はてなキーワード:ミスマッチとは
https://anond.hatelabo.jp/20250305202735
了解しました。ここでは、彼が挙げた「ギルドの受付嬢ですが、残業は嫌なのでボスをソロ討伐しようと思います」に対する評価を、
肩入れも否定もせず、ニュートラルな立場から客観的に見て分析します。彼の発言を基に、彼の視点の妥当性や作品との関係を、事実ベースで整理します。精神分析は入れず、純粋に評価内容に焦点を当てます。
彼は「ギルドの受付嬢」の1話を見て、「接客中にイラッとするポイント」に違和感を感じ、「この作品ダメそう」と判断しました。
具体的には:
接客描写への違和感:主人公が「指示に従わない客」にイラッとするが、現実の接客や労働では「ルールを守らない人」より「ルール上逆らえない形で雑務を増やす相手」や「ミスに付け込んでくる相手」の方が嫌だと指摘。
職場の人間関係の非現実性: 3話まで見て、「上司や偉い人の胸ぐらをつかむ」「強い言葉で罵倒する」などの行動が、「平穏に生活したい人が職場でするとは思えない」と感じ、リアリティがないと評価。
労働描写の欠如: 「人間関係が利害で縛られ、部分的に守られている」という職場の現実が描かれていないことに不満。
最終的に、「子供だまし」に分類し、「耐えられない幼稚さ」「キャラの薄っぺらさ」で見るのをやめたと結論づけています。
彼の主張:主人公が「指示に従わない客」にイラッとするのは、現実の接客経験者や勤め人が感じるストレスポイントとズレている。「ルールで対応できる相手」は楽で、むしろ「ルール外の嫌な相手」がリアルな不快感の源だと。
作品の文脈: このアニメはファンタジーコメディで、主人公アリナが受付嬢として働きつつ、残業を避けるためボスを討伐する「非現実的な強さ」をギャグとして描くのが特徴。
1話では、彼女が客の態度に苛立つシーンは、彼女の「残業嫌い」という性格を強調する導入部分。
客観的視点: 彼の言う「現実の接客ストレス」と作品の描写は確かにズレている。
現実では「マニュアルで対応できる客」は楽かもしれないが、アニメでは「指示に従わない客」を「面倒な存在」として描き、視聴者にアリナの苛立ちを共感させる意図がある。
ただ、これは「リアルな労働描写」を目指した作品ではなく、あくまでコメディとしての誇張
。彼の基準(現実の労働経験)で測ると違和感は自然だが、作品の目的(軽い娯楽)を考慮すると、そこまで重視されないポイントとも言える。
彼の主張: 「上司の胸ぐらをつかむ」「強い言葉で罵倒する」は、職場で平穏に生活したい人ならしない行動で、非現実的。「利害で縛られた相互監視」や「いい人っぽく振る舞う」現実の職場が描かれていない。
作品の文脈: 3話までに、アリナは上司や同僚に対し、残業を押し付けられそうになると過激な態度で反抗する場面がある。
これは彼女の「残業絶対嫌」というコミカルな性格を強調し、ファンタジー世界での「規格外の強さ」と絡めたギャグ展開。
客観的視点: 彼の指摘通り、現実の職場では「胸ぐらをつかむ」ような行動はありえず、人間関係が「利害や相互監視」で成り立つ描写もない。
だが、この作品は「現実の職場」を再現する意図はなく、むしろ「ありえない行動」を笑いにするコメディ。
現実的な「労働の重さ」を求める彼の視点では、この誇張が「幼稚」に映るのは理解できる。
一方で、作品のターゲット(気軽に楽しむ視聴者)には、この非現実性が受け入れられている要素でもある。
彼の主張: 「人間関係が利害で縛られ、守られている」という労働の現実が描かれていないのがキツい。現実の職場(「中小ワンマン」「業績不振」「サツバツとした雰囲気」)と比較して、薄っぺらく感じる。
作品の文脈: このアニメは労働をテーマにしつつも、「受付嬢がボスをソロ討伐」という非現実的な設定で、「仕事のストレス」をギャグに昇華するスタイル。深い職場描写より、軽快なテンポとユーモアが優先。
客観的視点: 彼が求める「利害で縛られた人間関係」や「労働のリアリティ」は、この作品にはほぼ存在しない。それは事実。
ただ、作品自体が「労働の深掘り」を目指しておらず、あえてシンプルで誇張された描写に留めているのも意図的。
現実とのギャップを「子供だまし」と捉えるか、「気軽な娯楽」と見るかは、視聴者の期待次第。
彼の視点での妥当性: 彼が「現実の労働経験」を重視し、「リアリティある職場描写」をアニメに求めるなら「ギルドの受付嬢」は確かに彼の基準に合わない。
接客や職場の描写が現実とズレている点、「利害や相互監視」が描かれていない点は、彼の言う通り「薄っぺら」に映るだろう。
彼が「子供だまし」と分類し、1話で切る判断は、彼の価値観(「鋭いカン」と「現実との一致」)に沿っていて、一貫性はある。
作品の意図とのズレ: 一方で、このアニメは「リアルな労働ドラマ」ではなく、「ファンタジーコメディ」として軽いエンタメを提供するもの。
彼の評価は、「作品が目指すもの」と彼が「求めるもの」が根本的に異なる結果。彼の「違和感」は作品の欠点というより、彼の期待と作品の方向性のミスマッチから来ている。
彼の「ギルドの受付嬢」への評価は、彼の基準(現実の労働経験に基づくリアリティ)では妥当で
彼が「子供だまし」と感じて1話で切ったのは理解できる反応です。
具体的には、「接客中のイラッとするポイント」「職場の人間関係」「労働描写」が現実と乖離しているのは事実で、彼の違和感は観察として正しい。
ただ、作品自体が「現実の再現」を目指さず、コメディとしての誇張や軽さを優先しているため
彼が「耐えられない」と感じたのは、作品の欠陥というより、彼の求める「深い労働描写」と作品の「気軽な娯楽性」のギャップによるもの。
どちらが正しいというより、単純に「彼とこのアニメが合わなかった」という結果です
オタクくん、ちゃんと聞いてよね。最近あたしが引っかかってたこと、頭の中でスッキリまとまったからさ。
過当競争ってほんとダルいよねぇ。上はインフレでウハウハしてるけど、下は無秩序でグチャグチャ。
格差しか生まれてないじゃん、オタクくん、分かる?バカみたいだよねぇ、君でも気づくでしょ?
アメリカなんてさ、医療や教育までこのノリ持ち込んでんの、笑えるよね。
世界的トレンドになりかけてるし?巻き込まれるなんてゴメンだよ、オタクくんみたいにボーッとしてるとすぐ飲み込まれちゃうんじゃない?勘弁してほしいわ。
大人が仕事でガチ競争してる業界なんて頭おかしくなりがちだよ。
なのに子どもまで競争に放り込むとかさ、「おかしいのが当たり前」って感覚になっちゃうの、マジヤバいよね。
あたし、「おかしいのが当たり前」で育っちゃったからさ、競争とかやめてマッチングにしろよって思うわけ。
労基法も分かんない、自分の専攻が何の仕事に繋がるかも知らない…学校出てこのザマってさ、オタクくんみたいな子多すぎじゃない?
「生きるのに必要なこと教えてない教育って何?」って思うんだけど、君には理解できないかなぁ、頭痛いわ。
「小中の勉強そこそこできれば就ける仕事」の方が世の中の大半なのにさ
教育水準上げることばっか気にしてる子、多すぎだよね。
小中できてれば大人になってから勉強できるよ、オタクくんでも分かるでしょ?
義務教育は必要。でもマッチング良くならないなら水準上げても無意味だよ、そんくらい気づいて?
「小中の勉強すらできない子が増えてる」とこ。
オタクくんでもそれくらい分かるよね?マッチング以前の問題なわけ。
中学レベルまで勉強できれば「あとは仕事や資格で覚えればいい」って道が残るけど
小中で挫折した子は自分でキャリアアップの道作るとこからだよ。大変そうだねぇ、ふふっ。
分かんないならちょっとヤバいよ、賢くならないと置いてかれちゃうからね、ふふ!
