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2025-10-19

ポケモン帝国のトゥール・ポワティエ――『PokémonLEGENDS Z-A』が示す文化終焉

 「ポケモン」が再び戦場に立った。タイトルは『PokémonLEGENDS Z-A』。舞台はカロス――フランスを想起させる世界。だが、ここで我々が目にするのは、かつての創造的爆発ではない。これは文化の衰退と、帝国防衛戦である。すなわち、トゥール・ポワティエの戦いだ。

 かつてイスラーム勢力ヨーロッパへと進撃した時、フランク王国カール・マルテルは剣を取り、文明境界線を守った。今、任天堂ポケモンカンパニーは、かつての創造侵略者ではなく、守勢の側に立っている。彼らの「Z-A」という逆行のタイトルには、時代への恐れと自己防衛匂いが漂う。AからZへの進歩ではなく、ZからAへの退行。これは進化ではなく、停滞の宣言だ。

 『PokémonLEGENDSアルセウス』が開拓の戦だったとすれば、『Z-A』は塹壕である。敵はソニー中国勢の新興勢力ではない。敵は「飽き」と「惰性」、そして自ら築いた“伝統”という名の要塞だ。任天堂はトゥール・ポワティエのマルテルのごとく、侵略者ではなく守護者となり、守るために創造犠牲にしている。

 問題は、マルテルが勝利したその瞬間、ヨーロッパは確かに守られたが、新しい文化の風は遮断されたという歴史的皮肉だ。ポケモン帝国もまた、ファンという「信徒」を守るために壁を築き、外部の挑戦や異文化的刺激を拒絶している。シリーズ刷新ではなく、過去の再演を“神聖化”しているのだ。

 トゥール・ポワティエの戦いは、文明の保存と引き換えに停滞を選んだ戦いだった。そして『PokémonLEGENDS Z-A』は、まさにその精神の再演である任天堂は“侵略される側”に回り、かつての革命児は「文明を守る老人」となった。

 勝利するだろう、確かにしかし、その勝利はもはや未来を拓かない。剣を掲げたその手の中には、創造の火ではなく、惰性の灰が握られている。

 ポケモン帝国防衛戦は、すなわち文化終焉戦――トゥール・ポワティエの再演なのだ

 守るために失う。これが『PokémonLEGENDS Z-A』の最も痛ましい真実である

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2025-06-28

dorawii

歴史に関する知識人間未来意志決定を引き出すのか?それとも歴史対応する過去に起こった事象のもの人間意識決定に影響を与えるのか?

たとえば道に犬がうんこしたら以降その周囲を踏む人は少なくなるだろう?

それは別に犬がうんこをしったという「知識」によるものではない。そもそもだって道にうんこっぽいものが落ちていたとしてそれが猫か犬かどっちがしたものかなんて見分けつかない。

ただ、そこにうんこがあるから避けているだけだ。そしてそこにうんこがあるのは過去に何者かがそこでしったことに対する因果律によるものに過ぎない。

まり過去に起こった事象のものの影響を受けた現在人間回避行動に影響を与えているのであり、そこで過去のいつ何者かがどんな方法で排泄したかあるいは排泄物を持ち運んだかという知識自体関係ないわけだ。

では「EUが成り立っているのは過去EU加盟国地域の大部分がフランク王国だったから、統合にはあまり抵抗がないのだ」という言説はどうなのだろう?

統合するという意思決定する権利があるのはお偉いさんだと思うわけで、そのお偉いさんは多少なりとも学があるのだから過去つの国だったという知識=歴史に基づいて「昔は1つの国だったしまあいっか」的な感情が引き出されているのだろうか?

それとも多少なりとも歴史対応する過去事象自身現在EU加盟への意思決定にまでなんらかの実体として影響しているのだろうか?

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Permalink |記事への反応(0) | 15:43

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2024-10-26

古代中世ヨーロッパ史の陸戦史上、最も重要野戦10

海戦を入れると10選に収まらないので陸戦のみで…書いてみたら近代以降を入れるのも無理だった。攻城戦もなー

レウクトラの戦い

 斜線陣の工夫によって兵の質量が劣る側が勝利した。意識的場所によって攻撃と防御を使い分ける戦術が発展する(それ以前から右翼重視思想などはあったが)

ガウガメラ(アルベラ)の戦い

 アレクサンドロス大王ひきいるマケドニア軍がペルシア帝国の圧倒的大軍相手陣形と機動性、戦機を掴むセンス勝利した。多民族大国ペルシア帝国の滅亡を決した。

カンネーの戦い

 少数・寄合所帯のカルタゴ軍側がハンニバルの巧みな両翼包囲戦術によって多数のローマ軍を包囲殲滅した

タラウヌムの戦い

 アエティウスひきいる西ローマ帝国と西ゴートの連合軍が命がけでフン族アッティラ王のヨーロッパ侵攻を停止させた

ギネー(ブスタ・ガロールム)の戦い

 東ローマ軍が防御と投射武器によって東ゴート軍の騎兵突撃撃退した(これがあるのでクレシー・アジャンクールの戦いは取り上げない)

