
はてなキーワード:マサルさんとは
ハウスフリッパー2というゲームが週末無料だったのでやっていた。
家のリフォームをするゲームなんだが、まず最初にするのは家中に散らかったゴミの整理だ。食い物のカスやDIYに失敗したあとを始末し、依頼人が既に購入していた家具の開封や取り付けをやっていく。
プレイ中にトイレや食事で席を立ったとき、自分の部屋も案外汚れていることに気づいた。ゲームの中で人の家を掃除してる場合じゃない。
そう気づいてゲームをアンイストール。部屋を掃除し始めたらすぐに疲れてしまったので、もうこりゃしょうがないなといつも通り漫画を読んで過ごすことにした。
とにかく最終話が凄かった。ググったら色々事情があるらしいが、この唐突な意味不明さは相当アレがアレだぜ。直前までだと筆が乗ってきてこっから長期連載みたいなノリでやってたのがラスト数話であれよあれよと崩れていく様はゾッとする。ギャグマンガは頭がおかしくなるって奴かこれが。
知人に「この漫画、めちゃくちゃ面白いよ!」と勧められた。ギャグマンガらしい。
正直ギャグマンガなんて読んだのは何十年ぶりか分からないくらいで、最後にハマったのは多分すごいよ!マサルさんあたりだった気がする。
懐かしいな~なんて思いつつ期待もそこそこに読んでみたんだけど……驚いた。全然笑えないのだ。
え?え?どこが笑いどころ?みたいな。
明らかに何かの作品のオマージュだと分かるんだけど、元ネタが分からない。
たぶん有名なアニメとか漫画とかゲームなんだろうけど、こっちは詳しくないからピンとこない。
読んでて、あーこれは元ネタを知ってる人はニヤリとできるやつねとは思うけど、それだけ。
これは説明が難しいんだけど、要するにその漫画特有の空気とか流れとかキャラのノリとか。
そういうものが蓄積されていく中で成立する笑い。いきなり途中から読んだ人には「え、なにこれ?」ってなるような、そんな笑いだ。
この感じ…何かに似てるなと思った時、ふと思い浮かんだのがダウンタウンだった。
今だと重鎮だけど、当時から彼らの笑いってすごく“内輪っぽさ”があった。
独特の関西弁、独特のテンポ、そして何より彼らの世界観。視聴者側がその空気を理解していないと笑えないタイプの芸だった。
で、それを理解できない人に対して、「お前が面白くないだけだろ」みたいな圧を感じる。
実際、そういう空気があった。あの感じが、最近のギャグマンガにもある気がするのだ。
「この漫画が面白くないのは、お前がおもんないからだよ」と言われてるような、疎外感。
もちろんファンにとってはその文脈込みで面白いのかもしれない。
けど外から来た人間には高すぎる壁だ。なんなら「笑いに参加するには予習が必要です」みたいな雰囲気すら感じる。
それってギャグマンガとして正解なのか?
ギャグって、もっと直感的にうわ、バカだなこいつ!って笑えるものだったはずだ。
元ネタも文脈も関係なく、勢いと馬鹿馬鹿しさだけで笑わせてくるやつ。
それが今や知識と前提の壁に囲まれたインテリ的な笑いになってしまっている気がする。
当然ギャグマンガが全部そうだとは言わない。
でも最近勧められる作品ほど、そういう“内輪感”が強い傾向にあるように感じる。
特定ジャンルのパロディ、ネット文化のネタ、YouTuberの言い回しなどなど。
もはや漫画そのものが、ひとつの“サブカルチャーの世界”みたいな空間になっている。
昔のような誰が読んでも笑えるギャグマンガはどんどん減ってきている気がする。
https://www.ntv.co.jp/program/detail/?programid=202525FD
もうみんな知ってると思うがジークアクスは単体では番組表に乗っていない。
「上田と女がDEEPに吠える夜」という聞いたこともない番組と一緒になってる。
ようするにマサルさんが、深夜のバラエティ番組で放送されてたのと似たようなもの。
こうなるとこのわけの分からん番組内のどの辺りでジークアクス放送がされるのか不明って状態になる。
0:29からか、11:59なのか。あるいは適当に11:59から0:59までのランダムな30分間に放送される可能性もある。
公式サイトの表記通り0:29開始としても前後する可能性はある。
もうだめだ、日テレはまともにジークアクスを放送するつもりが無い。
その証拠に日テレの放送予定アニメ番組一覧にジークアクスが乗ってない
こんなことが許されて良いのか?SEEDに次いでガンダム歴代興行収入2位のアニメの扱いがこれ?
