
はてなキーワード:モテるとは
低身長男性だけが定期的に「自分達を選ばない見知らぬ女」を群れを成して攻撃するが
その被害者の一人のたぬかなが「低身長男性に釣り合うのは貧乳(なだけの)女」と発しただけで無数のいいねがつくのはホラーだ
貧乳女性というだけで基地害チビ男性に自分達と釣り合うと思われる
婚活のプロです。女性のおっぱいに相当する男性の特徴は筋肉です。女性は一般的におっぱいが大きい方がモテますが、なくても大幅減点にはなりません。一方で男性の身長は低いと大幅な減点に繋がるため性質が異なります。なくても大幅減点にならないけどあったらモテる男性の身体要素は筋肉です。
"婚活において男性の「身長」に対応するのは女性の「顔」です。女性は男性の身長に男性は女性の顔にこだわるので、低身長男性の需要の無さは、ブス女性の需要の無さに対応するという話を書きました
https://note.com/konkatsu_consul/n/n12fecd62f220
清潔感や社会性のあるイケメンやフツメンでも、クラスの最下位のデブやブスとしか結婚できない
しかも若くもない
https://i.imgur.com/JCXsOOS.jpeg
昔美人だったおばあちゃん(ひし美ゆり子)でも結婚相手に低身長を選ばず1歳下の元俳優の高身長イケ爺を選ぶ
https://i.imgur.com/MwVEjua.jpeg
・「汗臭い男性は体臭ケアしてください」と発言した無名のアドバイザー
・「低身長男性は婚活では不利なので普通の人より努力が必要」とポストした無名の婚活業者
・何かの動画で「低身長の基準は?」というアンケートに「170cm」と答えただけの一般女性
・ぱっと見港区女子崩れの未婚に見える小綺麗な30女の自撮り(実際は子持ちで実業家)
・自分を断る初対面の婚活女性(高望みクズ女扱いして罵倒がデフォ)
・BLや推し活等のイケメンコンテンツ(これらのせいで自分達下位男性が女に相手にされないと思っている)
・「CAとマッチングできるのは身長170cm以上の男性」という無名アカウントの発言に無数のCAへの罵倒(空中オナホ、売女など)が集まる
・自分のアプローチを断った女へのレイプ扇動ネット工作(写真や個人情報付き、本人なりすましや第三者視点で「私を犯して」「あいつはヤリマン」)請負業者が多数存在する
女は自分を選ばないまたは無償奉仕してくれないイケメンやヤリチン、ホストやアイドルなどの売春夫に無関心
しかし高齢非モテ男は自分を選ばない若い女や美人、金を取らないとやらせてくれない風俗やパパ活女といった、自分を選ばない女、無償で奉仕してくれない女を見ると見ず知らずの相手にすら憎悪や殺意を抱き、彼女らが不幸になる創作嘘松を量産してバズらせるし、凶行や嫌がらせに及ぶ
今週の『これ余談なんですけど・・・』はモテおじたちによるモテトークがあったけど、その中で「40歳になったらそれはそれでモテる」って感じの話が出てきた。
ただ、その時に「お金がなかったら終わり」とも付け加えられていた。その上で50になったら50なりにモテるし、なんだったら60になってもモテることは可能とすら語られていた。
そういえば、ちょっと前に40歳くらいの増田が会話デッキにサブカル系しかなくて困ってるみたいなのあったけど、上記のことを踏まえると「そもそもゲームのルールを分かってない」ってことになるんかな。
競技かるたで百人一首の歌をどれだけ記憶して、如何に早くとれるようにするかってところを、少ない手札の中からどのカードをきればいいかみたいなこといってるわけで。
7年前、東京。地下かどこかの喫茶店で、デザイナーのHさんと打ち合わせをした。
自分が企画した仮設の公園シリーズのデザイン制作物を依頼する場だった。
まだ若くてバカだった当時の自分は、「A3サイズで世界を変えよう」と笑いながら真剣に言ったのを覚えている。鼻息でストローの袋を吹き飛ばした気がする。
