
はてなキーワード:マニュアル化とは
本人的には自衛のために編み出したのだろうが、傍目には馬鹿を拗らせてるだけのダメな受け答えのパターンがある。
そういうことをやってると誰も対等に扱ってくれず社会の中で孤立を深めてしまうのだが、悪循環の中にある当人にはそれがわからない。
なぜ〇〇なんだ?という問いに「じゃあ✕✕はどうなんだよ!?」と反射的に返すWhataboutismは典型的な例だ。本人はうまく“対消滅”させたと思っているが、傍目には返答をネグって勝手な話を始めただけである。本人は「上手いこと言い逃れた」と思ってるが実際はただ嫌われ、見下されただけ。
これが「なぜ〇〇なのか」の答えを即答するのでなく余裕を持って検討する上で✕✕を参照してみようという持って行き方だったら
大枠として同じことを言っていても他人が受ける印象は全く違う。
他人に迎合はしないが無用の反発や侮蔑を買わない、ある意味ずるい大人としての物言いは「恋愛工学」みたいにある程度マニュアル化できるし、訓練で身につけるのも可能である。
にじさんじのanycolorね
持ち始めて2年くらいになるけど、株主総会みたのは初めて
Vtuber会社なのでライバーの絵でも声でも出てくるかと思ったけど、特にそんなことはなかった
序盤はわりとクリティカルな事業への質問が多く、ふむふむ、と思いながら話を聞く
しかしだんだん、「もっとノウハウをマニュアル化して共有することでバズを量産できるはずだ」みたいな、面白いとは何なのか全くわかってない質問が出始め、、、
「ライバーは絵でありキャラなんだから俗人化を避けてAIで回すことも可能だろう」のような、ライバーさんの尖った感性で稼がせてもらっていることを全く認識していない意見も出て、、、
挙句の果て、「ライバーに数値目標を出させて契約で縛って稼がせるのがよいのでは」みたいな、富樫にも同じこと言えんの?みたいな意見も出てくる始末
そして「Vtuberのことはよく知らないんですけど、、」とか言いながら質問する人も出てきて、よくそんなんで株買って、しかも株主総会まで来たな、と
ライバーさんって社会不適合だけど、社会不適合であるがゆえの希少で尖った感性で色んな活動をしてもらうことにより、常識人じゃ見られない言動や個性の表出が稀にあって、それをありがたく拝受させてもらうってのが楽しみ方でしょう?
アンジャッシュみたいな計算済みの計画通りのコントを楽しむものではなく、想像だにできない感性がぽろぽろこぼれ出ることで自分の価値観や世界を広げていく楽しみがあるものでしょう?
漫画家さんとか小説家さんとか、ライバーに限らずあらゆるクリエイターってそういうもんじゃん(まあ最近のライバーもクリエイターも真っ当な常識人のいい人多くなってるけど)
クリエイターって、クリエイターって生物しかそれになれないんだし、学んで作れるものでもないじゃん
つまりはライバーさんって、水族館の魚だったり、動物園の動物みたいなもので、野生じゃ生きれなくても、保護してお世話して機嫌よくケージで暮らしてもらうことで、様々な気付きや学びや癒しや楽しみを与えてくれるものなわけじゃん
それをさあ、1日6時間は起きてガラスの前で餌を食べること、みたいな契約をコアラにさせようとしてどうすんのさ
そりゃ人と協力して輪っかくぐったりできるイルカのようなスーパーなクリエイターもいるよ?