最悪も最悪なのが合体番組になってるから単体予約録画が無理って点。一つの番組扱いになってる。撮ろうとしたら上田も一緒に入ってしまう。
時間指定でやるにも結局どの辺りで始まるから分からん以上、ずれたら悲惨なことになる。
もう最悪だよ上田。
そもそも「Gundam」じゃないと検索ヒットしないって最悪だろ。番組名に「ガンダム」も入れとけよ。
先行上映した理由も分かったよ。これじゃまともにみれるはずがない。
深夜枠放送であることに騒いでる連中を老害なんて言ってたが、俺が間違ってた。
本当に申し訳ない。
日テレはクソだ
ハイキューが最終回を迎えた際、Twitterで感想を漁っていたら、「なんでバレーしてるだけなのにこんなに泣けるんだろう」というファンの投稿が目に入った。自分はハイキューで泣けるほどの感受性はとうに持ち合わせてなかったが、そこから数えて24年前にほとんど同じ気持ちを味わっていた。
井上雄彦の作品に通底するのは徹底したリアリズムである。彼が本作で行ったのは、本気でバスケットボールに挑む人間の思考と感情をつまびらかにするだけで面白くなるということの証明と、人気が出なかった時のため不良路線でも行けるような作風を選んだことだけである(当時バスケットボールがマイナースポーツであったことに留意したい)。この結果、フンフンディフェンスを除くあらゆる要素が後世のスポーツマンガにリアリティの基準点をもたらすこととなった。
桜木花道がバスケットマンに変貌するたった4ヶ月の物語は、命のやりとりや世界が終わることよりも一本のシュートの成否の方が遥かに切実で重要な問題になりうることを、今なお我々に伝えている。
講談社は1970年代末期には後発のジャンプにマンガ業界の盟主の地位を明け渡しているわけだが、それを奪い返す最大のチャンスが90年代後半に訪れた。DB幽白スラダンといった作品が終了した暗黒期のジャンプを、金田一はじめの一歩GTOを擁するマガジンは苛烈に追い上げ、ついには発行部数で逆転したのである。
その中で強引に看板作品に祭り上げられ、ジャンプの屋台骨を支えることになったのが本作だ。後に和月伸宏は「次につなげたい」という気持ちで描いていたと語っている。明治という激動の時代の中で不殺の剣士・剣心が刀を交える相手は、旧時代に未練を持つ者や、新しい時代の荒波に飲み込まれた者たちであった。黄金期と暗黒期の狭間で奮闘した本作のありようは、皮肉にもそこに重なって映る。
ワンピナルトが出てくるまでを空白期間にせず、少年マンガ誌の代表というジャンプのアイデンティティを守りぬいたのは同時代の誰も比肩できない功績だ(幕張や封神演義やBOYSにこの役割を代替できたか考えてみてほしい)。現代のジャンプ読者はもっと、もっと本作に感謝すべきだと、佐藤健の超人的なワイヤーアクションを眺めながら思うのである。
連載終盤、もはや燃え尽きる寸前だったといううすた京介は後年、「マサルさんはシュールではなく、ベタをシュールに見せていただけ」と語っている。自分を含め、多くの読者は同意しかねるだろう。彼が未来永劫に参照点となりうる新たなベタを作り上げたことに疑いの余地はないからだ。
本作はギャグマンガでやってもいいことの範囲を大幅に拡大した。キャラクターの行動原理なんてなくていい。話の展開は唐突でいい。絵柄は毎ページ変わっていいし上手くなくていい。読者が知らなさそうなパロディだって入れてよいのである。現代の観点では至極当然と思える要素を2年弱、全7巻に惜しげもなく詰め込んだ。
彼の次回作(ピューと吹く!ジャガー)ですらも、ついにその革新性を更新することはなかった。90年代にうすたに憧れ新人賞に応募した有象無象のワナビー達も誰一人として出来なかったことを考えれば少しは気が休まるだろうけども。
闇の人格を持つ主人公によるダークヒーローものというコンセプトで始まった本作は、ほどなくしてマジック&ウィザーズという架空のTCGを中心にした物語に変化した。この変化が、数十枚の紙束を並べる行為を、玩具・ゲーム業界において最も存在感のあるエキサイティングな遊びに位置付けることになる。
コナミでは社内の遊戯王関連の部署をしばしば「造幣局」と呼ぶそうだが、紙を刷って売上1兆円に到達するコンテンツなど他に存在しないことの証左である。こうした状況に、高橋和希の優れたキャラクターデザイン、ストーリー構成が大きく貢献したのは言うまでもない。ゲームが友情を育むツールになりうると示し、メディアミックスの力を世に知らしめた功績は間違いなく彼のものだ。
