
はてなキーワード:リブートとは
俺はガンの露悪的な趣向が好きで見てるから最高だったけど、良心派の映画好きギークの中にはそこが引っかかって楽しめないって人が少なくないからそういう人には地獄の作品だったかもしれない。
ガンのフィルモグラフィーを見ても彼が「トキシックマスキュラリティ(有害な男性性)」の徹底的なアンチであり、それはいわば反父性主義であり、ファミリー(血族ではない)の力でそれを乗り越えるという展開が繰り返し描かれ続けている。
リブート版のスースクでトキシックマスキュラリティの権化として現れたピースメーカーが「政府」という巨大な父性に操られ本当の「平和の使者」であるリックを殺害してしまったことから、自身のアイデンティティがゆらぎ、自身の過去と向き合っていくのがシーズン1。
過去と決着=家族と決定的な別離をするもその結果になおも苦しむピースメーカー。しかし我が家の次元ポータルの先に「全員が無事な世界線」があることがわかり、家族を再構成したい、理想的な自分でありたいと考えてしまうも、実はその世界は……というのがシーズン2。
特に示唆的で面白かったのが、ポータルの先の世界線はいわゆるアースXと呼ばれる「ナチスが勝利してナチス的な思想になったアメリカ」であり、ピースメーカーはその世界で誰もが認める「ヒーロー」として活躍している。これは「悪人」として登場し、世間からも政府からも冷ややかな目で見られている元の次元のピースメーカーとは真逆である。
しかし、問題はアースXは「ナチス的思想の非常に差別的な世界である」ということである。
その世界でヒーローとして崇められるピースメーカー。つまり、ガンはこの脚本を通じて「元々のピースメーカーの思想というのは非常にナチス的で危ういもの」であると再度警鐘を鳴らしている。もっと言ってしまえば「アメリカのために"悪人"を容赦なく退治するアメコミヒーロー」というものに対するアンチテーゼともとれる。それって「国のために」ユダヤ人を虐殺したナチスと何が違うの?ということである。
ちなみにこの部分は見ていればそうわかるように作られているが、具体的に言及されることはない。エラい作りだ。
ピースメーカーがアースXがナチスの世界だと気づいていなかったことをギャグ的に「我が闘争がオフィスに大々的に置いてあるのに?」「マッチョは本なんか読まない」「オフィスの壁にヒトラーが書かれてるのに?」「今気づいた」と詰められるシーンがあるが、これも単なるギャグではなくピースメーカーが典型的な「白人男性」であることから「特権階級者はそのことに異常に無自覚である」という強い皮肉を感じる。
でもこういうことを口煩くお説教してこないのがガンのいいところだと思う。これらは「見ていればわかる」ように描かれているが基本的にはおバカ集団がポータルを狙う政府組織を戦いながらガン的不謹慎ジョークを飛ばし合いながらときに殴り合い、ときに慰め合うエンタメ全振りの展開が続くので、普通に楽しい作品に仕上がっている。
ナチスの世界だと視聴者に気づかせる(さまざまな細かなモチーフは第1話から登場しており、登場人物も白人しかいない状態が続くが)決定的な要素として、元世界のピースメーカーチームの黒人女性が歩いていると「黒人が逃げ出したぞ!」と追いかけられる展開もめちゃくちゃガンらしくてよい。あとヴィジランテを名乗る反社会的ヒーローがめちゃくちゃオタクで家(つまり子供部屋おじさんでもある)では年老いた母親に「ババア!ノックしろって言っただろ!」系のイキリを披露しまくるシーンではイテテテテとなってしまった。ガンは嫌な奴だ(憤怒)
最終的に仲間たちの力でピースメーカーは過去を振り払い、新たなヒーロー組織(ほぼ全員社会不適合者)を結成し大団円、最後の最後でとんでもないクリフハンガーを挟んで終了。私、アメドラのはちゃめちゃクリフハンガー嫌い。
スーサイドスクワッド、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーといったガン映画が好きならマストで見ていい作品だと思う。まぁ、1のほうが展開もダイナミックで面白かったと言われたらそれはそうかもしれんけど。
世界一映像化されたギネス記録持ちの巨匠スティーブン・キングがコロナ禍を予言したパンデミックホラー映画。
というわけでは全然なく、原作・原題は「Children of the Corn」で原作の邦題は「トウモロコシの子供たち」
