
はてなキーワード:一義的とは
より正確にいえば、社会規範を軽視した主義主張を、さも当然かのように述べて、争いに発展している人がとにかく多いとは思いませんか。
もちろん、法律もその構成要素であることに違いはありませんが、私たちが行動を決めるときに参照する要素は他にもあると思いませんか。
たとえば、条理、道徳、慣習、正義などがこれに該当すると思いますし、国によればここに神意といった宗教的要素も入ってくるでしょう。
これらは往々にして多義的で、その本質は社会条件に依存して可変する変数のようなものです。
一義的な結論を導き出せないからこそ、規範として提示することは筋が悪いという指摘はまさにその通りです。
だからこそ社会規範としては法律を参照すべきで、法律に違反していなければ一応の正当性があると考えることは、一見すると聞こえがよいでしょう。
このような論理に依拠するような言論がリアル・インターネットを問わずに飛び交っていますが、私はあまり妥当とは思えません。
法律には、ある社会の中で規範として実質的に機能するもの、すなわち、条理や慣習と呼べるものが、長い年月をかけて、時として判例などを経て立法に繋がるという一面があるでしょう。
(法律家からはお叱りを受けそうな雑な説明だと思いますが、お目溢し願いたいです)
法律は条理や慣習の具体化の一類型であり、その源泉は道徳や正義だといえるのではないでしょうか。
無論、正義には悪しき慣習を否定し、断絶するための機能も内包されているというべきです。
このような立法の背景を見ていくと、法律の外側にある事柄も無視することができないことがおわかりいただけるはずです。
ただし、このような「広義の法」とでも呼ぶべき規範は万能ではありません。
特に、成立の初期段階において多義的であることが、広義の法の弱点といえるでしょう。
個々人が直感的におかしいと思っただけで、直ちに規範として機能するかといえば、そうとはいえないからです。
この弱点をもって広義の法は軽視されがちですが、中には社会的に反復支持され、制裁可能性を伴う非制定規範と位置づけることが可能な規範もあるでしょう。
これらをひとまとめにして「法律に違反していない」と一蹴してしまうことに、争いの本質があると私は考えます。
このように考えることで、昨今話題となっている様々な問題にも説明がつくはずです。
行き過ぎた個人主義とでも言うべき言論は、広義の法と間で摩擦を生じさせているのです。
言うまでもありませんが、個人の主義主張や権利は保障されるべきです。
ただし、それを「当然に」とまで踏み込んで考えることが問題なのです。
誰とも接点を持たない完全な個人として生きていくならば、どのような主義主張をしても構わないでしょう。
しかし、現実論として、私たちは他者と関わり合いながら社会生活を営んでいかなければなりません。
社会生活のために自己を犠牲にするのかという批判が聞こえてきそうですが、そうではなく、「折り合いをつけて生きていく」ことが必要なのです。
社会と調和して生きていこうとするからこそ、社会から個人として尊重されるというべきです。
個人が社会から尊重されることを当然のものと考えることには、論理の飛躍があると私は考えます。
このように述べると、貴様は日本国憲法を読んだことがないのかとお叱りを受けるかもしれません。
たしかに、我が国の憲法は自由や権利の保障、個人の尊重をそれなりに肯定しています。
憲法や憲法の委任を受けた法律で保障されていることを、当然のものと考えないことは筋が悪いかもしれません。
しかし、私はそれでも当然のものと考えるべきではないと強く思います。
なぜならば、憲法ですら「当然に」この世に存在しているわけではないからです。
どちらかといえば、自由や権利の保障、個人の尊重といった概念を持たない社会が継続していた期間の方が、人類史上では長かったことを私たちは忘れがちです。
自由や権利が守られる社会は、決して自然発生的なものではなく、偉大な先人の犠牲の上に成り立つ脆弱なものといわねばなりません。
(補足すると、自然権的に、当然に認められるべき権利もあるといえますが、その保護には憲法のような実定法を要するというべきであり、実際上当然に保護されるものとはいえないと考えます)
ですから、私たち一人ひとりがこれを守ろうとしなければ、いとも簡単に失われてしまいます。
これは決して憲法や法律に限ったことではなく、広義の法を含んだ社会規範全般に言えることではないでしょうか。
社会をリスペクトすることで、個人もまた社会からリスペクトされるのです。
私たちは自らの主義主張を社会に発信するとき、社会規範を通じて共感性を獲得し、もって社会から個人として尊重されることを目指さなければならないのではないでしょうか。
言い換えれば、自己の利益を最大化したいのであれば、逆説的に社会全体と調和を図るべきだと思うのです。
様々な意見を活発に交わすことが可能となった現代で、私たちはこのような視点をもって社会と向き合わなければならないのではないでしょうか。
言葉を文字通りに受け止める
例えば、相手が失敗をしたときに使う「えらいことをした」という言葉があります。これは、大変なことをしてしまったと、相手の行動を皮肉る言葉ですが、自閉スペクトラム症の人は、「えらい」の文字どおりに自分を褒めた言葉だと受け取ることがあります。
このように言葉を字義どおりに受け取る背景には、相手の語調や表情、態度、非言語コミュニケーションを読み取る力の弱さがあります。そのため相手が言葉に込めた意図や言葉の裏側にある意味を汲み取ることができずに、誤解してしまうことがあります。
また、「結構です」という言葉は、承諾するときの意味でも、拒否するときの意味でも使います。自閉スペクトラム症の人は、このような多様な意味を持つ言葉の理解が一義的になりがちです。そのため自分が知らない意味で使われると、会話が混乱します。また、言葉に独自の意味や定義を持たせることがありますが、これも他者と話が通じにくくなる一因となります。
https://syougaisya-koyou.com/asd-characteristic-difficulty-1145/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E4%B8%BB%E7%BE%A9
アジア主義の内容は開国文明化(逆に反欧化)、協同、合邦、新秩序構築など、論者の思想的立場によって異なり一義的な定義はなく、対象地域も東アジア・東南アジアにとどまらず、中東までに及ぶものがある。また、国際情勢の変化に伴って主張内容が変化する。
要するに、欧米列強の侵出に対抗するべくアジア諸国は連帯し対抗しよう!みたいな思想とのこと。
仮にこの思想に強く感化されているのだとしたら、岡田や石破を始めとするいわゆる媚中派とされる人たちの言動には納得のいく部分が多い。
彼らの脳内では「欧米に対抗するためには一刻も早く日中が手を取り合わなければならないのに、高市政権はそれが全く分かっていない」という使命感というか焦燥感というか、そういうものが渦巻いているんじゃないだろうか。
「『二つの悪は二つの正義を作らない(Two wrongsdon’tmaketwo rights.)』とでもいうべき原理が重要です。チョムスキーの主張はその逆。『どちらも悪いのだから互いに相手を責められない』という理屈は、一見誠実ですが、どちらの悪も許してしまっている。つまり、自己批判の倫理的根拠をも掘り崩しているのです。『米国よ、ロシアを裁く資格があるのか』という主張は結局、強国が他国を抑圧するという悪を容認しあう『悪のなれ合い』です」
「ハマスの民間人虐殺に憤るイスラエル国民の間では、自軍によるガザ住民虐殺を当然の報いと見る者も多い。自国の戦争犯罪が敵のそれで帳消しにされるという論理は、それぞれの悪を相乗的に積み重ねることを合理化する危険な詭弁です」
「この倒錯的な『二悪が二正を作る』論は、実は我々人間が陥りやすい落とし穴です。とりわけ戦争責任論をめぐる議論に、この自己正当化欲求が典型的に表れています」
――いわゆる「勝者の裁き」批判ですね。
「そうです。第2次大戦後のニュルンベルク裁判や東京裁判に対して、ドイツや日本からいまだに上がり続けています。これは、『何人も自己の事件の裁判官たりえず』という法原理に反する、という手続き的欠陥の指摘というよりも、『連合国の国々も植民地支配や侵略を行ってきたし、原爆や無差別爆撃という戦争犯罪も犯したのに、なぜ我々だけ断罪されなければならないのか』という実体的な不満です。敗戦国の私たちに強い心理的訴求力を持つ言説ですが、極めて自壊的です」
「裁く側の二重基準を、裁かれる側が批判するのは正しい。ただ、『お前らが裁かれないなら我々も許される』という二悪二正論に開き直る者は、公正な裁きが依拠する政治道徳原理の規範性を否定しているのです。『勝者の正義』の欺瞞(ぎまん)を真に正そうとするなら、この原理を尊重し自らの悪を認めたうえで、相手を裁き返さなければならないのです」
「弱き者は強き者が作る秩序に従え、という『力の論理』に迎合するシニシズムをこれ以上、広げないためには、ウクライナ戦争もガザ戦争も、正義が回復されるかたちで終結させなければなりません」
