
はてなキーワード:リンゼイとは
以下で展開される議論は、アメリカのある哲学者が学術誌の査読(ピア・レビュー、同業者による査読)の適切さを確かめるためにでっち上げたデマ論文の内容であり、しかもその論文はある雑誌に受理された。
このことから投稿者は、文化人類学者ではないが、いくつかの考察を試みる。
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1. 以下の内容は、「サル山のボス猿とそのなかま」が信奉するペニス信仰と、それに対する「フェミニスト」の反論の両方を痛烈に揶揄している。これらの議論は、ここ「はてな」での果てしない同種のやり取りの上位互換となっている。つまり、そのことに気づかないでいる、いわば自己相貌失認を患う矮小な関係者の姿をアナロジカルに揶揄している。
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2. 仲間による「レビュー」を経て認められた「議論」が、いかに穴だらけなものであるか、つまり、特定のコミュニティの支配イデオロギーとはしばしば、ブードゥー教の偶像崇拝にすぎないことを示唆している。
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3.投稿者はこのデマ論文の紹介により、いわば原始人に優れた棍棒の作り方の一例を教唆することになるかもしれない。いずれにせよ、上位互換の議論がデマであると著者により暴露されたことは、はてなでの「議論」の有効性の上界を抑えられたことを意味する。平たくいうと、0くxく1のように、xの取りうる範囲が有限なある一定の値以上にならないことである。原始人たちが、今後どのような道を選ぶのか知らないが、進化の選択肢があることを付け加えたい。
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4.敷衍すると、この論文の内容に限らず、はてなでの任意の「議論」には、それの上位互換となるある学術的な議論を作ることができる、という可能性が示唆される。平たくいうと、はてなの投稿を分析すれば論文が書けるかもしれない。
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この論文「概念的なペニスは社会構成物である」は、ジェイミー・リンゼイとピーター・ボイルによって2017年にCogent Social Sciencesに掲載された研究論文であり、ペニスという概念が単なる解剖学的な器官ではなく、社会的に構築されたものであり、それが有害な「毒性のある男性性」(toxic masculinity)と密接に関連しているという革新的な主張を展開しています[1]。著者らは、この「概念的なペニス」が、ジェンダー・アイデンティティ、生殖に関するアイデンティティ、社会および家族の力学に深刻な問題を引き起こし、女性やその他のジェンダー周縁化されたグループにとって虐待の根源となり、レイプの普遍的な原因であり、さらに気候変動の概念的な原動力であると結論付けています[2-4]。
伝統的に、ペニスは男性の生殖器または性器として圧倒的かつ議論の余地のないものとして科学的に認識されてきました[5]。しかし、著者らは、この見方が「過度に還元主義的」であり、ペニスを持つ人間の経験の多様性を完全に表現できていないため、「首尾一貫しない構成物」であると指摘します[6]。
この主張の根拠として、まず解剖学的なペニスが必ずしも男性の生殖器官としての役割を果たすわけではないという事実が挙げられます[5]。例えば、怪我を負った者、配偶者を強制できない者、子孫を産むことに興味がない者、医学的に不妊の者、またはアセクシュアルを自認する者など、ペニスを持つ多くの人々が生殖を行いません。これらの例は依然として「男性」を構成するかもしれませんが、彼らのペニスを生殖器官として特定することは明確に誤謬であるとされています[5]。
さらに重要な点として、ペニスを持つ女性が数多く存在することが強調されます[5]。これには、性別適合手術前のトランスジェンダー女性や、女性と自認し、性別移行を望んでいない染色体上の「男性」が含まれます[5, 7]。文化的な有害な常識に反して、これらの人々にとって、彼らの性器(ペニス)は、生殖に利用される場合があったとしても、男性の性器として最もよく理解されるべきではありません[7]。このような人間の表現の多様性という重要な事実に照らして、ペニスを具体的に男性の解剖学的な器官と概念化することは、非常に問題があり、言説的な再検討が喫緊に必要であるとされます[6]。
著者らは、ペニスが「男性性に対する首尾一貫しない構成物」であるとし、ペニスは解剖学的な器官としてではなく、**ジェンダー遂行的な、非常に流動的な社会構成物**である「概念的なペニス」として理解されるべきだと主張します[6]。この「概念的なペニス」は、ジェンダーに関連する様々な遂行的な行為や発言を通じて社会で確立されるペニスの操作的な表現です[6]。
この概念的なペニスが、**「毒性のあるハイパーマスキュリニティ(hypermasculinity)」と等型写像的(isomorphic)な関係にある**とされています[1, 8-10]。この等型写像関係とは、二つの異なる構造が、その構成要素間の関係性において本質的に同じ形を持っていることを意味します。ここでは、概念的なペニスという社会構成物が、毒性のあるハイパーマスキュリニティの行動や心理と鏡像のように一致しているということです。
特に、この等型写像関係は、**「マチスモ・ブラガドシオ」(machismo braggadocio)**という概念によって媒介されます[10,11]。マチスモは本質的に攻撃的な男性のプライドを指し、ブラガドシオは傲慢な自慢の性質を意味します[12]。これらが一体となって、社会的に男性的な心や異性愛規範的な女性の心がペニスを「客観視」し、それを介して男性性と支配的な男性の権力ダイナミクスを遂行的に表現する具体的な描写であるとされます[12]。
この等型写像関係において、概念的なペニスは、ハイパーマスキュリンな男性が権力のない主体的な立場から強力な立場へと自身を再配置するために、**「主体」「客体」「動詞」の三つの役割**を果たします[11-14]。
この主体としての役割は、男性が性的な「征服」や「パフォーマンス」について自慢する際に明らかになります[16]。また、「俺は彼女にやった」「彼女はもっと欲しがった」といった表現に見られるように、名詞の「それ」("it")が客体的な概念的なペニスを女性の経験の知覚された主体に変え、概念的なペニスを男性のジェンダーパフォーマンスに関してさらに客体化します[16]。これにより、概念的なペニスは、ハイパーマスキュリンな心において、ペニスを主体として(男性の)セクシュアリティを強力な現実とする脱所有化(deappropriative)のツールとなります[16]。
