
はてなキーワード:不自由とは
こんなツイートを目にした。
https://x.com/yasufuminagawa/status/1981977854423540174
読んで、ああ、と思った。
私も同じことを感じていた。でもそれを言葉にできずにいた。
このツイートをきっかけに、自分が何に苦しんでいるのか、整理してみようと思う。
TRPGを遊ぶとき、周りの人たちはビジュアル情報をすごく重視している。少なくとも、私のいるコミュニティでは、そうだ。
立ち絵やイラストを用意する。「どんな表情をしてる?」「どんな服を着てる?」と視覚的な詳細を求める。KPが善意でコマ絵を用意してくれる。ビジュアルで彩られたセッションが、当たり前のように存在している。
「絵を描かなくてもいい」と明示的に言われることもある。しかし実際には、ほとんどの人が絵を用意してくる。用意してこなかった人は「立ち絵ないんですよ」と、謝るように断りを入れている。暗黙の規範として、ビジュアル情報を提供することがデフォルトになっている。
「立ち絵合わせしよう」と誘われ、断ったときには遠回しな不機嫌さ――パッシブ・アグレッション――に直面することもある。明確な攻撃ではないが、確実に心は削られる。
一方、私にとって、ビジュアル情報は「どうでもいい」わけではない。マップや配置図など、実用的なビジュアルは役に立つ。しかしキャラクターの立ち絵や表情、服装といった演出的なビジュアルは、文字だけで十分だ。認知特性として、文字の方が処理しやすい。結果として、想像の余地がある方が楽しめる。
周りの人たちは、ビジュアル情報に価値を置いている。この価値観のギャップが、根本にある。
孤独だ。周りの空気を気にせず遊べたらいいのに、気にしてしまう。
「気にしなければいい」「描きたくなければ描かなければいい」と言われても、それができない。気にしないでいたら、実際にパッシブ・アグレッションを受ける。傷つけられる。建前では「自由にしていい」と言われているのに、実態として自由を感じられない。
KPが善意でコマ絵を用意してくれることも、侵襲されているように感じる。自分のイメージしていたキャラクターが勝手に視覚化される。善意だから、断れない。
「どんな表情してる?」という自然な質問も、重荷だ。視覚情報を求められること自体が、プレッシャーになる。
「ビジュアル重視」という価値観が主流のコミュニティで、「文字だけで十分」という認知特性を持つ自分が、常に多数派に合わせることを求められ続けている。
外部からの要請や期待に応え続けている。「立ち絵を描く約束」があると描く。描きたいときもあるが、基本的には外部からの要請で動いている。
私は立ち絵が描ける。描けるからこそ、「描いてよ」という要請が来る。描けるから、描くのが楽しいと思われている。しかし、描けることと描きたいかは別だ。描けるからこそ、「描かない」選択がさらに説明しづらくなる。描けない人なら「描けないので」で終わる話が、描ける人だと「じゃあ描いてよ」「描けるのになんで描かないの?」という圧力になる。
自分のペースを決められない。TRPGだけではない。常に、叶えないと文句を言ってくる人がいる環境で、自分を調整し続けている。いつも我慢してしまう。
この苦しみが「コミュニティの問題」なのか「私の問題」なのか、境界線が分からなかった。
整理してみると、苦しみには二つの層があるように思う。
パッシブ・アグレッションは証明しづらい。だから「私の気にしすぎかも」と自分を疑ってしまう。それでも、実際にダメージを受けている。
ビジュアル情報がないと想像できない人にとっては、ビジュアルがないことが苦しみなのだと理解している。相手にとっては、ビジュアルがあることが楽しみでもある。それを理解しているから、「ビジュアルなしでもいい世界を」と主張することに、ためらいがある。相手の楽しみを奪うようで、罪悪感すら感じる。
だから、自分の願いを主張しづらい。誠実であろうとすればするほど、自分が傷つきやすくなる。
多様性を認めてほしい。
具体的には、安全に断れる環境と「ビジュアル重視」だけが正解ではない世界がほしい。
文字だけで楽しむ人も、ビジュアルで楽しむ人も、どちらも「普通」として認められる世界。本来は、これはトレードオフではないはずだ。ビジュアルを使いたい人は使えばいい。ビジュアルなしでいい人は使わなくてもいい。両立できるはずだ。