でも稀じゃん、そんな人
そんなスーパーな才能はテレビ出てマルチタレントすりゃいいじゃん
でもライバーは、それは無理だけど、その人しか持ち合わせない感性があるわけでさ、夜行性館で見たことないネズミが跳ねてるところ見て楽しむような体験がそこにあることもあるわけじゃん、それはテレビでは見れないじゃん
その出し物は、ライバーさんが社不でも個性出して大丈夫って思えるような安全な環境に素のままいてもらえないと成立しないわけじゃん
マニュアル通りやって月3回バズりなさい、みたいなのって面白みの対極にある発想じゃん
でもさー、投資家たちは営業さんを数値で追い込む感覚でライバーを数値で詰めて使い潰そうって発想で質問してるわけ
心底恐ろしいなって思ったよ
経営陣は、ああいう質問が株主の総意ではないことを認識してはいると思うし、ライバーをしっかり守ってくれると思っているけども
本当にぶれずに、希少な才能を守ってもらいたいなって思ったよ
その人は独特なアニメへの考え方があってそれと実際のアニメが乖離しているという話だ
そしてその中で声優の演技というものが「自然ではない」と気づいて拒絶反応を示している
正直この人の話を半分も理解していないのだが、ほかの増田やブコメは一部分だけを切り取って声優の声を否定する意見をたくさん出していて、やっぱりはてなの民は頭悪いなとは思う
だけどそれ以上に42増田は深刻かもしれないな
42歳増田にとってアニメの演技はマニュアル化されたものであって、高度に記号化された表現だと言ってる
だからそれにいかに近づいているかで視聴者は上手い下手を振り分けていたが、42歳増田は現実の地続き(?)としてアニメを見たいたせいで、現実にこんな演技や挙動をする人はいないということから拒否反応を示しているそうな
俺にとってこの42歳増田がアニメに対して具体的に何を期待してどういうものをみたいのかはわからない
そしてこの人がなんで棒読みな素人のほうがよく、アニメ声優がダメというのかも理屈としてあまり理解できない
それは俺自身が演技やアニメへの教養が低いからというものがあるが、そもそもこの人が見ているものが曖昧過ぎ、そして明らかに変な心理状態なことが理由だと思う
中年がこうやって価値観を破壊される場面はいくつも見てきたけど、その末路は大抵どうしようもないものだ
こういった人が辿るのはおそらく過去の作品の中に自分の理想を見つけ出そうとして、その中で特別な存在に位置付けたものを妄信するようになるだろう
あるいは既存のアニメや演技というものを否定して、自分の考えに迎合しそうな人と徒党を組んで変な活動をするかもしれない
そうする背景には、自分の中にある理屈がいかに理路整然としているかをアピールしないと気が済まないためだと思う
何となくやめたとか興味を失ったとか、そういう曖昧なものだと今までの自分の考えや志向を無益なものとして、サンクコストに溺れてしまう
だからこそ「ある時気づいた」という風にして理論武装しなければいけないとおもってるんじゃないだろうか
そういう人って結構頭いいし、声もでかいから賛同する人も結構いるんだよね
なんか違った程度でふわふわと生きていていいのにね
歌舞伎は退屈だし、漫才は何言ってんのかわからない早口バトルにしか感じないし、Youtubeのサムネは似たり寄ったりな煽り文まみれで気持ち悪いなとは思ってる
もしも知り合いに漫才を進められても「俺は嫌いだ」っていって多分見ないと思う
そこで「なんで」って言われたらたぶん口論の中で自分の中の理屈を披露してしまうかもしれない
けど自分の中の理屈って正直相当いい加減でしょ?他人に話したところで理論武装として使えなくもないが、別にそれってDIYで作られた仮初のガラクタみたいなもんだ
そんなので他人と戦ったり、自分を奮い立たせる必要って本当にあるんだろうか?