この傾向は、性的なアイデンティティが根本的にヒエラルキーの維持に利用されるという考え方によって説明されます[17]。概念的なペニスを行動を表す動詞として使用することで、ハイパーマスキュリンな男性は、他者を抑圧し、脱制度化する社会的なヒエラルキーを強制し、自己を認識的に高めます[17]。この現象は、ラップ音楽におけるミソジニーの分析や、「マン・スプレッディング」(manspreading)と呼ばれる、公共交通機関などで男性が足を開いて座り、不必要に広いスペースを占有する行動にも見られます[17]。マン・スプレッディングの言い訳は、解剖学的なペニスと睾丸が「快適さ」のためにスペースを必要とするという男性的な社会言説に直接基づいていますが、これは概念的なペニスを遂行的な社会構成物として見た場合、周囲の空きスペースを「レイプする」ような支配的な物理的空間の占有であり、毒性のあるハイパーマスキュリニティへのマチスモ・ブラガドシオ等型写像を通じて最もよく理解されるとされます[17]。
マチスモはハイパーマスキュリンな本質であり、ブラガドシオはその表現です[10]。現代の思考における概念的な要素としてのペニスは、マチスモ・ブラガドシオの概念によって、ハイパーマスキュリニティにおける最も毒性があり問題のあるテーマと自然に等型写像関係にあります[10]。これらのテーマは、解剖学的なペニス自体には適用されず、生殖しない個人やアセクシュアルな個人にも関連性を持たないため、ペニスは既存の男性的な社会的な比喩を演じるために利用される、構築された社会的な客体、つまり言説的な「概念的なペニス」として理解されるべきだとされます[10]。
概念的なペニスが毒性のあるハイパーマスキュリニティに等型写像的に同定されることの最も問題のある結果の一つが、**気候変動**であると指摘されています[4, 18]。気候変動は、まさにハイパーマスキュリニティの特定の有害なテーマによって引き起こされており、これらは概念的なペニスと識別される気候生態学への支配的な略奪的アプローチを通じて最もよく理解できます[18]。
著者らは、地球が急速に2℃の気候変動閾値に近づいている原因が、現在の資本主義構造を維持する家父長的な権力ダイナミクス、特に化石燃料産業にあると主張します[18]。科学、政治、経済の言説におけるハイパーマスキュリンな支配と、生態系への修復不能なダメージとの関連性は明確であるとされます[18]。破壊的で持続不可能であり、ヘゲモニー的に男性的な環境政策と行動へのアプローチは、男性優位の精神性による自然の「レイプ」の予測可能な結果です[19]。この精神性は、男性心理に対する概念的なペニスの役割を認識することによって最もよく捉えられます[19]。
特に、資源を安価に略奪し、家父長的な経済的利益のためにその内在的な価値を奪われた後、荒廃し減退したまま放置されるような「未開の環境」にこの精神性が適用されるとき、概念的なペニスに内在するレイプ文化の延長が明らかになるとされます[19]。気候変動は、最もよく言えば、ハイパー家父長制社会が地球の生態系にメタファー的に「マン・スプレッディング」している例であると述べられています[19]。
この問題のある傾向の根底にある理由は、現代の資本主義理論、すなわち新資本主義理論が、科学と社会におけるハイパーマスキュリンな焦点から直接その合理性の主張を引き出していることにあります。そしてこの焦点は、概念的なペニスとの同一視によって最もよく説明されるとされます[20]。毒性のあるハイパーマスキュリニティは、概念的なペニスから直接その意義を引き出し、新資本主義的唯物論の支持に自身を適用します[20]。この新資本主義的唯物論は、特に炭素排出の化石燃料技術の無制限な使用や、未開の自然環境の無謀な支配において、気候変動の根本的な原動力であるとされます[20]。
この分析から導かれる実践的な推奨事項は、気候変動研究において、可能な限りハイパーマスキュリンなペニス中心の視点を避けるように、政治や科学の言説への関与方法を変えるべきであるというものです[3]。
結論として、著者らは、ペニスは男性の性器や生殖器として理解されるべきではなく、むしろPermalink |記事への反応(0) | 19:03
森脇透青は、《たとえば千田有紀の立場ひとつとっても塩野谷恭輔の立場と異なるし、さらに小谷野敦や笙野頼子ともまったく違うはずである(たとえば「生物学的」のような言葉を留保なしで使うかどうか、「陰謀論」的な語調を使用するかどうか、また構築主義の理解の深度において)》(「不良債権としての『情況』、あるいは回覧板について」)と述べ、トランスジェンダー特集の執筆者たちには「構築主義の理解の深度」において違いがあると言っている。「構築主義の理解」が足りないのは、この中では、小谷野敦であろう。事実、小谷野は、《私はバトラーを批判なんかしてないんだよ。ポモを批判していて、バトラーは読んでも何を言ってるのか分からない、と書いているではないか。》とツイートしている(2024年11月11日)。しかし、オフパコギャルママ🦖1y@takamatsu4_13によると、《批判者は佐藤悟志をこすっているけど、本当に読まれたくないのは小谷野敦とかだったりするんだろうね。さすがに「小谷野のは読まないでくれ!」とは言えないから、佐藤悟志をこすっているだけだという。》(2024年9月21日)。小谷野は「ポストモダンとトランスジェンダー」を寄稿しているが、これは何があったのかを小谷野節で綴ったものである。これを読むと、ノーディベートと称して議論すら行われないまま、明らかに異論のありうる理論によって現実が書き換えられようとしていたことが分かるであろう。千田有紀の「構築主義の理解」は足りていないどころではなく、上野千鶴子編「構築主義とは何か」(2001年)に序章「構築主義の系譜学」を書いているくらいであるが、「学問の危機と『キャンセル』の方法論」(pp.116-135)は、小谷野と同じく、何があったのかの記録であるが、キャンセルされた当事者であるだけに、迫力があるものとなっている。さらに、「LGBT異論」(紙の爆弾2024年10月号増刊)に「フェミニズムの再生を求めて」(pp.62-76)を寄せており、そこでは小宮友根との確執が延々と書かれている。
