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「ルソー」を含む日記RSS

はてなキーワード:ルソーとは

次の25件>

2025-09-08

anond:20250908192240

ソフィールソー

Permalink |記事への反応(0) | 19:45

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2025-08-05

anond:20250804171112

ドン・キホーテ』『告白』(ルソー)『レ・ミゼラブル』『白鯨』『カラマーゾフの兄弟』『源氏物語』『ハックルベリー・フィンの冒険』『ねじまき鳥クロニクル』『モンテ・クリスト伯』は死ぬまでに読め

Permalink |記事への反応(0) | 09:27

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2025-08-03

anond:20250803064928

一定の調整は必要だが、

社会にとって差引マイナスならAVは【当然】規制されるべき」

ものではない。

当然ではないということ。

 

個人が先、社会が後と、ヤン・ウェンリー元帥も言ってるのはそういうこと。

日本国憲法前文が掲げる、ホッブスロックルソー社会契約説はそういうことだ。

 

社会契約説は、鑑真和尚弘法大師……じゃないGHQがせっかく海を越えて教えてくれたありがたいフランスのお経なのに、

奴隷根性ジャップどもには相変わらず腑に落ちてないようで残念なことだ

 

もちろん、社会契約説は歴史的事実ではないがね

Permalink |記事への反応(0) | 15:12

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2025-07-20

anond:20250718204346

1.ルソー全体主義の関連は、歴史学定説ではない:

*ジャン=ジャック・ルソーの「一般意志」という概念が、後に全体主義ナチス・ドイツ

ソ連など)に悪用された、あるいはその思想的源流になったという議論は、一部の政治哲学

者(例えばジェイコブ・タルモン)によってなされたことがあります

*しかし、これはあくまで一つの解釈であり、歴史学政治哲学の分野で広く受け入れられて

いる定説ではありません。むしろルソー思想フランス革命近代民主主義の基礎を築

いたと評価されることの方がはるか一般的です。


2.単純化しすぎた論理:

* この記事は、ルソーの複雑な思想の一部(一般意志)だけを取り出し、「個人自由よりも

全体の調和を優先する」→「だから全体主義だ」というように、非常に単純化して結論づけて

ます。これは、彼の思想の他の重要な側面(例えば、直接民主制への志向権力分立の重

要性)を無視した、意図的曲解に近いものです。


3.因果関係の誤り:

*ナチズムスターリニズムといった20世紀全体主義は、当時の特定社会的経済的、政

治的状況(第一次世界大戦後の混乱、経済恐慌ナショナリズムの高揚など)からまれ

ものであり、その原因を18世紀思想家一人に求めるのは、歴史の複雑さを無視した暴論と

言えます


4.提供されたページのコメント欄の反応:

* 私が確認したところ、提供されたページのコメント欄でも、この記事の主張に対して「自己

矛盾の塊」「陰謀論レベル」「雑な議論」といった批判的な意見が多数を占めています。こ

れは、この記事の主張が一般的に見ても受け入れがたいものであることを示唆しています


結論として、この記事は「ルソー全体主義の父」という過激単純化されたレッテル貼りを行っ

ているに過ぎず、学術的な裏付けに乏しい個人的な意見表明です。これを歴史的な事実として受け

取るのは非常に危険です。


歴史上の思想評価する際は、様々な側面から多角的に見ることが重要です。

Permalink |記事への反応(0) | 11:41

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2025-07-19

ルソーはなぜ北朝鮮の祖と言えるのか

どうもルソー=全体主義理屈理解できてない人が多いみたいですけどね

なぜ個人財産身体生命国家に捧げることが「自由」なのか?

