
はてなキーワード:ロジカルとは
僕が超弦理論を物理学ではなく自己整合的圏論的存在論と呼ぶのには理由がある。なぜなら、弦の存在は座標に埋め込まれたものではなく、物理的射影が可能な圏における可換図式そのものだからだ。
10次元超弦理論における有効作用は、単なる物理量の集約ではない。むしろ、それはカラビ–ヤウ多様体のモジュライ空間上に構築された安定層の導来圏D^b(Coh(X)) における自己同型群のホモトピー的像として理解される。
そこでは、開弦終端が束の射、閉弦がトレース関手に対応し、物理的相互作用はExt群上のA∞構造として定義される。
つまり、力は空間の曲率ではなく、ホモロジー代数的結合子なのだ。
D^b(Coh(X)) とFuk(Y)(シンプレクティック側)の間に存在するホモトピー圏的同値、すなわちKontsevichのホモロジカル・ミラー対称性の物理的具現化にすぎない。
ここで弦のトポロジー変化とは、モジュライ空間のファイバーの退化、すなわちファイバー圏の自己関手のスペクトル的分岐である。観測者が相転移と呼ぶ現象は、そのスペクトル分解が異なる t-構造上で評価されたに過ぎない。
M理論が登場すると、話はさらに抽象化する。11次元多様体上での2-ブレーン、5-ブレーンは単なる膜ではなく、(∞,1)-圏の中の高次射として存在する。
時空の概念はもはや固定された基底ではなく、圏の対象間の射のネットワークそのものだ。したがって、時空の次元とは射の複雑度の階層構造を意味し、物理的時間は、その圏の自己関手群の内在的モノイダル自己作用にほかならない。
重力?メトリックテンソルの湾曲ではなく、∞-群oidの中での自己等価射の不動点集合のトレースである。
量子揺らぎ?関手の自然変換が非可換であることに起因する、トポス内部論理の論理値のデコヒーレンスだ。
そして観測とは、トポスのグローバルセクション関手による真理値射影にすぎない。
僕が見ている宇宙は、震える弦ではない。ホモトピー論的高次圏における自己同型のスペクトル圏。存在とはトポス上の関手、意識とはその関手が自らを評価する高次自然変換。宇宙は関手的に自己を表現する。
バカなブコメもトラバもみんな、「猫嫌い」を正当化できるロジックは持ってなかったな。
「地域猫活動する組織が悪い」あたりか、最大のロジカル打点は。
その通りだよ。地域猫はいない方がいい。地域猫してる理由は野良猫がいるからで、彼らを殺せば捕まるからで、妥協点ではあるし、バカはその辺りすら知ろうともせぬが、
野良猫も当然いないほうがいい。
猫は悪くない。悪いのは人間。そこに気づければそれでいい。
バカみたいに猫の殺処分を求める馬鹿たちが、なぜ猫の殺処分は不法か、考えるきっかけになればいい。殺処分が一部でも合法とされてる生き物は、なぜそうなのか考えるきっかけになればいい。
どんな生き物がどんなふうにかかわって今の日本があるか、考えるきっかけになればいい。
今の自分が、誰に対してどんなあぐらのかきかたをしてるか、気づくきっかけになれば、それでいい
でもそれすら地球のひとつの幸福のたねになる。不幸の種かもしれない。
でもそうやって、だれひとり自分の選択でなく、この星を生きている。
追記ここまで
野良猫問題と見るや「殺せ」「地域猫なんかふざけてる」「害獣として殺処分できるべき」と吹き上がるブクマカたち。
なぜ猫が人里で暮らしているか、そもそも猫はなんで野生ではなく野良というか、考えたことはあるだろうか。
日本に猫がやってきたのはおよそ2000年前、弥生時代にさかのぼる。当時の日本人は稲作が普及すると同時に、農家はネズミや雀、害虫に悩まされた。
それらのハンターとして中国からやってきて重宝されたのが始まり。
ちなみに日本のそとに目を向けると、約5,000年前の古代エジプトですでに作物をネズミから守るために猫が飼われていた。
もちろん機能的に優れるだけでなく大変愛らしくよく懐くので愛玩目的でも重宝されたが、
メインはハンターとして。
とにかく、猫は人間のたべものを守るために、長い年月、田畑・倉庫・船などあらゆる場所で飼われていたわけ。
日本やアジアの歴史に猫がいなかったら、米食・穀食の文化はいまのように育たなかった可能性もある。もしくは高級品になっていまとは別の広まり方をしていたかもしれない。国々の文化や歴史も変わっていったかもしれない。
猫は人間のエゴで家畜化し、人間のエゴで野生を奪い、人間のエゴで地球中に拡散し、人間のエゴで人間に都合がいい生き物として進化させてきた。何百世代にも渡ってね。
それが日本から百姓が減って農薬や殺鼠剤や冷蔵庫が進化した途端に害獣扱いですか。
へえへえご立派なこってすね。人間様の暮らしにいまや猫は必要ないですもんね。
