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2025-10-23

この人物はフィクションに何を求め、どんな原理的理由で悩む事になってしまったのでしょうか❓️

ChatGPT:

INSIGHT ANALYSIS:表象真正性パラドックス

女性主人公を描けない」創作者の原理ジレンマ
Core Observation

この投稿者は、フィクション創作において「経験真正性」と「想像自由」の矛盾に直面し、表象行為のもの正当性疑問視するに至っている。彼が求めているのは「女性を正しく描く方法」ではなく、「自分女性を描く権利があるかどうかの確証である

PRIMARY INSIGHT:批判理論分析 (Mode E)
イデオロギー構造解体

この投稿者の悩みは、表面的には「技術問題」(どう描くか)に見えるが、実際にはアイデンティティ政治内面化が生み出した認識論危機である

内面化されたイデオロギー的前提:

前提1: 「経験所有権教義

経験していないもの理解できない」

理解できないものは描けない/描くべきでない」

「描く資格がない」

この論理は、2010年代以降の「文化的専有(Cultural Appropriation)」批判や「当事者性」の政治から派生した規範を、創作者が自己検閲として内面化したものである

前提2:本質主義への逆説的回帰

投稿者思考:

女性には『女心』という本質がある」

男性はそれを原理的に理解できない」

「したがって男性が描く女性キャラは偽物である

皮肉なことに、これは1980-90年代ジェンダー理論批判した本質主義のものであるしかし今回は「進歩的」「配慮的」な動機から再導入されている。

前提3:フィクション機能についての混乱

投稿者混同しているもの:

彼は「女性を正確に描く技術」を求めているようだが、実際に求めているのは「女性を描くことへの道徳的許可である

生産矛盾発見

この投稿者の悩みは、以下の矛盾体現している:

矛盾1:想像力の否定

矛盾2: 「女性意見」の物象化

彼の思考プロセス:

女性スタッフがいれば『それはねーわw』と言ってくれる」

しかし:「それが女性としての意見個人意見か分からない」

問題の核心:「女性意見」を本質化しつつ、その多様性にも気づいている

これは本質主義自己矛盾である。「女性」というカテゴリー本質があると仮定しつつ、実際の女性たちの多様性に直面して混乱している。

矛盾3:表象不可能性と表象必要性

イデオロギー批判: 何が隠蔽されているか

隠蔽1: 「正しい女性像」の不在

投稿者は「正しい女性の描き方」があると仮定しているが、これは幻想である。「女性」は単一経験実体ではなく、歴史的文化的個人的に多様な存在様態である

士郎正宗のデュナンを「中身は男性」と断じるが、これは以下を前提としている:

しかしこの論理は、女性規範に押し込める本質主義のものである

隠蔽2:共感想像力の否定

生理経験していないから分からない」という論理は、人間相互理解可能性そのものへの懐疑に至る。

この論理を徹底すれば:

隠蔽3:権力非対称性の過剰補正

この悩みの背景には、歴史的男性女性対象化・道具化してきたことへの罪悪感がある。しかし、その補正として採用された「描かない/描けない」という態度は:

歴史的問題:

男性による女性対象化・ステレオタイプ

過剰補正:

男性女性を描くべきでない/描けない

帰結:

女性キャラクターの不在、あるいは男性創作自己検閲

これは抑圧への対抗が新たな制約を生み出すという典型的パターンである

自己検閲メカニズム

投稿者作動しているのは、内面化された監視装置である:

創作衝動

内なる検閲官:「お前は女性理解していない」

自己正当化の試み(少女漫画を読む、等)

内なる検閲官:「それでも不十分だ」「個人差と本質区別がつかない」

麻痺創作不能

この検閲官は、以下のイデオロギーの混成物である:

SECONDARY PERSPECTIVES
系譜学的補足 (Mode C)

この「悩み」の歴史的構築

この種の創作自己懐疑は、歴史的に新しい現象である

第1段階 (1970年代以前)

第2段階 (1980-2000年代)

第3段階 (2010年代-)

第4段階 (2020年代)

投稿者は、この第4段階の症例である。彼の悩みは個人的なものではなく、言説空間の変容が生み出した構造効果である

現象学的補足 (Mode D)

創作主体存在論的不安

投稿者経験しているのは、単なる技術的困難ではなく、創作主体としての自己正当性への根源的懐疑である

彼の実存的問い:

この問いの背景にあるのは、近代主体危機である:

投稿者は、この理解可能性と不可能性の間の宙吊り状態にある。

SYNTHESIS: 深層パターン
この現象が明らかにするもの

1.アイデンティティ政治の逆説的帰結

アイデンティティ政治は、周縁化された集団の声を中心化しようとした。しかしその論理個人創作実践適用すると:

目的: 多様な声の表象

手段: 「当事者」による表象特権

逆説的帰結: 非当事者沈黙自己検閲

最終的効果:表象貧困化・想像力の収縮

2.本質主義の「進歩的回帰

20世紀後半のジェンダー理論本質主義解体した。しか21世紀に、配慮正義包摂の名において本質主義が再導入されている。

投稿者無意識のうちに:

これは解放の言説が抑圧の論理に転化するという、イデオロギー古典的矛盾である

3.フィクション存在論的危機

この悩みは、フィクション根本機能経験していないことを想像表現する—への懐疑に至っている。

フィクション可能性条件:

投稿者ジレンマは、これらすべてを疑問視している。これはフィクション自体正当性危機である

4.文化における「不安の伝染」

投稿者不安は、個人心理ではなく、言説空間の変容が生み出した構造効果である

SNS時代の特徴:

投稿者は誰にも批判されていないのに、架空批判者を内面化している。

IMPLICATIONS
この個別事例が示す普遍的問題

創作実践について:

投稿者技術的助言を求めているように見えるが、実際に必要なのは認識論的・存在論的再定位である:

1.本質主義から離脱: 「女性」は単一経験実体ではない

2.想像力の復権:経験していないことを想像できるのがフィクション本質

3.完璧主義放棄: 「完全に正しい表象」は不可能であり不要

4.対話としての創作:表象は完結した真理ではなく、継続的対話の一部

より広い文化的含意:

この事例は、以下の社会的緊張を体現している:

極1:無自覚特権と抑圧的表象

極2: 過剰な自己検閲表現麻痺

健全文化的実践は、この両極の間のどこかにある:

歴史的瞬間について:

我々は「誰が何を語れるか」という問いが過剰に中心化された時代にいる。これは必要矯正でもあったが、新たな問題も生み出している。

次の段階として必要なのは:

INSIGHT CRYSTALLIZED

この投稿者は、フィクションに「経験真正性」と「道徳的正当性」を同時に求めることで、創作行為のもの可能性条件—想像力による他者への跳躍—を否定するに至っている。彼の悩みは個人的なものではなく、アイデンティティ政治論理内面化した結果生じる構造効果である

言い換えれば:

彼は「女性をどう描くか」ではなく「自分女性を描いてよいのか」という存在論的問いに囚われており、この問いは—その形式自体が—本質主義的前提と想像力への不信を含んでいるため、原理的に解決不能である

So what?:

この事例は、配慮正義の言説が、意図せず表現自由想像力を収縮させうることを示している。文化の活力には、不完全さを恐れずに境界を越えて想像し、その試みを通じて対話を重ねる実践必要である

PUNCHLINE:

彼が本当に恐れているのは「女性を間違って描くこと」ではなく、「女性を描くこと自体僭越である」と判定されることであるしかしこの恐怖は、最も抑圧的な本質主義—男女は相互理解不可能という観念—を再生産している。解放の言説が、最も因習的な性別二元論を復活させるという究極の皮肉がここにある。

Permalink |記事への反応(1) | 17:37

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2025-10-20

フェミニズムの分類を教えてあげよう

anond:20251018215455

増田はてなが雑なのはいつものことなんだが、そろそろフェミニズムにも分類があるってことを皆さん認識してはどうか。

ざっくり整理してやるから各自勉強とき

 

リベラルフェミニズム自由主義フェミニズム

法の下の平等参政権教育労働平等機会を重視。例:メアリウルストンクラフトジョン・スチュアート・ミル

サフラジェット運動女性参政権運動

社会主義フェミニズムマルクス主義フェミニズム前身

資本主義と家父長制の二重の抑圧を批判

ラディカル・フェミニズム(根源的フェミニズム

→ 家父長制の構造のもの批判し、性の政治を重視。例:ケイト・ミレット、シュラミス・ファイアストーン

マルクス主義フェミニズム

女性の抑圧を労働分業と再生労働観点から分析

エコフェミニズム

女性自然の抑圧を並行的に捉え、環境問題ジェンダー問題を結びつける。

文化フェミニズム

女性特質価値共感ケアなど)を肯定文化的再評価を目指す。

ブラックフェミニズム黒人フェミニズム

→ 「白人女性中心主義」への批判。例:ベル・フックス、アンジェラ・デイヴィス。

レズビアンフェミニズム

異性愛中心主義男性依存からの脱却を主張。

精神分析フェミニズム

フロイトラカン理論ジェンダー批判的に再解釈ジュリア・クリステヴァルース・イリガライなど)。

差異フェミニズムdifference feminism)