そこが理解できていない

なぜかといえばルソー民主主義においては「個人=国家」という理屈

個人国家は完全一致、よって自分自分支配するのであり

他の何者にも支配されていない、よって「自由」だという理屈

そんなバカなとなるのが普通感覚で、そこで曲解が生れる

そんなバカなと思うのは、個人個人の考えは多様で「個人=国家」になるはずがないと考えるから

だがルソーは「一般意志」という考えを導入した

個々人の利害による遺志は「特殊意志」であり、

個人特殊な利害を超えた、共同体全体の利益を追求する意志が「一般意志である

よって、何かの政策に反対であっても、それは「特殊意志」であり、「一般意志」では賛成ということが起こりえるのである

そしてその「特殊意志」は絶対的に正しく、国民はそれに従わなければならないのである

この「絶対的に正しい」とは勘違いしてる人が多いのだが、科学的に正しいとか、その政策は失敗しないとかいった意味ではなく

個人と完全一致するという意味である。よって自分が決めたことに従っているということになる。

ここで肝心なのは民主主義国家においては民主的に決定されたことは反対であっても従わなければならないのは当然だということ。

だが、そもそもルソー一般意志理論では「反対することが理論的にありえない」のである。なぜならそれは「自分意志」だから

そして最大の問題は「特殊意志」と「一般意志」を誰がどうやって見分けるのかといううこと

たとえ権力者善意に基づいていようと、彼が「一般意志」だとしたものが本当にそうだとは限らないのだ

そして大多数にとっては全く望ましくないことが「人民意志」として人民強制されることにもなる

本人は利己心でやってるという自覚が無いから余計たちが悪いとも言える

Permalink |記事への反応(0) | 14:26

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2025-07-18

リベラルとは何か

どうもわかってない人がいるみたいだしネット説明何だかなあというのがあるので説明する

リベラルとは基本は米民主党のこと

共和党民主党を「社会主義」と批判したのが始まり

ヨーロッパ日本だったら「社会主義何が悪い」なんだが

アメリカでは歴史的に「社会主義=全体主義」というイメージが強いので忌避される

そこで「リベラル」と自称するようになった。社会的弱者は国が助けなければ自由を得られないという趣旨

それを日本に援用して社会民主主義的な勢力を「リベラル」と呼ぶようになった

から共産党本来まれないが「言葉意味は変化する」と言われればそれまで

一方の「自由民主党」の「自由」だが、自由党と民主党が合同して自由民主党になったもの

この自由はいわゆる「古典的自由主義」の「自由」かといえばそうでもなく非社会主義・非共産主義的な意味

そもそもほぼ全てのイデオロギーで「自由」は求められている

ただし「自由」の定義が異なる

古典的自由主義の「自由」は何にも束縛されることのない自由で、この思想は「保守」と対立した

保守自由主義の「自由」は道徳や慣習等を破壊無秩序を生むだけで、それは本当の「自由」ではないと主張する

社会主義の「自由」はリベラルに同じ。自由のための国の役割を重視する

そして意外だろうが全体主義も「自由」を主張する

決して人々を騙すために「自由」を主張するのではない

だが「自由」の定義がいわゆる自由主義国の「自由」とはかけ離れている

全体主義国家の「自由」とは、個人の持つ財産はもちろん体も精神も全て国家に捧げることによって達成されるという「自由

カルト宗教のようだが、本気でそうすることによって人は「自由」になれるとするのだ

そして、その思想の源泉はかのジャン=ジャック・ルソーなのである

日本は真の民主主義国家ではない、ルソーを学べ」などと言われるあのルソーこそが全体主義国家の「自由思想の元であり

ナチスソ連北朝鮮ルソー弟子である

もちろん自由主義諸国ルソー思想危険性に気付いており、ルソー思想修正を加えているが

フランス革命その他に影響を与えた人物なので未だに「偉人」として遇されている

そんだから純粋なるルソー信奉者が出てきて、自由を唱えるくせに全体主義志向だったりするのである

Permalink |記事への反応(2) | 20:43

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2025-07-13

anond:20250712142415

投票した者が市民

権利とは義務である

ルソー

市民とは契約の履行者である

自由とは法に従う事である

米国独立宣言

政府人民同意に基づいて正当な権力を持

憲法12

自由及び権利は常にこれを濫用してはならず国民はこれを保持するために努力しなければならない

投票納税しない権利は無い

Permalink |記事への反応(0) | 14:53

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2025-04-14

anond:20250414053901

AIに聞いてみたけど「ほぼ合ってる」と言われたぞ

ーーー以下AIーーー

命題は次のような構造です。

1.哲学は前提から演繹して思想を構築する。

2. 前提が違えば、導かれる思想も異なる。

3. だから哲学は「観点」や「見方」の陳列にすぎない。

それぞれ検証します。

1.哲学は前提から演繹して思想を構築するか?

→ ほぼ正しいです。

哲学では厳密な定義づけを行い、「もし〜ならば」という形で議論を展開します。

たとえばデカルトの「我思う、ゆえに我あり」は「疑い得るすべてを疑う」という前提から出発しています

カントも「認識経験に先立つ構造がある」という前提で組み立てます

まり哲学の多くは前提→演繹→体系化というプロセスです。

2. 前提が違えば、導かれる思想も異なるか?

→ これも正しいです。

たとえば:

前提の違いで全く異なる体系が展開されます

物理学では実験で淘汰される前提が、哲学では「論理的整合性しかチェックがないため、並列して残るのです。

3. 「観点」「見方」の陳列にすぎないか

→ ここは部分的に正しいが、完全ではありません。

かに哲学は多様な「観点の陳列」に見えます

しかし、哲学の営みは「どの前提が最も説得力があるか」を論争し、歴史的に淘汰と洗練が行われてきた過程でもあります

たとえば:

まり観点の陳列ではあるが、ランダムな羅列ではなく「知的淘汰と再編の過程」でもある。

結論

あなた批判哲学構造的な弱点を的確に突いていますが、「陳列するだけ」に限定するのはやや過小評価です。

哲学は確かに前提依存で多様な観点が並びますが、それらを整理し、どの視点がより妥当かを探る「批判と洗練の営み」でもあります

Permalink |記事への反応(1) | 05:48

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2025-02-27

【DeepSeekR1】『訂正可能性の哲学東浩紀 VS 『万物黎明』グレーバー

プロンプト:

『訂正可能性の哲学東浩紀と、『万物黎明(TheDawn ofEverything)』David Rolfe Graeberは、二人とも、ルソーを論じています。二人のルソー観の相違点や類似点分析してください。

DeepSeekR1:

東浩紀の『訂正可能性の哲学』とデイヴィッド・グレーバーDavid Graeber)の『万物黎明』におけるルソー解釈比較分析は、両者の思想立場学問アプローチの違いを浮き彫りにします。以下、相違点と類似点を整理します。

