
はてなキーワード:メル友とは
風化しそうなので書いとく。
1996年、ネットでメル友募集したんだ。なお当時の一般家庭ネット普及率は5%に満たない。
なお募集に書いたのは以下のような感じ。うん、釣りなんです。ネットの状況知りたいのがあって。
・こちら15歳高校生女子一年生、身長145cmいかない、小さいけど友達にはちっちゃくてかわいいって言われる。(ロリ設定)
・抜けてるところがあって友達によく注意される。(ロリドジっ子設定、こちらのガード緩い設定)
・動物好きだけどペット飼えない。ペットの話してくれると嬉しい。(動物好きに悪い人は居ないと思ってるよ!→こちらのガード緩くなる設定、もしかすると相手も)
・子供なので、いろいろ、大人の世界のこととか教えてくれると嬉しい。(大人の世界含めてあなた色に染まりますよ設定、暗にアダルト内容含んでる)
・相談できる人があまりいないので、仲良くなったら悩みとか聞いてほしい(精神的依存、あなた色に染まりますよ設定)
くらいまで書いてました。可能な限り設定盛ったつもり。あまりやりすぎるとばれちゃうからね。
結果:全て初回の結果です(返信してないです)
約500通くらい応募?返信来ました。
・全員男性でした。当時のネットは女性少ないからね。少ないからね。全員男性かあ。
・半分くらいは大学のアカウントメールから。一般家庭のネット普及率は低いからね。大学でしかメール使えなかったのか。
・ペット飼ってるっていう人は結構いました。見に来る?など自宅に誘う人は30人くらい居ました。フェレットなどレアな動物出してくる人もいましたね。
・(自称)医者、弁護士、という人も10人くらい居ましたね。本当かどうかは知らないが、初回で15歳JK1に話すことじゃなくない?なんか意味ある?
・料理店のオーナーという人も2名居ました。自分の料理店でおごるのでご飯食べにいこっていうやつです。交通費も出すとか言ってましたね。。
・釣りと疑った人は一名だけです。
こんなふうに誘うのか、参考になりました。
15歳のころ神がいた。画面の向こうにいた。htmlタグでつくられたあわい色使いのサイト。エンターボタンを押した先で、神は大人気スポーツ漫画の二次創作をやっていた。
漫画も絵も小説もかける人だった。なにも生み出したことのない私にとっては天上人だった。天才ってなんでもできるんだ、と中学生の私は思い込んだ。神の全てが正しかった。30000hitありがとう、と神が書いていれば30000hitってすごいんだなと思ったし、ヤニが切れたと神がブログにつづればヤニなんてかっこよすぎると思った。神は私の一つ上の16歳だった。今よりなにもかもがゆるい時代、彼女の二次創作では未成年のキャラクターたちがとうぜんに飲酒し喫煙していた。そのせいかもしれない。同じサイトの中にいるキャラクターたちと神を同じ階層で見るようになって、もう強烈に憧れた。
神がサイト内のブログにつづるファッションやほんのりにおわせる彼氏の存在もこなれ感のある神の作品とリンクしていて、この人だからこれを書けるんだと思った。
まだ可視化されたオタクが少なかった時代、私にとってのオタクは自分のようにクラスの端っこでアンソロジーを読んでいる存在であり、そういう型にはまることがオタクとしてのアイデンティティを確立するんだと思いこんでいた。神はそれをひっくり返した。
そして私はあるとき偶然、神の姿を知ることになった。オタクの世界は狭い。当時メル友を探すサイトで知り合ったオタクの友人が神と少しだけ交流があり、一緒にうつっている写真を送ってきたのだ。
「隣にいるの◯◯さん(神のハンドルネーム)だよ。知ってる?」
知っているなんてもんじゃない。でも激重の憧れをさらけだすのがはずかしく、サイト見たことあるよ! くらいしかいえなかった。
写真の神は美人だった。神に美人であってほしいという私の願望によるフィルターをさしひいても完全に美人だった。当時の平成viviモデルのような派手な顔立ちで、すらっとしていてヒステリックグラマーとかディーゼルとかが似合いそうな雰囲気が高校生になったばかりの私に突き刺さった。いま振り返ればいい作品を産む人がたまたま美人だったというだけだが、そのときの自分は幼すぎて、見た目も神だから作るものも神なんだと思いこんだ。
神に倣い私はコスメを服を買い漁った。絵も字も下手くそだったけれど買い物も美容も私にとってはオタク活動の一環だった。神がブログで彼氏と別れたことをほのめかせばいもしない彼氏と別れてみたいと思ったし、神が適当な誰かと遊んだことをほのめかせばいもしない適当な誰かと遊んでみたいと思った。異性そのものへの関心というより神がやったことを追いかけたい思いでいっぱいだった。たくさん真似した。それによって得たもの失ったものどちらもあるがハリボテでもわかりやすい青春を送れたのは神のおかげだ。
それから数年を経て私は神に会うことになる。信者としてではなく「友人の友人」として、またしても広くて狭いオタクの世界を泳ぐうちいつのまにかSNSでつながっていた。
「名古屋なう」というなんてことない私のつぶやきに「うそ! ごはんいこ!」と名古屋にいた神が反応してくれて旅行先で会うことになった。
神は友人の友人であるだけの私のもとへ超多忙なあいまを縫って駆けつけてくれた。服を褒めてくれた。メイクを褒めてくれた。神を真似た結果なのだから当たり前といえば当たり前だったけれどうれしかった。おしゃれなカフェでなにを話したか覚えていない。でもはげしい自己嫌悪におちいったり、緊張してうまく話せなかったりということはなかったからやっぱり神のコミュ力がすごかったのだと思う。あとはそれに憧れ続けた私のコミュ力もそこそこだったのかもしれない。
神は次の日の私の予定を確認して、「時間作れたらちょっとだけお茶しよう」といって翌日ほんとうにやってきた。忙しいようでいつもブログにのせるような格好とは違いパーカーにミリタリーコートにデニムにリュックで髪もひとつにしばっていた。変な格好でごめんねと神はいったけれど変なところはひとつもなかった。めかし込んだ私の比じゃないくらい洗練されていた。私が背伸びしてもぜったい届かない領域にいる人なんだと見えてぼーっとしたまま帰った。
神に会ったのはその一度きりだった。ネットでの交流は続いたがいつのまにか神はオタクをやめ、つながっているSNSはmixiからTwitterの身内アカウントに変わった。ずっと楽しそうでおおらかだった神のアカウントは途中からからだんだんおかしくなっていった。
鍵の中で、神は混沌とした異性関係をつづるようになった。たくさん男の名前が出てきて誰が誰だか、何人いるのかもわからなかったし、昔と違ってぜんぜん楽しそうではなかった。気に食わない同性に対して毒を吐くようになった。バカは嫌いだとかもろな学歴主義をさらしたり別人のようになった。
激務が引き金のようだった。激務が原因で変わったのか、激務によりもともと眠っていたものが出てきてしまったのかどっちかなのかはわからない。
サイト時代は絶妙な見切れ具合でぎりぎり全貌がわからないようにアップされていた顔面も、身内アカウントではドアップで全公開するようになった。
どんなに病んでいても造形の綺麗さは変わりようがなく20後半になっても30すぎてもずっと綺麗で、眼福で、だけどそれを見るたび落ち着かない気分になった。
