂するのが今の馬鹿なんだからな
俺がブコメマンをやっていた十数年前はこんな煽りじみた短文コメントを書く人間は少数派だったな。
コメント書く人は100文字をそれなりに使って独自の論考や記事の急所を指摘するコメントを書く人たちが主体だった。
俺はそういう使い方もしたし、記事の中の「コレは『言って』やがりますねぇ」っていう肝な部分を""で引用して取り上げる使い方もしていた。
id:tester19 です
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/tonarinoyj.jp/episode/2550912965947830792
「くゆらす女々」の感想ブコメに「百合に混じれない人がなぜか怒ってるな」といったエアリプっぽいコメントを見かけたので、誤解を避けるために、私の感想をいったん整理して書いておきます。
私が問題に感じているのは、女性向け漫画の一部、特に現実の女性の困難さを描くタイプの作品において、異性や異世代からの加害や理不尽な扱いが、あまりに安易な物語のきっかけとして使われすぎているという点です。
加えて、そうした加害者キャラクターが極端にステレオタイプな描かれ方をしているため、結果として女性キャラクターの内面的な葛藤や主体性が十分に描かれていないように見えるのが問題だと考えています。
その構図はしばしば、「舞台装置として配置された異性・異世代のキャラクターに翻弄され、それに対して定型的な反応をする女性主人公」という形になりがちで、ある種の“ポルノ的な描写”に近づいてしまっている印象があります。
今回の作品は読み切りであるという制約は理解していますが、それにしても主人公の抱える悩みや背景があまりに単純化されすぎていると感じました。
“女性を人間として描こう”という視点が、どこか置き去りになっているように思えたのです。
この構造は、長期連載の中の短編回や単話完結型の作品でもしばしば見られるものであり、それだけにフォーマットとしての違和感が強く出てしまったのだと思います。
『シガーバー』をテーマにした本作は、おそらく成人女性を主な読者層として想定された作品と思われます。
近年のエッセイ漫画などに見られる、成人女性向けの作品傾向を踏まえると、今回のようなキャラクター造形やストーリー運びも特に珍しいものではなく、よくあるフォーマットの一つとして理解はできます。
また、おそらく作者も、深い意図があって男性キャラクターを配置したというよりは、物語の導入部を機能させる“装置”として、不愉快な男性キャラを置いたのだと推察します。
もちろん、これを「男性が差別的に描かれている」と受け取った方もいらっしゃるかもしれません。(実際、私のコメントをそう解釈された反応もありました。)
しかし私としては、冒頭に登場する男性はあくまで物語上の“装置”であり、作者に強い悪意や差別的な意図があったとは感じていません。
むしろ気になったのは、女性キャラクターが“物語の主体”として描ききれていないこと、そしてそのために物語全体の説得力が弱まってしまっている点です。
読み切り作品に対して厳しい評価と受け取られるかもしれませんが、近年の読み切り作品では、特に「起」の部分でフックや演出に工夫があるものが多く、
それゆえに、「起」の工夫がなく今回のように素材としてユニークな“シガーバー”というテーマがうまく活かされていないのは、非常にもったいないと感じました。
とりあえずAIに聞くと早いよ
近年の自民党政権下で行われた主な「増税」施策は以下の通りです。すべて「自民党単独」ではなく、公明党などと連立を組んだ政権によって進められたものである点には注意が必要ですが、政権運営の主体としての自民党の責任は大きいと言えます。
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●2014年4月:消費税率 5% → 8%(第二次安倍政権)
•増税の法的根拠は民主党政権時代に成立した「社会保障と税の一体改革」法案(2012年)にあるが、実行したのは自民党政権。
• 景気への打撃が大きく、消費が冷え込んだとの指摘が多い。
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•給与所得控除・基礎控除の縮小(2018年法改正、2020年施行)
•東日本大震災後の復興財源として、住民税に年間1,000円上乗せ(2014年から10年間)
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•複数回にわたり税率が引き上げられており、自民党政権下でもたびたび実施。
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•法人税や消費税率自体の引き上げではないが、免税事業者に実質的な増税圧力をかける制度。
•フリーランスや小規模事業者に大きな影響があり、「隠れ増税」とも呼ばれる。
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• 現時点では実施時期は明言されていないが、増税の必要性が政府公式文書で明示された点で重要。
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•森林環境税(2024年度~):年額1,000円の住民税上乗せとして全国一律徴収予定。
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•給与所得者への「定額減税(2024年6月~)」は岸田政権が導入。
•コロナ禍では特別定額給付金(1人10万円)などの給付策も実施された。
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ブコメでわかりにくいと指摘してくれた人がいたので最初にまとめを追記しておきます。
「ハックアンドスラッシュ」という言葉の……
この用語が日本で広まったときに、Diabloの影響が強かったため、Diabloが持つ「報酬を得て強化するサイクル」という要素が言葉の意味にくっついてしまった。
だから「敵を倒して経験値やアイテムドロップで強化する」という要素は日本独自の定義であり、本来の定義にはその要素は含まれない。
で、ここから下の本文では、この日本独自の意味しか知らずに「ハックアンドスラッシュの歴史的な定義」について語ろうとする記事の誤りを指摘しています。
発端はこの記事。
https://www.gamespark.jp/article/2025/07/13/154979.html
この記事では「ローグライク」と紐づける形で「ハックアンドスラッシュ」という言葉の歴史について語られている。
それを知るために、コンピューターRPGにおける「ハックアンドスラッシュ」の定義を改めて解説しておきましょう。様々な定義が乱立している……とされるこの言葉ですが、RPGにおける歴史からすれば大まかな定義ははっきりとしていて、「敵を薙ぎ倒して報酬を得ること」です。
だが著者は「ハックアンドスラッシュ」を日本語独自の「ハクスラ」のことだと思っており、それは実際には本来の英語の「hack andslash」とは異なる。
もともと英語のRPG由来の言葉なので、日本語になって変化した和製英語としての意味しか知らずに「言葉の歴史」を語るのは当然おかしい。
日本のWikipediaでは以下のように書かれていて、日本人がこの「敵を薙ぎ倒して報酬を得ること」という意味で使うことは多い。
元来はテーブルトークRPG発祥の用語であるが、近年ではコンピューターゲームの用語にも使われている[1]。コンピューターゲームにおいては「敵を倒して強力なアイテムを入手し、より強い敵と戦う」というプレイをひたすら繰り返すタイプのゲームを「ハック&スラッシュ(ハクスラ)」と呼ぶことが多い[2]。「プレイヤーキャラクターを成長させ、ボスなどの強敵を倒す」という要素自体はハックアンドスラッシュ以外のゲームにも存在するが、ゲームを先に進めたり、ストーリーを楽しんだりするという目的のために強くなるのではなく、プレイヤーキャラクターを強くすることそのものがゲームの主な目的である点がハックアンドスラッシュの特徴である[2]。
このうち「敵を倒す」部分は英語の「hack andslash」とも共通しているが、「強力なアイテムを入手し、より強い敵と戦う」というのは本来「loot-based」や「diablo-like」等と呼ばれ、異なるジャンル。『Diablo』がこの両ジャンルをまたがった有名作品なので、日本ではそれが混同して広まってしまったわけだ。
英語のWikipediaでは「アイテムを入手」とか「成長」とか「強くする」とかいったことが全く書かれていないのがわかるはず。一言でいうと語弊もあるが、単に「敵を倒すゲーム」ということ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Hack_and_slash
Hack andslash, also knownashack and slay (H&S orHnS) orslash 'em up,[1][2] refers to a type of gameplay thatemphasizes combat with melee-based weapons (suchas swords or blades). Theymay also feature projectile-based weaponsas well (suchas guns)as secondary weapons.Itis asub-genre ofbeat 'em up games, which focuseson melee combat, usually with swords.