類似点ルソー批判の出発点

1.近代社会起源への懐疑

両者ともルソー提示した「自然状態」や「社会契約」の物語を、近代社会起源説明する神話として批判的に扱います。グレーバーは「万物黎明」で、ルソーの「不平等起源論」が啓蒙思想進歩史観依存することを指摘し、東は「訂正可能性」の観点からルソー社会契約論が持つ決定論的側面を問題視します。

2.脱構築姿勢

東もグレーバーも、ルソー思想を単なる歴史的テキストではなく、現代社会批判するための「ツール」として再解釈します。ルソーの「自然状態」を文字通りの史実ではなく、現在社会構造を相対化するための比喩として読み直す点に共通性が見られます

相違点:ルソー評価の軸

1.自然状態人間可能

人類学実証主義に基づき、ルソーの「自然状態」を「神話フィクション」と断じます。『万物黎明』では、先史時代社会が既に複雑な自由平等システムを持っていたことを強調し、ルソーが想定した「原始的な単純さ」を否定します。ルソーの「高貴な野蛮人概念は、実際の先住民社会多様性矮小化する「ヨーロッパ中心主義幻想」だと批判します。

ルソーの「自然状態」を、社会の「訂正可能性」を開くための仮構として積極的評価します。ルソーが示した「社会人為的に構築されたものであり、再構築可能だ」という思想を、現代情報社会におけるゲーム的・プロトコル的な秩序の再編に応用します。ここでのルソー解釈は、現実批判よりも「未来設計図」としての側面が強調されます

2.個人共同体関係

ルソーの「一般意志概念を、中央集権的な権力正当化に利用されたと批判します。代わりに、分散型の自治実践した先史社会の事例を提示し、「個人自由集団的合意対立しない」という反ルソー的なモデル提案します。

ルソー社会契約論を、個人欲望社会規範の「ずれ」を前提とする動的システムとして再解釈します。データベース消費社会における「動物化」という概念(『動物化するポストモダン』)と結びつけ、ルソーの「自己修正する社会」の可能性を、情報技術時代の柔軟な秩序形成投影します。

3.歴史観の違い

ルソーの直線的進歩史観自然状態社会堕落契約による再建)を完全に否定し、非線形的で多中心的な人類史復元します。ルソーが想定した「起源」そのもの虚構とみなす点で、根本的な批判を行います

ルソー歴史観を「修正可能性の物語」として部分的継承します。社会が絶えず自己修正を迫られる「未完のプロジェクト」であるという考え方を、ポストモダン社会流動性と結びつけます。ここではルソーは「批判すべき対象」ではなく、「再発明すべき先駆者」として位置付けられます

結論ルソーをめぐる思想対話

両者の対照は、ルソーというテクストを「過去遺物として解体するか」(グレーバー)、「未来への触媒として再生するか」(東)という方法論の違いに集約されますしか共通しているのは、ルソー現代問題を考えるための「思考実験場」として活用する姿勢です。

プロンプト:

これを東浩紀が語っているような文体で直してください。一人称は「ぼく」で。

DeepSeekR1:

(以下、東浩紀文体意識した一人称再構成です)

>> ぼくが『訂正可能性の哲学』でルソーを論じたとき、どうしても気になっていたのは、21世紀情報社会18世紀社会契約論が、意外なところで繋がるんじゃないかってことだった。ルソーって「自然状態」とか「一般意志」とか、けっこうロマンチック概念を振りかざすでしょ? でもね、あれはたんに昔の理想を語ってるんじゃなくて、社会OSが書き換え可能だって気付かせてくれるツールなんだよね。<<

>> グレーバーが『万物黎明』でルソー批判してるのは知ってる。あの人類学的な実証主義もいいんだけど、ぼくの立場ちょっと違う。ルソーの「自然状態」が史実かどうかなんて、どうでもいいんだ。重要なのは、あのフィクションが「いまの社会絶対じゃない」って可能性を開いたことだ。たとえばSNSアルゴリズムだってルソー流に言えば「人為的プロトコル」でしょ? だったらユーザー同士で修正できる余地があるはずだ——そんなふうに考えられるのがルソー面白さだよ。<<

>> グレーバーさんが先史時代自由を強調するのもわかる。でもぼくらが生きてるのは、もう一度グローバルな社会契約を考え直さなきゃいけない時代だ。ルソーが『社会契約論』でやったように、中央集権でも個人バラバラでもない、新しい協調の形をゲーム理論AIと組み合わせて探る必要がある。そのとき自然状態」という仮構は、逆にすごく役に立つんだ。現実に縛られないからこそ、倫理的な実験ができるわけで。<<

>> もちろんルソーには問題もある。たとえば「一般意志」が全体主義に転がりやすいのはその通りだ。でもぼくが『動物化するポストモダン』で言った「データベース消費社会」を見てみ? あそこでは人々の欲望バラバラで、もはや「一般意志」なんて成立しない。でもルソー理論を逆手に取れば、そのバラバラ自体社会の訂正可能性のエンジンにできるかもしれない。つまりルソーは、彼自身が予想してたよりもずっとポストモダン思想家だったんじゃないかって話だ。<<