どうしてだろう。歳をとっても綺麗なその人を見ていまだおとなげなく焦っているのだろうか。しかし大人になった私はもうどれだけ真似ても自分が彼女になれないことを知っていたし、あとは日々に追われて真似たい気持ちを保つだけの持久力を失っていた。
そうこうしているうちにいつのまにかTwitterはブロ解されていた。あいかわらず私がオタクすぎてキモかったのかもしれないし、不要な人間関係を整理したかったのかもしれない。共通の友人とも疎遠になって二度とつながりようがなくなり、人生の半分以上追っていた神を三十路にして追えなくなった。落ち込むほどではなかったが、ふと気になってつながったままの化石としたfacebookをのぞいてみたりした。いっさい更新されていないのが常だった。そのまま日々に追われて忘れ、また思い出してのぞいてみる。変化なし。忙殺。また思い出してのぞいてみる。変化なし。忙殺。
それを繰り返しながら7年くらい経った今。いきなりfacebookのアイコンが変わった。
久しぶりに見る、新しい写真。
初めて見る40歳の神。だれかが向けたカメラに向かって楽しそうに笑っている。真っ白だった肌にはそばかすのようなしみがたくさん飛んで、とがっていた顎には丸く肉がついている。かりかりだった腕はたくましくなって、長くてつるつるだった髪は短く少しぱさついている。
神もちゃんとおばさんになっていた。
なんだかすごくほっとした。もう憧れなくて済むからか。たぶんそうじゃなかった。
「高校時代のプリクラでてきた。人生最高って書いてあった。これになりたい」
まだTwitterがつながっていたころ、病んでいる神はそんなことをつぶやいて自撮りをあげまくっていた。サイトのとけないパスワードに何度も挑むようなもどかしさを神のその姿から感じていた。いつまでも綺麗で老けない自分の姿を何度も何度も打ち込んで、すり減る前の自分に必死にアクセスしようとしているように見えた。赤の他人である私がずっと大事にしている16歳の神を神自身はもう失ってしまったんだと思うと私までもが神を失ってしまったようで悲しかったんだろう。
40歳の神は取り戻したのかもしれない。あるいは失うことに腹をくくったのかもしれない。でもそのままをうつして笑っている姿はあの美しい自撮りよりよっぽどあのころの神とつながって見える。リュックにデニムで駆けつけてくれた彼女が40歳の神の中にはちゃんといるような気がする。
でももともとhtmlタグから始まった偶像崇拝だから一枚の写真で勝手に解釈して終わる。あなたがおばさんになって本当にほっとした。幸せでいてほしい。おばさんになった私の中で16歳のあなたはずっと神様だ。
ジャンルの神とかカップリングの神とかいう言い回しはしばしば攻撃される。「原作者が神で借り物でシコってるやつは神じゃない」それは本当にそうなんだけど、それはそれとして思春期に強烈に憧れた人はやっぱり一生神だと思う。
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15歳のころ神がいた。画面の向こうにいた。htmlタグでつくられたあわい色使いのサイト。エンターボタンを押した先で、神は大人気スポーツ漫画の二次創作をやっていた。
漫画も絵も小説もかける人だった。なにも生み出したことのない私にとっては天上人だった。天才ってなんでもできるんだ、と中学生の私は思い込んだ。神の全てが正しかった。30000hitありがとう、と神が書いていれば30000hitってすごいんだなと思ったし、ヤニが切れたと神がブログにつづればヤニなんてかっこよすぎると思った。神は私の一つ上の16歳だった。今よりなにもかもがゆるい時代、彼女の二次創作では未成年のキャラクターたちがとうぜんに飲酒し喫煙していた。そのせいかもしれない。同じサイトの中にいるキャラクターたちと神を同じ階層で見るようになって、もう強烈に憧れた。
神がサイト内のブログにつづるファッションやほんのりにおわせる彼氏の存在もこなれ感のある神の作品とリンクしていて、この人だからこれを書けるんだと思った。
まだ可視化されたオタクが少なかった時代、私にとってのオタクは自分のようにクラスの端っこでアンソロジーを読んでいる存在であり、そういう型にはまることがオタクとしてのアイデンティティを確立するんだと思いこんでいた。神はそれをひっくり返した。
そして私はあるとき偶然、神の姿を知ることになった。オタクの世界は狭い。当時メル友を探すサイトで知り合ったオタクの友人が神と少しだけ交流があり、一緒にうつっている写真を送ってきたのだ。
「隣にいるの◯◯さん(神のハンドルネーム)だよ。知ってる?」
知っているなんてもんじゃない。でも激重の憧れをさらけだすのがはずかしく、サイト見たことあるよ! くらいしかいえなかった。
写真の神は美人だった。神に美人であってほしいという私の願望によるフィルターをさしひいても完全に美人だった。当時の平成viviモデルのような派手な顔立ちで、すらっとしていてヒステリックグラマーとかディーゼルとかが似合いそうな雰囲気が高校生になったばかりの私に突き刺さった。いま振り返ればいい作品を産む人がたまたま美人だったというだけだが、そのときの自分は幼すぎて、見た目も神だから作るものも神なんだと思いこんだ。
神に倣い私はコスメを服を買い漁った。絵も字も下手くそだったけれど買い物も美容も私にとってはオタク活動の一環だった。神がブログで彼氏と別れたことをほのめかせばいもしない彼氏と別れてみたいと思ったし、神が適当な誰かと遊んだことをほのめかせばいもしない適当な誰かと遊んでみたいと思った。異性そのものへの関心というより神がやったことを追いかけたい思いでいっぱいだった。たくさん真似した。それによって得たもの失ったものどちらもあるがハリボテでもわかりやすい青春を送れたのは神のおかげだ。
それから数年を経て私は神に会うことになる。信者としてではなく「友人の友人」として、またしても広くて狭いオタクの世界を泳ぐうちいつのまにかSNSでつながっていた。
「名古屋なう」というなんてことない私のつぶやきに「うそ! ごはんいこ!」と名古屋にいた神が反応してくれて旅行先で会うことになった。
神は友人の友人であるだけの私のもとへ超多忙なあいまを縫って駆けつけてくれた。服を褒めてくれた。メイクを褒めてくれた。神を真似た結果なのだから当たり前といえば当たり前だったけれどうれしかった。おしゃれなカフェでなにを話したか覚えていない。でもはげしい自己嫌悪におちいったり、緊張してうまく話せなかったりということはなかったからやっぱり神のコミュ力がすごかったのだと思う。あとはそれに憧れ続けた私のコミュ力もそこそこだったのかもしれない。
神は次の日の私の予定を確認して、「時間作れたらちょっとだけお茶しよう」といって翌日ほんとうにやってきた。忙しいようでいつもブログにのせるような格好とは違いパーカーにミリタリーコートにデニムにリュックで髪もひとつにしばっていた。変な格好でごめんねと神はいったけれど変なところはひとつもなかった。めかし込んだ私の比じゃないくらい洗練されていた。私が背伸びしてもぜったい届かない領域にいる人なんだと見えてぼーっとしたまま帰った。