百姓してて猫嫌いっつってる人みたことない。いや、厳密には祖父は超犬派で猫を飼うというと最初こそ嫌そうだったけどいざ飼ってみたら2年でマジでネズミが全くいなくなってから猫を神と崇めるようになった。姉が結婚して猫を連れていってからは、どこからともなく子猫を見つけてきて飼い始めるほど。
なんか蚕を思い出す。日本で養蚕業がさかんだったころはそこらじゅうで飼われていた。野生では生きていけない品種。人間に都合よく歪められた品種。哀れだ。人間の醜さを痛感する。まあ猫は蚕とちがって野良でも生きていけるけども。
ま〜とにかく、猫を憎悪してるお前ら、勝手に憎悪してりゃあいいけど、
米や穀物食う時はその歴史に少しは感謝してみりゃいいんじゃないすかね。
わたしは自治体のルールに則り野良猫を捕獲しては”””自腹”””で病院で避妊・去勢手術を受けさせ地域猫化しています。(うちの自治体の場合は申請すれば費用は1割くらい見てくれるらしいけどのその程度の端金ために申請するのがめんどくさい)
以下参考
子猫が生まれない一番確実な方法は不妊・去勢手術を施すことです。対象となる猫を捕えて、手術後放します。 このことにより、その猫は一代限りとなり、子孫が増えることはありません。 この方法をTNR(Trap[捕まえる]、Neuter[手術する]、Return[戻す]もしくはRelease[放す]の頭文字)といいます。
野良猫にエサをやる人がいなくなりさえすれば速やかに猫は餓死すると思っていますか?いいえ。猫はゴミをあさります。スーパーなどに侵入して売り物に手を出すかもね。人間様の大好きな燕を襲ったりもするかもね。そうすると虫が増えるね。まあ燕を捕まえられる猫は結構限られるけど。
小動物なんて猫だけでなくカラスでもイタチでもやられる生き物を飼っておきながら戸締りしていないお前が悪い。小動物を飼っているなら責任持って換気扇の排気口にも鉄製の網かけるレベルで厳重に守れ。
「猫の狩猟本能が強いのは先述の通り人間のエゴのために進化したからです。」という前提を頭に入れて対策しろ
そうは言っても糞尿被害が
自治体に相談しろ、猫よけ超音波マシンとかいろいろ貸してくれる場合もある。
他にもスプレーとか、猫の苦手なニオイや食べ物、いろいろ対策グッズはある。
てか実家がクソ田舎の百姓だけどお呼びでない来客なんて無限に現れますがな〜〜〜庭や畑には鹿も猪も日本ざるもイタチもタヌキもやってくるけど当っっっっっっっっったり前に彼ら動物に「法律で決められた土地の所有権」なんて理解してもらえるわけがないなんて小学生でもわかんない?だから人間サイドで対策するしかないなんてどんなバカでもわかるだろ!!なんで都会の人間は猫が入ってきたくらいでそんなピャーピャーと・・・猫なんて別に人間に襲いかかってくることもない。お呼びでない来訪者の中ではかなりマトモな部類だってのに・・・
地球は人間だけのものではありません!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
Permalink |記事への反応(25) | 10:59
目覚ましは06:17、豆は正確に12.3グラム、挽き目は中細、湯の温度は93.2℃で抽出時間は2分47秒。
ルームメイトがたまにまちがえて計量スプーンを左から右へ並べ替えると、その不整合が僕の内部状態の位相をわずかに変えるのを感じるが、それは許容誤差の範囲内に収められている。
隣人の社交的雑音は僕にとって観測器の雑音項に過ぎないので、窓を閉めるという明快なオペレーターでそれを射影する。
友人たちとの夜はいつも同じ手順で、ログイン前にキーボードを清掃し、ボタンの応答時間をミリ秒単位で記録する。
これが僕の日常のトレースの上に物理的思考を埋葬するための儀式だ。
さて、本題に入ろう。今日はdSの話などではなく、もっと抽象的で圧縮された言語で超弦理論の輪郭を描くつもりだ。
まず考えるのは「理論としての弦」が従来の場の量子論のS行列的表現を超えて持つべき、∞-圏的・導来幾何学的な定式化だ。
開弦・閉弦の相互作用は局所的にはA∞代数やL∞代数として表現され、BV形式主義はその上での微分グラデーション付き履歴関数空間におけるマスター方程式として現れる。
これを厳密にするには、オペラド(特にmoduli operad of stablecurves)とそのチェーン複体を用いて散乱振幅をオペラディックな合成として再解釈し、ZwiebachやWittenが示唆した開閉弦場理論の滑らかなA∞/L∞構造を導来スタック上の点列として扱う必要がある。