――力の支配ではなく、法の支配によって実現すべき「正義」とは、いったい何でしょう。
「その前に、法とは何か、そして法は正義とどう絡むのか、考えてみましょう。すなわち『悪法も法なのか』という問題です。これをめぐっては、法実証主義と自然法論の伝統的な対立があります。前者では、法を実定法に限定し、正義とは切り離します。そのため、それぞれの社会の価値観に基づく法が制定され、調停不能に陥って『文明の衝突』を招きかねません。一方で後者は、客観的正義たる自然法に反するものは法ではない、と主張します。こちらはこちらで、無政府主義を呼び込みかねません」
「私はどちらでもなく、『法は正義への企てである』と規定します。法は正義を真摯(しんし)に追求している限りにおいて法たり得る、という立場です。その意味では国際法も、世界正義への企てだと捉えます」
「それでは『正義』とは何でしょうか。一口に正義といっても、それを全体利益の最大化と見なす功利主義や、個人の自由や権利を絶対視するリバタリアニズムなど、その具体的基準に関し、様々な思想が対立競合しています。ただ、これらはすべて『正義の諸構想(conceptions ofjustice)』です。様々な立場が競合できるのは、それらに通底する共通制約原理があるから。それが『正義概念(the concept ofjustice)』です」
「私が考える正義概念の規範は、『普遍化が不可能な差別は禁止する』です。分かりやすく言えば、『得するのが自分だからいい』『損するのが他者だからいい』という要求や行動を排除せよ、ということです。この規範は『自分の行動や要求が、他者と視点や立場を反転させても正当化できるかどうか吟味しなさい』という、反転可能性テストも要請します」
「この正義概念は、何が最善の正義構想かを一義的に特定はしませんが、およそ正義構想の名に値しないものを排除する消極的制約原理として強い規範的な統制力をもちます。それは『正義のレース』の優勝者を決める判定基準ではなく、このレースへの参加資格をテストするものです」
「他者の負担にただ乗りするフリーライダーや、ご都合主義的なダブルスタンダードは、この厳しいテストが課すハードルを越えられません。外国人に正当な権利を保障せずに労働力を搾取する。民主主義や人権を掲げてイラクに侵攻しながら、専制的首長国家のクウェートやサウジアラビアとは友好関係を維持する。ハマスの戦争責任は問うのに、イスラエルの蛮行は座視する――これらは明確に正義概念に反しています」
「自らの正義構想に照らして正当性(rightness)がないと見なす政治的決定でも、共通の正義概念に照らして公正な政治的競争のルールに従ってなされたのなら、正統性(legitimacy)あるものとして尊重しなければならない。このルールを保障するのが『法の支配』です。立憲主義とは、この『法の支配』の理念を、成文憲法のなかに具現化するものです」
「正義の諸構想が国内社会以上に鋭く分裂し対立する国際社会においても、『正義概念』の共通原理に基づいて、安全保障体制や法秩序が築かれる必要があります。例えば、人道的介入をうたいながら大国の友好国か敵対国かによって選別的に武力行使を発動するのでは、正統性を調達することはできないのです」
「米国はバイデン政権時代、イスラエルの戦争犯罪を追及する国際刑事裁判所(ICC)がネタニヤフ首相らへの逮捕状を発行したことを強く非難しました。一方で、ロシアが報復措置まで取ったプーチン大統領への逮捕状は正当とし、自らはICCに加盟していないにもかかわらず、各国に逮捕への協力を求めました。このあからさまな二重基準は、誰の戦争犯罪であれ厳正に裁くというICCに託された国際法の使命をおとしめるものです」
されど国連 夢の断片を回収し修復を
――世界正義を貫徹し、実現するには、どのような具体的措置が必要ですか。
「世界では今、欧州連合(EU)のような『超国家体』や、巨大多国籍企業や国際NGOなどの『脱国家体』の存在感が増しています。しかしどちらも、民主性や説明責任の欠如といった欠陥を抱えている。私は、やはり主権国家を中心にしたシステムを再評価すべきだと考えます」
「国内で至上の権力をもつ危険物である主権国家は、個人の人権を保障するという責任を果たすことによってのみ承認され、存在し得ます。世界は『諸国家のムラ』であり、その基本原理は、国力格差にかかわらず平等に扱う『主権対等原則』です。もちろん、これは一つの虚構です。しかし虚構だからこそ、巨大な力の格差という現実を補正し、大国の横暴に抗する規範として意義を持ちます。このムラでは、どの国も他の国に依存せずには生き残れない。国際法というおきてを破った国は、この互酬性ネットワークから村八分の制裁が科されるからです」
「国連は現在、様々な欠点があるとはいえ、国際的正統性を調達し、諸国家や超国家体、脱国家体などが連携し調整を図る上で、最も広範な包含力を持ちます。もちろん、戦勝国支配の残滓(ざんし)である常任理事国の拒否権を制約するなど、安保理改革は必須です。そのための国連憲章改正にも、5大国は拒否権を行使できます。でもそれは結局、自分たちの国際的威信を低下させ、軍事力・経済力以上に重要な正統性調達力というソフトパワーを毀損(きそん)することになる。他の国々が団結して非難の声を上げれば、国際的圧力に耐え続けることは難しいはずです」
「先ほど私は『国連の夢は破れた』と言いました。人類が自らに加えた殺戮(さつりく)と迫害の罪業はあまりに巨大で、それを克服する試みは20世紀中に達成できなかった。21世紀の四半世紀が過ぎても、克服できていません。しかし、夢は消えたわけではない。破れた夢の断片を再回収し、修復し、より強靱(きょうじん)なものに再編する――その地道な努力を続けなければなりません。私たちに、他に選択肢はないのです」
井上達夫さん
いのうえ・たつお 1954年生まれ。95年から2020年まで東京大学大学院法学政治学研究科教授を務め、現在は東京大学名誉教授。「法という企て」「現代の貧困」「世界正義論」「立憲主義という企て」「普遍の再生」「規範と法命題」「ウクライナ戦争と向き合う」「悪が勝つのか?」など著書多数。
近年では多くの地方自治体の財政が悪化し殆どの公共施設の維持費が足りなくなっている
ここらへんは社会保障費が莫大に膨れ上がった結果としてまともな行政を運営する収支が破綻したからだが
自国建て通貨を発行できる国家は国債を発行しても破綻しない理論なわけだが
地方自治体に通貨発行権はないし、債権によってデフォルトは起こり得るため債権だよりの財政はできずに財政規律が求められる
そのため、現在進行系で地方自治体の公共施設や道路、上下水道、教育、役所などはどんどん予算を削られている
一方で国政では過去の安倍政権をはじめとして今の高市や国民の玉木や参政党など国債を発行して経済を立て直そうとする流れが支持され始めている
この場合、地方自治体は税収が増えにくい割にインフレによって行政の維持費ばかりが増えていき破綻が目に見えてくる
また国全体でインフレすれば当然地方行政も高い質が求められるが、それに応えられるだけの収入がMMT理論からは地方にはもたらされない
地方自治体の財政はそのインフレを乗り切るだけのシステムがなにも用意されていない
セルフID(Self-Identification)は、個人が自らの性自認を唯一の根拠として法的・社会的性別を決めるべきだとする立場です。この考え方では、出生時に割り当てられた「男/女」というカテゴリーは、絶対的な規範ではなく、あくまで後から修正可能なラベルに過ぎないとされます。
セルフID思想の根底には、「生物学的特徴(染色体、ホルモン、外性器など)が個人の性別を一義的に決めるわけではない」という認識があります。
性別は解剖学的・染色体的に分類できるものではなく、インターセックスやホルモン変化などグラデーションが存在する。
したがって、性別を「男/女の二択」ではなく「連続体(スペクトラム)」として捉えることが合理的だとされる。
この思想においては、「本人の自認が最も重要な決定因」となります。すなわち、身体的な差異は参考程度であり、最終的には自己申告が性別を決める根拠とされます。
「トランス女性は女性」という命題は、この前提に基づき、身体的性別ではなく自認を女性カテゴリーに含める根拠とする。
したがって、生物学的性別を前提とし、それと文化的に異なる服装を好むというヒルシュフェルトのトランスベスタイト(異性装)概念とは、根本的に異なるものとなっています。
はいはい、確かにコロナ禍で世界中が財政出動してマネーサプライは増えたけど、それがそのままインフレにつながった国とそうでない国がある時点で、「マネーサプライ=物価高の最大原因」論はもう通用しないのよ。
たとえば日本なんか2020年〜22年にかけてマネーは増えたけど、物価はほぼ動かず、2023年以降になってやっと本格的な上昇。じゃあ何が引き金だったかって言うと、エネルギー価格の高騰+円安+輸入インフレの影響がでかいんだわ。
しかも歳出とマネーサプライの関係も一義的じゃない。「財政出動した=即インフレ」ってんなら、アメリカや欧州はもっと早期から超高インフレになってる。現実には需要側だけでなく、供給側ショック(ウクライナ戦争や原油高)も重なって物価に火がついたというのが通説やで。
