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はてなキーワード:一般意志とは

2025-07-20

anond:20250718204346

1.ルソー全体主義の関連は、歴史学定説ではない:

*ジャン=ジャック・ルソーの「一般意志」という概念が、後に全体主義ナチス・ドイツ

ソ連など)に悪用された、あるいはその思想的源流になったという議論は、一部の政治哲学

者(例えばジェイコブ・タルモン)によってなされたことがあります

*しかし、これはあくまで一つの解釈であり、歴史学政治哲学の分野で広く受け入れられて

いる定説ではありません。むしろルソー思想フランス革命近代民主主義の基礎を築

いたと評価されることの方がはるか一般的です。


2.単純化しすぎた論理:

* この記事は、ルソーの複雑な思想の一部(一般意志)だけを取り出し、「個人自由よりも

全体の調和を優先する」→「だから全体主義だ」というように、非常に単純化して結論づけて

ます。これは、彼の思想の他の重要な側面(例えば、直接民主制への志向権力分立の重

要性)を無視した、意図的曲解に近いものです。


3.因果関係の誤り:

*ナチズムスターリニズムといった20世紀全体主義は、当時の特定社会的経済的、政

治的状況(第一次世界大戦後の混乱、経済恐慌ナショナリズムの高揚など)からまれ

ものであり、その原因を18世紀思想家一人に求めるのは、歴史の複雑さを無視した暴論と

言えます


4.提供されたページのコメント欄の反応:

* 私が確認したところ、提供されたページのコメント欄でも、この記事の主張に対して「自己

矛盾の塊」「陰謀論レベル」「雑な議論」といった批判的な意見が多数を占めています。こ

れは、この記事の主張が一般的に見ても受け入れがたいものであることを示唆しています


結論として、この記事は「ルソー全体主義の父」という過激単純化されたレッテル貼りを行っ

ているに過ぎず、学術的な裏付けに乏しい個人的な意見表明です。これを歴史的な事実として受け

取るのは非常に危険です。


歴史上の思想評価する際は、様々な側面から多角的に見ることが重要です。

Permalink |記事への反応(0) | 11:41

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2025-07-19

ルソーはなぜ北朝鮮の祖と言えるのか

どうもルソー=全体主義理屈理解できてない人が多いみたいですけどね

なぜ個人財産身体生命国家に捧げることが「自由」なのか?

そこが理解できていない

なぜかといえばルソー民主主義においては「個人=国家」という理屈

個人国家は完全一致、よって自分自分支配するのであり

他の何者にも支配されていない、よって「自由」だという理屈

そんなバカなとなるのが普通感覚で、そこで曲解が生れる

そんなバカなと思うのは、個人個人の考えは多様で「個人=国家」になるはずがないと考えるから

だがルソーは「一般意志」という考えを導入した

個々人の利害による遺志は「特殊意志」であり、

個人特殊な利害を超えた、共同体全体の利益を追求する意志が「一般意志である

よって、何かの政策に反対であっても、それは「特殊意志」であり、「一般意志」では賛成ということが起こりえるのである

そしてその「特殊意志」は絶対的に正しく、国民はそれに従わなければならないのである

この「絶対的に正しい」とは勘違いしてる人が多いのだが、科学的に正しいとか、その政策は失敗しないとかいった意味ではなく

個人と完全一致するという意味である。よって自分が決めたことに従っているということになる。

ここで肝心なのは民主主義国家においては民主的に決定されたことは反対であっても従わなければならないのは当然だということ。

だが、そもそもルソー一般意志理論では「反対することが理論的にありえない」のである。なぜならそれは「自分意志」だから

そして最大の問題は「特殊意志」と「一般意志」を誰がどうやって見分けるのかといううこと

たとえ権力者善意に基づいていようと、彼が「一般意志」だとしたものが本当にそうだとは限らないのだ

そして大多数にとっては全く望ましくないことが「人民意志」として人民強制されることにもなる

本人は利己心でやってるという自覚が無いから余計たちが悪いとも言える

Permalink |記事への反応(0) | 14:26

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2025-02-27

【DeepSeekR1】『訂正可能性の哲学東浩紀 VS 『万物黎明』グレーバー

プロンプト:

『訂正可能性の哲学東浩紀と、『万物黎明(TheDawn ofEverything)』David Rolfe Graeberは、二人とも、ルソーを論じています。二人のルソー観の相違点や類似点分析してください。

DeepSeekR1:

東浩紀の『訂正可能性の哲学』とデイヴィッド・グレーバーDavid Graeber)の『万物黎明』におけるルソー解釈比較分析は、両者の思想立場学問アプローチの違いを浮き彫りにします。以下、相違点と類似点を整理します。

類似点ルソー批判の出発点

1.近代社会起源への懐疑

両者ともルソー提示した「自然状態」や「社会契約」の物語を、近代社会起源説明する神話として批判的に扱います。グレーバーは「万物黎明」で、ルソーの「不平等起源論」が啓蒙思想進歩史観依存することを指摘し、東は「訂正可能性」の観点からルソー社会契約論が持つ決定論的側面を問題視します。

2.脱構築姿勢

東もグレーバーも、ルソー思想を単なる歴史的テキストではなく、現代社会批判するための「ツール」として再解釈します。ルソーの「自然状態」を文字通りの史実ではなく、現在社会構造を相対化するための比喩として読み直す点に共通性が見られます

相違点:ルソー評価の軸

1.自然状態人間可能

人類学実証主義に基づき、ルソーの「自然状態」を「神話フィクション」と断じます。『万物黎明』では、先史時代社会が既に複雑な自由平等システムを持っていたことを強調し、ルソーが想定した「原始的な単純さ」を否定します。ルソーの「高貴な野蛮人概念は、実際の先住民社会多様性矮小化する「ヨーロッパ中心主義幻想」だと批判します。

ルソーの「自然状態」を、社会の「訂正可能性」を開くための仮構として積極的評価します。ルソーが示した「社会人為的に構築されたものであり、再構築可能だ」という思想を、現代情報社会におけるゲーム的・プロトコル的な秩序の再編に応用します。ここでのルソー解釈は、現実批判よりも「未来設計図」としての側面が強調されます

2.個人共同体関係

ルソーの「一般意志概念を、中央集権的な権力正当化に利用されたと批判します。代わりに、分散型の自治実践した先史社会の事例を提示し、「個人自由集団的合意対立しない」という反ルソー的なモデル提案します。