「『情況』に関する声明」には森脇も加わっているが、森脇は雁琳と同じ研究室の出身である(京大宗教学)。研究室が批判されたことに対して、森脇はこう反論している。《ある人格が問題だからといって、その人の所属とかその人の研究分野まで誹謗中傷されていて、いい迷惑です。「放置した」かどうかなんて知らないでしょ。そして彼の素行(思想内容というより、ほんとうに「素行」)は研究室内でも、先生からも先輩後輩(ぼく含め)からも、直接・間接に注意されてました》(2022年1月23日)。研究室での雁琳の素行は悪かったようであるが、これは想像できるところかもしれない。そして、オープンレター勢とのたたかいでも「うんこ学者」のような言辞を用いていて、素行は悪かったのであるが、オープンレターはからかいを批判する内容なので、お行儀よくやってしまうとオープンレターにパフォーマティヴに従ってしまうことになり、雁琳としては、あえて粗野な態度を取ったということらしい。育ちのいい人が不良のような振る舞いをしても、どうにも似合わない。批評は口汚い言葉で罵るというのが伝統であるが、近ごろの若者は育ちが良すぎて、罵倒しても様にならない。北村紗衣をからかってみるという芸当は、普段から素行が悪い雁琳だからこそできた荒業であろう。しかし、江原由美子の「からかいの政治学」を内面化したリベラルにとっては、このような粗野な態度こそ「サタン」のように見えてしまうようである。
雁琳によるキャンセルカルチャー批判の論文は、キャンセルカルチャー批判としては本邦で右に出るものはない論文であろうが、男女論に関しては断片的なツイートしか存在しないのが現状である。それらを活字としてまとめなければ、行動の根底にある思想が分からないので、一冊の本として著し、世に問うべきであろう。「情況」2025年冬号の論文はクリプトに関するものであるが、男女論をまとめてからでもいいのではあるまいか。
3 トランプ
リベラルによると暇空や雁琳は「誹謗中傷ビジネス」をやっているらしいが、カンパを募ることは、ビジネスというよりは、味方がいるということを示す意味合いがあるのであろう。暇空は6億あるので、カンパなどいらないであろうし、雁琳に至っては、非常勤講師の職を失っており、トータルで見れば明らかに持ち出しであろう。馬場靖雄はこう言っている。《仮にある人が「万人に対する戦い」を望んだとしても、実際にそれを貫徹することは不可能である。手始めにある方向を攻撃すると、本人が望むと否とにかかわらず、たちまち「味方」が登場してしまうからだ。かくして、いつのまにか前線が、すなわち秩序ある戦争状態が形成されるのである》(「ルーマンの社会理論」、81頁)。ここでの前線はフェミとアンフェによって形成されているが、ネットでの争いの大半はここで戦われており、ゲンロンの若手がやっている「論壇ウオッチ」でも、毎週のようにフェミとアンフェのたたかいが取り上げられている。フェミにしてみれば、フェミに賛同しないものは「差別主義者」であり、味方など現れてはいけないはずであるが、味方は登場してしまう。SNSはキャンセルカルチャーを展開させるのにもいい環境であろうが、その敵にとっても味方を集めやすい環境なので、前線が現れるのも当然であろう。
前線があって、たたかいが繰り広げられているだけであれば、さほど問題ではないのであろうが、問題なのは、フェミとアンフェのたたかいは、和解不可能なものであることであろう。茶会太郎のツイートによると、《構成主義とか構築主義とかいうの、当たり前と思われていることが実はこのような過程で成り立っている、ということを示すまでは大変勉強になるのだが、「だから断罪」となった瞬間に和解不可能な敵味方分断ツールに早変わりする》(2020年6月11日)。
和解不可能なたたかいの例として、解同と日共のたたかいが思い起こされる。トランプが大統領になり独裁的な政権運営をしている状況は、例えれば、解同の候補と日共の候補が大統領候補としてたたかい、解同の候補だけは困るということで、日共の候補が大統領に選ばれたところ、日共の大統領は、公約を守り、株式の時価総額上位百社を国有化してしまったようなものであろう。リベラルとしては、どうして日共の候補を支持しなかったのかと問うところであろうが、その問いに対しては、それでは解同の候補に投票すればよかったのかと問い返されるであろう。日共の大統領に抵抗しようとも、和解不可能なたたかいの中で生まれている以上、共闘は不可能である。
フェミとアンフェの対立において、アンフェ側の立場や考え方が何を意図しているのか、理解しづらい部分がある。茶会太郎のツイートによると、《純粋にジェンダーの軸で反フェミニズムをやっている人間は相当少なくて、ツイッター反リベラルの主流は「男性被雇用者を基本単位とする家族主義(保守主義)レジーム福祉国家の擁護論者」なのだという確信を深めている》(2023年1月3日)。産業社会へのノスタルジアとでも呼べるものかもしれない。しかし、ポスト産業社会においては、伝統的な家族や福祉国家を維持することは難しいであろう。だからこそ、ノスタルジアは止むことがないであろう。
暇空は「社会構築主義的社会正義」とのたたかいにおいて、表現規制派のスキャンダルを暴露し、雁琳は同思想を「解釈権の独占」という概念で理論的に解明した。ポストモダン思想(特にフーコー)が単純化され、社会に適用されるプロセスは、ヘレン・ブラックローズとジェームズ・リンゼイの「Cynical Theories」(2020年、邦題「「社会正義」はいつも正しい」)が思想史的に明らかにしている。しかし、雁琳はこの現象を「解釈権の独占」として集約し、鮮やかに整理した。オープンレターの内容は、次のように一行で要約される。「その内容は、彼らインテリリベラル左翼が、何が差別かを決め、該当する差別者に好きに仕打ちを与える、というものだ」(「フェミニズムが振りかざされ司法から進む女尊男卑社会」、「実話BUNKAタブー」2025年6月号)。こうしてポストモダン思想は、朝田理論へと収束した。解同の候補と日共の候補が大統領候補として対決するという例えを、やや突飛に持ち出したのは、理由がないことではない。
リベラルは「何が差別か」を一方的に定義する。リベラルの理論を批判することすら差別とみなされ、言論の自由の枠内では対抗が難しい。雁琳はあくまで理論的な批判に徹したが、暇空は対象への攻撃を行い、トランプに至っては人文系への予算削減という「人文系焼き畑」とも呼べる強硬手段に出ている。朝田理論のような思想に対抗するには、こうした物騒な手段に頼らざるを得ないのだろうか。笠井潔はこう言っている。《もしも差別の被害当事者やその支援者は差別者を勝手に処罰していいとすれば、それは定義からして私刑、リンチの肯定になりますね。その線を超えてしまうと、仕事、業績の否定から存在の否定まで行きかねない。存在の否定まで行くとなると、その意味するところは戦争状態に入るということです。小山田を敵と認定して戦争状態に入る。カール・シュミット流に言うと「例外状態」に入る。社会運動の文脈では、そういうこともあり得ます。しかし小山田の存在自体のキャンセルを要求する者が、物理的抹殺を含め敵を打倒するしかない戦争状態に入るという認識と、内戦状態だから自分もいつ殺されるか分からないという覚悟があって、そうしているのかどうか。そうとは思えませんね。(中略)微温的に、常に正義の側に身を置いていたいと思って、そのことを疑おうともしない安直な精神の連中こそ、ゴツンとやって分からせた方がいいんじゃないか(笑)》(笠井潔「キャンセルカルチャーをめぐって」、「情況」2022年春号)。トランプは人文系を「ゴツンとやって分からせた」と言えるだろう。朝田理論は内戦状態を引き起こす。この状況に出口はあるのだろうか。