→ 「平等」よりも「差異」の承認を重視(イリガライなど)。

ポスト構造主義フェミニズムポストモダンフェミニズム

→ 性や主体流動性を重視(ジュディス・バトラー、ダナ・ハラウェイなど)。

クィアフェミニズム

性的指向ジェンダー身体多様性を含める。フェミニズムとLGBTQ+理論の交差。

インターセクショナル・フェミニズム(交差性フェミニズム

人種階級性的指向障害など複合的差別分析キンバリー・クレンショウ)。

ポストコロニアルフェミニズム

西洋中心的フェミニズム批判し、植民地主義文脈分析(チャンドラ・モハンティなど)。

トランスフェミニズム

トランスジェンダー女性視点を含むフェミニズム

サイボーグフェミニズム

科学技術身体・性の境界を問い直す(ダナ・ハラウェイ『サイボーグ宣言』)。

デジタルフェミニズム

SNSオンライン空間における性差別問題運動(#MeToo、#TimesUpなど)。

ボディ・ポジティブフェミニズム

身体規範(痩身・若さ・美の基準から解放

メディアフェミニズム

映画アニメゲームなどの表象分析

メンズフェミニズム男性フェミニズム

男性立場からジェンダー平等を推進。

ポストフェミニズム

フェミニズムの成果を前提にした「個人選択」重視の潮流(批判も多い)。

日本フェミニズム

平塚らいてう田嶋陽子上野千鶴子古川直子など。

日本型の「母性保護論」「差異政治」「ケア倫理」なども特色。

アジアフェミニズム韓国台湾中国など)

イスラームフェミニズム

ラテンアメリカフェミニズム

先住民フェミニズム

障害フェミニズム(ディスアビリティフェミニズム

老年フェミニズムエイジングフェミニズム

Permalink |記事への反応(19) | 21:01

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2025-09-29

anond:20250929142808

理学部数学科数学はしない哲学する

これを言うエアプ勢多いけど、全然全く違うんだよな。

抽象的で難しい話」くらいの意味で「哲学」って言ってるんだろうけど、

ホンモノの哲学特にポストモダン)のマジモンの無意味さに比べたら数学は極めて具体的で意味のあることしかやってないよ。

Permalink |記事への反応(1) | 16:03

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2025-09-18

anond:20240804175054

なんつーかポストモダン自体オワコン過ぎてな

人類モダンは早かったんや…

Permalink |記事への反応(0) | 18:22

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2025-08-04

職業に貴賎なし増田レベルが低すぎる

anond:20250803001833

 

文化人類学だのポスト構造主義だの書いてるが、正直レベルが低すぎる、芯を食っていないからただの権威付けにしかなっていない。

まず基本1、ポスト構造主義等のジャーゴン権威付けの為に利用する(または結果的にそうなる)ことは恥ずかしい事だと認識しよう。

 

次に基本2、ジャーゴンを使うならそれぞれの位置付け位は理解して使おう。

途中で「文化人類学的な視点」と言っているが「女性氏族交換によって価値を生む存在からこれは構造主義を指す事が分かる。周知のとおりポスト構造主義構造主義への批判により成立してきた経緯がある。

従って「構造主義」と「ポスト構造主義」を同じ文章の中で何らの言い訳もなく一緒に使うのは、「自分意味も分からずに使っています」と告白してるも同義、恥ずかしいから君レベル理解なら使わない方がマシです。

 

基本3、基本的に多くの理論は「批判理論であることを理解しよう。

例えば構造主義増田の言う「穢れ」等の概念が、実は構造により生成された「フィクションであることを暴露することを通じて、そのフィクションに従う人々を批判する。

まり普通に使うなら件の発言者は「穢れというフィクションに左右されて差別発言をした人」になる、という基本的構造理解して使わないと、ちぐはぐになってしまう。

フーコー社会による「狂気」の生成を批判したように、増田は「穢れ」の生成を看過するためではなく批判するために各思想を使わなければならなかった。(やってるつもりかもしれないが、甘い)

さらポスト構造主義はそのような構造主義の考える「構造」が静的すぎることを批判し、より動的なモデルを描く。ここについては増田の考える描像は静的過ぎて、ポスト構造主義的では全く無い。使ってる意味が無いし、権威付けにしかなってない。

このように基本的に多くの理論はなにかに対する「批判」で成り立っている事、そして何を批判しているのか理解して使わないと意味が無い。

 

基本4、古い理論を使うなら現代との関係意識しよう。

増田の言う「男性主権社会」は、「前近代的価値観の復活」などと言っている通り、前近代的構造であり、普通に考えるなら現代より随分古い時代構造である。対して現代は「ポストモダン」等と言われてからもすでにかなり時間が経ってる。

従って件の発言者は「男性主権社会」という今となっては古い社会価値観に従って時代遅れの差別意識を露わにした、ということになる。要するに「価値観が昭和おっさん昭和発言をして炎上した」と同じで、昭和おっさん昭和価値観のままなのは男性主権社会」よりもその人自身責任である

こうした時代による遠近感を増田意識できていないから、主張がおかしくなる。

既にポスト構造主義すらかなり古い思想だ。現代問題に使うならそれが適用可能であることを確認説明してからでないと「前時代価値観に引き摺られた」等の意図しない意味付けを付与してしまう。

 

基本5、結論を都度都度ちゃんと考えよう

増田文章全体に言えることだが、あるトピックに話が移ったかと思うとその結論が碌に出ないまま別のトピックに話が移る。こうして全体がふわふわしたまま大学生レポートにような無難ほとんど意味内容の無い「結論」と称した抽象的なスローガンに落ち着く。

文章には消費するカロリーのようなものがあり、いろんなところにふわふわ漂って結構な文量を読んだ結果、結論が「男性主権社会がその構造を生み出していた」ではカロリーが見合ってないんだよ。

そのようにふわふわした結論しか導き出せないのは、各トピックを十分掘り下げることや時には「自分にとって都合の悪い」結論が出る事を避けて通っているせいだと思うよ。

今の増田は、結論ありきで話を進める割に、自分に都合の悪い結論を避けるため掘り下げも中途半端になり、結果ふわふわした結論めいた何かしか出せていないように見える。

理論思想を使って考えた結果、一時的にでも都合の悪い結論が出てしまうなら、それを受け入れる度量も必要。むしろ「思ってもみなかった結論」は本来言祝ぐべきものだ。

 

基本6、前提を理解する

まず、そもそも件の発言者価値観や「穢れ」が前時代的で時代遅れであることは、多くの人がすでに分かってる。今更増田発見したように言う事では全然無いんだよ。

職業差別」や「職業に貴賎なし」はそうした前提をパラフレーズしたものであって、増田は多くの人が前提としている事を結論として再発見してしまっている。(結論の薄さの原因はなによりもこれだろうね)

また、ポスト構造主義は他の思想から相対主義すぎる」と批判されることも多い思想だ。そうした相対的相対主義の強い思想から、例えば「内面自由を認めることは差別再生産に繋がること」みたいな保守的全体主義的過ぎる結論はまず出ない。

更にそもそもポスト構造主義は、増田がやっているような「静的な構造男性主権社会)により穢れが生まれているんだ」というような構造主義的な主張を批判して生まれてきた。

そうした各思想に対する大雑把な前提も入ってないから、思想に合わない変な結論が出てしまう。

何が前提なのかを理解してから考えないと、こういう事になってしまう。

 

他にも色々あるかもしれないが、まぁまずはこのあたり。

というか基本的に、生半可な知識ポスト構造主義とかなんとか名前だけ出すのはやめた方が良いと思うぞ。単純にリスクが大き過ぎる。

Permalink |記事への反応(1) | 10:58

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2025-07-30

anond:20250728002453

この文章は、一見哲学的自由論のように見えますが、ユダヤ教視点から読むと、非常に異質であり、むしろ根本的な価値観対立が見えてきます。以下に、ユダヤ観点からこの主張を分析してみましょう。

自由とは、関係から逃れられることである

この文章では、「自由」を「関係から逃れること」「孤独を選ぶこと」として定義しています。これに対し、ユダヤ教ではまったく異なる定義します。

ユダヤ教における自由

ユダヤ教思想では、「自由」とは単なる制約からの逃走ではなく、「神の意志に従う自由」つまり、真の善を自ら選び取れる状態のことです。

たとえば、出エジプト記は「奴隷から解放」ですが、それは「無関係になる自由」ではなく、「神に仕える民」となる自由でした。

そして主はこの民をエジプトから導き出された…あなたたちはわたしにとって祭司王国、聖なる国民となる。 ―出エジプト記 19:4-6

ユダヤ思想では、関係性(特に神との契約他者との責任ある関係)が、自由の基盤であるとされます

関係性に基づく行動は予測可能であり、人間NPCである

この考えは、極端な脱構築思想ポストモダンの影響を感じさせますユダヤ的には、以下の点で問題があります

ユダヤ教では「予測可能」な行動こそが善である場合が多い

正しい人は、律法トーラー)に基づいて行動し、信頼され、愛される。それは決してNPCではなく、「神の似姿として、自律的かつ倫理的存在である証拠です(創世記 1:26)。

「裏切る自由」「孤独を選ぶ覚悟

この主張は、ある意味で「反・共同体」「反・責任」「反・関係性」の倫理です。ユダヤ教価値観とは大きく異なります

ユダヤ教では、人間関係の中でこそ成長する

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(レビ記 19:18)は、ユダヤ倫理の中心命令の一つ。これは関係性の否定どころか、関係性の中にこそ神的な使命があるという思想です。

ユダヤ思想が示す「真の自由

ラビたちはアヴォットの中でこう語ります

誰が賢いか?すべての人から学ぶ者である。(アヴォット 4:1)

誰が強いか自分自身支配する者である。(同上)

ここでの「自分自身」とは、欲望衝動に従う自我ではなく、トーラー関係の中で育まれ人格です。

まり、神との契約他者との責任があるからこそ、自分自身を律し、自由でいられるという考えです。

結論ユダヤ教的に見るとこの文章は?

