
はてなキーワード:リアリストとは
かねてより「頭の中お花畑」というフレーズは反戦左翼を揶揄するときに使われるものだった。
たとえば自衛隊は違憲だから解体しろだとか、沖縄から米軍を追い出せだとか、武器なんかなくても一緒に居酒屋で酒飲んだらわかり合えるよ、だとかね。
そりゃあそんなことが全て実現できるなら素晴らしいことでしょうよ。
でも現実を見たら想定が甘すぎたり、コストがかかり過ぎたり、そんなに頭の中で思い描いてるようにうまくいきませんよというのが「頭の中お花畑」という言葉に集約されている。
概ねそれは間違っていなかったと思う。実際にそれで日本は大きな不幸、混乱もなく回ってきたわけだからね。
これだけ人手不足で倒産する会社が続出していて、求人倍率が高止まりしていて、労働参加率は過去最高であるのに、右翼の方々は労働者を増やしたくないらしい。
労働力不足は嘘つきだそうだ。経営者が無能で生産性が低いだけだと。
足らぬ足らぬは工夫が足らぬということだろうか。
まともな頭があればそんな精神論ではどうにもならないことわかると思うのだが。
豊富な資源、豊富な人材、優れた教育によってイノベーションが起こり、結果人手が充足し、それがいきすぎると逆に余ってしまって就職難・不況になるのであって、逆はない。
人手が減ればそれをなんとかするためにイノベーションがおこって、人手がなくても何とかなるようになるんだ!というのはよくいって願望、悪くいえば妄言だ。
この期に及んで少子化をどうにかすればいいとか言い出している。
20年近く前からすでに対策をしていて、諸外国を見てもどこも顕著な成果を出せているところはないのに小手先の知恵で急に解決するわけもないのはリアリストならわかるだろう。
もし今この瞬間に少子化が解決して来年から150万人の子供が生まれてくるようになったとしても、その子たちが働きに出るまで20年のタイムラグがあるし、今既に生まれている幼児・少年少女たちの人口が圧倒的に足りてない事実は変わらないというのに。
衰退を受け入れたらいいとか言い出している奴も目立つようになってきた。
衰退するということはインフラが改修できない、治安を保てない、医食が欠乏して平均寿命が下がる、国防もままならないということだ。
日本は付加価値の高い工業製品を製造して、輸出して、そのお金で食とエネルギーを輸入しなければ半年も持たない国であることを理解してるんだろうか。
そんな立ち行かない国になった時にロシアが、中国が侵略してきたときにどうやって食い止めるつもりなのだろうか。
食品価格が多少上がったり、交通インフラが廃線、減便になったり、社会保険料・税金が上がり続けたりすることに対してあれだけ文句を言っているのに本当に衰退に耐えられるのだろうか。
本当の「衰退」はそんなものの比じゃないわけで、はっきりいって現実を舐め過ぎだろう。
すでにこの国は20代人口の1割を外国人が占めるようになっている。
もし外国人を全員追い出したら新卒の給与は多少上がるかもしれない。その代わり生活コストはその比じゃないほどあがるけどね。
結局さ、「外国人いらない」で国が回るって言うなら今すぐ代案を数字で出してほしい。
必要な人員、税率、賃金、設備投資、何年でどこまで自動化するのか、現場の穴を誰が埋めるのか。
青写真も覚悟もないまま「衰退でいい」だの「工夫で何とかなる」だのと唱えるだけなら、それこそお花畑だ。
右翼も左翼もお花畑になってしまったら、この国の未来は暗いよ。
Permalink |記事への反応(21) | 20:13
コピペした後に「上記の発言をしたのがどういう人物か、精神分析してわかりやすくまとめて」
この人物は「弱者的な言い訳」や「社会的な保護のもとでの安住」を激しく嫌悪し、自分の成長・快楽・理解は**“実体験による克服”で得るべきだと信じている。
価値観の根底には「努力すれば変われる」「不器用を理由に逃げるな」という自己鍛錬信仰**がある。
ただしその裏には、「努力で勝てない分野への恐れ」「成長を止めたくない焦燥」「他者への優越を保つことで自尊心を守る」という不安定な自己評価構造が見える。