俺はまったく知らなかったんだけど、このトウモロコシシリーズは1984年の1作目を皮切りに9作目まで作られている、アメリカではジェイソンやフレディのようなアイコン的なホラーシリーズらしい。この作品はそのリブート版で、作品的にはシーズンゼロの前日譚にあたるらしく、アメリカではエグいくらい酷評されていた。
酷評の多くは「原作どこ行ってんオブザイヤー」という感じだが、それ以外の部分で最も「確かに」となるのはストーリーテリングの拙さ。特に人間関係の描写の薄さ。俺も最初から最後まで「これは誰でどういう関係何だっけ??」と思いながら見た。まぁどうせみんなすぐ死ぬだけだからいいんだけど。
そういうC級ホラー映画を見るメンタリティでいればそれなりに楽しめた。
おそらく低予算だったのだろうけど、個人的にはホラー特有の省略の妙味が楽しめたのはよかった。
冒頭から「既に」ヴィランの少女は頭おかしいし周囲の子供たちは不穏だし、事態が始まると「既に」町は大荒れで、「既に」大人たちは保安官事務所に監禁されており、次のシーンでは「既に」大人たちは大穴に落とされている。その後も「既に」吊るされているジャーナリストや「既に」用意されている凶器など、常に3分間クッキングのように「準備は裏でやっときました」が続くので割とテンポよく見られた。
ホラー映画らしく主人公の女はバカで愚かだけど基本常に囚われているのであんま余計なことはしないのはマル。
ゴア表現も多くはないけどちゃんと入ってたし、キング特有のクゥルフ要素である「歩く者」も登場しサービス精神も旺盛。口煩い教訓話もなければ本編の時間も短いのでキング特有の「なんかよくわからんけど不穏な状況からの脱出」というエッセンスをうまく表現できてると俺は思ったかな。なお、キングファンは大酷評な模様。
あかん、もう何も見るもんなくなったけどなんかホラー見たい!って時に見るのがオススメ。
今朝も僕は予定通り6時30分に起床した。これは単なる習慣ではなく、日内リズムを最適化するための科学的必然だ。カフェイン摂取は起床から90分後に限定しているのだが、これはアデノシン受容体の占有率が高い状態で摂取しても効果が半減するという論文的知見に基づく。ルームメイトは「柔軟な生活」を好むらしいが、それはただのだらしなさに過ぎない。僕にとっては歯磨きの回数、シャワーの温度、さらにはバスルームに入る順序までが完全に固定されていることこそ、認知リソースの無駄を防ぐ合理的行動なのだ。
午前中は例によって超弦理論の計算に没頭した。今日の焦点は、compactified manifold における (E_8 \times E_8) heteroticstring のゲージ束縛条件と、dS vacua における non-perturbative stabilization の整合性についてだった。AdS/CFT ではウィッテンですら体系化できるが、dS/CFT の場合は holographic dual が未確立であるため、僕は entanglementwedge reconstruction を拡張して「非等方的情報チャネル」として解釈を試みている。問題は、有限エントロピー境界条件下で moduli space の measure が well-definedである保証がなく、結果として vacuum selection の基準が「人間原理的な便宜」に堕してしまうことだ。僕はこれを「観測者選択効果の不当な混入」と呼んでいる。昼食の最中に隣人が僕に話しかけてきたが、彼女の話題が全くこの深刻な問いに資することがなかったので、僕は愛想笑いをしただけで再びノートに数式を書き込んだ。
午後は研究から一時的に離れて、ゲームの進行管理を行った。昨日購入した「Baldur’sGate 3」のパッチノートを熟読したのだが、Larian Studios が hotfix で Paladin の Smiteダメージ計算式を微調整した件は、Dungeons & Dragons 5版のルールブックを徹底的に理解している僕からすれば遅すぎる対応だ。DamageDice の集計方法を間違えるなど、明らかに playtesting が不足している証拠だ。それに比べて「Stellaris」の 3.12アップデートにおける人口成長モデルの修正は、シミュレーション科学的に正当性がある。種族特性ごとの logisticgrowthモデルを導入し、資源依存性と結合させたのは評価できるが、まだ phasetransition の扱いに粗さが残っている。こうした不完全性を見ると、つい僕が開発チームに直接メールを書きたくなる。