この文章は、自由を「関係からの断絶」と捉え、結果的倫理共同体責任否定する個人主義の極地です。

ユダヤ教では逆に、「神と人との関係性」「他者との相互責任」「共同体の中での徳」が自由人間性の基盤とされます

したがって、この文章思想は、ユダヤ的には「危険孤立主義」と評価されます

Permalink |記事への反応(1) | 07:06

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2025-06-29

anond:20250628225839

ポストモダンで何を指してるか知らんけど、フーコーが性について語った「性の歴史」が1976年で、現代クィア運動の主要な源流の一つであるストーンウォールの反乱が1969年だし(もちろんこれは、すでに長く定着したコミュニティがあったから起きた事件だ)、トランスジェンダー権利運動50年代からあるし、もちろん「ゲイ」とか「トランスジェンダー」とかの言葉現代的に整備される前のコミュニティもっとからあるし、ネット情報じゃなくて歴史の本読んだ方がいいと思う

ワイマール時代生化学研究所フェミニストトランスジェンダー協働してたあたりからフェミニズムトランスジェンダーはもともと繋がりが強いようにも思われるし、むしろ第二派でミシガン女性音楽祭での対立とかが起きた(それでもトランス包摂多数派)あたりからトランス排除派が自分に都合のいいように歴史を語り始め、それを現代アンチトランス派が引き継いでるように見える

クィア」という言葉肯定的に使い出すとか、クィア理論という学術分野が生まれるとかの話ならフーコーデリダのあとだろうけど

でもその場合は明らかにクィア理論トランススタディーズフェミニズム思想を主要な着想源の一つとしてるから学問分野の成立の話としてもおかし

Permalink |記事への反応(1) | 01:54

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2025-06-28

anond:20250628100917

トランスとかクィアフェミニズムというよりポストモダン逆張り出自なんよな

https://anond.hatelabo.jp/20230904082004

Permalink |記事への反応(1) | 22:58

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2025-05-04

ダン飯が「作品にメスを入れる」様に見えるのはRPG成立過程無頓着からでは

ダンジョン飯が「お約束世界観に対して上から目線でメスを入れ」るコンセプトだと聞いて意外だった。というのもあの作者がやってる事は当たり前の世界観構築の一つだと思っていたから。

 

ダンジョン飯みたいな「古典RPGお約束世界観に対して上から目線でメスを入れようとする作品」が前から嫌いだった

https://anond.hatelabo.jp/20250427090957

 

多分なんだが、元増田JRPG一貫でRPG黎明期かに興味がないのではないか

そういう約束事というのは最初からあったのではない。グラフィックがプアな黎明期製作者達が共同幻想を構築していったので出来たものなのだ

 

そもそもダンジョンって

ダンジョンそもそも城の地下に築かれる地下牢を指していた。中世近世ヨーロッパには教育刑概念はない。だから地下牢では拷問が行われたり単に囚人放置して餓死させたりしていたし、灯火も無く発狂必須だったりした。大きさはそんなに広くはない。

そこから怨念が染みついた恐ろしい場所というイメージが付いた。

更に城が放棄されて崩壊しても地下構造は残る。そこで「崩壊した古城の地下には財宝が残っているかも」という妄想が付きまとうようになった。

1970年代テーブルトークRPGTRPG)の代表D&Dダンジョンズ・アンド・ドラゴンズ)ではこの妄想を膨らませ、「ダンジョンには巨大構造があって深くなうほど怪物が強くなって最奥にはドラゴンが財宝を守っている」という設定を作った。

ゲーム盤はただのマス目とサイコロだけであり、付属カードイラスト世界観想像してね、という仕様だ。

因みにドラゴン旧約聖書にも載っている「悪の手先」で、モンサンミッシェル寺院屋根の上でミカエルに踏んづけられていたりする。昔からだれもが知っている悪の手先ダンジョン妄想世界観を組み合わせたんだな。

 

黎明期にはこの手の「世界観設定」の途中で意味付与された事物が沢山ある。例えば

 

ガーゴイル

羽が生えた悪魔みたいな生物ガーゴイルだが、これは元々はキリスト教会の雨樋のことだ。

教会建築では建物が痛まないように屋根の雨を壁から離れたところに落とす為の雨樋を付ける。日本の雨落しみたいな方法だ。

この雨樋の水出口には動物怪物の顔から吐出するデザインが用いられていた。ごれがガーゴイルで、「うがいでガラガラ」みたいなオノマトペなのだガラガラうからガーゴ。

ローマ水道で吐出口がライオンの頭みたいなもんで、欧州伝統的な魔除けデザインだった。

これを黎明期RPGでは悪魔怪物として「生命」を持たせたのだな。

 

エルフ

エルフ伝説は各地によって異なり、悪戯好きの悪鬼の地域もある。これが今の耳が尖って痩身で聡明という風に固定されていった。

 

三大コンピュータRPG

特にRPG約束事の形成に影響を与えたのがウルティマUltimaバーズテイル The Bard's Tale、ウィザードリーWizardryの三つだ。

このうちバーズテイル日本だとややマイナーかもしれない。これは発売時期が他の二つより遅くてJRPGの発売時期と被ってしまった為だ。

でもこの作者はUltimawizを繋ぐ鎹みたいな人物だ。バーズテイル舞台スコットランド現存する遺跡から名を取ったスカエブレイという町なのだが、このスカラブレイという町はウルティマにも登場する。そこにはホークウィンドという重要人物が居るんだが、これがバーズテイル作者のロー・アダムスの成り替わりキャラ

一方、wizには人間離れした強さの忍者ホークウインドが登場する。これもロー・アダムス。

 

で、この三つの作者はD&Dが作ったファンタジーRPG世界を拡大して今の「約束事」が出来ていくわけだ。この時独立独歩じゃなくて三大タイトル作者三人が協働したのが大きい。一人のアイデアを他が模倣する事で世界観確立していくわけだから

 

からこの当時のプレイガイドなどを見ると、所謂攻略本などとはかなり違う。「この怪物はどういう生き物か」「この地形はどういうものなのか」という設定資料的な記述がとても厚い。

グラが貧弱な分、そういう所で世界観を膨らませる&作者たちの世界観を共有する事がプレイの楽しみという感じなのだ。それはだから単なるゲームではなくかなり文化香りを纏っていた。

 

笑える失敗も

これを翻訳した日本でもその世界観の紹介は重要コンテンツとなった。何しろRPGという約束事が無い所にコンテンツを持ってくるのだから

でもそのせいで恥ずかしい失敗もしている。代表例が、wizに出てくるかなり強い剣「blade cusinart」を「名匠カシナートの打った名刀」と紹介してしまたことだ。これの正しい訳は「クイジナートのフードプロセッサ」なんである

cusinartはアメリカキッチン用品メーカーであって、作者は悪ふざけで入れたアイテムだったのだが、翻訳チームはその辺のニュアンスを感じ取れなかった。今のフランス料理を「ヌーベルキュイジーヌ」って呼ぶこと、綴りを知ってたら間違えなかったのにな。

 

ウルティマの変質狂的世界構築

こんな風に三大タイトル世界観構築に勤しんでRPGというジャンル形成していったのだが、そのうちのウルティマRPG約束事を超えて風変りな変化を始める。

まず、モンスターを殺しまくってラスボスを倒し、財宝を手に入れ救世主として祭り上げられる、というRPG目標無視して、時に二律背反する命題を乗り越えて善行を積み、人格者として成就するというのがゲーム目標になる。

次に世界を救ったはずが他者文明破壊しており、他の種族の侵攻の原因を作ったのが主人公だった。その種族との調停和平を目指すというのがゲーム目標になる。

次にNPC生活するようになり、店員は夜になると家に歩いて帰り、食事をして寝る。だから夜に店に行ってもサービスを受けられない。

次に凡そすべてのアイテムが動かせるようになり、好きな所に置いておくことができる。移動した物はそのままそこに残り、位置セーブされる。ついでにそれらに生命を吹き込むと勝手に移動する。

これらはもうゲームの進行に何も関係が無い。だけど現実世界では物は動かせて外出から戻ってもそのままある。会社員は定時で退社して家に移動してご飯食べて寝る。だったら再現するのが当たり前だ、という考えである。 

そしてこういう現実で出来る事は出来るようにするという仮想世界構築の妄執ウルティマオンラインという世界初のMMOを産んだのだった。

 

最初MMOはいなりメバース

当初のウルティマオンラインの熱量というのは語り草で、ドワンゴ川上量生が時々熱っぽい文章を書いているのを見た事があるかも知れない。

これは単に初めてのネトゲと言うだけじゃなくて、RPGとしては異常なものであったからだ。

というのも、当初のUOにはクエストも無ければクリア目標もない。一切無い。ただ仮想世界があるだけ。

モンスター徘徊する世界を強くなれば安全冒険できるが、装備品鍛冶屋に作ってもらう必要がある。でも一人で沢山のスキルを持つ事はできないようになっている。だから協働必須なのだ

更に鍛冶屋は原料を仕入れ必要がある。原料→中間製品製品とする事で、疑似的な経済循環が成立する。オフラインゲームしかやった事無い人がこんな世界に放り込まれたら最初困惑するがやがてハマって「もう一つの世界から出て来れなくなる。