『355』(スリーファイブファイブ[4]、The 355)は、2022年のアメリカ合衆国のスパイ映画。テレサ・レベックとサイモン・キンバーグが共同で執筆した脚本を、サイモン・キンバーグが監督した。出演はジェシカ・チャステインとペネロペ・クルスなど。タイトル及び作中のスパイチーム名の「355」とは18世紀のアメリカ独立戦争時代に実在したパトリオット側の女性スパイエージェント355(英語版)にちなむ[5]。
ユニバーサル・ピクチャーズから2022年1月7日に公開。日本ではキノフィルムズ
『AVA/エヴァ』(Ava)は、2020年のアメリカ合衆国のアクションスリラー映画。テイト・テイラーが監督し、マシュー・ニュートン(英語版)が脚本を執筆した。出演はジェシカ・チャステイン、ジョン・マルコヴィッチ、コモン、ジーナ・デイヴィス、コリン・ファレル、ヨアン・グリフィズ、ジョアン・チェンなど。女性暗殺者と彼女を陥れた組織の幹部との闘いを描いている[4]。
2020年7月2日にハンガリーで公開された後、本国米国では同年9月25日にヴァーティカル・エンターテインメントの配給で公開された。
『ARGYLLE/アーガイル』(原題:Argylle)は、2024年のイギリスとアメリカ合衆国の合作によるスパイコメディ映画。
製作・監督はマシュー・ヴォーンで、ジェイソン・フックス(英語版)が脚本を担当した。ヘンリー・カヴィル、ブライス・ダラス・ハワード、サム・ロックウェル、ブライアン・クランストン、キャサリン・オハラ、デュア・リパ、アリアナ・デボーズ、ジョン・シナ、サミュエル・L・ジャクソンからなるアンサンブル・キャストが出演している。
『コードネーム U.N.C.L.E.(アンクル)』(原題: TheMan from U.N.C.L.E.)は、2015年の英米合作のスパイ・アクション映画。
『オペレーション・フォーチュン』は、2023年のアメリカ合衆国のスパイ映画。本作は、ガイ・リッチーが共同脚本・監督を務め、ジェイソン・ステイサムが主演する[1]。また、ステイサム以外にもオーブリー・プラザ、ジョシュ・ハートネット、ケイリー・エルウィス、バグジー・マローン(英語版)、ヒュー・グラントが出演する。
『アメリカン・アサシン』(AmericanAssassin)は、2017年のアメリカ合衆国のアクション映画。監督はマイケル・クエスタ、主演はディラン・オブライエンが務めた。本作はヴィンス・フリンが2010年に上梓した『AmericanAssassin』を原作としている。
『ケープタウン』(Zulu)は、2013年のフランス・南アフリカ共和国合作のクライム映画。原作はキャリル・フェレ(フランス語版)、監督をジェローム・サル、主演をオーランド・ブルームとフォレスト・ウィテカーが務めた。
『エンド・オブ・ホワイトハウス』 続編2本あり
『ブリックレイヤー』(原題:The Bricklayer)は、2023年制作のアメリカ合衆国のアクション映画。
元・FBIという経歴を持つ小説家のポール・リンゼイが「ノア・ボイド」名義で発表した小説『脅迫』(The Bricklayer)をレニー・ハーリン監督、アーロン・エッカート主演で映画化[5]。
『ラストスタンド』(原題: TheLast Stand)は、キム・ジウン監督による2013年のアメリカ合衆国のアクション映画。『ターミネーター3』以来十年ぶりとなるアーノルド・シュワルツェネッガーの主演作品であり、韓国映画を今まで担当してきたキム・ジウンにとっては初めてのアメリカ映画でもある[4]。
『ボーダーライン』(Sicario)は、2015年のアメリカ合衆国のアクションサスペンス映画。監督はドゥニ・ヴィルヌーヴ、主演はエミリー・ブラントが務める。原題のSicarioとはスペイン語で『殺し屋』の意。
*別監督による続編あり
さらにそんな無駄撃ちする余裕はない。戦争のイロハも知らない。
たられば
@tarareba722
「ウクライナ全土がミサイル攻撃を受けていると言っている人がいるが、呑気にマクドナルドを食べている画像があるぞ」というツイートを見て、太宰治が(太宰作品の中でもひときわ明るく読みやすく皮肉の効いた)『お伽草子』を書いたのが、ひどい空襲を受けていた真っ最中だった話を思い出している。
·https://twitter.com/tarareba722/status/1663354372926099456?s=20
347.1万
件
@tarareba722
·
『お伽草子』の執筆は1945年3月〜7月で、太宰は東京〜甲府で米軍機による空襲を受け家を焼け出されており、作品の一部は防空壕で書かれたとされています。人間は戦時下でも普段通りに過ごせるものだし、戦時だからこそ普段通り過ごしたいと思うもので、時にその行為は平和への願いや祈りに繋がります。
silentflame
@silentflame_
https://insiderpaper.com/russia-issues-arrest-warrant-for-lindsey-graham/
動き回ってたうちの お一人よね
先日の裁判員裁判で死刑が適当だとされた高裁判決を破棄して無理やり無期懲役とした。
何故彼が死刑廃止論者と思うのかというと、その前2012年闇サイト殺人事件に対する最高裁の判決で高裁の死刑判決を破棄して無期懲役にした事による。
殺人犯に更生の余地などないことは、宮崎勤を始め女子高生コンクリ事件の加害少年たち、奈良少女児殺害の小林薫や光市母子殺害の少年死刑囚、リンゼイさん殺害の市川達也を見ると明らかだ。
そして、更生の余地ありとして少ない刑期で釈放されてみるのを想像すべきだ。
あるストーカー事件ではストーカーを許す判決が出た直後、ストーカー被害者が殺される事件さえ起こった。
他人種と比べて見た目が若い
他人種と比べて肌や髪が強い
他人種と比べて痩せている
他国籍人と比べて男を立てる
他国籍人と比べて歯並びが悪い
日本国籍を持っている
他国籍人と比べて歯並びが悪い
後藤久美子×ジャン・アレジ(フランス人レーシングドライバー)夫妻
クルム伊達公子×ミハエル・クルム(ドイツ人レーシングドライバー)夫妻
中村江里子(元フジテレビアナウンサー)×シャルル・エドゥアール・バルト(フランス人実業家)夫妻
高見知佳(女優)×マーク・エスパーザ(メキシコ系アメリカ人男性)夫妻
寺島しのぶ×ローラン・グナシア(フランス人アートディレクター)夫妻
西川きよし×西川ヘレン(アメリカ人男性と日本人女性のハーフ)夫妻
井上純一(成人男性向け同人作家)×一般中国人女性夫妻(中国嫁日記)
そうはいってもはっきり断って逆ギレされて暴力ふるわれたりしたらどうすんのさ。
「それでもあきらめないなら相手は病気なんだから」って、じゃあその相手が病気だったらどうすんの?