その後に作ったA3のフライヤーは、原稿の渡し方もイメージの共有もめちゃくちゃで、散々迷惑をかけた気しかしない…。でもHさんは最高の納品物をつくってくれた。
それからあちこちでHさんのデザインを目にするたびに(先日も実家近くの本屋で見かけた)、あの狭い喫茶店で口にした言葉を思い出す。
Hさんはあれから、マジでA3サイズで世界を少しずつ変えてってると思う。
「どうして“哲学対話”という名前を使うんですか?難しそうだとか、参加に身構える人もいるかもしれないのに」と尋ねた。
Nさんはいろいろ考えた末に、「なんか…ムカつくんすよね」と言った。
哲学と、対話という言葉の意味を新しく上書きするために、あえてこの名前を使うんだって話してくれた。
今の自分は、どうだろう。
「ムカつく」という言葉を聞いて、久しくその感覚を忘れていたかもしれないと気付いた。
どうせ何も変わらないと思って、絶望してたんだと気付く。ぜつぼうって、Zから始まる強い響きの言葉だけど、耳がキンとするほど静かで、うっすら気付きながら置き去りにして、気付けばゆっくり死んでいるような絶望もある。
思い出すと自分も「A3で世界を変えよう」と言ったあの頃、世界に対してムカついてた。
少し前、自分は臨時職員だった。アートと教育に関わる仕事。給料は月13万円。
でも求められる仕事の内容は変わらない。自分が足りないから倍以上頑張るしかないんだ。
「アーティストやクリエイターとつながっておくのが大事だ」と教わりつつも、飲み会に行くのが怖かった。行ってもバカにされるだけ、雑にいじられて否定されて、3000円払っていやな思いをするだけだと思ったから。
それでも「今日は違うかもしれない、大丈夫かもしれない」と信じてみる。
先にコンビニでおにぎりとホットスナックと缶ビールを胃に詰め込み、遅れて飲み会に顔を出す。結果「やっぱりカタパンはダメだな〜」と何かのきっかけでバカにされ、ヘラヘラしながら5000円払わされ、真っ暗な帰り道で涙がつっとこぼれそうになる。今思えばもっと自己開示すべきだったのかなって思う。でもあの時の自分は、自分を守るのに必死だった。
同じ部署の臨時職員同士で競わせられ、蹴落とし合う日々。毎日どんどん嫌な自分になる。
それは素晴らしいことで、自分は今日も帰れない。自分は常に欠けていて、仕事ができないからしょうがないんだ。自分も子どもを育ててみたいという気持ちをこんな手取りじゃ絶対無理だとグッと押し殺し、上司に嫌な感情を向けてしまう心に嫌気がさす。
「カタパンの説明は下手すぎる」「カタパンは才能がない」「カタパンは惜しいんだよな」「タレ(当時付き合っていた彼女)と結婚してさっさと仕事やめたら?」「カタパンのタレはメンヘラだよな」「それ俺が考えたことにして。そっちのほうが絶対うまくいくから」「カタパンが考えることは全て、もうすでに俺が考え終わったことだよ」「カタパンは、ソーシャル・ネットワーク(映画)の、ザッカーバーグじゃない方なんだよ。自分が考えたことも上司がうまいところを持っていく。そういうのってこの業界じゃ当たり前だから。」「カタパンはエモいからな〜」「カタパンは伸びしろがない」「泣くのはプロじゃないよ」「カタパンもう◯歳でしょ?いい加減大人になってほしいよね」
大学1年生のころ、そのアートセンターでやっていたノイズミュージックのライブを初めて聞いて衝撃を受けた。
退屈してて何もないと思っていた、都市ってつけるのがおこがましいくらいの地方都市で、爆音の圧に内臓が揺れる。初めて音に殺されるって思った。
こんなこと公共施設がやっていいんだ。そのアートセンターで働くことに憧れた。
そこには市民の有償ボランティア制度、サポートスタッフがあった。入りたいと思った。
でも1年生でサポートスタッフになっても、きっと自分は他の人に埋もれてしまうと思い、いろんなアルバイトを経験した。
3年生になって、ようやく少し自信を持って、サポートスタッフに登録する。