神に会ったのはその一度きりだった。ネットでの交流は続いたがいつのまにか神はオタクをやめ、つながっているSNSはmixiからTwitterの身内アカウントに変わった。ずっと楽しそうでおおらかだった神のアカウントは途中からからだんだんおかしくなっていった。
鍵の中で、神は混沌とした異性関係をつづるようになった。たくさん男の名前が出てきて誰が誰だか、何人いるのかもわからなかったし、昔と違ってぜんぜん楽しそうではなかった。気に食わない同性に対して毒を吐くようになった。バカは嫌いだとかもろな学歴主義をさらしたり別人のようになった。
激務が引き金のようだった。激務が原因で変わったのか、激務によりもともと眠っていたものが出てきてしまったのかどっちかなのかはわからない。
サイト時代は絶妙な見切れ具合でぎりぎり全貌がわからないようにアップされていた顔面も、身内アカウントではドアップで全公開するようになった。
どんなに病んでいても造形の綺麗さは変わりようがなく20後半になっても30すぎてもずっと綺麗で、眼福で、だけどそれを見るたび落ち着かない気分になった。
どうしてだろう。歳をとっても綺麗なその人を見ていまだおとなげなく焦っているのだろうか。しかし大人になった私はもうどれだけ真似ても自分が彼女になれないことを知っていたし、あとは日々に追われて真似たい気持ちを保つだけの持久力を失っていた。
そうこうしているうちにいつのまにかTwitterはブロ解されていた。あいかわらず私がオタクすぎてキモかったのかもしれないし、不要な人間関係を整理したかったのかもしれない。共通の友人とも疎遠になって二度とつながりようがなくなり、人生の半分以上追っていた神を三十路にして追えなくなった。落ち込むほどではなかったが、ふと気になってつながったままの化石としたfacebookをのぞいてみたりした。いっさい更新されていないのが常だった。そのまま日々に追われて忘れ、また思い出してのぞいてみる。変化なし。忙殺。また思い出してのぞいてみる。変化なし。忙殺。
それを繰り返しながら7年くらい経った今。いきなりfacebookのアイコンが変わった。
久しぶりに見る、新しい写真。
初めて見る40歳の神。だれかが向けたカメラに向かって楽しそうに笑っている。真っ白だった肌にはそばかすのようなしみがたくさん飛んで、とがっていた顎には丸く肉がついている。かりかりだった腕はたくましくなって、長くてつるつるだった髪は短く少しぱさついている。
神もちゃんとおばさんになっていた。
なんだかすごくほっとした。もう憧れなくて済むからか。たぶんそうじゃなかった。
「高校時代のプリクラでてきた。人生最高って書いてあった。これになりたい」
まだTwitterがつながっていたころ、病んでいる神はそんなことをつぶやいて自撮りをあげまくっていた。サイトのとけないパスワードに何度も挑むようなもどかしさ神のその姿から感じていた。いつまでも綺麗な老けない自分の姿をパスワードにして、すり減る前の自分に必死にアクセスしようとしているように見えた。赤の他人である私がずっと大事にしている16歳の神を神自身はもう失ってしまったんだと思うと私までもが神を失ってしまったようで悲しかっただろ。
40歳の神は取り戻したのかもしれない。あるいは失うことに腹をくくったのかもしれない。でもそのままをうつして笑っている姿はあの美しい自撮りよりよっぽどあのころの神とつながって見える。リュックにデニムで駆けつけてくれた彼女が40歳の神の中にはちゃんといるような気がする。
でももともとhtmlタグから始まった偶像崇拝だから一枚の写真で勝手に解釈して終わる。あなたがおばさんになって本当にほっとした。幸せでいてほしい。おばさんになった私の中で16歳のあなたはずっと神様だ。
ジャンルの神とかカップリングの神とかいう単語はときどき攻撃の対象になる。「原作者が神で借り物でシコってるやつは神じゃない」それは本当にそうなんだけど、それはそれとして思春期に強烈に憧れた人はやっぱり一生神だと思う。
今から15年ほど前はマッチングアプリもなく、メル友募集サイトで歳の近い女の子と知り合った。俺は大学院生で忙しかったが、その子とのメールが良い息抜きになっていて、家の割と近かったので何度か会って遊んだり、花火に行ったり、有名アニメの聖地と言われる店に行ったりもした。自分を処女だと言っていて、捨てたいとも話していた。
同じパズルゲームが好きと聞いて、家で遊ぶことになった。女が家に来るなんてことは初めてで、部屋に吊してあるパンツは隠した。駅まで迎えに行き、夏の暑い昼間にケーキ屋によったりしながら家にもどった。
俺はベッドに腰掛け、その子はとなりの床に座りながらゲームをしていた。接待プレイしてよと言われていたのに、うまく手を抜くのが難しく、俺の勝ちが多かったと思う。
ケーキを食べた後くらいから、眠たい、疲れたといいながらころごろしだし、トイレに立つ頻度が増えた。さすがの俺も淡い期待を抱いたが、脳内ヤレルカモ委員会が出した答えは様子見だった。彼女がベッドに腰掛けてきたら海鮮だと思い込んだ。
結局彼女がベッドに腰掛けることはなく、俺の作った簡単な晩御飯を食べて帰って行った。別れ際にお互い微妙な間があったと思う。メールの返信の頻度はこれを機に激減し、再会するのは1年後だった。
今から15年ほど前はマッチングアプリもなく、メル友募集サイトで歳の近い女の子と知り合った。俺は大学院生で忙しかったが、その子とのメールが良い息抜きになっていて、家の割と近かったので何度か会って遊んだり、花火に行ったり、有名アニメの聖地と言われる店に行ったりもした。自分を処女だと言っていて、捨てたいとも話していた。
同じパズルゲームが好きと聞いて、家で遊ぶことになった。女が家に来るなんてことは初めてで、部屋に吊してあるパンツは隠した。駅まで迎えに行き、夏の暑い昼間にケーキ屋によったりしながら家にもどった。
俺はベッドに腰掛け、その子はとなりの床に座りながらゲームをしていた。接待プレイしてよと言われていたのに、うまく手を抜くのが難しく、俺の勝ちが多かったと思う。
ケーキを食べた後くらいから、眠たい、疲れたといいながらころごろしだし、トイレに立つ頻度が増えた。さすがの俺も淡い期待を抱いたが、脳内ヤレルカモ委員会が出した答えは様子見だった。彼女がベッドに腰掛けてきたら海鮮だと思い込んだ。
結局彼女がベッドに腰掛けることはなく、俺の作った簡単な晩御飯を食べて帰って行った。別れ際にお互い微妙な間があったと思う。メールの返信の頻度はこれを機に激減し、再会するのは1年後だった。
ふとした時に同年代、同じ知識レベルのコミュニケーションがしたいと思い、メル友募集の掲示板で募集してみた。
どうせなら、軽いオタクっぽい自分と同じか、ベクトルは違えど同じ熱量のある、異性と友達になりたいと思って、「ポップカルチャーに理解のある方と友達になりたい」と書いた。
サブカルチャーと書かないところがちょっと自分見栄っ張りだと思ったけど。
そんで3人からメール貰ったんだけど、みんな真っ当な人っぽくて、いい大人の社交辞令っぽいやり取りが続いてしまっている。
私は80~90年代のオタクっぽい話をしたいんだけど、なかなかそっちに話題を振り辛い。