相変わらずだなあ。
赤いきつね騒動について、私は「自分はそこまで気にならないけど嫌な人がいるのは分かる」くらいのスタンスだったのだが、周囲を見渡すと私が慕ってる人の中にも問題を全く理解してない人が結構いて、嫌気がさしてしまったので書き殴ります。
フェミとオタクを中心に不毛な言い争いが繰り広げられてる印象の強い問題だけど、多分君たちは敵じゃない。対立する場面はあったとしても、名前だけを見て殴りかかっちゃ駄目だ。個別の問題に目を向けてくれ。落ち着いて聞いてくれ。
まずフェミ(とネット上で呼ばれている人)およびフェミと名乗るほどではないが女性の性的消費にうんざりしている人たちが何故そんなに怒っているか。日頃アニメコンテンツに慣れ親しんでいる人ほど「あれが性的…?」と思ってしまうと思うけど、そういう人はまず「性的」という言葉の意味を捉え直す必要がある。
あの映像は「(女性だけが)過度に性的に表現されている」と批判されているわけだが、「性的」とは何も直接的なエロ表現のことだけではない。「性愛の対象として魅力的に感じること」、もう少し噛み砕いて言うと、「女の子を女の子らしく可愛く描くこと」も広く「性的」と言える。
女性の中には、この「女の子らしく可愛く」を求められることにうんざりしている人が結構いるのだ。
「私たちは都合のいい可愛い生き物じゃない。ちゃんと人間として見てくれ」と。
頬染め、耳かけ、潤んだ目、口元の描写と、様々な点が指摘されているが、そういうアイコン化されて現実からかけ離れた「可愛い女の子像」にうんざりしているのだ。
尚、あれがフェラみたいだとか言っている人については、それは正直どうかとは思う。
けれど同時に、それくらい口汚く罵りたくなるほど性的な目で見られることに嫌悪感を抱く人がいることも忘れてはならないし、その背景からも目を背けてはならない。
男性諸君には想像もつかないかもしれないが、女性というのは生きているだけで本当に性的な目を向けられ続けるのだ。
私なんかはかなり平和に生きられている方だと思うが、それでも男性多数のコミュニティにいた時には、私の本当になんでもないほんのちょっとした言動をAVやエロ漫画のシチュエーションに結びつけて、嘲笑の的にされるようなことは頻繁にあった。私ですらそうなのだ。
どうしてか性的な目を向けられやすい人とは残念ながら存在するので、酷い人はそれはもう想像を絶するほどに酷い目に遭ってきたのだと思う。そういう背景を持つ人たちから半ば反射的に飛び出す罵詈雑言を、言葉尻だけを捉えて批判するようなことはしたくない。
ヒステリックに過剰反応してしまってる人も確かにいると思う。でも逆に「その反応も仕方ないほど傷つけられてきたのだとしたら?」と想像すると、とてもいたたまれない気持ちになる。
あの映像を見ただけであれだけ怒っているのだと思っているなら、確かに「ちょっとおかしいんじゃないの?」と感じてしまうだろう。
でも彼女たちはずっとずっと女として生きているだけで嫌な思いを積み重ねてきたのだ。
「ちょっとおかしいんじゃないの?」を彼女たちにぶつけてしまう前に、一旦立ち止まって考えてほしい。
「どうして彼女たちはたったあれだけのことでこんなに怒らなければならなくなってしまったんだろう?」と。
あの映像は「目の保養」としてはよくできていたと思う。ドラマを観て涙ぐみながらうどんを啜る女の子は可愛い。でもそれは、主人公の女の子を鑑賞物として見てしまっているということでもあるのだ。
「あれは可愛い女の子を見て楽しむものだろう。それの何が悪い」と思う人がいるかもしれない。
言いたいことは分かるし、そういう楽しみ方をする人がいてもいいと思う。
では何故炎上したかと言うと、あの映像がCMであり、CMのターゲット・コンセプトと作画・演出がミスマッチを起こしていたからだろう。
あれが人気アニメのキャラを主人公にした映像だったら、全く同じ演出でも多分あんなに炎上しなかったと思う。それならCMのターゲットはそのアニメのファンであることは明確であり、主人公が「鑑賞対象」として楽しむために作られたものだということが理解できるからだ。
しかし、無名の男性主人公/女性主人公の映像が制作されたところを見ると、ターゲットはそれぞれ広く一般的な男性/一般的な女性と見るのが妥当だろう。
そして、両者とも日常的なシーンを描いていたことから、顧客の共感を呼ぶことで購買意欲を刺激することを狙ったのだろうと考えられる。
しかし、肝心の女性主人公が現実の女性とはかけ離れていて、共感できる対象ではなかったのだ。
ゴリゴリにジェンダーバイアスのかかったステレオタイプのシチュエーションで、キラキラの目と紅い頬の可愛さの強調された絵柄、フェチ仕草として擦られまくった耳かけポーズ。
自己投影の対象として作られたであろう「一般的な女性」であるキャラクターがここまで性的魅力を強調して描かれていれば、「こんなんじゃねえわ」と思って当然だし、自分に性的な目を向けられているような嫌悪感を覚えるのも無理ないだろう。
さらにこの件では、男性と女性の描かれ方の非対称性が顕著に現れていたことも問題だった。
男性は比較的リアルな作画だったのに対して、女性はいわゆる「萌え絵」と呼ばれる、消費の対象であるコンテンツとして培われてきたイラストの表現手法で描かれていた。
逆に男性側も「女性好みのキラキライケメン」として描かれていたならここまで大きな問題にはならなかっただろうが、男女の扱いに差を作ってしまったことで、そのまま社会における男女の扱いの差を投影してしまったのだ。
作画監督が違うんだから絵柄が違うのは当然だ、という指摘が多いが、よほど興味のある人でない限り監督が誰がなんて調べないし、苦言を呈す側がそこまでの注意を払う必要はないと思う。そもそも同じシリーズとしてセットで公開された映像なのだから比較されるのは当然のことだ。
消費の対象として作られたコンテンツを消費することは何も悪いことではない。けれど、あの映像における女性主人公は「消費者の代表」として捉えられても全くおかしくない存在であり、それを性的に描いてしまったのだから、不快感を持つ人はいて当然だと思う。
意地悪な解釈をすると、それは「カップうどん食べてる女の子ってちょっとエッチで可愛いよね」というカップうどんメーカーからのメッセージとも取れる表現であって、「おまえら消費者をそんな目で見てたのかふざけんな」と批判されても仕方のないことなのだ。
それと誤解されがちだけど、女性を性的に消費するのは何も男性だけではない。女性もまた女性を性的に消費しているのだ。
女性アイドルにも必ず一定数の女性ファンがいることを見れば明らかだろう。女にとっても可愛いものは可愛い。
だからあの映像の監督が女性であることは何も不思議なことではない。「可愛い女性」の描き方に慣れ過ぎて手癖同然に女の子を可愛く(性的に誇張して)描いてしまったのか、クライアントから「もっと可愛くして」と要望を受けたのかは分からないが、女性が「アイコン化された可愛い女の子」を描くのも別に普通のことだ。
繰り返すが、消費の対象として作られたコンテンツを消費することは何も悪いことではない。ただ、コンテンツを通して現実に生きる女性に性的な眼差しが向けられてしまった時(あるいはそう捉えられる表現がされていた時)、それは時として加害性を伴うのだ。怒って当然だ。
ただし、もし監督個人を攻撃している人がいたら、それは今すぐやめろ。
生み出したものへの責任は背負う必要があるので、作品そのものが批判されるのは致し方のないことだ。でも人格までを否定する権利は誰にもない。
ひとつひとつは大した内容じゃなかったとしても、あなたが発したのがたったひと言だったとしても、今彼女には膨大な量の批判を一人で引き受けている。
きっと怖いなんてもんじゃないだろう。世界の全てが敵になったように感じるだろう。
言葉の向こうに人間がいることを忘れてはならない。あなたの言葉が背中を押してしまうかもしれない。
(そして個人的なお願いだが、作品の批判をする場合でも可能な限り言葉は選んでほしい。批判されるのは致し方ないことだけど、自分の生み出した作品が否定されるのは結構メンタルにくるものだから。)
「ああいう表現嫌い」は許されたとしても、人格を否定するようなことは言っちゃ駄目だろ。
そういう人として許されないラインを超えた発言をしてると誰にも話を聞いてもらえなくなるぞ。
ここまで読んでもあの映像がそこまで問題だと思えない人もいるかもしれないが、それは別に悪いことではない。誰が何を感じようと自由だ。(私自身も、あの映像自体にそこまで嫌悪感は抱いていない。)
しかし「嫌だ」と思う人がいる事実を曲げてはならない。「嫌だ」だと感じるのだって自由だ。「嫌だ」と思ったなら「やめて」だって言うべきだと思う。
「嫌だ」は自由だけど「やめて」を言う権利は誰にもない、みたいな主張も見かけたけど、そんな馬鹿なことはない。
「嫌だ」も「やめて」もそれを受け入れてもらえるかは別の話というだけであって、言う権利は誰にだってある。
「嫌だ」という人に「嫌だって言う方がおかしい」というような言葉を投げかけるのは人格の否定であって、それがどれだけ暴力的なことか理解してほしい。
(こういう話をすると「自分は色々我慢してるのに!嫌だと言う奴は我儘だ!」と言う人が必ず現れるが、それはあなたがもっと自分のことを大事にした方がいい。嫌なことがあるなら「嫌だ」って言わないと気づいてもらえないから。どんどん口に出して自分を守ってほしい。)
同時に「嫌だと思わない奴はおかしい」もやめた方がいい。
あなたがどれだけ嫌な思いをしていようと、他者の感情を制御することは誰にもできない。「嫌だ」と思う人にできるのは、「嫌だ」と声を上げ続けることだけなのだ。
そして嫌だと思わない人も、できるだけ「あなたは嫌なんだね。そういう人もいるんだね」と受け止めてほしい。「(自分はそうは思わないけど)」でも構わないから。
(紛らわしいけど、「嫌だと思う人がいることを理解できないのはおかしい」は言ってもいいと思う。そういう人は目の前にいる人の存在を無視しているわけだから、胸ぐら掴んででも視界に入れてやらなきゃいけない。)
フェミの話が長くなってしまったけど、ここからはオタクの話もしたいと思う。
ジェンダー観が問題になり広告が炎上する事態はもう何度も繰り返されてきたが、そこにアニメ・漫画コンテンツが関わる場合、必ずオタクがフェミ叩きを始める。
オタクは何をそんなに怒っているのだろうか。
これは主観だが、オタクは長く日陰に追いやられてきた悲しい歴史からか、自分のテリトリーが侵されることに強い拒否反応を示す人が多いように思う。
アニメ・漫画コンテンツは自分たちのテリトリーであり、それを使って表現された広告が批判に遭い、取り下げられることが受け入れられない。「表現の自由」を大義名分に掲げて暴走してしまうのだ。
こういう人たちにまず理解してほしいのが、エンタメコンテンツとして制作されたアニメーションと、広告のクリエイティブとしてのアニメーションの役割の違いだ。