“カタパン”は、サポートスタッフを始めた初日、教育普及の職員に付けられたあだ名。
理由は、肩パンしても大丈夫そうなキャラだから。嫌なあだ名だったけど、あだ名を付けてもらえたことに喜んで、自分は否定しなかった。
ようやく入った憧れの施設では、地元の人やサポートスタッフを蛮人と呼んでる人もいた。
もちろん冗談で。冗談なんだから否定するのは粋じゃない。自分は一緒に笑った。
自分も笑われているのに。
どんなに嫌なことがあってもそのアートセンターに憧れたあの時の気持ちは捨てられないし、どこかで全員尊敬できたし、すごく優しい人もいる。
周りの誰も憎めずに、自分を責め続けた。心配してくれた人の言葉を、自分は大丈夫ですよとヘラヘラ聞き流した。
周りを変えることよりも自分を責めることの方が楽で、でもずるくて、いざ失敗したら周りのせいにしてた自分もいる。この文章だってそうかもしれない。
自分は自分のそういうところがめっちゃ嫌い。だからこの文章をここに書き残しておく。
ダサいことも、痛いことも、全部置いておく。
今は常勤職員になってしばらく経ち、生活も少し安定するようになった。チームが変わり、すごくいい仲間に恵まれて、痛みを感じることを言われることも少なくなった。安心できる場所をつくることが出来た。年下の後輩も入ってきて、それまでリーダーをやってくれてた同僚が抜けることになった。
常勤職員から、副専門職員になる試験を受けたら、普通に面接で落ちた。
付き合いの長い上司から、あなたに専門性はないですって諦められたみたいで悲しかった。
たしかに自分はまたヘラヘラして、自分の言いたいことを伝えられなかった。
伝えることを諦めてしまった。そんな自分が悔しくて、その夜電気を全部消して泣いた。
今の自分は、どうだろう。
昨日『104歳、哲代さんのひとり暮らし』という映画の感想を語り合う場所を開いた。これは一昨年の暮れから、だいたい毎月4回くらいやっている。休憩がてら立ち寄った人たちとお茶やジュース(ミルクティーが人気)を飲みながら、映画の印象に残った場面を話すうちに、みんなそれぞれ自分の過去をぽつりぽつりと思い出して語り始めたりする。昨日も15人くらい来てくれた。
コロナ禍の入院で、本当は会いたかった人を病院の窓から見送った話。
離れて暮らす娘の早産を電話で励ますことしかできず、悔しかった話。
祖母が隔離病棟で亡くなる直前、看護師がつないでくれたLINEビデオで声をかけたけど、触れられなかった話。
「哲代さんは明るくてすごい。私は後悔ばかりだ」と84歳の参加者が漏らすと、別の人が「いまからでもイメチェンできる!84歳、あと20年ある!」と励まして笑い合う。
飲み物を継ぎに別のグループへ。「職員さんですか?」と聞かれたので簡単に自己紹介し、「楽しく働いています」と答えると、一人の女性が「…仕事はつらいですよ。人生はつらいですよ。」と自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
彼女は三人の子どもを育てるために、大好きだった介護の仕事を諦めたそうだ。
「介護の仕事は給料が低くて、今はレジ打ちなんかをしています。でも、本当は働きたい」そう言うと、彼女の目から涙があふれた。
彼女にとっての“働く”は介護であり、レジ打ちはやらなきゃ立ち行かなくなる”仕事”。
彼女は泣きながら、どんな場面を、人を、思い出していたんだろう。
そのタオルがすごく大きくて「いっぱい泣けるね」とふざけて笑い合う。
尊敬する館長がしばらく前に亡くなった。
自分は、館長の本棚にあった「公共の役割とはなにか」という本をもらった。
館長から出された宿題みたいに、その問いのことをずっと考えている。
まだ宿題の途中だけど、今館長に聞かれたら、
公共文化施設とは、みんなで人間らしさを取り戻す場所って答えたいと思う。