ルソー社会契約論を、個人欲望社会規範の「ずれ」を前提とする動的システムとして再解釈します。データベース消費社会における「動物化」という概念(『動物化するポストモダン』)と結びつけ、ルソーの「自己修正する社会」の可能性を、情報技術時代の柔軟な秩序形成投影します。

3.歴史観の違い

ルソーの直線的進歩史観自然状態社会堕落契約による再建)を完全に否定し、非線形的で多中心的な人類史復元します。ルソーが想定した「起源」そのもの虚構とみなす点で、根本的な批判を行います

ルソー歴史観を「修正可能性の物語」として部分的継承します。社会が絶えず自己修正を迫られる「未完のプロジェクト」であるという考え方を、ポストモダン社会流動性と結びつけます。ここではルソーは「批判すべき対象」ではなく、「再発明すべき先駆者」として位置付けられます

結論ルソーをめぐる思想対話

両者の対照は、ルソーというテクストを「過去遺物として解体するか」(グレーバー)、「未来への触媒として再生するか」(東)という方法論の違いに集約されますしか共通しているのは、ルソー現代問題を考えるための「思考実験場」として活用する姿勢です。

プロンプト:

これを東浩紀が語っているような文体で直してください。一人称は「ぼく」で。

DeepSeekR1:

(以下、東浩紀文体意識した一人称再構成です)

>> ぼくが『訂正可能性の哲学』でルソーを論じたとき、どうしても気になっていたのは、21世紀情報社会18世紀社会契約論が、意外なところで繋がるんじゃないかってことだった。ルソーって「自然状態」とか「一般意志」とか、けっこうロマンチック概念を振りかざすでしょ? でもね、あれはたんに昔の理想を語ってるんじゃなくて、社会OSが書き換え可能だって気付かせてくれるツールなんだよね。<<

>> グレーバーが『万物黎明』でルソー批判してるのは知ってる。あの人類学的な実証主義もいいんだけど、ぼくの立場ちょっと違う。ルソーの「自然状態」が史実かどうかなんて、どうでもいいんだ。重要なのは、あのフィクションが「いまの社会絶対じゃない」って可能性を開いたことだ。たとえばSNSアルゴリズムだってルソー流に言えば「人為的プロトコル」でしょ? だったらユーザー同士で修正できる余地があるはずだ——そんなふうに考えられるのがルソー面白さだよ。<<

>> グレーバーさんが先史時代自由を強調するのもわかる。でもぼくらが生きてるのは、もう一度グローバルな社会契約を考え直さなきゃいけない時代だ。ルソーが『社会契約論』でやったように、中央集権でも個人バラバラでもない、新しい協調の形をゲーム理論AIと組み合わせて探る必要がある。そのとき自然状態」という仮構は、逆にすごく役に立つんだ。現実に縛られないからこそ、倫理的な実験ができるわけで。<<

>> もちろんルソーには問題もある。たとえば「一般意志」が全体主義に転がりやすいのはその通りだ。でもぼくが『動物化するポストモダン』で言った「データベース消費社会」を見てみ? あそこでは人々の欲望バラバラで、もはや「一般意志」なんて成立しない。でもルソー理論を逆手に取れば、そのバラバラ自体社会の訂正可能性のエンジンにできるかもしれない。つまりルソーは、彼自身が予想してたよりもずっとポストモダン思想家だったんじゃないかって話だ。<<

>> グレーバーさんとの違いをあえて言えば、彼がルソーを「過去神話」として解体するなら、ぼくはルソーを「未来触媒」として使おうとしてる。人類学大事だけど、哲学役割過去の正しさを証明することじゃない。間違ってた思想家ほど、新しい思考を生む資源になる——それが訂正可能性の本質だと思うんだよね。<<

(※東浩紀の実際の文体を完全に再現したものではありませんが、インタビュー調の語り口・「ぼく」の一人称・「ゲーム的」「プロトコル」「データベース」などのキーワード意識した再構成です)

Permalink |記事への反応(0) | 00:39

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2024-10-26

anond:20241026153933

国民主権とはなんなのかについて、単語イメージだけで考える前に、勉強してみたほうがいい。

一般意志がどうとか、「代表」とは何か、とか。

 

あと、立憲民主党障害者対策解像度高いとは思えないんだよな。

今何をやってるか、それを続けられるのか、という事に意識が向いてないという点で。

コンクリートから人へ」はバリアフリー化を遅らせたし、その頃から何も治ってないと思ってる。

Permalink |記事への反応(1) | 22:53

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2024-09-16

AIの呈する「クリエイター集団による一般意志が作られる日も近い

そろそろ奴らはギロチンを作り出す頃

Permalink |記事への反応(0) | 20:11

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2024-08-13

anond:20240813115808

社会契約論は政府社会全体の幸福(一般意志)を追求する政治をしている限りは、国民政府に従うべきであり

もしも政府一般意思に従わない政治をするならばその政府正当性を失い、国民革命権利行使出来るというものであり

人々に一般意志への服従要求するのは体制側で、それを要求できるのも正しい政治が行われている場合に限る。

理性の祭典は従来の宗教神秘主義に代わり科学合理性を重視しようという考え方で「理性」は「一般意志」ではない。

また理性の祭典で行われたキリスト教の祭壇を壊すといった奇行非科学的な権威象徴であるキリスト教否定目的にしたもの一般意思を神にした祭りではない。

Permalink |記事への反応(1) | 18:04

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anond:20240813115808

一般意志意志」とは一体…?

Permalink |記事への反応(2) | 12:25

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リベラル左派が「支持されないのは愚民のせい」とする理由

答え:伝統から

今回の都知事選の結果を受けて、立憲民主党共産党支持者をはじめとしたリベラル左派人達が、「蓮舫落選したのは愚民が悪い」という趣旨発言を繰り返している(典型的な例として[B! 蓮舫] 「都知事選の蓮舫敗北は都民が差別主義者に投票したせい」 蓮舫支持団体の総括は、リベラルが選挙で負け続ける理由を如実に示した)。

こんなの悪手に決まってるのに何故こんな発言を繰り返してしまっているのか、外野からみたら不思議に思うだろ?