「日本の記事なんだから日本語の意味でいいじゃん?」と考える人もいるだろう。
しかし、この記事では冒頭の引用でも「RPGにおける歴史からすれば」と書いているし、以下の引用でも『Dungeons and Dragons』のような当然本来の用法で参照すべき作品(当時は日本語の「ハクスラ」なんて存在しなかった)を挙げているんだから、著者が本来の「hack andslash」の意味を理解しておらず日本語の「ハクスラ」しか知らないのは明らかだし、おかしい。
ところが、この「ハックアンドスラッシュ」という響きと、「敵を倒して報酬を得る単純なゲーム」に魅入られた『D&D』ファンたちは、この「ハックアンドスラッシュ」を『D&D』『AD&D』の魅力として宣伝していくことを始めたのです。
さらに記事内で「ベルリン解釈」の話もして自分の説を強化しようとしているけど、これも誤っている。
本連載第2回でも紹介した、2008年に発表されたローグライクを定義する「ベルリン解釈」の定義の1つにも、「ハックアンドスラッシュコンバット」が含まれています。
これはベルリン解釈の原文を読めばすぐにわかること。ここで書かれている「Hack'n'slash」は著者が言うような「敵を薙ぎ倒して報酬を得ること」ではなく、「プレイヤーがモンスターを倒すゲームであること」を指している。
https://www.roguebasin.com/index.php/Berlin_Interpretation
Even though there can be muchmore tothe game, killing lots of
monstersis a very important part of aroguelike.The gameis player-
vs-world: there are nomonster/monster relations (like enmities, or
diplomacy).
たしかに『Angband』系列のように「loot-based」な伝統的roguelikeもあるし、『Diablo』がroguelikeとloot-basedを隣接させてもいる。しかし、「ハックアンドスラッシュ」という言葉の歴史的な定義を「敵を薙ぎ倒して報酬を得ること」とし、その考えを基礎にして書かれたこの記事は根本から間違っている。
というか普通に考えれば、『Rogue』自体が該当しない条項が「ベルリン解釈」に存在するわけないことくらいわかるでしょ!
元記事の著者から増田とブコメでトンチンカンな反論があったから追記しておきました。
ちょっと英語で調べればすぐに自分が間違ってたとわかることなんだから(ブラウザには翻訳機能があるよ)、早いうちに素直に認めて記事を修正した方がいいと思いますが……
今の、条例の制定は地方で独自にできるのに治安業務は国に牛耳られてる状態ってわりといびつだよな。
おれは海外ドラマを見ていてこの分野に詳しいんだがロス市警みたいなのめっちゃカッコイイ度が爆上がりするから絶対に権限移譲したほうがいい。
国は国でFBIみたくなったらこれまたカッコイイ度が爆あげあげの歌舞伎揚げになるからぜったいやったほうがいい
(追記)
と、おもうやん?
でも実態は
日本の警察組織は都道府県が主体となって設置され(警察法第36条)、都道府県が国の法定受託事務(かつての機関委任事務)として行う事務ではないため、一般的には自治体警察とみなされることが多い。しかしながら、都道府県警察への指揮命令権は、都道府県公安委員会ではなく警察庁が有することや、警視正(職制としては警察本部の主要課課長、主要所轄署の署長)以上の幹部は国家公務員たる地方警務官であることから、実態は国家警察と自治体警察の折衷型に近い[11]。
って感じらしいのよ(ウィキペディア)。
都道府県警ってなってはいるけど都道府県知事が警察に対してできることってそんなになくて地方自治体の行政組織の縦割りとは別フレームっぽい。
たとえば最近だと沖縄県警が米軍の暴行事件を県に報告せずに県知事が知らされてなくて激怒みたいなのが発生したのが記憶にあたらしいところ。
(追記)
統合捜査局から派遣されるいけ好かないエリート刑事 vs汚職と縄張り争いにまみれた道府県警 vs地方有力者の息がかかった特別職公務員「保安警官」と取り巻きの自警団 で三つ巴や!