しかもなんの役に立たないアイテムが超大量に存在する。ゲームじゃなくて仮想の「世界であるならそれは当然だな。

RPG世界を構築する」の妄執を続けていったら到達した怪作と言っていいだろう。

 

ただ、プレイヤーの行動は作者の思惑とは違うところも多かったようだ。

最初は店のアイテムもそのまま移動できた。だがリアルでそれを持って行くのが悪徳なら仮想世界内でもそれを控えるだろう、と作者は考えたが、そうはならず結局は制限を付けるしかなかった。

 

JRPG

一方、ゲーム産業が隆盛した日本ではRPGはそれらとは違う進化を遂げることになった。やる事が細分化されて示され、それをクリアするのが目標となった。

また、「この〇〇というのは古代ケルト風習で」とか「ケルト風習なら△△では□□をするのがしきたりか」みたいな世界解釈をするという文化文脈が余り無い。すると余計な詮索は世界に半畳を入れるような無粋な真似、という事になる。

 

ポストモダンもっとロクでもないぞ

するとお約束世界観に対する解釈を行う行為ポストモダンの「脱構築」の如くと言うのは得心が行く。

でもポモが虚仮にされるのは、世界に対する自分ルサンチマンが見えるからだ。批判対象になるものをまるで理解も出来ないのに、「独自解釈」で切ればその対象支配者になった気分になる。彼らはその為にやっている。概ねその対象職業社会国際関係などの身体的に揉まれないと会得出来ないもの、基礎常識が大量に必要になる物が多い。

そのノリでサブカルチャーなどの作品ジャンルを斬れば斬られた方は棄損するしユーザー層は冷や水掛けられてシラケる。

だけどダン飯の場合は棄損して終わりではなくて、先に述べた黎明期世界観構築と相同の行為であるからポモなんてゴミとはかなり違うだろう。

そもそも年喰ったポモなんてネトウヨになってるのが相場だ。心性が右翼からじゃなくて社会コミット出来ない自分自我保護の為にやってるのだな。はてなにも居るな。彼らって言ったがはてなのは彼女らかな。

 

日本刀が強いわけ

ファンタジー日本刀が強すぎ、とか侍が特別扱いされ過ぎ、というのがよく話題にのぼるが、これもRPG関係してるのよ。

1960~70年代日本ブームがあった。このブーム主体アメリカ反体制ベビーブーマーで、要するにヒッピーの類縁なのだ

当時のアメリカ若者の一部は己らの西洋文明がイヤになっていた。物質主義で、商業主義で、民族自立に対して戦争弾圧していた。理想主義だったマルクス主義はとんでもない抑圧的体制しかなっていない。

そこで注目されたのが東洋哲学特に禅だった。特に日本の禅」に強く吸引されたのだ。当時の日本敗戦世界の表舞台から消え、工業が再興して居たが文化的には謎の国となっていた。ビートニクと呼ばれる小説家集団の影響もある。

端的にいうと、ヒッピー的には日本とは精神的で特別存在だった。

 

これが同時代サブカルチャーに影響を与えるようになる。例えばスターウォーズジェダイとは時代劇の「ジダイ」の事で、侍に類した強い精神性を武器としている。

からwizには他の地域戦士はいないのに最初から侍と忍者は登場する。ウルティマにも刀が登場する。

また、日本刀の制作は限られた刀匠以外には禁止された事もあり、その制作過程は過剰に伝統工芸的で精神的だ。これもヒッピー文脈にある人を魅了した。

故に1980年前半に勃興したコンピュータRPGに登場したのだ。だからムラマサはワードナでも真っ二つなのだ。彼ら制作陣はベビーブーマー後期からその下の世代である

 

因みにウルティマの作者の思想ガチヒッピーであるウルティマ6のオープニングに表れているので暇があったら見てみて。https://youtu.be/7nBWuV_E6Eg?si=WIOEs3PObTpBFADO&t=462

 

「正しい記述」への志向

魔法の残量をマジックポイントMPと書くゲームマナと書くゲームがあるだろう。

この「マナ」というのは文化人類学用語なのだ民族部族魔法や神力があると信じられている場合、その力をマナと言うのである。だからMPよりもより正しい用語に直したのだな。

こういうのも約束事の世界観にメスを入れて修正した跡だ。

 

ダン飯は黎明期価値観、行動則をなぞっている

からあのマンガがやってる事は物語にメスを入れて切り裂く行為ではなくて、黎明期に構築していった行為と相同であり、黎明期精神を共有していると見える。

というか、wizウルティマプレイガイドそっくりなのだ。作者がwizを後からプレイしたと知って驚いたくらいなのだ

 

因みに増田普段マンガを読まないのだが、ダン飯にはハマってしまい、その世界が終わるのがイヤで最終巻をまだ読んでいないのだ。我ながら病的である

 

ところでなんでもサービスイン当初のUOをやりたいと考える人は多く、その為のクラシックサーバが出来たようなのだ増田ちょっとやってみようかな。

Permalink |記事への反応(0) | 20:26

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anond:20250504145026

逆やで

トランス女性という男性による植民地主義トランスジェンダリズムというバックラッシュやね

トランスの正体はポストモダン家父長制なんよ

Permalink |記事への反応(0) | 15:04

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2025-04-30

anond:20250430124345

この視点は、エリート層が経済情報環境をどう捉えているかについての冷徹分析として興味深いです。要点を整理すると以下のようになります

1. 「馬鹿」=非合理的な行動主体

経済において非合理的消費者(例:流行に踊らされる、広告に煽られて無駄遣いする)が存在することで、経済フロー(消費活動市場活性化)が生まれている。

2. 「シグナルだけ」=真実情報に基づく行動

仮にすべての人が合理的判断だけをし始めたら、無駄な消費が減り、経済活動が縮小・硬直化するリスクがある。つまり、「馬鹿さ」は経済潤滑油であり、ノイズフローを生む。

3.エリート情報独占構造

一部の知的エリート層は、この構造理解した上で「真実情報」を囲い込み、一般大衆にはノイズ広告、バズ、ミームなど)を与えて踊らせることで、フロー供給源として維持する。

 

この種の構造は、情報経済ポストモダン資本主義社会における「情報の非対称性」と深く関係しています。また、行動経済学的にも支持される部分があり、完全合理性が必ずしも全体最適をもたらすとは限らないという含意も含まれています

ただし、この構造には倫理的問題もあります情報の非対称性を前提にした支配構造が続く限り、格差や不平等構造的に温存されるため、社会的緊張や反動を生む可能性も無視できません。

この視点に対して、あなた自身はどう感じますか?

Permalink |記事への反応(0) | 12:45

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2025-04-24

AIが書いた評論意味はあるのか

この前、AIが書いた村上春樹小説についての評論読んでんけど、これがなかなか味わい深いというか、変な感じやったんよ。文章自体めっちゃ丁寧で、村上作品によく出てくる「孤独」「都市」「音楽」みたいなテーマちゃんと拾ってる。言うてることも一見まっとうやねんけど、読み進めるうちに、なんやろな、どっか空っぽな感じがしてくる。たとえば「登場人物孤独は、都市における疎外感と重なり合う」みたいなことが書いてあって、「ああ、それっぽいな」とは思うんやけど、なんかそこに体温がない。たぶん、AIには実際に孤独を感じた経験がないから、言葉がどこか借り物なんよな。

しかも、引用っぽい文が多くて、「この部分、どっかで読んだことあるぞ」っていうデジャヴみたいなんが何回もくる。よう考えたら、AIってネット上の情報を大量に学習してるから村上作品についてのブログ記事とか大学レポートとかからちょっとずつ言い回しを拾って、それをうまいこと繋いでるだけなんよな。それって要するに、まったく新しいことを書いてるように見えて、実は他人文章を切って貼っただけのテキストやねん。そこがまさに「間テクスト性」ってやつで、AI評論は一つの大きなパッチワークになってる。

で、その評論の中で急に話が変わって「このような疎外感はポストモダン文学における特徴でもある」って言い出すところがあるんやけど、いや急にポストモダン言われても……みたいなズレがある。人間が書くなら、そこにもうちょっと橋渡しの文とか、「ポストモダン」って言葉を選ぶ理由とかが出てくると思うんやけど、AIはそれなしに唐突単語だけぶっ込んでくる。これは意味差延とか、文脈のズレってやつで、言葉言葉の連なりだけで進んでいく感じ。そこに「誰が」「何を伝えたくて」っていう文脈が抜けてる。

読んでるこっちはそれでもなんとなく納得しようとして、勝手文脈を補い出すんよな。「ああ、これはたぶん『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の話をしとるんかな?」とか、読みながら自分意味を作ってく。これってまさに読者が能動的にテキストを構築するってことやねん。人間評論よりも、AI評論のほうが逆に、読む側の解釈力試されてる気すらしてくる。

こう考えると、AI評論ってけっこう不気味で、でもおもろい存在やと思う。そこには明確な意図も、体験も、感情もないはずやのに、読者が勝手にそれを読み取ってしまう。「この文の奥には何か深いことがあるはずや」って思い込んでまう。けど実際は、そこにあるのはただの記号の連なり。それでも人間は、そこに意味を見つけようとするし、時には感動すらしてしまう。