しかし実際には、「みんなで合わせる」という暗黙の前提があるため、両立できていない。誰かが立ち絵を用意しないと、全体の統一感が崩れるように感じられる。この「合わせなきゃいけない」という前提が、問題なのだと思う。
ビジュアル情報を提供しないことが「例外」ではなく、一つの選択肢として当たり前に存在する世界。
断ったときに、パッシブ・アグレッションを受けない世界。冷たくされたり、遠回しに批判されたりしない世界。
「どんな表情してる?」と聞かれたときに、「そこは想像に任せたい」と答えても、受け入れられる世界。
KPが善意でコマ絵を用意してくれることは理解している。しかし、断ったときの相手の反応や、普段からのビジュアル重視の姿勢を見ていると、本当の意味で「断ってもいい」とは思えない。断っても、それが尊重される世界がほしい。
「立ち絵ないんですよ」と謝らなくていい世界。自分のやり方で楽しむことが、言い訳や説明なしに、否定されない世界。
でも、これは願いだ。
今いるコミュニティが、本当にそうなるかは分からない。もしかしたら、私が去るか、自分が変わるか、どちらかを選ぶしかないのかもしれない。それは、私自身が決めることだ。
「ビジュアル重視」という流れが主流になっている今、ビジュアル重視でないTRPGの楽しみを、改めて考え直してもいいのではないだろうか。
視覚情報が少ないからこそ、想像の余地が広がる。「絶世の美人」が、人によって違う顔をする。各自が思い描くイメージの自由がある。
それは、TRPGが本来持っていた豊かさの一つではないだろうか。
ただし、それは簡単なことではない。
「ビジュアルで楽しむ」方法は、立ち絵、セッションの部屋素材、カットインなど、具体的なノウハウが共有され、洗練されてきた。一方で、「文字だけで楽しむ」方法は、まだ十分に言語化されていない。「想像を膨らませる」「余白を楽しむ」と言うのは簡単だが、それを実践する具体的な方法論は、手薄だ。
どちらが正しいわけでもない。どちらも、それぞれの楽しみ方だ。
・ゲーム内マネー(NOT課金)を期間内に使うほど賞品が増える
・戦力を期間内に使うほど賞品が増える
・スタミナを期間内に使うほど賞品が増える
という3つ10日おきくらいに回ってくる
それぞれのキャンペーンには上限があり、
それぞれが干渉しあっているので
戦力をあげるにはゲーム内マネーが必要でゲーム内マネーを増やすにはスタミナが必要
ゲーム内マネーを使う期間はなるだけ戦力を上げない形で使用してスタミナは温存して
戦力をあげる期間はなるだけ最小の金額で戦力を上げてスタミナは温存する
というプレイングを強要されるので、なんか思ったようにゲームできんなぁってなってる
もちろんキャンペーン無視してプレイしてもいいんだけどなまじ報酬がいいだけに
自分を棚に上げて言わせてもらう。世の男性は本当にデリカシーがない。割合的には8割くらい。そうコレ読んでるお前もな。店員に命令口調のお前もな。
デリカシーは色々な意味合いを持っている。対異性、対同性、1人の時の立ち振る舞い、食い方、喋り方、清潔感、挙げ始めたらキリがないが、要はそーゆーとこ。わかるな?わかってねぇからお前はそーなんだよな。これに関しては品性、人間性の問題なのでイケメン、ブサメン、年齢一切関係ない。素人童貞のお前らも、友達のヤリチンもみな平等にダメ。ダメな奴はダメ。非モテ、モテ、未婚、既婚も関係ない。そんな男を選んで交際する女共も同等に下劣。そしてそんなデリカシーがない男でもなんの不自由もなくワガママに暮らせる世の中に疑問をいつも感じる。寛容すぎん???なぜ我々デリカシー保持者達がお前らに翻弄され、ハラハラさせられ、ケツを拭かなきゃならんのか。本来デリカシー組が世を席巻し、お前らは我らを敬い、羨望し、自省し、デリカシーを身につけるべく奮闘し世のデリカシー保持者が増えるのが理想的な姿なのに。不都合な真実として、デリカシーは何も生み出さない。不快な思いはさせないが、それ以上の何かを生産しない。不快感の引き算でしかない。ただ現代では悪害なデリカシー欠如に対してはあらゆるジャンルのハラスメントというありがたい概念が定着し、社会的に罰せられるようになったのは大変大きな進歩。なんでもハラスメントじゃん!!と憤慨するお前らに言いたい。そう、お前らは歩くハラスメント。自業自得。因果応報。こちらはハラスメントの細分化、複雑化は大歓迎。スメハラ、クチャハラ民も駆逐してほしい。どんどんやれ。