人生は一人で抱えるには重すぎる。いつか自分の足で立つためには、みんなで少しずつ荷を下ろし、身軽になる必要もある。何かを得るだけでなく、重くなった気持ちも置いていける場所。そういう場所が、自分はあってほしい。
それは捨てていくんじゃなくて、きっと誰かが聞いている。
誰かが誰かを覚えていると信じられるから、新しい自分になっても安心して息が吸える。
小学生がうちの施設に社会見学に来たら「メディア・テクノロジーは人にものごとを伝えるワザ。コンピューターやインターネット、映像、照明、音響とかいろんなものがある。そう聞くと、電源が必要とか、新しくてシュッとしてるとか、固くて冷たいものを想像するかもしれないけど、いまみんなに話しているこの言葉だってメディア・テクノロジーのひとつ。僕らはつい最新のテクノロジーに注目しがちだけど、僕らが生まれるずっと前は、この”言葉”だって最新のテクノロジーで、思ってることを人に伝えられるのやべ〜!ってなってたはず。もし言葉が喋れなかったとしても指差しをしたり、狼煙を上げてここにマンモスがいるぞー!って伝えてた。でも当たり前に使えていると思ってるものも、使い方を間違えると怪我したりする。
このアートセンターでは、メディア・テクノロジーを改めて広く捉え直して、ありたい未来や可能性(こんな使い方出来たんだとか、こんなふうに伝えられるんだとか、こうなるとヤバそうとか)をみんなで考えて、みんなでつくっていくために、全員まだ答えを持ってない新しいアート作品をつくったり、紹介したり、それをみんなで見る場、話す場を開いてる」って伝えてる。ともにつくり、ともに学ぶ場なんだって。
例えば映画の上映に合わせておこなうお茶会みたいなイベントは、小さな場所の小さな営みで、”オリジナル”みたいに威張れることはしていない。たまたま映画を見に来た鑑賞者同士が、なんとなく休憩しに立ち寄って、お互いの話を聞きあえる場を開いているだけ。でも、そこに来る一人ひとりは、とても大きな人生を背負っている。
昨日立ち寄ってくれた年配の2人組。
少し背の低い女性が「耳がほとんど聞こえなくなった主人が、この映画は見たいって言ったんです。だから字幕がなくても今日は来ました」と穏やかな声で教えてくれた。
これを見たいと思うことと、一緒に見る人がいるのめっちゃいいですねと伝える。そしたら突然その人がパートナーの耳元に向かって、自分がさっき言ったことを大きな声で復唱してくれる。(この人、こんな大きな声が出るのか)と内心びっくりする。
男性は嬉しそうに「そうなんですよ」と言って笑った。言葉があってくれて、でっかい声で伝えようとしてくれて、ここに来てくれて、聞いてくれて、ほんとによかった。
その場を見ようともしない人ほど「効率が悪い」とか「KPI」とか「来てない人を納得させないと」とか「ソーシャルインパクトが大事」とか「経営的な戦略が必要」とかって、ティーチ(一方的に教える)よりラーニング(自分で学ぶ)が大事と言う同じ口で、一方的に教えてくれる。
いや、なんかそうなんかもしれんけど、うっせ〜〜〜。
簡単に人をモノのように扱える人ほど評価される世界は絶対間違ってる。
世界を変えるって、トランプみたいに自分勝手に世界を掻き回すことじゃ絶対にない。
世界を変えるって、ひとりひとりが自分の力を思い出して、取り戻すことじゃないんかい。
この前ポッドキャストの収録で話したひるねちゃんは「手元をみよう 手元をみよう」と、祈るみたいに2回言った。
「人の心に反射したその光こそが作品。作品が光ってるって言うより、あなたの心に反射したものが光ってるんだよ。エネルギーを飲み込まないで発散できる自分でいたいな」と言いながら、最後の語尾は震えてた。
心が諦めてしまうと簡単に、ブラックホールとかベンタブラック(99.9%の黒)みたいに、どんな光も吸収してしまう。
収録が終わってしばらく経ったある日ふと、本当に信じてることは信じてるなんて言わないのに、信じたいって思うことほど信じてるって口に出して言うのは不思議だなと思った。