何でかってのを義務教育レベルまでの知識で整理しておく。

解説

社会契約説

中学公民とか人権の授業で社会契約説(論)ってやったろ?ホッブズロックルソーってやつだ。

この中で、ロックの考えは主にイギリスに、ルソーの考えは主にフランスと、革命を経て左翼思想に影響を与えてきた。そこでルソー社会契約説確認しておこう。

ルソー社会契約説

多くの個々人には欲望があるよな、金儲けしたいとか異性にモテたいとか。こういった個々人の利己的な欲求を「部分意志」、部分意志の総和を「全体意志」と呼んで、下劣ものとしたんだ。この時点で、個人欲求(=自由経済活動)こそが社会全体の利益に適うとする資本主義とは折り合いが悪い。

更に、公益に適うものとして「一般意志」という概念を作り出した。一般意志ってのは、正しく思考した個々人は必ずこの考えにたどり着くし、人々は個々人の自由権利一般意志移譲し、これに服従すべきと考えられている。

まり

正しい人は一般意志に至り、全ての人は一般意志服従しなければならない。そうでない人は人ではない(人権はない)

というのがルソー社会契約説の考え方となる。

一般意志フランス革命

パリオリンピック開会式のおかげでフランス革命に注目が集まった。そして、その革命の中で大量虐殺が起こっていたことも話題となった。何故虐殺が起こったのか。

フランス革命を主導した人達は、革命こそが一般意志だと考え、それに服従しない人は人ではないと考えていたってのが簡単説明になる。

フランス革命の中では、この一般意志ってのが「理性」という言葉に言い換えられることが多かった。

そして、「理性(=一般意志)」という神を祀るお祭りを行っていた(理性の祭典 - Wikipedia

どうみても奇異なお祭りだが、参加者にとってみれば大真面目で、全ての人はこの考え方(一般意志)に至るべきだし、そうならない人は人ではないと考えていた。

イギリス流の保守主義が「理性」という言葉を激烈に嫌うのもここに理由がある。)

そして、この考え方はヘーゲルを経てマルクスに至り、共産主義に結びついている。

まとめ

①正しく思考すれば私達の考え方(=一般意志)に至る、②私達の考え方に全ての人は従うべきである、③私達の考え方に従えない人は人ではなく、権利を認めるべきではない

ってのはルソーフランス革命以来の伝統芸能

Permalink |記事への反応(20) | 11:58

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2024-08-04

東浩紀伝2

非モテ論壇は、小谷野敦の「もてない男」 (1999年)に始まり本田透に引き継がれるが、ものすごく盛り上がっているというほどでもなかった。本田消息が分からなくなり、小谷野2017年から売れなくなった。ツイッターでは雁琳のような第三波フェミニズムに応対できる論者が主流となっているが、そういうのの影に隠れたかたちであろう。大場博幸「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会的包摂」(2021年教育雑誌 (57)31-43)というレビュー論文がある。ロスジェネ論壇も盛り上がった印象はない。氷河期世代はそれどころではなかったのだろうか。雑誌ロスジェネ」は迷走してしまい、第3号は「エロスジェネ」で、第4号で終刊した。

東のゼロ年代ゼロアカ道場で幕を閉じる。東チルドレンを競わせるという企画であり、ゼロアカとは「アカデミズムゼロになる」という意味らしい(「現代日本批評2001-2016」、講談社、101頁)。彼らは東浩紀しか参照していないので、アカデミズムとしてはゼロなのかもしれない。ここで台頭したのが藤田直哉であり、ザクティ革命と称して、飲み会動画を無編集でアップした。ゲンロンのプロトタイプかもしれない。藤田はwokeしたが、東チルドレンでそちらに行ったのは彼くらいではないか

3 ゲンロン

ニコニコ動画に「動ポノムコウ」(2020)というMADがあるが、ゼロ年代の東は輝いていたものの、震災後は落ちぶれてしまったという史観編集されていた。落ちぶれたかどうかはともかく、震災前後に断絶があることは疑いない。東は移動を躊躇わないところがあり、90年代末に批評空間を離れたように、震災後に自らが立ち上げた動ポモ論壇からも離れてしまう。

ゲンロンの前身である合同会社コンテクチュアズ2010年4月6日創業された。2009年の秋の飲み会アイデアが出たそうである宇野常寛濱野智史、浅子佳英(建築家)、李明喜空間デザイナー)との飲み会であった。「ゲンロン戦記」(2020年)では李はXとされているが、ウィキペディアには実名で出てきている。李はコンテクチュアズ代表就任したものの、使い込みを起こして、2011年1月末日付で解任されている。代わって東が代表就任し、李から使い込んだ金を回収した。ちょうど震災前のことで、震災後だと回収は難しかたかもしれないらしい(「ゲンロン戦記」、42頁)。この頃には、宇野や濱野は去っており、浅子が右腕だったが、その浅子も2012年には退任する。

一般意志2.0」は震災前に雑誌「本」に連載されていた。2009年12月から2011年4月号まで連載されていて、4月号は3月頭に出るものなので、ちょうど震災が起こる直前に終わったことになる。「ゲンロン戦記」には「その原稿2010年代に書かれたのですが、出版震災後の2011年11月になりました」(22頁)とあるが、ゼロ年代に連載が始まっているし、出版されたのも2010年代なので、おかしな文である。「震災前に書かれた」と直すべきところであろう。「一般意志2.0」はゼロ年代パラダイムに属している。デジタル民主主義の本であるが、ちょっとひねって、ニコニコ動画のようなもの民意をくみ上げようというものであるゲンロンもニコニコ動画でやられているので、その所信表明でもあるのであろう。ゼロ年代ゲンロンをつなぐ蝶番的な書物ではあった。

サイバースペース」「情報自由論」は一冊の本として刊行されることはなかったのであるが、「一般意志2.0」は刊行された。すっきりとした構想だったからだろうか。東はネット草創期のアングラさのようなものを後光にして輝いていたのであるが、この本を最後に、アーキテクチャを本格的に論じることを止める。ニコニコ動画2ちゃんねる動画版のようなところがあったが、ツイッターをはじめとするSNSネットの中心が移り、ネットはもはや2ちゃん的ではなくなり、東の想定していたアーキテクチャではなくなってきたのかもしれない。東はツイッターも使いこなしているが、かつてほどの存在感はない。

一般意志2.0」の次の主著は「観光客哲学」(2017年であるが、サブカルチャー批評することで「ひとり勝ち」した東が観光客を論じるのは意外性がある。娘が生まれからアニメゲームに関心を失い、その代わり観光が好きになったとのことで、東の関心の移動を反映しているようである。「観光客哲学 増補版」第2章によると、観光客二次創作するオタクに似ている。二次創作するオタク原作の好きなところだけつまみ食いするように、観光客住民暮らしなどお構いなしに無責任観光地をつまみ食いしていく。このように観光客現実二次創作しているそうである