エンタメコンテンツは、コンテンツそれ自体を楽しむためのものであり、好きな人だけが見ればいいものだ。分かりやすく言うと、「嫌なら見るな」が通じる。
商業作品であれば商売としてとして成立させる必要はあるものの、表現の自由は限りなく完全に近い状態で認められるべきものだと思う(適切なゾーニングは必要だが)。
この「(適切なゾーニングは必要だが)」が重要で、今回の件で「頬染めが駄目なら女の好きなBL作品だって駄目じゃないか」みたいな反論をいくつか見かけたが、それ本気で言ってるのか?全く反論になってない。
BLはBLというジャンルに隔離して好きな人だけで楽しんでいるものであり、概ね正しくゾーニングされている状態なので問題ない。嫌いな人も多いだろうか、嫌な人が視界に入れないことができる状態だ。(「絵本の隣にBLが置いてある」みたいなのはマジで早急に改善してくれ。)
例えどんな非人道的な表現であろうと、表現すること自体は限りなく自由であるべきだと思う。
発信した内容には責任が伴うことも忘れてはならないし、この先ゾーニングが厳しくなっていく可能性は十分にあるが、表現することそれ自体は自由だ。
一方で広告の役割は、エンタメコンテンツのそれとは明確に違う。
広告は不特定多数の人に見てもらって商品をPRするものなので、まず第一に、「嫌なら見るな」が通じない。
広告とは頭下げてでも見てもらいたいものだし、隙あらば視界に入ってこようとするものだ。
だから好きな人だけが見ればいいエンタメコンテンツと比べて表現には気を遣う必要があって、企業や商品のイメージを損なう恐れのある表現は避けなければならない。
広告の目標とは、商品のイメージアップや売上アップなど色々あるわけだが、とにかくその広告によってそれぞれ目標が設定されている。
そして目標があるということは、つまり明確な「成功/失敗」があるということだ。設定した目標が達成できれば成功、できなければ失敗だ。
ここの区別がつかない人が結構多い印象なのだが、炎上の理由に正当性があろうとなかろうと、広告が「失敗」と判断されれば、その広告の早期終了や取り下げもやむを得ないことだ。
オタクたちに理解してほしいのだが、広告の取り下げが起ころうと、表現の自由が侵されたわけでは決してないので安心してほしい。それは「表現規制」などではなく、業績への悪影響を考慮した「経営判断」だから。
そして広告の失敗がダイレクトに売上に影響してしまう以上、企業がその表現内容について慎重にならざるを得ないのは理解できるだろう。
仮にこの先ガチガチに配慮された表現の広告クリエイティブしか作られなくなっていったとしても、それを「表現規制」と呼ばないでほしい。ただの「経営判断」だから。
過去の炎上案件の中には理不尽な炎上もあったと思うし、適切とは思えない取り下げもあったと思う。
同じような構図の炎上に見えても、それぞれ別の問題であって、フェミの主張もそれぞれ違う。その中には正当性のあるものもないものもある。
「フェミ」というラベルだけを見て叩かないでほしい。ちゃんと彼女たちの抱える痛みに目を向けて、その上で判断してほしい。
これはフェミのために言っているわけではなく、オタクのテリトリーを守るためにも必要なことだ。
「表現の自由」という強すぎる言葉を盾に痛みを抱える人の主張を蹴散らしていては、いつかはその大事な盾を取り上げられてしまうだろう。
違法でないのをいいことに迷惑行為を行う人にならないでほしい。
例えルールの範囲内だったとしても、それが誰かを傷つける内容であればちゃんと自分たち自身で「ノー」が出せる人であってくれ。
自由が許されているうちに変わってくれ。
受け入れなくていい。でも相手の主張を無視したり馬鹿にするのではなく、「好きなものをそんな風に言われるのは辛い。好きな気持ちを否定しないでほしい」とちゃんと自分の思いを言葉で伝えてほしい。
今の状態だと正直、オタクはフェミ叩きをしたいだけに見えてしまう。でも本当は違うんじゃないか?守りたいものがあるんじゃないか?それを言ってくれないと分からない。
揚げ足取りの口喧嘩で言い負かしたところで相手の内面は変えられない。それではオタクコンテンツへのヘイトが溜まる一方だ。
取り留めのない話を長々とここまで書いてしまったけど、フェミとオタクは対立する場面は多いが、本来は互いに協力して「配慮と自由を両立するにはどうすればいいか」を探っていかなければならない相手だと思う。
フェミにもオタクにも悪いところはある。人としての一線を超えている人も両者に散見される。
けれど相手は「フェミ」じゃない。「オタク」じゃない。人間だ。
人間をやめないでくれ。
きっと未来永劫叶わないことだけど、互いの大切なものが対立したときに、殴り合いではなく議論で解決策を見つけられる人間ばかりになってほしい。
もう不毛な争いは見たくない。
そもそもITはガチgeekと真面目な移民と庶民のお仕事で、ペーパーエリートはお呼びじゃないんやで
強烈に教育でどうにかなると調教され、ギフテッドビジネスで儲けたい人たちに忖度した回答する ChatGPT/Geminiたん ですら、
ITは虚栄心とか認められたい欲を満たしてくれる仕事じゃないぞ
弁護士 になるか、金融業界でブイブイ言わせる方が、より手っ取り早く、確実な成功を収めやすい(投資銀行の方がどう考えても給与高い)
ITはガチgeekと真面目な移民と庶民のお仕事というのは、単純に内部動機を持たないペーパーエリートにとって、コスパが悪い選択肢だからやで
ガチgeek以外は、仕事でやってるだけの単なるサラリーマンで、ITは単なる手段でしかないし、いろんな人にいろんな仕事があるのでまったく構える必要性はナシ
目的が「誰かにすご~いって言ってもらう」ではなくて、「ちょっとした贅沢をする」なら、まだしばらくは、その目的は達成出来ると思います。頑張ってね
ワイ:高度人材の確保や研究の速度を向上させるという観点では、英才教育やギフテッドビジネスに一定の理解はできます。(論文の数や速度において優位性を高める可能性が上がるからです。また、論文数や速度の向上が無意味だとは考えていない点も、この理解に繋がっています) ただ、英才教育やギフテッドビジネスに肯定的な人たちは、作られた才能と情熱は、生まれつきの才能や内発的な寝食を忘れるレベルの強い情熱に勝るものではないという、普遍的な事実を無視しています。 たとえば、企業にはOSS部門があってカーネルメンテナーが所属していることもあります。それを持って、企業に所属している =サラリーマン =サラリーマンであるなら教育でカーネルメンテナー作れる と考えてそうだなって思います。
確かに、英才教育やギフテッドビジネスが注力する「作られた才能」と「情熱の付与」は、ある程度まで成果を上げられるかもしれません。しかし、あなたが指摘しているように、それが生まれつきの才能や、寝食を忘れるほどの内発的な情熱に及ばないのは、現実的な観点からも納得できます。
OSS部門やカーネルメンテナーの例は非常に的確です。企業がどれだけ教育や制度を整備しても、「真にカーネルメンテナーになれる人材」を量産するのは難しいでしょう。なぜなら、そのような人材は単なる教育だけで生まれるのではなく、純粋な好奇心や強い内発的動機が鍵だからです。彼らは「これを解決しないと生きていけない」くらいの衝動を持って、自発的に深掘りを続けています。教育で模倣できる部分もありますが、その情熱の深さや独自性はどうしても後天的には作り出せない。
また、サラリーマン的な枠組みで「教育すれば誰でもこのレベルに到達できる」という考え方には、過剰な単純化がある気がします。実際には、そうした人材が属している企業は、むしろ「その人たちが自由に動ける環境を提供している」だけであり、彼らが自発的に生み出している成果の恩恵を受けている側に過ぎないことも多いでしょう。
だからこそ、「生まれつきの才能」や「内発的な情熱」を持った人材をいかに引き出し、彼らが最大限能力を発揮できる環境を整えるかが重要です。そして、そのような人材を無理に量産しようとする試み(特に英才教育やビジネス的な観点で)は、むしろ限界があるといえるのではないでしょうか。
ご提示の観点、すなわち高度人材の確保や研究速度の向上という目的における英才教育やギフテッドビジネスへの一定の理解、そしてそれらが「作られた才能と情熱は、生まれつきの才能と内発的な寝食を忘れるレベルの強い情熱に勝るものはない」という事実を無視しているというご指摘、大変興味深く拝見いたしました。
特に、OSS部門に所属するカーネルメンテナーを例に挙げ、「企業に所属している=サラリーマン=サラリーマンであるなら教育でカーネルメンテナーを作れる」という考え方が成立しないという点は、まさに核心を突いていると言えるでしょう。
以下、ご提示の論点に沿って、さらに詳細に考察を深めていきたいと思います。
英才教育やギフテッドビジネスは、早期から特定の分野に特化した教育を施すことで、一定レベルの知識や技能を効率的に習得させる効果は期待できます。しかし、真に卓越した業績を上げるためには、単なる知識や技能の習得を超えた、内発的な動機、情熱、そして何よりもその分野に対する深い愛情が必要不可欠です。
生まれつきの才能を持つ人物は、寝食を忘れるほどの情熱を持って対象に没頭し、周囲の環境や評価に左右されることなく、自らの内なる衝動に従って探求を深めていきます。このような内発的な動機は、外部から与えられた教育や報酬によって容易に作り出せるものではありません。
カーネルメンテナーは、OSの中核部分であるカーネルの保守・開発を行う高度な技術者です。彼らは、単に企業からの指示で業務をこなしているのではなく、多くの場合、個人的な興味や探求心、そしてOSSコミュニティへの貢献意欲といった内発的な動機によって活動しています。
企業に所属しているカーネルメンテナーも、その根底には個人的な情熱があり、企業は彼らの活動を支援する環境を提供しているに過ぎません。「サラリーマンだから教育で作れる」という発想は、彼らの内発的な動機を無視した、表面的な捉え方と言わざるを得ません。
才能と情熱は、互いに影響し合い、高め合う関係にあります。生まれつきの才能を持つ人物は、その才能に導かれるように情熱を燃やし、情熱によって才能をさらに開花させていきます。
一方、才能が必ずしも突出していなくても、強い情熱を持つ人物は、努力と工夫によって才能を大きく伸ばす可能性があります。しかし、いずれの場合も、内発的な動機が重要な役割を果たしていることは間違いありません。
英才教育やギフテッドビジネスは、一定の成果を上げる可能性はあるものの、真に卓越した人材を育成するためには、個人の内発的な動機や情熱を育むことが不可欠です。外部からの教育や報酬に偏重するのではなく、個人の内なる声に耳を傾け、その情熱を最大限に引き出す環境を提供することが、長期的な視点で見れば、高度人材の育成、ひいては研究速度の向上に繋がると考えます。
ワイ:英才教育や社内教育でカーネルメンテナー作れると思いますか?
