
はてなキーワード:モラトリアムとは
京大時代、YY年前に2人の女性へポリアモリーを提案していたらどうなっていただろうか。ポリ。。。とは、週末に3人でデートしたり、学内で一緒にランチしたりする両手に花関係のこと。ランチならもちろんさしづめ学食だろう。一人は1つ下であまり美人ではない女性、もう一人は途中でサークルを辞めた2つ下の美女。不美人の彼女はすこしばかり自分に夢中で、美女の方も恋愛感情ではなかったが腕を組んでくる程度には受け入れてくれていた。二人は高校も大学も一緒の先輩後輩関係。サークル時代の自分は、彼女たちを含め五典の女性から好意を寄せられ、望めば2人で協力してデートやランチに付き合ってくれた気がする。当時は不美人からの好意を避けるしかないとわたくしも狭量だったが、サークルを辞めて大学院進学前後に「3人で定期的に食事しよう」ときっかけを作っていたらどうだっただろう?どうせ大学院生は恋愛の機会が少なく、結婚となるとさらに難しい。不美人は当時わたくしに少し夢中だったし、美女の連絡先も知っているから、多少わがままでも俺の希望とあれば呼び寄せてくれて、ポリアモリーもできた気がする。ただし誰かが社会に出た時点で、中道みたいに解散。2つ下だったから、わたくしが博士号取得のときにはD1で在籍していて、関係も続いていたかもしれない…ああ、なんということだ。そう考えると、ポリアモリーで承認欲求を満たし、飢餓感を避けられたかもしれず、提案していれば勝ち筋があったのではと思う。京都大時代のある日、荒れそうな飲み会の入り口で、戸惑い呆然と立ち尽くしていた美女がいた。僕を見つけるなり縋るように腕を組み、「代わりにお酒を飲んで」と頼んできた。騎士気取りで彼女を守り、代わりに杯を重ねたその夜、その姿を見て思いをさらに募らせた不美人な後輩がいた。やがて美女が辞めて去ったとき、その穴を埋めるように「私でもいいですか」と手を挙げたのは、その不美人だった。数ヶ月後、彼女からもらったプレゼントの重みを今でも覚えている。「一人の女性に絞るべきだ」という狭量さから、不美人の好意を避けることしかできなかったけれど、今思えばあの時、どちらかを切り捨てるのではなく、3人でテーブルを囲み、歪でも幸せな関係を築くポリアモリーもあったのかもしれない。サークル時代の自己肯定感から、大学院時代の孤独や飢餓感に急落したけれど、三角関係が救ってくれたかもしれないという「もしも」が夢に現れる。あの時、彼女に「これからも3人で会いたい」と言えていたら、モラトリアムはどう終わっていただろうか。
そりゃあ、今子供ができたら産んで育てられるけど、10代の頃にできても自分で育てられないでしょ?
まだまだ学ぶことも多いし、親としてもそういう勉強のために時間を使ってほしいと思っている。
20代での10代との価値観の変化は増田の器というかキャパの変化だよ。
20代でも学生のうちはセックスしてほしくないね。だって、勉学のためにとせっかく親が買い取った時間を捨てることになるからね。
自活できるようになり、自活できる人と付き合っているなら、あとは自由な気はする。
自分たちも周囲も覚悟してから物事を進められ、無駄なもめ事を避けられるので、結婚してからセックスの方がいいと思うけれど。
なんかヘンな映画!38点。
ワニとネズミとメスワニとイヌとメスイヌはいろいろあってなんか楽しく暮らしてたんだけどワニが急死。ワニの死後、それぞれが喪失感から疎遠になっていく中、クソウザいカエルがやってきて彼らをかき回していく。
みたいな話。
未だかつてないくらいあらすじが短いんだけど実際作品もスカスカなのでしょうがないね。恥ずかしながら社会現象になった原作を俺はガチのマジで未読なので100ワニに関しては今回が完全所見となる。ただ、どういう連載形式で何があったのかくらいは増田の民として把握はしている程度。
この映画、前半がワニが死ぬまでのたわいもなさすぎる日常パートが続いて中盤でワニが死んで、後半でその100日後に街にクソウザカエルがやってきてウザくなるって構成で、たぶん原作は前半だけで、後半は映画オリジナルなのかな。
とにかく前半がなんかこう、キツい。たわいもなさすぎる日常パートで軽薄な大学生ノリみたいなのを永久に見せられんだけど、俺は軽薄な大学生ノリがめっちゃ嫌いなのでこいつら嫌いやわ~ってずっとなってた。ただ俺はホイ卒なので軽薄な大学生ノリを味わったことないんだけど、あの異常な内輪感と自意識、虚無感は「大学」というモラトリアムな期間を結構リアルに切り取ってたような気もする。嫌いだけど。いや、そもそもこいつらが大学生かどうかも知らんけど。
もろちん、この虚無だけどただ続く平穏な日常の喪失と回復を今回の映画の主題にしようとしていること自体は理解できるんだけど、こんだけ虚無だとわりぃ、やっぱつれぇわ。あと、たぶん原作ではもっと細かく(100回分?)エピがあったんだと思うんだけど今回は3カ月を1月分ずつ見せられるから余計にスカスカに見えるし、ワニの死も引き立たない。
少なくとも前半部に関してはフォーマット自体をミスってると思う。
で、ワニが交通事故で死んでから100日後にクソウザいカエルが引っ越してきて、こいつがマジでKYであらゆる人間にフレンドリーにデリカシーにかけるウザ絡みしてはなんか適当にあしらわれる。一方で親友、恋人であるワニを失った面々はいまだにその隙間を埋められずにいる。
よく遊んでたゲームのコントローラーは埃を被っているし、よく行ってたラーメン屋の前を通るときに少し立ち止まるけど結局入れないし、ワニがバイトしてた喫茶店も外から様子は見にくるけど中には入れない、メスワニは街でネズミを見かけるけど躊躇はするけど声はかけられないし、一緒に見に行った映画の続編が来てもそれを見には行けない。
人生において大切な人を失うっていうのはその人が単にいなくなることじゃなくて、その人と結びつくいろんなものが喪われてしまうという描写として言葉少なく正しく映像化されていたと思う。少なくともこの辺は普通に褒められる部分だと思うんだけどな。