夜にはコミックの再読。今日手に取ったのは Jonathan Hickman の「House of X /Powers of X」。これは単なるマーベルのリブート企画ではなく、群論的多様体を下敷きにしたストーリーテリングであり、Moira X の時間線の重ね合わせはまさに量子多世界解釈をポップカルチャー的に翻案したものだ。普通の読者が「難解だ」と感じるのは当然で、群同型と射影の概念を知らずにこの作品を理解できるはずがない。
一日の終わりに僕はいつものように部屋のチェックを行った。窓の施錠は時計回りに確認し、机の上のノートは直角に整列させ、枕の位置は壁からちょうど40センチ離れていることを確かめた。これらはただの「強迫観念」ではなく、環境を量子真空の基底状態に近づけるための僕なりの実践だ。ルームメイトが見れば笑うだろうし、隣人は「神経質すぎる」と言うかもしれないが、僕にとっては必然的行為なのだ。人類の未来がdS 背景での情報保存にかかっている以上、僕の習慣の厳密さもまた、その縮図に過ぎない。
アルガスタ戦記 ~ジーナ編~ の 第一話 プロトタイプ についての感想などを書いたものです。
ここにあります。
アルガスタ戦記 ~ジーナ編~ |小説 |無料小説・小説投稿・登録サイト | ツギクルhttps://www.tugikuru.jp/novel/content?id=66620
幾度かの活動休止と復活を繰り返し、現在もチャンネルが存在するyoutuberであるsyamu氏が作者である小説作品です。
これは氏の過去作である『ゾット帝国騎士団カイトがゆく!~人を守る剣の受け継がれる思い』及び『ゾット帝国親衛隊ジンがゆく!~苦悩の剣の運命と真実の扉~』をリブートした作品だとされています。
物語そのものに直接的な繋がりは無く、あくまで世界観やキャラクターの一部を再利用し、新たな作品として再構築したもの……とされています。
元々この作品はsyamu氏が自費出版すること目指して執筆されていたものでしたが、諸般の事情により企画そのものが中止となり、2023/6/27から『三日間限定で』第一話のみを公開することになりました。
ここで話すにはとても紙幅が足りないので適当に調べていてください。
Twitter:https://twitter.com/syamu3132
youtube:https://www.youtube.com/@user-syamu_YouTube/featured
Syamu_Game -ニコ百https://dic.nicovideo.jp/id/5263954 #nicopedia
ゾット帝国 -ニコ百https://dic.nicovideo.jp/id/5502394 #nicopedia
ただしよくある剣と魔法の世界ではなく、近代的な文明レベルで魔法とか不思議な力も存在する世界のお話のように見えます。
だから厳密にはSFファンタジーとかロボット系SFっぽくも見えるかもしれません。
以下あらすじ
夜空を飛び、『プロトタイプ』なる兵器を運ぶ輸送機が、嵐を前にして進路を変更するところから物語が始まります。
機内では『プロトタイプ』の最終調整が行われている最中でしたが、この段階になって深刻な不具合が見つかります。このままでは明日に行われるはずの軍事演習でプロトタイプが暴走してしまう可能性があると。
研究員たちはプロトタイプの不具合を修正しようとしますが、上手くいきません。それどころか、今度は嵐の影響が予想以上に大きく、輸送機は嵐に巻き込まれてしまいます。さらに落雷を受け、輸送機の電子機器は破損。エンジンが一機停止した上に、ついにはプロトタイプが起動。機内で暴走を始めてしまいます。
騒然となる輸送機内。プロトタイプは暴れに暴れ、ついにはキャノン砲で輸送機に穴を空けてしまいます。
最終手段として、大佐はプロトタイプに仕掛けられた自爆装置を作動。
大佐はキャノン砲が空けた穴から機外へ放り出され、プロトタイプは大破状態でハッチに引っかかり、脱出路を塞いでしまいます。
しかしパイロットは機体の操縦桿を握り続け、何とか飛行機を街の向こうの森まで飛ばすよう奮闘します。
そして副パイロットには後部ハッチを開け、脱出路を確保するよう指示します。機内後部でプロトタイプが燃え続けてしまえば、墜落を待つことなく燃料に引火し、空中爆発してしまうと。
激しい風に耐えながらも、なんとか後部ハッチを手動で開くことに成功する副パイロット。