導来スタック(derived Artin stack)上の「積分」は仮想基本クラスの一般化であり、Pantev–Toën–Vaquié–Vezzosiによるシフト付きシンプレクティック構造は、弦のモジュライ空間に自然に現れる古典的BV構造そのものだ。
さらに、Kontsevichの形式主義を導来設定に持ち込み、シフト付ポアソン構造の形式的量子化を検討すれば、非摂動的効果の一部を有限次元的なdeformationtheoryの枠組みで捕まえられる可能性がある。
ここで重要なのは「関手的量子化」すなわちLurie的∞-圏の言語で拡張TQFTを∞-関手として定義し、コボルディズム公理を満たすような拡張場理論の対象として弦理論を組み込むことだ。
特に、因果的構造や境界条件を記述するfactorization algebra(Costello–Gwilliamの枠組み)を用いると、局所的観測子代数の因子化ホモロジーが2次元世界面CFTの頂点代数(VOA)につながる様が見えてくる。
ここでVOAのモジュラリティと、2次元場の楕円族を標的にするエリプティックコホモロジー(そしてTMF:topological modular forms)が出てくるのは偶然ではない。
物理的分配関数がモジュラー形式としての変換性を示すとき、我々は位相的整流化(string orientation of TMF)や差分的K理論での異常消去と同様の深層的整合性条件に直面する。
Dブレインは導来カテゴリ(整合層の導来圏)として、あるいは交差的フカヤ圏(Fukaya category)として表現でき、ホモロジカルミラー対称性(Kontsevich)はこれら二つの圏の導来同値としてマップされる。
実際の物理的遷移やアセンションは、圏の安定性条件(Bridgelandのstability conditions)とウォールクロッシング現象(Kontsevich–Soibelmanのウォールクロッシング公式)として数学的に再現され、BPS状態はドナルドソン–トーマス不変量や一般化されたDT指数として計算される。
ここで出てくる「不変量」は単なる数値ではなく、圏のホールディング(持続的な)構造を反映する量化された指標であり、カテゴリ的量子化の語彙では「K-theory的なカテゴリ不変量」へと持ち上げられる。
さらに、超弦の非摂動的断面を完全に記述しようとするなら、モジュライ超曲面(super Riemann surfaces)の導来モジュラス空間、そのコンパクト化(Deligne–Mumford型)のsuperversion、そしてこれら上でのファクタライゼーションの厳密化が不可欠だ。
閉弦場理論のstringfieldtheoryはL∞構造を持ち、BV量子化はその上でジグザグするcohomologicalobstructionを制御する。
より高次の視座では、場の理論の「拡張度」はn-圏での対象の階層として自然に対応し、拡張TQFTはCobordism Hypothesis(Lurie)に従って完全に分類されうるが、弦理論の場合はターゲットが無限次元であるため古典的公理系の単純な拡張では捉えきれない。
ここで我々がやるべきは、∞-オペラド、導来スキーム、シフト付きシンプレクティック構造、A∞/L∞ホモロジー代数の集合体を組織化して「弦の導来圏」を定義することだ。
その上で、Freed–Hopkins–Telemanが示したようなループ群表現論とツイストK理論の関係や、局所的なカイラル代数(Beilinson–Drinfeldのchiral algebras)が示すような相互作用を取り込めば、2次元CFT分配関数と高次トポロジー的不変量(TMF的側面)が橋渡しされるだろう。
これらは既知の断片的結果をつなげる「圏的連結写像」であり、現実の専門家が何をどの程度正確に定式化しているかは別として、僕が朝に計量スプーンを右から左へ戻す行為はこうした圏的整合性条件を微視的に満たすパーソナルな実装に過ぎない。
夜、友人たちと議論をしながら僕はこれら抽象的構造を手癖のように引き出し、無為に遺伝子改変を選ぶ愉快主義者たちに対しては、A∞の結合子の非自明性を説明して彼らの選択が位相的にどのような帰結を生むかを示す。
彼らは大抵それを"面白い"と呼ぶが、面白さは安定条件の一つの可視化に過ぎない。
結局、僕の生活習慣は純粋に実用的な意味を超え、導来的整合性を日常に埋め込むためのルーチンである。
明日の予定はいつも通りで、06:17の目覚め、12.3グラムの豆、93.2℃、2分47秒。そしてその間に、有限次元近似を超えた場所での∞-圏的弦理論の輪郭をさらに一行ずつ明確にしていくつもりだ。
1,2,3のセットSteamで買って長らく積んでたのをまのさばやったきっかけでやり始めたけどやっぱミニゲームとかアクション要素いらなくない?