トゥール・ポワティエ間の戦い

 フランク王国の宮宰カール・マルテルイスラム勢力ピレネー山脈を東に越える西欧への拡大を阻止した。カール・マルテルの子孫がカロリング朝を興す

レヒフェルトの戦い

 神聖ローマ皇帝オットー一世要塞網も駆使して機動力に優れるマジャール人の侵攻を押し留めた

モヒの戦い

 共に機動力の優れた軍隊の戦い。巧みな戦術モンゴル軍がハンガリー軍大敗させた(リーグニッツの戦いに優先した。さら重要なのはアインジャールートの戦いだが流石にヨーロッパの外)

モルガルテンの戦い

 スイス三州同盟軍パイク兵の密集陣形ハプスブルク軍に勝利を収める。規律士気の高い歩兵なら重装騎兵勝利しうることを示した

グルンヴァルトの戦い

 ポーランドリトアニア連合軍ドイツチュートン)騎士団による領土拡張の野心を打ち砕いた

その他

レウクトラの戦いの前にレカイオンの戦い(戦術的にはガリア戦争のアドゥアトゥカの戦いに似ている)も入れたかった。やるなら古代だけで10戦かな?ファルサルスの戦いなどで嵩増しはできる。

ギネーはやや場違いかも。でも、クレシーもけっきょく歴史の決定打になっていないし、それなら古いタギネーを出すべきかなと。

Permalink |記事への反応(0) | 22:54

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2024-06-03

anond:20240530092203

実際にローマ帝国崩壊後のヨーロッパでは文化の中心はフランス語圏だったじゃん。(フランスとは言っていない) 

中世以降のヨーロッパ現代に至るまでフランク王国末裔だろ。ローマ帝国じゃなくて。

Permalink |記事への反応(0) | 06:12

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2024-03-18

本当は近代史がやりたいのに

近代理解するには近世理解しないといけないなー、となって

更に近世理解するには、百年戦争レコンキスタモンゴル帝国理解しないといけなくなる

さすがにフランク王国成立前まで遡らなくても良いだろうとは思う

Permalink |記事への反応(0) | 18:34

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2024-02-01

anond:20240201133313

いろんな国でそれぞれ異なった起源があるが、フランク王国のそれを日本史に当てはめると

公爵 御三家親族)や徳川初期の豊臣家・朝鮮王家(併合した領地の元国王クラス部族大公など)

侯爵 外様大藩(独立性のある大貴族)や奥州探題関東管領辺境軍事指揮官辺境伯とも)

伯爵 譜代大名幹部クラス)。元々は城代意味

子爵 譜代大名(それ以外)。元々は城代代理

男爵 旗本兵力の基盤としていくつかの村落くらいは領有している

伯爵以下が王様の直属の家臣、それ以上はどこか遠慮が必要関係が多い

独仏伊以外の爵位はこれをベースに、自分たちの有力者を「どれと同格と主張するか」でバランスとって決められた感じ

Permalink |記事への反応(1) | 13:58

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2023-08-12

anond:20230812020349

それだけじゃないぞ。 フランク王国とかシャルルマーニュとか覚えてないか?  あと、19世紀あたりまでの歴史もな。 外交世界でのフランス語地位を見てみろよ。

Permalink |記事への反応(0) | 03:10

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2023-07-02

anond:20230702171556

意外と攻略好きな性質はあるかもしれんね

先祖フランク王国人だし

Permalink |記事への反応(0) | 17:24

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2023-06-11

anond:20230611173455

シベリア鉄道資金源はフランス

それでプロテスタントユニテリアン)やユダヤ教国は、反共・反フランス、反カトリックという感じじゃね

まあどこかで混ざってると思うけど、フランスも元はフランク王国から影響力は侮れない

Permalink |記事への反応(0) | 18:08

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2023-01-29

最近話題ローマンコンクリート古代ローマ時代コンクリート)はなぜロストテクノロジーになったのか?

古代ローマが滅んだ、といっても

東ローマ帝国という受け皿は

中世まで1000年以上の長きにわたりローマ文化継承したのだし

西ローマ帝国ゲルマン民族により征服されたといっても

突然全くの異世界からやってきた蛮族により侵略された

というわけではなく

長い時間をかけてローマという大文化圏と接してきて

その影響を大きく受けた民族

ローマ社会に浸透する中で権力形成

やがては独自王国として独立していったものだ。

そうして成立したフランク王国などが技術継承したとしても決しておかしなことではないと思うのだが。

そもそもローマン・コンクリートが生産されなくなったのは何時頃なのか?

などなど、こういった調べ物もChatGPTに頼めば秒でわかることなんだろうな。

真偽は別にして。

Permalink |記事への反応(0) | 21:59

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2022-12-02

ドイツ世界から嫌われてるな

日本ヴェルサイユ条約してルール地方占領したいわ

てか、ドイツはもうフランス併合してもらってフランク王国目指した方がええわ

Permalink |記事への反応(0) | 16:55

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2022-08-25

anond:20220825125241

1ポンド=20シリング=240ペンス

という比率

フランク王国が定めた

1リブラ=20ソリドゥス=240デナリウス

という比率に由来する。

リブラは古代ローマにおける通貨単位であると同時に重量の単位でもあり、

1リブラは「重さ1リブラの銀貨」ということになる。

さらに1リブラの銀から240枚のデナリウス銀貨を作っていたので

1リブラ=240デナリウスとなった。

そして金は銀の12倍の価値を持っていたので

ソリドゥス金貨1枚とデナリウス銀貨12枚が等価であると決められた。

まり240デナリウス=20ソリドゥスである

というわけで1リブラ=20ソリドゥス=240デナリウスという式が完成する。

もちろん1リブからどれだけの銀貨を作るか、金が銀よりどれくらい価値があるかは、時代によって変わるのだが、

基準としては「1リブラ=20ソリドゥス=240デナリウス」がイギリスでは守られていったのである

Permalink |記事への反応(0) | 13:27

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2022-02-14

等分に相続するっておかしくない?

