
はてなキーワード:一挙一動とは
男性向けの創作物は基本これだからそら感覚が狂うし、創作する女も現実離れするわな
女に擦り寄り媚びられる一部の男(低身長男性が大好きなジャニーズなど男性アイドルなど)に女が集中して無数の男が余るのも納得
恋愛主体じゃない話でも登場する女が全て自分の事を好きという恋愛脳故に、全ての女から好感を持たれない、マッチングできない生涯に耐えれない
一挙一動を褒め称えられる、女にアプローチしたら確実にモノにできるというシチュエーションしか受け付けないので、「レイプ被害者よりも、誰からも相手にされない弱者男性の方が辛い」というスタンスだし、初対面の婚活女に交際を断られた、ネットで見知らぬ女が自分の属性は恋愛対象にならないと発言しただけで制裁の対象にする
一方で女は男に奉仕する道具としか認識してないので、加害者も隠蔽協力者も全て男というジャニーズ性加害問題になると一転して「助けなかった女が悪い」と言い出す
一挙一動や趣味や専攻や仕事など自身の全てを褒め称えられるの求める一方で、女の趣味嗜好やキャリアには一切歩み寄らない不均等な関係性を求めるので、木嶋佳苗や細木数子など女の詐欺師や商売は基本的に男を持ち上げ女を劣った存在だとこきおろすスタンスになる
前述のように、主人公というだけで存在する全ての女に好意を持たれて何をしても受け入れられるシチュエーションしか求めないので、女から見た立ち位置や関係性を無視して、「〇〇という肩書やアイテムさえ所持していれば、初対面の女に手当たり次第狼藉を働いても受け入れられる」という設定を現実にもあると主張する
男と女の性欲や孤独耐性の非対称性ゆえに恋愛や結婚は基本男同士の女争奪戦でなおかつ一人でも多くの女と関係したいモテ男による時間差一夫多妻制も存在するので男が余るが、それらの競争相手を存在しないものとする
学年や職場ぐるみの嫌われ者はほぼ全員男であり、女は陰キャや発達障害でも男のように孤立した女は存在しないが、女が集まると弱者男性は陰で笑われる、他の女に見下されたくないから弱者男性とのマッチングより未婚を選ぶ女が発生、調子に乗った男に増長されたりキモメンにつきまとわれたら他の女に言い振られたり助けを呼ばれるなど、非モテ男性から見たら女社会に不都合しかないので、女同士の繋がりを認めず孤立した女を求める
飼える住環境だったり、適性がある人のところに猫が送り込まれてくるとかいう都市伝説、NNN。信じていない。猫のことをやれ構成員とか諜報員、エージェントって呼んだり、ニンゲンは常に見られているとか、こんなのぎりぎり陰謀論じゃない?
少し前に生後4ヶ月いかないくらいの子猫を拾った。(拾ったていうか、通勤で何回か見かけていた子猫を餌やり好きな近所の人が捕獲して、通りすがった自分のところに回ってきた…という流れだから正確には少し違うんだけど)
たまたま、自分の住んでいるワンルーム賃貸はペット可で、猫じゃらしやら洗いたてのシステムトイレやら、成猫用ではあるけどフードやおやつもある。そこで今は3段ケージで家猫修行中のキジトラが自分の一挙一動を監視している。しかもきょうだい2匹。
猫がいない生活って思いつきで旅行に行けるし、早起きも強制されないし、残業もやり放題で、ここら辺で少し稼いで貯めつつ適度に楽しく使って…なんて穏やかなものだった。2ヶ月弱しか続かなかったけど。
四十九日を過ぎたばかりで新しい、しかも若い猫を連れ込むなんて、君は呆れるだろうか。光源氏でももう少し節度があったんじゃないか?先代って呼ぶにはまだ距離が近過ぎて、冗談に包んだ「〇〇大明神」とか「〇〇大権現」なんて言わないと次のことばが出なくなる。ここ五十幾日は人生迷走していて、家賃を払った記憶が丸ごと抜けていて焦ったり、冷凍庫に記憶に無いパンが入っていたり、挙句の果てには航空券のチケットの姓名を逆で予約したりしていたよ。ここで幼猫2匹抱えてもう一回地に足を着けて生きていけって言われているみたい。この滅茶苦茶が避妊去勢の準備とか、ばりばりのカーペットとか、カーテンは登らないで!に変わるんだろうか。
最近まで一緒に暮らしていたのは、こっちは正真正銘自分で拾った猫で、ずいぶん賢くてニンゲンの言葉を理解し、小さな顔に長い手足としっぽが際立った綺麗な白黒だった。
それが某区猫スラングを使い、寝るとか食べるとかの生活動作以外は「うなる」コマンドで済まそうとする、区中の縞猫を集めたら見分けがつかなそうな柄×2だ。可愛い顔をしてはいると思うけど、保護猫の譲渡会に行くことがあったとしたら、きっと選ばなかった2匹だろうから、何があるかわからない。