項目 内容
自らを“敗北者から成長した現場人”と位置づけつつ、未熟な他者を突き放すことで自我を保っている。
しかしその厳しさの根底には、「自分が守られなかった人生を守るための防御」が見える。
感覚・性・努力・美意識をすべて“体験によって磨かれるリアリティ”と捉えており、
みんなもやってみそ
法事自体は問題なく終え、1泊して帰るまでに少し時間があったので時間を潰せる場所を探していたら見つけたのが中野プラネタリウムだった。
まだ小学生だった頃、夏休みの間は共働きだった両親の負担を減らすために私は母方の実家である中野へ預けられていたのだが、よく祖父が連れて行ってくれたのがそこだった。
何だかとても懐かしくなり、ふらりと訪れてみたプラネタリウム。
大人200円子供100円という破格の値段で驚きながら中へ入ると、おぼろげな記憶だが当時とまったく変わっていないように見えた。
部屋の中央へ据え付けられた大きな鉄アレイみたいなフォルムの投影機械。
…夏の暑い日、祖父に手を引かれて入場した記憶がよみがえり、ちょっと涙ぐむ。
しばらくして上演が開始された。
説明を聞いていて驚いた事に施設で使用されている機械は三十数年前、つまり私が祖父に連れられて来たあの日と変わっていないらしい。
「最新の機械だと星々を線で結んだりする機能が付いていたりするのだけれど、出来なくて申し訳ない」と解説員さんがちょっとだけ申し訳なさそうに言っていたが、とんでもない。
──つまり私は、祖父と観たあの日と同じ夜空を、同じ場所で、眺められているのだ。
そう感じたら空を見上げながら涙が溢れてきた。
偶然の思い付きで数十年ぶりに訪れたプラネタリウムでこんな追体験ができるなどとは思っていなかった。
少しだけ滲んだ星空を眺めながら、私は亡き祖父を偲ぶ事ができたのだ。
絶対にまた来ようと、そう誓い私は施設を後にして母方の実家へ戻る。
そしてこの話をしたら母が思い出したようにこう言った。
「あー…そう言えばおじいちゃん、『安いし涼しいし暗いから昼寝するのにプラネタリウムは最高』って言ってたわ」
なんと、かなり頻繁に連れて行ってくれてたのはそれが理由だったらしい。
おじいちゃんも意外にロマンチストだったんだなぁ…とか思ってたよ。
笑いながら昔話に花が咲いた。
「つまらない」?お前、ちょっと待て。それは世界がショボいんじゃなくて、お前の脳内クライアントが完全にレガシー化してるだけだ。現代はAIが自動生成するアート、量子コンピューティングの最新研究、NFTやメタバース内で無限に拡張される現実、リアルタイムで更新される情報のビッグデータ、無限ストリーミングのコンテンツ……全てクラウドに存在してる。なのにお前は「つまらない」?お前の受信端末が古くてGPUもCPUも焼き付き、パケットが全部ドロップしてる状態だろ。
楽しさってのは外部にあるんじゃない。感受性プロセッサでデコードして初めて体験されるデータだ。お前はそれを処理せずに「つまらない」と吐き捨てる。Netflix、YouTube、AI生成ゲーム、ブロックチェーンアート……宝の山は無限に存在するのに、端末が死んでたら単なるゼロとイチの塊にしか見えない。
しかも笑えるのは、そういうやつほど「俺はリアリスト」「世の中を俯瞰してる」とかドヤ顔。いや、俯瞰じゃなくて単なる未接続。API叩いてもないのに「データが無い」って言ってるのと同じだ。普通なら興味を持てる情報がキャッシュされるのに、「全部」って極論で切り捨てるのは、ただのI/Oエラー。アルゴリズムじゃなく端末側のハード障害だ。
現実もメタバースも常に面白さをストリーミングしてる。でもお前の受信機は老朽化、感受性GPUは焼き付き、アップデート拒否中。だから退屈に見えるだけ。つまらないのは外部じゃなく、お前のOSとハードウェアだ。そして残酷に言うと――つまらないのはお前自身。
再起動してパッチ当てろ。世界は面白さで溢れてるのに、体感できないのはお前のクライアントが死んでるからだ。クラウドは常に稼働してる。アップデート拒否の端末が不平を言うな。LifeOSのログを見ろ、エラーコードは「お前自身」だ。
俺が発見した!