そうそう!そういうやつ!。
現代の日本に必要なもの、それは地方警察の闇の軋轢で組織を去らざるを得なかったオッサン元刑事が探偵事務所みたいなのやっててひょんなことからそこを訪れた国のいけすかな若手エリートとなぜか意気投合して・・・!!みたいな!そういうのなんよ。
そっち路線もええな。もちろんエチゴヤHDがビットコインのUSBの入ったマカロンを渡してきたりするやつ。
いいや軍事力だね。各都道府県が独自に軍事力を持ち警察権も兼ねる。神奈川軍警察なんて聞いただけでワクワクする響きだろ。たぶんティターンズぐらい強権だぜ。
そのへんは抜かりなく、すこし前にワイは都道府県軍の増田を書いたんやが anond:20220928120841 軍事と警察で若干違うからなあ。「神奈川軍は神奈川県警の利権に食い込めなかった集団が源流でむしろメチャクリーン」みたいな、そういう複雑な感じで別組織ってのもぜんぜんアリよな。
そこは犯罪人引渡条例を制定するから問題ないとおもうぞ。ただし県同士で戦争になったら一時停止されるから犯罪者の往来が活発になる。
島根と鳥取間では常に開戦してるからお互いの犯罪者を定期的に捕虜交換するイベントがあったりするんだ。
あとは栃木・埼玉・群馬の例の3県境に同時に追い詰められた凶悪犯たちが互いを売り合いながら県境をくるくる逃げ回る展開は新喜劇になると思うけどなあ。
2025年7月9日syrup16g TOUR 2025 〜孤毒の百年〜@恵比寿TheGarden Hall
いつも通りの読む価値ゼロの個人的健忘録です。レポらしいレポじゃないのであしからず…。
このライブの前に何か色々あって(察して欲しい)テンション下がってたんだけど(あと少し前にいったバインのライブが素晴らし過ぎたのもある…)これで暫くレミゼの曲も聴き納めかもだし気合い入れ直して行ってきました。
恵比寿ガーデンホールって初めて行ったんだけど、だだっ広い体育館みたいな本当にフラットな作りで驚いた。とりあえずマキさん側に行って待機(ステージ暗くてどの辺りがポジション的にマキさんが見えるのか全然分かんなかった)会場の暑さなのか何なのか分からないけど開演前に人が倒れた(その時は気が付かなかったけど最前列に居た方だったそうで…)り、開演直後(演奏前)に人が倒れたり(すぐに意識?取り戻したっぽい。五十嵐さんも大丈夫?って言ってた)途中で隣に立ってた方が抜けてったりアンコールでまた人が倒れたりして心配になった…。正直空調あまり効いてない感じだったし皆身体には気を付けて欲しい…。
メンバーが出てきて五十嵐さんがめちゃくちゃ良く見えるポジションだと初めて気づく…。マキさんも見えない訳じゃないけど…中畑さんは全く見えず(これは背が低いので想定済み)この機会に沢山五十嵐さんを見ました。本当に過去1ぐらいちゃんと見た笑五十嵐さんのヘロヘロWピース(うつむき加減)見ると五十嵐さんだな…って思う(この感じ伝わって欲しい)
一曲目聴いて思ったけど、中畑さんの気合いがバキバキに入ってる。初っ端から迫力すごい。五十嵐さんの声の具合いも少し心配だったけど(連日ライブやってるので…)しっかり出てる印象。この日、全編通して中畑さんの気迫がすごかった。
不眠症…!?!?大好きな曲なので聴けて嬉しい!!中畑さんのドラムめちゃくちゃに良いな…!!転調の部分、いつ聴いても好きだしマキさんのベースも気持ち良い…。最高です…。
Don't〜、マキさんの運指が見えず残念…。と言うか五十嵐さんしかちゃんと見えてないのだが、こうして見ると本当に一生懸命弾いて歌ってくれてるんだなぁと思うなど…(失礼な感想だけど…)曲の完成度高くて聴いてて気持ち良い。
Alone〜、ツアー中ずっと気になってたんだけど「そして今夜もDancealone 中」の「中」の所、めっちゃ「ちゅ〜〜」って歌うなぁと思った笑
診断書、本当に好き!!大好き!!いつも1人だけ異様に盛り上がっている…(特に盛り上がる曲でもないのは分かってるけど…)診断書のドラム、めちゃくちゃカッコ良かったなぁ。
Dinosaur、やっぱバンド的お気に入り曲なのかな?めちゃくちゃ気合い入ってて完成度高かった。マキさんのベース本当にカッコ良い。曲自体がツアーを重ねて進化してる感じがして本当に嬉しい。シロップのライブでそれを感じられる事への喜びがある。
ex.人間。ヘルシー縛り!?と言うかダイマスさんの宣言通り(ニコ生)お蕎麦屋さんやったね…笑 マキさんもハモってた!!マキさんと五十嵐さん2人だけ(きてるね のってるねの所だったかな?)の所あって心の中で大興奮。マキさんも中畑さんもハモリが上手い。ツアー終盤の昔の曲は喉が心配にもなる…。ギターの出だしミスしてやり直ししたんだけど、曲が終わってから最初のミスした部分を弾きながら「あー!!次来てくれた時はちゃんとやるんで…って毎回言ってますね…すみません…」って悔しそうにしてて良いんやで…って思った。五十嵐さんが一生懸命歌って弾いてくれてるのは充分伝わってるので気にしないでね…って心の中で思った。
うつしてめちゃくちゃ好きなので耳に焼き付けようと思って歌に集中した。この曲とにかくギターが難しいから原曲を追い求めるのは違うと思ってるけど、ラストのギターソロ、私が行った公演の中でも群を抜いて素晴らしくて胸が一杯になった…。最後あーなたのーの所、あーって伸ばして歌うのめちゃくちゃ良いよね…。
In My〜お煎餅屋の所、歌詞微妙に噛んだのか飛んだのかモニョモニョしてて笑ってしまった。
In TheAir〜、本っっっ当に好き!!1人だけ頭を振り乱し爆盛り上がり。この曲こそ手をあげて盛り上がる曲では!?何度も書くけどこの曲の中畑さんのドラム最高…。マキさんのベースもカッコ良い…。
ソドシラソ…!?!?また好きな曲が…!?嬉しすぎる!!当時の無茶苦茶なシロップが感じられる歌詞がすごく好き。どうにでもなれ!!って感じが全面に出てるのが良い。「歌うたって 稼ぐ 金を取る」からの下りが特に好き…。この曲のドラム気合い入っててカッコ良かった〜!あとギターソロ、素晴らしかったです…感動しました…。