言葉に日光を浴びせるように外気にさらすことで、いつかほんとに信じられるものに変わるかもしれないから、僕らは信じたいことを口に出すのかもしれない。
先週も大学を訪ねたら「アートは自分には縁がないもの」と学生が匿名チャットで教えてくれた。おい、誰がアートをその子に縁がないものにしてしまったんだ。関係ないものなんて、本当はなに一つないはずなのに。おい、誰がそんなふうにしてしまったんだ。
でも自分もアートに関わる仕事をしててそう感じさせたうちの一人でもあるかもしれないからそれはごめん!もう一度やり直したいからチャンスがほしい。そんな悲しいこと言わないでよ、寂しいじゃんって思う。
あームカつくな。ムカつくし、ムカつくという感情を思い出せたのが嬉しいな。
ムカつくの前には悲しいな、とか寂しいな、があるな。ムカつくのにも、悲しいなとか寂しいなを反射させる力が必要なんだな。
自分は小さな空間で、人が変わるまぶしい瞬間を何回も目にしてきた。
たしかに自分の文章はまだまだ分かりづらくて、曇った鏡みたいなものかもしれないけど、本当はもっともーーーーーっとすごい。まじ伝えきれね〜〜〜〜って思う。
それでも自分も、反射できる自分でいたいと思うからこの文章を書き残しておく。
昨日の朝、映画を見る前、教育学部の授業に自分が働くアートセンターの紹介をしに行った。
朝一の貴重な40分をもらって全力でプレゼンしたあと、先生がブラインドトークのワークショップに参加させてくれた。
10人が3チーム、絵を見て言葉で伝えるチームと、その説明を聞いて絵を書くチーム、そのやり取りを観察するチームに分かれる。
5分間で出来上がった絵は、答えに近い人もいれば、まあまあ遠い人もいる。
その後のフィードバックの時間は、こう説明すれば良かった、こう質問すれば良かったなどの意見を交わす。
右から1/3の位置に〇〇があるみたいに数字を入れて伝えるとか、全体の雰囲気やテイスト(イラストなのか写実的なのかなど)を伝えてから具体的な描写を伝えるとか、一番大事なこと(なにを伝えたい絵なのか)に絞って伝えるとか、いろんなアイデアが出た。
どれもすごい大切だって思ったと同時に、自分はなんかもう、最強だな〜〜〜って思った。
最強って、いまめっちゃ強いとか、いまめっちゃ説明が上手とかじゃなくて、変われるってことだと思った。伝えようとしてる人がいて、聞こうとしてる人がいる。もうそれで十分じゃん。言葉が足りなきゃ付け足したら良いし、分かんなかったら聞けば良い、言い直したらいい。
ほんとは完璧なコミュニケーションなんてなくて、伝えたいとか聞きたいとか、それを諦めずに関わろうとし続ける限り、うちらはもっと強くなれる。もしかしてそれを教育と呼ぶのでは?!みたいなことに気づいて驚きながら言った。
みんないい姿勢で、まっすぐ聞いてくれた。おい、まぶしいな。ありがとう。
先生にお礼のメールを送る。あの子達が4年生になるのが楽しみですねって伝えた。ここには書かないけど、嬉しい返信が返ってきた。また会いたいな。学生も先生も全員サポスタに登録して欲しい。
同僚のNさんとサポスタ募集の打ち合わせしたら「うちらがやってることは、誰に見せても恥ずかしくないから本当はターゲットなんてない。ターゲットは全人類、死んでるやつも、これから生まれてくるやつも。ひとまず50億人全員サポスタに登録してもらおう。」って話してて爆笑しながら超グッと来た。絶対そうなった方がいいしやっぱ最高だなこの人って思った。