俺が発見した!
俺の考えた『衝動保留(インパルス・ペンディング)』は歴史に残るぞ!
俺の名を残してくれ!
まずやり方を教えよう。
日頃からキレて物を投げそうになったり奇声を上げそうになるたびに「ちょっと待て。10秒考えて『いや、ここは実行に移すべきだ!』となってからでも遅くないぞ」と考える癖をつけていく
↓
いざ、怒りの衝動により拳や暴言が飛び出しそうになったら、行動に移すのを少し待って「これ、実際にやったら滅茶苦茶損しないか???」と冷静に損得勘定を行う。
↓
「怒りは収まらんが・・・ここで殴ったら相手の思う壺だからひとまず殴るのはやめよう。俺はマジでキレてるからこそ、殴って相手を楽にしたりはしないのだ」と判断して衝動的な行動を抑制する。
↓
怒りの気持ち自体を無理に抑えようとせずに衝動的な行動だけを抑える。
表面上は同じだが行為の発生源も最終的な着地点も違う。
『アンガーコントロール』は「怒りは駄目!冷静になって!冷静になれば怒りは消えるよ!」と人間の心を理解したふりしか出来てないポンコツアンドロイドばりの極論を語るアドラー心理学を齧った自称リアリスト中学生のようなしょーもない理論だ。
『衝動保留(インパルス・ペンディング)』は「怒りそのものを鎮めるのは簡単ではない。だが、衝動的な行動に移すことを控えれば怒りによってもたらされる不利益の大部分を回避可能なはずだ」というものだ。怒りそのものを安易に否定するようなことはしない。勢い余った行動で損失を被るのを回避することだけに着目している。
全く違う。
『衝動保留(インパルス・ペンディング)』は怒りという感情が生まれでてしまうことも、それを抱えて生きていくことも否定しない。怒りと共存する道を探る大人の処世術だ。
『アンガーコントロール』は「怒りとか無意味。つーか俺ぐらいになると感情とかないし。は?マジだが?嘘じゃね—し?は?」的な感じのクソガキ。マジクソガキの暴論。自分で出来もしない正論を語ってマウント取ってるだけの馬鹿。
衝動的に物を投げそうになったときとかに「ちょっと待てよ・・・これは差し引きで得か?損か?」と考えるようにすればいい。
もちろん、10秒考えて「海に向かって叫ぶことでこの感情が少しでもマシになるなら俺は叫ぶよ!!!」という結論になった時は実行に移していい。
その10秒を生み出すために必要なのは日頃から「俺のこの行動は本当に俺の得になるか?」と一呼吸置く癖をつけること。
意識は遅れてやってくるという説もあるが、多少意識が遅れて来てもそもそも行動が予備動作に入ってから実行されるまでの間に「判断する時間を稼ぐための時間のダム」のようなものが自分の癖として組み込まれていれば、咄嗟に動きを留める余裕が出てくるもの。
とりあえず「体が思いついても頭が判断するまでは実行しない」という癖を日頃からつけていこう。
怒りという感情を否定せず、行動だけを踏みとどまろうとする『衝動保留(インパルス・ペンディング)』は大人の処世術。
怒りそのものを否定する『アンガーコントロール』はガキの思いつき。
行動する前に数秒でいいから損得のソロバンを弾く癖をつけるだけで、怒りによってもたらされていた損失は大幅に減少するので、とにかく「衝動的に行動する前に一度保留する」ことにフォーカスを当てよう。
「石破ほめ」の局地的流行が続いている。
何があたまわるいかって誰一人政策の話をしてない(できない)のである。何をしたから石破がいいのか。何をするのを期待しているのか。
そもそも一生自民には投票しない人たちである。自民党の一挙手一投足について批判的な考えを持っているはずだ。それは全部石破総裁に刺さるのだが。
さらにアホの極みなのは「ほんらいお前らの基準だと石破は極右じゃなかったんかいw」ということだ。
しかし和式リベラルがいかにアホかという話は実はどうでもいい。