福島第一原発観光地化計画思想地図β vol.4-2)」(2013年)は、一万部も売れなかったそうである。ふざけていると思われたのだろうか。観光に関心を持っていたところに、福島第一原発事故があり、ダークツーリズム対象にできないかと閃いたのであろう。もともと観光に関心がなければ、なかなか出てこないアイデアではないかと思われる。東によると、ダークツーリズム二次創作への抵抗である(「観光客哲学 増補版」第2章)。それなりの歴史のある土地であっても、しょせんは無名なので、原発事故のような惨事が起こると、そのイメージだけで覆い尽くされることになる(二次創作)。しかし、そういう土地観光に出かけると、普通場所であることが分かり、にもかかわらず起こった突然の惨事について思いをはせる機会にもなるそうである二次創作への抵抗)。

社会学者開沼博福島第一原発観光地化計画に参加して、前掲書に寄稿しているのにもかかわらず、これに抗議した。東と開沼は毎日新聞ウェブ版で往復書簡を交わしているが、開沼の主張は「福島イコール原発事故イメージを強化する試みはやめろ」というものであった(「観光客哲学 増補版」第2章)。原発事故を語りにくくすることで忘却を促すというのが政府戦略のようであるが、これは成功した。開沼は2021年東京大学大学院情報学環准教授就任している。原発事故への応答としては、佐藤嘉幸・田口卓臣脱原発哲学」(2016年)もあるが、こちらはほとんど読まれなかった。ジュディス・バトラー佐藤博論(「権力抵抗」)の審査委員の一人であり、佐藤バトラーに近い(竹村和子亡き後、バトラー著作邦訳を担っている)。「脱原発哲学」にもそれっぽい論法が出てくるのが、こちらは功を奏しなかった。資本主義と真っ向から対立するような場面では効かないのだろう。ちなみに佐藤博論には東も登場しており、バトラーも東の名前は知っているものと思われる。

観光客哲学」はネグリハート帝国」を下敷きにしているが、そこでのマルチチュードは、共通性がなくても集まればいいという発想で集められているものであり、否定神学であるとして、郵便マルチチュードとしての観光客対置する。東は原発事故後の市民運動に対して否定的であり、SEALDsなどを毛嫌いしていた。第二次安倍政権は次々と「戦後レジーム」を否定する法案を提出しており、それに対抗する市民運動は盛り上がっていたが、負け続けていた。しかし、Me too運動が始まってからというものリベラルマイノリティ運動に乗り換え、勝ち続けるようになる。「観光客哲学」は市民運動が負け続ける状況に応答しているが、「訂正可能性の哲学」(2023年)はマイノリティ運動が勝ち続ける状況に応答している。小熊英二こたつぬこ木下ちがや)はSEALDsの同伴者であったが、マイノリティ運動に与した共産党には批判である。小熊の「1968」(2009年)は絓秀実革命的なあまり革命的な」(2003年)のマイノリティ運動に対する評価をひっくり返したものなので、こういう対応は分からなくはない。東も「革あ革」を評価していない。「絓さんの本は、ぼくにはよくわからなかった。六八年の革命は失敗ではなく成功だというのだけれど、その理由が明確に示されないまま細かい話が続いていく。どうして六八年革命成功していることになるのか」(「現代日本批評2001-2016」、講談社、71頁)。論旨そのものは分かりやすい本なので、かなりの無理解であろう。

東はアベノミクスには何も言っていない。政治には入れ込んでいるが、経済は分からないので口を出さないという姿勢である経済について分かっていないのに口を出そうとしてリフレ派に行ってしまった人は多い。宮﨑哲弥が典型であろうが、北田もそうであるブレイディみかこ松尾匡と「そろそろ左派は<経済>を語ろう――レフト3.0の政治経済学」(2018年)という対談本を出している。リベラルが負け続けているのは、文化左翼路線だけでは大衆に支持されることはなく、経済についても考える必要があるという主張であるが、リベラルマイノリティ運動で勝ちだしてからはこういうことは言わなくなった。北田2023年から刊行されている「岩波講座社会学」の編集委員代表を務めている。

観光客哲学」の次の主著は「訂正可能性の哲学であるこちらも郵便本の続編といっていいのであろうが、そこに出てきた訂正可能性(コレクタビリティ)という概念がフィーチャーされている。政治的な正しさ(ポリティカル・コレクトネス)を奉じている者がそうしているように、理想を固定したものとして考えるのではなく、誤りをコレクトするという姿勢大事であるということらしい。駄洒落のようであると言われることもある。森脇によると、東は状況に合わせてありきたりの概念意味を変えるという「再発明」の戦略を採っているが、この「再発明」の戦略を言い換えたものが訂正可能なのだという(森脇「東浩紀批評アクティヴィズムについて」)。そうだとすると、訂正可能性は郵便本では脇役であったが、これが四半世紀後に主役になることには必然性があったということであろうか。

こうして現在2024年7月)まで辿りついたのであるが、東は多くの人と関係を断ってきたため、周りに人がいなくなっている。東も自身気質自覚している。「ぼくはいつも自分で始めた仕事自分で壊してしまう。親しい友人も自罰的に切ってしまう。「自己解体境界侵犯欲望」が制御できなくなってしまう。だからぼくには五年以上付き合っている友人がいない。本当にいないのだ」(東浩紀桜坂洋キャラクターズ」、2008年、73頁)。一人称小説の語り手の言葉であるものの、現実の東と遠からものと見ていいであろう。ここからは東の決裂を振り返る。

宇野常寛は東を批判して「ゼロ年代の想像力」(2008年)でデビューしたのであるが、東に接近してきた。ゲンロンは宇野のような東に近い若手論客結集する場として企画されたそうである。東によると、宇野を切ったのは、映画「AZM48」の権利宇野要求してきたかららしい。「東浩紀氏の告白・・・AZM48をめぐるトラブルの裏側」というtogetterに東のツイートが集められている。2011年3月10日から11日を跨ぐ時間帯に投稿されたものであり、まさに震災直前である。「AZM48」は「コンテクチュアズ友の会」の会報「しそちず!」に宇野が連載した小説である映画原作なのだろう)が、宇野ウィキペディアには書かれていない(2024年7月27日閲覧)。円堂都司昭は「ゼロ年代論点」(2011年)の終章で「AZM48」を論じようと企画していたが、止めておいたそうである。「ゼロ年代批評をふり返った本の終章なのだから2010年代を多少なりとも展望してみましょうというパートなわけだ。批評家たちのホモパロディを熱く語ってどうする。そこに未来はあるのか?」(「『ゼロ年代論点』に書かなかった幻の「AZM48」論」)。