クソウザカエルもただKYのイカレポンチなのかって言うとそうでもなくて、途中で「俺ってなんか浮いてる感じですかね」みたいなことを背中で語って去っていくシーンがあって、でもまた次のシーンではまたウザ絡みしてくる。そして終盤でウザカエルも実は友人を亡くしてこの街に流れてきていたことがわかり、あの無駄なポジティブさも彼なりの人生を進める方法だったのかもしれないと語られはしないけど理解はできる。
そうしてウザカエルの喪失に触れたネズミはウザカエルを通じてワニの死を受け入れ、再びワニを失った面々が再び集まり、新しい人生の先を進もうとして終わる。という後半パートに関しては俺は割と好きだった。まぁ、尺の都合かしらんけど圧倒的な語り足らず感があって、なんか何もかもが急やな……前半の虚無パートもっと削って後半に分けてあげればよかったのにと思わんでもない。
ストーリー以外だとまずアニメーションはマジで雑。低クオリティ。こないだ見たサマーゴーストは人物はラフ調でう~んとなりながらも絵としていい部分もあったし美しい背景でエモーショナルを掻き立てることもあったけど、今作はそういうの全然ない。アニメを見てるワンダーがない。俺は無料で見たけどこれを定価で見せるのはない。アンパンマンですら映画版は作画も動画もめっちゃいいからね。
あと世界観がよくわからん。ワニとネズミは同じサイズ感なのにヒヨコは現実のヒヨコサイズ(手の平大)なのがよくわからんし、作中の映画でヘビ?が馬車に乗って疾走するシーンがあるんだけど、ワニもネズミもイヌもネコも二足歩行でバイクや車に乗る人間みたいな世界観で馬だけ運搬動物なのどういうこと?動物権団体が黙ってないよ。ってなったり。
前半でワニが口をがばっと縦に開けてそれを長針と短針に見立てて「6時!」ってやるネタがあるんだけど俺はこれをワニの身体性(口が縦に長い)を活かしたワニギャグだと思って見てたら、後半で今度はネズミが口をがばっと開けて「6時!」ってやってて、いや前半のフリを活かしてるのはわかるんだけどネズミが口開けても6時にはならねぇだろ!ってなった。
全然関係ないけど悲しみに暮れる表現としてよくある「雨の中を傘もささずにトボトボ歩いてびしょ濡れになる」ってシーンがウザカエルに用意されてるんだけど、それ見て「でもお前カエルだしなぁ」って思っちゃった。
タイトルが「100日後に死ぬワニ」だったのが「100日間生きたワニ」に変わったのはたぶん、原作が100日の連載直後に大炎上して死亡したことから「(Twitterで)100日間生きたワニ」というレクイエムだったのだろう、知らんけど。
あ、声優はよかった。虚無な作風にあった情緒を抑えた平坦な演技が皮肉とかじゃなくて普通によかったし、特にメスワニはめちゃくちゃナマ感あってハマってたし、ウザカエルもよくこんだけ軽薄でポジティブでKYな役演じられるなって感心した。
そんなこんなで決して面白いって映画じゃなかったけど、見てブチ切れるような要素も特になかった。まぁ、こんなもんじゃないのって感じだし、そもそも映画にすべきではないコンテンツを映画にするにあたってこういう形なら成立するだろうという工夫や熱意はアニメーション以外からは感じられた。
あまり普及してない言葉ですが「人としてギリギリ」というような
意味合いです。
ニュースに出てくる「限界集落」(≒存続が限界に来ている集落)
というような意味で使われる事が多いです。
dorawiiより
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twitter(X)ではSAPIXから私立中学校に入ってその後が云々みたいなツイートがよくバズっていますが、その際に言及されるのは御三家といった一流私立中学です。
しかし日能研偏差値30-40くらいの誰も名前も知らないような私立中学について触れられることはあまりありません。
ではそのような所に進学するメリットとデメリットは何でしょうか?実体験を元に書いていこうと思います。
・メリット
私立中学はほとんどが中高一貫であり、エスカレーター式で高校へ進学できます。要は高校受験に向けて必死に勉強する必要はなく、内申点についても考えなくていいわけですから、教員の顔色を伺いながら生活する必要もないわけです。
これは私のような目立たない無気力人間からしたら非常にありがたかったですし、もしも公立中学校に進んで高校受験をしていたらその時点でドロップアウトしていた可能性が非常に高いです。
2.施設が充実している
私立は偏差値に関わらず施設が充実しているところがほとんどです。公立にはないような充実した施設で伸び伸びした学校生活を送れます。
中高一貫校のカリキュラムといえば公立より早く進み、大学受験に有利になるように組まれていると皆さん思っているでしょう。しかし偏差値の低い中学はそもそも中学受験でやった勉強の基礎が身についていない前提で
授業をするので結局公立と同じペースで学習することになります。
2.生徒の質が低いので授業によっては荒れる。
偏差値の低い私立中に通う最大のデメリットはこれですね。公立より高い質の授業を受けるために高い学費を払うわけですが、残念ながら民度は学費ではなく偏差値で決まります。
自分の学校には授業中頻繁に立ち歩いたり、授業妨害レベルでずっと騒ぐ人がいました。しかもそういう人たちはいわゆる発達系の自分をコントロールするのが難しいタイプではなく、バリバリ運動部の人間で、舐めた態度をとっても大丈夫な教員を
選んで授業妨害をしているわけです。最近は底辺層の無気力化が起こっているようで、もしかしたらこのようなことは徐々になくなっていくかもしれません。
ただ誤解しないでほしいのは先生の質や授業そのものの質はそこまで悪くないです。しかし生徒の妨害によりその恩恵を受けられないことが多々発生します。
3.高校受験が無いため怠ける