本邦の政治家や言論人のある一つの類型──「センスはウヨだが身につけた教養は和リベのそれ」についてメモしておく。
本人の感覚でモノ言ってる時は自己責任だ民営化だ現実主義だと「新自由主義」みたいなことを放言する。リアリストを気取って「小の虫を殺す決断も必要」みたいなことを好んでいう。
それがある程度責任あるポジションで声明をする段になるとがっこうでおべんきょうしてきたとおりの典型的和式リベラルの地金が出る。
現実主義気取りの中二病センスと、借り物のファンタジーな土台。最悪のハイブリッドなのだ。
もちろん石破や橋下を念頭に言っているが他にもいっぱいいる。警戒せよ。
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人類の歴史において、民主主義は常に理想と現実の狭間で揺れ動く「壮大な実験」であり続けてきた。古代ギリシアの賢人たちは、その脆さと可能性を早くも見抜いていた。
プラトンは、その著書『国家』において、理想国家の堕落の最終段階として「民主政」を挙げ、それが「僭主政」へと移行する危険性を指摘した。彼は、自由を過度に追求する民主政が、最終的には無秩序と放縦を生み出し、大衆の感情に訴えかける扇動家(僭主)の台頭を許すと警告した。アリストテレスもまた、『政治学』第5巻で、民主政が貧富の対立や扇動政治家による民衆の操作によって不安定化し、崩壊に至る多くの実例を詳述している。
そして、ポリュビオスは、政体が「王政→僭主政→貴族政→寡頭政→民主政→衆愚政」というサイクルを繰り返す「政体循環論」を提唱した。民主政が衆愚政へと堕落する過程は、個人の自由が過度に尊重されるあまり公共の利益が見失われ、最終的に無秩序と暴力が支配する衆愚政治に陥るというものであり、古代の知見が現代にも通じる普遍性を持つことを示している。
古代ローマ共和制は、これらのギリシア哲学者の懸念を現実のものとする一例だった。その成果は、法の支配、市民の権利、抑制と均衡のシステムに見られたが、広大な領土の獲得に伴う経済格差の拡大、軍人政治家の台頭、そして内乱の激化は、最終的に共和制を帝政へと移行させる原因となった。これは、いかに強固な体制であっても、内部の矛盾と「安定した政権交代ができない」という弱点を抱えることで、崩壊の道を辿ることを示している。
長く続いた暗黒のヨーロッパを経て、米国はリベラル・デモクラシーの旗手として世界の舞台に登場した。その理念は、自由、平等、人権、そして民主主義の普及にあった。米国の独立宣言は、まさにその理念の表明であり、「全ての人間は平等につくられ、創造主によって、生命、自由、幸福の追求という、ある種の不可侵の権利を与えられている」という、新しい世代へと夢を託す壮大なビジョンを示している。
しかし、冷戦という特殊な国際情勢下において、米国は理想と現実の厳しい矛盾に直面した。ソ連とのイデオロギー的対立の中で、米国は「リベラル」な信条と相反する「リアリスト」な態度を国際社会(外交)において求められることになった。その結果、CIAなどの諜報機関は、他国の政権転覆、心理作戦、プロパガンダといった秘密情報活動を大規模に展開した。これらの活動は、当時の米国の国益を守るためとされたが、介入を受けた国々に米国に対する根深い猜疑心と不信感を植え付けた。リベラル・デモクラシーを標榜する国家が、その理想とは裏腹に、他国の内政に干渉し、世論を操作する行動に出たことは、その後の国際社会における米国の信頼性にも影を落とすことになった。
皮肉なことに、この「他国を貶める」ために行われた情報操作の「刃」は、時を経て米国自身に向けられることになる。米国社会で広がる「ディープステート」論は、かつてCIAなどが他国で行ってきたような「見えない権力による操作」への根深い不信感が、今や自国のエスタブリッシュメントに向けられている現象と見ることができる。リベラル・デモクラシーの擁護者であるはずの米国が、自らの行いが原因で、その理念自体に疑いの目を向けられている現状は、まさに過去の行動の「しっぺ返し」と言えるだろう。