世界で最も多く発行された単一作者によるマンガ作品について何か語るべきことがあるだろうか?まだ言及すべき余白が。本作のように自然にカテゴライズを避ける作品というのは極めて少ない。友情、夢、自由、強さという最もありふれたテーマに挑み、ついにそのすべてを超然と飲み込み描き切ろうとする本作を何らかの箱に入れて理解するのは難しい試みに思える。
毎週月曜日にワンピを読んで喧々諤々と考察できる世界に我々は慣れ切ってしまった。30年間マンガ業界の頂点に君臨する男がいるという現実に。一定の年代以上の人間にとって、本作の終わりがジャンプという雑誌の終焉に見える人がいても無理のないことだ(今ワンピの次に長寿連載しているのはハンタを除けば2019年連載開始の夜桜さんである!)。ルフィと尾田栄一郎という二人の男の、幼少期から練り上げた夢の果てを世界中が見届けようとしているのだ。我々がこうした光景にふたたび立ち会えるかは疑わしい。
幽白は極めて質の高い作品でありながら、冨樫義博が抱える巨大なアイデアの数々を収めきれた作品ではなかった。それでも仙水編と、その後に異例の月一で掲載されたレベルEで前人未踏の領域に踏み込んだ彼は、自身4作品目の連載においても既視感のある展開とご都合主義を執拗なまでに避け続けた。彼の描くキャラクター達は自身が取れる最善の選択を積み上げた末に、我々が期待する最善以上のドラマを生み出す。幾度もの休載を挟みながら。
「今週の『HUNTER×HUNTER』は休載いたします」の表記(今はこれすらなくなったが)を昼下がりのコーヒーブレイクと何ら変わらぬ平常心で見られるようになってもなお、自分に限ってはこんな感じであった───「HUNTER×HUNTERの最終回を読める可能性があるというだけで、どんなクソみたいな人生でも生きる理由が生じる」
いまや冨樫は少しずつ体調を取り戻し、我々は一時期とは比べ物にならないほどコンスタントに彼の創り出す世界に触れることができる。何百何千もの作品がジャンプにおいて連載され、本作に近い作品、それ以上のものを期待し続けてきたが、その度に彼の偉大さを突き付けられるだけなのだろう。
前例のないテニスマンガでの成功、女性読者の流入、クールで生意気で強い主人公像、菊丸が分身して以降のテニヌ...といった誌面上で読み取れる新規性だけでは、本作のもたらした文化のごくごく一部しか語りえない。
1000曲近いキャラソン、出役としての役割を求められる声優たち、2.5次元文化の源流かつ若手俳優の登竜門としてのテニミュ...現代における狭義のオタク文化の根を辿れば、必ずテニプリが残した功績にぶち当たる。「推し」という文化が、人間を描くあらゆるコンテンツに侵食して久しいが、許斐剛が生み出した世界は、ジャンプで築き上げられたあらゆるファンダムの中でもっとも複雑で永続的な強度を保ち続ける、史上最も「推す」に値する文化であり続けている。
すみませんほんとに書くことが思い浮かびませんでしたでも世界的にマンガ文化を広めた功績は鳥山に並ぶと思ってますマジで
あまりに多くの言及がこの作品になされ、そのどれもが口をそろえて言う。「描き分けが上手い...絵の引き算が上手い...ルビ振りのセンス...久保帯人は中二病...ストーリーが薄い...」これらすべてはもちろん真実だ。
連載中、ワンピナルトブリーチの三枚看板の最後尾というポジションが崩れることは一度もなかった。果たしてこの評価が妥当だったのかは分からないが、少なくとも我々ネット民は久保帯人のセンスをバカにし過ぎたことに対し大いに反省すべきところがあるのではないだろうか。海賊、忍者のような明確なモデルがいないのに、久保帯人はどうしてあれほどまでに洒落たキャラクターとセリフ回しを無尽蔵に生み出せたのか、系統立てて説明できる理屈は未だ見つからない。もしその答えが彼の脳内にしかないとするならば、我々は本作を源流に大いなる歴史が作られていく可能性を認めなくてはならないだろう。
デスノートという作品は複数の点で極めて例外的な成功を収めた。肉体的攻撃を伴わない心理戦、一切の引き伸ばしをしない、公権力、宗教的崇拝、欠点の無い主人公、ゴシック的キャラ造形、ダークヒーロー、死亡エンド...