「ビジネスにおける最適化を政治に持ち込んだら全体主義になる」という命題は、一見極端に思えるかもしれませんが、そこには深い政治哲学的な警鐘が含まれています。この考えを説明するには、まず「ビジネスにおける最適化」と「政治の本質」との違いを明らかにし、そのうえでそれらの混同がもたらす危険性について論じる必要があります。
ビジネスでは「最適化(Optimization)」とは、利益、効率、コスト削減、成長など、特定の明確な目標を最大限達成するために、あらゆる資源(人材・資金・時間)を合理的に配置・運用することを指します。重要なのは、その目標があらかじめ一義的に定まっているという点です。
例:コストを10%削減する/納期を最短化する/市場シェアを最大化する
このプロセスでは、非効率な要素や目的に合致しない要素は「排除」「整理」「統合」される対象になります。
政治とは、社会に生きる多様な人々の価値観の違いを調整し、妥協点を探る営みです。そこでは「何が善か」「どんな社会が望ましいか」といった問いに対し、一義的な正解は存在せず、むしろ対立や多様性を前提とします。
政治の役割は、異なる価値をもつ人々のあいだで合意形成を図ることであり、目的は常に流動的で再定義され続けるものです。
ビジネスのように、「一つの目的に向かって効率化を図る」というロジックを政治にそのまま適用すると、以下のような事態が起こります。
「社会の効率」「国益」「成長」という目標を最上位に据えると、それに反する価値観(少数者の権利、文化的多様性、倫理的懸念など)は「非効率」と見なされ、排除や抑圧の対象になります。
● ②計画と統制の強化
効率を最大化するには、個々の行動を「標準化」「数値化」「統制」する必要が出てきます。結果として、行政や企業が人間の生活に細かく介入するようになり、自由の余地が失われていきます。
「最適解」が一つであるという前提に立つと、それに反対する意見は「非合理」「邪魔」とされ、反対意見の正統性が認められなくなる。こうして言論の自由や民主的討議の場が痩せ細っていきます。
20世紀の技術官僚主義(テクノクラシー)や、近年の中国に見られる「社会信用スコア制度」などは、まさにビジネス的最適化ロジックを国家運営に適用した結果といえます。AIによる市民管理、効率に基づく法運用、スコア化された市民評価などは、統制の名の下で自由と多様性を奪っていきます。
政治にとって重要なのは、「あえて最適化しない」空間、つまり多様性・対立・対話を許容する余地を保つことです。ビジネスの論理は明確な目標を達成するには有効ですが、それをそのまま政治に転用すると、社会を一つの価値観に従属させる全体主義の温床になります。
陰謀論を排すために自らの言説を正しいと信じすぎることこそが、陰謀論的構造と同型である。
この時代に私たちが持つべき姿勢は、「己の正しさを常に疑い続けること」だ。
ジャーナリストの江川紹子氏は、SNSやインターネット上に蔓延する陰謀論やフェイク情報に対し、強い警鐘を鳴らしている。
「それらを放置することは社会にとって重大な危険をもたらす」として、教育の強化、SNSプラットフォームでの情報管理、マスメディアの信頼再構築といった対策を提言している。
この主張の背景には、彼女自身がオウム真理教事件などで実際に“カルトによる洗脳”の危険性を取材してきた経験がある。
ゆえに、陰謀論とカルト的構造の共通点(善悪の単純化、敵の想定、情報の囲い込み)を熟知しているという前提がある。
しかし一方で、彼女の言動自体が「政治的な偏向を含んでいる」と受け取られることも少なくない。
たとえば、故・安倍晋三元首相への強い非難は、陰謀論者からの攻撃と構造的に似ている面もあり、
「陰謀論を批判する者が、自らの偏向に無自覚なとき、批判対象と同じ構造を持ち得る」という指摘は無視できない。
加えて、「教育」や「管理強化」といった方策も、裏返せば「情報統制」や「思想誘導」として機能する恐れがある。
教育は時に“正しい考え方”を押しつけ、SNSの“管理”は選別の網を誰かが握ることになる。
これを“規制ではない”とする根拠もまた、運用者の「正しさ」への盲信に依存している。
江川氏の問題提起には重要な視点が含まれているが、情報の「正しさ」は一義的に決められるものではない。
私たちに求められるのは、自分自身の「正しさ」もまた検証の対象とし続けること。
陰謀論の拡散と同様に、それを否定する言説もまた、絶対視された瞬間に危うさを孕む。
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正論のような顔して流れ出す陰謀論 江川紹子さん「放置はまずい」:朝日新聞
https://www.asahi.com/articles/AST4Q349BT4QUCVL00RM.html
『正論のような顔して流れ出す陰謀論 江川紹子さん「放置はまずい」:朝日新聞』へのコメント
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/AST4Q349BT4QUCVL00RM.html
自分の推しは作中において大勢の人を虐殺したキャラクターなんだけど
観た人からそこを責められるのは仕方がないと思っている
だけど推しの人格を矮小化されて、本当はそんなのどうでも良かっただの本当に求めていたのは特定の相手との恋愛だけだのと決め付けられるのは我慢ならない
やり方は間違っていたにせよ、推しが人類全体の事を考えていたのは事実にしか思えないのに、そこを矮小化されて単純な構図に貶められるのが本当に苦痛。
そんな単純な話じゃないだろうに。
追い詰められた時に出るのは追い詰められた時の姿であって、そのキャラの全てではないと思うんだよね。それをもってそのキャラの全てだと判断されるのはとてもとても嫌だ。
大義に生きた推しの生き様を全否定して、一般的な幸福を提示され、そうすれば良かったと小さくまとめようとされるのも嫌だ。
そういうチャンスはいくらでもあったのに、敢えてそういう生き方から背を向けたキャラなんじゃないのか。
自分だけ幸せでもそれだけじゃあ意味がないと考えたのが特徴じゃないのか。
まあ、個人の解釈としてそう主張するならまだ分かるよ?解釈は人それぞれだし?だけどそういう前置きすら無しに、こいつは本当はこんな人間なんだぜと、こうしていれば良かったと一義的に決め付けてくる界隈なので本当に不快。
あと、訳が分かんないのは無辜の民を虐殺した事ではなく、名有りのメインキャラに対する態度ばかりを叩かれる事。え?そこってそんなに重要な点なの?別にそんな重要じゃなくない?っていう。
名有りのキャラとそれ以外とで命の重さに差を付けてるんだろうか
そのキャラクター自身もそういう選民思想を持っているならまだしも、明らかにそういうキャラではなく、一般人にも気を遣っていたので納得いかない
本稿は、13歳になった君にこれからの人生を生きる上での考え方の土台や心の支えとなる思考的枠組みを網羅的に記したものである。
観念的でメタな内容が多く具体的なことについてはあまり書いていないが、それは君の人生の選択肢を狭めないためである。
具体的なことについてはその時々に応じて人に教わったり、自分で文献に当たったりしながら方策を模索して欲しい。
もちろんお父さんも協力は惜しまない。
人生を過ごすとは「何か」を成し遂げることである。まずは「目標」を持つこと。目標があれば「何をすべきか」=「手段や道筋」は自然と定まる。
歴史上、偉人と呼ばれる人々は皆、高い理想と大きな目標を抱き、それを目指して全力で努力をした。目標は、その時点で可能な限り高く大きく設定すること。最初は、例えば「貧困をなくす」「世界平和を実現する」「地球温暖化を防ぐ」「子どもたちを笑顔にする」などの抽象的なもの、漠然としたもの、夢のような目標で良い。後から変わっても構わない。というより、人生において目標はどんどん上書きされるものだからである。
ポイントは、まず「自分が想像する理想の未来=目標=ビジョン」を思い描き、そこからそのための「手段=ミッション」を考えることである。(これを上から下への思考法という)
「ビジョン」は感覚的、直感的、創造的なものなので右脳で捉えるものと言える。一方で「ミッション」は、抽象的でぼんやりとしたビジョンを具現化するための方法を、左脳を使って計算や分析、論理的思考で精緻に組み立てていくものである。
多くの人は与えられた「手段」から始めてしまう。とりあえず言われたから「勉強」する。とにかく「お金」が必要だから働く。なんとなく環境に悪そうだから「ビニール袋」を使うのをやめてみる。などである。勉強も、お金も、ビニール袋をやめることもすべて「手段」であり、それ自体が「目標」ではない。
「電気自動車があれば地球環境が良くなるかも?」ではなく、「地球温暖化を止める、そのためには何をすべきか?」という問い(イシュー)から入る習慣を身につけること。これはすべての課題解決のための基本的な姿勢である。