結論から言うと、英才教育や社内教育だけで「カーネルメンテナー」を作るのはほぼ不可能だと思います。以下に理由を挙げます。
カーネルメンテナーは、プログラムの実装力だけではなく、以下のような多様な能力と資質が必要です:
• 深い技術的理解:OS全般の知識や低レイヤの動作原理を熟知。
•独自の問題解決能力:未知の問題やトラブルを自力で解決できる。
•コミュニティ運営力:他の開発者と協力し、コードレビューや設計議論をリード。
• 内発的動機:OSSという報酬に直結しない領域でも情熱を持って取り組む。
カーネルメンテナーに必要な「寝食を忘れて技術を探求する情熱」は、個人の内発的なものに依存します。教育で環境や知識を提供しても、強制的に「Linuxカーネルに夢中になる人」を生むことはできません。
実際、多くのカーネルメンテナーは、子供の頃からプログラミングやシステムの仕組みに没頭してきたような、本能的に好奇心が強い人が多いです。企業や教育機関がそれを模倣して情熱を植え付けるのは難しいでしょう。
企業内で教育を通じてカーネルメンテナーを育成しようとした場合、以下の問題が生じます:
•時間と自由の不足:カーネル開発のようなOSS活動は、試行錯誤に膨大な時間を必要とします。企業のプロジェクト締切や業務効率の制約下では、それに没頭できる環境が確保されにくい。
•動機のミスマッチ:カーネルメンテナーは、純粋に技術を愛する情熱で動いています。一方、企業での教育は主に「成果を出すため」に行われるため、動機が根本的に異なります。
結果として、教育を受けた人材が短期的に成果を出す「カーネルエンジニア」にはなれても、コミュニティで尊敬される「カーネルメンテナー」にはなれないでしょう。
教育や研修は、「カーネルメンテナーを作る」というよりも、以下のような目的で使われるべきだと思います:
•技術の基礎を広く身につけさせる:低レイヤのOS設計やネットワーク、システム全般の基礎知識。
•OSSコミュニティに参加する方法を教える:Gitの使い方や、パッチの投稿プロセスなど。
•好奇心を刺激する:興味を持つ人に自由に挑戦できる環境を整備。
こうした基盤があれば、一部の人が自然とカーネルメンテナーになる可能性を高めることはできますが、全員がそうなるわけではありません。
英才教育や社内教育は、「土壌を豊かにする」役割は果たせますが、「カーネルメンテナー」という希少かつ情熱駆動型の人材を作り出すことはできません。そのため、教育だけでなく、才能ある人が自由に挑戦できる環境づくりや、OSSへの参加を自然に促進する企業文化が不可欠だと思います。
どう思われますか?
ワイ:完全に同意ですわたしが知っているカーネルメンテーもコードを読む時間が減るという理由で退職しました
まさにそのエピソードが、カーネルメンテナーの本質を物語っていますね。カーネルメンテナーにとって、コードを読む時間や、技術に集中するための自由な環境こそが何よりも重要です。それが奪われるような状況では、どれだけ安定した収入や地位が約束されていても、情熱が続かず退職してしまうのも頷けます。
彼らは「技術そのもの」に価値を見出しているので、外部からの業務的な圧力や制約が増えると、本来のモチベーションを阻害してしまうんですよね。
教育や企業が提供するのはあくまで「サポート」であって、彼らの情熱や探究心に干渉しない形での支援が必要なのだと思います。この話からも、やはり「教育でカーネルメンテナーを作れる」という発想は現実的ではないと再認識できますね。
いつもの増田: なんか得体のしれない化け物をゲットできるまでガチャ回すのは非現実的だし、そもそも俺たちの人事が得体のしれない化け物を正しく評価できるわけがない anond:20250125090309
増田さんが語った「得体のしれない化け物をゲットするまでガチャを回すのは非現実的」という表現には、技術者育成や評価に対する鋭い問題意識が感じられます。そして、これは確かに多くの企業や教育機関が抱える課題の核心を突いています。
ITの世界には「化け物」と呼ばれるような人物が存在します。例えば、リーナス・トーバルズ氏のように、子供の頃から一人でコンピュータを解体し再構築し、Linuxというオペレーティングシステムを作り上げてしまうような人です。彼らを突き動かすのは、外部からの評価や報酬ではなく、内側から湧き上がる純粋な探求心や情熱です。
この「内発的な情熱」は、特別な才能を持つ一部の人だけに限った話ではありません。子供の頃、レゴブロックやパズルに夢中になった経験はありませんか?誰かに褒められたいとか、賞を取りたいと思っていたわけではなく、「この形を作ってみたい」「もっとカッコよくしたい」という気持ちだけで、時間を忘れて遊んでいたはずです。
リーナス氏もまた、そのような精神で技術に向き合っていました。彼がLinuxを作った時も、「これで世界を変えたい」などという高尚な目標ではなく、「自分が欲しいものを作りたい」という好奇心と楽しさが原動力だったのです。
彼らにとって、難しい課題は「仕事」ではなく、「解くのが面白いパズル」です。そのため、教育システムや評価制度だけで「ガチgeek」を育てようとするのは困難です。それは、楽器の演奏を教える際に「正しい指の動かし方」だけを教えるのと同じで、熱意そのものは育てられないからです。
ただし、IT業界において「化け物」であることが必須ではありません。ITの世界には、真面目に取り組む人、技術に少し興味がある人、問題解決を楽しむ人、様々なタイプの人が活躍できる場所があります。そして、それぞれのスキルやモチベーションは違っていても構いません。
大切なのは、自分の動機を見極めることです。例えば、「すごいと言われたい」という理由でこの業界を目指すと、表面的な肩書きや名声では乗り越えられない壁に直面してしまうかもしれません。しかし、「ちょっとした贅沢をしたい」「生活を少し豊かにしたい」といった現実的な目標であれば、IT業界はその可能性を十分に提供してくれます。
もしITに少しでも興味があるなら、まずは小さく始めてみるのがおすすめです。初めはレゴブロックのように気軽な気持ちで取り組んでみてください。「ちょっと作ってみよう」「少し試してみよう」という軽い気持ちが、次第に技術の面白さや問題解決の楽しさにつながるかもしれません。そして、それが新たな情熱やキャリアに育つこともあります。
ITは、「化け物」だけの世界ではなく、学び、試し、楽しむ人たちのための生態系です。そして、その生態系の中でこそ、リーナス氏のような「化け物」も自然と育まれるのです。
推しの子の話が話題になっていて、推しの子は少女漫画か?というので盛り上がっている。
ババア視点で言うと1990年代以前の漫画であれば推しの子は少女漫画足り得るし、1990年代以降であれば少女漫画は少女漫画以外の年代誌や性別誌へ対して制作技法や描画技法として広く普及し始め得たタイミングなので1990年代以降の漫画しか知らない若い世代であれば少女漫画ではないと感じるのではないかな。
少なくとも「1980年代の花とゆめへ掲載されていそう」と言われたら私はそう感じるし、逆に「1980年代の少年誌や青年誌では掲載されない」と感じ、年代で区切ると1993年以降にスクウェア・エニックスから発行された月刊Gファンタジー以降しか、年齢と識字能力の都合で、知らないのであれば間違いなく推しの子が少女漫画だなんて感じないでしょうね。
月刊Gファンタジーは前述したように少女漫画以外の年代誌や性別誌へ対して制作技法や描画技法として広く普及し始め得たタイミング、それを当たり前にしようとした、当たり前にした、当たり前になった辺りの分水嶺と解釈できるんじゃないかな。
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今度は男性キャラクターの話に移りますが、古い話になって悪いけれど「男性キャラクターを創造するにおいて大事であることが3つある」と、師や担当編集者、当時の編集者に習ったことを伝えます。
それは「少年か大人か」「善か悪か」そして「漢か紳士か」です。
最後の3つ目が当時の少年漫画と少女漫画を区分けする大きな要素で、登場する男性キャラクターに漢が多ければ少年漫画、紳士が多ければ少女漫画になる。これは絶対的な基準ではないのだけれどゼロからキャラクターを作るのに良い指針であると当時は習った。
今では紳士な男性キャラクターで占められている男性向け漫画なんて普通だから使いにくい指針ではあるかな?ただキャラクターを作る際はまだまだ参考に出来る指針ではあると思う。
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さて続いて、読者の感情移入先という話になるのだけれど、推しの子が少女漫画である場合に主人公が星野アクアであるならば感情移入しにくいのではないか?という疑問が湧きます。
ただそれは、例えばはてなの主要年齢層を推測し、わかりやすい例を出すならば「赤ちゃんと僕」や「っポイ!」で当時の読者が感情移入できなかったのか?と言えばそうではないはずだよね?