新緑、照明が緑になってるのこの日初めて気づいた(?)かも。めちゃくちゃ緑だった笑 この辺りから何故か中畑さんがよく見えたんだけど(多分前の方の人が少しずつ移動してる)この曲の時本当にニコニコしてるなぁ。
レミゼ、照明が明るくなるのが曲の雰囲気に合ってて好き。本当に良い曲だなぁと聴く度に思う。五十嵐さんのソングライティングセンスが全面に現れた素晴らしい曲。そう思える曲を過去曲じゃない新しい曲で聴かせてくれるの感謝しかないなと思う。
vampire's store、五十嵐さんだけで出てきて弾いてた時に何回もステージ袖ちらちら見ててこっちがハラハラしたので笑中畑さん早く出てきてあげて…と思ってしまった笑 新しい曲で盛り上がるの良いね。どんどんこう言う感じになって欲しい。マキさんが出てきた時「マキリン登場!」みたいな感じの事を言っていて頑なにマキリン呼び続ける五十嵐さん、笑う。私は二度とマキリンとは呼べません…(と言うかもうずっと呼んでないけど…)
Deathparede、めちゃくちゃカッコ良かった。サビの所のSo manydeathの前の伸ばす所、中畑さんの声大き過ぎて五十嵐さんの声かき消されてたの笑った。しかも中畑さんの方がめちゃくちゃ声伸びる笑中畑さんの気迫が伝わってきてこっちもテンション上がった。
Stopbrain、大好きなのでこのツアーで沢山聴けて嬉しかった。マキさんのベースが大好きな曲。この曲、声が結構厳しそうだからツアー最後まで歌いきれるのかなって思ってたけどすごく良かった。また1人だけめちゃくちゃ盛り上がっていた…。
正常…!?!?驚きと喜びが隠しきれなくてふぁ〜!!ってなってたら前にいた人に振り返えって見られてしまった。声出してないしマスクしてたのに…多分無意識にめちゃくちゃリアクションしてた…恥。 正常、めっっっちゃカッコ良かった…!!!メンバーも気合い入ってるの伝わってきて更にテンション上がる。最後のマキさんのベース、いつ聴いても美し過ぎてずっと演奏してくれ…って思ってしまう。あと歌がね、めちゃくちゃ良かったです…。この曲一曲だけでも来て良かった…って思った。
五十嵐さんが「おじさんは疲れたので…この一曲で終わります…」って言ってて笑った。4月のシャイボーイで中畑さんがニコニコしながら五十嵐さん指さすの何か良いなって毎回思う。シャイボーイって事??(違)最後五十嵐さんがマキさんのマイクで「ありがとう」って言ってはけていった。
客電完全について帰ってく人もいたけど、絶対用意してると確信してたので粘ってたら割とすぐ出てきた笑 出てきた時にマキさんが前に出てきてお客さん煽った時に反射的にはしゃいでしまい恥…。だって、マキさんに煽られたらテンション上がっちゃいますよね…!?その後のマキさんのベースがかっこよすぎてバカでかボイスで「カッコいい!!」って言ってしまって恥2回目。本当に無意識に口から出てしまった…。
最後は落堕。いや、本当この曲完成度高くてヤバい(語彙力なくした感想)桁違いに完成度が高い。中畑さんの咆哮にテンション上がらない人いるのかな?とにかくマキさんがカッコ良くて頭ブンブン勢になってしまった。最後の辺りの演奏、ちゃんとアレンジと言うか演奏に工夫が見られる所が今のシロップを見せてくれてる感じがして大好き。
全て終わってアナウンス入った後に皆で拍手して終わるのとっても良いなっていつも思う。
以下、MCなどの覚え書き。
·中畑さんが何度もありがとう、楽しいって言ってくれてそれはこちら側の台詞だよ〜!!って思った。あと割と何度も辛くないですか?って聞いてくれてた。
·中「(会場が)一杯だ〜ありがとう」五「こんな事、おかしい…!!(人が集まってる事に関して笑)」中「ありがたいよねぇ…ありがとう」中「ありがとうって言葉にするのは簡単だけど…ありがとうじゃ足りないよね」五「うん」中「その分演奏でお返し出来たら…」
·中「シロップの曲が好きで……シロップの曲が好きだから………何て言おうとしたんだっけ?」五「ん!?笑」中「シロップの曲が好き、シロップの曲を叩くのが好きなんです」五十嵐さん目を瞑って両手を胸に当てて嬉しい感じを出す。中「シロップの曲を叩くのが好きなので一生懸命叩きます」
この一連の会話、本当〜に感動して泣くかと思った…。中畑さんがいてくれたらシロップは安心だなって思えたし、当たり前(?)だけどずっとシロップのドラマーでいて欲しい…。
·辛い人いませんか?って中畑さんが聞いた時にマキさんがすっと真っ直ぐ手を上げてて笑った。中「キタダさんだけですね笑」って笑ってた。
·いきなり鼻をかみだす五十嵐さん。その音がめちゃくちゃマイクに入ってて笑う。「すみません」って言ってた笑
上でも書いたけどここ最近、何やかんやあっていまいちモチベーション上がらなかったけど、この日ライブを観てやっぱり私はsyrup16gの楽曲が好きだしsyrup16gと言うバンドが大好きだなと思った。私は私の好きを大事にしてこれからも彼らの活動が見れたら良いんだって思えた。何より五十嵐さんが一生懸命、精一杯歌って弾いてくれてるのが分かって嬉しかった。この言い方合ってるのか分からないけど、上手いとか上手くないとかは置いといて彼らにしか鳴らせない音楽があるなと改めて感じた。あと今回のツアーで五十嵐さんがちゃんと自分の喉に配慮してコントロールしながらライブをやってる姿に感動(?)を覚えた。
久しぶりのツアー、セットリストがレミゼの曲主体で組まれてて私は本当に嬉しかった。ずっともう一度レミゼの曲を生で聴きたいと思ってたので…。今回名古屋、大阪、追加の恵比寿と3カ所行って、それぞれの会場でしか観れないシロップが観れたのも良かった。恵比寿ではマキさんのベースに工夫と言うかアレンジがあったり、曲の入り方や繋ぎ方に工夫があって「バンド」って感じがしてとっても良かった。全てを曝け出して今を演奏するsyrup16g、バンドが生きてるなって思った。まだシロップを見続けたいので健康第一で身体を大切にしてこれからも活動していって欲しいと強く思う。