そのためには、視野を広く大きく持たなければならない。物質(モノ)、出来事(コト)、人間(ヒト)などはすべて、「多面的」、「俯瞰的(ふかんてき)」、「時間的」にとらえるクセを付けること。その裏側や側面はどうなっているのか、他のモノやヒトとの関係は? 昔はどうだったのか、10年後にはどうなっているだろうか? 世の中の多くの物事は複雑で、いろんなものと影響し合っており、時間とともに変化する。一義的、一面的、一時的な見方で正しい評価はできないと常に肝に銘じること。
受験や就職、大きな買い物、仕事、恋愛、結婚など人生の重要な決断をする時は、一歩引いて、客観的に、様々な立場や状況からモノ・コト・ヒトをとらえ、十分に考えること。
その際、ひとつ注意すべきなのは人間の物理的感覚、時間的感覚、記憶はとにかくあいまいでいい加減なものだということである。『10cm』は自分が思ったより短かく、『10分間』は長い。その逆もある。人の『過去の記憶』は都合よく修正される。正しい判断のためには科学的、客観的な「根拠」に立脚することが求められる。日記をつける、ちょっとしたメモを残す、時間や度量衡(どりょうこう)は道具を使って正確に測る、何かを分析する際は統計やデータに当たるなど、簡単なクセをつけるだけで結果は大きく変わる。
先に述べたように、目標は変化してもいい。というよりも変化すべきである。13歳の時にしか見えない、感じられないことがある一方、20歳になれば見えてくることも、40歳、60歳でしかできないこともたくさんある。重要なのはいつも目標を設定し前進し続ける、上を目指すという「姿勢」である。
人生は長い。5〜6歳で天才的な才能を発揮する子どもも、20代、30代で活躍するスポーツ選手も、70歳で功績が認められる科学者もいる。良いことだけではない。人生のどこでどんな不幸やトラブルに見舞われるかは予測できない。人生には浮き沈み、山も谷もある。どんな天才にも挫折はある。災害や戦争など自分では回避、制御できないことも起きる。
『良いことばかりは続かない』という覚悟は必要だ。しかし『悪いことばかり起こるわけでもない』。現状を悲観してばかりではダメだし、現状が順調であってもそれに安穏(あんのん)としていてはならない。常にトラブルに備えつつ、そして決して希望は捨てないこと。
おそらく、君の人生はお父さんやお母さんが生きてきたそれより厳しい時代を生きることになる。しかし、目標を一段高いところに置けば、現状に迷い悩んだ時にもぶれることはない。未来を信じて、希望を持って進むことができる。
「成功」への最大の近道は「人間関係(人脈)」だと断言できる。「実力」でも「運」でも「お金」でもなく「人脈」である。いい学校に行く、いい会社に勤めるのもすべていい人に出会うためであると言って良い。
成功の最大の秘訣は「人脈=人の縁」であり、人と人が出会って起きる化学反応が「奇跡」を起こす。
重要なのは、奇跡を自分で起こすことはできないが、奇跡が起きる「確率」を上げることはできるということである。単純な話、「機会」が増えれば「確率」は上がる。サイコロで六の目を出すのに一回振るのと六回振るのとではどちらの可能性が高いかは考えるまでもない。
人との良いつながりを広げるための小さな可能性を積み上げることがチャンスを引き寄せる。良い人には出向いてでも会いに行くこと。無駄かもしれないと思うような「小さな機会」を大切にすること。
『人は環境によって作られる』これは絶対的な真理である。高尚で、得るものが多く、社会的に正しい環境や居場所に自らを置くよう意識して行動しなさい。善良な人間と付き合えば善良になるし、朱に交われば赤くなる。学校には「校風」、会社には「社風」がある。
自身が意図しないこと、コントロールできないことで大きく運命が変わることもある。それを完璧に防ぐことは難しいが、「確率を下げることはできる」。
気をつけなければならないのは、「人としての善悪」は頭の良さや肩書や金持ちかどうかとは関係がないという点である。会社の社長にも教師にも医者にも政治家にも科学者にも宗教家にも、悪人や変人はいる。それを見抜く眼力は、多くの人間を実際に見ることで養われる。つまり「機会」が重要だ。おそらく君が想像する以上に人間は「多様」である。良い方にも悪い方にも突き抜けたとんでもない人間が存在するという現実は認識しておいた方が良い。
出会う人間を自ら選ぶことは難しいが、付き合う「距離感」は自分でコントロールできる。付き合う人や、身を置く場所や環境は自分で決められる。できるだけ「良い環境」で時間を過ごし、おかしな場所、コミュニティには近づかないこと。
たった一滴の赤いインクが落ちてピンク色に染まった水を元に戻すことはできない。大切なのは自分のコップにインクを落とさないように気をつけることだ。
「エントロピー増大の法則(熱力学の第二法則)」というものがある。エントロピーとは「無秩序さの度合い」を示す尺度である。放っておくとエントロピーはどんどん増大し元に戻らなくなる。これは物理空間の森羅万象すべてに当てはまる普遍の法則とされる。水に拡散したインクが自然に水とインクに分離されることは絶対にない。トランプをシャッフルするのは容易だが、偶然きれいにカードが揃うなどということはまず起こり得ない。机の上や部屋はどんどん散らかるが、自動的に整理されることはない。社会的な混乱の広がりもエントロピーの増大である。エントロピーの増大を制御し「秩序」を保つためには人の意志と行動と力が必要である。
人と人との関係も同様で、意識して制御する必要がある。良い人と出会うことが良い環境への扉を開く鍵であり、良い環境に身を置くことがより良い人に出会う条件である。この好循環を自ら意識して作り出すこと。
井の中の蛙は池を知らず、池の小ブナは大海を知らない。大海原や大空に出て様々な出会いを経験することは君を大きく成長させる。
もう一度言う。『人は環境によって作られる』
お金がある事は必ずしも人を幸せにしないが、お金がない事は確実に人を不幸にする。そういう意味でお金は重要である。
その日その日の生活がやっとという状態では先のことが考えられなくなり目標を見失なう。そうするとどんどん人生の選択肢が狭まっていく悪循環に陥る。
金はどん欲に稼ぐ必要がある。ただし「正しい心」は忘れずに。
お金を稼ぐときには、ギャンブルや宝くじのような一攫千金は「まず起こり得ない」と肝に銘じること。0%ではないがあまりにも期待値=確率が低く、選択肢に含めて物事を考えるには無理がある。確率論に基づいて冷静に考えれば理解できることである。一攫千金を前提に物事の計画を立ててはいけない。
怪しげな儲け話も同様である。誰かから「うまい話」を持ちかけられた時は、それは「あなたのことを思って」の話ではなく、相手が「自分のために考えた」話だと受け止めること。うまい話の裏には必ず別の悪い話、ヤバい話、落とし穴がある。
確かに「成功し、大金を手にした」という人は世の中に多数存在する。だがそれはほとんどの場合「塵(チリ)が積もって山になった『結果』」である。着実に金を稼ぐには「塵のような稼ぎをどん欲にかき集める」ことが必要だ。1円、10円のような「塵のような稼ぎ」を生み出すことはそれほど難しくはない。ただしそれを「どん欲にかき集める」ためには知恵と努力が必要になる。
『100万円の商品を1個売る』より、『100円の商品を1万個売る』方がビジネスとしては堅実である。100万円の商品が1個売れなかったらそこで終わりだが、100円の商品が9,999個しか売れなくてもあまり影響はない。『100円の商品を1万個売る』より『100万円を一発で当てる』ことの方が何倍も難しいが、多くの人はそれを逆に考えてしまう。『一発当てる』ためには運が必要で不確実性が極めて高い。しかし「塵をかき集める」ことは自分の努力でなんとかなるということを理解すること。
近い将来、君は世の中に無数にある仕事や事業の中から何かを選んで生活の糧を得ることになる。何をすべきか迷ったら「人からの感謝」を対価として得る仕事を選ぶと良い。
野菜が欲しいと思っている人に野菜を作ってあげることは素晴らしいことである。困っている人を助けてあげれば感謝されるだろう。スポーツや芸術で人々に感動を与えることも意義のある仕事だ。それが「世の中の役に立つということ」である。『いい世の中』はそうやってできている。
しかし、投資やギャンブルで稼いでも誰からも感謝されることはない。つまりそれらは「仕事」にはならない。ギャンブルは論外としても、投資は今の時代には資産形成のために必要(そういう仕組みが前提の社会になってしまっている)なので否定はしないが、少なくとも「生業(なりわい)」にすべき仕事ではないことは知っておいて欲しい。
人間の欲求には際限がない。1万円あれば1万円使うし、1億円あれば1億円使いたくなるのが人間である。これは抑えることが難しいし、無理に抑えこむと精神的にも疲弊しQOL(Quality ofLife、生活の質)が低下する。
この課題に対する古来よりの解決策はただひとつ。収入から「天引き」することである。給料であれ何らかの収益であれ、収入があったらその10~25%くらいをすぐに使えないような形で貯蓄に回しておく。
「天引き」が蓄財のための最も効果的な方法であることは、ユダヤ人もイスラムもメソポタミア文明も華僑も日本の本多静六という人物(明治の造園家であり東大教授)も提唱している「お金を貯めるための基本中の基本」である。(逆説的だが、租税公課や組織に必要な費用の類はだいたい給料から天引きされる。その理由をよく考えるべきである)