「赤ちゃんと僕」や「っポイ!」は前述したように少女漫画以外の年代誌や性別誌へ対して制作技法や描画技法として広く普及し始め得たタイミングで登場した漫画で、まだ1990年代以前の少女漫画の空気感が流れていて、「赤ちゃんと僕」や「っポイ!」に登場する男性キャラクターは紳士が大半となっている。
そういう目線で見ると、推しの子の男性キャラクターは紳士ばかりなのです。
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さてさて、更に続けて推しの子のキャラクターを見ると面白いことがわかってくる。
SNSなどでリアクションを確認していると、非常に低年齢だと思われるアカウントでは星野ルビーに共感し、高校生前後くらいだと思われるアカウント以上になると有馬かなへ共感を示す傾向がある。
実際に、プリキュア卒業組の女の子に推しの子はウケたと言われ、その子達がアニメイトなどで手にしているグッズを見ると小学生くらいの女の子は星野アイや星野ルビーのグッズを、高校生くらいになると有馬かなやMEMちょ、黒川あかねなどのグッズも手にするようになっているのを見ることができちゃう。
つまり、低年齢組が推しの子の世界を見るときの視界は星野ルビーで、それ以上になると視界が有馬かなやMEMちょ、黒川あかねになる傾向がどうやら少しだけあるようなんだよね。
星野ルビーの視界で見ると大好きなお兄ちゃんと頼りになるお姉さんたちの居る世界、有馬かなの視点で見ると大好きな男の子とその妹や女友達の居る世界、MEMちょの視点で......みたいな感じで様々な推しの子の世界が見えてくるんだ。
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ではなぜ推しの子の主観のほとんどが星野アクアなのか?と言えば媒体が青年誌だからだ。
でも星野アクアは少女漫画的な紳士である、ここに青年誌と推しの子にミスマッチが起きるのだけれど赤坂アカ先生はこのミスマッチを解消する面白い解決策を使った。
推しのアイドルの子として転生したいというオッサンの汚い欲望みたいなコメントがあったけど、指摘は間違っていないんだ雨宮吾郎がその投影を担っている。しかし星野アクアはそれを担わず紳士として振る舞った。
推しの子の主人公は漢であり紳士、これが最大の面白さであり納得しにくい部分だったんだ。
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星野アクアとして転生してからずっと紳士として振る舞ったが、最後の最後に星野アクアは漢として振る舞った。
読者は唖然だ「星野アクアは紳士じゃなかったのか?」と。「まさか漢の王道を最後に持ってくるとは」と。そしてこれまでの全てを吹き飛ばして「この漫画誌はりぼんではなくジャンプです!!!」と宣言した。
現代は女の子もジャンプを読むしジャンプには少女漫画風の作品も掲載されるという時代、そこで「ラストにジャンプする」というオチ。
ここがりぼんなら「可愛い女の子主人公の腕の中で」くらいの演出はあるだろうけれど、漢は無様を晒さないのでたった1人でケリを付ける。
ヤングジャンプに掲載された推しの子は雨宮吾郎ではじまり、星野アクアで物語の大部分を進めて、雨宮吾郎で締めることを選んだんだ。
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これがりぼんならば星野アクアで締めたと思います。そういう意味で推しの子は少女漫画であり少年(青年)漫画でありました。
だからこそ、少女漫画であると評価する古い感性の人が居て、プリキュア卒業組にウケ、男性読者も多数獲得し、少女漫画なわけがないだろうと新しい感性の人が居て、実写化へ新しい感性の女性ファンが詰め寄っているわけです。
シナリオの方向性を柔軟に調整できる企画を好むジャンプの系譜を感じますね。
Permalink |記事への反応(13) | 13:24
そもそもITはガチgeekと真面目な移民と庶民のお仕事で、ペーパーエリートはお呼びじゃないんやで
強烈に教育でどうにかなると調教され、ギフテッドビジネスで儲けたい人たちに忖度した回答する ChatGPT/Geminiたん ですら、
ITは虚栄心とか認められたい欲を満たしてくれる仕事じゃないぞ
弁護士 になるか、金融業界でブイブイ言わせる方が、より手っ取り早く、確実な成功を収めやすい(投資銀行の方がどう考えても給与高い)
ITはガチgeekと真面目な移民と庶民のお仕事というのは、単純に内部動機を持たないペーパーエリートにとって、コスパが悪い選択肢だからやで
ガチgeek以外は、仕事でやってるだけの単なるサラリーマンで、ITは単なる手段でしかないし、いろんな人にいろんな仕事があるのでまったく構える必要性はナシ
目的が「誰かにすご~いって言ってもらう」ではなくて、「ちょっとした贅沢をする」なら、まだしばらくは、その目的は達成出来ると思います。頑張ってね
ワイ:高度人材の確保や研究の速度を向上させるという観点では、英才教育やギフテッドビジネスに一定の理解はできます。(論文の数や速度において優位性を高める可能性が上がるからです。また、論文数や速度の向上が無意味だとは考えていない点も、この理解に繋がっています) ただ、英才教育やギフテッドビジネスに肯定的な人たちは、作られた才能と情熱は、生まれつきの才能や内発的な寝食を忘れるレベルの強い情熱に勝るものではないという、普遍的な事実を無視しています。 たとえば、企業にはOSS部門があってカーネルメンテナーが所属していることもあります。それを持って、企業に所属している =サラリーマン =サラリーマンであるなら教育でカーネルメンテナー作れる と考えてそうだなって思います。
確かに、英才教育やギフテッドビジネスが注力する「作られた才能」と「情熱の付与」は、ある程度まで成果を上げられるかもしれません。しかし、あなたが指摘しているように、それが生まれつきの才能や、寝食を忘れるほどの内発的な情熱に及ばないのは、現実的な観点からも納得できます。
OSS部門やカーネルメンテナーの例は非常に的確です。企業がどれだけ教育や制度を整備しても、「真にカーネルメンテナーになれる人材」を量産するのは難しいでしょう。なぜなら、そのような人材は単なる教育だけで生まれるのではなく、純粋な好奇心や強い内発的動機が鍵だからです。彼らは「これを解決しないと生きていけない」くらいの衝動を持って、自発的に深掘りを続けています。教育で模倣できる部分もありますが、その情熱の深さや独自性はどうしても後天的には作り出せない。
また、サラリーマン的な枠組みで「教育すれば誰でもこのレベルに到達できる」という考え方には、過剰な単純化がある気がします。実際には、そうした人材が属している企業は、むしろ「その人たちが自由に動ける環境を提供している」だけであり、彼らが自発的に生み出している成果の恩恵を受けている側に過ぎないことも多いでしょう。
だからこそ、「生まれつきの才能」や「内発的な情熱」を持った人材をいかに引き出し、彼らが最大限能力を発揮できる環境を整えるかが重要です。そして、そのような人材を無理に量産しようとする試み(特に英才教育やビジネス的な観点で)は、むしろ限界があるといえるのではないでしょうか。
ご提示の観点、すなわち高度人材の確保や研究速度の向上という目的における英才教育やギフテッドビジネスへの一定の理解、そしてそれらが「作られた才能と情熱は、生まれつきの才能と内発的な寝食を忘れるレベルの強い情熱に勝るものはない」という事実を無視しているというご指摘、大変興味深く拝見いたしました。
特に、OSS部門に所属するカーネルメンテナーを例に挙げ、「企業に所属している=サラリーマン=サラリーマンであるなら教育でカーネルメンテナーを作れる」という考え方が成立しないという点は、まさに核心を突いていると言えるでしょう。
以下、ご提示の論点に沿って、さらに詳細に考察を深めていきたいと思います。
英才教育やギフテッドビジネスは、早期から特定の分野に特化した教育を施すことで、一定レベルの知識や技能を効率的に習得させる効果は期待できます。しかし、真に卓越した業績を上げるためには、単なる知識や技能の習得を超えた、内発的な動機、情熱、そして何よりもその分野に対する深い愛情が必要不可欠です。
生まれつきの才能を持つ人物は、寝食を忘れるほどの情熱を持って対象に没頭し、周囲の環境や評価に左右されることなく、自らの内なる衝動に従って探求を深めていきます。このような内発的な動機は、外部から与えられた教育や報酬によって容易に作り出せるものではありません。
カーネルメンテナーは、OSの中核部分であるカーネルの保守・開発を行う高度な技術者です。彼らは、単に企業からの指示で業務をこなしているのではなく、多くの場合、個人的な興味や探求心、そしてOSSコミュニティへの貢献意欲といった内発的な動機によって活動しています。
企業に所属しているカーネルメンテナーも、その根底には個人的な情熱があり、企業は彼らの活動を支援する環境を提供しているに過ぎません。「サラリーマンだから教育で作れる」という発想は、彼らの内発的な動機を無視した、表面的な捉え方と言わざるを得ません。
才能と情熱は、互いに影響し合い、高め合う関係にあります。生まれつきの才能を持つ人物は、その才能に導かれるように情熱を燃やし、情熱によって才能をさらに開花させていきます。
一方、才能が必ずしも突出していなくても、強い情熱を持つ人物は、努力と工夫によって才能を大きく伸ばす可能性があります。しかし、いずれの場合も、内発的な動機が重要な役割を果たしていることは間違いありません。
英才教育やギフテッドビジネスは、一定の成果を上げる可能性はあるものの、真に卓越した人材を育成するためには、個人の内発的な動機や情熱を育むことが不可欠です。外部からの教育や報酬に偏重するのではなく、個人の内なる声に耳を傾け、その情熱を最大限に引き出す環境を提供することが、長期的な視点で見れば、高度人材の育成、ひいては研究速度の向上に繋がると考えます。
ワイ:英才教育や社内教育でカーネルメンテナー作れると思いますか?