現代の世界、特に米国の影響を色濃く受ける日本や西ヨーロッパの人々も、同様の「終末観」にとらわれているかもしれない。ピュー・リサーチ・センターの調査によれば、米国では成人のおよそ4割が「人類は終末の時代に生きている」と信じている。特に福音派の多くは、この信念が強く、キリスト再臨を心待ちにする彼らがイスラエルを強く支持する姿勢は、その信仰が地政学的な問題にまで影響を与えていることを示している。https://www.pewresearch.org/short-reads/2022/12/08/about-four-in-ten-u-s-adults-believe-humanity-is-living-in-the-end-times/
一見、これまでの古代のデモクラシー批判や戦後の情報活動の議論と、現代の終末論的心理は繋がりがないように見えるかもしれない。しかし、リベラル・デモクラシーにおける社会心理や社会不安は密接に結びついている。
第二次世界大戦を経験した我々は、過去に生活苦や経済難から排外主義などを煽られ、ファッショを生み出した経験を持つ。ファシズムは、大衆の不満と不安を吸収し、明確な「敵」を提示し、感情的に扇動することで、個人の自由を奪い、国家を肥大化させていった。 この歴史は、民主主義がいかに容易に大衆操作によって変質し、その結果がどれほど悲劇的になりうるかを示す重要な教訓である。
私たちは、民主主義の脆さ、そしてリベラルの理想が時に傲慢さや矛盾をはらむことを知っている。知っていてなお、前向きに新しい世代へと夢を託していかねばならないのだろう。
なぜなら、人類はこれまでも、数々の困難な時代を乗り越えてきたからだ。古代の政体循環や、近代のファシズムの台頭、冷戦期の情報戦といった過去の経験は、私たちに民主主義が直面する試練の本質を教えてくれる。それは、生活苦や経済難から生じる不満が、社会構造や外部の敵ではなく、「内なる敵」へと転嫁され、徒党化することで、自身の体制を内側から破壊するという、デモクラシーの最も脆い側面である。
しかし、その脆さを知ることは、同時に「同じ目には遭わない」ための知恵となる。私たちは過去の過ちを繰り返し、民主主義の理想を失ってはならない。それは人類の英知であり、私たちに課せられた「壮大な実験」の継続と成功への責任である。
最高裁判事を退任するブライヤー判事が、アメリカを「自由とすべての人間は平等であるという命題に捧げられた国」であり、その理念が長く続くかどうかは「実験」であると述べ、その成否を若い世代に託した表明は、私たちに勇気を与えるものである。https://www.youtube.com/watch?v=Lv7WkW7z4hQ
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幼い頃だったら、例えば野球選手になりたければNPBなりMLBなりを遠慮なく望むものだと思う。
Youtuberだったらヒカキンみたいになんか楽しげな事を発信して大人気、的なポジションだったり。
でも多くの人間はそこそこの歳になってくるとあまりデカい夢を抱いたり、少なくとも口にするのを控えるようになる。
実際に挑戦してみて己の限界を感じる人もいるだろうけど、多分それよりもずっと多くの人は大して何かを試したわけでもなく、なんとな〜く受け売りの言葉や考えで世の中甘くない、的な態度を取るようになっていくんだと思う。それが「大人」であり「リアリスト」だと。
ただ丸っ切り諦めるのでもなく、夢を下方修正することはままあると思う。
夢も言っても具体的なものというより、まあなんか漠然とした妄想だったり、
スポーツ選手ならプロリーグでなく会社のチーム所属の選手だとか、Youtuberならニッチなジャンルを見つけて細々ととか、作家なら