中高一貫で高校受験がないので、部活や余暇活動に勢力を出し、そちらで結果を残せるのではと考える人もいるでしょう。しかし実際はスマホに明け暮れて怠ける人がほとんどです。
あと学業面であまり競争が発生しないせいか、親に買ってもらったものでマウントを取り合っている集団もいました。
また定期テストでは点数が取れるものの模試の結果は悲惨なもので、偏差値40台がボリュームゾーンでした。
4. 進学先はかなり格差がある。
大学受験を見据えて、中高一貫校に通わせたいと考える人は多いと思います。実際の進学の傾向は以下の通りです。
まず、難関大学に合格できるのは、学年でも上位5%前後に限られます。そもそも推薦入試を希望する生徒が多く、一般受験で挑むのは学年の半数程度というケースも珍しくありません。
「中高一貫校に行ったのだから、最低でもMARCH」という期待を抱く人もいるかもしれませんが、現実には、一般受験では日東駒専レベルでも合否が不安定な生徒が少なからず存在します。
一方で、中堅大学の指定校推薦枠は比較的多く用意されています。そのため、指定校の中から無難な進学先を選ぶ生徒が多いのも事実です。具体的には、和光大学や玉川大学といった、学費がやや高めの中堅大学へ進学するケースが目立ちました。
さらに下位層になると、専門学校へ進学する生徒もいます。彼らを見ていると、極端に成績が悪かったわけではなく、入学当初からなんとなく6年間を過ごし、高校3年生になって「とりあえず行けるところ」を選んだ結果、そうした進路に落ち着いたという印象です。
要するに、中学受験と同じ轍を踏んでしまっている人が多いとも言えます。中学受験では努力したものの調子が振るわず不本意な入学となった人を除き、日常的に勉強する習慣が身についていない生徒が多く、
上位大学を目指すにはどこかの段階で本人が意識を大きく変える必要があります。しかし、その意識改革を実際に成し遂げられる人は少数です。
その他、学校の評判に関しては意外と保護者からはいい傾向にあります。それは保護者自身が実際通ったわけではないのと、仮に子どもが学校生活に対して不満を抱いていたとしても、それをそのまま認めてしまうと、これまで支払ってきた学費が「無駄だった」と認めることにもなりかねません。
そのため、無意識のうちに学校を肯定的に評価せざるを得ないのではないか、個人的には考えてます。
ざっとこんな感じですが、言いたいことを短くまとめると
モラトリアムとして、または高校受験をしたら間違いなくドロップアウトする人のセーフティネットとして、なら行く価値はあるでしょう。しかし生徒の質や進学先には期待できない。といった感じです。
https://anond.hatelabo.jp/20251221114355
話題になっていた「フリマアプリの会社で働いていた」という退職エントリーを読んだ。世間では「心が洗われた」「よく言った!」などと絶賛の嵐だ。
まず最初に断っておきたい。
件の会社とは一切関係がないし、正直あの会社がどうなろうと知ったことではない。
だが、あのエントリが「美談」として消費されている現状には、実務家として看過できない猛烈な違和感がある。
おそらく、組織の利益や存続を左右する重い舵取りを任された経験がある人間ならば、あの文章を読んで抱く感想は「感動」などではないはずだ。
「ああ、ビジネスパーソンとして必要なOSが、根本からインストールされていないな」
致命的に何かが欠落している人間が、それを「正義」だと信じ込んで語っている姿に対する、埋めようのない断絶と脱力感。PLの重みを知る人間なら、誰しもがこの「やるせなさ」を感じたのではないか。
もちろん、これがバズった背景は理解できる。あれは彼への純粋な称賛というより、例の企業に対する「積年のヘイト」が噴出した結果だ。彼を「巨悪を刺した勇者」に仕立て上げれば、みんな気持ちよく会社を叩けるからだ。
だが、だとしてもだ。
彼がやったことは、冷静に見れば明白な「背信行為」であり、ビジネスパーソンとして「ありえない」振る舞いの連続だ。
それなのに、「美談」というオブラートに包まれて、組織人としての背信行為が正当化されてしまっている現状には、多くの実務家が口には出さずともモヤモヤしているはずだ。
誰も斬り込まないなら、私が沈黙している彼らの代弁者として、その「美談」の裏側を解剖しておきたい。
まず前提として、度を超えた転売行為や偽ブランド品の流通が「社会悪」であるという点については、私も彼と認識を共にしている。おそらく、批判されている経営陣とて同じだろう。誰だって犯罪や迷惑行為を放置したいわけがない。 だが、ここからが決定的に違う。「それが社会悪である」ということと、「企業としてリソースを投下して今すぐ撲滅すべき最優先課題であるか」ということは、全く別のレイヤーの話だ。
その前提のもと、増田の思考は、驚くほど「単変数」的だ。その思考の単純さが、最も端的に露呈しているのがこの一節だ。
あの当時の自分は、CS部門の現場の人間としてマスク転売に反対していました。理由は述べるまでもなく、「困っている人がいるのに転売はおかしい!」というものです。
この一文を読んだ瞬間、私は頭を抱えたくなった。 ここには「自分の主観的な感情=世界の絶対的な正義」という、極めて独善的な前提しかない。自分が見ている景色、自分が感じている感情。それだけが唯一の判断軸であり、それ以外の視点が存在する可能性を1ミリも想像できていない。
もし私が彼の上司で、部下からこんなことを言われたら、その瞬間に絶望する自信がある。「ああ、この人をマネジメントするのは無理だ」とサジを投げるだろう。 なぜなら、彼は「対話」ができないからだ。自分の感情が「述べるまでもない正義」である以上、それに異を唱える経営判断はすべて「悪」になる。 こんなマネジメントコストの高い人材を抱え込むなんて、考えただけで胃が痛くなる。