こんな調子で本当に「NNN」なる組織があるというなら、一生であと何匹の猫に捕まるんだろう。今回と前回はただ偶然の、星5を連続で引いた事象であり再現困難であって欲しい。思えば自分の親も猫を複数回拾った人だった。末代まで祟るって、もしかして子々孫々纏わりつき倒すって意味だったんだろうか。
そろそろ家を買うのもありだななんて思って不動産探しをしていたところだから、複数飼育可の細則で、猫用ドアの設置も検討する必要が出てきた。嘘みたいなタイミング。こうして人は陰謀論者になるのかも。
元気かどうかは日によるけど、後輩どもを何とか立派な家猫にしてやるから、見守っていてくれよ。万が一の次の話だけど、君の生まれ変わり以外を送り込むのは、どうかご海容ください。
20250907
これは個人の問題ではなく社会の問題だ。男は母性がない代わりに仕事をして、これまで女は社会進出せずに家のことをしていたが、女が仕事もするようになることで、女は男より選択肢を1つ多く持つことになった。
やっかいなのは社会進出気取りの事務系裏方女だ。非正規雇用でもできるような仕事を運良く正社員でしているがために、自分は仕事も家事も育児も全部やる忙しくて多忙な人間だ、と言うかもしれないが、残念ながらその「仕事」は仕事のうちに入らない。出世して部下を持って上司になり、また上司の顔色や自身の権限をうかがいながら行う業務は、ロボットやAIにはできない業だろう。一方で勘違い女の業務は外注代替可能な、いわゆる使い捨て可能な業務だ。そんなことも知らずに偉そうに働いてるだと?ふざけんな、といいたい。
育児は、そのアタッチメント実働時間から、明らかに家にいるほうが主、いないほうが従、になるだろう。勘違い女が育休で主になったとき、組織の末端でしか仕事をしたことがないからリーダーシップもとれないのに、主の立場で育児を担当することになる。予想通り、従の人間はころころ変わる考えに振り回され、意見も言えない雰囲気が形成され、結果縮こまって身動きの取りにくい状態になってしまった。組織として最悪なのは言うまでもない。
はっ、気づいたらこんなに不平不満を書き連ねていた。理想の家族とはなんだろう?ステレオタイプに縛られる必要はない。家族が、という主語「家族」で物事を考えたことがない。主語はいつも自分もしくは子供。子供はかわいいから、自分なりの親としての愛情を伝えたいと思う。子どもは自身の意思主張があるだろうから、それをなるべく尊重したいけど、モラルマナー言葉遣いなどは、ちゃんと矯正したい。
妻が不機嫌だと子どもがかわいそうだから妻の機嫌をとれ、というのは、どうなんだろう?もちろん正解はないが、別にそこはもういいかな。ぼく自身が大きく構えておきたいと思う。何かあったときに頼ったり相談してくれる父親でありたいし、子どもが成人になってからは、ひとり立ちして自由に生きてくれたらいいし、しばしば一緒に盃を交わす仲でもいいと思う。そうなるためには妻の機嫌を取らないといけない、ということであれば、それはたぶん間違っている。ゴマすりが大切といっているようなもんだ。
恥ずかしながら、これまで妻と口論して声を荒らげてしまったことがしばしばあったが、それは自分が理想とする父親像ではない。いつでもおふざけでしょーもないことを言い合える、そういう姿勢で日々過ごしていきたいと思った。日々の一挙一動などしょうもない細かいことだ。そんなことにいちいち腹を立てて向き合う必要はない。
感謝の気持ちを伝えろ、と妻にしばしば言われる。それ自体は正しいことだが、己のタスクをこなすことにいちいち感謝する、という価値観が一切分からない。代替可能なことならなおさら。一方で、子供にはあいさつしたりありがとうと言ったりできるようになってほしいので、そのモデルとして家庭内でもできるように気をつけるべきなのはそうなのかもしれない。そこに気持ちがなくても、言葉として発することが大事だろう。私の育った環境では、外ではへこへこ内では殿様、みたいな両親でそれに違和感を感じたので、そこは直さないといけないね。
とにかく、子供が(最低限のマナーレベルのことで)どうなってほしいか、を考えて、そのために「自分」が(家族ではなく)どう言動すべきか、というのが今後の大きな指針になる。アスペルガーの妻は言葉にしないと分からないというが、子供には1つでも多く背中を見て育ってほしい。