そうやって釣り合いを取ろうとする。
ただ実際それでバランスを取ったことなるかと言ったら、別にそんな事はない気もする。
最近のポルノのトレンドには、貧弱なオタク君がヘコヘコ腰を振ってもまるで動じない女性がしかし屈強な男性に抱かれると凄い事になってしまう、的なアレがある。
やわらかマゾ需要もあるのだろうし、マチスモの裏返し(あるいはそのものかもしれない)としての卑屈さもあるのかもしれない。
ただこれについても「釣り合い」の取り方として近いものがある気がする。
もとより都合の良いフィクションと言えど、流石に女は突っ込まれさえすれば快楽に溺れるというのはあまりに都合が良すぎる気がして、せめて弱っちい男にはなびかないという所でバランスを取った気になりたいというアレが。
クソワロwwwwwwwwwwww
人間として終わりすぎだろwwwwwww
単に「僕の大好きな近親相姦ロリコンレイプ催眠エロ漫画が規制される前に頑張らなきゃ><;;」でこんなこと言ってるならキモすぎ
本当の本当に「人間は欲望に勝てないよ。だからアルコール依存症や薬物依存症の治療や集会があるんじゃないか?人の弱さを知ってる俺……マジリアリスト……(ニチャァ」してるならキモすぎて笑っちまうよ
いやまあ確かに薬物依存とかは薬の力によるものだからヤバイんだけどさ、それと性欲は同列じゃないっていうかさ、中学生のシコザルでもなきゃ99.9999%の人類はエロ漫画なんて無くなってもレイプなんてしないから。
つうか人間には妄想力って偉大な力があってえ、それをフル活用すれば別にオカズなんてなくてもいくらでもシコシコ出来るわけじゃん?
それをお前エロ漫画規制を回避するために「エロ漫画がなくなったら暴走した性欲が人をレイプに走らせるんだ!!!!」は意味不明でしょ。
つうかある程度性欲が強まればゴルゴ13の濡れ場でもシコれるだろ多分。
お前が言ってることは「サイゼリアが閉店したら飢えた貧困層が農林水産省を包囲するぞ!」と同じレベルね。
マ ジ 意 味 不 明
妄想力の使い方が間違ってます~~~~過剰な性欲を自己処理して一度冷静になるためにでも使ってから口を開いてくださ~~~~い
今までは、「推し」というものがよくわからなかった。なぜ皆、あれほど情熱やお金、時間を注ぎ込めるのか。それが不思議でならなかったのだ。自分は良くも悪もリアリストで、論理的に物事を捉えがちなため、感情に突き動かされてそういった行動に出ることが全く理解できなかった。
例えば、ドラゴンボールや名探偵コナンのような有名な作品は、もちろん自分も好きだ。語り出せばファミレスのドリンクバーで夜を明かせる自信もある。けれども、それはあくまで多くの作品やコンテンツの中で相対的に「これが一番好きかな」という程度の感情であり、「推し」という概念には程遠かった。グッズを買ったり、イベントやライブに足を運んだりすることは一切考えたこともなく、いわゆるオタクの会話にも、どこか馴染みきれない自分を感じることがあった。何事にも完全に熱中できず、まるで蚊帳の外から、自分の好きなコンテンツとそれを熱心に語る人々を眺めているかのように、どんなものに対しても一歩引いて俯瞰してしまっていたのだ。アニメコンテンツですらこの調子なのだから、アイドルといった存在には全く興味がなく、「本当に経済を回していてすごいな」と、どこか他人事のように思っていた。
そんな自分に変化が訪れたのは、5年ほど前のことだ。特に誰かを推し始めたわけでも、何かにハマったわけでもない。ただ暇つぶしにアニメを惰性で見ていたら、ふと「22/7計算中」という番組が目に留まった。どうやらアイドルを知ってもらうための深夜バラエティらしい。最初はそのまま寝ようかと思ったのだが、画面に映っていたのはモーションキャプチャーによるトゥーンレンダリングの3DCGキャラクターたち。まるでアニメのキャラクターがバラエティ番組を繰り広げているかのような光景に、思わずボーッと見入ってしまった。