人間は9000円しかなければ9000円しか使わないし、1万円あれば1万円使ってしまう。その理由は消費社会の仕組みがそうなっているからだ。時計には1000円から1000万円以上するものまである。自動車も同じ。毎日飲むお茶、毎日使う紙にもいくつもの価格が設定されているように、世の中のありとあらゆるものには価格の上中下(日本では松竹梅)が存在する。お金があるからといってその分高いものを買っていると際限がなくなる。この欲求はお金がある限り続く。それが人間の本質なので努力や気合いで抑制するのは難しいし、何より楽しくない。だから「欲求」を抑え込むのではなく、「お金」の方を制限しなければならない。
そのために最も有効な方法が「天引き」である。人間は9000円しかなければその内でやりくりをするのである。それで困ることはほとんどない。資本主義とはよくできたもので、モノ・コトの価格には上には上があるように下には下もあるからである。
「天引き」のための具体的な方法は色々ある。最も簡単な方法は「定期預金」や「財形貯蓄」を銀行に申し込んでおくことである。今の時代なら「(安定した)投資信託」も選択肢に入るだろう。初任給をもらうと同時に始めることを勧める。
次に、天引きした後のお金で「やりくり」をするための基本的な「生活の知恵」を記しておく。
高額のものを買う時は、その価格に「本質的な価値」があるかどうかを見極めること。
高級車も普通車も、飛行機のエコノミークラスもビジネスクラスも、「移動する」ための時間は変わらない。どんな時計も「時刻を知る」という性能はほとんど同じである。どんなカバンでも「物を運ぶ」という役割は変わらない。もちろん機能以外に別の価値(デザインなど)を認めることは人間が文化的な営みを行うために必要なことだが、消費社会においては高価な価格の価値の大部分は「欲望」=「欲しいと思う気持ち」を揺さぶるために人為的に生み出されたものだ。
その価格差は、機能や性能によって生じているものなのか? 人間の心理的な欲望を巧みに刺激するために付けられたものなのか。物を買うときは「本来の機能=目的」を基準にして価値を判断するとぶれない。
基本的に日常生活品を買うときは「今ある物を使い切ってから買う」こと。流通が高度に発展した現代日本においては(災害などの例外的な事象は別にして)無くなってから買っても不自由することはない。
経営学における重要な概念として、「在庫」と「廃棄」には「維持」と「損失」という大きなコストがかかっているという考え方がある。物は「置いておくだけ」でお金がかかっているという感覚を徹底して身につけることが重要である。
特売だからとか念のためにとかいう理由で安易に「在庫」を増やしてはいけない。「無くなってから買う」が原則である。1日程度のブランク(空白)が生じたとしても、ほとんどの場合なんとかなる。文房具も、食料品も、日用品も、服も、本も、ゲームも、前のものを使い切り、無くなってから次のものを買う。これで無駄遣いは随分と減るはずだ。(繰り返すが非常時への備えは別である)
それからこれは私の経験則だが、衝動的に「欲しい!」と思ったけど買うかどうか迷ったものは、1週間〜一か月程度我慢してみる。ほとんどのものは熱が冷めたように関心がなくなる。ただし「売る側」もしたたかで、「期間限定」や「数量限定」といった手法でこちらに考える隙を与えない。冷静な判断のためには、やはり「それをいつ、どこで、どのくらい使うか」という「在庫管理」を常に正確に行うことが肝要だ。
あらゆる在庫を管理するためには「整理整頓」が重要である。身の回りのものは整理整頓に努め、いつでも数量や状態を把握できるようにしておくこと。
整理整頓には各分野に体系化された「技法」がある(代表的なものとして図書館の本の分類法である日本十進分類法(NDC)や日本工業規格(JIS)、ISO、公文書管理規則、生物の分類と同定法、見える化など)。早いうちに機会を作り、習得しておくことを勧める。
ちなみに、このような「一生使える知識や技能」は習得が早ければ早いほど人生において得られる利益が大きくなる。大人になってから「こんな便利なもの、方法、知識があるとは知らなかった」と後悔することは多い。
金銭出納帳を付けることも重要である。帳簿をつけない企業、組織など存在しないことを考えれば、出納管理は必須のPermalink |記事への反応(0) | 21:00
画像生成AI、最初から金稼ぎのために悪用するつもりの奴はどうでもいいが、ただ仕様が分かっていないせいで無駄なトラブルに巻き込まれてる一般人をよく見る
潜在空間の概念、モデルトレーニングの流れ、ファインチューン、マージ、LoRA、ベクトル操作くらいは勉強してから使ってほしい
わたしは特定絵師に寄せてないよ!と言っても、使ってるモデルがチューニングに特定絵師のデータばかり使ってたり、絵師LoRAがマージされてて特定の絵柄が標準で生成されるようになってるモデルを使っていると、ユーザーが寄せようとしなくても寄る
イラスト用のモデルがなぜイラスト風の画像以外を上手く生成できなくなるか?つまりなぜ実写が苦手になるのか、それはイラストで頭をいっぱいにされているからだよ
あと、スタイル指定に使われる「by 〇〇」とか「〇〇 Style」みたいな言葉は、所詮他のプロンプトと同様に「複数の概念が内包された言葉」でしかないので、組み合わせ次第では特定の画風に寄ることもあるわけだ
例えば「Vector Style」という言葉が「solidcolor,sharp edges,clean edges, minimalist,transparentbackground, high contrast」といった要素を持つ場合
「solidcolor,sharp edges,clean edges」というプロンプトを使うとVector Styleに近づく
要は、ある言葉が直接そこに結びつき、絵柄指定と同じ効果をもたらすということ
さらに、この現象の極端なケースとして「教師データが特定絵師の作品ばかりに偏ったオブジェクトは、オブジェクトそのものと絵師の絵柄が結びついてしまう」問題もあったりする
そのオブジェクトAと絵師Xの概念が非常に近いために、オブジェクトAを生成すると絵師Xの絵柄で生成されることがある
AといえばX!状態というわけだな
逆に、絵師Xの名前と同じ単語が入っていると、なぜかAが生成される、ということもある
これはいわゆるバイアスで、一般的な例を出すと、黒人がアフロで生成されやすかったり、白人が金髪になりがちだったり、特定の職業人を生成すると性別が偏るのと同じで主に学習データの偏りに起因する
謎のサインが生成されるのも「イラストや絵画には大体はこんな感じのがある」と学習した結果だ
黒人とアフロの例では、それぞれの概念が結びついていて、黒人はチリチリというバイアスがあるので黒人+ロングヘアー=チリチリロングになったりするし、ドレッドヘアーになることもある
白人+アフロ=浅黒アフロになる事もある そのAIにとってアフロといえば黒人であり、黒人といえば肌が黒い、白人に黒を足すと浅黒い、故に浅黒アフロが生まれる、ことがある
とはいえ、この程度ならAI側がその言葉から学んだ特徴に過剰適合していない場合、プロンプトの組み合わせで回避できる問題だ
黒人をロングにするとチリチリになるなら、ストレートヘアーなどの言葉を追加する
アフロや黒い肌といった言葉をNegativeに入れるのもありだ
「不要な特徴からは距離を取れる、ただし反応できるのは文字と概念が結びついている時」
ストレートヘアーを追加すると顔が変化したり、白い肌を追加すると目の色が変化したりする
「"あの"魚が欲しい」と網を投げた際に、狙っている魚以外のものまで取れてしまう
なので、観察しながら調整しなければならない
望まぬ結果を避けるために、意図せずともそういう結果になりうる、という事だけは把握して
今の生成AIにとっての自然言語とは、固有の意味を持つのではなく、ある「領域」を示すもの
生成AIは、言葉に従って潜在空間を移動しながら、学習した言葉と関連する画像から得た特徴をガバっと鷲掴んでいき、人間から見た時の整合性は気にせず一つの出力物をアウトプットする
小魚が多い海域で網漁をすると、小魚だけ取れることもあるが、小魚と一緒にゴミが取れることもある
ゴミは要らないと言っても仕方ない、その海域にはゴミが存在するのだから
だが実は、この仕組みがアウトプットの多様性を生み出すために役立っている
人間は魚を手に入れるために網を投げたわけだが、漠然と「魚が欲しい」と網を投げた時に、特定の魚しか取れないのは多様性の欠如に繋がるし対応力もなくなる
究極的には、「プロンプトで書かれている事を"正しく"」出力するAIも作られるかもしれない
必要としているものしか出てこない、さぞ便利な道具だろうと思う
だが、そのAIを活用するには結局のところ、ドメイン知識を持った上で自分が何を必要としているのかを相手に伝える力が必要となる
「犬」と言われて、真っ先に秋田犬が思い浮かぶ人もいれば、ペットのミニチュアダックス以外が思い浮かばない人もいる
その「リンゴ」っていうのは、片があるの?無いの?一枚の葉がついてたりする?木のこと?