人間には得意なこと不得意なこと、できることできないこと、やりたいことやりたくないこと、がある。苦手なことを矯正することも時には大事だと思うけどそれを受け入れて共存していくことも大事だと思った。妻は極端で視野が狭くて強欲でわがままでゆえに全体思考などバランスをとったりすることが苦手だけどそういうところを直そうとはもはや思わないし、何か極端なことを言われても下手に出てへこへこする技術を身につけよう。細部に気を取られていちいち相手にしても意味がない。寡黙で働き者で粛々と家事育児をこなす人間でありたい。朝起きて前夜の残った洗い物をする。ふとんの整理をする。ゴミを出す。パジャマを着替える。オムツを変える。掃除をする。夜。絵本を読む。ミルクをつくる。
まず予防線を張らせてもらう
あまりにも情けない話なので友人知人にはとても話せないし、かといって医者にわざわざ話すような内容でもない
更にはネットにはありふれてて面白くもなんともないただの自称弱者のなんのヤマもオチもない身の上話にすぎない
でもどっかで吐き出したい。まとまってすらいない。ただそれだけの記事
まぁポエムみたいなもんだと思ってくれ
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俺はアラサーで童貞というネットには掃いて捨てるほどいるごく普通のいわゆるキモオタである
10歳ぐらいの頃に同学年ほぼ全員と上下1学年の約半数以上から汚物扱いを受け見事に社会不適合者になった
1クラス約30人で1学年2クラスだったから、だいたい100人強ぐらいには嫌われてた計算になる。まぁ数字はどうでもいい
きっかけは自覚のある範囲だとやや太り気味で運動が苦手だったとかその辺だろうと思われる
例によって自覚のない何かもあっただろうが、当時の絵に書いたようないじめっ子連中とは当然もうつながりは無いので確認のしようはない
最初こそただの爪弾き者くらいの扱いだったのが、俺がロクに抵抗しなかったばかりにどんどん風潮は大きくなっていき、
最終的にはあまりの嫌われっぷりにイジメらしいイジメすら起きなかった
誰も俺には近づきたがらないし俺の使っている机や道具類も等しく汚物扱いだったので、イタズラに触ろうとする人間なんかまずいなかった
無論そんな環境で心地よく過ごせるはずもなく、教師や親に相談したこともあったが、返ってくるのは決まって「考えすぎ」の一言
そんなわけ無いだろという気持ちもありつつ、特に跳ねっ返りでもなかった俺は割と素直にその言葉を飲み込んでしまった
結果できあがったのは「俺が辛い思いをしているのは自分の考えすぎ=自分のせい」である
加えてクラスの人畜無害枠だと思っていた子からもやんわりと拒絶されたことで完全に自分自身を含めた人間不信に陥る
一挙一動、身動ぎ一つですら何を言われるか分かったものではない状況を乗り越えるために身につけたのは、
休み時間は動作を最低限にできる読書に費やし、やむを得ず移動等が必要になった時は可能な限りこちらから距離を取る
相手に嫌な顔をされるのは俺も嫌だったし、徹底的に嫌われ者としての義務を果たした
最終的に不登校に行き着き、数ヶ月の後説得に負けて登校したらなんかみんな大人しくなってた。学級会でもあったんだろう
それ以降は大学に至るまでそんな扱いを受けることは無かったが、俺の対人関係の価値観は完全に歪みきっていてまともに友人も作れなかった
唯一小学校の頃から気にかけていてくれたやつはいたが、普通に友達も多いやつだったので自然と疎遠になった
そいつは気づけばLINEのアイコンで赤子を抱いていたのでまぁ、そういうことだ
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今ではだいぶマシになったけどそれでも根本的に自分が信じられなくて、そのせいで人も信じられないクズであることは変わらず
特に当時比較的イジワル路線だった男性陣よりも、心の底から嫌悪感をあらわにしてきた女性陣に対する距離感というのは完全に壊れている
いくら歪んでいるとはいえ俺も一応ヘテロ男性ではあるので、女性を好む気持ち自体は普通にある
ただし俺の中にある異性とのコミュニケーションの最適解が「そもそも関わろうとしない」になってしまっている
他人にとって俺と関わることは不幸であるという価値観がどうしても抜けず、本当にその人のことが好きなら好きになってはいけないみたいな訳の分からん事になってる
理屈としてそんなコミュニケーションはおかしいと理解はしているが、あのとき向けられた憎悪にも近い嫌悪の感情がこびりついて離れない
一度嫌われ者になると挽回は非常に困難で、そんな状況では自発的な行動は逆効果であると感覚的に学習してしまっていることから、基本的には相手方から仲良くしようと歩み寄ってくれるのを待つことしかできない