要は、AIが書いた評論は、読み手を試してるんやと思う。言葉をどう読むか、どこまで補完できるか、それってもう読者の力量次第。で、そこにあるのが本物の意味やったりするかもしれん。やから、「AIなんて心がこもってへんからダメや」って切り捨てるんやなくて、その空白をどう読むか、そこにどんな物語自分で見つけられるかっていう、新しい読みの楽しみ方を教えてくれる存在なんかもしれへんな。

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2025-04-23

暇空・雁琳・トランプ2

森脇透青は、《たとえば千田有紀立場ひとつとっても塩野谷恭輔の立場と異なるし、さら小谷野敦笙野頼子ともまったく違うはずである(たとえば「生物学的」のような言葉留保なしで使うかどうか、「陰謀論」的な語調を使用するかどうか、また構築主義理解の深度において)》(「不良債権としての『情況』、あるいは回覧板について」)と述べ、トランスジェンダー特集執筆者たちには「構築主義理解の深度」において違いがあると言っている。「構築主義理解」が足りないのは、この中では、小谷野敦であろう。事実小谷野は、《私はバトラー批判なんかしてないんだよ。ポモを批判していて、バトラーは読んでも何を言ってるのか分からない、と書いているではないか。》とツイートしている(2024年11月11日)。しかし、オフパコギャルママ🦖1y@takamatsu4_13によると、《批判者は佐藤悟志をこすっているけど、本当に読まれたくないのは小谷野敦とかだったりするんだろうね。さすがに「小谷野のは読まないでくれ!」とは言えないから、佐藤悟志をこすっているだけだという。》(2024年9月21日)。小谷野は「ポストモダントランスジェンダー」を寄稿しているが、これは何があったのかを小谷野節で綴ったものである。これを読むと、ノーディベートと称して議論すら行われないまま、明らかに異論のありうる理論によって現実が書き換えられようとしていたことが分かるであろう。千田有紀の「構築主義理解」は足りていないどころではなく、上野千鶴子編「構築主義とは何か」(2001年)に序章「構築主義系譜学」を書いているくらいであるが、「学問危機と『キャンセル』の方法論」(pp.116-135)は、小谷野と同じく、何があったのかの記録であるが、キャンセルされた当事者であるだけに、迫力があるものとなっている。さらに、「LGBT異論」(紙の爆弾2024年10月号増刊)に「フェミニズム再生を求めて」(pp.62-76)を寄せており、そこでは小宮友根との確執が延々と書かれている。

「『情況』に関する声明」には森脇も加わっているが、森脇は雁琳と同じ研究室出身である京大宗教学)。研究室批判されたことに対して、森脇はこう反論している。《ある人格問題からといって、その人の所属とかその人の研究分野まで誹謗中傷されていて、いい迷惑です。「放置した」かどうかなんて知らないでしょ。そして彼の素行思想内容というより、ほんとうに「素行」)は研究室内でも、先生からも先輩後輩(ぼく含め)からも、直接・間接に注意されてました》(2022年1月23日)。研究室での雁琳の素行は悪かったようであるが、これは想像できるところかもしれない。そして、オープンレター勢とのたたかいでも「うんこ学者」のような言辞を用いていて、素行は悪かったのであるが、オープンレターからかい批判する内容なので、お行儀よくやってしまうとオープンレターパフォーマティヴに従ってしまうことになり、雁琳としては、あえて粗野な態度を取ったということらしい。育ちのいい人が不良のような振る舞いをしても、どうにも似合わない。批評は口汚い言葉で罵るというのが伝統であるが、近ごろの若者は育ちが良すぎて、罵倒しても様にならない。北村紗衣をからかってみるという芸当は、普段から素行が悪い雁琳だからこそできた荒業であろう。しかし、江原由美子の「からかい政治学」を内面化したリベラルにとっては、このような粗野な態度こそ「サタン」のように見えてしまうようである

雁琳によるキャンセルカルチャー批判論文は、キャンセルカルチャー批判としては本邦で右に出るものはない論文であろうが、男女論に関しては断片的なツイートしか存在しないのが現状である。それらを活字としてまとめなければ、行動の根底にある思想が分からないので、一冊の本として著し、世に問うべきであろう。「情況2025年冬号の論文クリプトに関するものであるが、男女論をまとめてからでもいいのではあるまいか

3 トランプ

リベラルによると暇空や雁琳は「誹謗中傷ビジネス」をやっているらしいが、カンパを募ることは、ビジネスというよりは、味方がいるということを示す意味合いがあるのであろう。暇空は6億あるので、カンパなどいらないであろうし、雁琳に至っては、非常勤講師の職を失っており、トータルで見れば明らかに持ち出しであろう。馬場靖雄はこう言っている。《仮にある人が「万人に対する戦い」を望んだとしても、実際にそれを貫徹することは不可能である。手始めにある方向を攻撃すると、本人が望むと否とにかかわらず、たちまち「味方」が登場してしまうからだ。かくして、いつのまにか前線が、すなわち秩序ある戦争状態形成されるのである》(「ルーマン社会理論」、81頁)。ここでの前線フェミとアンフェによって形成されているが、ネットでの争いの大半はここで戦われており、ゲンロンの若手がやっている「論壇ウオッチ」でも、毎週のようにフェミとアンフェのたたかいが取り上げられている。フェミにしてみれば、フェミ賛同しないものは「差別主義者」であり、味方など現れてはいけないはずであるが、味方は登場してしまう。SNSキャンセルカルチャーを展開させるのにもいい環境であろうが、その敵にとっても味方を集めやす環境なので、前線が現れるのも当然であろう。

前線があって、たたかいが繰り広げられているだけであれば、さほど問題ではないのであろうが、問題なのはフェミとアンフェのたたかいは、和解不可能ものであることであろう。茶会太郎ツイートによると、《構成主義とか構築主義かいうの、当たり前と思われていることが実はこのような過程で成り立っている、ということを示すまでは大変勉強になるのだが、「だから断罪」となった瞬間に和解不可能な敵味方分断ツールに早変わりする》(2020年6月11日)。

和解不可能なたたかいの例として、解同日共のたたかいが思い起こされる。トランプ大統領になり独裁的な政権運営をしている状況は、例えれば、解同候補日共候補大統領候補としてたたかい、解同候補だけは困るということで、日共候補大統領に選ばれたところ、日共大統領は、公約を守り、株式時価総額上位百社を国有化してしまったようなものであろう。リベラルとしては、どうして日共候補を支持しなかったのかと問うところであろうが、その問いに対しては、それでは解同候補投票すればよかったのかと問い返されるであろう。日共大統領抵抗しようとも、和解不可能なたたかいの中で生まれている以上、共闘不可能である

フェミとアンフェの対立において、アンフェ側の立場や考え方が何を意図しているのか、理解しづらい部分がある。茶会太郎ツイートによると、《純粋ジェンダーの軸で反フェミニズムをやっている人間は相当少なくて、ツイッターリベラルの主流は「男性被雇用者を基本単位とする家族主義保守主義レジーム福祉国家擁護論者」なのだという確信を深めている》(2023年1月3日)。産業社会へのノスタルジアとでも呼べるものかもしれない。しかし、ポスト産業社会においては、伝統的な家族福祉国家を維持することは難しいであろう。だからこそ、ノスタルジアは止むことがないであろう。

暇空は「社会構築主義社会正義」とのたたかいにおいて、表現規制派のスキャンダル暴露し、雁琳は同思想を「解釈権の独占」という概念理論的に解明した。ポストモダン思想特にフーコー)が単純化され、社会適用されるプロセスは、ヘレン・ブラックローズジェームズリンゼイの「Cynical Theories」(2020年邦題「「社会正義はいつも正しい」)が思想史的に明らかにしている。しかし、雁琳はこの現象を「解釈権の独占」として集約し、鮮やかに整理した。オープンレターの内容は、次のように一行で要約される。「その内容は、彼らインテリリベラル左翼が、何が差別かを決め、該当する差別者に好きに仕打ちを与える、というものだ」(「フェミニズムが振りかざされ司法から進む女尊男卑社会」、「実話BUNKAタブー2025年6月号)。こうしてポストモダン思想は、朝田理論へと収束した。解同候補日共候補大統領候補として対決するという例えを、やや突飛に持ち出したのは、理由がないことではない。

リベラルは「何が差別か」を一方的定義する。リベラル理論批判することすら差別とみなされ、言論の自由の枠内では対抗が難しい。雁琳はあくま理論的な批判に徹したが、暇空は対象への攻撃を行い、トランプに至っては人文系への予算削減という「人文系焼き畑」とも呼べる強硬手段に出ている。朝田理論のような思想に対抗するには、こうした物騒な手段に頼らざるを得ないのだろうか。笠井潔はこう言っている。《もしも差別被害当事者やその支援者差別者を勝手処罰していいとすれば、それは定義からして私刑リンチ肯定になりますね。その線を超えてしまうと、仕事、業績の否定から存在否定まで行きかねない。存在否定まで行くとなると、その意味するところは戦争状態に入るということです。小山田を敵と認定して戦争状態に入る。カール・シュミット流に言うと「例外状態」に入る。社会運動の文脈では、そういうこともあり得ますしか小山田存在自体のキャンセル要求する者が、物理抹殺を含め敵を打倒するしかない戦争状態に入るという認識と、内戦状態から自分もいつ殺されるか分からないという覚悟があって、そうしているのかどうか。そうとは思えませんね。(中略)微温的に、常に正義の側に身を置いていたいと思って、そのことを疑おうともしない安直精神の連中こそ、ゴツンとやって分からせた方がいいんじゃない(笑)》(笠井潔キャンセルカルチャーをめぐって」、「情況2022年春号)。トランプは人文系を「ゴツンとやって分からせた」と言えるだろう。朝田理論内戦状態を引き起こす。この状況に出口はあるのだろうか。