フランク王国フランスドイツイタリアの基礎になったのは有名だが、一子相続をしていればヨーロッパ統一されていただろうに。分割相続は争いを生むから、一子相続にしてほしい。

Permalink |記事への反応(1) | 22:21

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2022-02-12

anond:20220212010453

三国志曹操と同じじゃないの?

彼は簒奪をしなかった。

皇帝を操って影の実力者となったわけだし。

実質的には簒奪だろうけど、あくま自分皇帝になったわけじゃない。

実際に皇帝から簒奪し自ら皇帝になったのは彼の息子なんだし。

同様のことはフランク王国カール・マルテル子供ピピン3世でも同じ構図があるし、

共和政ローマを乗っ取って帝政にしたアウグストゥスも似たようなものだろう。

実質的には皇帝議会を上回る力を得たのに、簒奪はせずに第一人者みたいな地位に収まる方が都合が良かったのだろう。

そしてそれを長期間続けて事実上認めさせた上で、次の世代名実ともに簒奪する。

そちらのほうが反発が起きなかったのではないかと思う。

安易簒奪した結果、反発を起こされ反乱が起きると面倒だしね。

平家場合、彼らの支配が長く続かなかったのが最大の誤算だったように思う。

じゃあなんで長期間続いた江戸幕府天皇から簒奪しなかったのか?っていうのも面白いところなんだろうけど。




現代まで残る立憲君主制国家は、奇妙な偶然から王家が打倒されずに残ったんだと思う。

もし少しでも選択肢を間違えていたら王家が消えて、共和国になるルートに行ったんじゃないのかな?

Permalink |記事への反応(0) | 19:36

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2022-01-06

anond:20220106084449

でもフランスってフランク王国が最大領土で

一度も世界の海を支配したことないし

イギリスにも責められてジャンヌダルクに助けられたし

ヒトラーにもパリ占領された

内弁慶ですよね。

ナポレオンはどこまで攻めたっけ?

Permalink |記事への反応(0) | 09:01

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2021-09-18

ガチャという言葉が生まれることから見られるように

階級固定化するのではという懸念が人々にあるのだろう。

富めるものはそのアドバンテージを利用してますます富み、

貧しいものはそのハンデを覆すことが出来ない。

上級国民などとまことしやかに囁かれる今貴族

固定階級となり流動性がなくなる社会へと変化しつつあるのではないかという観測だ。

かにそのような傾向はあるのだと思う。

とくに大きな戦争であるとか極端に社会不安定になって革命的な出来事が起こらない

歴史過程にあっては階級固定化が進むのは必然である

しかし、かつての階級社会のような完全な固定化には進むことはないと考えられる。

その理由財産の分割相続による。

巨大な財産でも分割されることで力は弱くなるからだ。

これは歴史事象として古代ローマ帝国継承者となったフランク王国比較的に短期のうちに

その巨大な権力は分割されて強権を維持することが出来ずに

現在欧州国家の原型へと解体されたいったことでも理解できる。

従って現在のように親の財産を等分するような仕組み、

国家税金として大きな割合収納する仕組み、

が維持されている場合には階級社会への移行は難しいのではないかと思う。

と、いってそのような社会絶対的に続くのかと問われればその保証はない。

財産は分割しないほうが強力だからだ。

そのことに気づいた国家制度を大きく変えて長子相続制などを取れば

その国家経済は非常に強力となりそのことでその国家が強力になり

世界覇権を握れば社会はその国家制度への追従余儀なくされるからである

チンコ

Permalink |記事への反応(1) | 14:57

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2017-01-30

「新しい」国民戦線についての5つの偏見フランス語web記事翻訳

https://twitter.com/goeland_argente/status/825881166334996481

このツイートに触発されて、以下の記事を訳してみた。

Cinqidées reçues surle “nouveau” Frontnational

http://www.lesinrocks.com/2015/04/18/actualite/cinq-idees-recues-sur-le-nouveau-front-national-11742654/

フランス語はそんな上手くないし、フランス政治には全然詳しくないのでひどい訳です。

どんどん誤りを指摘してください。補足してください。何ならもっといい翻訳をつくってください。

*****

「新しい」国民戦線についての5つの偏見

モンペリエ大学パリ政治学院政治科学助教授であるアレクサンドル・デゼは、『問題になっている「新しい国民前線」』の中で、ステレオタイプに反して、国民戦線については、新しい点よりも昔から変わらない点の方がはるか重要であることを示した。

1 国民戦線は「フランス第一党」ではない

2014年選挙での国民戦線の戦績が良くなったことは否定すべくもない。しかしながら、そのことを過大評価してはならない。アレクサンドル・デゼは次のことを思い出すように促す。地方選挙において、国家レベルと結びつけて考えるなら、1995年ときのように、票の4.7%しか獲得していない。これらの結果を、2012年大統領選挙の時の人口10000人以上の都市におけるマリーヌ・ル・ペンの結果と比較してみよう。そうすると、今回の地方選挙の結果は、票数に関してはいくらか劣っているものだと言える。ヨーロッパ選挙に関していえば、かつて聞かれたように、29.4%のフランス人国民戦線投票したのではない。棄権考慮に入れるならば、有権者10%だけである