だというのにせっかく褒められたりしても素直に信じられず、自分から距離を取るような真似をしてしまう
挙げ句に完全に擦り切れた自尊心故に自己顕示欲も強い。本当に救いようのない人格である
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だが、一時期から自分自身ではなく自分の作り出したものを間接的に評価してもらうのは割と素直に受け入れられる事に気づいた
幸いインターネット環境はありデジタルにも強い方だったので、文字なり絵なり、パソコンでできる創作は色々試した
結果、趣味同士のコミュニティになんとなく加わることに成功した
ネットには俺みたいなはぐれものが多くいたし、特に親しくならずともふわっとした関係でいられたので大変居心地が良かった
その辺を駆使し続けてなんとか15年くらい自我を維持してきた結果、この数年で急に親しい友人が増えた
幸か不幸か、嫌な人間を見る機会は大変多くあったためそれらを反面教師にすることで、表面上は割とまともな人間に見えるようになっていたらしい
とてもありがたく嬉しいことなのだが、まともに人間関係を築いてこなかったために考えたり覚えたりすることがものすごく多くけっこう大変だった
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そして交友関係が増えると自然に目に入るようになるのが色恋沙汰である
つい最近まで上記のような人生を送ってきたために、自分はもちろん他人事ですらその様な事象とはほぼ無縁だったが、じわじわと俺の認識に入りこんできた
そのあたりはとうに諦めたつもりでいたのだが、そもそも現実の出来事と認識できていなかっただけのようで、急に焦りのようなものが出てきた
挙げ句、割と付き合いの長かったやつがいつの間にか同棲を始めていたなどのイベントも重なり、いよいよ自分の化けの皮が剥がれ始める
これまた幸か不幸か、ちょうどなんとなく関係の良い異性が一人いた。焦りもあって生まれて初めての告白をしたところ、通ってしまった
かつての汚物扱いをそのまま引きずっていた俺は、この期に及んで人間に戻れる可能性を見出してしまったのである
まぁその後のことはなんとなくお察しの通り、こんな状態からいきなり異性とまともに関われるはずもなく
自分を好いてくれる人間などいるはずがないという強迫観念に打ち勝つことができなかった
逆に、自分が誰かを好きだと思う気持ちへの疑いすら拭いきれなかった。自分から告っておいてあまりに失礼である
それまで思い込みの側面が強かった自分の不出来さを、実例をもって実感と成した。ある意味では収穫だった
そんな誰にでもあるようなイベントを、三十路になってようやく初体験することになった
これをまだ可能性があると見るか、最初で最後のチャンスをフイにしたと見るか、その辺りはまだ咀嚼できていない
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これだけ恵まれているというのに心の自傷行為をやめられないのも結構つらい
いかなる希望も絶望の種にしかならないと、浮かれかけた心を自分で痛めつけてどん底に沈んでいく行為なのだが、これが妙に心地よくてならない
ここ10年ほどは鳴りを潜めていた悪癖なのだが、また出てきてしまった
ともかく、人間には戻れなかった
この様なことを言うのは仲良くしてくれている人たちに物凄く失礼なのだと頭では理解しているが、それでもこういう物言いをしないと心が耐えられない
もし俺が本当に人間なのだとしたら、この不出来さを説明できない。ありえないことだと
人間になりそこなった何かなのであればまぁ、はじめから社会から外れたところに居ると思えるからまだマシ
結局のところは努力も何もかも足りていないのだろう。全くしていない訳では無いが、客観的にはそういう結論になると思う
だが幾度となく努力に裏切られてきた経験が、あの頃からボロボロのままのメンタルに重くのしかかってくる
それも考え方の問題なんだろうが、俺の一番の問題はその考え方の部分がなんかおかしくなっちゃってるところなので困っている
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ここまで書いてちょっと冷静になれた
医者にわざわざ話すような内容でもないとか言ったけど、これはもしかしたら話していい案件かもしれないな
お目汚し失礼しました
俺のことは忘れてくれ
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