彼が単変数の問題を声高に叫ぶ傍らで、経営陣やマネジメント層は、無数の変数が複雑に絡み合う高次の方程式を解いている。そこには「倫理」という変数以外にも、法的リスク、数千万人のユーザーの自由、監視コスト、株主への責任、従業員の給与原資、将来への投資、そして競合とのパワーバランスといった、相反する要素がひしめき合っている。転売問題などのレピュテーションリスクについても、経営陣が気づいていないわけがない。リスクが看過できないレベルに達したその瞬間に、リソースを一気に投下すればいいと計算し、あえて今は「静観」というカードを切っているに過ぎないと私は想像する。
その舵取りへの想像力を働かせることもなく、彼は「倫理観がない」と切り捨てた。30代のいい大人が書いたとは信じがたいほど拙い文章であり、知的な怠慢だ。
そして、私が最も問題視しているのは、彼が平然とやってのけた「背信行為」の暴力性だ。
彼は退職後、組織の内情を、誰が見てもその会社だとわかる形で暴露した(わざとかどうかはわからないが、社名まで公開していた)。さらに恐ろしいのは、彼がこの行為を「正義」だと信じていそうな点だ。自分の放った言葉が、かつての同僚や株主、ステークホルダーにどのような損害を与えるかという「結果への想像力」が、彼には絶望的に欠けている。
さらに致命的なのは、その破壊的な衝動がどこから湧いてきているのかを俯瞰する「メタ認知能力」の欠如だ。
私の見立てでは、彼の動機は心理学でいう「認知的不協和の解消」に過ぎない。
構造はこうだ。
「正直、給料は軽く百万以上は下がりました」
つまり、彼はあの会社に「経歴の箔付け」をしてもらっただけでなく、自身の本来の市場価値よりも100万円以上も高い値付けで雇ってもらっていたことになる。
それこそが、彼が軽蔑する経営陣が、綺麗事だけでは済まない資本主義の荒波を冷徹に舵取りし、会社という箱を必死に守り抜いてきた結果得られた「果実」だ。
彼はその果実を長年貪り食ってきた。会社という防波堤の中で守られながら。
しかし一方で、彼は「自分は清廉潔白で、人のために尽くす善人だ」という自己認識を捨てきれない。「汚い会社で身の丈以上の利益を享受している自分」と「正義の味方である自分」。この矛盾する二つの事実は、強烈な不快感を生む。
この不協和を解消するために、彼にはどうしても「物語」が必要だったのだろう。
「自分は金のためにそこにいたのではない。極悪非道な組織に囚われていただけで、心までは売っていなかった被害者なのだ」という物語が。
会社を「絶対悪」として断罪すればするほど、そこで恩恵を受け続けていた自分の過去を正当化できる。彼のエントリーに見られる攻撃性は、高尚な倫理観から来るものではない。自分の中にある不快感を解消したいという、独善的な防衛本能に抗えなかっただけだ。
自分の受け取っていた対価が誰の泥臭い努力の上に成り立っていたのか。その想像力すらなく、去り際に後ろ足で泥をかける。
そして、私はこの退職エントリを読んで、経営陣の「強烈な意志」を感じ取った。それは、「黎明期から居座る、今のフェーズに合わなくなった人材を市場に放出したい」という意図だ。
想像するに、例の会社にはまだ、彼のような人材が大量に残っているのではないか。創業期や拡大期に入社し、運良くストックオプションや高待遇を得たものの、能力が会社の成長スピードに追いつかなくなった「古参の既得権益層」だ。
某企業は、待遇が良いことで有名だ。外に出れば年収が下がることがわかっているから、彼らは会社にしがみつく。組織に寄生し、甘い汁を吸いながら、口だけは「昔はよかった」「倫理観が」と文句を垂れ流す。経営陣にとって、こうした「寄生する古参」の満足度を上げることは、組織を緩やかな死に向かわせる自殺行為に等しい。
だからこそ、経営陣は今、あえて彼らが居心地の悪くなるような施策を打っているのではないだろうか。 それは短期的には従業員満足度を下げるだろう。だが、それは「代謝」のために必要な痛みだ。
不満を抱き、文句を言うだけの存在に「自分から出て行ってもらう」ための、組織マネジメントの一環。そう考えると、この退職エントリは、経営陣の描いたシナリオ通りにことが進んでいることの証左に見えてくる。一時的な痛みに耐えてでも、組織を次のステージへ強引に引き上げようとするその胆力には、同情を超えて敬礼したい気持ちにすらなった。
この退職エントリーを読んで、私がもう一つ強く感じたのは、例の組織における「翻訳機能の欠落」だ。
先ほど述べたように、経営者が解いているのは、無数の変数が絡み合う「多変数関数」だ。
株主利益、法的リスク、競合優位性、キャッシュフロー、そして従業員の士気。これら全てのバランスを取りながら、組織全体として最もパフォーマンスが出るポイント(全体最適)を探し続けている。
一方で、現場が見ているのは「目の前の業務」という極めて限定された変数だ。増田のようなCSであれば、「ユーザーの感情」や「倫理的な正しさ」が変数のほぼ全てを占める。彼らが解いているのは、部分最適の関数だ。
ここで不幸なすれ違いが起きる。
「全体最適」のために導き出された解は、「部分最適」の視点から見ると、往々にして「意味不明な愚策」や「冷酷な切り捨て」に見えるからだ。
例えば、「将来の法的リスクを回避し、サービス全体を存続させる(全体最適)」ために、「今の不正ユーザーの一部を泳がせて証拠を固める(部分的には悪)」という判断を下すとする。
だが、その意図を知らない現場からすれば、それは単なる「悪の放置」にしか映らない。
経営層が弾き出した「冷徹で論理的な解」を、そのまま現場に流せばショートするのは当たり前だ。だからマネージャーは、その決定背景にある「なぜ」を噛み砕き、時には現場の不満をガス抜きし、彼らが納得できる「物語」に変換して伝える。
この「説明コスト」と「感情のケア」こそが、組織を繋ぎ止める接着剤なのだ。
しかし、増田のエントリーからは、その形跡が一切感じられない。