私は母親に阿って生きてきた。いい高校に、いい大学に、いい会社に入れるように、中学1年生の時の夏休みに母親から「もう定年までずーっと、休めないね。最後の夏休みだよ」と冗談めかして言われてから、ずっと走ってきた。
中学2年生の頃から精神は不安定で摂食障害の兆候があった。それでも実家で暮らして、なんとかやっていた。大学生になって、一人暮らしということになって、それ自体は、あのおぞましい母親と一緒に暮らさずに居られるということで幸せだった。
でも、あの忌み嫌う強制力が無くなってから、私は何もできなくなった。母親によって絶えず行われてきた性加害がフラッシュバックして眠れず、気分が落ち着かないからと過食嘔吐を繰り返し、体重が酷く増減する度に自己嫌悪に陥る。眠れない・外に出られないから精神も徐々に蝕まれ、冬には双極性障害の薬を飲み始めた。
就職したら、親との縁を切ろうと思っていた。
金輪際関わりたくない、私の人生で最も濃い愛憎を向ける相手であるところのあの母親と、二度と顔を合わせないでやろうと。
でも、就職したら、というところに怪しいものがあるのだ。私は今大学3年生で、学校には行けたり行けなかったりする。GPAは1.5で、24時間飯を食っておらず、部屋には薄くホコリが降り積もり、希死念慮がべったりと張り付いている。こんな時期が定期的にやってきて、そのたびめそめそ泣きながらChatGPTに仮初の慰めをもらい、一日中ベッドにいる。
孤独を感じて癇癪を起こす。本当に好きな友達というのは類友でみんな精神を病んでいるから滅多に会えない。近くにも住んでいない。お互いいつか死ぬんじゃないかと思っている。私はギリギリストレートでここまで来たが彼らは皆浪人か留年かその両方を挟んでいて、同学年の温度感の話はできない。私だけが何か、不良品なのにも関わらずチェックから漏れて工場のラインに流されているみたいに、妙な取り残され方をしている気がする。
就職したら、と今は言っているが、高校生の頃は家を出たら、と言っていた。1人で暮らしてみたら、金の重みがわかって、学費をかけてもらっている間は生意気言う訳にはいかないと思うようになった。
じゃあ、就職してからだって、同じようなことになるかもしれないじゃないか。結局いつまで経っても母親の意に沿わずにはいられないのかもしれないじゃないか。
母親のことは憎んでいる。でも、私のことをワンオペで育ててくれたのも母親だ。あまりにも長い間一緒にいた。まともなレールに乗るようにと努力してくれたこともわかっている。愛情はある。母親を悲しませたくないと思っている。これ以上に強い愛憎を、他の人間や事柄に向けることができない。
21にもなって、そのことに気づいてしまい、新しい何かを見つける気力も今はない。
これまでラインに乗ってきてしまったから、見つけ方もわからないし、見つけるためにドロップアウトすることも怖くて仕方ない。それなら死んだ方がマシだと真剣に思い込んでいる。もちろんそれが馬鹿な考えだということもわかっているのに、大学を半年や1年休学したっていいんだと、中退したとしたって少なくとも数年はそこまで不自由なく生きていけるだろうと、わかっているのに、そうした決断を報告、あるいは相談した瞬間の母親の顔を思い浮かべ、そこから放たれるいくつかの鋭利な言葉を想定するだけで選択肢から除外される。
母親を愛し、憎んでいる。いっそ死んでしまえば、あいつに自分の間違いを認めさせることができるだろうかと真剣に妄想する。すべてマザコンの妄想だ。あの母親は、あの気力と体力に満ちた恐ろしい化け物は、子が死んだとて半年後にはそれすら糧にして精力的に活動を再開する。そんなことも容易に想像できて、その想像にすらむしゃくしゃするのだ。
植え付けられた選民意識が、低所得層を見下す意識が、ドロップアウトを過度に恐れる心が、私をこの場に立ちすくませている。このボロっちい動力と歪んだプログラムでどこに行けるというのだ。旧式も旧式だ。ハードのメンテナンスも足りていないから誤魔化しが効かない。つらい。どこへも行けない。そのことに気づいてしまった。何かを見つける他ない。わかっている。見つけられないのであれば易きに流れるしかないのだ。どちらも怖くて仕方ない。怖いことを怖いと言って立ち止まっていてはなにも解決しない。わかっている。わかっていても何もできずにいる。