1.I Will Come(before new down)
2.明かりを灯せ
3.不眠症
4.Don't Think Twice(It's notover)
5.Alone In Lonely
6.診断書
7.Dinosaur
12.ソドシラソ
13.新緑のMorningglow
14.Les Miseblue
En.1
1.vampire's store
2.Deathparede
3.stopbrain
En.2
1.正常
En.3
1.落堕
キルラキルキャラデザのカラー所属アニメーターすしお氏が平野雨龍氏の賞賛をツイートして話題になった件、そんな騒ぐような事じゃないよ。
ももクロxKISSのコラポMVのイメージ(https://www.fashionsnap.com/article/2015-01-20/momokuro-kiss/)を見てもわかるように、もともと「和風がかっこいい」のセンスを持った人で、
若くて顔の整った美人女性が、バッチリ髪を整えて着物を着て、なんか立派そうな政治的なことを言ってるんだから、そら「かっこいい」わ。褒めてしまうわ。
着物や髪型と合わせて、政治主張の内容まで含めての「コスプレ」なんよアレ。
黒いセーラー服着た黒髪ロングの美少女が日本刀持って戦ってるのと同じ。
平野雨龍氏が太った中年女性だったり男性だったら、まったく同じこと言っててもあんな賞賛してないよ。
カプコンのイラストレーターあきまん氏がうしじまいい肉の取り巻きをやってるのと同じで、これまで女性に免疫のなかったオタク純粋培養の男が、
なんか他人から批判されずに美人の取り巻き(チンポ騎士)になれそうな状況だったら、コロッとやられてしまうんよ。
(うしじまいい肉は自分から露出晒してるコスプレイヤー、平野雨龍は「政治家志願」という賞賛すればなんか自分も高みに登れるような存在)
アイドルのファンはなんか性欲主体でかっこ悪いけど、政治家志願への応援ならカッコいいじゃん?
主張の内容はどうでもいいのよ、若くてキマッてる美人に、迷惑がられずにお近づきになれる、それが「かっこ悪い」ことでなく、「政治への参加」という立派な行為の一部であることが重要なの。
もし逆に、山本夜羽氏の「マルクスガール」みたいに、若くてカッコいい女性が声高々に社会主義を訴えて政治家目指してたら、そっちに転んでたかもしれないよ。
保守界隈は定期的に比較的若い、ブスでない平均以上の容姿もった女性政治家・思想家・活動家が表れてオッサンをうまく信者にしてるのに、
革新界隈はそういう傾向がないの、やり方が下手だよなぁと思う
社会環境整備の話が月10万円でシンママとしては生活できず親か男に頼らないといけない額な時点で的外れだと理解できる
https://anond.hatelabo.jp/20250704092430
ポイントはここにあると思う。
若い男性の子作りモチベとか、どーでもよくって、出産は若い女性個人の自由意思だけで決まるものというリプロダクティブヘルスライツの考えを真っ直ぐに支持してるんだよね。
…混乱を解く鍵は、男女共同参画にある。
昔打ち出された男女共同参画は、女性も社会を支える責任を負う、というスローガンだった。
でも、少子化解消の責任を若い女性だけに負わせてること、それが問題だと思う。
若い女性が責任を負ってくださいね、国は最大限サポートしますよ、というのはフェミニズム的には許せない。
コメントのツッコミで結構人気だったのが『高齢男性の精子も劣化する』だ。
女性の社会進出はいいことです。どんどん働いてもらえば結構。けれども、子どもを産めるのも若い女性しかいないわけですよ。これよく差別だという人がいますけど違います。現実です。いいですか、男性や、申し訳ないけど高齢の女性は子どもが産めない。だから日本の人口を維持していこうと思ったら、若い女性に子ども産みたいなとか、子ども産んだほうが安心して暮らせるな、という社会状況を作らないといけない
https://news.yahoo.co.jp/articles/c66788d5fc7d0c131bb6a74f9ad7b43422c63b7f
若い男性に子どもを作りたいなとか、配偶者に子ども産んでもらった方が安心して暮らせるな、という社会状況を作らないといけない
になる。………かなりグロテスクだよな。家族計画は夫婦共同の責任だけど、男性サイドの「子ども作りたい意欲をうながす社会環境」を推し進める国って不気味だ。あくまで出産の主体は若い女性にある、と氏は主張してると思う。その上で、出産して(仕事せず)子育てに専念する若い女性へのサポートを打ち出してる。
ChatGPTと哲学的に議論したところ、思いがけず興味深い展開になったのでメモっておく。
選択的夫婦別姓の議論は、単なる法律の修正にとどまらず、私たちが「家族」や「個人」、「自由」についてどのように理解し、どのように他者と共に生きていくのかという、深い倫理的問いを私たちに突きつけている。これは、制度の整備によって個人の自由を拡張することを目指しつつも、そのことによって新たな葛藤や排除が生まれうるという、自由そのものの逆説的性格に由来する問題である。日本においては、明治期以降、戸籍制度の下で夫婦は同姓とされてきた。それは「家」を単位とする社会制度の表れであり、制度に従うことは“当たり前”とされていた。戦後、民法は大きく改正されたが、戸籍の構造は根本的には変わらず、「1戸籍=1氏」の原則が続いている。この形式は一見中立に見えても、現代社会においては多様な家族形態や女性の社会進出、国際結婚の増加などに対応しきれておらず、「選択的夫婦別姓」への要望が強まっている。
一方で、反対の声も根強い。その中には、「戸籍制度の一貫性が失われる」「家族の一体感が損なわれる」「子どもの姓をめぐる混乱が起こる」などの制度的・情緒的な懸念がある。とくに、「一つの戸籍のなかに複数の姓が存在すること」への違和感は、「家族とは何か」という問いと直結している。反対派の主張として説得的だと思えるのは、制度改正にかかる行政的コストが得られる利益に比して高すぎるとの主張である。