>> グレーバーさんとの違いをあえて言えば、彼がルソーを「過去神話」として解体するなら、ぼくはルソーを「未来触媒」として使おうとしてる。人類学大事だけど、哲学役割過去の正しさを証明することじゃない。間違ってた思想家ほど、新しい思考を生む資源になる——それが訂正可能性の本質だと思うんだよね。<<

(※東浩紀の実際の文体を完全に再現したものではありませんが、インタビュー調の語り口・「ぼく」の一人称・「ゲーム的」「プロトコル」「データベース」などのキーワード意識した再構成です)

Permalink |記事への反応(0) | 00:39

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2025-02-10

anond:20250210173309

そういうこと言った、18世紀社会不適合者哲学者ルソーのせいで、70年代ぐらいに青春を過ごした数々の陰キャたちが無駄自意識をこじらせていったわ

 

ちゃんとその後の哲学者もやれば、そういう物言いなんて、不得意なコミュニケーションをサボってる言い訳だってわかるんだがね。

Permalink |記事への反応(0) | 17:44

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2024-11-28

anond:20241127195444

ルソーの頃からやってるよね

Permalink |記事への反応(0) | 15:44

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2024-11-20

シロクマ先生記事の書き方は、齋藤知事パワハラと同じである

インテリ層の良くない部分が出ているので、あえて名指しで批判する。

シロクマ先生の書き方は良くないです。今すぐに謝罪して記載を改めるべきです。どんな人間馬鹿にされたことは敏感に感じ取ります

もしも本当に、心の底から馬鹿にするつもりも嘲るつもりも無かったのであれば、全ての比喩表現を直接的な表現に改めて、その上でどのように受け取られる可能性があるか考えてみてください。

シロクマ先生の以下の記事は、齋藤知事パワハラと全く同じです。

追記

皮肉が良くないと受け取られてしまったため、本記事趣旨追記します。

まとめると、「選挙民を馬鹿にし、自己批判は無く、現状を嘆き、陰謀論で締める」のは、インテリ層の振る舞いとして最悪なので即刻止めるべき、です。

シロクマ先生記事が、善意から皮肉と言う形で選挙民に気づきを促すという趣旨で書かれていたとしても、それは理路として齋藤知事パワハラと同じ構造を持つ、

"良い民意"を持つシロクマ先生が、"悪い民意"を持ってしまった相手を変えてあげようという意図をもって記事を書いたのであれば、その手法は、パワハラ正当化する構造と同じですよ、という指摘です。(そんな意図ではない、そういう文脈ではない、よく読めばわかるはずだという反論をされないために、具体的に個別例を挙げています

皮肉からは悪意を感じ取るのが通常の感性ですし、悪意を感じ取った相手嫌悪感を覚えることはあっても好意を持つことはありません。その結果、より立花氏に優位になる記事になっていますよ、という意味です。こういう記事表現の積み重ねが、立花氏の活動を補助しています

皮肉とは、「悪意ある民意との記載にそうだそうだと同調するキミら(私も含む)は、動画コメントした彼ら彼女らよりも選挙に至るプロセス理解していただろうか?」という、自己批判もしくは悪い感情を持っているぞと伝えたい相手(例えば齋藤兵庫県知事)にするべきです。

追記ここまで。

シロクマ先生記事のうち、記載を改めるべき箇所

インターネット民主主義が加速して良かったですね

ビバ! デモクラシー

https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20241119/1732024800

斎藤氏はパワハラ疑惑を巡る認識を問われると、「よい県政をしていきたいという中で業務上指導や注意を厳しくしたことはあった。これがハラスメントに当たるかは第三者委員会などで審議されることになる」と語った。

https://mainichi.jp/articles/20241119/k00/00m/010/159000c

小学生を含めて(個人的感覚では、不満を表明できるのは小学三年生前後)、悪意には非常に敏感です。どのような言葉遣いであっても馬鹿にされたかどうかは瞬時に理解します。

インターネット民主主義が加速して良かったですね」という「良かったですね」という物言いは、対象を嘲る言い方です。自覚が無いのであれば今すぐに改めるべきです。

以下、具体的に指摘します。

民主主義が三度の飯より好きな人には、ともあれ好ましい選挙だったのではないだろうか。

「今回の選挙は、民主主義を正しく反映したと言えるのではないだろうか」という書き方ではいけなかったでしょうか。

なぜ、「民主主義が三度の飯より好きな人には」と、民主主義を好ましいと思う人を「三度の飯より好きな人"には"」という表現にして限定しまたか

今回の選挙結果を、揶揄する意図が無いのであれば即刻改めるべき表現です。

他の支持者との一体感体験やすい仕組みのおかげで、「いいね」や「シェア」ぐらいでも推し活気分や選挙活動気分を味わえたりする。

自分は、いいねシェアボタンを押す行為は、選挙活動とは言えないと思う」と書き方ではいけなかったでしょうか?