奇妙にも、県の選挙の結果は、彼らの前進を示している。ただ、世論調査での高い予想のせいで、この結果は過小評価されている。国民戦線候補者は43の県で1位であり、1107の小郡(canton)で、降りずに留まっている。

これらの結果というのは、国民戦線を彼らのスローガン通りの「フランス第一党」とするには不十分なものであるアレクサンドル・デゼは、国民戦線存在感というのは、市町村レベルでは副次的ものであり、地域圏(1880人の議員のうち118人、議長は1人もいない)・県(4108人の議員のうち62人、議長は1人もいない)・国会(577人の代議士のうち2人)のいずれのレベルでも甚だ不完全なものである党員の数について言えば、国民戦線には42000人の活動家がいるが、その数は依然共和党社会党よりも少ない。

2 国民戦線は「政権のすぐそばに」いるのではない

2011年1月マリーヌ・ルペン国民戦線党首に選ばれてから、「脱悪役(dédiabolisation)」という戦略が実行されるようになってからエリゼ宮(※大統領官邸)への道のりは既に引かれたのだ、という声がしばしば聞かれるようになった。しかし、全くそうではない、とアレクサンドル・デゼは静観している。「この読みはメディアの大多数によって共同でつくられ引き継がれたことによって認められているのだから政治的フィクション領域に属するような話である。」

国民戦線は、国政の責任者に至るまでには、おそろしいほどに枠組みを欠いている。他の党との「融和」を誇示するような最近のいくつかの手がかりのうち、いくつかはあまりに短い間であったし、あるいは、内部で問題視されていた。さらに、権力の扉は国民戦線に対して無情にも閉じられたままであるだろう。選挙制度上の理由で、今まさにそうであるように、国民戦線政治的孤立したままでいるだろう。「この孤立は、2回に分けての多数決投票が影響力をもつ政治システムのうちでは、権力への道を妨げる最大の障害物になる。」

3 国民戦線は「新しい」党になったのではない

国民戦線は他の党と同じような党になったのだろうか? マリーヌ・ル・ペンによってなされた刷新というのは、本当に党の顔を変えてしまったのだろうか? アレクサンドル・デゼによれば、これらの疑問への答えは改めて否定的ものであるマリーヌ・ル・ペン就任の前と後での国民戦線戦略プログラムとその支持者を比較して語るところでは、「マリーヌの国民先生ルペン国民戦線の間には、新しくなったところよりも十分多くの変わらないところが多い」のである。脱悪役? 国民戦線歴史は、絶え間なく更新される脱悪役の試みの歴史である。したがって、右派へと国民戦線差し出す手のうちに、あるいは、立派な風貌を打ちだすことによって新しい支持者を集めているとされている周辺的なさまざまな手段のうちに、新しいものは何もないのである

プログラムに関していえば、国民戦線は常に自らの基礎に立脚している。反体制批判国家の特恵、国家防衛欧州連合拒否ユーロ圏から離脱失業不安の原因と見なした上での移住拒否である。反リベラルへの再定位は1992年に遡るが、マリーヌ・ル・ペン社会的演説は、連続性を担っている。

4 マリーヌは、そう信じられているのと異なり、反ル・ペンではない。

リーダーシップに関して言うと、マリーヌ・ル・ペンは、彼女父親イメージとの対照によってそのメディア上のイメージが形作られている。「このような対照性が推測されていることは、国民戦線に新しく投票するようになった人が、自らの投票正当化するために持ち出されるような、最先端議論になっている」とアレクサンドル・デゼは語る。しかしながら、言説における一連の相同性や、マリーヌ・ル・ペン自分父親について反対を示さなかった機会を列挙するこの研究者によれば、マリーヌ・ル・ペン彼女父親との差は、思われているよりも微々たるものである。例えば、2014年5月に父ルペンが「エボラ殿下」の介入が「人口爆発」と移民問題解決しうると主張した時、あるいは、彼が2015年1月に「私はシャルリーではない。私はCharlie Martel(※イスラム教徒ヨーロッパへの進出イベリア半島までで食い止めた8世紀フランク王国の王)だ」といったとき。これらはいずれも、議員の免責特権恩恵を被ることはなかった(「人種的憎悪扇動」として彼女を追及することは、現在進行系で行われている)

5 「マリーヌの国民戦線」は、過激派と切り離されたわけではない

最後に、その組織図に関して、「粛清」という幻影を生み出しながら、党によって過激すぎると判断された特定の諸個人排除した。しかしながら、アレクサンドル・デゼが述べるところでは、「国民戦線過激極右グループ活動家たちと、緊密な関係を維持している。」コゴラン市(Cogolin)の国民戦線市長は、GI(Générationidentitaire)の共同創設者であるジュリアン・ランゲラ(Julien Langella)を広報担当として2014年に起用した。ボーケール(Beaucaire)の国民戦線市長は、GIスポークスマンであるダミアン・リュー(Damien Rieu)を、市の広報部長補佐として任命した。二つの例を挙げれば十分だろう。