そこにあるのは、経営層のドライな意思決定が、なんの緩衝材もなく、剥き出しの高圧電流のまま現場に直撃している光景だ。
「翻訳」不在のまま、資本の論理を叩きつけられれば、純粋な現場社員が「この会社は人の心がない」と錯乱するのも無理はない。
彼が怪物に見えた「経営者」は、実はただ淡々と全体最適の計算をしていただけかもしれない。
だが、その計算式を翻訳し、現場の言語で語れる人間が組織から消え失せていた(あるいは機能していなかった)。
この「中間レイヤーの空洞化」こそが、彼を孤独な義憤へと駆り立て、最終的に「背信行為」という暴発を引き起こした構造的な真因ではないだろうかと私は想像する。
(もしくは、説明しても話が通じないので出て行ってもらうためにあえて放置してる可能性もある。)
一応、彼へのフォローもしておく。もちろん、彼個人を全否定するつもりはない。CSという職種の性質上、高い「共感性」は必須スキルだ。目の前の顧客の痛みに寄り添えなければ、CSとしての機能は果たせない。 だから、彼らが解く方程式において「ユーザーの痛み」という変数の重み付けが、他の変数よりも極端に大きくなってしまうのは、避けられないことでもある。それが彼らの「才能」だからだ。その「痛みへの感度」があるからこそ、救われたユーザーもいただろうし、彼は優秀な現場担当者だったのかもしれない。それは想像に難くない。
だが、経営判断が自身の感情を逆撫でするものだからといって、会社という公器を危険に晒す行為は、経営を預かる身として到底容認できない。それとこれとは全く話が別だ。
最後に、私自身の「メタ認知」も記して、この乱文を締めくくりたい。
ここまで増田をこき下ろしてきたが、彼が持っている「純粋な気持ち」そのものを否定するつもりはない。顧客のために涙を流せる感受性は、人間として美しいものだ。それは認める。
ただ、正直に告白しよう。私がなぜここまで感情的になり、彼を断罪するような文章を書いたのか。 それはきっと、私自身が経営に携わり、会社という「器」を守るために、その「純粋さ」を犠牲にし、切り捨ててきたからだ。 彼の持つ、曇りのない眼差し。顧客と泣き合えるほどの無垢な心。それに対する、ある種の「嫉妬」が私の中にあることは否定できない。
だが、これだけは理解してほしい。 彼がその純粋さを保っていられるのは、誰かが——経営者たちが——資本主義という冷酷な市場の中で、泥水をすすりながら適切な舵取りを行っているからだ。 彼らが「汚れ役」を引き受け、複雑な変数を処理し、防波堤になっているからこそ、彼は「善人」でいられる権利を享受できている。
その構造に対する想像力もなく、たった一つの変数しか見えていない視野狭窄な状態で、「あなたは非人間的だ」と安全圏から石を投げられること。これにはどうしても辟易してしまうし、傷つきもする。 だからつい、こうやって匿名のダイアリーで感情的になってしまったわけだ。
純粋でいられることへの嫉妬については、謝ろう。申し訳ない。ただ、その「純粋さを保つ権利」が誰の犠牲の上に成り立っているのか。その構造に気づかない限り、彼は次の「温かい職場」でも必ず同じ過ちを犯すだろう。
彼は現在、「現場の裁量で社内調整し、規約を超えて一人のユーザーを救える」ような企業に転職し、水を得た魚のように働いているらしい。
結構なことだ。だが、経営の視点からあえて冷や水を浴びせるなら、それは組織が未熟だから許されているだけの「期間限定のモラトリアム」に過ぎない。
「規約を超えた個別対応」などというものは、オペレーションとして見れば再現性のない欠陥品だ。
ユーザー数が10倍、100倍になった時、その「温かい属人対応」は間違いなく破綻する。公平性を担保できなくなり、現場はパンクし、結局は彼が憎んだ「冷徹なマニュアル対応」を導入せざるを得なくなる。
彼が今、幸せを感じているのは、その新しい会社がまだ「経営の多変数関数」を解かずに済む、牧歌的なアーリーフェーズにいるからに過ぎない。
いずれその会社が成長した時、彼はまた同じ壁にぶち当たるはずだ。その時、彼はまた「会社が冷たくなった」と絶望し、同じように砂をかけて去っていくことが想像に容易い。そうならないことを、切に願っている。
最近転職について発信する人を見ていて思うのは、「第二新卒」から「中堅転職」にトレンドが変わってきたな、ということ。
一昔前なら転職しづらかった30前後の中堅の未経験転職にスポットが当たる印象が強い。
こんなトレンドは私向けにカスタマイズされたものだろうから、見る人によって全く違うものかもしれない。
中堅は本当に転職を考えやすい時期だ。社会人としての基礎も身につき、会社のことも、業務のことも、自分の限界も分かってくる。
学生時代の友人や社外の知り合いも、段々と「キャリア」と呼べる何かを形成し始め、年収では下手をすると倍近くの差が開いたりする。
そろそろ部下を持つ時期だけど、先輩を見ても上司を見ても楽しそうじゃない。このままここにいていいのか、自分は市場で評価される人間なんだろうか。
要因が絡み合って転職サイトにも辿り着くだろう。
そして背中を押す要素がもう少しでもあれば転職していくだろう。
でも忘れていないだろうか。
部下を持つ時期が遅れることを。
次に部下を持つ時には、転職しなかった場合と比べて圧倒的に業務知識に欠けた状態で望まなくてはいけないことを。
業務が面白くない、新しい経験をしてみたい、ここが自分の限界じゃない。
これらは本来、マネジメントのステージが変われば達成されるはずの欲求だ。
そして、中堅で受け入れた転職先の企業も、5年10年と一兵卒としてだけ働かせてくれるわけではない。
体感としてはむしろ早い時期に部下を持ち、マネジメントとは何ぞやという悩みと向き合っていくことになる。
ただ、中堅にもなって未経験転職をしてしまう緩いキャリア感の人間にその覚悟はあるのか?
40歳になった時、自分はどの立ち位置にいて、どう仕事と向き合っているのか、本気で考えた上でその決断をしているのか?