本作に散りばめられたこれらの要素は、すべて従来のジャンプ漫画では邪道、あるいは不要とみなされてきた要素であった。このような野心的な作品がメディアミックスにおいても成功を収め、国民の誰もが知る作品となったのは驚異的だ。この作品が出たことは心理戦を描こうとする後世のマンガ家にとっては悲劇かもしれない。夜神月ほど賢く、悪どく、魅力的なキャラクターを矛盾なく作れる人間は大場つぐみくらいしかいないのだから。
2010年代にジャンプを購読していた人間はみな共通してうすぼんやりとした不安を抱えていた。「ワンピの連載終わったらジャンプってオワコンじゃね?」
ジャンプの終わりという、週刊少年マンガ誌という形態の終わりと同義に思える未来を避けるべく、集英社は読者以上に血眼になって後継者を探し求めた。しかし我々の期待も空しく、トリコ暗殺教室ヒロアカソーマブラクロ約ネバドクスト呪術といった平成末期の傑作たちすらも、尾田栄一郎が築き上げた領域には辿り着けなかったように見えた───ただ一つの例外を除いては。
「家族、友人への愛」「困難を乗り越える強さ」という普遍的なテーマにフォーカスした吾峠呼世晴の連載デビュー作は、あらゆる世代へ届く成功を収めた。特に、劇場版『無限列車編』は社会現象化し、国内の興行収入1位を達成するなど、経済的にも文化的にも大きなインパクトを残すことになった。
出版業界の衰退、コロナ禍、趣味の多様化といった逆境の中で、マンガが世界的なムーブメントを引き起こすことがまだ可能であると証明した本作は、令和を生きる日本人の心象風景に残る新たな「国民的マンガ」として、時代に選ばれたのだ。
ひとりのスターの存在がプラットフォームの価値を定義することは古今ジャンルを問わずあることだ。ダウンタウンの登場がお笑い養成所という存在をメジャーにしたように、米津玄師の登場がニコ動の文化をオーバーグラウンドなものにしたように。
2014年に創立したジャンプ+というプラットフォームの目的である「紙とデジタルの垣根をなくし才能を育てること」が名実ともに達成されたのはいつだったのか?それは初めて本誌とジャンプ+両方でスターとなった人間の登場によって定義付けられる。
かつて秋田の片田舎から新都社に「長門は俺だ」という名前で投稿していた少年は、その衝撃的なストーリー展開で我々を魅了する存在となった。ファイアパンチ以降、ジャンブ+はあらゆるWebコミックサイト、いや雑誌を含め、もっとも野心的な作品を読める場所のひとつとして認知されるようになった。
藤本タツキの本誌への到着は新たな才能の鉱脈をインターネットに求める時代の始まりを告げ、媒体の違いというものがマンガの面白さになんら本質的な影響を及ぼすことはないという事実を我々に突き付けたのだった。
ドラゴンボールは漫画ではなくてアニメから入ったので漫画の印象が薄い
友人の家にあった本を借りて途中まで読み、その後はサンデーで読み漁った
ちなみに「うしおととら」も置いてあったが絵がキモくて読まなかった
少年のスポーツといえば野球かサッカーかという時代に一大旋風を巻き起こしたバスケ漫画
陵南戦のメガネ君は忘れられないし
山王戦が始まる前の緊張感が半端なくて読んでて喉がカラカラになった
ブラックジャックとかアドルフに告ぐも面白かったけれど、やっぱり火の鳥こそが手塚治虫ライフワークの集大成
小学生・中学生・高校生・大学生・社会人のそれぞれのときに読み直して新しい発見がある希有な作品
源義経を悪人に描いていることに衝撃を受けたし、大人になってから読むと彼が可哀想にも見えてくる不思議