しかしここでパイロットから通信が入ります。パイロットは輸送機が街を抜けたこと、自身が『レギオン』に所属していたこと(過去形?)、そして副パイロットがこの輸送作戦を破壊するために送り込まれたスパイであることも知っていて、その情報を大佐に売ったのだとも。
言いたいことを言った後、パイロットは副パイロットを銃撃してからパラシュートで輸送機から脱出してしまいます。
副パイロットも、腕を撃たれていては機内にしがみついていることはできず、外へ投げ出されます。
絶体絶命。
しかしそこに飛翔して現れた少女が、副パイロットを不思議な力で落下から救います。
少女の名はミサ。そして副パイロットのことを少女はレオンと呼びます。
そしてレオンは何処かにいる上司に無線通信で報告をします。プロトタイプは消滅したと。
という感じです。
第一話のみなので、なんとも言えないところもあるのですが、個人的には『web小説全体では』それほど酷いと言われるようなモノではないという印象です。
例えば再序盤の
大型軍用機が曇り夜空を縫う。
の『夜空を縫う』という表現はなかなか情緒的とも言えるし、部分部分ではちょっぴりイケてる部分もあります。
ただ。
機内には両耳が立ち紅い眼と鋭い牙で顔がアーマーに覆われ、四本脚で肩と脹脛がアーマーに覆われ鋭い足爪、お腹もアーマーに覆われ背中に大きな二本の砲身、肩に小さな二本の砲身、お尻に二つのブースター、長い尾もアーマーに覆われ尾の上下が尖っている金属の大型の獣が肩と両脇腹に太いケーブルで大型装置に繋がれて異彩を放っている。
とか
遠くから淡い栗色のミディアムヘアでメカゴーグル付けリボン付きブラウスとチェック柄のジャケット着て背中にブースタースーツ装着して蝙蝠の翼が伸び、ジャケットと同じチェック膝丈パンツ穿いて黒白の縞靴下穿き、手足にパワースーツ装備した女の子が虹球に包まれブースター吹かし飛んで来て副パイロットの頭上で両手を広げた。
とか、書きたい情報を一気にワッと描いちゃうのはちょっと良くないクセだと思いました。
こういう場合はまず『なんとなくのイメージ』をパッと書くほうが小説らしくなるのですが……
他には
の直後に
また機体に大きな雷が落ち、機体が大きく揺れて太いケーブルを持った研究員達が体勢崩す。
また雷の電気が機体から機内の大型装置へと太いケーブル伝いに青白い電気が走り、太いケーブル持った研究員が感電して焼き焦げ皮膚が焼ける臭いがする。
『元同志よ! 私もレギオンだったよ! 街を抜けて森に入った! お別れの時だ!』
『不思議そうな顔してるな! フライト前お前の情報を大佐に売った! 高く売れたよ! 元同志としてお前を泳がせた! 爆破装置を起動した! 私は脱出する!」
とか、一方的に言いたいことだけを言い放題する裏切り者とか(機内放送で言ってるはずなのに、わざわざ顔を確認してたの?)
とはいえ、きっちり良い所もあって。
映画的に派手な演出で緊迫感を出せているとか、キャラクターのセリフ回しもそれなり雰囲気はでているとか、この調子で頑張れば面白くなりそうなところも無くはありません。
総評としては『web小説のアマチュアとしてはそこそこ』くらいです。ランキングは無理かもしれないけど、好きな人はいるかもね。くらいに。
この記事を書いてる途中でsyamu氏がツイートしていました。
https://twitter.com/syamu3132/status/1673619504361000960?s=20
ゾット帝国リブート酷評している方は自分もネットに作品を投稿してから言おう。あと自分も家バレで嫌がらせされて同じ土俵に立ってからだと同じ事言えるだろうか?
https://twitter.com/syamu3132/status/1673623958745399297?s=20
ゾット帝国リブート第一話糞つまらないと言われ安心した。こんな怪文書書籍化中止で良かった。二話公開しなくていいので安心だ。ポテチさん本当にお疲れ様でした。短い間でしたがありがとうございました。
まあ。もう多くは語りませんが。こういう人の作品ってことです。
ジークアクス、SNSでもショート動画でもはてブでも話題になってる。
そんで「キャラが薄い」「話の展開が意味不明」「これはガンダムじゃない」って怒ってる人も多い。
確かに昔のガンダムとは全然違う。人間ドラマが描かれて、戦争のリアルがあって、キャラの描写や成長があって……って平成までのガンダムをぶっ壊してる。
ジークアクスみたいな「何これ」って言われる話題作になってたの?