Permalink |記事への反応(0) | 17:55

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2015-10-16

世界の名争50戦

1285カデシュの戦いエジプトの大ファラオラムセス2世と、製鉄技術で名高いヒッタイトの王ムワタリの戦い。戦況が膠着状態に陥った後、ムワタリ停戦を申し入れ、ラムセス2世が受諾した。これは記録に残る最古の戦争であり、記録に残る最古の平和条約でもある。
前479プラタイアの戦い古代ギリシアペルシアの一連の戦争における決戦。数十万を誇るペルシア軍の攻勢を、一万のスパルタ軍だけで防ぎ止め、押し返し、打ち破った。これによりギリシアからペルシア軍は駆逐され、スパルタは前年のテルモピュライの戦い映画『300』で有名)の雪辱を果たした。
前371レウクトラの戦い古代ギリシア都市国家テーバイスパルタの戦い。テーバイのエパメイノンダスが編み出した、兵力左翼に集中する戦術「斜線陣」により、精強を誇ったスパルタファランクスは打ち破られた。皮肉にも、後に斜線陣はテーバイではなくマケドニアに伝わり、ギリシア都市はその戦術によって敗れ去ることになる。
前331ガウガメラの戦い大王アレクサンドロス3世率いるマケドニア軍とアケメネス朝ペルシア軍の戦い。マケドニア軍の重装歩兵ペルシア軍を受け止めているあいだに、アレクサンドロス自らが率いる騎兵ペルシア軍にできた間隙を衝く、いわゆる「鎚と鉄床」戦術によってマケドニア勝利し、大国ペルシアは滅びた。
前260長平の戦い中国戦国時代、趙の老将・廉頗の持久戦術に手を焼いた秦は、情報工作によって廉頗の悪評を流し、若い趙括と交替させた。趙括は勢い込んで秦との決戦に挑んだが、秦の名将・白起によってあっけなく包囲殲滅された。四十万人の捕虜虐殺されたという。秦の中華統一過程において最も大きな勝利の一つである
前216カンネーの戦いアルプスを越えてイタリア半島侵入したカルタゴの名将・ハンニバルが二倍の兵数のローマ軍に大勝した戦い。中央歩兵が敵を受け止め、両翼の騎兵が敵側背に回り込む、「包囲殲滅戦術の鮮やかな見本として史上に名高い。しかし、そのハンニバルも後にザマの戦いで敗れ、地中海覇権ローマのものとなっていく。
前202垓下の戦い秦が倒れた後、中華を二分して戦っていた楚の項羽と漢の劉邦は、互いに疲弊したことで和睦を結んだ。しかし、劉邦は直後に盟約を破り、引き上げる楚軍に襲いかかった。「四面楚歌」となった項羽は、最後の力を振り絞って包囲を破るも、衆寡敵せず自害した。天下は漢のものとなった。
前48ファルサルスの戦い古代ローマ代表する二人の軍事的天才カエサルポンペイウスの戦い。カエサルは、包囲を狙うポンペイウス騎兵重装歩兵で囲い込み、投槍を投げずにそのまま騎兵の顔や目を刺すよう指示して打ち破った。勝利したカエサルローマの実権を握ったが、やがて暗殺されることになる。
31アクティウムの海戦カエサルの跡を継いだオクタウィアヌスとその政敵アントニウスの戦い。しかし、アントニウスとその愛人クレオパトラは、本拠地エジプトへ逃れることを優先してすぐに戦場離脱、取り残されたアントニウス軍は壊滅した。アントニウスクレオパトラ自殺し、数年ののちにオクタウィアヌスは初代ローマ皇帝となる。
23昆陽の戦いから帝位を簒奪した王莽に対する反乱の一つ。昆陽に籠もる反乱軍は、40万の王莽軍に包囲されたが、反乱のリーダーの一人である劉秀は数千の兵とともに敵の中枢へ突撃を敢行、王莽軍は大混乱に陥り全滅した。主力を失った王莽はまもなく滅亡、劉秀はのちに光武帝として後漢王朝を開く。
208赤壁の戦い三国志に名高い一大決戦。中原を制し、中華統一を目指して大軍を南下させた曹操だったが、見知らぬ土地での疫病、慣れない水上戦に悩まされ、呉の都督・周瑜の火計によって打ち破られた。呉に協力していた劉備は、勝ちに乗じて荊州南部占拠し、後の飛躍へと繋げた。
383淝水の戦い五胡十六国時代前秦皇帝・苻堅は天下統一を狙って百万を号する大軍を南下させ、東晋将軍・謝石と謝玄が数万の軍でそれを迎え撃った。苻堅は異民族の融和を目指した理想主義的な君主だったが、異民族の混成軍は実際には統率がとれておらず、偽装後退を命じたことが本当の撤退勘違いされ、前秦軍は自壊して潰走した。
451タラウヌムの戦いフン族の王アッティラ侵略に対して、西ローマ帝国の名将アエティウスと西ゴート王テオドリックなどが連合して挑んだ決戦。痛み分けに近いものの、西ローマ帝国軍の勝利に終わった。のちにアエティウスの武功を恐れた西ローマ皇帝は彼を暗殺した。この戦いから二十五年後に西ローマ帝国は滅びた。