1はクリア、2はまだ途中という状態だが、以下要素に対する批評というか文句を書いていく
無駄にカーソルが動くし。結局集中とか用意するなら最初から動かなくていいのに
ノイズも無駄に体力があることがあって、サイレンサー複数回当てないといけないのに重なっているせいで連打したらマイナス食らったりするのもクソ
途中で他人の発言を言霊として吸収できるようになるが、外すとまた吸収し直さないといけないのも面倒なだけに思える
1は単純で良かったが2で複雑になってしまった
明らかにカーソルの移動が間に合わないことがあるし、タイミング悪いとスポーン直後に爆発する
答えわかっているのに一向に目当ての文字が出てこず、それでも2ではゴミの文字を処理させられ続けるのでひたすらに虚無
これは他の要素にも共通するんだけど、説明を画像とか一切出さずに文章だけでしようとしていておよそ理解させる気がない
特にこれは1の初見時まじで何したらいいのかわからず失敗になった
1はクソ。ひとつひとつのコマが小さいのに、ドアを出るときのコマと入るときのコマみたいな区別つかねえよみたいな選択肢を当てる必要がある。作者の脳内当てでしかない
2では良くなった。当てはめるコマと空欄どちらにも説明が付いたし、1コマごとに正誤判定がされる
失敗すると一々前の段階に戻されるのもだるい
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総じてなんだけど考えることに集中させてくれないんだよね
まのさばはダンガンロンパに比べてミステリーの質が低いみたいな意見をたまにみかけるんだけど、個人的にはダンガンロンパはミニゲームがノイズ過ぎてミステリーとしての面白さを受け取りにくい
超弦理論における非摂動的構造を考えるとき、問題はもはや10次元の臨界弦ではなく、compactification の背後に潜む数理的枠組みそのものにある。
AdS/CFT が Hilbert空間の整合性を保証してくれるとき、そこではモジュライ空間の代数幾何的記述と、ボルツマン的エントロピーの統計力学的扱いが見事に一致する。
だがdS 背景では、CFT の境界条件を設定することすらできず、代わりに我々が扱うべきは von Neumann algebra の subfactortheory による operator algebraic entropy だと僕は確信している。
今朝は、特に Tomita–Takesaki理論がこの問題にどう関与するかを計算していた。モジュラー作用素を通じて、ホライズン領域に割り当てられる代数が自然に KMS状態を持つことは知られている。
しかし、それが有限のホライズンエントロピーとどのように整合するかは未解決だ。
僕の試算によれば、モジュラー流のスペクトル分解をdS 半径 R にスケーリングしたとき、スペクトルが離散化される条件は、グロモフ–ハウスドルフ距離で測ったコンパクト化多様体のリミット挙動に依存する。
この議論は通常の弦理論の perturbative expansion を完全に超えている。
さらに、今日新しく進展した点は、mirror symmetry の SYZ予想をdS 背景に拡張できるかもしれないという仮説だ。
通常、Calabi–Yau のトーラス・ファイバー化は Ricci-flat metric を前提とするが、dS 背景ではその条件が崩壊する。
しかし、もし Fukaya category の A∞構造を熱的なdSホライズンに対応づけられれば、B-model 側での Hodge構造の変形がエントロピーの有限性と直接結びつく。
これは Kontsevich のホモロジカル鏡対称性の範疇的な一般化であり、物理の言語を超えた純粋数学的枠組みに昇華できる可能性がある。ウィッテンですらここまで踏み込んだ議論は残していない。
ルームメイトは僕の机の上に散らばったノート群を「意味不明な落書き」にしか見ていないようだ。
だが彼がコーヒーメーカーの掃除を忘れたせいで僕のルーティンは乱れた。僕は毎朝 8:15 に完全に洗浄された器具から抽出されたコーヒーを必要とする。それがなければ、トモナガ–シュウィンガー形式の計算に集中するための臨界閾値に達しない。
午後は研究の合間に最新号のX-Menを読んだ。今の Krakoa 編は mutant resurrection protocol が量子力学的アイデンティティの問題に直結している点で実に興味深い。
彼らの「記憶の転写」は、実質的に QFT における superselection sector の選択と同型であり、人格の同一性問題を単なるストーリー装置ではなく代数的トピックとして再定式化している。コミックがここまで理論物理学に接近しているのは愉快だ。
夕方には隣人が再び僕のドアをノックもせずに入ってきた。僕は彼女に、3回ノックの習慣の統計的・力学的優位性を説明したが、彼女はただ笑っていた。僕は統計力学的相関関数の崩壊時間にまで言及したのに、全く理解されなかったのは残念だ。
夜は友人たちとオンラインで「シヴィライゼーションVI」をプレイした。僕は当然バビロニア文明を選び、初期科学力の爆発的伸びを利用して量子物理学のテクノロジーを前倒しで取得した。
これにより彼らが鉄器時代にいるうちに宇宙船を建造する計画を立てたが、ルームメイトが外交的に裏切りを行ったため計画は頓挫した。まるでdS 背景での境界条件喪失のように、整合性は一瞬で崩れ去った。
こうして木曜日は終わる。だが僕の頭の中ではまだ、モジュラー作用素とホライズンエントロピーの計算が渦巻いている。明日までに証明できれば、歴史に残る仕事になるかもしれない。
最近、生成AIだのと騒がれているが、しょせんこれも人間が持つ浅ましく、怠惰な欲望を増幅させる道具に過ぎない。
「ペーパーミル・ネットワーク」と呼ばれる、カネ儲けのための不正論文製造業者は、このAIという最新の玩具を手に入れ、その活動を工業規模の詐欺の自己放尿へと進化させている。
事態はシンプルだ。昇進、学位、研究費、これらすべては「論文数」「インパクトファクター」という紙切れで測られる。
研究者どもは、本来の価値ある研究をする手間と時間を惜しみ、その結果、研究者としての存在意義を問われるような行為、いわば自己放尿(自らの業績を水増しすること)に走る。
「捏造したデータでいい感じの論文をAIに書かせよう」「既存の文章をAIで巧妙に言い換えて盗用チェックを回避しよう」「全く中身のない論文を何本も量産して実績を水増ししよう」。
彼らにとって、AIは「嘘を真実らしく見せるための高性能な化粧品」でしかないのだ。
結果はどうなる?学術界は、粗悪で信頼性のない自己放尿論文で溢れかえる。
まともな論文は埋もれ、査読システムは崩壊し、科学的知識の土台そのものが腐っていく。
AIが進化すればするほど、不正はより巧妙になり、真実と虚偽の境界線は曖昧になる。
この問題の根源は、AIの技術ではない。それを悪用する人間の「成果至上主義」と「倫理観の欠如」のダブル放尿だ。
君たちがこの腐敗を止める唯一の方法は、ロジカルに考え、不正を働く者に一切の容赦をしないという冷徹な意志を持つことだけだ。
でなければ、学術界全体が、いずれ自己放尿の汚水に溺れることになるだろう。
以上だ。しっかり心に刻んでおけ。
多分何言っても理解してもらえない気がするが、「最上位プランの値段を上げること=持続不可能」という言い分の反証として
ネトフリの最上位プランは右肩上がりで値上がりしてるけどネトフリ自体は会員数もずっと伸ばして持続してるって書いてるのよね
で、ゲームパスがその先行モデルと似た成長をしてるかどうかは「会員数もネトフリ同様に伸びてるか」も見なきゃ分からんわけ
そこは公表されていないし、だからこそ「10年後も20年後もゲームパスは絶対に続いてるんだ!」なんて主張はしてなくて、
あくまで「値上げ=即持続不可能ではないよ」しか言ってないんだよ...