ジークアクスは説明は少なくてキャラの心情もほとんど語られない。
そんなのシン・ゴジラのときとかだってカラーはそう批判されてきたじゃん。
映像、空気で引きつけて「なんかわからんけど気になる」を作ってる。
鶴巻監督もジオン勝利ifは通ると思わなかったけどOK出たんで驚いたって言ってたじゃん。
それを通したのもバンナム。
ガンダムというIPのリブートを、昭和IPのリブートで実績のあるカラーにわざわざ任せてんだから、今まで通りのガンダム作らせるわけがない。
実際今拒否反応示して怒ってる人たちの反応は、バンナムやカラーの思い通り。
あえて古参が「ガンダムじゃない」って言うようなものを作ってる。
古参が「これは違う」「わかりづらい」「薄っぺらい」っていう旅に話題になってく。
ちょうど先日chatgptとシン・エヴァの話をしたので、幼稚なtogetterとの比較のために掲載しておく。
人類はchatGPTにすでに敗北していると思う。
以下chatgptからの返答。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』とは、「語ることの断念」ではなく、「語りなおし=再構築」の実験」であり、1997年版が突きつけた「語ること/関係することの痛み」のその先をどう生きるか**を問う物語です。
要するに、あの「気持ち悪い」から、もう一度「やりなおす」試みです。
■前提:『まごころを、君に』のラディカルさのあとに
1997年版が突きつけたのは、次のような問いでした:
「語ること・終わらせることは可能か?」
『シン・エヴァンゲリオン』はその終末の"その先"**で、観客・作者・キャラクターたちの三者の再起を描こうとした、非常に稀有な「自己批評の続編」です。
シン・エヴァは、これまでの『エヴァ』の物語(TV版、旧劇、新劇)をすべて劇中のヴィレやネルフの構造に埋め込んだメタ構造になっています。
つまり、「物語が終わったあとにもう一度、物語を語りなおすことは可能か?」という問いの演習なのです。
ラストの**「エヴァのいない世界」「実写の駅」「宇部新川駅」「庵野風の男性と赤い服のマリ」**は明らかに「虚構から現実への脱出(=旅立ち)」を象徴しています。
マリは**庵野秀明の現実の妻(安野モヨコ)**をモデルとした存在。
そのマリが**シンジ(庵野)を“迎えにくる”**という構図は、物語やキャラクターの母胎から脱し、現実世界に自分を接続する勇気のメタファーと読めます。
つまり『シン・エヴァ』とは、「物語を終わらせる」のではなく、「物語に依存せず、それを背負って現実を生きていく」ためのフィクション的装置なのです。
『まごころを、君に』が「観客に対する断罪」であったとすれば、
『シン・エヴァ』はその断罪を受けた者が、もう一度語りなおすことで他者に手を伸ばす物語です。
「語ることは絶望的だと知ってなお、語る」
「傷つくと知ってなお、他者とつながる」
という、創作と観客、キャラクターと現実、自他関係の倫理的問題に向き合う試みです。
🔹1997年の問いを受けとめ、語ること・関係することへの肯定をもう一度選びなおす
🔹メディア批評としての総決算と、庵野秀明という作家の告白と再生
「絶望の果てに、それでもあなたが語り、生き、他者と関わることを選ぶなら——その時に必要な“まごころ”とは何か?」
という問いを、庵野自身が自らに向けて問いなおし、答えた作品だと言えます。
質問者・幼稚な世界救済の物語をやめたこともすごくよかったです、新劇場版は
旧エヴァ:エヴァにノリたくないよぉ他人が怖いよぉ、と拒絶して引きこもっていたら地球が滅びました。結論・引きこもりはよくない
序破:女の子のためにエヴァに乗っていっくぞおおおおお!今度こそ間違えない!