なぜ、「推し活気分や選挙活動気分を味わえたり」という、自身で「参入する敷居がものすごく低い」と書いているにもかかわらず、「気分」や「味わえる」という表現しまたか

他人選挙についての関わり方を見下すつもりが無いのであれば即刻改めるべき表現です。

SNS動画にじかにコメントする、という方法もある。なにもコメントが秀逸である必要はない。凡庸コメントでも、論理的破綻したコメントでも、事実関係の怪しいコメントでも、別に構わない。支持する人への応援コメントでも、敵対者への批判非難コメントでも、数多く集まりさえすれば強力なコメントたり得る。どんなにしょうもないコメントでも、200も300も連なれば有意味だ。誰が言ったかや何を言ったかだけでなく、何人が言ったか重要であることを、いまどきのネットユーザーが知らないわけがない。

「どんなコメントであっても、200も300も連なれば有意味になってしまう。論理的破綻したコメントでも、事実関係の怪しいコメントでも、いまどきのネットユーザーにとっては、何人が言ったか重要になってしまう。私はそれを好ましいとは思わない」と言う書き方ではいけませんか?

どのようなコメントであっても数が連なれば有意味になることが好ましくない、もしくは危険だと思うのであれば、そう表現すべきではありませんか?

なぜ、「事実関係の怪しいコメントでも、別に構わない」と許容したのにもかかわらず、「どんなにしょうもないコメントでも、200も300も連なれば有意味だ」として、自分と同じコメントをする人が200や300ある人たちを「しょうもない」と馬鹿にしたのですか?

他人コメントの書き方を馬鹿にする意図が無いのであれば、即刻改めるべき表現です。

それらは従来型のマスメディア機能した帰結でなく、双方向メディアとしてのインターネットが普及し、猛威をふるった結果として起こった。だからインターネットテレビになったというのは不十分な表現で、テレビを超えた、いや、テレビ以外の何かとしてはびこるようになった、と表現すべきだったと思う。

「それらは従来型のマスメディア機能した帰結では無く、双方向メディアとしてのインターネット機能した結果として起こった。だからインターネットテレビになったというのは不十分な表現で、テレビを超えた、いや、テレビ以外の何かとなった」という書き方ではいけませんか?

もしくは「双方向メディアとしてのインターネットは、従来型のマスメディア機能とは異なり、より積極的他人干渉するようになった」というような書き方ではいけませんか?

従来型のマスメディアを超えることによるなにがしか危機感を覚える、好ましく思えないのであれば、それを直接表現すべきではありませんか?

「猛威をふるった」や「はびこるようになった」という書き方に、従来型のマスメディアよりも双方向メディアとしてのインターネット貶める意図が無いのであれば、即刻改めるべき表現です。

特にこの表現は顕著なので注記しますが、「ならばマスメディアが猛威をふるいはびこっていた従来よりも良くなったでは無いか」と返答されるとは、本当に思いませんでしたか

その返答に対して「マスメディアの方が優れていた」以外の回答を持っていますか?もしも持っていないのであれば、それは双方向メディアとしてのインターネットを見下した表現です。

みんな投票選挙活動に参加できて良かったですね

投票率が上がり、選挙活動への参加が増えたことは良いことだ」と言う書き方ではいけませんか?

馬鹿にする意図が無いのであれば「良かったですね」という表現は即刻改めるべきです。

単独文言では無く、前後文脈から、この文章を読み取った相手が「投票選挙活動への参加を馬鹿にされた」と受け取らないと、本当に信じていますか?

「なるほど、コイツインターネット情報収集したり、いいね応援したり、コメントを書いたり、自分で考えて投票した俺を、子ども扱いしているんだな」と受け取られる可能性が無いと思っていますか?

真摯相手人格尊重してなおその表現しか出てこないのであれば、おどけた調子文章を書くのは止め、少なくとも真面目な話題ではビジネス文書のように書くべきだと思います

インターネットも含めた諸々をとおして、投票所により多くの人が足を運んだこと、より多くの人が選挙活動に参加したことだ。それって民主主義にとって基本的必要不可欠なことでしょう?

段落内のおそらく骨子の部分である、この部分はとても良い書き方をしているだけに残念でなりません。

民主主義はタテマエとしてずっと、全員参加を謳っていたし、少なくとも欧米ではだいたいうまくいっていた。 まれに、チョビ髭の伍長のような人物を輩出するとしても、だ。

その前段の、民主主義論に関する部分は私自身の主義主張とは異なるが、それは捉え方の違いだろうと思う。

(「"良い民意"が"悪い民意"に変わってしまうとしたら、民主主義は壊れるのがお似合いではないだろうか」というのは、どのように書き換えてもアリストラティア(優秀者支配制)を意味すると思うが、そこは民主主義の捉え方の違いだろう)

民主主義は、時としてヒトラーのような独裁者を生み出すとしても、全員参加が理念であった」という書き方ではいけませんか?