濱野智史は「アーキテクチャ生態系」(2008年)でデビューしているが、アーキテクチャ論こそ「「ゼロ年代批評」の可能性の中心」(森脇、前掲論文)であった。東の右腕的存在だったこともあり、「ised情報社会倫理設計」を東と共編している。濱野は東と決裂したというより、壊れてしまった。その頃、AKB48などのアイドル流行りつつあり、宇野は、東をレイプファンタジーなどと批判していたのにもかかわらず、アイドル評論を始めたのであるが、濱野もそちらに付いていってしまった。「前田敦子はキリストを超えた宗教としてのAKB48」(2012年)を刊行する。これだけならよかったものの、アーキテクチャ論を実践すべく、2014年アイドルグループPlatonics Idol Platform (PIP)をプロデュースするも大失敗してしまい、精神を病んでしまった。行方が分からなくなっていたが、「『豪の部屋』濱野智史社会学者)が経験したアイドルプロデュース真相」(2022年)に出演して、東に「ぐうパワハラされた」ことを明かした。

千葉雅也の博論本「動きすぎてはいけない」(2013年)には、浅田彰東浩紀が帯を書いていて、「構造と力」や「存在論的、郵便的」を承継する構えを見せていた。郵便本をきちんと咀嚼した希な例ということらしい。東がイベント千葉ゲイであることをアウティングしたのであるが、その場では千葉は黙っていたものの、「怒っている。」などとツイートする(2019年3月7日、「男性性に疲れた東浩紀何をいまさらと怒る千葉雅也」)。これに反応して、東は「千葉との本は出さないことにした。仕事も二度としない。彼は僕の人生全否定した」などと生放送で二時間ほど怒涛の千葉批判を行った。こうして縁が切れたわけであるが、千葉くらいは残しておいても良かったのではないかと思われる。國分は数年に一度ゲンロンに登壇するようであるが、このくらいの関係でないと続かないということだろうか。

大澤聡も切ったらしいのであるが、「東浩紀突発#110 大澤聡さんが5年ぶりにキタ!」(2023年10月16日)で再会している。どうして切ったのかはもはやよく分からないが、それほどの遺恨はなかったのだろう。

福嶋亮大は向こうから去って行ったらしい。鼎談現代日本批評」の第1回、第2回に参加しながら、第3回に参加することを拒んだらしい。東も理由はよく分からないようである。珍しいケースといえよう。

津田大介とは「あずまんのつだっち大好き・2018年猛暑の巻」(2018年8月17日)というイベントが開催されるほど仲が良かった。津田2017年7月17日にアイチトリエンナーレ2019の芸術監督就任し、東は2017年10月企画アドバイザー就任する。しかし、企画展「表現不自由展・その後」に政治的圧力が加えられ、2019年8月14日、東は企画アドバイザーを辞任する。この辞任はリベラルから顰蹙を買い、東はますますリベラル嫌いになっていく。批評家は大衆に寄り添わざるを得ないので、こういう判断もあり得るのだろうか。

東は2018年12月18日にツイッターゲンロン解散を発表するが、上田洋子らに説得されて、

Permalink |記事への反応(4) | 17:48

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東浩紀

東浩紀の伝記を書く。ゼロ年代に二十代を過ごした私たちにとって、東浩紀特別存在であった。これは今の若い人には分からいであろう。経験していないとネット草創期の興奮はおそらく分からいかである。たしかにその頃は就職状況が悪かったのであるが、それはまた別にインターネットは楽しかったのであり、インターネットが全てを変えていくだろうという夢があった。ゼロ年代代表する人物を3人挙げるとすれば、東浩紀堀江貴文ホリエモン)、西村博之ひろゆき)ということになりそうであるが、彼らはネット草創期に大暴れした面々である。今の若い人たちはデジタルネイティブであり、それこそ赤ちゃんの頃からスマホを触っているそうであるが、我々の小さい頃にはスマホはおろか携帯電話すらなかったのであるファミコンはあったが。今の若い人たちにはネットがない状況など想像もできないだろう。

私は東浩紀の主著は読んでいるものの、書いたもの網羅的に読んでいるというほどではなく、酔っ払い配信ほとんど見ていない。しかし、2ちゃんねる(5ちゃんねる)の東浩紀スレ古参ではあり、ゴシップ的なことはよく知っているつもりである。そういう立場から彼の伝記を書いていきたいと思う。

1 批評空間

東浩紀は71年5月9日まれである。「動ポモ」でも援用されている見田宗介時代区分だと、虚構時代のちょうど入り口で生を享けたことになる。國分功一郎は74年、千葉雅也は78年生まれである。國分とはたった3歳しか離れていないが、東が早々にデビューしたために、彼らとはもっと年が離れていると錯覚してしまう。

東は中流家庭に生まれたらしい。三鷹市から横浜市引っ越した。東には妹がおり、医療従事者らしい(医者ではない)。父親金沢出身で、金沢二水高校を出ているそうである(【政治番組東浩紀×津田大介×夏野剛×三浦瑠麗が「内閣改造」について大盛り上がり!「今の左翼新左翼左翼よりバカ!」【真実幻想と】)。

東は日能研でさっそく頭角を現す。模試で全国一桁にいきなり入った(らしい)。特別栄冠を得た(らしい)。これに比べたら、大学予備校模試でどうとかいうのは、どうでもいいことであろう。

筑駒筑波大学附属駒場中学校)に進学する。筑駒在学中の特筆すべきエピソードとしては、おニャン子クラブ高井麻巳子福井県実家訪問したことであろうか。秋元康結婚したのは高井であり、東の目の高さが分かるであろう。また、東は中学生時代うる星やつらファンクラブを立ち上げたが、舐められるのがイヤで年を誤魔化していたところ、それを言い出せずに逃げ出したらしい(5ちゃんねる、東浩紀スレ722の555)。

もう一つエピソードがあって、昭和天皇が死んだときに、記帳に訪れたらしい。

東は東大文一に入学する。文三ではないことに注意されたい。そこで柄谷行人の講演を聞きに行って何か質問をしたところ、後で会おうと言われ、「批評空間」に弱冠21歳でデビューする。「ソルジェニーツィン試論」(1993年4月であるソルジェニーツィンなどよく読んでいたなと思うが、新潮文庫ノーベル賞作家を潰していくという読書計画だったらしい。また、残虐記のようなのがけっこう好きで、よく読んでいたというのもある。三里塚闘争についても関心があったようだ。「ハンスが殺されたことが悲劇なのではない。むしろハンスでも誰でもよかったこと、つまりハンスが殺されなかったかも知れないことこそが悲劇なのだ」(「存在論的、郵便的」)という問題意識で書かれている。ルーマン用語でいえば、偶発性(別様であり得ること)の問題であろうか。