"正しさ"とは?解釈の結果は一義的なの?全人類共通の理解が得られるの?
あいつが悪い!いやこいつが悪い!すまん俺が悪い!いやそんなことはない!
お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな
あらゆる物事について、全ての人類が同じ解釈になる日がこない限り、知識と経験、そして言語化力からは逃げられないというわけだ
というわけで、潜在空間の概念、モデルトレーニングの流れ、ファインチューン、マージ、LoRA、ベクトル操作を学び知識を増やし経験を積もう
画像生成モデルを学ぶこと、その半分くらいは言語モデルを理解することにも繋がるよ
本当はそもそもの仕組みとかモデル毎のアーキテクチャとかトークンとかシードについても知ってほしいけどキリがないんだよね
追記:
AIに校正させるのはいいけど、この文章で完成するわけでもなし、それを"ちゃんと"発展させるのは手間がかかるんよ
それこそ小魚と一緒にゴミが取れまくるんで、ゴミを取り除くために愛と魂をこめて作業しないといけないのがめんどいわけですわ
だから俺はやりたくないけど出版してくれたら買って布教するよの投稿
追記2:
https://web.pref.hyogo.lg.jp/governor/g_kaiken20241226.html
https://www.youtube.com/live/b6vWNtIIrVc?si=UezoDtDGjdbIrs1O&t=1745
朝日新聞:
先週も聞きましたが、県の職員とかご遺族であるとか関係者の皆さんへの誹謗中傷を止めてくださいということをなぜ言われないのかをお伺いしましたが、お答えいただけなかったように私は捉えています。
それはなぜかを改めて教えてください。
知事:
SNSで誹謗中傷や人を傷つけるということは、適切な運用の仕方ではないという思いです。
だからこそ社会全体が、これは県民の皆さんも含めてですが、SNSというものは、メリットとして良い面もありますから、そういったところの気を付けながら、SNSを使っていこう、利用していこうということは、私は大事だとずっと申し上げています。
朝日新聞:
冒頭申し上げたとおり、この半年以上、振り返ってみても、ほとんど、誹謗中傷している人とか、それをしている人が悪いとは思うのですが、いわゆるその誰が憎いとか、誰が嫌いだとか誰を引きずり降ろそうとか取材しているとそういう声がたくさん聞こえてはくるので、そういうことを言っている人達が一義的には原因はあると思います。
ここまで事態が悪化している理由の一つとしては、知事ですので、例えば、誹謗中傷やめてくださいとか、今すぐ県警に相談行きますとか、そういうことができる立場なのに、それをしない不作為というのが、ここまで事態を悪化させた理由の一つになっているのではないかと私は思っています。
知事は、今のやりとり聞いてそこら辺についてはどうお思いですか。
知事:
朝日新聞の記者の意見として、そういった意見があるということは受け止めますが、私としては、この間3月以降の対応、それからこの間も含めて、第三者委員会を立ち上げて調査をしていくという対応も含めて、自分としては、県としても適切な対応だと思っています。
これもう未然の故意だろ
相当気を悪くしたのか動画だと記者の名前を出して支持者に犬笛吹いてんだよな
こういう所が本当に小さい奴だと思うわ
不法滞在者問題について、移民を入れているから自民党が悪いというブクマカがいる。正規の在留資格を持つ外国人といっしょくたに論じるのは馬鹿げている。
前提として、観光ビザで入国して、期限超過後も出国を拒み、難民申請を繰り返すことで居座っている事実がある。こうした人たちと、日本で就労する正規の資格を得て入ってきた人の問題をごっちゃにするのは、欺瞞というものだろう。
なお、就労目的の難民申請者は、民主党政権時の行政運用緩和をきっかけに激増した。その意味でも矛先が違う
https://www.sankei.com/article/20240502-5QEKJJWHPJPCBLXBZ3XQYKXNBQ/
民主党政権時代の2010(平成22)年には、難民申請から6カ月たった申請者に対し一律に就労できる運用を始めた。目的は申請中の自活のためだったが、「申請すれば働ける」と、目的と手段が逆転。10年に全体で約1200人だった申請はピークの17年には約16倍の約2万件に急増した。翌18年に再び就労を厳しくしたところ、申請は半減した。入管関係者は「難民としての認識を持ち合わせないまま、一義的には出稼ぎや定住を目的としていることを強く疑わせる現象だった」と振り返る。
ジェンダーとは社会的・文化的な性規範のことであり、時代や地域ごとにそれぞれ存在しうるものだ
そのはずなのだが、トランスジェンダーを名乗る人々が存在の前提に掲げるジェンダーは、なぜだか彼らの中では共通かつ一義的な概念である 現代のトランスジェンダーが言う「ジェンダー」とは、西欧の・もしくは既に西欧化されたジェンダーにほかならないのだ
これは異文化の透明化であり、本来各時代・地域に存在したジェンダーの淘汰と抑圧でもある そのうえで、トランスジェンダーの多くは、このことに対して特段の説明を避けており、無自覚ですらある
(説明すれば彼らは連帯のための一つのよすがを手放し、彼らの存在根拠である「性自認」の概念までも揺るがすことになるので、触れたくない気持ちは十分に理解するが)
トランスジェンダーは性的マイノリティだが、その一方で西欧文化というマジョリティのもとに存在していることに自覚的な必要があるだろう
日本にいて当たり前のように英語で話しかけてくる人間はまあ普通にカスだと思ってるけど、ふとグローバリゼーションが謳われる時代に日本にいる東アジア人風の人間が必ずしも日本語話者であるとは限らないのではないか?
それは異文化への敬意というよりもむしろ属地的な排他主義なのではないか?