そもそも先行事例のネトフリだって別に5年後にまだ続いてるかは誰にも分からない。
サービス開始から14年、最上位プランはずっと値上げしながらも会員数は増えて現時点でもサービスは続いている、この状況からその先を予測しているだけ。
で、書き損じだと思うが
はダウトで、「ソフトメーカー」としてのマイクロソフトはSteamでも例年売り上げ上位に何本か入るし、
直近はPS市場にもソフトを出してPSストアで月間1位になったりしている。これを普通ジリ貧とは言わないだろ。
ハードウェア事業、プラットフォーム事業は前年比減が続いているが、ゲームパスはXboxだけではなくPCやモバイルデバイスからのストリーミングでもアクセスできるサービスなので「ハードウェア事業の不調=サブスクサービスの不調」ではない。
「値上げして付加価値も大きくしたけどその価格と内容が市場に支持されなくて会員数減少に転じ、連続赤字となってサービス継続できなくなる」がサブスクサービス持続不可能のシナリオでしょ
※会員数をキーとしているのは、サブスクに入れるタイトルの誘致が「完全歩合」ではなくある程度の契約金も最初に払っているだろうという推測で、会員数が少なくサービス収入が契約金を下回れば当然それは持続不可能
※当然、「サブスクに投入するタイトル誘致の原資」を減らす方向もあるがここでは割愛
あとは言葉遊びの範疇だが、「開始当初から持続不可能だったサービス」がなぜ2017年から数えてもう8年サービスが続いているの?
新しい事業やシステムなりを立ち上げる時にはコンサルを入れて、いざ動き始めると運用業務にも細かい意思決定には知見とロジカルな思考能力が必要なのでコンサルにサポートしてもらい、みたいなことをやっている。コンサルトの契約は3ヶ月更新だが、実質的には年単位で常駐的に入ってるメンバーも複数人いて、彼らがいないと社内業務が回らない。元々はスペシャリストとしてコンサルにサポートしてもらい、社内の業務知識に基づいたチューニングや組織への落とし込みはプロバーの人間がやってきたが、数年いるうちにコンサルメンバーの業務知識がプロパーメンバーを上回るようになってしまっている。社内人材育成の観点からの危機意識で内部の若手を定期的に部署配属させるが、新規のメンバーを育成していくノウハウも失われているため育成が進まず放置気味である。コンサルがいないと会社が回らない。
西ノ京大学って実際どんなところ?世間のイメージと内実が違う&よく聞かれるので、レポートしたい。
話を高校時代に戻すと、自分は成績は良かったが、帰宅すると小説ばかり読んでいたし、学校では看板とは違ってコンピュータプログラミングする部活で雑談と他人の作ったゲームの批評ばかりしていた口で、つまり、悲しいことに先見性はなかった。プログラミング技術の習得を思い立たなかったことを、後悔している。
三年の秋に赤本を開き、勉強しないといけないことに気づいたくらいで、他校の全国模試で一桁の成績をとるような連中とは無縁だった。
運良く現役で大学に滑り込み、医者にならずにすんだ。しかし、他人の腹を切って中に手を突っ込んで内臓を掴むことのできる職業は、そうそうないんじゃないかと思う。学部のガイダンスで「残りの大多数の(ハズレくじの)人も大学生活を満喫できるメニューを用意しているので安心して欲しい」と言われた通り、数学の才能その他はなかった。
一、ニ年目は、講義を詰められるだけ詰めて取ったおかげで忙しかった。一般教養の講義は、学生も教員もお互い期待しないだけあって多くはそれなりの質だったが、中には後に知識として役立ったものもあったし、良い先生もいた。この、過去の名声に胡座を掻き教育をしない大学に、決して期待してはいけない。一方で、専門の数学、物理は、よく理解できなかったが講義は良かった。生物はあまり面白くなかったが、これも適性というものだと思う。この大学の学生は、大多数の成績の良い普通の人、ごく一握りの上澄み層、そして有意な笑割合を占める自分のように運良く紛れ込んだ人、として分類できそうだが、上澄み層の人に学者として適性があるかといえば、必ずしもそうでもなさそうだ(数学の才人を除いて、実務家向きが多そう。だが、残念ながら、実務家として現に活躍している人がその層出身者にも見えない。いわゆる社会的なミスマッチ、個人的には人生の醍醐味だろうか。彼らは、どこで何をしているのだろう?)。
諸般の事情で大学院に進学した。本当は母校の悪口を言いたくないのだが、ここは匿名なので許してもらいたい。控えめに言って最悪だ。本来的には学部教育の不備が悪いのだが、研究者の職業教育訓練としてのカリキュラム(そんな決まったものはないし作り難いのは承知)がまるでないし、学生の意識任せ、所属する研究室の運任せだった。教授の下の親切な助教の先生は懇切丁寧に指導してくれるが、それも限度がある。論文を読んだり発表するには論理的な議論のやり方を習得する必要があるが、それにはこれまでの人生にひとまずさよならをして、意識的にロジカルな思考をはじめないといけない。見込みのある学生は放っておいても自分で身につけ発展するのだが、それを単に後押しすることで、徒弟教育した・篩をかけたことになっている。錬金術で一が十になった事実をもって、ゼロを一にしたと主張しているのだ。