東は、教養課程では、佐藤誠三郎ゼミ所属していた。佐藤村上泰亮公文俊平とともに「文明としてのイエ社会」(1979年)を出している。共著者のうち公文俊平だけは現在2024年7月)も存命であるが、ゼロ年代に東は公文グロコムで同僚となる。「文明としてのイエ社会」は「思想地図」第1号で言及されており、浩瀚な本なので本当に読んだのだろうかと思ったものであるが、佐藤ゼミ所属していたこから学部時代に読んだのだろう。

東は94年3月東京大学教養学部教養学科科学史科学哲学分科を卒業し、同4月東京大学大学総合文化研究科超域文化科学専攻に進学する。修士論文バフチンで書いたらしい。博士論文ではデリダを扱っている。批評空間に94年から97年にかけて連載したものをまとめたものである私たち世代は三読くらいしたものである博論本「存在論的、郵便的」は98年に出た。浅田彰が「東浩紀との出会いは新鮮な驚きだった。(・・・)その驚きとともに私は『構造と力』がとうとう完全に過去のものとなったことを認めたのである」という帯文を書いていた。

郵便本の内容はウィキペディアの要約が分かりやすく、ツイッター清水高志が褒めていた。「25年後の東浩紀」(2024年)という本が出て、この本の第3部に、森脇透青と小川歩人による90ページにわたる要約が付いている。森脇は東の後継者と一部で目されている。

東の若いころの友達阿部和重がいる。阿部ゲンロンの当初からの会員だったらしい。妻の川上未映子は「ゲンロン15」(2023年)に「春に思っていたこと」というエッセイ寄稿している。川上早稲田文学市川真人によって見出されたらしく、市川渡辺直己の直弟子である市川鼎談現代日本批評」にも参加している。

東は、翻訳家小鷹信光の娘で、作家ほしおさなえ1964年まれ)と結婚した。7歳年上である不倫だったらしい。98年2月には同棲していたとウィキペディアには書かれていたのであるが、いつのまにか98年に学生結婚と書かれていた。辻田真佐憲によるインタビュー東浩紀批評家が中小企業経営するということ」アップリンク問題はなぜ起きたか」(2020年)で「それは結婚の年でもあります」と言っており、そこが根拠かもしれないが、明示されているわけではない。

そして娘の汐音ちゃん生まれる。汐音ちゃん2005年6月6日まれであるウィキペディアには午後1時半ごろと、生まれ時間まで書かれている。名前クラナドの「汐」と胎児聴診器心音ちゃんから取ったらしい。ツイッターアイコンに汐音ちゃん写真を使っていたものの、フェミに叩かれ、自分写真に代えた。汐音ちゃんは「よいこのための吾妻ひでお」 (2012年)のカバーを飾っている。「日本科学未来館世界の終わりのものがたり」展に潜入 "The End ofthe World - 73 Questions We MustAnswer"」(2012年6月9日)では7歳になったばかりの汐音ちゃんが見られる。

96年、コロンビア大学大学入試に、柄谷の推薦状があったのにもかかわらず落ちている。フラタニティ的な評価によるものではないかと、どこかで東は推測していた。入試について東はこう言っている。「入試残酷なのは、それが受験生合格不合格に振り分けるからなのではない。ほんとうに残酷なのは、それが、数年にわたって、受験生家族に対し「おまえの未来合格不合格かどちらかだ」と単純な対立を押しつけてくることにあるのだ」(「選択肢無限である」、「ゆるく考える」所収)。いかにも東らしい発想といえよう。

2 ゼロ年代

東の次の主著は「動物化するポストモダン」で、これは2001年刊行される。98年から01年という3年の間に、急旋回を遂げたことになる。「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」はその間の論考である

東はエヴァに嵌っており、「庵野秀明はいかにして八〇年代日本アニメを終わらせたか」(1996年)などのエヴァ論も書いている。その頃に書いたエッセイは「郵便不安たち」(1999年)に収められた。エヴァ本をデビュー作にすることも考えたらしいが、浅田彰に止められたらしい。だからサブカル本を出すというのは、最初から頭の中にあったのだろう。

「いま批評場所はどこにあるのか」(批評空間第Ⅱ期第21号、1999年3月)というシンポジウムを経て、東は批評空間と決裂するが、それについて25年後に次のように総括している。「ぼくが考える哲学が『批評空間』にはないと思ってしまった。でも感情的には移転があるから、「お前はバカだ」と非難されるような状態にならないと関係が切れない」(「25年後の東浩紀」、224-5頁)。

動ポモ10万部くらい売れたらしいが、まさに時代を切り拓く書物であった。10万部というのは大した部数ではないようにも思われるかもしれないが、ここから動ポモ論壇」が立ち上がったのであり、観客の数としては10万もいれば十分なのであろう。動ポモフェミニストには評判が悪いようである北村紗衣も東のことが嫌いらしい。動ポモ英訳されている(Otaku:Japan's Database Animals, Univ Of Minnesota Press. 2009)。「一般意志2.0」「観光客哲学」も英訳されているが、アマゾンのglobal ratingsの数は動ポモが60、「一般意志2.0」が4つ、「観光客哲学」が3つと動ポモが圧倒的である2024年8月3日閲覧)。動ポモ海外論文でもよく引用されているらしい。

次の主著であるゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2」までは6年空き、2007年に出た。この間、東は「情報自由論」も書いていたが、監視否定する立場から肯定する立場へと、途中で考えが変わったこともあり、単著としては出さず、「サイバースペース」と抱き合わせで、同じく2007年に発売される(「情報環境論集―東浩紀コレクションS」)。「サイバースペース」は「東浩紀アーカイブス2」(2011年)として文庫化されるが、「情報自由論」はここでしか読めない。「サイバースペース」と「情報自由論」はどちらも評価が高く、この頃の東は多作であった。

この頃は北田暁大と仲が良かった。北田は東と同じく1971年まれである。東と北田は、2008年から2010年にかけて「思想地図」を共編でNHK出版から出すが、3号あたりで方針が合わなくなり、5号で終わる。北田は「思想地図β」1号(2010年)の鼎談には出てきたものの、今はもう交流はないようである北田はかつてツイッターで活発に活動していたが、今はやっていない。ユミソンという人(本名らしい)からセクハラ告発されたこともあるが、不発に終わったようである結婚して子供もできて幸せらしい。