常識的な感覚としては、程度の問題ってもんがあるだろ。日本にいる日本人風の人間はほぼ日本語話者だろ。
グローバル化「すべき」という規範に基づくならまだしも、観光地でもなきゃ言うほどグローバル化もしてねえだろ。
といった所ではあるけれど、理屈としてはまあさほど間違ってはいない気もする。
さりとて、であれば英語で話しかけるのが適切であるという結論に一義的に辿り着く訳でもない。そう言いたいのであれば、前提として英語を世界の公用語として用いるべきだという覇権主義を必要とする。
だからといって日本語を使うべきだ、という結論になる訳でもない。
郷に入っては郷に従え、的な規範を定言的に扱うか、名実ともにその領域において圧倒的マジョリティの公用語を使うべきだ、という話者数に依拠する事になる。
それが英語覇権主義に対して妥当かと言われるとどうなんだろうという気もする。宙ぶらりん状態だ。
逆説的だけど、恵まれた環境に置かれた人間のしんどさってあるなって思う。社会制度がどうのとかじゃなく個々人の姿勢の話ね。内的にも対外的にも逃げられる言い訳の無さと言うか。
恵まれなかった人間なら多少弱音を吐いても「かわいそう、仕方なかった」で、頑張れば「あんな境遇からとても偉い」になる。
恵まれた人間が同じ事を言えば「贅沢な悩み」とでも言われて矮小化されがち。例え本人の感じている苦痛が本物だったとしても、まやかしや甘えの扱いを受ける。
全ては自分の意志次第、の自己責任マンは知らん。自分の思想を客観視した上で環境に不平を垂れる人間を見なくてもいいようにしていない、そういう人間を排除する社会へと変えられないお前の自己責任。まあ自分も構造主義より実存主義の方が好きだしあまり強くは言えない。
基準がなければ不満は際限なく増大するから目安として他人の水準を考える、というのも分からんでもないけど。にしても上はいるし。
もっと辛い境遇の人がいるから相対的に幸福、が通るならもっと恵まれた人もいるから相対的に不幸も通るのにね。そもそも自分の話になんでお前がしゃしゃり出てくる訳?下手すりゃ自分ですらなくどこかの恵まれない誰かを引き合いに出して。
いやまあ客観的というか一般的な基準で恵まれてると言えるような環境への文句に苦言を呈するのは分からんでもないけど。ガキの頃月3万の小遣い貰ってたけど足りなくて不満だった。もっと楽しいティーンエイジを送れたはずなのに損した、とか。
でもそういう外との関係がある問題とは違った内的な悩みについてまで、環境を持ち出して矮小化するのは違うんじゃないんですか。下手に恵まれてるからいらん事ばっかり考える、だとか。
もっと言えば世間の基準や外野の感想がどうだろうが、小遣いが足りないと思ったのならその人にとっての不満は本物なんだろうし。
でも何かこう、「客観的には恵まれてるけどそんなの関係なく自分は辛いからこうしてくれ」と、「妥当」であれそうでないんであれ不満が不満で終わらずに待遇改善を求めて、求められた側が「甘えるな、そんな悩みは贅沢だ」と突っぱねるなら全然分かるんだけど。
そんな要求が罷り通るほど世の中は云々、とかそういう事じゃなくてね。共感出来もしない悩みに対して助ける道理なんかないだろうし。そもそも共感出来ようが出来まいが助ける義務なんかないと思ってるけど。助けたれば助ければいいし、強いられる道理もない。協力ゲームの理屈は置いといて、道徳の話としては。
そういう場面でなく、別に助けを求める訳じゃないけどポロッとこぼした言葉を責め立てられるのは鬱陶しいよねって思う。
こぼすな鬱陶しいって話なのかもしれんけど。生き辛ない?そういう「意味のある」会話しか求めないの。
あとなんかジョジョでも幸福は絶対的なものじゃなく、スタート地点をゼロとする相対的なものだ、的な話があった。
環境の幸福度なんか逓減していくもんだろうから、このスタンスで言えばただでさえ恵まれる環境に生まれればそこから更に上に行くのはしんどくなる。
わざわざ自分が不利に置かれる価値観に与するのもマヌケっぽいけど、この考え方が特段変わったものだとも思えない。
そりゃ全くの一人で生きてる訳じゃないから、多少は他人の人生と比べて家庭の経済状況や親との相性とかを客観的に相対化するものだとは思うけど。
でも基本的には環境なんて所与のものであって、自分にとっては少なからず当たり前だと思ってる部分がある。
マジで辛い環境にいる人は、こんなんが当たり前でたまるか!って思ってんのかもしれんけど。
幸せになれない価値観なんか捨てて思考を矯正すればいいんだけど、それをやるならもう何でもアリじゃんって気もする。
新興宗教にハマり新しい価値観を得て、本人は幸せだと言っている。これは哀れ。
いつまでも仕事か辛いとばかり言って、価値観を変えて少しでも楽しもうという姿勢を持たない。これはワガママで子供じみてる。
これってダブルスタンダードだよね。どちらも幸せを求めた適応の話なのに。結局自分が信じてる価値規範を共有したいだけじゃんっていう。
おれは客観的に恵まれた環境にあって不満だらけの人間なので、態度次第では世間からの当たりが強くなる。
内面化された「環境に感謝」の規範をこそぎ落とし、「いやおれが辛いと思ってんならおれにとって間違いなく辛い事だし、他人の感想や、他の境遇を持ち出した相対化なんて関係ない」と開き直る事でせめて自分の中では居心地の良さを確保する。
その上で、「だからといって別に他人がおれを助ける道理はない。生まれ育った普通か恵まれてるくらいの環境を恨むこともない」とも思うことで社会との関係を維持する。そもそもおれの抱える悩みの大半が他人の助けでどうこうなるもんじゃないし。
自分なりに整合性を取った態度のつもりなんだけど、おれの言葉から言ってもいないスタンスを勝手に一義的に導き出す人もいるし、歪なのかもしれない。
まあこんなのも恵まれた人間の思考回路が前提になってるもので、そうでない実際の人間はまるで別の世界観を持ってるのかも分からんけど。分かった所で悩みが消える訳でもないし、どうでもいいや。
Permalink |記事への反応(14) | 15:39
元増田の言い方がモヤモヤしていて、無責任な感じにイラッとくる、という気持ちはわからないでもないが、この増田の方がはるかに攻撃的な印象を受けるし不快だ。
元増田は夫との暮らしに基本的には満足していて仲も良く、ステーキを食べるのも自分にご馳走したい気持ちがあるのかもしれない、感謝もしている、と明言している。だけれども週4ステーキはちょっとやり過ぎではないか?というフワッとした気持ち、不安を綴ってみたに過ぎない。
あるいは「普通は週4もステーキを食べない」といった「普通」の押し付けに反感を覚えたのかもしれない(別に元増田は「普通」を強く主張しているわけではなく、自分の気持ちをなんとか表現しようとしているだけだと思うが)。
確かに世の中には、言及対象を一義的に明確化し、明瞭な論旨と責任をもって語ることが期待・要求される分野というのはある。医療や軍事などは最たるものだろうが、もう少し広く取ってビジネスや科学の領域でも、言いたいことが明瞭で誰にでもわかるとか、責任の所在がはっきりしているとかは、少なくとも好ましいことで、場合によっては強く求められると思う。
しかしこれらを全部合わせたとしても、人類史的に積み上げられてきた広く複雑で豊穣な生活の極々一部に過ぎず、圧倒的大部分の人間的(動物的)コミュニケーションは井戸端会議とか時候の挨拶とか全然内容のない雑談とか芸能人の噂とか家庭の愚痴とか、フワフワして何も生み出さないものでできている。そちらの方が元々の土台で、科学・軍事・医療的な厳格さなどポッと出で出てきた上澄みの部分に過ぎない。
この上澄みの部分が現代生活の中でそれなりに重要な位置を占めており、だからこそ教育で叩き込まれるのは間違いないし、決してどうでもいいなどと言うつもりはないが、逆に言えば教育で頑張らないと身につかない「不自然」な能力だと割り切った方がよい。
そして遥かにアホでフワフワしたコミュニケーションの方で何千年何万年と人類はやってきたのだから、一見して理不尽で不合理に見たとしても、それはそれで結構「うまくいく」のだと受け取るべきではないか。フワフワしている方がずっと「枯れた」技術だ。
人(動物)の生活の多くはなんとも不合理で言語化しにくいモヤモヤとしたものでできていて、それを明晰判明な言葉だけで切り出そうとすると、豊穣な大部分を無情に切り捨て単調化してしまうことにもなる。
元増田には夫への感謝や今の生活への満足がありつつ、「でも…」といううまく言えない部分があり、矛盾と知りながらそれをうまく言葉にできないか、表現できないか、奮闘している。うまく言葉にできているかと言えば、あまりできていないと思うが、重要なのは言葉にできてしまうことではなく、しようとしてもがくことだ。なぜなら端的に言いきれてしまったら、その瞬間に肝心のモヤモヤした大部分ははじめからなかったかのように捨てられてしまうからで、言葉というのは「射当てる」ことより「その周りを回る」ことに重要性がある。
ズバリ一言で言えてしまうような簡単なことなら、わざわざ文章にしてダラダラ語る必要などない。何なら記号や数式で表した方が合理的だし、実際、どんどんそうやってスリム化している領域だってある。