Q:女の子のためにエヴァに乗って行動したら地球が滅びました、行動すれば必ず成功するわけじゃないよね、そりゃ。
シン:等身大の関係性から自分を見つめ直して家族の問題を考えて、身近な人間たちとできることをしようと思いました。そうやって現実の僕らも生きているから。
こういう話でしたね、私にとっては。
まさにその通りですね。
その読みは、新劇場版という全体構造を「錯誤→破局→再接続」として読み解く、極めて実践的な理解だと思います。
でも「外に出ること」=「他人と関わること」は怖い。
「やっぱり戦って、誰かを救って、愛されたい」という願望。
救うために行動したはずなのに、全部が裏目に出る。
→結論:「正しさ」が何かを壊すこともある
それが結果的に「エヴァの終わり」であり、「自分の始まり」になる。
重要なのは、シン・エヴァが「世界を救う」話ではなかったこと。
救済でも贖罪でもなく、
「わかりあえないけど、話そうとすること」
「信じられないけど、関係を結び直そうとすること」
この“非劇的な選択”にこそ、現実の私たちが生きるための手がかりがある。
そういう意味で、『シン』は空前の“アンチ・クライマックス”型ヒューマンドラマだったのだと思います。
あなたの読みのように、「等身大の関係性に目を向けたこと」「世界や他者を幻想的に“救う”話ではなくなったこと」にこそ、
これNetflixで見て損した。人類滅亡の設定は面白いよ。破滅系が好きな私には刺さる世界観なんだけど、メインストーリーの少女5人組がガチで合わなかった。
政府と自衛隊による侵略者への対応とかサブストーリーだけ切り取って見てる分にはかなり面白かった。侵略者を自衛隊が駆除する描写はそのまんま殺戮って感じで、そこだけフォーカスした物語だったら9/10だった。
メインストーリーの少女5人組がつまらなすぎて一部飛ばしたレベル。UFOがある首都で日常系をやりたかったんだろうけど、『ぼくらの』みたいに悲惨さに寄せてるわけでもないし、
かといって『シンゴジラ』とか有川浩の『海の底』みたいな、政府や自衛隊の描写メインでもなく、出てくるギャグは面白くない。Coopとかナイフ限定鯖とか「その辺も把握してます」って感じでキャラに喋らせてるのも合ってない。
しかもこのゲーム好き、ゲーム得意という設定、全くメインストーリーで生かされてないし、そのセリフに費やす時間がムダすぎる。あと教師と主人公がセックスすることを友人が期待しているという一連のギャグも、
UFOがある街での日常系の一部として描いてるのが無理。そこまで描くならもっとエロ描いてればいいのに結局ほとんど描かれておらず、最終的には並行世界に飛んでハッピーエンドの世界線では同棲して何年を迎えてオチとかも、普通すぎて何も意外性ない。
最近昔の作品をリブートさせる動きが広まってるけど、「色々な人に刺さる要素盛り込みましたこれで全員にウケて稼げますスペシャル」みたいなストーリーより要素の多さを優先するコンテンツが氾濫して全体的に面白くないので、
ストーリー重視の昔の作品に原点回帰したくなってるんだろうな。本作はまさに、良くも悪くもこのスペシャルで、私には合いませんでした。まあタイトルの時点で察するべきだったかもしれない
ドラゴンボールやダイの大冒険のような、主人公の成長をテーマにした物語が受けなくなってきたからだと思う。
強大な敵が現れる→主人公が立ち向かうが負ける→主人公が修行する→強くなった主人公が勝利する
というのがあるが、この「強敵に負けて修行する」というプロセスがわずらわしいというが、邪魔に見えてくる。
目が肥えてきた読者からすれば、もはや余剰レベルになっているのではないか。
だったら最初から最強・無双状態の主人公であれば話がサクサク進んで、その方が合理的に思えてくるのだ。
今ドラゴンボールを読み返してみると、私の方が変わってしまったのか、余計な話が多すぎるように思えてきた。
ピッコロ大魔王と再戦する前の超神水のエピソードとか、フリーザ戦前の宇宙船内での修行とか、セルゲーム前の精神と時の部屋の修行も全部「蛇足ではないか」と考えるようになってしまった。