トランプも、ゼレンスキーも、オバマも、プーチンも、ネタニヤフも、オードリー・タンも、石破茂も、議員会館の地下で迷子になってる秘書も、海を渡ってきた難民も、夜勤明けでレジを打つコンビニ店員も、介護の夜勤でウトウトしてる人も、野良猫を拾ったけどなかなか懐かなくてすこし懐いてくれて安心したら実は腎臓病が進行してて休日は暴れる猫を連れて動物病院に通う新入社員も、推しのVtuberにスパチャしすぎて家計簿が真っ赤な人も、好きな人と一緒になれなくて家で一人で泣いている遠距離恋愛のカップルも、育休取りたくても言い出せない課長も、同性婚を夢見るカップルも、初めてステージに立つ前に鼓動が早くなってるドラァグクイーンも、卒論提出3時間前の大学5年生も、家の外に出る勇気が湧かないひきこもりも、声を出すと噛んじゃう吃音持ちも、白杖を持った視覚障がいランナーも、手話でコントをやる芸人も、補聴器の電池を切らしたおばあちゃんも、手足のないスケボー少年も、車いすで山道を攻める登山家も、PTSDに苦しむ帰還兵も、大学の講義室で聞いてない学生に向けて伝えることを諦めようとしてる教授も、モテることとサボることと遊ぶことと就活で頭がグチャグチャだったあの頃の自分みたいな大学3年生も、収容所で自由を夢見る政治犯も、その看守も、裁判で涙を流す加害者も、被害者も、サウナで “ととのい” を追い求める会社役員も、離島で保育士を探す町長も、推し色ジャージでライブに並ぶ中学生も、バイト代を全部ガチャに突っ込んだのに天井までSSRが来ない高校生も、フィリピンのごみ山でタガログ語ラップを刻む子どもも、アマゾン流域で川と話すシャーマンも、北極で氷が割れる音を聴く魚も、火星着陸の夢を抱く在野の<
優しい人ってモテるって言うじゃん
結果よってくるのって基本ダメ人間なんだよね
なんか、野良猫に懐かれるみたいな
じゃあ優しくしないほうが良いのかと考えると、難しいわ
優しい以外に魅力無いからなあ
おもしろい。
セックスを好まない女性って、普通に男性的な魅力は求めるんですね。
若さや年収、容姿、包容力、気遣いといった、遺伝子を末永く未来へ残すことが出来そうな指標で異性をジャッジする。
それらの指標は現代日本社会における成功に直結しますので、そんなのは間違ってるという話をするつもりはないですし、逆にセックスを求めない男性だって同じようなものだと思います。女性だけを悪しざまに言うつもりはありません。
しかし、ここで一つ大きな問題となるのは、世の男性が年収や容姿、包容力、気遣いといった、女性が求める魅力を磨く動機は、「女にモテたい!」という欲求によるケースが少なくないという事実です。
つまりセックスをする必要がない=「女性にモテなくていいや」と考える男性は、女性の視線を意識して身なりや体型に気を遣う、奢る、紳士的な振る舞いを心掛ける、共感する、金を稼ぐ、女性が嫌いそうな趣味や話題を避けるなどの努力をするモチベーションが、「おれは金と時間を掛けてでも自分に投資して女とセックスしたい!」と願う男性に比べて著しく低いことが予想されます。
それら類の自己研鑽は、少なくない男性にとって、女性にモテるために仕方なく行うものだからです。必要に迫られないのならば全くやりたくない努力なのです。
私は古のエロゲで学びました、以上。
古のゲームには恋愛シミュレーションというジャンルがありましたが、その中でも有名なときめきメモリアルではなく、蛭田昌人が作っていた同級生や下級生がメインテーマになります。
恋愛シミュレーションはその後廃れていくジャンルになるわけですが、それは多くのゲームジャンルに恋愛シミュレーション要素が回収されていったためです。例えば、皆さんがやっているソシャゲにもキャラクターからの好感度があり、3択の選択肢で好感度が上がっていく、という要素がありますね。こんな風に他ジャンルの中に一要素として埋め込まれたのです。
じゃあ、そういう最近のゲームをしてるので、お前と変わらないのでは?と思われるかもしれませんが、大きく異なります。
最近の好感度要素は基本的にRPGの経験値と同じです。値は基本的に増加するもので、さらに同じプレゼントを500個あげたらその分好感度が上がります。めちゃくちゃ定量的な概念なのですね。
では、古の恋愛シミュレーションでは好感度は何だったのか?