そのまま被害受け続けるの?そこの対策まで言えないならあなたの主張は全然意味ないよ。
「リンゼイさんははっきり断ったから相手に逆ギレされて殺されたのかもしれない。だから世の女は男の要求をやんわり拒絶するべき」という渡辺淳一先生のアドバイスもカスだと思うけどあなたの主張も逆の意味でカス。
あなた自身が「はっきり断れば問題なく終れるはず」……という、自分の常識がすべての人にあてはまるはずだと思い込んでるだけ。
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パキスタン治安部隊は16日、スワット渓谷のタリバン指導者シェル・ムハマンド・クァサアルを拘束したと発表した。戦闘中に負傷した彼を拘束したもので、息子3人は戦闘で死亡した。クァサアルには懸賞金が12万ドルかかっていたほどの最高幹部の一人。
すでにタリバン広報担当幹部のムスリム・カーンとマームード・カーンを逮捕しており、最高幹部3人を拘束したことになる。スワット渓谷はパキスタン北方に位置し、タリバンが隠れ家として思う存分に利用してきた。パキスタンは米国の圧力に根負けしたかのようにスワット渓谷の制圧を決め、五月からの戦闘で18000名のタリバン兵士を殺害、付近への難民は180万人という。
兵力を北方に集中した結果、こんどはパキスタンの南方の治安が乱れる。カラチでは銀行強盗と財閥の誘拐が頻発、タリバンの仕業か、タリバンを語るギャングどもの仕業か、詳細は不明である。ただしカラチはもともと治安が最悪にちかく、ここから西のグァイダール港へ向かうハイウェイは路上強盗や誘拐犯が狙っている。中国人エンジニアも誘拐され、参人が殺害されたことがある。
さて米国では保守派ばかりか、民主党内部からもアフガニスタン戦争のオバマ路線に反対の声があがっている。皮肉なことに与党ではなく、野党=共和党の大半がアフガニスタンへの増派に賛成している。オバマのアフガニスタン戦争は、野党が支持し、与党がまもなく反対へまわり、政党政治の観点から言えばおかしな構造になる。
「勝利すること以外、米国の安全保障にとって破局をもたらす」とネオ・コンが叫んでいるが、共和党のジョン・マケイン、リンゼイ・グラハム、無所属のジョセフ・リーバーマンも連名で『ウォールストリート・ジャーナル』(9月14日付け)に寄稿し「勝利はあり得ない」と主張した。付帯条件は「決定的な圧勝をおさめる以外に米国の安全を確立する道はないのであり、そのために早急に増派せよ」だ。
レビン(民主党)も増派賛成派だが、訓練要員を大幅に増やしてアフガニスタン自前の軍と警察を増強せよ」という主旨である。一般世論は57%が増派に反対(CNN)、ワシントンポストとABCの世論調査(15日)は五分の一前後しか、増派に賛成していないことが分かった。
テロリスト撲滅戦争の大儀を賛成しているのは50%を切っており、下院議会の内密の事前調査では議員の13%しか賛成していないという驚くべき数字もでた。ペロシ下院議長はこの数字の公表を躊躇っているという。
流れが変わっている。オバマ政権の支持基盤の下院民主党もリベラルなマスコミも増派に反対し、「四十年前のリンドン・B・ジョンソン大統領の失敗を繰り返すのか」と詰め寄る。
オバマ支持率はマスコミの嘘放送を別にして、実際には28%前後。アフガンだけではない。「オバマケア」と俗称される健保プランに対してワシントンでは反対集会に数十万者人が集まった。アメリカ人の大半の関心はこちらの方だ。NOBAMAのプラカードも林立した。
「OBAMAのヘルスケア=ヒトラー+スターリン+カストロ+レーニン+ダースベイダー+フランケンシュタイン等々」。
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通巻第2718号
ウォール伝「生成ユーモアの企て」http://d.hatena.ne.jp/mimisemi/20071108
2007-11-08 生成ユーモアの企て。CommentsAdd Starmimisemi2007-11-08アルファブロガー・アワードってのにノミネートされたらしいんだけど、最初、ブログへの書き込み見たときにまたなんかの詐欺サイトかと思ったよ。前のmyspaceでのライブに出ませんか?と同じ類かと思ってたら、割とちゃんとしてたっつーか、推薦してくれた人がいたみたいで、なんだか驚きっていうか、今日は社会学のテストがあってって昨日も書いたけど、今書いてるのは午前なんだけど、一応、学校行く前に教科書でも読んでおこうかとか思ったんだけど、ノミネートされてて驚きだったからこの時点で思ったフレッシュなことをとりあえず書いておくね。まず推薦した人のセンスというのは恐らくアングラ系に理解がある人なんだろうなって思ったわけだけど、別に俺がアングラぶっているわけではなく、基本的に色々カイテルとそれがアングラ志向みたいになっちゃうんだよね。ようはメインストリームじゃないことっつーかストリームすらないようなことばっか書いてるんで逸脱していくっていう、まぁその結果がアングラっていうカッコつきのワードで表されるわけだけど、何を書きたかったのかすでに忘れたよ。あ、そうそう。推薦者に「推薦していただいてありがとうございました」なんてメールなり書き込みをするのは白々しいので、やりたくないんだよね。前のはてなスターと一緒で、もう心が張り裂けそうなぐらい感謝しているんだが、あんま直接本人に言いたくないっていう。ってことで推薦してくれた人がこれまだ懲りずに見てたら、耳蝉はこのことだけでまた明日から頑張って算数とかをやる気力が湧いたって思っててください。人との係わり合いっつーか特にネットでの係わり合いは極力避けているのにも関わらず、知らない人がこういうことをしてくれると嬉しいんだよねぇー。すげー自分勝手。ところであとこの期待ね。おーなんか凄いことになってるじゃん!とかさ、あ、その前に、「ニューヨークのコミュニティーカレッジに通う著者」って言葉さ、いやー文字ってのは凄いよね。こうやって文字で現れると実態と乖離したイメージというのが文字から生まれてくるというか、読み手に連想させるんだよね。なにやら凄い感じじゃん。まぁコミカレ自体は凄くないけど、ニューヨークってワードがコミュニティカレッジの質を高めてるっていうか、オクラホマのコミュニティーカレッジだとあんまステータス高い感じしないけど、ニューヨークってのがね、コミカレの響きを高めてるっていうか、まぁそういうのがあるわけだけど、実際は「モトニートかそれ以下みたいな引き篭もり生活をしていた著者が、死か無理な渡米かの二択を自分の中で勝手に迫られて渡米というか亡命を決意しつつ、なんだかんだでニューヨークのコミュニティカレッジに通いながら、特殊学級の算数のクラスと読み書きのクラスを受けている生活の中で綴るポスニート的ダイアリー」みたいなね。