その頃は2ちゃんねるネットの中心であったが、北田は「嗤う日本の「ナショナリズム」」(2006年)で2ちゃん俎上に載せている。北田は「広告都市東京」(2002年)で「つながりの社会性」という概念を出していたが、コミュニケーションの中身よりも、コミュニケーション接続していくことに意味があるというような事態を表していた。この概念を応用し、2ちゃんでは際どいことが言われているが、それはネタなので心配しなくていいというようなことが書かれていた。2ちゃん分析古典ではある。

東は宮台真司大澤真幸とも付き合っているが、彼らは北田のように鋭くゼロ年代を観察したというわけではなく、先行文献の著者である。宮台は98年にフィールドワークを止めてからは、研究者というよりは評論家になってしまった。大澤は日本ジジェクと称されるが、何を論じても同じなのもジジェクと同様である動ポモは彼らの議論を整理して更新しているのであるが、動ポモも「ゲーム的リアリズムの誕生」も、実際に下敷きになっているのは大塚英志であろう。

宮台や大澤や北田はいずれもルーマンであるが、ルーマンっぽいことを言っているだけという印象で、東とルーマンも似ているところもあるというくらいだろう。しかし、ルーマン研究者馬場靖雄2021年逝去)は批評空間に連載されていた頃から存在論的、郵便的」に注目しており、早くも論文正義門前」(1996)で言及していた。最初期の言及ではないだろうか。主著「ルーマン社会理論」(2001)には東は出てこないが、主著と同年刊の編著「反=理論のアクチュアリティー」(2001)所収の「二つの批評、二つの社会」」ではルーマンと東が並べて論じられている。

佐々木敦ニッポン思想」(2009年)によると、ゼロ年代思想は東の「ひとり勝ち」であった。額縁批評などと揶揄される佐々木ではあるが、堅実にまとまっている。類書としては、仲正昌樹「集中講義日本現代思想ポストモダンとは何だったのか」 (2006)や本上まもる「 “ポストモダンとは何だったのか―1983‐2007」 (2007)があったが、仲正は今でも読まれているようである。本上は忘れられているのではないか。この手の本はこれ以後出ていない。需要がないのだろうか。

佐々木の「ひとり勝ち」判定であるが、そもそもゼロ年代思想土俵を作ったのは動ポモであり、そこで東が勝つというのは当たり前のことであった。いわゆる東チルドレンは東の手のひらで踊っていただけなのかもしれない。懐かしい人たちではある。

北田によると、東の「情報技術公共性をめぐる近年の議論」は、「批評が、社会科学的な知――局所から全体を推測する手続きを重視する言説群――を媒介せずに、技術工学的知と直結した形で存在する可能性の模索である」(「社会批評Introduction」、「思想地図vol.5」、81-2頁)ということであるが、ゼロ年代の東はこういう道を歩んでいた。キットラーに似ており、東チルドレンでは濱野智史がこの道を歩んだのであるが、東チルドレンが全てそうだったわけでもなく、社会学でサブカルを語るというような緩い営みに終始していた。宇野常寛などはまさにこれであろう。

佐々木ニッポン思想」と同じ2009年7月に、毛利嘉孝ストリート思想」が出ている。文化左翼歴史をたどっているのであるが、この頃はまだ大人しかった。ポスコロ・カルスタなどと揶揄されていた。しかし、テン年代佐々木命名から勢いが増していき、今や大学メディア大企業裁判所を押さえるに至っている。しかし、ゼロ年代において、動ポモ論壇と比較できるのは、非モテ論壇やロスジェネ論壇であろう。

非モテ論壇は、小谷野敦の「もてない男」 (1999年)に始まり本田透に引き継がれるが、ものすごく盛り上がっているというほどでもなかった。本田消息が分からなくなり、小谷野2017年から売れなくなった。ツイッターでは雁琳のような第三波フェミニズムに応対できる論者が主流となっているが、そういうのの影に隠れたかたちであろう。大場博幸「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会包摂」(2021年教育Permalink |記事への反応(13) | 17:44

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2023-12-16

anond:20231215212543

Permalink |記事への反応(0) | 11:03

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2021-09-20

anond:20210919195238

一般意志」と「特殊意志」やね。

全体主義につながるってことは大昔から指摘されてるんやで。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%88%AC%E6%84%8F%E5%BF%97

Permalink |記事への反応(0) | 02:55

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2021-09-16

anond:20210916144513

リベラリズム自体がどういう境遇に生まれるかわからない状況でどういう社会が良いか選択するとしたら下の方の境遇に生まれ場合保障がある社会を選ぶだろうっていう発想に基づいてるからしゃーないやろ。

一般意志に基づいてガチャを引いてんだよ。

Permalink |記事への反応(1) | 22:11

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2021-01-12

嫌儲民馬鹿のためにトランプの垢バン解説

8名前番組の途中ですがアフィサイトへの転載禁止です (ワッチョイ ff01-1cJe)[]投稿日:2021/01/12(火)11:01:15.63ID:e9gt8cx+0 [1/15]

バカのために言っておくけど

国家管理すべきと考えるEUの考えと

国家管理すべきではない市場に委ねるべきというアメリカの考えの対立

ちなみにEUのほうが削除などに積極的

704名前番組の途中ですがアフィサイトへの転載禁止です (ワッチョイ 7fae-YVFe)[]投稿日:2021/01/12(火)12:59:43.92ID:xADvWr1u0 [2/2]

>>8の補足説明するわ

 

基本的には反差別には二つの型がある

 

というか「国の形」「一般意志代弁者」「自治の形」

には二つがある

 

まず、ネトウヨ場合には「差別は悪であり、世の中から無くさないといけない」という

仮定思想にたってくれ。仮定でいいから。5分間だけな。

そんでは本題に入るわ

 

国で自由平等博愛を国是にするフランスなんかは

「国が差別を禁じないといけない」「なぜなら、人民正義を国は執行する義務があるから

人民一般意思を国が護るのが民主主義」これね

 

この場合には、国が法律国民差別言動を禁じるわけだ。

そうなるとフランス型なら、法律ではトランプ煽動表現を禁じたり、ナチス礼賛を禁じるわけだ

今や日本はこのスタンスに近い。

昔は違って自主規制だけで対処してたんだけど、在特会問題ネトウヨ問題で、人権救済の制度を作らないといけなくなったからね。

 

 

一方、アメリカ

差別は悪い事で禁じないといけないけど、禁じるのは当然、俺らが自分たちですべきだ」

「国ではなく、俺たちが俺たちの正義一般意志執行すんだよ」

「当たり前だろ。主役は俺たち。それが民主主義自由の国だ」

 

てことね

 