42歳増田は自分の中の何かを露呈して頑張って理屈にしているけど、俺からすれば「あーはい、よくわかんないけどアニメみるのが嫌になったんだね。お疲れさん」程度なんだよね
だってこの人のいう自然な演技ってのがこの人の中で完結している理屈だからね
「自然」ってなんだよww
けどこの人にそんなこといっても通じないだろうし、俺自身がどうでもいいと思ってるからさ
本人は良かれと理論武装しているつもりだろうけどさ
いい加減に生きてテキトーな考えでのほほんと過ごしていくよ
確かにそのレベルの新人を一人前に育てるのは相当な苦労だし、正直コストパフォーマンスが悪すぎる。Fラン文系卒で四則演算すら怪しいって、IT業界の即戦力には程遠いし、そもそも基礎がなさすぎてどう教えればいいのか途方に暮れるのもわかる。
企業側の「とにかく人が欲しいから採用した」って判断が裏目に出てるパターンかもしれないけど、そのしわ寄せが教育担当にきてるのが辛いよな。
「AIとクラウド化でSESのポストが減っている」っていうのも事実だし、下積みのポジションがどんどん自動化されている中で、人手を補充するために未経験者を無理に放り込んでも成果には繋がらない。結局、育ててもポストがないか、他の現場で役に立たずに終わる可能性が高い。
かといって、上層部に「これ以上は無理です」と突き返しても評価を下げるリスクがあるから厄介だな。せめて育成方法をマニュアル化して、「ここまでやってダメなら仕方ない」って形にしておくと少しはリスクヘッジできるかもしれない。
正直、そういう人材の教育に時間を割くよりも、既にある程度スキルがある人をさらに伸ばす方が効率的だよな。今の状況、どうやって乗り切るつもり?
親族が亡くなった。悲しみの中で、私はあることに気づいた。死後の手続きが、驚くほどスムーズに進むことに。
死亡届を役所に提出すると、淡々と手続きが進み、戸籍に反映された。銀行に連絡すると、口座は即座に凍結され、相続の準備が始まる。年金事務所に問い合わせると、受給停止の案内が送られてきた。葬儀社は遺族の負担を軽減するために動き、病院も「事務的」に死を扱う。
この「事務的」という言葉に、私は最初、違和感を覚えた。しかし、時間が経つにつれ、それがどれほど大切なことかを理解した。悲しみに暮れる遺族が、感情に押しつぶされながら煩雑な手続きをこなさなくて済むのは、すべてがシステム化されているからだ。
日本の社会は、こうした「死の処理」を徹底してマニュアル化している。そこには人間味がないようにも見えるが、実はそれこそが、遺族にとっての最大の救いなのではないか。もしも役所の担当者が毎回感情を込めて対応していたら、処理は遅れ、遺族の負担は増し、社会は混乱するだろう。冷たく見える仕組みこそが、実は多くの人を支えているのかもしれない。
しかし、この「完璧なシステム」にも、落とし穴はある。私の親族は生前、経済的に困難な状況にあった。病院に行くのをためらい、生活保護の申請も躊躇していた。日本には助けを求める仕組みがあるのに、彼はそれを利用しなかった。
「申請しなかったのが悪い」と言う人もいるだろう。しかし、本当にそれでいいのだろうか。なぜ彼は手を伸ばさなかったのか? それは、社会のシステムが冷たいからではなく、「申請すること」が恥ずかしいと思わされる風潮があるからではないか。
結局、社会は守るべき人を守る仕組みを持ちながら、それを「利用しにくいもの」にしてしまっている。私は、親族の死を通して、日本のシステムの「優秀さ」と「盲点」の両方を見た気がする。
「自己責任」ではなく「自己防衛」の時代。私たちは、社会が用意した仕組みを、もっと気軽に使えるようになるべきではないか。親族の死を経て、私はそんなことを考えるようになった。
暇だから
これは難しい・・・例えば仕事に関することも、仕事自体嫌々やっている所があるのでそこまで興味持てない。自分の特性的に興味ないことに自主的に取り組もうとは思わない(思えない)。