ただ、こうした議論のなかで、見過ごされがちなもう一つの問題がある。それは、「選択的」であることが、すべての人にとって自由であるとは限らないという逆説である。改革に伴い、精神史的あるいは文化的な意味で目に見えない傷を残すことになりかねないことに気が付いた。これはもうひとつのコスト問題といえるだろう。
選択肢が増えることは、確かに一部の人にとっては歓迎される。しかし、これまで「自明なこと」として受け入れてきた選択肢しか知らない人にとっては、「選ばないこと」すら“選んだこと”として扱われるようになる。その結果、「なぜあなたは同姓を選んだのか」と問われること自体が、新たなプレッシャーや説明責任となり、無言のうちに選ばれていた価値観を「語らされる」状況が生まれる。
W・ベックは「リスク社会」のなかで、近代社会における制度や技術の発展が新たなリスクを生み出し、個人がそのリスクを自己責任で管理・選択することを求められる状況を「第二の近代」と呼んだ。家族制度の再編や個人化の進行は、まさにその一端であり、個々人が従来の慣習に頼ることなく、「選択しなければならない自由」のなかに放り込まれている。
選択的夫婦別姓制度も、こうしたリスク社会における制度の一つと見なせる。個人の自由の拡大は、必ずしも解放ではなく、「選ばなかった理由を問われる不安」や「所属の根拠を失う不安」といった新たな社会的リスクを伴う。それゆえ制度設計においては、ベックの言うような“制度化された個人化”が生む影の部分——すなわち、自由と責任の過剰な個人化による孤立や不安——をも視野に入れる必要がある。
この現象は、韓国で2008年に導入された「個人単位戸籍制度(家族関係登録簿制度)」の議論にも通じる。韓国では長らく「戸主制度」が存在し、家父長制的家族観が法制度にも深く根を下ろしていた。2000年代に入り、女性団体や若年層からの批判を背景に、家制度的枠組みを廃止し、個人を単位とする新たな制度へと移行した。しかし、それによってすぐにジェンダー平等が達成されたわけではない。
むしろ、制度改革後に見られたのは、「選べる自由」が広がった一方で、「選ぶことを求められることの重さ」が可視化されたことである。これまでの夫婦同姓制度では、「姓は変えるもの(主に女性が)」という文化が、慣習として“疑いなく受け入れられていた。
ところが選択肢が生まれると、たとえ同姓にしたとしても、「それは自分の意思か?」「配偶者に強制されたのでは?」「女として主体性があるのか?」という「選択の真偽」を問う視線が生まれる。これは日常の選択に、政治性と倫理的自己確認を持ち込む構造でもある。
たとえば、韓国の若年層においては、恋愛・結婚・出産の三つを放棄する“Sampo世代(三抛世代)”という言葉が流行し、さらに結婚・出産・恋愛に加え、家族・男性との関係・異性愛自体を拒否する「4B運動(非婚・非出産・非恋愛・非性愛)」が広がった。これらは、制度的改革の先にある、よりラディカルな文化的実践であり、「選択肢があること」そのものに抗する自己防衛的な態度とも言える。4B運動の担い手たちは、単に従来のジェンダー規範を拒否するのではなく、「社会的な所属関係」そのものを解体する動きを見せている。たとえば、4Bの参加者たちは、「家族に説明しなくていいから、恋人もいらない」「自分の性を自分で管理する」といった語りをSNSで共有し、連帯と承認を得ている。ここには、制度の外にとどまることによってむしろ自己の尊厳を保つという新たな主体性の表現がある。ベックのいう「選択の強制」への拒絶反応が韓国社会でこうした形で現れているのは興味深い。
こうした言語化をめぐる現象は、日本ではすでに1970年代から表現としての萌芽が見られた。たとえば中川五郎の《主婦のブルース》(1969年)は、まさに「沈黙の自由」と「自明性のなかに生きることの苦しさ」を逆説的に描いたフォークソングである。選択の自由すら与えられず、「女とはこういうもの」として役割に組み込まれた存在の叫びが、ブルースという形式で“語られる”ことによって、沈黙が破られるという構造になっている。中川五郎の歌は、現代フェミニズム運動の文化的系譜のなかで、語られなかったものを語ることで、社会の“自明性”を暴き出した初期の詩的実践と見ることができる。
一方で、この作品は、主婦という存在が社会的変革の外側に置かれ、家の中で沈黙していること自体が、政治的意味を持つという問題を描き出している。作品中の主婦は、学生運動に参加する息子から「沈黙は共犯だ」と責められるが、自らの言葉で「家庭が一番」「まじめに生きるのには疲れたわ」と語り返す歌詞がある。息子の視点は、60年代〜70年代左派運動(ベトナム反戦、学生運動、階級闘争)の倫理に基づいている。「沈黙は共犯」とはサルトルの実存主義的倫理を象徴する言葉だ。
「まじめに生きるのには疲れたわ」という母の言葉に現れるのは、正しさからの逃走である。政治的主体でもない、声高に抗議しない、けれども一日を必死に生きる――そういう「声なき多数者のリアリティ」である。この「疲労の言葉」は、政治的正義の言葉ではすくい取れない主体の感情的深度を表しており、母として、女性として、主婦として生きる複雑な立場が凝縮されている。ここで描かれる沈黙は、単なる服従や無知ではない。むしろ、言葉を発することに慎重であるがゆえに沈黙を選び、その沈黙をもって自己の尊厳と日常を守ろうとする姿勢である。この沈黙には、語らないことによってしか保てない尊厳と、自己存在の最終的な防衛線が込められている。
しかし、「語らないことを自分の意思で選ぶこと」を歌を通じて語るところに沈黙の自由のジレンマがある。