ただ脳を掃除するっていう表現はさすがだなって思った。ちゃんと読んではるなって。前にも書いたけど精液が溜まりすぎると玉が膿んだような感じになるから一刻も早く抜きたくなるじゃん?それと一緒で脳が膿むんだよね。色々溜め込みすぎると。だから吐き出さなきゃいけない。音もそうなんだけどね。あ、んでね、いつも書くようだけど、留学生っつってもピンきりで、今なんて恐らく昔みたいな、50年代とか60年代とかに留学してたようなエリート中のエリートなんてのは本当に少ないと思うわけねっつーか昔はそういうエリートしか留学できなかったわけだけどっつーのも奨学金とかね、そういうことで。ただ今ってのは割とカジュアルに誰でも留学できるんで留学自体がたいしたことじゃ無くなっているわけ。ただ留学とか「ニューヨーク」みたいなカッコつきのワードに象徴されるようなイメージだけが先行しているものってのはね、そういった昔から継承されてきたステレオタイプの賜物なわけですよ。留学=賢いとかエリートとか金持ちみたいな。ただ今なんて違法でバイトしつつ英語学校に通っている日本人なんて少なくないし、VISAがキレても惰性で違法バイト続けてはや10年みたいな人もいるわけ。ようはね、クローズアップ現代だかで見たんだけど、就職氷河期世代ってのがようは年齢差別とかさ、日本って雇用っつーか社会が最悪だからっつーかまぁいいや、仕事が無くてさ、んで中国行って電話のオペレーターとかやってる人とかいるらしいけどさ、時給が日本円で300円だったかな。ただまぁ中国語をマスターするってのとキャリアアップってのもあって日本で無駄なバイトしてるよりマシってことで行ってる人も多いんだろうけど、こういうの見るともうすでに日本が先進国だなんていう幻想はもうなくなったなっていうのを実感するよね。それこそ本国で仕事が無いとか未来が無いんで海外に出て条件が悪くてもまだマシってことで仕事をしている発展途上国から来た労働者とかとあんま変わらないわけ。こういう人達って。俺も同じだからね。元々日本というか日本社会が大嫌いで亡命したという理由が一番だけど、でもまず俺みたいなもんに仕事があるわけないからさ、だったら同じ苦労でもこっちで苦労したほうがマシだってことなわけで、状況的には独裁政権の国から自由を求めて逃れてきた移民なんかと本質的には変わらないわけですよ。まぁ俺の場合、親のサポートがあるからこういったシリアスな移民たちと俺を一緒にするのは失礼なんだけどね。そういう意味だとあれなのよ、ニートが上京して専門学校通うみたいなのをニューヨークでやってるってだけ。俺の場合。だから全然たいしたこと無い。エリートでもなんでもないし、こっちの大学なんて高校レベルの英語が出来れば誰でも入れるんだから。卒業するのは大変だけどね。ってことで留学=なんか凄そうっていうイメージはなくしたほうがいいよ。こういうイメージが流布してるから短期留学でもなんか得られるんじゃないかとかいって来る人が多いけど、何にもならないよ。基本的に留学の先にあるのは似たような資本主義型社会で、言語が英語ってだけです。そこでまぁ行動的な人は何かを得るかもしれないけど、それはあくまで主体あってのもので、主体性が無くて、ただなんとなく留学っつーと凄そうだからっつって留学しても何にもならないわけ。こうやって勝手に留学に対して変な幻想を抱いちゃうってのは、留学を売り物にしている代行業者とかによるイメージの捏造もあると思うんだけど、やっぱなんつーかそれ以前にジェネラルに留学っていうこと自体に個々が勝手な幻想抱いてる気がするのよね。ただ実際はね、来てみて、それがニューヨークであろうがロスであろうがイメージと全然違ってたっつって心身がダメになって帰るって人も多いらしいし、何も見つけられないまま英語学校にずーっといるって人も多いし、ようはね、状況自体が何かを与えてくれるなんてことはどこの世界にも存在しないってことなわけよ。主体性のないやつが違う環境に行けば環境によって様々なことが変わっていくとかね、そんなことは起こりえないわけよ。あくまでそれは主体性があった上での前に書いたようなソーシャルインターアクションによってパーソナリティが変わっていったり認識が変わっていったりするわけで、そこに何らかの働きかけが無いとまず無理なわけ。勘違いしてる人達ってのは行けばそういった経験が得られるんだって凄まじくパッシブなままなんだよね。そんなんじゃ無理。だから中身が何も無いまま自分探しっつって世界を放浪してもダメなんですよ。自分が無いと何も得られない。ようはその環境から感化されるような感覚とか思考とかっていう人間の意志が無いとダメなわけで、ようは日本で拾った石をエジプトとかアメリカとかイギリスに送ったところで、石自体に何も変化がないのと同じなわけ。この石状態ってのがスッカラカンな石人間の留学先で起こるわけ。ただこれは師匠2っぽい言い方すると自明の理なわけよ。まぁ留学に限らずだけどね。もっと狭い話でもいいや。どっかのサークルに参加するとかコミュニティに行くとかさ、それで変わるかもしれないっつっても、主体性が無きゃそれは、その辺で拾った石をなんかのサークルに置くだけで、石自体に何の変化も起こらないでしょ。逆に人間ってのは変な期待するから、そこでイメージと違ったとか、なんか予想してたのと違うとかって思うわけだけど、そりゃてめーが石だからなんだよってことに気がつかないとダメよね。逆を言えば意志さえあれば環境なんて二次的なものなわけ。だから前に書いたことでちょっと思うことがあったんだけど、俺ってどうやら人里はなれた山というのに桃源郷的な幻想を抱いてるんだなっていう風に思ったわけ。こんなくだらないゲームはやめて、とっとと隠遁生活を送りたいって書いたけど、隠遁生活なんて別に山に行かなくても送れるんじゃないかと思ったのね。ようは心の中に桃源郷的なイメージを持っていれば、自分の部屋が桃源郷になりうるでしょ。別にそれは瞑想しているときでもいいんだけど、頭の中にそういったイメージがあれば、実質、環境がどうであれ隠者的な生活は送れるんじゃないかと思ったのね。まぁ環境も大事だよ。ナチ政権下で心に桃源郷を持ってようがそりゃキツイよ。まぁなんつーかそこそこの環境なら別に心の持ちようっつーか、ようはその個人の世界観によって自分の世界なんていくらでも変わるじゃんって思ったわけで、んだから別に山に住まなくても、山にいるようなイメージを心に持っていれば、それは山に住んでいるのと同等じゃないかってことなわけね。ようはそこで人生なんてものにはもう達観して挑むしかなくて、心に桃源郷を描くことに人生を費やせば、色々と克服できることって結構多いと思うのね。それはくだらない人間関係についてかもしれないし、煩悩かもしれないし、精神病かもしれないし、不安かもしれないし・・・。結局こういったことを解決するのって内面的な力しかありえないわけだよね。薬とか環境の変化でどうにかなるもんじゃない。