私は下級生というゲームで恋愛の全てを学んだのですが、あるキャラクターは単純に会話やプレゼントではある程度の好感度までは上がるけれど、そのあとが上がらなくなるんですね。
そこではそのキャラクターが別の男性キャラクターに振られるというイベントを経て初めて主人公が恋愛対象になったり、
友人の女性キャラクターが主人公のことを好きになっている様子をみて初めて自分も主人公にアタックをし始めたりと、
様々な出来事を通した文脈で主人公と恋愛関係になったり、ならなかったりするんです。
この文脈というのは恋愛にとってとても大事で、いきなりデートに誘ったら振られた、というのがこれに当たるわけです。
また、よくあるアドバイスでいきなり二人でデートに誘わずに、学校や職場の仲間みんなでお出かけや飲み会、次に二人での軽いランチや軽い夕食、次にデートと順を踏むことをアドバイスすることがあります。
このアドバイスは半分正しいですが、半分間違いです。最初の「学校や職場の仲間みんなでお出かけや飲み会」をしたからといって、それで実績解除にはならないんですね。
その「学校や職場の仲間みんなでお出かけや飲み会」で隣に座って子供時代の話で盛り上がった、とか帰り道の方向が同じだったので帰りの電車の中で今日の感想を言い合った、などの
二人だけの小さな秘密になるようなイベントを起こす必要があるわけです。だから、次に二人での軽いランチや軽い夕食ができるのであって、職場のみんなで飲み会をしたから次はランチに誘おう、という思考回路は間違ってるわけですね。
結局、人間関係は単純に単調増加する経験値的な好感度ではなく、特定のイベントを通じた文脈によって階段状に上がっていく好感度なんです(これは異性だけでなく、同性でも同じはずです)
それを理解することなく、総会話時間が100分を超えたから、LINEの往復やりとりが100通を超えたから次の段階へ、ではないわけですね。
皆さん、下級生をやりましょう
タイトルで損をしていますが、ほぼ下級生は出てこず、ロリコン向け作品ではないです。下級生2はやらなくて良いです
Permalink |記事への反応(10) | 12:28
確かにまあまあ美人だし若い頃はモテただろう、今でそれなりにモテるんじゃ無いかと思うレベルではある。
「若い頃はいつも週末は誘われたしプレゼントはされたし、よく告白された」
「強引に誘われたり、お誘いがバッティングしたり」
なんて自慢してて、スゲーな(呆れ)と思っていたら
「全員既婚者だったけど」で、ズコー!
それ全部不倫じゃん…自慢にならない…
お手軽に付き合ってくれそうだから誘われてたんじゃん。
「あの頃の色気が出せたら今でもモテるはずなんだけど」
なんてほざいててうんざり。
過去も単にゆるゆるだから既婚者が寄ってきてただけなのを言って良いものなのやら。
20歳まで浮いた話がひとつもない非モテ・陰キャ(陰キャなのは今も同じ!)
大学で一目惚れした子にすげー頑張ってアタックし、20歳にして彼女ができる
これって、よく考えたら、一切無駄のない、ほぼ最強の恋愛遍歴じゃないですか?