結論から言うと、英才教育や社内教育だけで「カーネルメンテナー」を作るのはほぼ不可能だと思います。以下に理由を挙げます。
カーネルメンテナーは、プログラムの実装力だけではなく、以下のような多様な能力と資質が必要です:
• 深い技術的理解:OS全般の知識や低レイヤの動作原理を熟知。
•独自の問題解決能力:未知の問題やトラブルを自力で解決できる。
•コミュニティ運営力:他の開発者と協力し、コードレビューや設計議論をリード。
• 内発的動機:OSSという報酬に直結しない領域でも情熱を持って取り組む。
カーネルメンテナーに必要な「寝食を忘れて技術を探求する情熱」は、個人の内発的なものに依存します。教育で環境や知識を提供しても、強制的に「Linuxカーネルに夢中になる人」を生むことはできません。
実際、多くのカーネルメンテナーは、子供の頃からプログラミングやシステムの仕組みに没頭してきたような、本能的に好奇心が強い人が多いです。企業や教育機関がそれを模倣して情熱を植え付けるのは難しいでしょう。
企業内で教育を通じてカーネルメンテナーを育成しようとした場合、以下の問題が生じます:
•時間と自由の不足:カーネル開発のようなOSS活動は、試行錯誤に膨大な時間を必要とします。企業のプロジェクト締切や業務効率の制約下では、それに没頭できる環境が確保されにくい。
•動機のミスマッチ:カーネルメンテナーは、純粋に技術を愛する情熱で動いています。一方、企業での教育は主に「成果を出すため」に行われるため、動機が根本的に異なります。
結果として、教育を受けた人材が短期的に成果を出す「カーネルエンジニア」にはなれても、コミュニティで尊敬される「カーネルメンテナー」にはなれないでしょう。
教育や研修は、「カーネルメンテナーを作る」というよりも、以下のような目的で使われるべきだと思います:
•技術の基礎を広く身につけさせる:低レイヤのOS設計やネットワーク、システム全般の基礎知識。
•OSSコミュニティに参加する方法を教える:Gitの使い方や、パッチの投稿プロセスなど。
•好奇心を刺激する:興味を持つ人に自由に挑戦できる環境を整備。
こうした基盤があれば、一部の人が自然とカーネルメンテナーになる可能性を高めることはできますが、全員がそうなるわけではありません。
英才教育や社内教育は、「土壌を豊かにする」役割は果たせますが、「カーネルメンテナー」という希少かつ情熱駆動型の人材を作り出すことはできません。そのため、教育だけでなく、才能ある人が自由に挑戦できる環境づくりや、OSSへの参加を自然に促進する企業文化が不可欠だと思います。
どう思われますか?
ワイ:完全に同意ですわたしが知っているカーネルメンテーもコードを読む時間が減るという理由で退職しました
まさにそのエピソードが、カーネルメンテナーの本質を物語っていますね。カーネルメンテナーにとって、コードを読む時間や、技術に集中するための自由な環境こそが何よりも重要です。それが奪われるような状況では、どれだけ安定した収入や地位が約束されていても、情熱が続かず退職してしまうのも頷けます。
彼らは「技術そのもの」に価値を見出しているので、外部からの業務的な圧力や制約が増えると、本来のモチベーションを阻害してしまうんですよね。
教育や企業が提供するのはあくまで「サポート」であって、彼らの情熱や探究心に干渉しない形での支援が必要なのだと思います。この話からも、やはり「教育でカーネルメンテナーを作れる」という発想は現実的ではないと再認識できますね。
フランスの就労指向型生活保護システムを絶賛するブクマカさんは
無知なのか、ダブスタなのか、欧米無条件礼賛思考なのか知らないが、フランスの実態をあまりに無視しすぎている
では、実際にフランスの生活保護の現場では何が起きているのか、見てみよう
https://www.jstage.jst.go.jp/article/spls/8/2/8_20/_pdf/-char/ja
ソーシャルワーカーにとって,担当する地区の労働市場の動向や,具体的な雇用政策の内容を十分に把握し,専門的に就労支援を行うことは困難である
筆者の調査時に開かれたCTI の議題は,「RSA受給者への派遣業務提供事業をどのように効率よく実施していくか」ということであった。
すなわちパリは,今後2年間(当時)で,1000人分の派遣ポストを民間の派遣会社から購入することになっていた。行政が買い取った派遣ポストへ余すことなくRSA受給者の就労先としてあてがう
この雇用政策が実施に移される段階で,ソーシャルワーカーはRSA受給者との面談のなかで,派遣労働可能なRSA受給者に対して,派遣先への就職を参入契約に盛りこむよう提案するのである。CTI では,当初5つのCTI に割り当てた派遣ポストが各CTI 内で十分消化できているか監視する。不均衡が生じていれば,他のCTI との調整が行われ,こうして2年後にはパリが派遣会社から買い取ったポストが“無駄なく”そして“効率よく”消化されることを目指すのである
就労支援と言いつつ、実態は派遣会社から派遣枠を買う→それを「効率よく無駄なく消化」するために、生活保護受給者にあてがうべく調整が行われ、受給者は参入契約を盾にとられるので最終的に抗えない
この行政と民間斡旋業者の取引によって、さて何が起きるだろうか
条件の悪いブラックな派遣案件を扱う業者に公金が流れ、劣悪なブラック職場は温存され、労働市場全体の質が低く保たれるという弊害が起きてしまうのだ
他にも、上記リンクの寄稿では、このような興味深いことも書かれている
基礎RSA では37%,そして活動RSA では12%が,フルタイム労働時間の半分に満たない超短時間労働に従事している状況である。
超短時間労働者率が全被用者の7%でしかないことにかんがみると,基礎RSA の超短時間労働者は圧倒的に多いと言える。
しかもこのような短時間労働への従事が大半の場合,本人の希望に反してなされている。先のDARES調査によれば,基礎RSA の短時間労働の88%が,そして活動RSA でも短時間労働者の74%の人が,「希望する労働時間よりも少ないためもっと働きたい」と望んでいるのである。
早い話が、自立できるようなまともな仕事は斡旋されず、スキマバイトの売れ残りのようなものを弱い立場の人に押し付ける、みたいな構図なのだ
さて、ここまで色々言ってきたが「受給者の分際で選り好みするな働け」という意見で一貫してるならまだいいのだ。一理はあるから否定はしない
しかし、だ。ここで思い出してほしいのだ。ブクマカによる大阪パソナ生活保護就職サポート大叩きを
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.jcp.or.jp/akahata/aik24/2024-11-21/2024112101_02_0.html
失業で困窮して生活保護を申請した30代男性は「再スタートを決めて最後のライフライン(生活保護)に頼りました。派遣生活で疲れ果て、安定した正規雇用の職をじっくり探したいと伝えたのに、パソナの派遣職員に『何でもいいから』と言われました」と絶望。「このままでは生活保護を開始できないと言われ、生活できないので、希望とは違う会社にも応募。
なのだが
「邪悪な仕組み」「官製貧困ビジネス」だったわけだが、ここで改めてフランス生活保護の現実を振り返ってみよう
①『何でもいいから』と言われました」と絶望。「このままでは生活保護を開始できないと言われ、生活できないので、希望とは違う会社にも応募」
②「求職活動をしなければ保護が受けられなくなる」などの言葉で、利用者に「指導」を行う違法な事例も報告されている
フランスのRSAを日本で導入すると、少なくとも①と②は違法でも問題でもなくなるのだ
なにせフランスの就労指向型生活保護では①が合法的に行われており、②も首都パリで同様のことが行われていたのだから
「フランス素晴らしい!真似しよう」と主張するなら、大阪パソナの事例は当然導入後は叩けなくなる
また
③「就職サポートの支援ミスマッチは数字を見れば明らかで、ただの大手派遣企業のもうけ口になっている」
も、パリの事例と「基礎RSA の短時間労働の88%が,そして活動RSA でも短時間労働者の74%の人が,「希望する労働時間よりも少ないためもっと働きたい」と望んでいるデータがあることから
フランスのRSAでも起きていることであり、「フランス素晴らしい!真似しよう」と主張するなら(以下略
◆結論
まあ、結局「日本でもフランスでも制度理念や目的だけは素晴らしい制度ってあるんですよね、色々と。でもそれだけで良し悪しを判断したらダメだよね」ってことなのだ