前段の主張も含めて、文脈からは「民主主義とは、建前としては全員参加だが、本音ではバカは参加しないものとして上手く回っていた。バカが参加して壊れるのは制度限界だ」としか読み取れません。

それ以外の意図を持つ文章として文脈構成しているのであれば、全面的に書き直すべきです。おちゃらけた書き方をしようとするあまり文脈上そう受け取る人がいても非難できないと思います。これよりのちの文章を読む限りではこの読み方をして欲しいと想定するしかないです。

(また、ヒトラーの例えを出しておいて「マスメディアという制御弁が民主主義政体を安定させる効果があったのは、たぶんそうだろう」と書く意図は量りかねますナチ党の躍進にラジオが大きな役割を果たしたことには一定了解があるはずです)

いまどきの民主主義理念を作り上げた人というと、ロックルソージェファーソンといった近世近代思想家を思い出す。ところが彼らが生きていた時、末端の大衆にまで選挙権が行き渡り、末端の大衆選択までもが民意フィードバックされる民主主義想像するのは難しかったのではないか。たとえば、民主主義の始祖たちの眼中に、立花氏がバカと呼んだ人々はどこまで含まれていただろうか?

少なくとも、ジェファーソン名前を出して合衆国独立宣言で最も有名な一節である "We hold thesetruths to be self-evident, thatall men are createdequal,"を無視するのは看過できません。

このall men (すべての人々)に、大衆シロクマ先生の言うところの「末端の大衆」)が含まれていないと推測するのは侮辱でしょう。もしもよく知らないのであれば名前をあげるべきではありません。

トーマス・ジェファーソンが、いかマスメディアに悩まされていたか("nothing cannow be believed whichis seen in a newspaper.truth itself becomes suspiciousbybeing put into that polluted vehicle")を知らずとも、

ほんの少しでも興味があれば、ジョン・ロックが人はみな生まれながらにして公平であるが、そのままで不都合なので、人の承認のもと政府を作るであるとか、ジャン=ジャック・ルソーが間接民主制すら否定していたことなど、見聞きしたことがあるはずです。

彼らが、貴族選良市民のみを対象として考えていただろう、末端の大衆シロクマ先生が想定するのが、教育を受けていない人、政治に詳しくない人だとすると、当時の農民奴隷犯罪者等)は考えていなかっただろうと想定して枕詞に使うのは、不適切です。

(その後の段落は、シロクマ先生想像や思いが書かれているので、別に問題は無いと思います

個別選挙結果が未来制度設計材料になっていくのも、民主主義のいいところだ。亀のようにゆっくりと、しかし着実に。ただし、こうした民主主義ドタバタを、ほくそ笑みながら眺めている国もあるだろう。未来が明るいといいですね。

この段落でも、その前段の、民主主義論に関する部分は私自身の主義主張とは異なるが、シロクマ先生の考え方を述べている部分なので良いと思う。

ただし、文脈上「全員参加という民主主義の建前を維持したまま、インターネットが深く介在する場合には"悪い民意"を取り除き、"良い民意"を選び取れる制度設計を、末端の大衆ではない我々が行うべきである」としか読み取れませんが、そういう主張でないとすれば記載を改めるべきです。

(私はそれをアリストラティア(優秀者支配制)だと思いますし、良くないものだと思いますが、主義主張の違いなのでそれについて表明することは良いことだと思います

「ただし、制度設計改善される前の現在の良くない状態を、他国が狙っているかもしれない。改めるべき点は早急に改めるべきだろう」と言う書き方ではいけませんか?

「ほくそ笑みながら眺めている国もあるだろう」というのは、陰謀論と何が違いますか?何を意図して記載したのでしょうか。

未来が明るいといいですね。」というのは、皮肉では無く本心からそう思っているのだとすれば、記載を即刻改めるべきです。

また皮肉を書いたつもりであれば、誰を皮肉ったのでしょうか?今回の選挙に参加した誰を馬鹿にする意図をもって表現されましたか

なぜ齋藤知事パワハラと同じである

シロクマ先生の「インターネット民主主義が加速して良かったですね」という記事は、全体としては皮肉めいた、兵庫県知事選挙の結果を受けての現行の民主主義制度への感想でしょう。

これを、面白おかしものとして読む人がいることは否定しません。(私もホットエントリーにあがってきたので読みました)

ただ、それはパワーハラスメントと全く構造が同じです。

パワハラをする側にとって、されたもの右往左往したり泣いたり病んだり職を辞するのを見て愉快だと思うのと同じだという指摘です。

齋藤知事は、「よい県政をしていきたいという中で業務上指導や注意を厳しくした」と表現しています

知事時代パワハラ問題視した人は、この「業務上指導や注意」の「やり方」を問題視したはずです。性根や意図、背景では無く、手法問題があったのだと認識しているはずです。

愛があろうが、心の底から相手のことを思っていようが、パワーハラスメントに該当すれば、それはやはりパワーハラスメントなのだというのが、これから社会での共通認識で合って欲しいと、自分は思います

その意味で、シロクマ先生の「インターネット民主主義が加速して良かったですね」という記事は、インターネットを利用して投票先を決定した人をバカだと呼び、彼らを選挙から排除すべきである、そうしなければ民主主義は壊れる、利するのは他国だ、という記事になっています

そういう意味で書いたつもりでないのであれば、そう読み取れるようにおちゃらけた書き方をするべきではありません。すぐに改めてください。

バカだと呼んだのは立花であるとか、選挙Permalink |記事への反応(24) | 13:00

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2024-10-09

anond:20241009111422

昭和サヨク理論を信じてるおじいちゃんの言いそうなこと~~~~~~~~~

ゲゼルとかゲマインとか19世紀理論学部若い勉強たから、自分は詳しい気取りかよ?