なんかこう、5人とか10人とか元恋人がいてさ、恋愛強者です、恋愛に詳しいです!みてえな雰囲気を出してる奴らいるけど、アイツらって普通に5回も10回も恋愛に失敗してる雑魚なわけじゃん
俺は1発合格してるわけじゃん
少なくともここまでのところ、実は最強なのって、俺じゃねえか?
俺はなんかさ、20年非モテをやってたせいで、非モテ論争があるとどうしても非モテサイドに肩入れしてしまうし、実際に今だって全然外見はキモいし内面もキモいから、モテるかモテないかでいうとまったくの非モテということになるんだろうけど、そんなんどうでもよくて、だって彼女は俺を好きでいてくれてるわけじゃん
激モテと言ってもいい
なんか恋愛経験を誇ってる、恋愛浪人たちよりもさらに上の、恋愛においては達人レベルっつうか、もっとも上の地平にいると考えていいくらいなんだ
地に伏せよ、愚民共 余こそ王なるぞ
そういう気持ちで生きていきてえな
自分は40前半歳独身男性。非正規。婚活などはしていない。今までの人生で彼女は1度だけ。元々モテるほうではなかった。若いころにひょんな縁から、個人経営の美容系のお店に通わせてもらうようになり、今から10年くらい前にそのスタッフとして彼女がやってきた。
お店に通う男性自体非常に希少らしく、また彼女と同世代の顧客はとても少ないらしく、いつも楽しく話をさせてもらっていた
内気で陰キャな自分の性格ともぴったりだし、おっとりした見た目だが美容系の仕事をしているからか、年齢に似合わず美人である。いわゆる清楚系。会話の内容も合うし、会話のテンポ、リズム、温度もほぼ一致しているところが良い。島田紳助流にいうと「会話のリズム」が合う。話していてまったくストレスにならない。ボケるとちゃんと突っ込みも入れてくれるところも素晴らしい。料理もできる。手芸が趣味。こんな人が今の今まで売れ残っていること自体奇跡なんじゃないかといつも思っている。年齢も彼女が1歳上だし、できることなら彼女と一緒に今後新しい家庭を築きたい。と思っていた。
そんな話を軽く振ってみると「尊敬できるひとならいいなあ」と言うが、実際のところ、本気で答えてくれているかどうかもわからない。
聖書の話を振ると「わたしは信じています」とか言ってくるし、聖書を根拠にした話をさも当然のように話してくる(この世は絶望しかない、など)。
ちゃんと聞いたことはないが、おそらくは二世信者なのだと思う。
軽くアプローチをしても相手にされているんだか、されていないのかよくわからない。
そもそも、このお店に20年近く通っているものの、店のオーナーからエホバに勧誘をされたのは35を過ぎた時だった。その時はもう遅かった。お店に人にも親近感がわいてしまっていて、今更「宗教を」なんて言われてもって感じである。よって今では「宗教」を除いた部分で付き合うことにしている。が、特に店オーナーは会うたびに聖書の話をしてくるため面倒くさい。
今思えば、このお店スタッフはすべてエホバの人間なんじゃないかと思っている。求人だって一度も見たことない。こんなこと誰にも言えないが。
一度Twitterの当事者同士のスペース機能でこの悩みを相談したところ「あー、それは無理だね~」と言われた記憶がある。
よくよく調べてみると、確かにあの宗教は男女交際に関してかなり厳しい。いろいろ面倒くさい。
最近も人手不足で、自分以外女性が一人なことがあったんだが、「男女が密室に2人でいることは、NGなのでお店には第三者がいないと駄目なことになっています」と言われた。
確かにコンプライアンス的にはそうなんだが、20年通って、終わった後に毎回悩み相談もしていた、客にそういうこと言うか?普通。 それを聞いたときに何か違う力が働いているんだなと思った。
ただし、その事例に当てはまらない人もいることは事実だし、実際のところは本人に聞いてみるしかないのだろう。
本人がNOと言えば、過程はどうであれNOなんだと思う。
もう結婚むりなのかな。
はぁ。