506鍾離の戦い数十万の大軍同士が激突した南北朝時代最大の決戦。北魏軍は、河に橋を掛けて梁の鍾離城を攻め立てていたが、長雨もあり戦いは長期化した。救援に来た梁の智将・韋叡は、増水に乗じて戦艦を走らせ、北魏が掛けた橋を焼き払った。大混乱に陥った北魏軍は十数万の死者を出して敗走した。
530ダラの戦いサーサーン朝ペルシア大軍東ローマ帝国ベリサリウスが破った戦い。ベリサリウスはあえて要塞から出て敵の攻撃を誘うと共に、壕を掘って相手中央突破を防ぎ、伏兵を巧みに使って撃破した。その後、ベリサリウスは中世欧州最高の名将として、東ローマ帝国の最大版図を現出させる。
627ハンダクの戦い初期イスラムの三つの戦いの一つ。敵対するメッカ軍に対し、ムハンマド率いるメディナ軍は数で劣ったため、ペルシャ人技術者の進言で「ハンダク=塹壕」を巡らせた。メッカ軍は初めて目にする塹壕突破できず、メディナ攻略を諦めた。以降、アラブ世界におけるイスラムの優位が確立された。世界初の塹壕戦とも言われる。
636ヤルムークの戦い「神の剣」ハーリド率いるイスラム軍と、皇弟テオドロス率いる東ローマ帝国軍の戦い。砂漠戦闘に慣れたイスラム騎兵東ローマ帝国軍を渓谷に追い込み撃滅した。イスラム軍は、直後のニハーヴァンドの戦いを経てサーサーン朝ペルシアをも滅ぼし、ここにイスラム帝国興隆することとなった。
732トゥール・ポワティエ間の戦いイベリア半島から侵攻したウマイヤ朝イスラム帝国と、フランク王国の宮宰カール・マルテルの戦い。イスラム騎兵の猛攻をフランク重装歩兵が跳ね返し、撃退した。イスラム騎兵の強さを痛感したマルテルは、直属の臣下土地を与えて「騎士制度を創設し、これが欧州封建制へと繋がっていった。
751タラス河畔の戦い西へ拡大する大唐帝国と東へ拡大するアッバース朝イスラム帝国中央アジアにおいて衝突した戦い。唐の同盟ウイグル族に従っていたカルルク族が裏切ったことでアッバース朝が大勝した。これによって、唐の伸張は止まり中央アジアはイスラムに帰し、そして製紙法が西方に伝播した。
1098アンティオキア攻囲戦第一十字軍は、半年以上の攻城戦の末にアンティオキアを陥落させたが、遅れて到着したイスラム諸国連合軍七万によって逆に包囲されてしまう。しかし「聖槍」の発見士気を高めた十字軍は、城外に打って出てイスラム軍を打ち破った。次の年にはエルサレムを陥とし、まさしく奇跡的に十字軍成功に終わった。
1141カトワーンの戦いイスラムセルジューク朝復興させたサンジャルと、遼の再興を掲げて中央アジアに覇を唱えた西遼の耶律大石との戦いで、西遼軍がセルジューク朝軍を包囲殲滅した。セルジューク朝は再び衰退、まもなく耶律大石も亡くなったことで西遼も勢いを失った。この戦いがプレスター・ジョン伝説の原型となったという。
1187ヒッティーンの戦い暑さと渇きに苦しむエルサレム国軍に対し、イスラムアイユーブ朝サラディンは、夜通し弓矢で攻め立てて士気を挫き、野に火を放って追い詰め、壊滅させた。聖地エルサレムは再びイスラム勢力のものとなった。その奪回のために第三回十字軍、すなわちサラディンと「獅子心王」リチャードの戦いが開始される。
1212ナバス・デ・トロサの戦いイベリア半島で争っていたキリスト教勢力が、教皇インノケンティウス3世要請により連合してイスラム勢力を迎え撃った、「レコンキスタ」最大の決戦。イスラムムワッヒド朝の十二万の大軍が悠然と構えるのに対し、連合軍は猛烈な突撃を敢行。ムワッヒド軍は十万とも言われる被害を出して敗走した。
1214ブーヴィーヌの戦いフランスの「尊厳王」フィリップ2世と、神聖ローマ帝国イングランド王国などの連合軍の戦い。フィリップ2世は北へと逃げてブーヴィーヌに陣取ると、ばらばらに追いかけてきた連合軍を到着した順に各個撃破した。脆弱だったフランスが強国として台頭し、またイングランドで大憲章が成立するきっかけともなった。
1241モヒの戦いバトゥ率いるモンゴル帝国遠征軍に対し、ハンガリー軍は堅固な陣地を築いて健闘したが、モンゴル軍はイスラムの投石機と中国火薬兵器攻撃を加え、さらに周りこんだスブタイの軍によって包囲殲滅した。同時にリーグニッツでもモンゴルの別働隊が勝利していたが、オゴタイ・ハンの死を聞いてバトゥは引き返した。
1260アインジャールートの戦いモンゴル帝国西アジア遠征軍と、イスラム勢力のクトゥズやバイバルスの戦い。先鋒のバイバルス軍が退却を装い、それを追撃したモンゴル軍は、伏兵のクトゥズ軍に包囲されて壊滅した。モンゴルの西進はここで止まった。バイバルスはその後もモンゴル軍に勝ち続け、マムルーク朝実質的建国者となった。