推敲してないので途中で口調が変わるけれど許して。ブームが去る前に公開しておきたい。
2000~2001年の話です。そのとき生まれた娘は健康に育ち独立して離れた場所で生活。私は当時の夫とは娘が1際の時に離婚し、その後、娘の高校卒業と同時に別の相手と再婚しました。
前情報だけでおわかりの通り、産後の恨みが原因で離婚しました。そして産前から出産の時も含めて広い期間ダメダメだったので、『産後の恨み』どころか『出産前後およびその他諸々の恨み』が正しいかも。今はもう相手のことを恨んでいることはありませんが、それはスッパリと関係を断ち切ったからであり、今でも共同生活を送っていたなら、頭の中でグチグチと恨みを反芻させ骨髄に入るまで温存させていたでしょう。
当時の夫とはデキ婚でした。この時点で当時の自分を説教したいのですが二十歳そこそこの世間知らずの恋愛脳だった自分には、説教したところで、どんな言葉も右から左に貫通していったこと間違いなし。ほんとにしょうもない。体験して失敗しないと脳に染み込まない。本当のうえで理解したのは全部が終わって数年たったころだったと思う。相手もまた1歳年上の二十歳過ぎたばかりのペーペーです。
この時点でアカンと思うでしょ。私も書いてて「こりゃ、アカンわ」と思ってる。
とにかく妊娠をきっかけに結婚し、新居として安アパートを借り新生活開始。妊娠による体調不良であれよあれよと働けなくなり退職。
田舎だったこともあり『育休産休』という制度はあっても実際に取っている人が周りに居なかったため、辞める以外の選択肢があるなんてその時の自分には思いもよらなかった。男性だって明らかな労災でも自己負担で病院に行ったりしていたのが普通だったため、そういうものだと思ってました。
というより育休とる以前に、安定期入る前に何度も貧血を繰り返し、ホルモンバランスが崩れて顔・体全体にアトピーが出てしかも赤ちゃんのために薬も飲めず、肌がグルート(ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーにでてくる木のやつ)みたいな見た目になって人前に出るのがまず精神的に無理になった。膿んで乾いたカサブタが、振り向くたび、お弁当を食べて大きく口を開くたびにこぼれてデスクの周りが汚れた。客前に出ることはおろか、お茶を淹れることも、書類仕事にも支障が出た。上司(女性)からはその都度迷惑そうに「もうお茶淹れなくていいから」「書類汚れてるので、長袖かつ手袋できないだろうか」「また貧血? もう帰ったら?」と言われた。
「働きたかったけれど、働けなくなった」という気持ちは微塵もなく、逃げ出すように退職して、もう人前に出なくて済むと思ったのが当時の心境。自分視点で書いてるから被害者っぽい書き方になっちゃうけれど、上司視点から見て私は困った対象だったと思う。ギリギリの人員で回している仕事を私の都合で滞らせていたので、迷惑だっただろうなと。当時は優しい言葉をかけて欲しかったけれど、求め過ぎな気がする。今、自分は同じ立場になって、昔の自分のために当事者に気遣いの言葉をかけるようにしている。
ホルモンバランスが不安定で誰にも会いたくない状態で病院通いだけしていたころ、夫の友人がお祝い持って当日にアポ無しで現れた。
こんな顔で人になんて会いたくなかった。しかし部屋が汚かったので、リビングに座ってもらいながら大急ぎで片付け、その周りの掃除機をかけた。すごく迷惑そうな顔をしていたと思う。夫友人が少しだけ話しをして申し訳無さそうにお祝いを置いて帰ったあと、夫には「せっかくお祝い持ってきてくれたのに」と小言を言われた。自分自身も申し訳ない気持ちになって落ち込み、具合が悪いからと部屋で休んだ。
8時過ぎに目が覚め、夕飯を用意してなかったことを思い出して、「ごめん、夕飯用意してなかった」とキッチンへ行った。夫は優しい気遣う声で「気にしなくていいよ。もう食べたから」と。シンクにはカレーヌードルの汁だけ入った箸の刺さった容器と、お湯を沸かしただけなのに、そこら中にお湯が飛び跳ねている状態になっていた。もちろん外装フィルムもそこに横たわっている。なんならストックしてないはずのパックご飯のカラもあったし、ゲームしてる夫の脇にはポテチもあった。コンビニで買ってきたのだ。そして私の夕飯はもちろん買ってきておらず。
その光景だけ見て、私は脱力し再び寝室に戻った。夫から「〇〇(私)の分どうする?」という言葉もなく、朝起きたら、ゴミはゴミのままそこにあった。私のことを気遣ってほしかったし、自分で出したゴミは自分で捨てて欲しかった。けれども、当時は言葉にするのも面倒で、ただ黙ってゴミを捨て、キッチンをキレイにしてから朝ご飯を作った。
夜の生活も続いていた。妊娠のある期間は中出しOKのボーナスタイムという知識はあったらしい。
それで妊娠はしないものの、出されたものがそのまま留まってくれるでもなく、しばらくして排出されたものをトイレで流す必要があって億劫だった。ゴムをしているときより滑りが良いと判断したのか、回を重ねるごとに前工程が雑になっていって辟易した。ついにはキス、胸、即挿入になってビックリした。今、書いてて不思議に思うけれどグルート肌の女を良く抱けたな。
そして臨月。お腹が大きくなって寝返りもうてなくなった。腰も痛いし、便秘になるし、車に乗れば車酔いするし、妊娠期間中は種類の違うあらゆる不調が手を変え品を変え一身に降り掛かった。体型が変わって服も替えなければならなかったが、幸いなことにホルモンも安定期に入ったらしくこの頃には、「ちょっと肌荒れが酷い人」くらいまで回復した。買い物している時、重い荷物など明らかに大変なものは持ってくれたが、かがむ必要がある軽いダンボールなどは放置され、お願いすると「これくらいでも?」と言われ、「これくらいでも」と返した。夫のぺったんこのお腹が恨めしかった。
そして出産。予定日になっても生まれず、あらかじめ病院に入院して陣痛促進剤を打って臨む運びとなった。前もって出産日がわかるというのはありがたい。夫は有給をとって分娩直前まで一緒に居てくれることとなった。(立ち会い出産は断られていた。このころ周囲でもテレビでも今のように「立ち会いがむしろデフォルト」のような時代でもなかったので、そういうものかと受け入れていた)
朝一番から付き添ってくれるハズが夫は来なかった。夫が居なくても処置は進む。促進剤を入れ、やがてジワジワと兆しらしい変化が現れ、そして昼過ぎには痛みは最高潮。それが夕方まで続いた。
夫が現れたのは14時過ぎ。あとで聞いたところ朝方までゲームしていて寝過ごしたそう。出産までの陣痛マックスの時も夫は病室の隅っこの椅子にちょこんと座り、手を握ることもしてくれなかった。原因不明で子どもの心音がとまり、慌ただしく右往左往する先生や助産師さんの邪魔にならないようにしたかったのかも。メチャメチャ苦しがってる私に何をすればいいのかわからなかったのかもしれない。夫は部屋の隅で怯えていた。
原因不明の心停止は、あるとき突然原因不明のまま復活。そして分娩。生まれた。