個性的なメンバーが多く、番組自体も意外なほど面白かった。毎週アニメに続く時間帯、あるいはアニメの後の時間帯に放送されていたため、自然と目にする機会も増えていった。ただ、その時点ではやはり「バラエティ番組として面白い・楽しい」という気持ちが先行しており、アイドルとしての彼女たちに深い関心を抱くには至らなかった。グッズを買うこともなければ、曲を熱心に聴くこともない。そもそも演じているリアルなメンバーの顔と名前すら一致しない有様で、メンバーが卒業すると聞いても「まあ、アイドルならそういうこともあるだろう」程度の感想しか抱かなかった。(ファンの皆さん、本当に申し訳ない…)
大きな転機は、「後輩メンバー」の加入だったかもしれない。彼女たちが加わってからのシングル「曇り空の向こうは晴れている」を耳にしたとき、素直に「いい曲だな、好きだな」と感じた。新体制になってもバラエティの面白さは変わらず、この曲との出会いをきっかけに、実際のアイドルとしての活動にも少しずつ興味が湧き始めた。とはいえ、それは本当に「少し」で、例えば「昔はどんな曲を歌っていたのだろう」とYouTubeで過去の曲を聴き漁る程度。(ちなみに自分の好きな曲は、「シャンプーの匂いがした」と「曇り空の向こうは晴れている」です)メンバーの卒業に際しても、「4、5年見てきたけれど、あの面白い掛け合いがもう見られないのか、残念だな」と思うくらいで、心が大きく揺さぶられるようなことはなかった。しかし、無意識のうちに彼女たちに惹かれていたのだろう。いつの間にかSNSをフォローし、投稿を見かけるたびに何となく「いいね」を押すようになっていた。
そして今回、初期メンバーで、グループの「顔」とも言える存在のメンバーが卒業を発表した。その報に触れたとき、言葉では言い表せない複雑な感情に襲われた。特定の誰かが卒業するから、というよりも、今この瞬間、この状況が変わってしまうことが確定したという事実そのものに、まだ心が追いついていない。頭の中を駆け巡ったのは、
* 悲しい
* さみしい
*感謝を伝えたい
* これまでの軌跡を全て知りたい
* 後悔しないためにはどうすればいい?
* 他のメンバーも辞めてほしくない
…そんな思いだった。
これらの感情が一気に押し寄せ、混ざり合い、今更ながら、ようやく「推し」という概念を、自分自身の体験として理解できた気がする。
時間の流れや変化は誰にも止められない。だからこそ、その変化や現実をどう受け止めるかが大切だと、改めて気づかされた。「後でわかること」という曲の歌詞が、これほどまでに具体的に胸に突き刺さり、自分も感情を持つ一人の人間なのだと実感した。
どうやら自分は、純粋なプラスの感情だけで「推し」を理解するのは難しいタイプらしい。おそらくこれからも、このように心にぽっかりと穴が空いたような喪失感を覚えたときに、初めて「ああ、これが『推し』だったのか」と気づくのだろう。この感情の正体を最初から理解していれば、こんな風に長々と書き連ねることもなかったのかもしれない。しかし、この経験を通して非常に大切な学びを得た。これからは、しっかりと「推し」ていこうと思う。
オタワ条約脱退に絡んで、こんなことを言ってるリベラルと、それに星をつけてる(つまり同意してる)リベラルがいる。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4767262538145755489/comment/cinefuk
日本の海岸線に対人地雷を散布した場合、戦後数十年にわたって「子供が誤爆して死ぬ、手足を失う」という親の嘆きを無視できるのが「些事に惑わされず大局を俯瞰するリアリスト」なら、市民の敵と見做されるだろうね
どうも、軍事に疎いリベラルは、地雷という兵器を誤解してるようだ。