何しろ人間ってのはもう文明社会に生きているわけだから、社会からは逃げられないでしょ。桃源郷が社会に存在しないなら、自分の心に作っちゃえばいいだけの話だよね。まとめると、ようはこれってのは青い鳥と同じなわけで、幸福なんてのは外的なものの中には存在しないわけで、そういったものを無理やり作っちゃうのが幻想なわけだけど、青い鳥の「本当の幸せというのは鳥かごにあった」っていうのに準えると、本当の幸福ってのは心にありってことなわけで、まぁ基本的には師匠1の教えに行き着くわけですな。心っつーと深そうだけど、ようは気の持ちようだよ。認識ね。基本的には。あーダメだ。話が逸れた!もうあと1時間ぐらいしか無いから教科書読むわ。いつもこんな感じね。寸前というよりかは寸前の寸前ぐらいにならないと動き出さないのね。俺。あ、そうそう。パリ症候群とかさ、あと日本の馬鹿な芸能人がハリウッドデビューとかアメリカで活躍するみたいなことに幻想を抱いているのも、今、書いたことの良い例ね。良いっつーか悪いっつーか。事実とは関係ない幻想というものに振り回されるほど不幸なことはないから、とっととそんな幻想捨てちゃったほうがよっぽど幸せになります。ところでアルファブロガーって影響力のあるブログの書き手のことを指すらしいけど、なんか今回俺のブログがノミネートされたやつは2004年から開催されてるやつらしいんだけど笑っちゃったのが、Wikiで見てみたら「日本ではFPN(フューチャープランニングネットワーク)というサイトが「アルファブロガーを探せ」という企画を主催しており、ここで選出されたブロガーを指すことが多い一方で、この企画自体の知名度の低さの問題が指摘されている。また評価の正当性、選考の手法などにも疑問が投げかけられることもある。さらに、このサイトが選出したブログには社会問題となりうる虚偽に満ちたブログも含まれている。」だってさ。かなり批判的。逆にちょーメジャーなしょこたんブログみたいなのがノミネートされるようなコンテストだったら俺のブログなんてノミネートされないだろうからね。「虚偽に満ちたブログ」ってまさしくウォール伝も含まれるな。基本的にこういうのを一般向けに開催していたら、まず個性的なのはノミネートされなくて、ようはアカデミー賞みたいなそれこそ虚偽に満ちたアワードになるわけだけど、逆に俺みたいなちょー逸脱したブログみたいなのがちゃんとノミネートされるなんて、なかなかいいんじゃない?幅が広くて。ネクロマンティックとスパイダーマンが同時に出展されるような映画祭って素敵じゃん?無いけど。ようはたぶんこれってアルスエレクトロニカみたいな感じなんだろうね。えー?Cosmosが受賞したのぉー??っつって国際的にアワードの価値が疑われるっていう、ウォール伝はそんなCosmos的な存在かもしれないけど、逆を言えばCosmosみたいなのが賞を取るアワードってのもアリなんじゃない?とは思うけどね。あとラッセーラのソヴァージュもなんか受賞したんだよね。えらいアワードだよな。それこそ評価の正当性やら選考の手法に疑問が投げかけられるわけでしょ。アルスエレクトロニカ。世間の評価ってこんなもんだもんね。しょこたんブログと並んでノミネートされてたら、「他のノミネートブログが凄いね!」っつってなんつーか比較で凄いっていうアホな評価になるわけだけど、他がさっぱり有名じゃないわけの分からないブログとかばっかだったら「たいしたことねーアワードだ」ってことになるわけ。大半の人はこんな感じ。内容も見ないでこういった表面的なところで評価するわけね。映画のアワードとかもそうでしょ。ちょー有名監督がノミネートされてたりしたら、その比較として凄いみたいなさ、まぁ大日本人みたいなもんか。正式に出展されたわけじゃなくて、オルタネイティブ部門みたいなので、ようはネクロマンティックみたいなのでも個性があるっつって選考されるような枠に選ばれただけなのに「カンヌ」って名前だけで人々が勘違いするわけ。で、誰もディティール見ないんで勘違いしたまま、みんな「カンヌ正式出展作品」だと思い込んだりしてるわけ。アホだなぁーって思うね。マジで。まぁーでもあれかねーやっぱ客観的に見てもCosmosみたいなのが賞を取るアワードって何?って思っちゃうのは分かるけどねぇー。スーパーデラックスってさ、俺がまぐれでアートリンゼイのライブの時にDJした思い出の場所なんだけど、あんときのDJはヒドかったな。選曲はいいんだけどミックスがヒドかった。イカに現場慣れしてないかっつーね。あと10分ぐらいある曲かけちゃったもんだから、勝手に客が飽きてるって思い込んで、いきなり別の曲かぶせてミックスしたりとか、ようは精神病的強迫観念すらもミックスに影響してたりしたんだけど、まぁーでも楽しかったなぁー。なんつーか「選曲良いですね」って言ってくれたお客さんが何人かいてさ、人との係わり合いも悪くないなぁーっつかさ、あの時の経験がある一つの決定的な認識を与えてくれたんだよね。ようは独りよがりでやってるようなオナニー的音楽をやっているのなら評価なんて求めないっていう、ようは人に「良い」って言われたいっつーか人と何かをシェアできるようなものを作りたいんだったら、俺は音楽を作るなんて諦めるべきだって思ったわけね。だから俺は前者を選んでいるわけだけどっつーか選んでるっつーか前者しか選択肢が無かったんだけどね。人と何かをシェアできるような音楽なんて俺には作れるわけがないから。そんな意味でもウォール伝は明らかに前者的な態度でやってるんで、そもそもアワード的な概念と繋がりがあるわけないんだよね。やってるっていうよりかは勝手に出力したものをネットに乗っけてるだけだからね。やってるって概念すらない。ただ今回やっぱ嬉しかったのは、こんなブログでも推薦してくれる人がいたっていうことと、何よりこんなブログのエントリーを主催側が許してるってことだよね。まぁ逆を言えばこんなブログのエントリーを許してるから社会的な認知が得られないのかもしれないけど、まぁそんなもんクソ食らえでいいと思うけどね。まぁただ他のエントリーは大半がまともな人が書いてるちゃんとしたブログばっかりだったんで、まぁ俺のブログはネクロマンティック的な役割を果たせれば十分なんじゃないかと。「幅の広いアワードですわね」っていう。でもあれだね、過去にはきっこさんとか選ばれていたらしいけど、他のも色々見てみてもなんつーか社会的に見れば「反道徳的」なものも含まれるわけで、ようはエントリーの傾向が左翼じみているとかさ、そんな批判も聞こえてきそうだけどいいんじゃないかと。当たり障りの無いメジャーなブログ選出したところで面白くもなんともないからね。まぁこのアワードを擁護するわけじゃないけど、ブログって極めて個人的な考えとか経験を出力できる凄まじくインディビジュアルな媒体なわけじゃない?これは逆にメディアじゃありえないことなわけだ。