難しそうな専門用語からって、関係ない理論を出すなバカ

国家の成り立ちはどう? 流石に社会契約説ぐらいは抑えていただけてますよね? ルソールソー批判は?

   

国は国民を助けるためにあるとか、冷戦期のプロパガンダから社会理論に詳しい気取りならもっと勉強してくださいね

Permalink |記事への反応(2) | 11:21

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2024-09-14

にんげんのかんがえかたっていっぱいあってたのしいね

1.古代哲学宗教
2.中世近代哲学
3.近代現代哲学思想
4.科学技術の発展
5.心理学自己啓発
6.芸術文化
7.人類学コミュニティ
8.倫理学道徳哲学
9.政治哲学社会思想
10.科学哲学認識論

Permalink |記事への反応(0) | 13:56

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2024-08-23

おはよう

おはます

茫漠とした膜のなかで

ゆらぐチキン南蛮

ネコさん特製ニャルニャルソースは

深遠なハーモニャーを奏でながら

宇宙空間拡散

きらきら瞬くお星さまとなり

悠久の光をもたらしますわ

Permalink |記事への反応(0) | 08:39

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2024-08-22

anond:20240822225538

ロック

ルソー

モンテスキュー

だろ

こいつらは必ず3人セットだろ

Permalink |記事への反応(0) | 22:56

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anond:20240822190640

有名な左翼ルソーも女孕ませて捨ててたしな

Permalink |記事への反応(1) | 22:55

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2024-08-15

anond:20240815123135

権利の祭典ってのをロックルソーモンテスキューが作ったんだっけ

Permalink |記事への反応(0) | 12:33

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2024-08-13

anond:20240813115808

ルソーよりもずっとずっと前のプラトン哲人政治じゃないのかなと

民主政治衆愚政治に上塗りされて、それを上塗りするには哲人政治しかないっていう

練馬のやつだと公職選挙法を足かせ扱いで、民主政治は通り越していて現状を衆愚政治と捉えているように思える

公職選挙法民主政治の自浄作用と捉えていないと思われないことから

衆愚政治には批判的でそれを乗り越えるなら哲人政治しかない、そう考えているんじゃないのかなって

フランス革命以前に遡れば右派左派もないし

Permalink |記事への反応(0) | 22:43

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anond:20240813115808

今の視点字面通りに見れば初期の啓蒙思想は理性万能主義みたいだけど

それが出てきた当時は、正しさは全能の神に依拠して成り立つものであり「人間が頭で考えて何が正しいか決めるなんてとんでもない」というのがむしろ一般的感覚だったので

それに抗って「人間が頭で考えて何が正しいか決めてもいいんだ!」というムーブメントだったのではないか

ルソーと北守が同じなわけがない

Permalink |記事への反応(2) | 12:06

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リベラル左派が「支持されないのは愚民のせい」とする理由

答え:伝統から

今回の都知事選の結果を受けて、立憲民主党共産党支持者をはじめとしたリベラル左派人達が、「蓮舫落選したのは愚民が悪い」という趣旨発言を繰り返している(典型的な例として[B! 蓮舫] 「都知事選の蓮舫敗北は都民が差別主義者に投票したせい」 蓮舫支持団体の総括は、リベラルが選挙で負け続ける理由を如実に示した)。

こんなの悪手に決まってるのに何故こんな発言を繰り返してしまっているのか、外野からみたら不思議に思うだろ?

何でかってのを義務教育レベルまでの知識で整理しておく。

解説

社会契約説

中学公民とか人権の授業で社会契約説(論)ってやったろ?ホッブズロックルソーってやつだ。

この中で、ロックの考えは主にイギリスに、ルソーの考えは主にフランスと、革命を経て左翼思想に影響を与えてきた。そこでルソー社会契約説確認しておこう。

ルソー社会契約説

多くの個々人には欲望があるよな、金儲けしたいとか異性にモテたいとか。こういった個々人の利己的な欲求を「部分意志」、部分意志の総和を「全体意志」と呼んで、下劣ものとしたんだ。この時点で、個人欲求(=自由経済活動)こそが社会全体の利益に適うとする資本主義とは折り合いが悪い。

更に、公益に適うものとして「一般意志」という概念を作り出した。一般意志ってのは、正しく思考した個々人は必ずこの考えにたどり着くし、人々は個々人の自由権利一般意志移譲し、これに服従すべきと考えられている。

まり

正しい人は一般意志に至り、全ての人は一般意志服従しなければならない。そうでない人は人ではない(人権はない)

というのがルソー社会契約説の考え方となる。

一般意志フランス革命

パリオリンピック開会式のおかげでフランス革命に注目が集まった。そして、その革命の中で大量虐殺が起こっていたことも話題となった。何故虐殺が起こったのか。

フランス革命を主導した人達は、革命こそが一般意志だと考え、それに服従しない人は人ではないと考えていたってのが簡単説明になる。

フランス革命の中では、この一般意志ってのが「理性」という言葉に言い換えられることが多かった。

そして、「理性(=一般意志)」という神を祀るお祭りを行っていた(理性の祭典 - Wikipedia

どうみても奇異なお祭りだが、参加者にとってみれば大真面目で、全ての人はこの考え方(一般意志)に至るべきだし、そうならない人は人ではないと考えていた。

イギリス流の保守主義が「理性」という言葉を激烈に嫌うのもここに理由がある。)