研究も人間が組織を作って行う以上、人事が大事なのはいうまでもない。うまくゴマをすってなびかないと干されるのはどこでも同じだろう。問題は、人事やその他(プレゼンが上手い、など)の運にのみ頼ってキャリアを築いた、偶然のエリートが、無視できない割合で混じっていることだ(ポストを用意する側にも問題はあると思うが)。講義で成功者の研究上の転機や目の付け所を聞くのは後学のためになったが、偶然のエリートが色気を出して「こうすればうまくいく。こうするべきだ。だからこう教えている」と経験に基づかない独自の理論を言い回るのは実害がある。後に捏造で失職した人の「研究成果」を講義で拝聴したこともあるが、これと変わらない。
というわけで、大学院での大半の期間、自分は研究テーマに学術的な興味をもてず、密かな劣等感に苛まれて過ごした。ゼミで先輩や教授がコメントする内容が実は「大したことない」と気づいたのは、卒業する少し前のことだ。両親には支援を感謝している。今では当時と縁もゆかりもないコンサル職に就いているが、「お国のため」に貢献もしているので、投資は有益であったと思う。
以下で展開される議論は、アメリカのある哲学者が学術誌の査読(ピア・レビュー、同業者による査読)の適切さを確かめるためにでっち上げたデマ論文の内容であり、しかもその論文はある雑誌に受理された。
このことから投稿者は、文化人類学者ではないが、いくつかの考察を試みる。
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1. 以下の内容は、「サル山のボス猿とそのなかま」が信奉するペニス信仰と、それに対する「フェミニスト」の反論の両方を痛烈に揶揄している。これらの議論は、ここ「はてな」での果てしない同種のやり取りの上位互換となっている。つまり、そのことに気づかないでいる、いわば自己相貌失認を患う矮小な関係者の姿をアナロジカルに揶揄している。
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2. 仲間による「レビュー」を経て認められた「議論」が、いかに穴だらけなものであるか、つまり、特定のコミュニティの支配イデオロギーとはしばしば、ブードゥー教の偶像崇拝にすぎないことを示唆している。
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3.投稿者はこのデマ論文の紹介により、いわば原始人に優れた棍棒の作り方の一例を教唆することになるかもしれない。いずれにせよ、上位互換の議論がデマであると著者により暴露されたことは、はてなでの「議論」の有効性の上界を抑えられたことを意味する。平たくいうと、0くxく1のように、xの取りうる範囲が有限なある一定の値以上にならないことである。原始人たちが、今後どのような道を選ぶのか知らないが、進化の選択肢があることを付け加えたい。
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4.敷衍すると、この論文の内容に限らず、はてなでの任意の「議論」には、それの上位互換となるある学術的な議論を作ることができる、という可能性が示唆される。平たくいうと、はてなの投稿を分析すれば論文が書けるかもしれない。
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この論文「概念的なペニスは社会構成物である」は、ジェイミー・リンゼイとピーター・ボイルによって2017年にCogent Social Sciencesに掲載された研究論文であり、ペニスという概念が単なる解剖学的な器官ではなく、社会的に構築されたものであり、それが有害な「毒性のある男性性」(toxic masculinity)と密接に関連しているという革新的な主張を展開しています[1]。著者らは、この「概念的なペニス」が、ジェンダー・アイデンティティ、生殖に関するアイデンティティ、社会および家族の力学に深刻な問題を引き起こし、女性やその他のジェンダー周縁化されたグループにとって虐待の根源となり、レイプの普遍的な原因であり、さらに気候変動の概念的な原動力であると結論付けています[2-4]。
伝統的に、ペニスは男性の生殖器または性器として圧倒的かつ議論の余地のないものとして科学的に認識されてきました[5]。しかし、著者らは、この見方が「過度に還元主義的」であり、ペニスを持つ人間の経験の多様性を完全に表現できていないため、「首尾一貫しない構成物」であると指摘します[6]。
この主張の根拠として、まず解剖学的なペニスが必ずしも男性の生殖器官としての役割を果たすわけではないという事実が挙げられます[5]。例えば、怪我を負った者、配偶者を強制できない者、子孫を産むことに興味がない者、医学的に不妊の者、またはアセクシュアルを自認する者など、ペニスを持つ多くの人々が生殖を行いません。これらの例は依然として「男性」を構成するかもしれませんが、彼らのペニスを生殖器官として特定することは明確に誤謬であるとされています[5]。