そもそも有意義かどうかは誰がどのような尺度で決めるのか?これは自分の主観で決めれば良い。要するにその暇つぶしで自己満足出来るかどうかであるが、何を持って自分が満足するのかという分析をしなければならない。これを完全に明確にすることは恐らく難しいだろうけども、一つの要素としては積み重ねというか、進歩してる感があると満足感を得やすいかもしれない。逆に言うと、変に数値化出来る指標があると、例えそれが本質的に(自分の中では)無意味であっても、それに固執してしまいがちではある。増田でいうとトラバやブクマ(ブコメでいうスター)であるが、これは要するに他者からの評価であるので、本当に自分がそれを求めているのか原点に立ち返って考えなければならない。伸びる増田を書く為のHow to的なことをマニュアル化したり、ブクマ数をコンスタントに伸ばすことが出来れば満足しそうではあるが・・・そこまで増田に熱意を持っていない、というより、根本的に能力が足りていない。何をしていても結局は自分の能力(+知識など)に向き合う必要があって、それは苦痛を伴う作業な訳だけども、それを乗り越えるために必要な一つの要素は、ある種のしつこさというか執着心なのかもしれない。何書いてるのか混乱してきた。とにかく一番書きたいことは仕事したくないというこであろう。おそらく。
・・・ここまで書いてきて自分がなぜ増田やはてブを辞めたがっているのか少しだけ分かった気がする。少なくとも一つの要素としては不満、それは要するに他人に勝手に期待して自分の思い通りにならないから駄々を捏ねているということ、があって、しかし他人の評価は自分ではコントロール出来ないので無力感を感じている、というかもしれない。これはそういうことを(不満に)思うこと自体が理不尽だと頭ではわかっているのだから、他人から評価してもらう為に努力する(それらの方法論について調べるとか???)(←これは自分の特性を考えても無理なのは明らかではないか?)か、あるいは他人への一切の期待を辞めて自分が本当に書きたいことがあるときだけ書く、という感じになるかな。完全に割り切るのは難しいと思うけど。どちらにせよ(←実質、他人に期待しない方法一択)自分を変える訓練というか、苦行を伴う面があるのでそれに耐えられないのであれば結局は辞めることになりそう。いずれは。結論としては、結局最終的には自分の内面とどのように向き合うかという、ひたすら内向きの思考をすることになるのだな。
文学部になんか行くな、勉強しても報われないぞって初めから言え
https://anond.hatelabo.jp/20220114133403
の筆者です。三年後の現状を追記。
当時叱ってくれた人、励ましてくれた人には心から感謝しています。
当時たくさんの方からいただいたアドバイスを元に、学部四年生ながらにできることはたくさんやってみました。手遅れ感はすごかったけど、もうこのまま色々なことから逃げてはいけないと思ったので勢いだけはあった。
・教職を取る
・ボランティアに参加する
・長期インターンで働く
・バイトをする
・心理学の本を読む
教職はめちゃくちゃ大変だった。大学四年生にもなって(しかもあそぶんがくぶ)、教職=専門科目+教職科目で時間割はいっぱい。毎日朝9時から夜8時まで授業が詰まっていて、土日も現職教員が教えてくれる授業に出ていった。
ヒーヒー言いながら頑張ったが、教職はとてもいい人間関係のリハビリにもなった。教職科目には大体グループ活動があるから、強制的に人と話さなければならない。四年生という引け目がないわけではなかったが、もうそんなことは言ってられないので自分なりに必死で喋りました。幼稚園児ですかねマジで。
バイトは販売。これがまあ、コミュ障の俺にとっては試練だった。仕事も覚えられないし、勉強しかできない自分の無能さを思い知った。
心理学の本を読むのも、コメントでアドバイスしてもらったことだ。アドラーや加藤諦三を読んだ。今となっては極端な自責に繋がりかねない書籍のような気もするが、でも他責クソ野郎の俺には根本的な考え方を改めるのにとても役だった。
とにかく反省を活かそうと、いただいたアドバイスを元にたくさん行動してみた四年生だった。
あれだけけなしていた文学分野でアカデミアに進むというのは、当時呪詛を吐きまくっていた俺を知る人からすれば晴天の霹靂というか、お前全然教訓活かせてねえじゃんアホかという感じだろうか。
でも行動してみて、色々考え方も変わった上での決断だ。理由はいくつかある。思いつく三つを挙げておく。
第一に、企業勤めをするのが俺にとって、社会にとって良いとは限らない気がしたこと。