しかし、何度も同じことを繰り返して恐縮だが、人の生の圧倒的大部分はそんなにスパッと言えないことで、多くの(おそらく増田ほど頭の良くない)人々がスパッと言わない暮らしを何千年も続けているのは、それはそれで大局的には一つの合理があり、恒常性があるからだと思う。
そうした風習(のようなもの)に気に食わないものがあったとしても、「人間のクズ」などと強い言葉で人を非難するのはどうなのか。
不快な点、納得のいかない点があったとしても、増田は元増田を個人的に攻撃したわけではないのだから、読むのをやめて放っておけば済む話で、さらに譲って何か一言言うにしても(もちろん言ってもよい)、言葉を選ぶということができないのだろうか。こんな言い方しかできないのだとしたら、増田の方が元増田よりかなり深刻にコミュニケーション能力が欠けているように見える。もし能力に不足がないのだとしたら、事態はより深刻で、人間性として攻撃的で危険な人物だということになりはしないか。
Permalink |記事への反応(22) | 11:59
元増田の言い方がモヤモヤしていて、無責任な感じにイラッとくる、という気持ちはわからないでもないが、この増田の方がはるかに攻撃的な印象を受けるし不快だ。
元増田は夫との暮らしに基本的には満足していて仲も良く、ステーキを食べるのも自分にご馳走したい気持ちがあるのかもしれない、感謝もしている、と明言している。だけれども週4ステーキはちょっとやり過ぎではないか?というフワッとした気持ち、不安を綴ってみたに過ぎない。
あるいは「普通は週4もステーキを食べない」といった「普通」の押し付けに反感を覚えたのかもしれない(別に元増田は「普通」を強く主張しているわけではなく、自分の気持ちをなんとか表現しようとしているだけだと思うが)。
確かに世の中には、言及対象を一義的に明確化し、明瞭な論旨と責任をもって語ることが期待・要求される分野というのはある。医療や軍事などは最たるものだろうが、もう少し広く取ってビジネスや科学の領域でも、言いたいことが明瞭で誰にでもわかるとか、責任の所在がはっきりしているとかは、少なくとも好ましいことで、場合によっては強く求められると思う。
しかしこれらを全部合わせたとしても、人類史的に積み上げられてきた広く複雑で豊穣な生活の極々一部に過ぎず、圧倒的大部分の人間的(動物的)コミュニケーションは井戸端会議とか時候の挨拶とか全然内容のない雑談とか芸能人の噂とか家庭の愚痴とか、フワフワして何も生み出さないものでできている。そちらの方が元々の土台で、科学・軍事・医療的な厳格さなどポッと出で出てきた上澄みの部分に過ぎない。
この上澄みの部分が現代生活の中でそれなりに重要な位置を占めており、だからこそ教育で叩き込まれるのは間違いないし、決してどうでもいいなどと言うつもりはないが、逆に言えば教育で頑張らないと身につかない「不自然」な能力だと割り切った方がよい。
そして遥かにアホでフワフワしたコミュニケーションの方で何千年何万年と人類はやってきたのだから、一見して理不尽で不合理に見たとしても、それはそれで結構「うまくいく」のだと受け取るべきではないか。フワフワしている方がずっと「枯れた」技術だ。
人(動物)の生活の多くはなんとも不合理で言語化しにくいモヤモヤとしたものでできていて、それを明晰判明な言葉だけで切り出そうとすると、豊穣な大部分を無情に切り捨て単調化してしまうことにもなる。
元増田には夫への感謝や今の生活への満足がありつつ、「でも…」といううまく言えない部分があり、矛盾と知りながらそれをうまく言葉にできないか、表現できないか、奮闘している。うまく言葉にできているかと言えば、あまりできていないと思うが、重要なのは言葉にできてしまうことではなく、しようとしてもがくことだ。なぜなら端的に言いきれてしまったら、その瞬間に肝心のモヤモヤした大部分ははじめからなかったかのように捨てられてしまうからで、言葉というのは「射当てる」ことより「その周りを回る」ことに重要性がある。
ズバリ一言で言えてしまうような簡単なことなら、わざわざ文章にしてダラダラ語る必要などない。何なら記号や数式で表した方が合理的だし、実際、どんどんそうやってスリム化している領域だってある。
しかし、何度も同じことを繰り返して恐縮だが、人の生の圧倒的大部分はそんなにスパッと言えないことで、多くの(おそらく増田ほど頭の良くない)人々がスパッと言わない暮らしを何千年も続けているのは、それはそれで大局的には一つの合理があり、恒常性があるからだと思う。
そうした風習(のようなもの)に気に食わないものがあったとしても、「人間のクズ」などと強い言葉で人を非難するのはどうなのか。
不快な点、納得のいかない点があったとしても、増田は元増田を個人的に攻撃したわけではないのだから、読むのをやめて放っておけば済む話で、さらに譲って何か一言言うにしても(もちろん言ってもよい)、言葉を選ぶということができないのだろうか。こんな言い方しかできないのだとしたら、増田の方が元増田よりかなり深刻にコミュニケーション能力が欠けているように見える。もし能力に不足がないのだとしたら、事態はより深刻で、人間性として攻撃的で危険な人物だということになりはしないか。
元増田の言い方がモヤモヤしていて、無責任な感じにイラッとくる、という気持ちはわからないでもないが、この増田の方がはるかに攻撃的な印象を受けるし不快だ。
元増田は夫との暮らしに基本的には満足していて仲も良く、ステーキを食べるのも自分にご馳走したい気持ちがあるのかもしれない、感謝もしている、と明言している。だけれども週4ステーキはちょっとやり過ぎではないか?というフワッとした気持ち、不安を綴ってみたに過ぎない。
あるいは「普通は週4もステーキを食べない」といった「普通」の押し付けに反感を覚えたのかもしれない(別に元増田は「普通」を強く主張しているわけではなく、自分の気持ちをなんとか表現しようとしているだけだと思うが)。
確かに世の中には、言及対象を一義的に明確化し、明瞭な論旨と責任をもって語ることが期待・要求される分野というのはある。医療や軍事などは最たるものだろうが、もう少し広く取ってビジネスや科学の領域でも、言いたいことが明瞭で誰にでもわかるとか、責任の所在がはっきりしているとかは、少なくとも好ましいことで、場合によっては強く求められると思う。
しかしこれらを全部合わせたとしても、人類史的に積み上げられてきた広く複雑で豊穣な生活の極々一部に過ぎず、圧倒的大部分の人間的(動物的)コミュニケーションは井戸端会議とか時候の挨拶とか全然内容のない雑談とか芸能人の噂とか家庭の愚痴とか、フワフワして何も生み出さないものでできている。そちらの方が元々の土台で、科学・軍事・医療的な厳格さなどポッと出で出てきた上澄みの部分に過ぎない。
この上澄みの部分が現代生活の中でそれなりに重要な位置を占めており、だからこそ教育で叩き込まれるのは間違いないし、決してどうでもいいなどと言うつもりはないが、逆に言えば教育で頑張らないと身につかない「不自然」な能力だと割り切った方がよい。
そして遥かにアホでフワフワしたコミュニケーションの方で何千年何万年と人類はやってきたのだから、一見して理不尽で不合理に見たとしても、それはそれで結構「うまくいく」のだと受け取るべきではないか。フワフワしている方がずっと「枯れた」技術だ。
人(動物)の生活の多くはなんとも不合理で言語化しにくいモヤモヤとしたものでできていて、それを明晰判明な言葉だけで切り出そうとすると、豊穣な大部分を無情に切り捨て単調化してしまうことにもなる。
元増田には夫への感謝や今の生活への満足がありつつ、「でも…」といううまく言えない部分があり、矛盾と知りながらそれをうまく言葉にできないか、表現できないか、奮闘している。うまく言葉にできているかと言えば、あまりできていないと思うが、重要なのは言葉にできてしまうことではなく、しようとしてもがくことだ。なぜなら端的に言いきれてしまったら、その瞬間に肝心のモヤモヤした大部分ははじめからなかったかのように捨てられてしまうからで、言葉というのは「射当てる」ことより「その周りを回る」ことに重要性がある。
ズバリ一言で言えてしまうような簡単なことなら、わざわざ文章にしてダラダラ語る必要などない。何なら記号や数式で表した方が合理的だし、実際、どんどんそうやってスリム化している領域だってある。
しかし、何度も同じことを繰り返して恐縮だが、人の生の圧倒的大部分はそんなにスパッと言えないことで、多くの(おそらく増田ほど頭の良くない)人々がスパッと言わない暮らしを何千年も続けているのは、それはそれで大局的には一つの合理があり、恒常性があるからだと思う。
そうした風習(のようなもの)に気に食わないものがあったとしても、「人間のクズ」などと強い言葉で人を非難するのはどうなのか。
不快な点、納得のいかない点があったとしても、増田は元増田を個人的に攻撃したわけではないのだから、読むのをやめて放っておけば済む話で、さらに譲って何か一言言うにしても(もちろん言ってもよい)、言葉を選ぶということができないのだろうか。こんな言い方しかできないのだとしたら、増田の方が元増田よりかなり深刻にコミュニケーション能力が欠けているように見える。もし能力に不足がないのだとしたら、事態はより深刻で、人間性として攻撃的で危険な人物だということになりはしないか。