アメリカ場合は具体的には

「民で対処をする」

まり

「あ、こいつ差別主義者だわ」「俺らの共同体組合団体から追放するわ。だって俺らの自由だし、それが俺らの価値観だし」

「私の所有するアパートに、差別主義者なんか、住んでてほしくないわ!2週間以内に出ていって!」

とかの権利があるわけ

そうやってレイシストNBAから追放されたり、大学企業から追放できるわけ

 

そうなると、アメリカ型なら

トランプ表現アメリカtwiiter社は赦しません」になるし

許せば、凄まじい、消費者団体市民団体が本気の圧力twitter社にかけるわけ

 

 

まぁ日本にもフランスにも、アメリカにもトランプは居場所はないよ。

 

で、今回は

意見表明の自由制限する行為は「法に基づくべきだ」とドイツメルケル首相

を見ればわかる通りに、EUフランス型ってことね。

EU公聴会アメリカに先駆けてtwitter社やyoutube車を何度も呼び出してる。規制圧力としてね。

 

アメリカ公聴会は寧ろ「規制するな」て呼び出しが多い

https://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1610416726/

Permalink |記事への反応(0) | 13:26

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2020-06-19

anond:20200619011448

選んだら終わりじゃなくて、選ばれた側がSNSなどを参考に民意を気にしながらたえず微修正していく新しい政治の形を東浩紀は『一般意志2.0』で提唱したが、その後に現れたのはTwitter政治をするトランプ大統領だった。

Permalink |記事への反応(0) | 01:22

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2020-02-10

anond:20200210122526

民主主義のもとで管理すればいいんだから、「民主主義的な資本主義(なにそれ?)」と管理は、別に矛盾し合う関係じゃあないだろ。

民主主義ってのは、多人数がバラバラに動く状態のことじゃあない。民衆意思の集合である一個の一般意志が、統治を行う仕組みのことだ。今はまだ人類バカからそれが出来てないだけ。

 

資本主義消費社会ってのは、利益の増大のために動くんであって、管理したほうが利益大きかったら当然のように管理するわ。

 

たぶん自由主義民主主義資本主義をごっちゃにしていると思う。

俺は"自由主義の行き過ぎ"が結局のところ問題なんだと思うね。特に、また増田のような、福祉重視の視点から話すなら。

といっても、自由主義全否定するとナチスだの北朝鮮だのいうことになるから、どこで線を引くのかが難しいんだが。

Permalink |記事への反応(2) | 13:44

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2019-11-05

anond:20191105154109

横だが、別に憲法だって国民意思のもの(=一般意志だよな?)」なんかじゃあないだろ。

つーか、一般意志のものなんてないよ。

選挙とか立法プロセスがそれの近似を求める手段なのであって。

Permalink |記事への反応(1) | 15:48

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2017-07-23

https://anond.hatelabo.jp/20170723064204

申し訳ないけどそちらの言う「公害問題と同じ」とか「この問題本質」ってのは正直言ってよくわからない

ニホンウナギ絶滅漁業資源の枯渇は公害問題のように地方僻地に住まう少数市民犠牲だけで成り立つものではないし、それ以前に漁業資源保護議論日本一国だけで行われるものではなく、クロマグロ保全のためのWCPFCのように国際規模で行われてるもので、「公害問題と同じ」ってのは見方として乱暴すぎでは

消費者消費者立場意思を表明すること自体はかまわないし、まったく結構なことだと思うけど、「悪は**で我々は被害者である」みたいに話を矮小化するのは議論を反って混乱させるだけでしょ

ましてや最後

被害者が立ち上がらなかったら、営利を優先する企業は行動を改めませんし、政府も本気で規制に動きません。

そういう歴史のある国に生まれたことを自覚してください。

なんてのはまったく見当違いで、そもそもあらゆる国家元首権力者は常に市民を虐げてきたし、そうした圧力者に対応しうる力として市民たちによる一般意志機能しなかったことなんてないから。

市民市民立場で主張すべきことを主張すればいい。ただ、そこに劇画的な善悪加害者被害者関係性は必要ない

Permalink |記事への反応(0) | 16:43

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2016-12-16

不本意非正規なら全額支給するべき

ポンコツブクマカ責任がないから少なくて当然とか生産性が低いとか寝ぼけたこと抜かしてるが、一般意志尊重するなら対正社員100%支給するべきなのは明白。そもそも新卒なんて生産性ゼロなのにボーナス出て、1年目で有給ついてる理由わからん。こいつらの利益圧縮非正規転嫁させてる理由身分制度以外になにかあるのだろうか。意思に反して正社員になれなかった者に対して上から目線のよくわからない忠告をした者、無責任物言いをした者に対しては、逮捕して施設労働について学びなおしてもらったほうがいいのではないか

Permalink |記事への反応(0) | 23:41

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2014-04-13

http://anond.hatelabo.jp/20140412234913

>いやいや、でも司法制度予算配分民意代弁者たる代議士選挙の結果で左右されるわけですから、やはり民意最上位にいると思いますよ。

大枠ではそういう理解でいいのですが「民意最上位」と言ってしまうとやはり正確性に欠けるのです。

どこが不正確かというと「民意代弁者たる代議士」という部分が実はずれています


少々ややこしい話ですが「代議士国民代表者であっても、代弁者であることを求められていない」というのが代議制民主主義基本的立場なのです。

日本国の法制度は(一部直接民主制的な要素も取り入れつつ)基本は代議制民主主義に依っていますので、「民意のもの」ではなく「民意を受けた話し合いの結果」が最上位の意志決定者なのです。


一見どうでもいい違いに見えますが、これは代議制民主主義という思想の根幹の部分です。

実際にどう違いが出てくるかというと、例えば国会議員選挙公約した意見国会で話しあった結果変えたとしたら、もし「民意が最優先」であれば、その議員罷免されるべき、というのが論理的帰結ですが、法制度はそうなっていません。これはそもそも「代議制民主主義思想」が「民意のもの」ではなく「一般意志」を重視する思想からです。

直接民主主義思想であれば「民意最上位」という言い方もありえるのですが、代議制民主主義思想は違います。代議制民主主義における議会等の機関は「全市民が集まるのが無理だから」等の技術的な問題による民意のやむを得ない代替物ではなく、「民意のものより、民意を元にした話し合いの結果の方がより一般意志に近い」というイデオロギーにより設けられていますある意味非常に西欧的な「話し合いという理性への信頼」「衆愚への懸念」が根底にあるわけです。

Permalink |記事への反応(1) | 00:21

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2012-02-13

一般意志2.0のまとめ

Permalink |記事への反応(0) | 01:46

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