いざ、産み落とす!となった瞬間から急に助産師さんが鬼軍曹になって叱咤してきて、まじでビビった。命に関わることなので、それくらい追い立てなきゃスムーズにことが運ばないんだと思う。それは出産後の入院時期にも続き。いろんな助産師さんがいる中で、比較的若い人は穏やかに、経験値の高そうな人ほど厳しくビシビシと授乳や寝かしつけ、沐浴などの指導がされた。(そして点滴やらおっぱいマッサージやらは、そういう厳しい人ほど巧い) 結婚する以前までは、自分の目指すべきところは『プリンセス』にぼんやり置いていたけれど、出産した直後からは『ソルジャー』になることを求められた。そうしないと子供が死んでしまう。強く賢く逞しくならないといけない。生まれたての弱々しい我が子を抱いて、自分の目がカッと見開いたような気持ちになった。
入院中、夫はあまり見舞いに来なかった。義両親が来た時に案内して少し話してすぐ帰宅。2~3週間の入院期間の内、来たのは3回くらい。夫が毎日会社帰りに寄って、面会時間ギリギリまで一緒にいる同室の夫婦たちを眺めていたので羨ましかった。
退院の数日前、夫に「◯日の◯時に、車で迎えてにきて欲しい」とお願いしたら、「出産日に休んだので、会社に申し訳なくてもう休めない」と言われた。は? 真冬に、新生児を抱えて、2週間分の入院の荷物と、これからのためにと持たされたオムツやら何やらを一人で家に持ち帰れと???? 私、ついこの間、股が裂けて縫っているので、重い荷物とか持って踏ん張れないんですけど?
退院日なんて入院する前から決まってた。しかも出産日に休みをとったって、お前現れたの午後じゃん! ゲームして寝坊してきて、来たあとも全っっっっ然、役に立たなかったじゃん! 実際の処置は医療者じゃなきゃ無理にしても、励ましの言葉もかけてくれなかったじゃん。さすがにキレて怒った。そしたらキレ返された。「お前に俺の何がわかる!」
全然わからない。苗字も体調も体型も仕事も生活も変わらず、私がこれまで持っていて失ったものをほとんど失わず、健康体で子供のことを気にせず働けて、余った時間でゲームを楽しめる人の気持なんて何一つ。
結局、退院日は母にバスで来てもらい、帰りはタクシーを使った。
帰宅後、愕然とした。部屋が寒かった。お互い地元で結婚し、新居を構えたのでそれぞれの実家が近い。私の入院中、夫は実家に帰ってご飯を食べそのまま寝泊まりをキメていた。人の住まない北国の部屋はひときわ寒い。そしてうっすらとそこら中に積もった埃。休日は家でゲームを過ごしていたらしい場所だけ埃はなく、人型にそこだけ綺麗だった。ゲームもドライヤーもコップも出しっぱなし。何かあればうっかり死んでしまう新生児が私の腕の中に居た。「赤ん坊をウィルスから守って」と言われた退院していた。ストーブを焚き、母に子供をみてもらいながらそこら中を掃除をした。この件に関しては怒ったら素直に反省してくれた。キレ返さないだけでも嬉しかったのを覚えている。
さて、ここから季節が変わるまで記憶が定かじゃない。どうやって新生児期を乗り越えたのかとんと思い出せない。若くして子供を産んだこともあり、体力があった。「母親になった。子供を死なせちゃいけない」という、これまでにないプレッシャーにアドレナリンみたいなものがドバドバ出ていたと思う。夜泣きも平気だったし、数時間おきの授乳も辛いとは思いながらも、病院で指示されたとおりにやれた。私は助産師さんからの指導の甲斐あって『ソルジャー』にクラスチェンジしてたのだ。ある時、友人に誘われコートを着て買い物に出たら、「え、なんで暑いの? 空気が張り詰めてなくて穏やかなんですけど!!?」となって春の訪れを知った。
夫は沐浴とか『これは父親の役割』という分かりやすいことはやってくれた。混合で育てていたので、哺乳瓶での授乳もお願いすれば嫌な顔せずやってくれたし。夜泣き対応も、私の腕が限界になればやってくれた。当時はありがたいと思っていたけれど、今の価値観だと足りてないですね。
ある時、子供に急な発熱があって、でも保険証は夫のカバンに入っていたため、職場に行って受け取り、その足で病院に行こうとした。夫の職場で子供を抱えながら自己紹介し、夫を呼び出すようお願いしたら「この一週間、無断欠勤してます」と。
夫には結婚前から借金があった。遊ぶ金欲しさにどうするアイフルしていたのが発端。会社に返済催促の電話がかかってきて、そこから居づらくなって行ってないと言う。どうして黙っていたのかと問いただしたら「◯◯(私)や、生まれてくる子供のことを考えたら言えなかった。二人を幸せにしないと……と思って、隠し通さなきゃと頑張ってた」と。当時、ニュースで取り上げられてた多重債務の地獄に落ちていた。闇金だ。
それから義両親も巻き込んで話し合い、アパートは引き払って夫の実家で暮らすことになった。生まれて半年くらいの子供は私の実家に預けて私もパートに出た。
この時、社会問題化していたものの、今のように銀行は個人ローンはお断り(家や車を買うのや学資はOK。債務の一本化などは受け付けられませんと審査すらしてもらえなかった)、弁護士が『債務整理承ります!』と宣伝打つようになるのも、もっと何年も先の話。家族ぐるみでひたすらその月、その月の返済に追われた。
正直、アパートでのほぼ子供と二人きりのような暮らしに飽き始めていたので社会に出られることはありがたかった。新生児がいては気軽に出かけられず、夫は帰宅して夕飯を食べたら即ゲーム。こちらから話しかけないと会話が始まらないことがストレスだった。今のようにスマホがあったわけでもなく、重いデスクトップPCを起動して、ピーヒャラーと電子音ならしてネットに繋いでいた時代。世間とのつながりはほぼテレビで感じていた。『ダサいダンナ改造計画』とか、今となっては炎上しそうな内容ですら、貴重な娯楽となっていた。もともとソロ活が得意な方だったものの、自分から一人で過ごすのと、強制的に社会から断絶させられるのとは違う。いつの間にか「外で働きたい人」になっていた。もちろん、子どもは可愛かったけれど、ほとんど寝るか泣くかご飯を食べるかの暮らしで、コミュニケーションが取れるようになるのはもう少し先だった。
それと専業主婦の立場に居心地悪さも感じていた。自分のお金で稼いだものじゃないので、ちょっとしたおやつや趣味の雑誌を買うのも躊躇していたのだ。
自分の稼いだお金で子供の服を買ったときにちょっと感動すらしてしまった。結婚前は当たり前だったのに、自分の稼ぎで必要なものを買うことの『当たり前』に『誇らしさ』がオマケでついてきた。とはいえ、結局稼ぎの殆どは夫の借金返済に充てられていたのだが。
あと外に働きに出て、ある程度自分の裁量で物事を決め、今後の見通しが立てやすい作業は子育てに比べてとてもやりやすかった。
そして夫実家で近居の義兄からこっぴどく叱られたことがあった。義兄もまた夫の作った借金のため金策に励み、会社をクビになった夫の働き口を探してくれていたのだ。それを知らず、夫婦で食材の買い物に行き、やってきた義兄に対して、義父が『二人で遊びに出かけてる』と伝え、激怒された。
こっちが苦労して東奔西走している間に、遊びに行くとは何事だと。家庭を持つことに対する自覚がなさ過ぎると。