平均的に毎回面白いだけではなくてクリティカルヒットを何回も飛び出す、ギャグ漫画として異常な作品
作画はスタッフを増やせばどうにかなるかもしれないがギャグで毎週笑わせるのは本当に大変だったと思う
「チョ☆チョニッシーナマッソコぶれッシュ☆エスボ☆グリバンバーベーコンさん」はいつでも突っ込めるように覚えている
どこまで忠実なのか知らないけれど江戸時代がエグすぎて軽くトラウマ
小六のあのシーンとかが好きなんだけど分かる人が周りに全然いない
小学生の時にはキモくて読まなかった「うしおととら」だったけれど中高生ぐらいで読み始めてどっぷり漬かる
その流れでからくりサーカスを読み始めたが、10選の中でもトップ3には入る素晴らしさ
例の「べろべろばぁ」のシーンとか、「笑うべきだと分かったときは、泣くべきじゃ無いぜ」とか、非常に素晴らしいですね
福本作品はカイジとかアカギが人気だけれどどう考えても天が至高
停電からの九連宝燈はさておき、東西戦が最高に面白いし、その後の話も非常に良かった
「凡人が長生きしても暇なだけ」っていう台詞がめちゃくちゃ心に残ってるけど、あれって「銀と金」だっけ・・・?
浦沢直樹作品はHAPPYもYAWARAもMONSTERも読んだけど20世紀少年が最高に好き
こう言うと多くの人が「なぜ?」って言うけど、普通に全編通じて面白いよね
特に浦沢直樹っていろんなところの解像度が高いのが良くて、YAWARAだと富士子さんの赤ちゃんの顔とかがまさにそれ
20世紀少年は「普通の人が大人になったときの小学生時代の記憶」に対する解像度が凄く高い
それを踏まえてのあのオチなのでめちゃくちゃ良かった
怒ってる人を理解できない
これも「なぜ?」って言う人が多いけれど、三部のインフレからの四部での能力バトルっていうのが斬新すぎて満足度が高い
ラスボスがド変態なのに好感度高いってのも凄いし、ラスボスを追い込むのが川尻隼人っていうのが最高
まぁ一番ラストを持って行ったのが承太郞なのはちょっとアレだけど、まぁいいんじゃないすかね
チェンソーマンとどっちにしようか迷ったけれどやっぱりファイアパンチ
ところが改めて読み直すと序盤から映画っぽさがかなり強いことに気付く
特にドマの村のあそことか、凄いですわ
銀河英雄伝説(道原かつみ)はかなり影響を受けたけれど、途中で終わってしまったのが残念
まぁ選外は上げ出すとキリが無いけれど、パッと見たところマガジン作品が入ってないね
GTOとか今日俺とか一歩とか大好きでずっと読んでたしMMRとか話題になる前から見てた(そして信じてた)
ただ人生の10選に入れるか、って言われるとちょっと違うかなぁ
これ書いた増田なんですけど、山上たつひこは男性器を別のもの(大根とかピストルとか)で表すってのを初めてやった人でもある(らしい)。
自分で書いといてなんだが、「日本漫画史上最も重要なギャグ漫画家10選」というのは難しいでしょうな。
ギャグ漫画家からベスト10人を選出する以前に、何をギャグ漫画というのかの定義が難しい。
私は大学時代に「ドラえもんはギャグ漫画じゃない」と友達に言われたことがある(大学生の会話か)。
どうも彼の中でギャグ漫画というのは、漫☆画太朗作品や「すごいよマサルさん」のような読者を笑わすことだけに特化した漫画のことを指すようだった。
彼が間違っているともいえない。実際、なにをもってギャグ漫画とするのか、線引きはむずかしい。
Dr.スランプはギャグ漫画だろうけど、じゃあ鳥山明はギャグ漫画家なのか。江口寿史はどうなの?福本伸行は?