1267襄陽・樊城の戦いモンゴル帝国のクビライ・カンは、入念な準備の上で襄陽と樊城を大軍で包囲、長大な土塁を築いて封鎖した。南宋の主力軍十万が救援に向かったがモンゴル水軍の前に完敗した。中東由来の新型投石機「回回砲」による攻撃が開始されると襄陽・樊城は為す術なく降伏した。この敗北は南宋の滅亡を決定付けた。
1346クレシーの戦いイングランドフランス百年戦争における初期の決戦。イングランド軍は斜面にV字に長弓部隊を並べ、中央下馬騎士を置いた。フランス軍のクロスボウは射程の違いで長弓に対抗できず、重装騎兵も敵軍を突破できずに惨敗した。その後、百年戦争の終盤まで、イングランドは同様の戦術勝利を収めていった。
1363鄱陽湖の戦い中国・元末の群雄である朱元璋と陳友諒の戦いで、それぞれ数十万人規模の大船団同士が激突した。大型の艦を鎖で繋いでいた陳友諒軍は、朱元璋特攻させた火船によって大炎上して敗北した。この勝利により優位を確立した朱元璋は後に明の建国者となる。三国志演義における赤壁の戦い描写はこの戦いがモデルだという。
1402アンカラの戦いニコポリスの戦いで欧州連合軍に圧勝したイスラムオスマン帝国の「雷帝」バヤズィトと、モンゴルの後継を自称して大帝国を築いたティムールが激突した戦い。結果、オスマンが敗れてバヤズィトは捕虜となり、日の出の勢いだったオスマン一時的に衰退した。ティムールもこの戦いを最後に生涯不敗のまま亡くなった。
1410グルンヴァルトの戦いポーランドリトアニア連合軍とドイツ騎士団が戦った、中世最大とも言われる会戦リトアニア軍の偽装撤退に誘い込まれドイツ騎士団は、連合軍の反攻によって壊滅した。この勝利のあと、ポーランドリトアニア欧州最強国として最盛期を迎える。現代では古戦場跡で行われる祭りが有名。
1420ヴィトコフの戦いヤン・ジシュカ率いるフス派と、それを鎮圧するために結成された10万の十字軍の戦い。フス派は包囲されプラハに立てこもったが、欧州で初めて銃を装備し、武装した荷車をつなげて砦とするなど、革新的戦術を用いたジシュカの活躍で、十字軍撤退に追い込まれた。以降もフス派は勝ち続けていくことになる。
1450フォルミニーの戦い他国に先駆けて常備軍を創設し、長弓より射程の長い大砲活用するなどの軍政改革を行ったフランス元帥リッシュモンは、百年戦争で負け続けだったフランス軍を立て直してイングランド軍を撃破した。このフォルミニーでの勝利は、百年戦争におけるフランス勝利と、そして以降のフランス軍事的優位を決定付けた。
1453コンスタンティノープルの陥落東ローマ帝国首都にして史上最強城塞都市と、それを包囲したオスマン帝国軍の戦い。「ウルバンの巨砲」「艦隊山越え」といった大仕掛けにも耐えたコンスタンティノープルだったが、施錠を忘れていた通用口からオスマン軍に侵入され、あえなく陥落した。古代から続いたローマ帝国中世と共に終わりを迎えた。
1503チェリニョーラの戦い二次イタリア戦争におけるスペインフランスの戦い。レコンキスタにおいて攻城戦経験豊富だったスペイン軍の指揮官ゴンサロは、野戦攻城戦技術を持ち込んだ。長槍兵と銃兵の陣形「テルシオ」と塹壕の組み合わせによって、フランスの重装騎兵を打ち破り、欧州野戦築城の有効性を知らしめた。
1514チャルディラーンの戦いイスラムサファヴィー朝建国者スマーイール1世神がかり的な戦争天才だったが、対するオスマン帝国セリ1世鉄砲大砲を大量に運用して、不敗の騎兵クズルバシュ」をさんざんに打ち破った。初めての敗北を味わったイスマーイール1世無気力となり、サファヴィー朝の拡大は停滞した。
1588アルマダ海戦黄金時代スペインイングランドが迎え撃った戦い。接舷攻撃企図するスペインの大艦隊に対し、ドレイク率いるイングランド海軍はヒットアンドアウェイ砲撃戦で勝利した。以降、海戦の主役は白兵から大砲へと移っていく。スペイン没落の画期とも言われるが、実際にはスペインの優位はしばらく続いた。
1619サルフの戦い女真族統一したヌルハチ率いる後金軍と、その討伐に差し向けられた明軍の戦い。圧倒的に数で優る明軍は、四手に分かれて後金を包囲しようとしたが、全く連携が取れておらず、ヌルハチの見事な内線作戦によって各個撃破された。後金はやがて清となり、明を滅ぼすことになる。
1631ブライテンフェルトの戦い三十年戦争に参戦したスウェーデン王グスタフ・アドルフと、ティリー伯率いる神聖ローマ帝国軍の戦い。グスタフ・アドルフ歩兵騎兵砲兵が緊密に連携する「三兵戦術」によって、神聖ローマ帝国軍のテルシオを完全に打ち破った。この三兵戦術近代的な軍制の基礎となる。
1683二次ウィーン包囲オスマン帝国は15万の大軍をもってオーストリアPermalink |記事への反応(1) | 18:34