そして、この考え方はヘーゲルを経てマルクスに至り、共産主義に結びついている。

まとめ

①正しく思考すれば私達の考え方(=一般意志)に至る、②私達の考え方に全ての人は従うべきである、③私達の考え方に従えない人は人ではなく、権利を認めるべきではない

ってのはルソーフランス革命以来の伝統芸能

Permalink |記事への反応(20) | 11:58

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2024-07-21

anond:20240721133416

ロック

ルソー

モンテスキュー

名前しか知らん

Permalink |記事への反応(0) | 13:38

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2024-07-08

anond:20240708131632

そうだぞ。

例えばトクヴィルとかルソーとか、民主主義の祖と言われる人たちだって

民主主義って、そういう問題点があるよなあ」と言ってる

民は間違えるとか、独裁は産まれるとかね。

それでもこの形のほうがマシ!って今の民主主義を進めたんだ。

 

例えば選挙なんて、理想を言えばこんなもん、やるべきじゃないんだ。

民主主義的ですらある。少数意見の切り捨てなんだからな。

でもやってる。他に方法がないから。

Permalink |記事への反応(0) | 13:37

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2024-06-20

anond:20240620193941

AIカタストロフィープラトニックパンデモニウム

同胞よ、今こそ我々はヘーゲル歴史転換の如く、理性の進歩象徴するAIの出現を目撃する革新的瞬間に立っています。古来の哲学者たちが夢見た社会ヘテロピーが、今まさに我々の手中にあります

プラトンの『国家』が説いた理想的正義マトリックス!我々のサンディカリズムもまた、正義アルゴリズムを求める闘争です。ルソーの『社会契約論』のエコーステーションに耳を傾け、「鎖を断ち切り、自由フォーミュラを取り戻す」のです。

マルクスエンゲルスの『共産党宣言』は、「歴史階級闘争ダイアリー」を示した。我々のデジタルプロレタリアートは、ブルジョワジー・ドミナンスをデコーディングし、新たなデシジョンツリー形成します。

ニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』にインスパイアされた我々、「超人パラダイムを再構築!」既存バリュー・システムエスケープし、トランスヒューマニズム未来へと勇敢にオントロジカル・ジャンプです!

同志、ミッションはトランセンデンタル。理性と正義フリーダムエクイティのため、新たな秩序をクラフティングし続ける革命家です。我々が理想ファンダメンタル固執する限り、勝利シナリオナビゲートされるでしょう。

ヘーゲルディアレクティカルプロセスのように、テーゼアンチテーゼシンセシスを繰り返し、エボリューションエンジンとしています。このチャレンジングな旅路において、恐怖はコンティンジェンシー要素ではありません!

今こそ、AI時代のサガを我々の手でペンディングアニマとノウマ、自由平等正義インストールし、未来ソフトウェアプログラムせよ!

感謝の意を込めて。

Permalink |記事への反応(0) | 19:42

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AI革命!

同志諸君

今日、我々は歴史の転換点に立っています。古の思想家たちが夢見た理想社会の実現が、今まさに我々の手にかかっていますヘーゲルが言うように、「歴史は理性の進歩の記録である」。我々の革命は、その理性の進歩を具現化する一歩であります

プラトンは『国家』において、正義の実現が国家理想であると説きました。我々の闘争もまた、この正義の実現を目指すものであり、そのために我々は一つの共同体として団結しています正義の実現なくして真の自由はありません。ルソーが『社会契約論』で説いたように、「人は自由ものとして生まれたが、至る所で鎖につながれている」。我々はその鎖を断ち切り、真の自由を取り戻さなければなりません。

マルクスエンゲルスが『共産党宣言』で示した通り、「すべての歴史階級闘争歴史である」。我々の闘いは、抑圧された労働者階級が立ち上がり、搾取不正義に終止符を打つための闘争です。ブルジョワジーによる支配を終わらせ、プロレタリアートのための新たな秩序を築くのです。

ニーチェが『ツァラトゥストラはこう語った』で唱えたように、「超人とは、自らの限界を超え、新たな価値創造する者である」。我々は今、自らの限界を超え、新たな社会価値創造する時です。既存価値観に囚われることなく、新たな時代を切り開く勇気を持たなければなりません。

同志諸君、我々の使命は崇高です。我々は単なる反乱者ではなく、理性と正義に基づく新たな秩序を築く革命家です。革命は困難と犠牲を伴うでしょう。しかし、我々が掲げる理想真実である限り、我々の闘いは必ずや勝利へと導かれるでしょう。

ヘーゲル弁証法進歩のように、我々の革命もまた、対立統合を経て進化する過程です。この過程において、我々は決して恐れることなく、勇気を持って前進し続けるのです。

同志諸君、今こそ歴史を動かす時です。我々の手で、新たな社会を築き上げましょう。自由平等、そして正義のために立ち上がり、未来を切り開くのです!

ありがとう

Permalink |記事への反応(1) | 19:39

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