部下を持つ未来が迫ってきた時に転職をすれば、業務にだけ向き合う、担当レベルでいる時間を長くすることができる。
もっと言えば、3年後に再度転職してしまえばもっと長くすることができる。
それでいいのか?
年収が転職する度に上がっていても、退職金は失っているし、役職から逃げている限り、生涯年収では下手すると転職しなかった場合の方が多いかもしれない。
私は転職する勇気なんぞより、「転職しない勇気」をおすすめしたい。5年8年と続けてきた蓄積は並大抵のものではないんですよ。
ぜひそのまま部下を持つところまでやって、自分の限界に挑戦し続けてほしい。
業務的な面白さと向き合うだけで許されるのはせいぜい5年であって、プレイングマネージャーとして胃を痛めながら働く姿こそサラリーマンの本懐だと思う。
中堅での逃げの転職、本当に逃げて自分のためになるのか、攻めだと思い込んでいたら実は逃げていないのか、今一度振り返っていただきたい。
ちなみに私は、就活に失敗して「少数精鋭」の「若手でも活躍できる」職場に飛び込んで2年で係長級になり、部下を30人抱えて戦って、3年で大手に転職しているので本稿とは一ミリも関係がない。
例えば、長年知的障害や発達障害の当事者を診療し、成人後の経過も見てきた平岩幹男先生は、『知的障害を抱えた子どもたち 理解・支援・将来 』で以下のように述べている。長くなるが印象的なので引用する。
モラトリアム
たとえば10歳から特別支援学校高等部を卒業するまでは8年間ですが、知的障害を抱えた子どもたちは、そこで社会に出されてしまうこともあります。一方で障害を抱えていない子どもたちは専門学校や大学などを含めて社会に出るまでに10年以上の期間がある場合も少なくありません。
発達を含めて社会生活上の困難を抱えて、いわばそれまでは「ゆっくり」と言われてきた子どもたちがなぜ「困難」を抱えていない子どもよりも早く社会に出ざるを得ないのか。
もっとゆっくり趣味を見つけて磨いたり、いろいろな場所や人に触れ合うことで経験を増やしたりするモラトリアム(猶予期間)をもつことがなぜできないのか、長い間の疑問でした。モラトリアムをもつことにより、ひたすら就労を目指す場合よりも趣味や余暇活動につながるものを見つけたり、身につけられたりする可能性もあります。
著者は障害を抱えた子どもたちへ対応する生活を45年あまりしていますが、40年前には障害者就労や就労支援(移行支援も継続支援も)もありませんでした。ごく一部の企業が就労を受け入れていましたが、精神薄弱と呼ばれて社会から疎外される状況でした。
その後、児童福祉湖をはじめとする法令改正などもあり、生活介護などの整備がなされるようになってきましたが、そこではとにかく「就労できれば」「お金が稼げれば」いいという意識がとても強かったように感じています。
これまで知的障害を抱えている方々のサポートもしてきましたし、実際に生活介護を行っている作業所を訪問したり、お手伝いしたりしたこともあります。そこで出会った方は、40歳を過ぎても単純作業の毎日で、会話も2語文程度なのですが、ノートには出かけたときの道順などが車の中からの景色とともに書かれていたり、路線図の駅名がすべて漢字で書かれていたりしました。もし子ども時代に適切な教育を受けることができたら、現在の居場所はここではなかったのではないか、重度の知的障害と診断されることもなかったのではないかと感じたこともあります。
知的障害を抱えた方の就労がままならなかった時代も知っていますが、最近の20年間、特に10年間は、就労については十分とはいえないもののかなり展望が開けてきました。一度の就労で人生が決まるわけでもありませんし、障害を抱えている場合、初任給の額がそのあとも続く場合もあります。
著者は可能であればモラトリアムを使って世の中には楽しいこともいろいろあることを知り、趣味をもつことによってその後の生活を安定させてほしいと思います。そして、最終的には初任給ではなく、生涯賃金(所得)が多くなることを願っています。
(平岩幹男『知的障害を抱えた子どもたち 理解・支援・将来』図書文化. p.84-85)
本書でも述べているが、こうした問題意識から最近は「福祉型カレッジ」という自律支援と就労移行支援を組み合わせた大学のような事業所というのがあるらしい。
「福祉型カレッジ」とは、「自立訓練+就労移行支援」「自立訓練+就労継続支援B型」といった形態をとる多機能型事業所のことで、障害のある若者が社会で活躍するための力をつけるために、最長4年間学ぶことができます。
カリキュラムは、「日常生活を営むための基礎作り」(自立訓練)が2年間、「働くための訓練」(就労移行支援・就労継続支援B型)が2年間の計4年間という形が多く取られることが多く、青春を謳歌しながら、社会に出るための力をじっくりとつけていきます。
当事者の親はこうした性急な就労だけではない選択肢も視野に入れながら、子どもがより安定してひらけた生活を将来送れるように考えていく必要があるだろう。
(後で書き足すかもしれない)
知的障害や発達障害は、幼児期は「能力の優劣」ではなく、「発達の遅れ」として現れます。
あるスキルでは年齢相応、別のスキルでは数年遅れ、といったように、発達のバラつきが大きいのが特徴です。
専門家でさえ、その子が最終的にどのレベルに到達するかを確定的に判断することは困難です。
この不確実性があるにもかかわらず、知的障害児や発達障害児の将来は、健常児よりも早く決断を迫られます。
多くの場合、中学卒業後や高校卒業後すぐに社会に出ることを想定し、それに向けた進路選択を早期に行う必要があります。
健常者が20歳前後まで社会に出る準備期間を持つのに対し、彼らはわずか15歳や18歳で「清掃か、バックヤードか、工場か」といった職業選択を迫られるのです。
この現状に対して、知的障害者や発達障害者こそ、社会に出るタイミングを遅らせるべきではないか、という疑問が浮かびます。