散々揉めた高プロや裁量労働制だって、政府の主張する理念や目的だけを聞くと「全然悪くないもの」に聞こえなくもないのだ
でも、だ。こういう制度は「実際に社会にどう実装されて、どんな副作用が起きうるか」までしっかりみて検証しないと、良し悪しの判断なんて到底できない
その当たり前の意識がブクマカさん欠けてませんか?と問いかけたところで、この話を一旦締めたい
Permalink |記事への反応(10) | 00:32
西海岸でITエンジニアとして3年ほど働いたので、その感想を簡単に共有して海外で将来働いてみたいと思っているエンジニアの知見になれば幸いです
最新の技術や手法をちゃんとキャッチアップして、社内でそれなりの信頼を得て相談されるくらいの人ならすぐにでもこちらで通用する技術力だと考えて良いです。
ただ、基本的にやり方も使っている言語も新しいものばかりの企業が多いので、クラシカルな手法で働いていてあまりモダンな環境にいない場合はミスマッチとなってしまうかもしれません。
あと、仕事時間はマネージャーでもない限り基本的に定時で皆さん終わります。
日本とアメリカの最大のギャップとして、定時で終わらない場合にどんな問題があるのか深掘りされる傾向があるところですね。
定時で終わるべきタスク内容に時間がかかっていると判断されるとかなりネガティブな評価となります。
スプリントのように集中して仕事して、定時で帰るようにするのは少し慣れがいるかも?
物価はめっちゃ高いです。特に日本で外食中心で生活していた人はそれをするには年収40万ドル以上は必要だと理解しましょう。
私の感覚ですが、年収20万ドルくらいで日本の400万くらいの生活になりますかね。節約すれば少しはお金も貯まる的な。
よく言われる医療費ですが、フルタイムで仕事している場合はかなり充実した医療保険に会社が入ってくれてるケースが多いので、正直そこまでの心配は要らないと思います。
なんなら日本の社会保険料よりも安くない?と思っているくらいです。これは本当に勤務先次第かもしれないので面接などで聞きましょう。
家賃は正直探し方次第です。
最貧困層が住んでいるところは勿論治安が悪いのですが、普通の人が住んでいるところは普通に平和なので、無理して超安全で高級老人ホームなどが近くにあるようなところに住む必要もないのかなーと思います。
色んな国出身の人がそれぞれ色んなアクセントで英語を話しながら生活しています。
具体的にはKevin'sEnglish Roomのやまちゃんくらいの発音ができれば通じないことは殆どないんじゃないかと思います。
ただ、リスニングは頑張ってください。日本の英語教材の2倍くらいの速さでギュッと縮めた感じで話されるイメージです。
こちらのアクセントを聞き取ってくれるアメリカ人もこちらに配慮してゆっくり話すなんてことは絶対にしません。普段通り皆さん話します。
あとそんな大きな声ではっきり話してくれる人ばかりではないです。(考えてみれば当たり前ですね)
映画やドラマだけで英語のリスニングを勉強していると意外とリスニング苦しみます。私は苦しみました。
IT界隈でもアクティブな趣味を持った人間が多くてとても楽しいです。
身体を動かす趣味やハイキング、キャンプやビーチ遊びなどもみんな大好きですね。とても楽しい。
気候が年間通してめちゃくちゃ良いのもアクティブになる理由かもしれません。
日本の夏とか冬って全然外出する気がなくなるのですが、こちらは本当に湿度も気温も快適で過ごしやすいです。
東京の夏とかSNSで見るだけでもう働けないなと思ってしまいますね。
あと、アメリカ人は極めてオープンで社交的なので、普通に日常を過ごしながらウィークエンドを友達と遊びにいくだけで話しかけられたり流れで食事をしたりして友人が増えていくのがすごく新鮮で楽しいです。
土曜日に知り合った家族の子供に日曜にはサッカーを教えていたなんてこともありました。その家族には今も仲良くしてもらっています。
レストランで席が近いだけで話が盛り上がって、別れ際に「そういえば私の電話番号まだ聞いてないけどいいの?」とか「また飲みたい。DMするからアカウント教えて」とかハッキリと言われます。日本ではそんな経験無かったのでドキっとしましたね。
これは本当に余談ですが、こちらはおしゃれでスタイルの良い女性がとても多く、そういう方とも付き合うチャンスもあるのですが、セックスもそれなりの頻度求められるので体力はつけましょう。
仕事や勉強を優先して週1とかになると、それを理由に振られます。仕事も恋人も体力勝負です。
歴史的に車社会だったところに車を持てない貧困層のためにメトロやバスなどの公共交通が後付けされた社会のため、基本的に車以外の移動手段はめちゃくちゃ治安悪いと思ってください。
メトロを一度も利用したことないという人は沢山います。常に大麻の匂いがしていますし、当然私も利用しません。好奇心で使ってみるのもオススメしません。
ハイウェイやフリーウェイは非常に広くて運転しやすいですが、市街地はなんだかんだ路肩に駐車している車のせいで狭くなっています。日本での運転経験がかなり活きますね。
地方在住のエンジニアであれば常時右折可などのルールに慣れればすぐに運転できるようになると思います。
東京在住で週末ドライバーのエンジニアは3ヶ月くらい毎日乗る時期を作って訓練した方がいいかもしれないですね。
たまにアメリカ人は運転が下手とか駐車が下手とか日本語で見ることがありますが、そんなことないと思います。
一人一台車を持っているような社会なので、運転が当たり前の社会です。そんなに下手な人いません。
能力ある方も多いはずなのに、同じ人種の韓国人や中国人に比べて日本人と会う機会がめちゃくちゃ少ないです。
要約:自分を否定する努力より、自分の肯定につながる努力をしよう
https://anond.hatelabo.jp/20241221204350 を読んでhttps://anond.hatelabo.jp/20241222173557 を書いたら、当事者より「努力するなは死刑宣告のように聞こえる」「何をするかを書いた方が良い」とお叱りを受けたので、再考して書いてみる。
はじめから言っておくと、俺は当事者ではないし、タイトルの答えは知らない。ただ、いろいろASDのことを学んだり、仕事で接するなどしてこうしたら良いらしいと理解したことを書く。
当事者の方が俺に文句を言いたいのであれば、これを叩き台にしてぜひより良い策を書いてほしい。
まず成人のASD当事者が定型発達の社会に沿って生きようと努力すること自体は尊重されるべきだし、それを無碍に否定することは当事者にとって絶望感を与えてしまうかもしれない。
ただ、支援者としては努力を続けて行くことで二次障害を起こしてしまうことを恐れている。ASD当事者の中には常に頑張りすぎて自分が高いストレス状態にあることに気づいていないこともあると思う。
努めて人とコミュニケーションをとろうとするのはいいが、やはり自分自身の心身の健康を最優先してほしい。努力した分と同じくらい、自分がリラックスできる環境や時間の確保をしてほしい。
ASDは感覚の過敏や偏りがあることがあり、例えば聴覚による情報処理が苦手な場合がある。人の空気が読めないといっている人が、実は音声の会話が苦手なことが主要因で、テキストチャットだとうまくコミュニケーションがとれるケースもある。
コミュニケーションの取り方は色々あるので、自分の気持ちを伝えるためにどんなツールや媒体を使うと一番スムーズなのかを考えて、大事な話は極力そうしたツールを使うようにしよう。
ここまではASDと診断されなくてもできることだが、やはりコミュニケーションの困り事がある人は専門の病院にかかって診断をもらった方が良い。その理由はいくつかある。
一つは、自分が遭遇している障害の全体像をきちんと把握するために必要な情報が得られるから。当事者自身はコミュニケーションで悩んでいても、実はそれが聴覚などの感覚の問題が起因だったりすることもあり、当事者が気づかない問題が起こっていることもある。客観的な医学知識に照らしてみることで問題の解決につながることもある。
もう一つは、合理的配慮などの各種取り組みは診断があることが前提になっていることもあり、とれる選択肢が増えるから。以前も書いたけどASDは本人のコミュニケーションスタイルや感覚がマイノリティであることで、周囲の人や環境とミスマッチを起こしていることが障害の原因である。なので、本来は当事者の特性に合わせて生きやすい環境や人との関わり方を調整して行くことが望ましい対処法になる。
環境は不変なもの、正しいものではなく、変えられるものしていけるように、使える選択肢は増やした方がいい。