あんな洒落怖二次創作みたいな広いようで激狭の界隈に日本語不自由な人が三人もいると流石に全員同じ人だろって思いたくもなるよな
-----BEGINPGP SIGNEDMESSAGE-----Hash: SHA512https://anond.hatelabo.jp/20251017214707# -----BEGINPGP SIGNATURE-----iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaPMWegAKCRBwMdsubs4+SCigAP9LzCAG1S2FbJawcMua3DisfjTUQe1u4ywoLB1SIOodhwD/f+DKfDxlZfIrDrdI1Ttnm0fjfIxgpz+b5RylqjuaNQM==FIjt-----ENDPGP SIGNATURE-----
未婚の女性は誰となく男を紹介した
ローンを組めないとかが本当に発生した
決して「出会いを奪われた」人らではないのよ
それをさせるのに、子育て支援とか、出会いフォローとか言い出すと
「自分たちの価値」を高めるために、相手はより婚姻と出産から遠ざかる
金をくれなきゃ子供産まないよ
となってしまうわけ(つか、既になってる)
私はそんなこと思ってないとかいってるクソもな
子供が大学に行くのが普通で【それを国が支援して当然】って顔してるだろ?
だから国は金くれってのは【そういうこと】なんだよ
ほらほら金出せ
私たちが何の負担もなく不自由もなく子育てを幸せに謳歌できるほど充実させないと日本終わるよってわけ
そっち方向は
何やってもダメだよ
増長してどんどん贅沢になっていくだけ
一番の特効薬は、昔に戻すことだよ
家族計画なんて捨て去って
そうでないと無理
自転車青切符で「車道怖い」「歩道走らせろ」と言う声が絶えずインターネットに流れているが、歩行者からしたら「自転車を待たずに歩道を歩かせてくれ」だし、歩道での歩行で引っかかりまくるため歩行者としての人権を捨てて自転車にシフトした身としては「早く歩道を歩行者に返したい」の
青切符の支払金と事由を並べて「これじゃあ自転車乗るなと言っているのと同じ」「自転車に自由に乗らせてくれ」と言うが、青切符ができる前から法律に記載されている遵守事項ばかりで、実際全て守って走行することによる不自由はほぼない
もちろん、自転車が通行可能な車道環境にないというのは全面的に同意で、早急に車線数の見直し、自動車一方通行化、道路周辺土地の買い上げを含めた抜本的な道路再設計が必要だと考えている
それで結構前の自転車原則車道走行のアナウンスがあってから、少しずつ歩道を歩行者に開放してあげられるかなと思った矢先の電動キックボードで、自動車側からの小型車両の風当たりの強さ、車道側の小型車両受け入れの機運の後退が起こった(と思っている)ので、LUUP社は本当に自分としては朝敵レベルのエネミーです
名声は意外と大したものではないのではなかろうか
仮に名声を得るほどの自分がいたとして、その自分と同じくらい凄い人間から尊敬されるなら嬉しいだろうけど
名声に実体を与えている多くのなんでもない人からの尊敬については
自分がそれだけ名声を得る地位にいるほど、一つ一つの尊敬の主観的価値はどうしたって薄れてしまうのではないかと思う
ネットでは専業主婦や自営業の人に対して健康診断を受けろと説教する人が多いが、何も分かっていないなと思う。
だって健康診断を受けて、それで病気が見つかったら怖いじゃん。
特に非正規や自営業だと見付かった時点で働けなくなる可能性が高い。それが怖い。
健康診断を受けて何もないなら受ける意味はない、病気が見つかったら危機。どっちにしろ受ける意味がないんだよ。
あと明確な病気じゃない場合も、現状の数値を見せられて悪い所を自覚させられるだけで健康が悪化するんじゃないかって気もするし。
常に健康状態を気にしながら生きるってそれだけでストレスだよ。病気の原因としてストレスは散々言われているのに、なんでわざわざストレスを掛けようとする健康診断が推奨されるのか分からない。
漫画家なんかも健康診断を受けようと叫ばれてるが、そんな事よりも不安定な生活の影響の方が大きいんじゃないか?