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2015-04-17

世界史人物概覧

世紀
前6孔子(前551儒教の祖)
孫子(前544・『孫子』著者)
前5釈迦(?・仏教開祖
ヘロドトス(前484・歴史の父)
ヒポクラテス(前460・西洋医学の父)
プラトン(前427・哲学者
前4アリストテレス(前384・万学の祖)
アレクサンドロス大王(前356・マケドニア王)
前3アルキメデス(前287・古代最大の数学者
始皇帝(前259・最初中華皇帝
劉邦(前256・漢の高祖)
ハンニバル(前247・包囲殲滅戦術確立
前2司馬遷(前139・『史記』著者)
前1カエサル(前100・ローマの終身独裁官
ウェルギリウス(前70・ローマ最大の詩人
オクタウィアヌス(前63・ローマ帝国の初代皇帝
イエス(前4・キリスト教開祖
1プトレマイオス(83・天文学者
2ガレノス(130・古代医学確立
張仲景(150・医聖)
曹操(155・三曹の一人)
3
4王羲之(303・書聖)
アウグスティヌス(354・古代最大の神学者
5アッティラ406・フン帝国の王)
6ムハンマド(570・イスラム教開祖
李靖(571・『李衛公問対』)
李世民(598・唐の第2代皇帝
7
8アブー・ムスリム(700・アッバース革命立役者
李白(701・詩仙)
杜甫(712・詩聖)
カール大帝(742・フランク王国
9
10フェルドウスィー(934・『シャー・ナーメ』著者)
イブン・ハイサム(965・光学の父)
イブン・スィーナー(980・アラビア医学を体系化)
11
12朱子1130・儒教の中興者)
サラディン1137・アイユーブ朝開祖
インノケンティウス3世1161・教皇権最盛期のローマ教皇
チンギス・ハン(1162・モンゴル帝国の初代皇帝
13トマス・アクィナス1225・『神学大全』著者)
ダンテ1265・イタリア最大の詩人
ジョット(1267・西洋絵画の父)
14羅貫中(?・『三国志演義』『水滸伝』編者』)
イブン・ハルドゥーン(1332・『歴史序説』著者)
ティムール(1336・ティムール朝建国者
ヤン・ジシュカ(1374・マスケット銃を使用)
グーテンベルク(1398・活版印刷発明者)
15ジャンヌ・ダルク(1412百年戦争聖女
コロンブス(1451・アメリカの再発見者)
ダ・ヴィンチ(1452・万能の天才
ヴァスコ・ダ・ガマ(1460・インド航路開拓者
マキャヴェッリ(1469・『君主論』著者)
ミケランジェロ(1475・芸術家
マルティン・ルター(1483・宗教改革
スレイマン1世(1494・オスマン帝国最盛期の皇帝
16エリザベス1世(1533・アルマダ海戦に勝利)
セルバンテス(1547・『ドン・キホーテ』著者)
ガリレオ(1564・科学革命の中心人物)
シェイクスピア(1564・イギリス最高の詩人劇作家
グスタフ・アドルフ(1594・三兵戦術確立
デカルト(1596・合理主義哲学の父)
17ルイ14世(1638・絶対王政最盛期の王)
ジョン・ロック(1632・イギリス経験論の父)
ニュートン(1642・科学革命の中心人物)
康熙帝(1654・清の第4代皇帝
バッハ(1685・音楽の父)
18オイラー1707・数学者
曹雪芹(1715・『紅楼夢』著者)
アダム・スミス1723・経済学の父)
カント1724・哲学者
ワシントン1732・アメリカ初代大統領
ワット1736・蒸気機関の改良)
ラボアジェ1743・近代化学の父)
モーツァルト1756・音楽家
ナポレオン1769・初代フランス皇帝
ベートーヴェン1770・音楽家
ガウス1777・数学者
クラウゼヴィッツ1780・『戦争論』著者)
スチーブンソン(1781・鉄道の父)
ファラデー(1791・電磁気学の父)
バベッジ1791・コンピュータの父)
19ダーウィン(1809・進化論提唱
ポー(1809・ミステリの父)
マルクス(1818・共産主義提唱
ヴィクトリア女王(1819・帝国主義最盛期の女王
パスツール(1822・近代細菌学の父)
ヴェルヌ(1828・SFの父)
モネ(1840・印象派の祖)
ロダン(1840・近代彫刻の父)
エジソン(1847・発明王
フォード(1863・自動車大量生産
ライト兄弟(1867・飛行機発明
アインシュタイン(1879・相対性理論を発表)
ピカソ(1881・画家
ケインズ(1883・マクロ経済学確立
グデーリアン(1888・電撃戦確立
ヒトラー(1889・ナチス指導者

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2007-10-16

世界史教育

少なくとも公立中学校世界史教育は目茶苦茶だ。

いきなりビザンツ帝国が出てきて、いきなりフランク王国が勃興して、

いつの間にかイギリス清教徒革命。なんと宗教改革の授業はは名誉革命の後。

高校でも似たようなもんだろう。

受験勉強だけで考えても、理科ゼロから自分で勉強できたし好きになれた。歴史は無理。

いい指導者に恵まれないと、センターの点はとれても到底歴史に興味を持てないんじゃないか?

Permalink |記事への反応(1) | 00:13

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