さらに重要な点として、ペニスを持つ女性が数多く存在することが強調されます[5]。これには、性別適合手術前のトランスジェンダー女性や、女性と自認し、性別移行を望んでいない染色体上の「男性」が含まれます[5, 7]。文化的な有害な常識に反して、これらの人々にとって、彼らの性器(ペニス)は、生殖に利用される場合があったとしても、男性の性器として最もよく理解されるべきではありません[7]。このような人間の表現の多様性という重要な事実に照らして、ペニスを具体的に男性の解剖学的な器官と概念化することは、非常に問題があり、言説的な再検討が喫緊に必要であるとされます[6]。
著者らは、ペニスが「男性性に対する首尾一貫しない構成物」であるとし、ペニスは解剖学的な器官としてではなく、**ジェンダー遂行的な、非常に流動的な社会構成物**である「概念的なペニス」として理解されるべきだと主張します[6]。この「概念的なペニス」は、ジェンダーに関連する様々な遂行的な行為や発言を通じて社会で確立されるペニスの操作的な表現です[6]。
この概念的なペニスが、**「毒性のあるハイパーマスキュリニティ(hypermasculinity)」と等型写像的(isomorphic)な関係にある**とされています[1, 8-10]。この等型写像関係とは、二つの異なる構造が、その構成要素間の関係性において本質的に同じ形を持っていることを意味します。ここでは、概念的なペニスという社会構成物が、毒性のあるハイパーマスキュリニティの行動や心理と鏡像のように一致しているということです。
特に、この等型写像関係は、**「マチスモ・ブラガドシオ」(machismo braggadocio)**という概念によって媒介されます[10,11]。マチスモは本質的に攻撃的な男性のプライドを指し、ブラガドシオは傲慢な自慢の性質を意味します[12]。これらが一体となって、社会的に男性的な心や異性愛規範的な女性の心がペニスを「客観視」し、それを介して男性性と支配的な男性の権力ダイナミクスを遂行的に表現する具体的な描写であるとされます[12]。
この等型写像関係において、概念的なペニスは、ハイパーマスキュリンな男性が権力のない主体的な立場から強力な立場へと自身を再配置するために、**「主体」「客体」「動詞」の三つの役割**を果たします[11-14]。
この主体としての役割は、男性が性的な「征服」や「パフォーマンス」について自慢する際に明らかになります[16]。また、「俺は彼女にやった」「彼女はもっと欲しがった」といった表現に見られるように、名詞の「それ」("it")が客体的な概念的なペニスを女性の経験の知覚された主体に変え、概念的なペニスを男性のジェンダーパフォーマンスに関してさらに客体化します[16]。これにより、概念的なペニスは、ハイパーマスキュリンな心において、ペニスを主体として(男性の)セクシュアリティを強力な現実とする脱所有化(deappropriative)のツールとなります[16]。
この傾向は、性的なアイデンティティが根本的にヒエラルキーの維持に利用されるという考え方によって説明されます[17]。概念的なペニスを行動を表す動詞として使用することで、ハイパーマスキュリンな男性は、他者を抑圧し、脱制度化する社会的なヒエラルキーを強制し、自己を認識的に高めます[17]。この現象は、ラップ音楽におけるミソジニーの分析や、「マン・スプレッディング」(manspreading)と呼ばれる、公共交通機関などで男性が足を開いて座り、不必要に広いスペースを占有する行動にも見られます[17]。マン・スプレッディングの言い訳は、解剖学的なペニスと睾丸が「快適さ」のためにスペースを必要とするという男性的な社会言説に直接基づいていますが、これは概念的なペニスを遂行的な社会構成物として見た場合、周囲の空きスペースを「レイプする」ような支配的な物理的空間の占有であり、毒性のあるハイパーマスキュリニティへのマチスモ・ブラガドシオ等型写像を通じて最もよく理解されるとされます[17]。
マチスモはハイパーマスキュリンな本質であり、ブラガドシオはその表現です[10]。現代の思考における概念的な要素としてのペニスは、マチスモ・ブラガドシオの概念によって、ハイパーマスキュリニティにおける最も毒性があり問題のあるテーマと自然に等型写像関係にあります[10]。これらのテーマは、解剖学的なペニス自体には適用されず、生殖しない個人やアセクシュアルな個人にも関連性を持たないため、ペニスは既存の男性的な社会的な比喩を演じるために利用される、構築された社会的な客体、つまり言説的な「概念的なペニス」として理解されるべきだとされます[10]。
概念的なペニスが毒性のあるハイパーマスキュリニティに等型写像的に同定されることの最も問題のある結果の一つが、**気候変動**であると指摘されています[4, 18]。気候変動は、まさにハイパーマスキュリニティの特定の有害なテーマによって引き起こされており、これらは概念的なペニスと識別される気候生態学への支配的な略奪的アプローチを通じて最もよく理解できます[18]。