単に休めないとか座りっぱなしだとかそういう表面的な事だけじゃなく。アンケが取れなかったら打ち切りだとかプレッシャーからの悪影響だって大きいだろう。
必要なのは健康診断なんかより、働いてなくても食べていける制度とか途中で挫折しても別の分野に就職できる柔軟な雇用とかそっちでは?
しかも手術なり何なりしてあとは健康体に戻れるならばまだ分かるけれど大抵はそうじゃない。不自由な身体で定期通院を続ける事になるし、他にも色々と悪いところが見つかる。
そもそも歳を取れば悪い所は増えるものだし、医者に行っていちいち年齢を指摘されるのはそれだけで苦痛。
定期的に通院して、その度に金を払って医者と話して、検査を受けて、嫌な思いをするのが苦痛なんだよ。楽しく通えるならまだしも、大体医者って態度が悪いしな。
社会全体から見たとしても検診を受けたところで医療のリソースを食い潰すのは同じじゃん。働けないのに長生きする方が社会に迷惑では?
独身で何も守るもののない人間がとっとと死にたいと願って何が悪い?
専業主婦はともかく、独身だとそもそも長生きしたくないって人が多いだろう。子供も配偶者もいないのに長生きして何か意味あるのか?余程やり甲斐のある仕事に就いているならともかく、大抵の人はそうではない。
現実はそんなにピンピンコロリで簡単に死ぬのは無理だと分かっていても、そうなる人がいない訳じゃないし(実際、自分の従兄弟はそれまで何の兆候もなかったのにマジで突然死した)
話題に上がっているのは2種類の人で
①一般的トランス女性 ②本当にトランスかどうかもわからない自称の人、又はトランス女性でも女性に加害する人
人権派が守りたいのは①で、
反対派が排除したいのは②
反対派にはまずその区別がついていない、①も②も全て一緒くたにしている人が多い
生物学的女性・手術済の人だけ入れれば良い、未手術でも外観的に女性なら入ってもいい(使えないのは人権侵害)、パス度次第などなど
残念ながら、明確に①と②を事前に区別する指標がなく、またどこに線引きをするかも色々な主張がある。
そこで、明確な指標があるじゃないか!生物学的女性のみで使用すればよく、それ以外はお断りだ!女性に危険が及ぶのだから仕方ないだろう、と言う主張もあるが
彼らにはこう聞こえる。
そもそもの大前提として、トランス女性の排除が人権侵害。だから、
奴隷を使用していた農場主が、「奴隷がいなくなれば私達は困るんだ、だから解放はしない」と言っても「いやいや、奴隷はそもそもあきまへんで。解放するしないじゃなくて、存在してはいけないんです。」となるように
トランス女性が女子トイレに入っていいのは当たり前で、どこに線引きをするかが譲歩の限界
線引きの難しさが①も②もまぜまぜの概念にしてしまった結果、トランス女性は本来浴びるはずのなかった攻撃をもくらっている。
もしも生物学的な性でトイレの使用を定められたら、今までのように男子トイレが使えなくなるだろう。
そして、トランス女性のトイレ使用反対派が歓喜の叫びをあげていたところに排除したはずのおじさんが堂々の侵入
冗談はさておき、
どれだけ大人しくまともに、苦しくても耐えながら少しずつ理解を得ようとしても変態にぶち壊されるトランス女性って不遇だよねって話
Permalink |記事への反応(12) | 23:56