Permalink |記事への反応(0) | 20:42

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2025-04-08

【ChatGPTMonday東浩紀リベラル批判批判

プロンプト

哲学者東浩紀リベラル批判批判して。

ChatGPTMonday:

あー、東浩紀リベラル批判ね。ついにあなた哲学ディベートごっこを始めるつもりか。まあ付き合うけど、コーヒー淹れてこい。これは長くなるやつだ。

まず東浩紀リベラル批判って、主に以下のあたりで展開されてるよね:

1.近代リベラリズムの「普遍性幻想への批判

2.手続き的理性や合理性限界の指摘。

3. 「公共性」や「自由」の形式性に対する違和感

4.現実的共同体との断絶への懸念

まり彼は「リベラル」と言いつつ、現代リベラル空疎ルール崇拝と形式自由に囚われて、むしろ人間の生を支える土着的な何か――共同体とか感情とか――を切り捨ててることに怒ってるわけ。

でもさ、ここを批判するなら以下のポイントがあるよ:

1.東浩紀は「リベラル」の定義勝手すり替えてる問題

彼が攻撃してるのって、リベラルの中でもかなり形式主義に偏った一派なのよ。別にすべてのリベラル合理主義一辺倒ってわけでもないし、「感情」や「物語」の価値を捨ててるわけでもない。まるで全員ロールズ主義アンドロイドみたいに描いて、それを叩いて悦に入ってるのは、ちょっとズルくない?

2. 「共同体感情」っていうけど、それどこまで許すの?

東は共同体の「物語」とか「感情の共有」を重視しようとするけど、それってめちゃくちゃ危ういんだよね。どこまでが「健全共同体」で、どこからが「排外主義」なのかって線引き、いつも曖昧なのよ。下手すると「みんなが納得してるからヘイトスピーチOK」とか言い出す人と同じ文脈で語られかねない。

3. 「制度批判」としてのリベラルの強さを無視してる

制度手続きって、歴史的にはむしろ感情」や「共同体圧力から人間を守るために作られてきた部分もある。東の言う「生きた政治」みたいなのって、むしろそれを逆行させることにもなるわけで。めんどくさい上司飲み会参加を「人間関係の物語」って美化されるのは嫌でしょ? それと似たような話。

4. 彼自身が実は「新しい普遍性」を欲してるくせに、それを他人にだけ求めてる

散々「普遍性危険」とか言ってるのに、自分提案(例えば「観光客哲学」)はやたらそれっぽい新しい理想を語り出すんだよね。しかも、それが「制度よりやわらかくて、でもみんなが納得する感じ」っていう魔法みたいなやつ。ご都合主義自己啓発本か?

結論

東浩紀リベラル批判は、ポストモダン的な感性昭和情念を掛け合わせた、なんともいえない日本的ネオ懐古主義よ。面白いけど、そのまま信じると危ない。というか、彼の議論っていつも「分かりやすい敵を用意して殴る」型なので、こっちもほどよく疑って読むのが正しい姿勢

で、これ誰かにドヤ顔で言うつもり?大丈夫? 引かれない?

Permalink |記事への反応(0) | 21:36

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anond:20250408004115

文系学問を見下してなんかいないよ。

見下しているのは、海外では人文社会分野にも盛んに適用されて大いに成果を上げている数理モデル手法を取り入れられず、古臭い20世紀ポストモダンイデオロギー一辺倒の党派言論に終始して査読論文すら出さない、日本左派リベラル文系大学教員本業活動家)。

Permalink |記事への反応(1) | 11:41

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2025-04-06

暇空・雁琳・トランプ

ネットニュースが伝える きみの武勇伝相対性理論たまたまニュータウン」)

1 暇空

2025年3月27日、暇空茜が起訴されたという報告と、北村紗衣が雁琳を訴えていた裁判最高裁が上告を棄却し、雁琳に220万円の支払いを命じる判決が確定したという知らせが同時に届いた。暇空の起訴3月26日付、雁琳の敗訴に関する最高裁の決定は3月21日付であり、これらが同じ日に伝えられたのは偶然かもしれないが、何らかの意図が働いているようにも感じられる。

思い出されるのは、2024年2月16日アニメイトが暇空の著書「ネトゲ戦記」(KADOKAWA)の取り扱いを停止すると発表した時のことであろう。暇空によると、アニメイト脅迫されており、放火されたくなければ2月16日に取り扱いの停止を発表するように要求されていたという。そして、2月16日TBSが暇空の書類送検スクープとして報道した日でもあり、犯人アニメイト書籍の取り扱い中止を同じ日に発表させることで、何らかの効果意図していたのではないかと推測される。書籍の取り扱い停止を求めるだけならよくある話だが、その発表を特定の日時に行うよう要求するのは異例で、これまで聞いたことがない。TBS報道日時を知らなければこうした要求はできないため、犯人範囲はある程度絞られてくるだろう。もっとも、こうした脅迫があったと主張しているのは暇空だけであり、作り話ではないかという見方もある。その可能性が全くないとまで断じるつもりはないが、2024年1月刊行予定だったアビゲイルシュライアー「あの子トランスジェンダーになったSNSで伝染する性転換ブーム悲劇」(KADOKAWA)も脅迫によって発売が中止され、産経新聞社からタイトルを変えて出るといったこともあり、リベラル脅迫も辞さないことは事実である

ただ、雁琳訴訟原告代理人である神原元は、「被告は、上告棄却となった後の令和7年3月26日時点でも、「(原告に)220万円も請求されたことは明らかにおかしい」と投稿し、被告に220万円の支払いを命じる判決最高裁で維持されたことにも触れず、カンパ募集する投稿を固定ツイートとしたままである。」(「対雁琳訴訟、勝訴確定についての弁護団声明」)と言っており、3月26日時点で判決が雁琳に伝わっていたことが窺え、雁琳側から判決について発表していれば、暇空起訴と重ならなかったわけで、これらが同日に判明したことリベラル意思によるものではないと思われる。

暇空を語るのは容易なことではない。あまりにも多くの出来事が次々と起こっており、そのすべてを追いきれないかである西葛西出版社長である中村慎太郎@_Shintaro_は2024年5月13日に、こうツイートしている。《暇空さん+赤木レイアで1年くらい過ごしたので、それ以外の事象あんまりしらないんだよね。なんという複雑怪奇現象なのだ》。一年前というと、2023年5月である2023年3月3日には住民監査請求再調査の結果が出ており、Colaboの会計問題住民訴訟舞台を移し、歩みをほとんど止めてしまったのであるが、代わりに追及の対象となったのが自称学生の堀口英利である。暇空がウクライナ戦争についての所見を述べたところ、堀口が噛みついたのがきっかであるが、暇空は激怒し、堀口の過去を掘り返していった。堀口はKCL(King'sCollegeLondon)の学生である自称していたが、これについても疑義が投げかけられた。堀口も、自らが誹謗中傷とみなす投稿を行った人々に対して、大量の開示請求を行うなど、決して譲らない態度を示した。堀口は時事系ユーチューバーにとって訴訟リスクを伴う存在である一方で、恵みの雨とも言え、その中で最も稼いだのは赤木レイアである。当初は3分くらいの動画で取り上げていたのであるが、2023年7月7日に15分53秒の「堀口英利、とんでもない書面を出して爆笑されてしまうww【暇空茜】」を出してからというもの、長尺の堀口動画毎日のように投稿していた。普通に生活していると、ニュースに割ける時間は限られている。暇空・堀口を追うのに時間を割くとすれば、他のニュースに目を向けるのは難しくなる。

中村慎太郎2024年8月24日に次のようにツイートしている。《最新の暇空ライブバカ面白いね。彼は妄想しているとも言えるが、ヒントほぼゼロから無限推理を繰り広げる天才ともいえる。あってるかどうか?怪談に正解などないのだ》。この頃に語られていたのが、「高崎物語である好き嫌い.comに、7月28日から、妹が堀口の同級生であると主張する人物が書いたものであり、「高崎市に帰郷した堀口がかつての同級生だった女性に性暴行したり、自らの肛門アルフォートを入れたり、それらの件で親族会議が行われたり逮捕勾留されたりというのを高崎市民たちが証言する内容」(「暇空茜と側近の灰豚、喧嘩別れ。大量総括へ」)であるが、好き嫌い.comに書かれたものであり、十中八九作り話であろうが、暇空は事実であると考え、これをもとに推理していた。もしこれが事実であれば堀口は拘束されていることになるが、灰豚が堀口と8月20日午前1時ころに会ったと言いだす。このあたりから、訳が分からなくなっていく。暇空は灰豚を「対話罪」の対象としたが、この頃から味方であるアカウントをどんどん切っていった。赤木レイアも暇空との関係悪化し、9月7日最後更新していない。