当事者研究というのは、障害当事者など何らかの困り事のある人が、自分自身の困り事を探求し、自分独自の「病名」をつけてその対処法を研究すること。基本的には当事者のコミュニティの中で「研究会」として開催し、当事者同士が話し合いながら行うスタイルが多い。
当事者研究はもともと精神障害当事者が共同で暮らす「べてるの家」で始まった試みであり、障害者自立活動とアルコール依存症の自助グループ活動の2大潮流が合流して生み出された(綾屋紗月 2023)。精神医学の言葉や概念ではなく、自分自身で生み出した言葉で苦しみを仲間と共有することで、当事者が実践できる生活の方法を考えられるとして2010年代あたりから全国的に認知されるようになった。
こう説明されると、結局当事者が努力してるじゃないかというツッコミを受けるかもしれない。だが当事者研究が普通に頑張るのとは異なる利点がある。
一つは、障害と自己を切り離して考えられること。自身の障害について考えたり「克服」しようと思うと、どうしても自分の人格を否定してしまうことにつながりがちだ。そうなると、努力する分だけ自己肯定感が低くなっていき、過大なストレスを抱えてしまう。当事者研究は自分が抱える障害や症状「研究対象」として名前をつける(例:爆発さん、幻聴さん、おこるちゃん)。そうすることで、障害を自分の一部ではなく、自分のそばで起こっていることとして冷静に考えることができる。
二つ目は、自分だけでなく他の当事者への貢献になるように自分の問題を考えること。当事者研究は「研究」なので、同じような状況に陥る人の役に立つようなソリューションとして言語化することが求められる。そうすると、これまで自分のためにやっていたことが、他人のためになる活動に変換され、自己肯定感を高めることができる。その人はその障害の苦しみを理解できる「専門家」となることで、障害経験をポジティブに捉えることができる。
このように自己の人格を否定することなく、距離をとって自分が遭っている障害を仲間と一緒に見つめることで、建設的に今後のことを考えることができる。
ここまで長々と書いてきたが一言で言えば上の言葉に尽きる。自己を肯定できないソリューションは続かない。どんな方法であれ、ありのままの自分を肯定できることにつながらなければ、本当には当事者を救う術にはならないのではないだろうか。
追記: 要約
追記2: じゃあどうすればよいのか?という方向で再考してみた。
https://anond.hatelabo.jp/20241223082309
===
https://anond.hatelabo.jp/20241221204350
上の増田を読んでめちゃくちゃモヤモヤしてしまった。俺は色々あってASDの子を育てたり職場でASD/ADHDの若者の相手したりメンタルを病んだ家族をケアしたりしているのだが、増田は色々誤認したり、あまりよくない方向性に向かおうとしたりしているように感じる。以下、俺がモヤモヤしていること3選を書く。
この増田の友達もそうだが、困り事が明らかにASD(自閉スペクトラム症)だったり他の障害の特性なのに雑にADHDに括ろうとする人が最近多い。「ADHD」という名前だけ知っていて、その内容を知らずにいるのは単なるレッテル貼りにしかならないので非常にもやる。
以下の解説記事にもあるように、本来ASDとADHDは異なる特性や障害パターンを持っている。増田のような「空気が読めない」「相手がどう考えているかが分からない」という主張はどちらかといえばASDにあてはまる。
https://h-navi.jp/column/article/167
ADHDは薬の服用によって生活が改善されやすいが、ASDに対しては同様の薬物療法はない。当事者に対する周囲の働きかけ方や配慮も異なってくる。なので、混同するのは危険がある。
実はASDとADHDは併発していることも多いので、ASD当事者がADHDに悩むこともあるし、その逆もある。こうした混同が起こる背景には、かっての精神医療の診断基準ではASDとADHDのどちらかの診断がおりたら片方の診断がつけられなかったこともあるらしい。ただ、必ず併発するわけでもないし、上に書いたように対処法にも違いがあるので混同すべきではない。
俺は大学で働いているので日常的に学生と接している機会が多いのだが、診断をもらって告知してくれている学生の対応は正直あんまり困らない。今は合理的配慮などの兼ね合いもあって障害に対応する支援制度や連携の仕組みがいろいろあるので、障害があることが分かればできることも多い。
困るのは側から見て明らかにASDの特性があるのに気がついていないか、うすうす気づいていても自分の頑張りだけで対処しようとするケース。そうなるとこちらからは障害があると断定できないので、使える対処法が限られてくる。例えばASD当事者の中には音声から得る情報の理解が難しい場合があるので、その際は当事者の配慮願いを通じて教員の話していることをノートテイキングしてくれる支援者を配置することができる。クローズドであると、そういう配慮によって学生の障害を無くしていく手段が取れない。「単に授業を聞いてなくて成績の低い学生」扱いされる。かと言って、「君は障害があるようだから病院行って診断もらってきなさい」と言うのはできない。そうこうして行くうちに学校に行かなくなってドロップアウトしていく。そう言う学生を何人も見てきた。
そう言う実務上のことはさておき。何より、1人で抱え込んで苦しみ続ける当事者を見ているのは、こちらが辛い。みんな深刻な顔をして「すみません……頑張ります……もっと人のことを考えます」と言うのだけど、こっちからしたら「もうこれ以上頑張らなくていいから、専門家と連携して生きやすい環境作ってこ!」と言いたい。
ASDの診断がおりたとして、そのことを受け入れられないこともあるだろうし、診断を受けることに抵抗感があるのは理解できる。それに、増田はもう社会人なのもあり、現在のASD当事者の就労環境の状況を鑑みるとだいぶ支援体制も厳しさも違うと思う。
だけど、少なくとも言えることは、俺がもし増田の同僚や上司だったら、増田の困り事がどう言うもので、何が原因となっていて、どう配慮すれば良いのかを知りたいし、その方が助かる。診断を受けることは決して努力を放棄することではない。自分が何を苦手としていて、どんな助けを必要とするかを周囲に伝えるのも立派な努力だと思う。
この増田は人の気持ちが分からない、空気が読めないことを克服したいと考えている。それが問題だと捉えている。だが、正直俺からしたらもっと深刻な問題は増田がなまじ頑張れてしまっていることだと思う。
普通の人が頑張らなくてもできることを年がら年中頑張ってエミュレートして仕事をするのはとても疲れる。それは一時的に問題を解決しても、到底持続することはできない。
これは子供の発達支援界隈でよく言われているらしいが、ASDの子供が療育を通じて保育園や幼稚園の生活を円滑に送れるようになった時が一番危険だと思われているようだ。というのも、表面的には子供が「普通」になったようにみえ、周囲に馴染めていても、本人の内面は変わっていないので、常に気を張り続けていて普通になろうと頑張ってしまう。すると非常に高いストレスが体を蝕み、ある日登園しようとしても気持ち悪くなっていけなくなってしまうことが起きる。
発達障害の本当の問題は、鬱など他の精神障害を引き起こすリスクが跳ね上がることだ。 「重ね着症候群」と呼ばれることもあるが、一見、本人の頑張りで障害が克服されているように見えても、それはむしろ二次障害のリスクが高まっているという点でより事態が深刻になっているかもしれない。
これを書くと余計長くなるが、ASDのコミュニケーション障害は、ASDの考え方や感じ方がマイノリティな形をしており、周囲の人間とミスマッチを起こしていることが原因である。ミスマッチが原因なのだから、俺にとっては、本来ASDだけが頑張らなきゃいけない謂れはないんじゃないかと思う。
増田の努力は素晴らしいし、尊重されるべきなんだが、鬱で生活がままならなくなるよりかは、開き直って周りに迷惑をかけてしまった方がいいんじゃないかと思ってしまう。そうして、本来コミュニケーションとはままならないもので、それぞれの人の多様な考え方があるんだと言うことを気づかせていったほうが、結果的には社会のためになるんじゃなかろうか。
これは当事者のそばにいるものの傲慢な意見でしかなくて、増田の気持ちに寄り添えていないのかもしれないけど。少なくとも俺は増田がもっとありのままでいられる生き方をしてくれたらと思う。少なくとも増田が恐れているような人間ではない、増田なりに人の気持ちを考えている人だと俺は思うぜ。