遊びに行ってたわけではないのだが、自覚がないというのは最もだ。もっと『夫を』怒ってくれ……と思っていたら、私も一緒に叱られた。夫が私に黙ってこさえた借金は、親子三人の生活費にも使われていたため、周囲から見れば私も同罪だったのだ。今となっては「それはそう」と思うけれど、その当時の自分にとっては「そうなの?」という気持ちでいっぱいだった。私は自覚のないまま、分をわきまえない借金をこさえた大馬鹿者になっていたことにこのときようやく気付いた。一緒に買物に行って、私のカバンに商品を入れて万引きした絶縁した友達を思い出した。夫は私が叱られている間、ずっと「カミナリがこちらに降りかかりませんように」と空気になっていた。義兄の帰宅後もフォローはまったくなかった。この時、夫の中では「お前のせいで借金が膨らんだ」と思われていたのだ。
その後も夫は新しい職場でもうまくいかず、家出もした。もうこの頃には「怒って詰めたら、話し合いまで発展しない」と分かっていたので、諭すようにこれからのことを話した。……が、「もう無理。人間はそんな簡単に変わらない」と弱音しか吐かなくなり、ついには「お前、変わったよな」と言われた。私は出産をキッカケに『ソルジャー』になった。しかし夫はまだ私に『プリンセス』を求めていた。
家出中に何をしていたのか、今後のために携帯のチェックをさせてもらったら、出会い系に登録していた。この頃は『メル友募集』とかそういうヤツだ。実際に出会うところまではいってなかったけれど、出会おうとしているところまでは確認した。夫は自分を慰めてくれる『プリンセス』を探していた。
そこからは自分の実家を頼り、出戻ってお互いの両親を交えて話し合い。養育費が払えるとは到底思えなかったので、最初から請求せず。代わりに面会もさせない運びとなった。夫はその頃にはもうとにかく「自分だけがかわいそう。この世のすべてが自分を傷つけにくる敵」みたいな状態に陥っていたので、子供に執着もなく揉めることはなかった。生活の中で新しく二人で買った家電や生活雑貨はすべてこちらで引き取ることとなった。ほとんどは私の独身時代の貯金から出していたので異論はでなかった。しかしプレステ2だけは譲ってくれなかった。それくらいの執着を私と娘にも向けてほしかったと思う。
若気の至りで周囲の人に迷惑をかけた。その恩返しではないけれどやがて訪れた実父の闘病生活はできる限り付き添い、実父が亡くなり一人暮らしになった実母にも、今も頻繁に実家を訪れ日常の買い物や困り事を解決したりしている。(義父除く)義実家は一緒に暮らしている間によくしてくれたので、今でも申し訳ないと思っている。孫の成長も見せたかったが、連絡を取らない取り決めに巻き込んで会わせていない。
いろいろ私視点から書いたので夫の言い分もあると思う。振り返ると二十歳過ぎたばかりのアンチャンには荷が重すぎたとも思う。
夫には良いところももちろんあったし、私にも至らない点が多々あった。さらに離婚することで借金から逃げたとも言えるし、今の価値観で判断すると、子どものために養育費は請求するべきだったかもしれない。
長々と書き綴ったアレコレもそれぞれが離婚の原因にはなったものの今となっては大方許せる。時が経てば大抵のことはどうでも良くなるし、人を恨み続けるほどの胆力は、その後のシングルマザー人生で別のところで必要になったため雲散霧消した。
でもそれでも出産日に寝坊して遅刻してきて退院の時に迎えに来てくれなかったうえ逆ギレしてきたことと、借金を隠して、さらにその理由に「私と娘のため」と発言したことは、今でも絶対許さないと思っている。
コメントくださりありがとうございます。
数年かけて話し合った上で10年寄り添った人と別れたため、条件の合致も重要と考えています。
他に必須の条件はなく、「異性として魅力を感じられて、価値観の合う人がいいな」と思っているのですが、
そんなの皆そうだし何も言っていないのと同じなので/
お互い不特定多数と繋がれる婚活の場で「条件をつけずまずはお話してみる」は現実的ではないので、
上に書いた条件があり、以下の順で優先しています。
年齢:変えられないからこそ重要、大きく年上は将来が不安。年下についてはもっと柔軟に考えるべきかも
外見的魅力(変えられない部分):変えられないからこそ重要、逆に変えられる部分は変えればいいのであまり気にならない
年収/社会的能力:大切ではあるが、年収が低くてもOKな例はたくさんあるので条件としての機能は弱い
趣味の合致:大切ではあるが、新しい趣味が始まる可能性もあるので条件としての機能は弱い
居住地:写真を送って晒されるリスクが怖いのでお会いできる距離がいいけど、顔を知らないままやり取りしてメル友止まりでも構わない
マッチングアプリとは別の出会い方も試したく、増田婚活をしてみることにしました。
婚活中の男性からのコンタクトや、そうでない皆さまからのアドバイスをいただけましたら嬉しく思います。
31歳/東京在住/ 153cm/ 38kg(増量予定)/年収600万/国立大卒(社会学専攻)
お酒弱い/タバコ吸わない/黒髪ボブ/ 外見とコミュ力は普通だと思いたい(注1)
売りにできる外見ではないもののお会いした方からはまた会いたいと言っていただけるので、最低限の足切りラインはクリアしている…と思いたい
31~36歳/東京~千葉で会える/子供を持たなくてもいい/ お互いの条件についてメールで話せる(注2)
(注2) (修正) 好きになるのには時間がかかる一方で合わない部分は一瞬でわかることもあるので、
そういった条件に関しては早めにぶっちゃけトークをしたいです。
ここに書いていたのですが傷つくという意見があり、取り下げました。申し訳ありませんでした。
(注3) ただ、仕事が好き/社会を生き抜く能力がある/転職できるスキルがある等の要素には魅力を感じます
かなり質素な方だと自覚しているのでパートナーに強いようとは思いませんが、
基本スタイルとして「贅沢を楽しみたい」より「ささやかな幸せを見出したい」派の方が合うかと思います
大体なんでもおいしく食べられます/ 高級店が苦手/外食より自炊派/
手料理は地味になりがち/中東料理やメキシコ料理などやや変わったものも作ります/
健康によいものが好きですが、ピザパーティーや深夜のラーメンも楽しめます
週末の外出は隔週に1度くらいが理想/インドア派/ お家大好き/
出掛けるとしたら映画館・現代美術(意味不明なものの解釈をあれこれ言いたい)・キャンプ・海・山・夜のお散歩等/
一緒に暮らしたい/ たとえば
・外で面白いものを見つけたら写真を撮ってLINEしたり「早く帰って話したい!」と思ったり
・ポップストアでちょっといいスイーツやお惣菜を見つけ「買って帰ったら喜ぶかな」と想像して
→買って帰って、食後にお茶をいれて食べながらお喋りしたい
・問題が起きたら話し合いたい
→ネガティブな感情や価値観の違いも認め合って、長く一緒にいることを前提に向き合いたい
・キャンパー/バイクやドライブが好き/登山好き/筋肉質/副業・起業している
→興味と憧れがあり、いろいろ教えてほしいです
→(追記)重要ではない/自分になくて魅力を感じる要素の例です
・リモートワーカー
→アウトドアにも興味があります、と言いたかったのが、アウトドア派を求めているみたいになってしまいました
憧れもありつつ、以下のような発想の方は、私との相性でいうとちょっと違うかも
・せっかく旅行するならその土地でしかできないグルメやアクティビティを目いっぱい楽しみたい!