「ろくでなしブルース」も「カメレオン」も「今日から俺は!」も自分はギャグが好きなマンガとして読んでいたけど、じゃああれはギャグ漫画なのか。
「よつばと!」のような日常系はギャグ漫画なのか?「彼岸島」は?「孤独のグルメ」は?
というわけで「日本漫画史上最も重要なギャグ漫画家10選」というのは、どうやっても異論が出てしまう。
今から書き連ねるのは知識の偏ったエアプの適当な雑語りなので、例に挙げた作品・キャラが好きな人は話半分に見るか「死ねクソ野郎」や「長い三行」や「読んでないけど」とトラバとかブコメしてくれたらいい
ただし俺は間違いを指摘されても俺は態度を改めるつもりはないし、傷ついた人がいたとて「誤解を招いてゴメンネ」という誠意のない謝罪しかできない
最近だとオタクに流行っている「しかのこのこのここしたんたん」と「ダウナー系お姉さんに毎日カスの嘘を流し込まれる話」
それ以前なら「セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん」「ボボボーボ・ボーボボ」「荒川アンダーザブリッジ」「あそびあそばせ」「ピューと吹く!ジャガー」「増田こうすけ劇場ギャグマンガ日和」…とまあ、こんな感じかな
こういう感じの「登場人物が破天荒、無責任、無秩序、非常識、頓珍漢、素頓狂な漫画」が、いつも一定層の人気を得ている
そうだね、世間で「全裸中年男性」と言われるような、有り体に言えばキジルシのやばい人達だ、おまわりさんこっちです案件な存在だ
そうしてみると、「創作かつキャラクターである」という要素は、そういうアレさを薄めてくれるいいフィルターになる
逆説的に言うと、だ
「全裸中年男性じみたアレな存在」も美少女やイケメンの皮をかぶせた途端に、キャラクターとして「愛される」って事になる
じゃあ、「往来で全裸になって変なことをするタイプのアレな人」以外のアレなパターンはどうなるんだろうか
まずネット民が嫌って嫌って仕方なく、一部層からしたらトラウマでしかないであろう「イジメっ子」だ
昨今の漫画・ラノベ・アニメ・なろう系ではイジメへの報復をする作品も多いが、キャラクターとして人気な「イジメっ子」もまあまあいる
わかりやすい例だとちょい前に完結した「僕のヒーローアカデミア」のライバル枠キャラ、爆豪勝己だ
まあ本当に好き嫌いが…というか嫌いな人も多いであろうキャラなんだが、それにしたってこのキャラを好きという人も多く見る
「聲の形」の川井みきも嫌ってる人は多く見るが、その中に普通に好きだという声もある
現実でもやはりというかこういうイジメっ子ってのは、それこそネットにイジメ返されるレベルで忌避され嫌われるんだが
キャラクターの皮を被せるととたんに「ヒールな魅力を感じる」「苦悩の中であがいている」みたいな味付けがなされて、人気も得られてしまう
次に「犯罪者」だね、まあ「泥棒」とか「殺人鬼」とかなんでもいい
現実じゃ近寄りたくない存在No1で、前科があるだけで距離を置く人だってたくさんいる、俺だってそうする
だが、キャラクターの皮を被ると「ダークヒーロー」「我が道をいく無頼漢」と急に好かれてしまう
日本の作品なら「ルパン三世」のルパン三世と仲間たちだ、泥棒だったり暗殺者だったりと血まみれの存在だが、おとぼけ怪盗チームとして現実では好かれている
街道で全裸になる変態は、キャラクターになれば「コミカルで面白いやつ」に
人を追い詰めるイジメっ子は、キャラクターになれば「Sっ気があってステキ!」に