このような表現は、フェミニズムの文脈においてしばしば見落とされがちな、語らない主体の論理を可視化する重要な契機となる。また、このような「語らないこと」の倫理は、寺山修司の詩作にも見られる。たとえば阿部定事件を主題にした作品群では、語られすぎた欲望や暴力の物語の外側に、語られないままの沈黙が配置される。寺山にとって、語ることによって自己が立ち上がるのではなく、語らないことによってこそ輪郭を与えられる主体が存在するという逆説が重要であった。とりわけ彼の詩や戯曲に描かれる女性像(娼婦、母、乙女)は、しばしば制度の外に佇み、語られずにいることによって、むしろ社会の暴力性を照らし出す存在として描かれる。
沈黙のうちに自己の選択を成立させる女性の姿は、語ること・主張することを通じて自我を立ち上げてきたフェミニズムの流れとは一線を画しながらも、それを内側から補完しうるもう一つの可能性として位置づけられる。《主婦のブルース》と寺山修司の詩作は、「語らなければ存在しない」という制度的圧力に対し、「語らないままに存在し続ける」ことが、制度に対する対抗的な主体性のあり方となりうることを提示していた。
この観点から見ると、制度設計においては、「語る自由」と同様に「語らない自由」「沈黙する権利」をいかに尊重するかが問われることになる。
このような非対称性の問題は、他者との関係において自我がどのように成立しうるかという哲学的問いへと接続される。具体的には、制度によって「語らないこと」が許容されるべきかどうか、また沈黙する者をいかに制度の中で位置づけるかという課題が生じる。
ここで参照されるべきは、社会学者チャールズ・ティリーが論じた「カテゴリー的不平等(categorical inequality)」の概念である。ティリーによれば、社会制度はしばしば人々を特定のカテゴリーに分類し、その分類を通じて資源や権利へのアクセスに構造的な差異をもたらす。選択的夫婦別姓制度をめぐる議論においても、「姓を選ぶ/選ばない」という区分が制度的に固定化されると、それ自体が新たな社会的境界を生む可能性がある。たとえば、同姓を選んだ者が「伝統を守る保守的立場」とされ、別姓を選んだ者が「変革的/進歩的」な立場と見なされるなど、個人の選択が無意識のうちに政治的・文化的ラベリングを受ける事態が生じる。これは、選択の自由があるからこそ、逆に選択内容が新たなアイデンティティの指標となり、当人の意思とは無関係に社会的評価や区分の根拠とされるという新たな境界である。そのため、制度設計には、カテゴリー化の力学が生む潜在的な排除や不利益への慎重な配慮が求められる。
こうした哲学的・社会構造的な視点を踏まえたとき、制度は単に選択肢を増やすだけでなく、語らない自由や沈黙をも制度内に位置づける必要がある。ここから先は、倫理と制度の交差点において、いかにして沈黙や非選択を尊重しうるかという、より深い次元の議論となる。
まず、レヴィナスは『全体性と無限』において、自己は他者の顔に直面することによって、つまり一方的な応答責任に巻き込まれることによってこそ立ち上がると主張した。そこには、相互的なやり取りが前提ではない、倫理の根源的な非対称性がある。つまり、語られない他者の沈黙に対しても、応答を要請される私たちの姿勢が倫理の出発点であるとされるのである。こうした観点は、他者の沈黙を承認する制度設計の必要性と深く響き合う。
次に、ルイ・アルチュセールの「呼びかけ(interpellation)」論もここで参照されうる。アルチュセールによれば、個人は国家装置や制度的言説によって無意識のうちに「呼びかけ」られ、主体として構築される。つまり、たとえ沈黙していたとしても、制度の文脈の中ではすでに何らかの立場を“呼び出されている”のだとされる。この点においても、制度に対する無言の従属を単なる自由意思として解釈することには注意が必要である。
その一方で、他者の承認を通じて自己意識が形成されるという構造を体系的に提示したのが、ヘーゲルの「相互承認」の思想である。ヘーゲルは『精神現象学』において、自己意識が確立するためには他者からの承認を必要とするが、その承認は一方的では成立せず、双方が自己を表現しあう関係の中でのみ可能であると論じた。この相互承認は、対等な他者関係における自己の確立を前提とする点で、自由と平等の理念を哲学的に基礎づける重要なモデルである。
しかし、現代社会においては「自己を語らない」ことでしか自らの尊厳を保てない人びとも存在する。そのような状況では、ヘーゲル的な相互承認モデルでは十分に説明しきれない現実がある。むしろ、語らない他者の沈黙をもそのまま承認し、語る/語られる関係から降りる自由までも包摂する必要がある。このとき、ヘーゲルの構図はむしろ出発点として捉え直されるべきであり、「語らないことを承認する」ための制度的想像力は、まさにそこから展開されねばならない。
これら四人の思想家が示唆するのは、制度と主体の関係性における多層的な緊張である。ティリーが指摘した「カテゴリー化」の力学は、制度がいかにして人々の行動範囲を構造的に規定するかを示し、レヴィナスはその構造を超えて、倫理は常に非対称な他者関係から始まると主張する。アルチュセールは、制度的言説によって主体が無意識に構築されてしまうメカニズムを暴き、ヘーゲルは承認関係の対称性を通じて自由の実現を構想した。それぞれの理論は、一面的には矛盾しあうようにも見えるが、選択的夫婦別姓制度をめぐる今日の状況においては、むしろ互いに補完的である。すなわち、制度が個人をいかに分類し、語らせようとするか(ティリー・アルチュセール)を見抜きつつ、語られない者との関係に倫理を見出す視点(レヴィナス)と、語りの対称性に基づく自由のモデル(ヘーゲル)を柔軟に組み合わせることで、私たちは初めて、「語ること」と「語らないこと」がともに尊重される制度設計の可能性を構想することができる。
理屈はそうだ。しかし果たして、語らない自由の保障を制度設計に組み込めるだろうか。社会における和解を考えたとき、制度の再設計ではなく、制度外の深慮が求められるのではないか。伝統・習慣との調和を目指したE・バークのような保守の考え方のほうが示唆的だ。また、文学的なまなざしも有効な力になるだろう。