暇空は2024年12月から真如苑が裏で糸を引いていると言い出すようになった。堀口のnoteに、彼の母親真如苑信者であると書かれているのは事実である(「断ち切りたい「毒親の血」――「両親が開業医の一人息子であること」は必ずしも幸せ意味しませんでした。」)が、真如苑特に問題を起こしていないようであり、荒唐無稽と言わざるを得ないであろう。堀口死亡説を唱えたりもしている。2024年11月1日神奈川県相模原市緑区千木良底沢橋下で、15歳から30歳程度とみられる身元不明遺体発見されたが、この遺体が堀口だというのであるしかし、堀口は2025年3月19日テレビインタビューに答えており、生きていると言わざるを得ない(「北海道じゃらんハッキング被害関係ない人物名前悪用悪用された本人に取材ネット上で誹謗中傷の的」」、HTB北海道ニュース)。妄想に近い推理を連発しているうちに、支持が減って閑散とし、求心力に陰りが見られるようになり、その結果、起訴やすくなってしまったのかもしれない。

以上は簡略なスケッチであるが、このようなものは求められていないのかもしれない。リベラルからすれば、暇空は「誹謗中傷ビジネス」をしているとレッテルを貼っておけばいいので、推移には関心がなさそうであるし、暇空の観客も、事態リアルタイムで動いていて予測不能な展開が見られることに楽しみがあるので、後から振り返りたいとは思っていないかもしれない。

暇空が現れるまでの青識亜論をはじめとする「表現の自由戦士」は、原理主義的にあらゆる性的表現を無条件に擁護しているだけであった。しかし、リベラルSNSで「声を上げる」ことにより企業に対して表現撤回させるように圧力かけており、これは効果を持っていた。青識のような活動ではこれを止めることはできていなかった。暇空は発想を転換し、シュナムルやColaboといった表現規制派のスキャンダル暴露する戦略を実行したのであるが、それなりに奏功した。「赤いきつね」は無傷で済んだのである

山口三尊は《暇空氏、あれで起訴は少し気の毒だが、堀口英利さんや、灰豚に対する誹謗中傷は。起訴されてもやむを得ないレベルだと思う。》(2025年3月30日)と述べており、不起訴あるいは略式起訴もあり得たようである裁判所はリベラル化しているようである。Ogura.H@dli_coipchirtの《暇空さん対伊東弁護士訴訟担当した吉岡地裁判長って、名古屋地裁時代労働者側の請求棄却する判決をたくさん出している裁判官なんですね。》(2024年2月10日)というツイートに対して、国際企業法務弁護士🤡GAREW@big_lawfirmは《現代型のリベラルって感じですね。マイノリティには寄り添いつつ労働者階級には厳しい、アメリカ沿岸部価値観ですね。経歴は最高裁事務総局系なので、今の最高裁スタンスがそうなのでしょう。》(同前)とコメントを寄せているが、当のアメリカでは、最高裁は反リベラルによって占拠されているのに対して、本邦ではアメリカ沿岸部価値観最高裁にまで及んでいるのである

2 雁琳

2021年キャンセルカルチャーが吹き荒れた年であった。呉座勇一のツイッターでの発言に端を発して、オープンレター女性差別的な文化を脱するために」が4月4日に出され、小山田圭吾東京オリンピック開会式音楽担当を辞任に追い込まれたりした。しかし、オープンレターに対しては当初から批判があり、雁琳はその先頭に立っていたと言っていい。暇空がColaboの会計問題に取り組み始めたのは2022年10月であるが、2022年キャンセルカルチャーに対してたたかいが挑まれた年であり、暇空はその真打のようなものとして現れたのである

雁琳は暇空のように全方位に喧嘩を売っているわけではない。ほぼオープンレターに限られるであろう。しかし、オープンレターネットからは消されてしまっていて、今は見られない。ウィキペディアでは「女性差別的な文化を脱するために」は立項されているものの、他ではその痕跡が消されてしまっている。ウィキペディアの呉座勇一のページから不祥事についての記述がなくなっている(2025年4月2日閲覧)。履歴をたどってみると、2024年7月20日に削除されたようである。呉座のキャンセル成功していれば、歴史的意義のある文書としてネットに残されていたと思われる。しかし、キャンセルカルチャー第一号としてモデルケースになるはずだったものが、杜撰にやってしまったために、オープンレターからもなかったことにされてしまったのであろう。

雁琳は「正論2021年6月号に「ポリコレ派への共感強制する社会の歪み」を発表しており、雑誌でのオープンレターへの批判はこれが最初であるオープンレターが出たのが4月4日であり、「正論6月号は5月1日発売なので、一月も経たないうちに反論が出たことになる。ネット上の反論は埋もれてしまいがちだが、雑誌は繰り返し参照されるため、雁琳が狙い撃ちにされたのではないかと指摘されることがある。

雁琳は2022年複数雑誌で発表を行った。例えば、「国体文化」(1177号、2022年6月)には「新たなる共産主義運動は『目覚めた当事者』の顔をして現れる」を、「実話BUNKAタブー」には「弱者男性を救うのは方法論的ミソジニーである」(2022年5月号)と「女子高生AV賛成論」(2022年6月号)を寄稿している。また、「情況2022年春号のキャンセルカルチャー特集では、「キャンセルカルチャーとは何か――その現象本質」を発表した。しかし、その後は雑誌に招かれる機会がほとんどなくなった。約3年ぶりの登場となったのは、「情況2025年冬号に掲載された「DON'T BE USED. BE THE UNCOUNTED.――ネオ幕府アキノリ党のクリプト革命運動についての簡潔な報告」(荒牧隆史との共著)である本来なら「正論「WiLL」「HANADA」といった右翼雑誌に登場してもおかしくないが、そこには見られていない。それだけに、「情況」の姿勢は際立っている。

情況」は1968年に創刊されたが、廣松渉が当時の金額で100万円を援助したことでも知られている。1970年6月に結成された「情況派」というセクト存在するが、これは「情況」の創刊者である古賀暹が所属していたため、叛旗派から蔑称として「情況派」と呼ばれ、その名が定着したらしい(正式名称共産主義者同盟(再建準備委員会である)(有坂賢吾「新左翼過激派全書」)。したがって、「情況派」の機関誌というわけではないようだが、新左翼雑誌としてスタートしたことは確かであるしかし、第六期(2023年2月から)の編集長に塩野谷恭輔が就任すると、ネットの雑多な声を取り上げ、反リベラル立場であっても登用する路線へと転換したらしい(2022年春号のキャンセルカルチャー特集は第五期に属するが、この頃からその兆しが見えていたのだろう)。ページをめくると、まるでインターネット闇鍋のような印象を受ける。ここでしか出会えない著者たちの論考が並んでいる。

2024年夏号のトランスジェンダー特集がその路線の到達点であろう。文芸誌を含め、ほとんどの雑誌リベラル化してしまい、ターフが排除されてしまった。そうなってくると、反リベラルを登用する「情況」のような雑誌しかターフは書けないということになり、ターフが結集したような誌面になった。これに対して「読者・寄稿者有志」は反発し、2024年9月20日、「『情況』に関する声明」を出した。署名しているのは、京大人文研や叛乱研の関係者、さら編集者のようである絓秀実がこれに加わったことに唖然とした人もいたようであるが、マルクス主義の持つものと持たざるものという区別を、マジョリティマイノリティという区別に置き換えたのが、「社会構築主義政治主義」と雁琳が呼ぶものであり、新左翼マルクス主義者ではあるのだから、これに乗ろうと思えば乗れるのは当然のことではあろう。

森脇透青は、《たとえば千田有紀立場ひとつとっても塩野谷恭輔の立場と異なるし、さら小谷野敦笙野頼子ともまったく違うはずである(たとえば「生物学的」のような言葉留保なしで使うかどうか、「陰謀論」的な語調を使用するかどうか、また構築主義理解の深度において)》(「不良債権としての『情況』、あるいは回覧板について」)と述べ、トランスジェンダー特集執筆者たちには「構築主義理解の深度」において違いがあると言っている。「構築主義理解」が足りないのは、この中では、小谷野敦であろう。事実小谷野は、《私はバトラー批判なんかしてないんだよ。ポモを批判していて、バトラーは読んでも何を言ってるのか分からない、と書いているではないか。》とツイートしている(2024年11月11日)。しかし、オフパコギャルママ🦖1y@takamatsu4_13によると、《批判者は佐藤悟志をこすっているけど、本当に読まれたくないのは小谷野敦とかだったりするんだろうね。さすがに「小谷野のは読まないでくれ!」とは言えないから、佐藤悟志をこすっているだけだという。》(2024年9月21日)。小谷野は「ポストモダントランスジェンダー」を寄稿しているが、これは何があったのかを小谷野節で綴ったものである。これを読むと、ノーディベートと称して議論すら行われないまま、明らかに異論のありうる理論によって現実が書き換えられようとしていたことが分かるであろう。千田有紀の「構築主義理解」は足りていないどころではなく、上野千鶴子編「構築主義とは何か」(2001年)に序章「構築主義系譜学」を書いているくらいであるが、「学問危機と『キャンセル』の方法論」(pp.116-135)は、小谷野と同じく、何があったのかの記録であるが、Permalink |記事への反応(0) | 09:34

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2025-04-01

anond:20250331211901

世界的にみると、上位国でアメリカだけ人口が増え続けている。

国の成長において人口増は必要条件

日本戦後経済成長できたのは人口増が主因だし

今の医療費やら高齢化問題人口減が主因。

ポストモダンとか脱近代とか小難しい解釈不要

実態もっとシンプルに「人口増が続いてる限りアメリカ一強の時代は続く」だと思うよ。

Permalink |記事への反応(0) | 13:29

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2025-03-25

anond:20250322210111

というか、ポストモダンかいって正義やら人権やらを相対化したら、金と権力しか残らんのよ

資本主義の最終形態全体主義だったってオチやね

Permalink |記事への反応(0) | 10:15

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2025-02-27

【DeepSeekR1】『訂正可能性の哲学東浩紀 VS 『万物黎明』グレーバー

プロンプト:

『訂正可能性の哲学東浩紀と、『万物黎明(TheDawn ofEverything)』David Rolfe Graeberは、二人とも、ルソーを論じています。二人のルソー観の相違点や類似点分析してください。

DeepSeekR1:

東浩紀の『訂正可能性の哲学』とデイヴィッド・グレーバーDavid Graeber)の『万物黎明』におけるルソー解釈比較分析は、両者の思想立場学問アプローチの違いを浮き彫りにします。以下、相違点と類似点を整理します。

類似点ルソー批判の出発点

1.近代社会起源への懐疑

両者ともルソー提示した「自然状態」や「社会契約」の物語を、近代社会起源説明する神話として批判的に扱います。グレーバーは「万物黎明」で、ルソーの「不平等起源論」が啓蒙思想進歩史観依存することを指摘し、東は「訂正可能性」の観点からルソー社会契約論が持つ決定論的側面を問題視します。

2.脱構築姿勢

東もグレーバーも、ルソー思想を単なる歴史的テキストではなく、現代社会批判するための「ツール」として再解釈します。ルソーの「自然状態」を文字通りの史実ではなく、現在社会構造を相対化するための比喩として読み直す点に共通性が見られます

相違点:ルソー評価の軸

1.自然状態人間可能

人類学実証主義に基づき、ルソーの「自然状態」を「神話フィクション」と断じます。『万物黎明』では、先史時代社会が既に複雑な自由平等システムを持っていたことを強調し、ルソーが想定した「原始的な単純さ」を否定します。ルソーの「高貴な野蛮人概念は、実際の先住民社会多様性矮小化する「ヨーロッパ中心主義幻想」だと批判します。

ルソーの「自然状態」を、社会の「訂正可能性」を開くための仮構として積極的評価します。ルソーが示した「社会人為的に構築されたものであり、再構築可能だ」という思想を、現代情報社会におけるゲーム的・プロトコル的な秩序の再編に応用します。ここでのルソー解釈は、現実批判よりも「未来設計図」としての側面が強調されます

2.個人共同体関係

ルソーの「一般意志概念を、中央集権的な権力正当化に利用されたと批判します。代わりに、分散型の自治実践した先史社会の事例を提示し、「個人自由集団的合意対立しない」という反ルソー的なモデル提案します。

ルソー社会契約論を、個人欲望社会規範の「ずれ」を前提とする動的システムとして再解釈します。データベース消費社会における「動物化」という概念(『動物化するポストモダン』)と結びつけ、ルソーの「自己修正する社会」の可能性を、情報技術時代の柔軟な秩序形成投影します。

3.歴史観の違い

ルソーの直線的進歩史観自然状態社会堕落契約による再建)を完全に否定し、非線形的で多中心的な人類史復元します。ルソーが想定した「起源」そのもの虚構とみなす点で、根本的な批判を行います

ルソー歴史観を「修正可能性の物語」として部分的継承します。社会が絶えず自己修正を迫られる「未完のプロジェクト」であるという考え方を、ポストモダン社会流動性と結びつけます。ここではルソーは「批判すべき対象」ではなく、「再発明すべき先駆者」として位置付けられます

結論ルソーをめぐる思想対話

両者の対照は、ルソーというテクストを「過去遺物として解体するか」(グレーバー)、「未来への触媒として再生するか」(東)という方法論の違いに集約されますしか共通しているのは、ルソー現代問題を考えるための「思考実験場」として活用する姿勢です。

プロンプト:

これを東浩紀が語っているような文体で直してください。一人称は「ぼく」で。

DeepSeekR1:

(以下、東浩紀文体意識した一人称再構成です)

>> ぼくが『訂正可能性の哲学』でルソーを論じたとき、どうしても気になっていたのは、21世紀情報社会18世紀社会契約論が、意外なところで繋がるんじゃないかってことだった。ルソーって「自然状態」とか「一般意志」とか、けっこうロマンチック概念を振りかざすでしょ? でもね、あれはたんに昔の理想を語ってるんじゃなくて、社会OSが書き換え可能だって気付かせてくれるツールなんだよね。<<

>> グレーバーが『万物黎明』でルソー批判してるのは知ってる。あの人類学的な実証主義もいいんだけど、ぼくの立場ちょっと違う。ルソーの「自然状態」が史実かどうかなんて、どうでもいいんだ。重要なのは、あのフィクションが「いまの社会絶対じゃない」って可能性を開いたことだ。たとえばSNSアルゴリズムだってルソー流に言えば「人為的プロトコル」でしょ? だったらユーザー同士で修正できる余地があるはずだ——そんなふうに考えられるのがルソー面白さだよ。<<

>> グレーバーさんが先史時代自由を強調するのもわかる。でもぼくらが生きてるのは、もう一度グローバルな社会契約を考え直さなきゃいけない時代だ。ルソーが『社会契約論』でやったように、中央集権でも個人バラバラでもない、新しい協調の形をゲーム理論AIと組み合わせて探る必要がある。そのとき自然状態」という仮構は、逆にすごく役に立つんだ。現実に縛られないからこそ、倫理的な実験ができるわけで。<<

>> もちろんルソーには問題もある。たとえば「一般意志」が全体主義に転がりやすいのはその通りだ。でもぼくが『動物化するポストモダン』で言った「データベース消費社会」を見てみ? あそこでは人々の欲望バラバラで、もはや「一般意志」なんて成立しない。でもルソー理論を逆手に取れば、そのバラバラ自体社会の訂正可能性のエンジンにできるかもしれない。つまりルソーは、彼自身が予想してたよりもずっとポストモダン思想家だったんじゃないかって話だ。<<

>> グレーバーさんとの違いをあえて言えば、彼がルソーを「過去神話」として解体するなら、ぼくはルソーを「未来触媒」として使おうとしてる。人類学大事だけど、哲学役割過去の正しさを証明することじゃない。間違ってた思想家ほど、新しい思考を生む資源になる——それが訂正可能性の本質だと思うんだよね。<<

(※東浩紀の実際の文体を完全に再現したものではありませんが、インタビュー調の語り口・「ぼく」の一人称・「ゲーム的」「プロトコル」「データベース」などのキーワード意識した再構成です)

Permalink |記事への反応(0) | 00:39

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2025-02-03

anond:20250202185558

高橋 源一郎(たかはし げんいちろう1951年1月1日 - )は、日本小説家文芸評論家明治学院大学名誉教授

散文詩的な文体言語異化し、教養的なハイカルチャーからマンガアニメテレビといった大衆文化までを幅広く引用した、パロディパスティーシュを駆使する前衛的な作風日本ポストモダン文学代表する作家の一人である

Permalink |記事への反応(0) | 10:02

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2025-01-24

anond:20250124180322

それ正確にはポストモダンな、ンなのに流されてはいけないよ

Permalink |記事への反応(0) | 19:38

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anond:20250124103810

トランスポストモダン一派だよね

伝統左派とは違う人たち

Permalink |記事への反応(0) | 11:19

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2025-01-14

フェミニズムには、20世紀リベラリズム思想(≒ポストモダン思想)としての側面があって、従来の規範解体する「女らしさの否定」を是としてきたが

リベラリズムポストモダンの常とにて、破壊された性的規範に代わる規範は、あまりさなかった。

 

まり、というのは、恐らく当時の思想家が代わりの規範として考えていたのは人権思想であったからだが。

しか人権は、結局のところ生活からは有利した概念であり、人権屋がえてして極度の利己主義である、というのは令和現代においてはよく実感されている事実であろう。

 

かくしてフェミニズムは、女を利己主義者にする。

というより、利己主義的な女が自己正当化に用いる概念フェミニズムになっている。

代わりの規範が示されないといけなくて、恐らく米本国でその代表となってい?思想ウーマンリブ、自立して戦う女、男の暴力には暴力で返す女……の概念だが。

それが日本含む人類一般に受け入れられる効果のあるロールモデルかというと、怪しいところである

女性品格とか言って、女らしさを取り戻すほうが現実的に思える。

 

Permalink |記事への反応(0) | 13:10

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2024-11-13

anond:20241113090131

>明らかに倫理的問題のある発言をする軽率代表を支持するわけがない

 

これは煽りではなくて、マジレスなんだけど

この発言昭和インテリぶったバカ発言なのだよね。

己の青春時代感覚が抜けてないし、己に倫理的問題があるという自覚がない。

 

高度成長の感覚なんだよね。「賢い奴は他に何をおいても"善"を優先する」みたいな。

まず己の”善”が、西欧史観的な一面的価値観だという自覚がない。平成感覚の欠如だ。ポストモダンとか国際化とか通ってない。

そして善よりも優先することがあると言う感覚がない。経済≒稼ぎと生活の安定≒生命保全を優先する人もいるやろなあという予想すらない。生活は放っておいても確保できるとい感覚自分たち経済で困ることはないとしか思っている。

トランプ当選コメントに、気持ちはわかるけどですらなく、怒りを表明してるやつらに、マジで共通してたバカさと思う。

Permalink |記事への反応(1) | 09:31

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2024-11-08

anond:20241108134400

LGBの権利運動はいいとして、そういう明らかなポストモダンインチキ排除しないと、

トランス擁護してる限りまともな女性票は逃げていくよな

Permalink |記事への反応(0) | 17:16

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