彼らが従事する仕事の中には、社会貢献よりも「仕事を与えるための仕事」という側面があるのも事実です。
成長が遅れているにもかかわらず、健常者よりも早く社会に出ることを強いられる現状は、果たして社会にとって最善なのでしょうか。
健常者たちが、高校大学でのモラトリアムを謳歌するするのに、早く社会に放り出されるというのは、すこしオカシイのではないかと思いいます。
Permalink |記事への反応(19) | 11:52
コロナの在宅勤務を契機にここ数年鬱っぽく、鬱を自覚した当初に自分のテンションを上げる目的で、休みの明るいうちから一人酒を飲んでみる。
そのうち、休みは暇という虚無をスキップするための飲酒、が常態化する。
折しも現職でのうだつの上がらなさや、家族からだんだん舐められてる、下に見られているというミドルエイジクライシスも相まってどんどん自我を喪失し始める。
そして現職内でいくつか不満がたまる中で管理職と折り合いが悪くなり、
「おーほんなら辞めたらぁ(でもあたしみたいなオジサン慾しい人なんて…)」と軽い気持ちで転職サイトをちょちょっといじってみたところ、数件面接まで進んだ後内定までいただく。
んで↑の台詞をリアルで管理職に言って9月から有休消化、ってワケ。
微量ながらも金も暇もあるボーナスタイムなのに、家族や周囲の目を気にして、それよりなにより自分が何をしたいのかがわからなくて茫洋とする老人モラトリアム。
人生2度目のモラトリアム、2度目の青春(回春)に、なにか良きアドバイスを。
反応本当にありがとう。嬉しいもんだね。
厳しいコメを言ってくれる人も、「厳しいコメ多い」って言ってくれる人も、両方大切に思う。
厳しいことを言ってくれる人ってどんどんいなくなるのよ。友達減っていったり、家族仲あんまよくなかったりしてると。
Permalink |記事への反応(34) | 17:21
全く、一切、欠片も共感できない
私もXフォロワー数千人程度のいわゆる絵師(自分で言うのはなんか違う気もする)だけどXの反AIの主張を見るたびにマジで疑問しか湧かない
「いや、別にAIがあろうがなかろうが描く楽しみって変わらなくね?????」
例えばAIによって手描きで絵を描くことが法的に禁止されました!とかなら話はわかる
単に私より上手い絵を投稿できる人が数億人増えたってだけの話
そもそも絵を描く行為が好きだから絵師として活動するんだよね?
稼げなくなるとかイラストレーターになりたいとかそんなの二の次三の次の問題じゃない?
私だってそう
結構名前が知られている人だって「いつ食いっぱぐれるかわからないから」って理由で昼間は正社員として働いている
そもそもそういう人が大半な業界において「専業イラストレーターの夢の道が絶たれる〜」なんて泣き事言ってる意味がわからん
いや、描けよ
それだけで食えるかどうかとか関係なくない?
大抵のイラストレーターはそうやってるよ
お小遣いがもらえらたらラッキー☆ってだけの話で、金の有無で絵を描く楽しさは増減したりしないだろ
現実的な視点で昼間働きながらイラストレーターやってる私みたいな人間からすると反AI絵師ってモラトリアムを拗らせているだけのように思える
ちやほやされるために絵を描くんじゃないでしょ?
金を稼ぐために絵を描くんじゃないでしょ?
絵を描きたいから絵を描くんでしょ?
ぶっちゃけAIの台頭ごときで筆を折る人ってそんなに絵を描くのが好きじゃないんじゃないの?
AIに負けるってなに
金を稼ぎたいなら資格の勉強したほうが手っ取り早いし、周りからちやほやされたいならボランティア行ったほうが早い
承認欲求にしろ金にしろそれを満たす効率的な手段は山ほどあるのになんで大して好きでもない「絵を描く」って行為に固執するの?
意地悪だけど言い当ててあげる
夢を追っているポーズさえ取れればニートって言われずに済むもんね
イラストレーターになりたいとかAIがどうこうとか言う前にまず現実的に社会に出てどんな仕事をしたいのかって方面のことを真剣に考えたほうがいいんじゃない?
いずれにせよ、絵に対してAIが台頭したくらいでウジウジ言うような熱量しかないなら専業イラストレーターになってもすぐ筆を折っていたと思うよ
若いうちならリカバリーも効くからバカみたいなこと言ってないで仕事を探せ
今は人手不足なんだからフォトショなりイラレなりの使用経験が数年あればそこそこホワイトの職場にデザイナー職として就職できるよ
『「大学の学者より、ビジネスマンのほうがよほど哲学的」東浩紀、知とビジネスを語る(ゲンロン/シラス/経営/現代思想/SNS)』
全文載せると長いので最初だけ抜き出しておく。
間違っちゃいけないのは医学とか工業系とかは初めからそれで仕事をするつもりで勉強してるんだよね。だから食えるんだよ。興味の向くまま、趣味で勉強したら食えないのは当たり前。知的探求心なんてのは、仕事しながらライフワークとして死ぬまでやればいいだけの話で、仕事と結びつけないならモラトリアム暇つぶしにやったって、リタイア後の楽しみでやっても違いなんてない。ブルーカラーを馬鹿にして、大卒のホワイトカラーとして、人を動かし、上澄みで暮らしたいとか思うから、おかしなことになる。エッセンシャルワーカとして、現場で汗して、家に帰ったら文学や哲学にふける。それだって立派な学者じゃないか。でも、それじゃ承認欲求が満たされないんでしょ。おかしな労働観と他人の目を気にするレベルの貧弱な知的好奇心を何とかしない限り、何かを生み出せるようにはならないんじゃないのかな。
自分は色々あって高校を中退して、働きながら放送大学を卒業した。
それでも他人から見てわかりやすく人生が変わったわけではない。
今でもブルーカラーの仕事で、学んだことが仕事に活かせたことはたぶん無い。
この間、婚姻届を役所に提出したのだが、今の若者目線で言ってこの婚姻とかいう制度キモすぎないか?と思ったので書き残しておこうと思う。アラサー男性はまだギリギリ若者を名乗って良いはずである。