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知の自壊装置としての生成AI──人類が積み上げた数千年の歴史を、たった10年で無意味に帰す
生成AIが「それっぽい文章」や「微妙にメンテナンス性の悪いツール」を大量に生成し続けた場合に予想される結果は、主に以下の4つの側面から論理的に分析できる。
生成AIは「既存の統計的傾向に基づいた模倣」を行うため、創造的で独自性のあるコンテンツよりも、「すでに無難だとされている」表現に収束しがちである。
そのため、ネット上には以下のような変化が起きる:
結果として、「知ること」や「調べること」のコストパフォーマンスが悪化し、知的行為のインセンティブが低下する。
生成AIが作るコードやツールは、動作する範囲では便利だが、以下のような欠陥が内在しやすい:
これにより、生成されたツールは「とりあえず動くが、誰もメンテナンスしたがらない」コードの山となる。
運用コストが増加し、いずれそのツール群の維持だけで人員と資金が逼迫する。
リファクタリングや設計の見直しを行う人材が枯渇し、組織全体が技術的負債に埋もれていく。
人間がAI生成物に頼り続けると、以下のような認知的・教育的影響が生じる:
その結果、人間が「技術を使う主体」から「出力を選ぶだけの存在」へと退行し、専門家が形式的にしか存在しなくなる。
エラー時に誰も手が打てず、属人的な知見に頼れない社会になる。
悪意ある使用者が生成AIを使えば、以下のようなことが容易にできる:
これは民主主義的な意思決定や、科学的合意の形成を妨げ、社会全体に不信と混乱をもたらす。
しかも、それらが「誰が書いたのかわからない」「誰も責任を取らない」構造であることが問題をさらに深刻にする。
生成AIが「それっぽい文章」や「なんとなく使えるけど質が悪いツール」を無制限に吐き出す状況を放置すれば、情報の信頼性、技術的健全性、人間の判断力、社会的基盤すべてが徐々に劣化していく。
これは見た目には便利さが増しているように感じられるかもしれないが、実質的には「知のインフラの腐敗」と呼べる事態である。
長期的には、その腐敗を止める知的主体そのものが失われるリスクがある。
AIは文法や構文のパターンを解析するが、「意味の文脈的理解」は持ち得ない。ユーザーの入力を単なる文字列として処理し、過去の統計的傾向から出力を予測するだけであり、そこに真の「意図理解」は存在しない。よって、目的や前提の異なるケースにおいては誤読やミスリードが頻発する。これはタスク達成において致命的である。
AIの出力結果が誤っていた場合、その責任は開発者にもユーザーにも明確に帰属しない。AI自身は法的にも倫理的にも責任主体ではないため、重大な判断を任せることは論理的に不可能である。つまり、結果の最終確認と修正は常に人間が行うことになり、コスト削減にもならなければ負担軽減にもなりえない。
AIは確率論的生成モデルであり、「正確さ」より「自然さ」を優先する。これは一見それらしく見える出力を生成するが、事実性や一貫性を担保しない。たとえば法律、医療、工学の分野では、80点の回答は誤情報と等価であり、許容されない。にもかかわらずAIは平然と「もっともらしい間違い」を大量に出力する。
人間のような長期的文脈の保持ができない。対話履歴を保持できると言っても、それは限定されたウィンドウ内の一時的なデータにすぎず、継続的な理解や成長には結びつかない。再利用性・一貫性が低く、同じ質問に対して異なる回答を出すことが日常的に起こる。
AIは情報の出典や根拠を明示しないことが多く、言い換えれば「誰が言ったかわからないことを、誰にも責任を持たずに言う」存在である。これは学術的・実務的な場面では決定的な欠陥であり、引用可能性・検証可能性の観点からも不適格である。
たとえば介護、教育、カウンセリングなど、「人と人との関係性」こそが本質である領域において、AIは完全に無力である。感情の理解も共感も嘘であり、あくまでそれらしく模倣しているだけである以上、信頼形成に値しない。
AIは過去のデータに基づいて構築されているため、そこに内在する差別や誤認識をそのまま再生産する危険性がある。しかもそれを検出・修正する機構が十分に確立されていない以上、「中立性」や「客観性」を標榜すること自体が自己矛盾である。
結論として、AIは「便利なツール」としてのイメージが先行しているが、現実にはその限界と欠点は本質的かつ致命的である。意図が読めず、責任が取れず、誤情報を出し、文脈を保てず、根拠が曖昧で、倫理的判断もできず、偏見をそのまま再生産するような存在を「役に立つ」と呼ぶのは、論理的には成立しない。役に立っているように見えるのは、あくまで人間側がその都度補完し続けているからにすぎない。つまり、AIは「人間が頑張って初めて使える何か」であり、単独ではまったく使い物にならない。これが論理的な帰結である。
経緯を見ても当初から混乱していたし、今でも誤解されて運用されています。
この機会に、概念としての「弱者男性」を2つに分解することを提案します。
弱者男性の悩みは、拒絶されることです。拒絶の主体を元に、2つに切り分けます。
高齢や無職、コミュニケーション能力が怪しかったり風体が胡散臭くみられたり、
そのような理由で必要な福祉を得られず苦しんでいる人々がいます。
悩みを打ち明けようにも同情されず話を聞いてもらえなかったりして、
スデに孤立しているにも関わらず、弱者ポジションが得られない。
社会から拒絶される彼らを男女関係なく「隠れ弱者」と呼びます。
キモいだとか、清潔感がないなどの主観的な理由で女性に承認されない。
しかし男性の方が性欲が強い傾向があること、家族を支えろという社会的なプレッシャー。
板挟みになって作られた心の傷の累積は決して小さくはありません。
福祉で無視されて被害者ポジションと認められない人の中には、女性もいます。
フェミニズムによって形式的に触れられたところで、救いにはならないでしょう。
女性も平等に「隠れ弱者」に含めればニュースでも社会問題として取り上げやすくなると期待できます。