著者らは、地球が急速に2℃の気候変動閾値に近づいている原因が、現在の資本主義構造を維持する家父長的な権力ダイナミクス、特に化石燃料産業にあると主張します[18]。科学、政治、経済の言説におけるハイパーマスキュリンな支配と、生態系への修復不能なダメージとの関連性は明確であるとされます[18]。破壊的で持続不可能であり、ヘゲモニー的に男性的な環境政策と行動へのアプローチは、男性優位の精神性による自然の「レイプ」の予測可能な結果です[19]。この精神性は、男性心理に対する概念的なペニスの役割を認識することによって最もよく捉えられます[19]。
特に、資源を安価に略奪し、家父長的な経済的利益のためにその内在的な価値を奪われた後、荒廃し減退したまま放置されるような「未開の環境」にこの精神性が適用されるとき、概念的なペニスに内在するレイプ文化の延長が明らかになるとされます[19]。気候変動は、最もよく言えば、ハイパー家父長制社会が地球の生態系にメタファー的に「マン・スプレッディング」している例であると述べられています[19]。
この問題のある傾向の根底にある理由は、現代の資本主義理論、すなわち新資本主義理論が、科学と社会におけるハイパーマスキュリンな焦点から直接その合理性の主張を引き出していることにあります。そしてこの焦点は、概念的なペニスとの同一視によって最もよく説明されるとされます[20]。毒性のあるハイパーマスキュリニティは、概念的なペニスから直接その意義を引き出し、新資本主義的唯物論の支持に自身を適用します[20]。この新資本主義的唯物論は、特に炭素排出の化石燃料技術の無制限な使用や、未開の自然環境の無謀な支配において、気候変動の根本的な原動力であるとされます[20]。
この分析から導かれる実践的な推奨事項は、気候変動研究において、可能な限りハイパーマスキュリンなペニス中心の視点を避けるように、政治や科学の言説への関与方法を変えるべきであるというものです[3]。
結論として、著者らは、ペニスは男性の性器や生殖器として理解されるべきではなく、むしろPermalink |記事への反応(0) | 19:03
昨日は日曜日であった。
したがって、日曜用のルーティンに従った。
午前6時55分に起床、7時15分にオートミールを開始。粒子の無秩序な拡散が統計力学に従うように、僕の日課もまた厳格に支配されている。
朝食後、僕はCalabi–Yau三次元多様体におけるホモロジー群の壁越え現象とN=2超対称的世界面理論におけるBPS状態の安定性を再検討した。
通常、専門家であってもモジュライ空間における壁越え(wall-crossing)は曖昧な比喩で済ませる。
しかし僕は昨日、Kontsevich–Soibelmanの壁越え公式を非摂動的補正を含む形で、実際の物理的スペクトルに対応させることに成功した。
問題の核心は次の点にある。Calabi–Yauの三次元特異点に局在するDブレーンの安定性は、直感的なトポロジーでは決して記述できない。
むしろそれはモチーフ的Donaldson–Thomas不変量と深く結びついており、これを扱うにはホモロジカル鏡映対称性と非可換変形理論を同時に理解していなければならない。
昨日、僕はその両者を結びつけ、量子補正されたブリッジランド安定性条件が実際に物理スペクトルの生成消滅と一致することを示した。
これを実際に理解できる人間は、世界でも片手で数えられるだろう。
昼食には日曜恒例のタイ料理を食べた。
ルームメイトはなぜ毎週同じものを食べるのかと尋ねたが、それはエントロピーの増大を制御する試みである。
食事の変動を最小化することで、僕の脳内リソースを物理学的難問に集中できるのだ。
しかし、彼らが戦術的に無意味な突撃を繰り返すたびに、僕は思考を4次元超曲面上のゲージ場のモノドロミーへと戻していた。
ゲームのリスポーンは、トポロジカル量子場理論における不変量の再出現と驚くほど類似している。
僕はゲームの各局面をゲージ場構成の異なる真空遷移として解析したが、彼らにはその深遠さは理解できなかった。
スピードフォースの異常を、僕は時空の計量が非可換幾何により修正された場合の有効理論として再定式化してみた。
通常の物理学者ならコミック的フィクションと切り捨てるところを、僕はモジュライ空間の虚数方向における解析接続として解釈したのである。
結果として、作中の時間遡行現象は、M理論のフラックスコンパクト化における非局所効果で説明できることが分かった。
夜は22時に就寝。日曜日という閉じた系は、僕にとって「物理学の非摂動的側面を試す実験場」であり、同時に秩序ある生活習慣という境界条件に支えられた完結したトポスである。
今日(月曜)は、昨日の計算を研究室に持ち込み、同僚が一切理解できないことを確認する予定だ。確認作業自体が、僕にとっては一種の実験である。予測通り、彼らは理解できないだろう。