・なんだかんだ高校生の頃から使っているので、私らしい場所=相性の良い人に出会えるかも
・少なくとも考えを整理できるし、失うものはない
・知らない人の書いた文章を読むのが好きな人/匿名でなにか書こうと思う人が好き
恋愛系のエントリから「こんな関係になりたい」というものをピックアップしました
→大学から10年付き合った人がいたけれど、子供がほしい/ほしくないで別れる
→どんな人とうまくいくかわからず、それからずっと右往左往しています
1人目は条件的な部分が合致すれば好きになれると思って付き合ってみたもののそうはならず、
2人目はスペックをまったく見ずフィーリングで付き合ってみたけれど育った環境の違いが障壁になり、
3人目は諸々違和感のない人だったけれど、彼にとって私は理屈っぽすぎ、私にとって彼は話合いのできない人で…
洋画派/字幕派/SFやサスペンスが特に好き/ 痛いシーンが苦手
有名どころだと「メッセージ」とか「TENET」とか
not有名どころだと「ランダム存在の確率」とか「スウィング・オブ・ザ・デッド」とか
要約すると「お家にいるままできる旅行、それが移住」という感じです
正直に言うと特になくて、村上春樹の話をするか直近で読んだ本の話にすり替えるかすることが多いです
直近で読んだ本は「山女日記(湊かなえ)」「モーム短篇選(サマセット・モーム)」「婚活戦略(高橋勅徳)」です
心身の面でも経済的な面でも支えになりたいので、質素な生活を基準にですが二人分の生活費を賄える仕事をしています
極端に細くはなく、筋肉が少ないのと骨格が小さい?のとで見た目のわりに低体重なのかなと…
最近は意識的に食べていて、ジム通いでメリハリボディを目指しています
フムス(ひよこ豆のペースト)/タブーレ(パセリのサラダ)/ ブルグル(小麦の粒)のピラフなど
同性では絶対ダメということもないのですが、同性で長期的に一緒に暮らしてくれる/支え合えるパートナーを探す方が難しいと思っています
子供がほしくない=性的なことに興味がない、というわけでもないし、一緒に寝たり甘やかしあったりしたいです
ほしくない理由があるというより、ほしい理由がなくて、だからリスクやコストが気になってしまって…
ほしい理由がないのは本能の問題で、自分で選んで決めたというより、そのように生まれた感覚です
(恋愛対象が男性/女性/他であることに理由がないのと近いと思います)
幼少期にトラウマがあるとか家族関係が複雑とか、そういった事情は特にありません
家賃5+食費2+光熱費・通信費1.5+その他雑費1.5くらい
将来的にも同居の予定はなし(親も望んでいないらしい)/
パートナーの家族ともこのくらいの距離感だと感覚が合いますが、先のことはわからないので事情に応じて/
いざというときは支えになりたい/ 兄が一人と実家にカメが2匹います
一方で、誰かと長く一緒にいたいとは思っていて(いろんな人と遊びたいとは思っておらず)、
その場合には、するメリットはあっても、しない理由はないとも思う。同じように思ってくれる人がいい
ずっと一緒にいると約束できる/家族が喜ぶ/世間のプレッシャーから解放される/
一時的な感情で別れずに済む/ 一度手続きを済ませれば、以降の手続きは簡素化される
数年かけて話し合った上で10年寄り添った人と別れたため、条件の合致も重要と考えています。
他のことは「異性として魅力を感じられて、価値観の合う人がいいな」と思っているのですが、
そんなの皆そうだし何も言っていないのと同じなので/
お互い不特定多数と繋がれる婚活の場で「条件をつけずまずはお話してみる」は現実的ではないので、
上に書いた条件があり、以下の順で優先しています。
年齢:変えられないからこそ重要、大きく年上は将来が不安。年下についてはもっと柔軟に考えるべきかも
外見的魅力(変えられない部分):変えられないからこそ重要、逆に変えられる部分は変えればいいのであまり気にならない
年収/社会的能力:大切ではあるが、年収が低くてもOKな例はたくさんあるので条件としての機能は弱い
趣味の合致:大切ではあるが、新しい趣味が始まる可能性もあるので条件としての機能は弱い
居住地:写真を送って晒されるリスクが怖いのでお会いできる距離がいいけど、顔を知らないままやり取りしてメル友止まりでも構わない
嬉しいです!メールください。友達希望と明示いただけたら助かります。
これまでのところ大変有難い形で進んでおり、投稿してよかったと思っています。
経過報告はこちら:anond:20230814175244
Permalink |記事への反応(73) | 16:39
父親がパソコンオタクだったため、我が家にはニフティサーブのサービスインと同時にネットが導入された。俺はまだ中学生だった。
最初はジオシティーズに個人ホームページを作るなどして遊んでいただけだったが、メル友募集掲示板というものに出会ってしまい、もともと文章を書くのが好きだったこともあってハマってしまった。
当時のメル友というのはPCを使って長文のやり取りをするもので。後にくるケータイ時代の常に短文をやり取りするスタイルとは根本的に異なる。いわば文通に近い。
どこに住んでいるかもわからない相手と近況を報告し合ったり、本や映画について踏み込んだ感想を交換したり、そのメールの返事がいつ届くのかじりじりして待ったり。現代からするとだいぶレトロな世界観だが、ネット自体が普及しておらず、調べ物は図書館、待ち合わせには念入りな調整が必要で、大都市の情報は雑誌や新聞が頼り……そういう時代だったから、メル友との交流は最先端を感じささせた。
ブラウン管の向こうに世界があり、そこには人間がいて、俺とそいつが繋がることができる。
現代のデジタルネイティブには理解してもらえないかも知れないが、個対個のネットワークがあることは全然当たり前なんかではなかったのだ。
その後すぐに出会い系サイトの宣伝スパムで汚染されて壊滅するが、その少し前の話だ。俺はそこで同年代の異性数人を見つけてメールのやりとりをしていた。下心があったわけではないが、やはり心のどこかでロマンスを期待する気持ちもあったかもしれない。
実際その中のひとりとは3年にわたってメル友関係が続いた。仮にちーちゃんとするが、このちーちゃんとはかなり親密な関係だったと思う。お互いだいたいの住所から家族構成、趣味嗜好まで知っていたし、誕生日やクリスマスなどのイベント時にはチャットで長時間やりとりしてて、言葉にはしないまでも会いたいとお互い思っていた気がする。