ひとりで目指せや床のシミだった私の人生に、共に歩んでいくパートナーができたのだ。人生を預け合える人ができたのである。その責任は重いが、こんなに嬉しいことはない。
で、じゃあ何がそんなにキモかったのかというと、社会制度が期待する婚姻像と、実際の当事者が持つ考えに乖離がありすぎるんじゃないの、ということである。なお、若者というデカい主語を最初に使っておきながら、その実は個人的経験に基づくただの愚痴であることを先にお断りしておく。
では、もう少し詳しく話させてほしい。
私達夫婦が結婚の話を進めるにあたって、一番苦労したトピックは姓の選択だった。早い話が、どっちも苗字を変えたくなかったのである。
双方理由を挙げればきりがない。長年名乗ってきた名前の一部で愛着がある、現状の通称利用ではカバーされない範囲がある、嫁ぐ/婿入りするようで嫌である(この点は実質としてはそのように扱わないことをお互い確認していたが)、などなど。
こうなってしまえばもう感情同士の争いである。どちらかが諦め、どちらかは相手に姓を変えさせた罪悪感を背負い続けることでしか整理がつかない。
さらに、姓の話ということで親の干渉があった。特に夫側、つまり私の方である。長男は姓を変えるものではないとか、日本人は代々そうしてきたのだとか、当人が頭を悩ませているのとは全く違う方向から矢を飛ばしてくる。話の性質もセンシティブなものだからか、当たりも強めで感情的であった。自分の人生は自分が責任を持って道を決めていくもので、最後は当人が決めるものと理解しているが、親が何を言っているのかはわかるだけに、内心とてもつらいものがあった。妻にはこのことで多大な心労をかけてしまい、今も申し訳ない気持ちで一杯である。
私が変えるの妻が変えるのと話は行ったり来たりを繰り返し、結局妻が姓を変えることとなった。同時に私は妻が叶えられなかった思いを背負って生きていく覚悟を決めることとなる。
私と妻の考えの根底にはお互いが平等であるという意識があった。それだけに、自らの思いを主張をしたい、一方で相手の思いを汲み取りたいという相対する心情を抱え、悲しい言葉の殴り合いを重ねた。
そこに外から飛んでくる日本の家意識に則ったお気持ち表明は、無碍にできないとは思いつつも、ひたすらに心身を疲弊させるばかりであったというのが正直なところだ。
私が感じたキモさというのはまさにここなのだと思う。少し話が飛ぶが、幼い頃から男女は平等、共同参画と教え込まれ、人は男女関係なく活躍することができる、と価値観のアップデートを促されてきた。友人にしても恋人にしても、女子供はすっこんでろなどと言うことは当然なく、性別に関係なく親しい中に平等というか相手をリスペクトする意識を当然に持ち、その人らしさを持って生きることの価値を強く感じてきた。妻に対して抱いていた尊重の気持ちと自らの気持ちの二律背反と衝突は、ここに端を発するように思う。
ところがいざ婚姻となったところで、今の社会システムはさも当然のように旧態依然としたイエ制度の仕組みに取り込まれることを要請してくる。周囲からもその価値観に基づいた意見が飛び込み、両者のアイデンティティの尊重など二の次、旧来的な家督制度と嫁入りを基本とする価値観に従わない者は異物扱いされ、誹りを受ける。これは何なのだ。
お勉強ができて言うことをよく聞くいい子ちゃんが評価されるモラトリアム期から、自発的に考えて行動する人間が評価される社会人になったとき、一部の人達が覚えるという価値観のギャップに近いものがあると思う。今までの人生で是とされていた規範と、その先の人生で是とされる規範が違うのである。これは何なのだ。
我々は誤った教育を受けてきたのか。我々は日本人として失敗作なのか。そうではない、と言わなければならない。ジェンダーと婚姻に関する今の社会構造は、教育と制度の間に重大な価値観のねじれが生じているんじゃないか。
急速な価値観の変化に社会制度の整備が追いついていないのか、単なる世代間のギャップなのか、はたまた私達がマイノリティなだけなのか。
さらに話が飛躍するようだが、昨今なんだか話題になっているようななっていないような不思議な立ち位置にある選択的夫婦別姓というのは、このキモさを解決するガス抜きとして非常に有用なツールなのではないか、と思う。
いろいろな社会課題には明るくないため細かい言及は控えるが、この先男女の平等感が先細りする方向に動くことはないだろう。人口が減っているのに男女平等に先細りが生じれば国の勢いも先細りするのは流石にわかる。男女平等だなんだと言うのなら、その過程で強固なアイデンティティを持って育成される私たちの次の世代の人々が、自分らしく生き抜ける環境を整備する必要がある。それにあたり、夫婦別姓というのは必須アイテムなんじゃないだろうか。
とにかく、結婚という慶事にあたり、こんなしょうもないことでクソほど揉めるなんてことがなくなればいいと切に思う。少なくとも私たち夫婦の場合、夫婦別姓の制度があればこんなに苦しむことはなかったのだ。
ところで以下は余分な話の垂れ流しなのだが、この問題の本質が仮に世代間のギャップだとしたら、私がギャーギャー騒いでるだけで、私より年上のどの世代も、話題は違えどこういう底の見えないクレバスのような隔絶に苦しみ続けてきたのだろうか。ということは私もそう長くないうちにこのキモさを若者に押し付ける側になるのか。それは困る。こんなはずじゃなかった。今すぐ首を括って妻に保険金を残したい衝動に駆られる。ちなみに生命保険には入っていない。
すぐふざけたくなってしまう上に面白くもないのでこのあたりで終わりしておくとして、最後にこの結婚を通して得たこれから守りたい信条を書き残しておく。
家族でも恋人でも友人でも、愛する人には優しくしよう。受け止めきれないことはそう伝えて静かに身を引き、心からその道行きを応援しよう。無理にでも止めなければならないのは、その選択が命を失うことに直結するときくらいだと思うのだ。
誰もが他者でありながら、自分と関係を結んでいることを、心から喜べる人間になりたいなあと思うのである。(動物の鳴き声のような心情の吐露)