研究とお勉強は違うが、それでも俺は昔から学ぶことばかりしてきた身だ。しかも、我儘を言って実学ではない分野で学ばせてもらった。
ならば、急カーブで別分野に就職するよりも、過去を活かして学びの分野にとどまり続けることの方が、俺にとっても社会にとってもいい結果になりうるんじゃないかと思った。
これだけ親から投資を受けて学ばせてもらったのだ。ならばそのまま学問を追求し続けることもあながち無駄ではないだろうう。
文学研究が分かりやすく社会に実利をもたらす行為だとは思わない。でも、俺が過去に培ってきたことを活かすという点においては、アカデミアも立派な将来の選択肢になるはずだ。それがお先真っ暗であろうと。
またバイトとインターンをして思ったが、俺は実務ができない典型的な(?)勉強バカだと思う。必死でメモをとってそれをマニュアル化し、いちいち参照しないと仕事ができない。自作マニュアルを参照してもノロいし、小回りが利かないから役に立たない。試験はあれだけホイホイできるのに、真面目に働こうとしてもなぜダメダメなまま成長しないのか。応用が効かないわ怒られるわヘマするわ、周りの社員にも「こいつ○○大なのにこれかよ」って思われてた気がする。
こんな俺なので、社会に出て企業勤めしたところであまり役に立てないように思う。
第二に、クソ大変だったが何とか教員免許を取得したので、博士課程に進んで落伍してもまだ道はあるだろうということ(現代日本は教員不足だから)。
学んだことを活かせる仕事に就ける保険があるのは、かなり心強い。
第三に、やっぱり文学が好きだった。
文学ができることの一つに、「目に見えないものを表現できる」というのがあると思う。
俺という人間は、履歴書に書けば「文学部修士二年生」というただの一身分しか持ち合わせていない。
だけど、その称号の裏には「文学部生という経歴によって就活が台無しになったと思ったが、己の他責思考や逃避癖や高すぎるプライドが原因で先延ばしにしていた挫折を一気に食らっただけだった」という物語があるわけで、この物語の前にも途中にも後にも色んな感情が存在している。焦り、恐怖、驕り、不安、自己陶酔、万能感、劣等感、諦め。
こういった説明し尽くせない心持ちを表現するのが芸術で、その一分野が文学ではないか。
不要だと切り捨てられかねない人間の心情や葛藤や倒錯が好きだ。それを内包する表現形式を、文学をもう少し研究してみたいと卒論を書きながらそう思った。
そして二年たっても「もうちょっと研究したい」が終わらず、このまま博士課程に進むことに決めた。
修士一年のときに父が先立ち、一人親になった。親類も一人亡くなって経済的にかなり困窮している。
博士課程からの奨学金にはなんとか内定したが、それでも母を安心させてあげられなくて申し訳ないと思う。奨学金なんて、人間一人がギリギリ生活する分しか出ないから。
でももう、この先文学やった結果路上で野垂れ死んでも構わない気がしている。俺は元々がクソ性根人間だし、社会の役に立とうとすること自体が思い違いかもしれん。実利や効率とはまるで関係のない文学と数年を共にしただけで御の字だ。どうせこのまま運良くアカデミアに留まれたところで40になっても低収入だろうが、それでももう構わん。
最初は「文学部に行っても報われない」と書いたが、本当は誰に報われなくてもいいということにやっと気づいた。
これが最後の報告になると思います。この先アカデミアに残れずにお先真っ暗になっても、研究職を諦めて教職についても、どうせ俺は社会的無能ですすいませんと開き直りながら生きていきたい。
誰かこれを読む人がいるんだろうか。もしいるならば、当時叱責や励ましの言葉をくれた人に、心からありがとうと伝えたい。変な方向に開き直った感じがしないでもないが、あなたたちのおかげで色んな経験を積めたし、少し変われたと思う。
何より、人と関わることを億劫だと思わなくなったし、怖くて不安でも行動してみる習慣がついた。貴重な教えをくれて感謝しています。
俺は変わらず役立たずとして生きていきます。どうかお元気で。
追記:心配してくれた人がいたので。奨学金は貸与じゃなくて給付です
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