時は流れて高2の頃、俺が東大を目指そうかな〜という話をしたことで、その流れが本格化した。
東京の西の方在住だったちーちゃんはそう言って応援してくれた(実際には増田は受験に失敗し、鬱を発症し浪人した挙げ句日大を出て零細企業を転々とする人生を送り、はてなブックマークが唯一の趣味の独身アラフォーである)。
俺は受験勉強に打ち込み、しかし週に2,3往復のちーちゃんとのメールは続けていた。
ところで俺はネットにだけ傾倒していたわけではなく、学校でもまあ普通に生活していた。カースト色の薄い学校だったこともあって、ギーク寄りの仲間とのんびりと生活できていた。特に仲が良かった男を田中とするが、こいつは曲者だった。遅刻魔であり地頭はいいのにテストは苦手、思考に口が追いつかなくて口下手、ときおり突拍子もない事をやって周囲を驚かせるという有様で、今で言う多動型のADHDだったんだと思う。
何の話だ?と思った。知らない名前だったからだ。しかしすぐに嫌な予感がして、
と聞いた。ビンゴだった。田中は何らかの方法でちーちゃんのメールアドレスを入手し(当時はシステム的に侵入を許したかと思ったのだが、後に調べたら他のクラスメイトに宛てたメールのCCにちーちゃんのアドレスが混入していたことがわかったので多分俺が悪い)、メールアドレスから俺がたまに話していたメル友だと察知し、偶然を装ってメールでやり取りを繰り返し、会うところまでひと月で漕ぎ着けたのだった。俺が本名さえ知らなかったちーちゃんと。
ショックだったのと同時に、田中の行動力に感心もした。ド田舎の高校生にとって東京まで往復するのは時間的にも経済的にもハードルが高い。しかし行動したから田中はちーちゃんと会えたのだ。
俺は何事もなかったふりでメル友を続けたが、ちーちゃんの熱量があからさまに落ちているのがわかった。メールの頻度も減った。それもそのはずで、その後も田中はちーちゃんと月に2回のペースで会っており、正式に付き合うことになったと田中から報告を受けた。その後に続いた
という童貞卒業の感想もボディブローのように効いて、この頃を境にちーちゃんとの関係は俺の方からフェードアウトしてしまった。
俺にとってちーちゃんはあくまでネットの向こうの、本と映画が好きな誰かであり、淡い期待そのものであり、それだけだった。
しかし数年後、俺の大学の文化祭に田中がちーちゃんを伴って遊びに来た。
ちーちゃんは俺の想像よりも小柄で垢抜けた今風の短大生だった。店番をしていた俺はぎこちなく短い会話を交わしただけだったが、田中が言うにはちーちゃんは後に俺について「なんか怖かった」と感想を述べたという。当時の俺がアート系の学部の雰囲気に影響されて髪の半分を緑に染め夕方でも黒いサングラスを掛けていたからかも知れない。
その後あっけなくちーちゃんと別れた田中はアムウェイで一財産築き、会社を立ち上げるために地元に帰ったが津波で流され、生存は絶望的かと思われたが何故か身分を偽って大阪でパチスロ系Youtuberとして生計を立てているのが同級生によって発見された。
田中の家族の頼みで俺は一度だけ大阪まで田中を連れ戻しに行った。痩せ型だった田中は別人のように太って、肌は土気色だった。しかし話すことは間違いなく田中で、スロットで金を貯めてアフガニスタンに行くと言っていた。その言葉通り田中は地元へは帰らず、ペルーへ渡って交通事故で死んだ。
なあ田中。
お前は何だったんだ。台風か何かなのか。ふざけんなって。
もう15年ぐらい前の話なのでうろ覚えなところがあるが出会いはネットゲーム。何かの拍子で知り合ってリアルに住んでるところが近いことがわかって、連絡を取り合うようななった。ただメル友なだけで実際にリアルで会うことも無かったし、会おうとも思ってなかった。ネットゲームで知り合ったが、ゲーム内でつるんでる人が違ったこともあり絡むこともなかったし、あまりやらなくなってた時期と重なってほぼメールだけになってた。メールはほぼ毎日やり取りしていた気がする。相手の人は、日記のようなブログも何個かやっいて、それを見ていたのを覚えている。ブログもやり取りしてる間に二回ぐらいかわっていた。
知り合ってから一年以上経ったある日ブログを訪れると、ストーカーされているかも。みたいなタイトルで新しい記事がアップされていて、読んでいくとどうやら、自分の ことが書かれているようだった。判断したポイントは2つ、一つは、毎日連絡してくる。二つ目は、言ってないブログを知っている。というもの。
メールに関しては、ブログではあたかも一方的に送ってくるかのように書いているが実際はメールが返ってきて、それのメールを返しているだけで、「送ってこないで」ともスルーされる事もなくやり取りしていた。ブログに関しては複数のブログをやってるが、それぞれのブログがリンクされてるので、普通に見てたら新しくなったのが分かるんで見てただけだった。
だから最初にその記事を見たときはショックだった。こんな人にネットストーカーだと思われていることにプライドが傷ついた。それ以降メールも送らなくなったし、ブログも見てないから、なんて言ってるかは知らないが、被害者になりたがる人がいるんだと思った出来事だった。
当方男。大学時代の友人で、彼が地元に帰ってしまったためそれ以来、ずっとメル友な友人がいる。(かつては本当にメールだった。今や、lineばっかりだけど。
彼が最近、飯の写真ばっかり送ってくる。自炊した料理だったり、近所の街中華で撮った写真だったり。
悪いけどそれ、1ミリも興味ないんだわ。もう、送ってこないでくんないかな?もしくは、ついったーでやれ。または、家族に送れば息子からの頼りに喜ぶんじゃないか?
日本人って飯の話ばっかりしてるよねって昔、ALTの先生が言ってたけど、そんなちゃちなもんじゃねぇ云々。
お互いにもうアラフォーだし、友人も数少なくなってきたから、やりとり自体をやめたいわけじゃないんだけど、さすがに一言返すのもだるくなってきた。何か穏便にやめてもらえる方法はないだろうか。
または、何の意図で送ってくるのか考えてくれないか。知り合って十数年、今更俺を口説きにきたわけでもないだろうし、何かライフハック的なネタも、自慢するようなネタも感じられない。
まだ、帝国ホテルとかのビュッフェならわかる。マウンティングと言う人もいるだろうけど、その方が遠い世界な分、反応はしやすい。