そういった媒体のキャラクターを利用してアメリカなんかではブログでソーシャルクリティーク的なことをしていたりっていう、ようは社会へのコミットメントというか人への影響力があるようなブログもあるわけじゃん?それがまぁアルファブロガーの書くブログということなんだろうけど、日本ってこういうの少ないと思うんだよね。俺がアルファブロガーだとはとても思えないけど、ただなんつーかせっかくネットっていうセンサーシップのない媒体があるわけだからさ、もっと個々が色々なことガンガン書いていくべきだよね。色々な意見があっていいわけだけど、そこで議論が生まれればもうそれだけで価値があると思うんだよね。とりあえず色々なことをネットを使って語りつくすっていうね、そういうことが出来るわけだから、個々がどんなトピックでもいいからガンガンやっていくべきだよね。それこそメディアじゃ放送できないようなこともブログならいくらでも書けるわけだからさ、ガンガン書いていかないと。それこそWilliam F. OgburnのCulture lagじゃないけど、日本ってテクノロジーの発達が凄まじい割に、ノンマテリアルカルチャーの部分がテクノロジーの進歩についていってない感じがするんだよね。ようは人間側とか社会のシステム側がテクノロジーを活かしきれてないっていうか、テクノロジーありきの社会構造みたいなのを提唱できてないっつーか、本当はテクノロジーの進歩なんて社会自体を変えてしまうような可能性があるわけだけど、イマイチ日本ってのはこういうところに鈍感なような気がするね。そういう意味だとアメリカは割とこういうところにケイパブルなのかもしれないね。だからさっき書いたようなアルファブロガーみたいな存在が出てきたりyoutubeだとかgoogleだとか、それこそ社会的に影響があるようなものがガンガン出てくるし、ユーザーも使い方に多様性があるんだよね。でも日本って使い方に多様性が無いんだよね。ホント、個人的な欲求を満たす目的だけに使われている気がする。具体的な例が無くてアレだけど、言ってること分かるでしょ?やっぱいつまで経ってもアメリカの後追いじゃダメなんだから、やっぱ民度上げていかないとダメだと思うわけね。まぁ一概には言えないけど、経済とか文化とか教育のレベルではアメリカとの大差はそこまで極端じゃないんだから、国民のあり方によっては、それこそアメリカから独立できるわけよ。でも独立しないのってさ、まぁ色々と政治的なこととか経済的なこととかがあるにしても、やっぱ民度が低いんじゃダメだよね。少なくとも俺がアメリカに来てこっちはレベルが高いって思うこと自体がアウトでしょ。それってアメリカのレベルが格別高いわけじゃなくて、日本のレベルが低いってことなんだからさ、そりゃマズイよね。あーまた話が拡散バズーカーしてきた。あ、んでね、今はもう夜なんだけどっつーか今日は社会学の先生がなぜか来なくて、みんな帰っちゃったのね。っつーかこっちでは15分経ってもプロフェッサーが来ない場合は授業は無しってことらしいんだけどっつーかまぁそんなのが一般的なのかどうかは分からないけどさ、ただなんつーか生徒が独自に当日の出席票を作って後日先生に渡すとかさ、なんつーか15分経ったからもう次行こうってああいうクイックなディシジョンメイキングはさすがだなって思ったね。日本だったら生徒がざわざわしててみんな座ってるだけだろうなって思ったもん。こういう差を見るとアメリカ凄いなって思うのと同時に日本レベル低いなって思っちゃうわけだけどっつーかまぁ安易な一般化はできないけどさ、これってもうモノの考え方の差なのかなって気もするけどね。日本は周りの様子を見て慎重で、アメリカではとっとと独自に決断して次行っちゃうっていう。周りの様子を見て慎重でっつーとポジティブだけど、まぁ頭使わないってことでしょ。周りに流されてばっかっていう。普段から思考力が鍛えられて無いからすげー流動的なの。すべての行動が。これって個々がどうのってより、もう社会の特徴っつーかさ、社会によって個々の人格とか考え方とか習慣ってのがカスタマイズされるから、そういったアホアホな行動パターンってのが社会によって作られている部分もあると思うんだよね。それは言語と一緒でアホアホなパターンが身につきやすい日本社会に生まれた人でも、アメリカとか他の国で育てばその国らしい人間に育つっていう、ようは日本人のDNAとか性格がどうのって話じゃなくて、社会の話なんだよね。ってことでこの話題の流れから行くとやっぱ話が教育になるわけだけど、まぁそれは前に散々書いたからいいや。っつーかオナニーしたいんだよね。帰ってきてからメシ作ってさ、で、アルファブロガーにメールしてこれ書いて今に至るわけだけど、オナニーが無いわけよ。外に出ると色々なインフォメーションが頭に刷り込まれるからズリネタも増えるでしょ。俺の眼鏡ってそういう意味だと妄人メガネなわけだけど、妄人と違って俺は自分自身で妄想ネタを色々と収集してこれるから便利だよね。あ、そうそう。今後はあれなのかな、書くたびにケツに「クリックお願いします」みたいな、よくブログにあるさ、ブログランキングとかの投票のあれあるじゃん?あれのテンプレートみたいなのをペーストするべきなのかな?まぁ一ヶ月ぐらいだしいいかな。俺的には読んでいる人に投票を求めるなんて反革命的だなーって思うんだけど、やらないってのもアレだから、とりあえず投票ページのURLだけ書いておくね。https://www.sixapart.jp/inquiry/alphablogger/alpha_vote.htmlあと選挙期間内は政治家みたいに一時的な注目を集めるためにセンセーショナルなことを毎日書き連ねていくべきなのかな?で、ベストなんたらに選ばれたあかつきにはとっておきの音源をアップしちゃいますよみたいな、特典つけるとかね。ファンキーキンキーアップするとか。まぁいいや。このことは忘れよう。無駄に期待するとダメだったときに残念だし最終試験まであと二ヶ月切ったしブログどころじゃないんだよね。過剰にブログに注意をフォーカスするのも嫌だし、そういったことをすると俺の中の革命度が下がっていきそうだからやめたほうがいいよね。ってことで今までどおり時間があるときに更新していきますので投票ヨロシク。っていう落ちはどう?って感じで落ちを書いたりさ、投票ヨロシク(結局、頼むんかーい!)とか一人ノリ突っ込みするとかってよく文章であるけど、最近、アメリカでも一人ノリツッコミが存在することにお笑いの普遍的な価値を見出しましたね。生成文法ならぬ生成ユーモアみたいなのが人間にはあるのかもしれないね。ユーモアといえば今日も学校の手前ぐらいでマサさんの波が来たんで、テストが今日じゃなくて良かったかも。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーhttp://d.hatena.ne.jp/mimisemi/20071108