簡単に説明すると、地雷には2種類ある。「埋めた場所がわかってる地雷」と「埋めた場所がわからない地雷」である。
「埋めた場所がわかってる地雷」は、日本の視点で見るなら「自衛隊が埋めた地雷」である。自衛隊の兵器は厳しく管理されており、空薬莢がなくなるだけで大騒ぎである。地雷なんて、一部隊が勝手に持ち出すなんて不可能なので、埋めた場所はほぼ把握できる。
埋めた場所が分かってる地雷なんて、怖くもなんとも無い。撤去はするに出来るし、仮に少し時間がかかっても、周囲を立入禁止にしておけば良い。
「自衛隊が、どこに埋めたか、記録をなくしてるかもしれない」って意見もあるかもしれない。確かに、その可能性はある。ただ、武器弾薬の管理すら出来ないほど、自衛隊の指揮命令系統がズタズタになってるなら、もはや日本は滅亡に縁にあり、日本人全体に悲惨な運命が降り掛かってるはずである。子ども一人のことなんて、気にする必要なんて無いよ(より酷い言葉に言い換えると、気にする余裕なんて日本人から無くなってるよ)
より怖いのは、「埋めた場所がわからない地雷」である。東南アジアや中東で猛威を振るってるのが、これである。
本来、地雷なんて兵器は国軍が管理しているべきだが、これらの地域は武装勢力が跋扈しており、それらの勢力も地雷を保有している。こういった勢力がばらまいた地雷こそ、子どもの手足を奪ってるのである。
また、政府軍だってまともな兵器の管理ができていないと、例えば一部隊が勝手に武器庫から地雷を持ち出し、埋めた場所の記録もせずにバラ撒くとかやることもある。
これが怖いのであって、きちんと埋めた場所を管理された地雷は怖くもなんとも無い。マインスイーパーだって、地雷の場所が分かっているなら、アホでもクリアできる。
リベラルは「自衛隊が埋めた場所の記録をなくすくらい混乱した場合」などを想定して怖がるかもしれんが、前述通り、そのような状態になったら、地雷なんぞよりも、より直接的に敵軍の武器が、日本の一般市民を襲ってる状況なので、気にしてる余裕はなくなってるよ(自衛隊の地雷で手足を失う子どもがいたら「市民の敵」だけど、敵軍の兵器で挽き肉になる子どもがいても「敵軍は市民の敵ではない」というなら、まあリベラルの自由だけどね)。
それでも、確かに「埋めた場所がわからない」状況は発生する事もある。それは「自衛隊が混乱する」というよりも、「敵軍が日本に上陸し、地雷を埋めまくった場合」のほうが可能性は高い。
まさかリベラルは、他国に侵略してくる軍隊が、紳士的な軍隊だと思ってる? 当然だが、普通に地雷も使うし、何ならより直接的にレイプだろうと虐殺だろうとするだろうよ。
どういうときに使うかって? 奪った陣地を少数の兵士で守るために、地雷は最適な兵器である。ウクライナでも、ロシア軍は、奪ったウクライナ領土に地雷を埋めて、奪い返そうとしてくるウクライナ軍を撃退している。
奪った領土に地雷を埋めるなんてするはず無いって? いや、普通にするよ。敵軍から見たら、自分が埋めた地雷は当然「埋めた場所が分かってる地雷」なんだから、怖くもなんとも無い。不要になったら撤去できる。もし敗北して撤退するなら、自衛隊や日本人への嫌がらせに残しても良い。
まあ、つまり。オタワ条約を信奉しているリベラルたちは、地雷という兵器をなにか核兵器のように思ってるみたいだけど、地雷は「普通の兵器」なんだよ。埋めた場所さえ分かってるなら。
怖いのは、「埋めた場所がわからない状況」である。そして「埋めた場所がわからない状況」というのは、「自衛隊が埋めた地雷の場所がわからなくなる」よりも「上陸してきた敵軍が地雷をバラ撒く」方が、よっぽど可能性が高い。
少なくとも、地雷を使うのは、日本だけではなく「侵攻してくる敵」も使う兵器だってことくらいは、覚えておいたほうが良い。そのうえでオタワ条約に賛成ってのなら、それは自由だけどね。