
はてなキーワード:パニック発作とは
私は社会人で実家を出てるんだけど、見て見ぬふりができない状況になってきた。
・両親:共に介護職。父は今年定年。
・弟:大学1年生。
【弟の進学と浪人】
(←「私立高校行ける時点で金持ちやん!」ってツッコミはお控えください…小さい頃からずっとやってたスポーツを思いっきりやらせてやりたくて、父親が頑張ったんだと思う)
で、その後は特に目立った活躍はなく引退。当時、父親が弟を慰めてた気がする。「プレースタイルが合わない」とかなんとか言ってた。
そのあと突然名門国立に行きたいと言い出すも、アホ高校だったので学力は全く足りず、2年宅浪。
1年目の終わりにパニック発作のような症状が出て、夜中に過呼吸で救急車を呼んだこともあった。心療内科には行ったけど、薬は飲まなかったらしい。
(発作が起きた時は私も家にいて、隣の部屋から変な声が聞こえてきて様子を見に行ったら、訳わからんこと言いながら泣いてて「俺も一緒に死にたかった」とか言ってて、正直めちゃくちゃ怖かった)
【問題点】
箇条書きで失礼します。
・親にローンを組ませて100万円のバイクを購入。ローン返済の約束を破って、一銭も返してない。
・任意保険に最初入ってなかった。理由は「金がない」(殺してやろうかと思った)
・スピード違反の罰金を滞納 →「前科つきますよ」の通知が来る → 結局、母親が立て替える。理由を聞いたら「行ったけど閉まってた」「明日はバイトだから無理」みたいな感じ(殺してやろうかと思った)
・バイクは最近事故って廃車。人身じゃなくて本当に良かったけど、事故ったその日のうちにサークルの合宿に行った
・パチンコ屋でバイトしてるけど、月6〜7万は母親に無心してる
・母親が弟にお金を渡してて弟のためにならないからやめてって言っても、それが幸せだから、とか社会人になるまでの間だから、とか言ってる。変な人だし説得不可能。
本人曰く、「ちゃんとすべきところとそうじゃないところの線引きはしてる」とのこと。
でも見てる限り、その線引き自体がバグってるしおかしいとしか思えない。
ちなみに薬物とかは手出してないらしい、「地元にやってるやついるけど、気持ち悪い」って言ってた。
【両親の反応と家計状況】
父親:定年。今年から手取りが20万もないと思う(下手すれば15万台?)
もともと娯楽も交友関係も控えめで、仕事もいくつか変わったりしてきたけど、家族のために倹約して頑張ってきた人。老後資金を削って、弟の学費を出してる。働けるだけ働くって言ってる。
【私が感じていること】
● 弟の将来が心配
普通に会話はできるんだけど、前科つきかけの話とか、年金とか、任意保険とか、「なんでそうなる?」っていう選択が多すぎて、危機感がなさすぎる。
このままめちゃくちゃな人生になるのだけはやめてほしい。こんな奴でも家族だから、ちゃんと幸せに生きてほしいと思ってる。
父親は定年。老後資金もわずか。母親は貯金ゼロ。なのに弟に際限なく金がかかってる。
頑張ってきた両親(特に父親)が、弟のせいで死ぬまで苦労するのは辛い。
心配性だし多分HSP気質だから、毎日何かしら不安でしんどい。
弟の話が出てくるたびに心が乱される。父親が死んじゃって母と弟だけになったらどうしようとか、父親が弟と心中したらどうしようとか考えてしまう。
無視したくてもできない。
【なんで投稿したの?】
誰にも言えなくて発散したかったのと、私が起こすべきアクションがあればアドバイス欲しい。
今の所家族集めて資産状況?家計の状況?を細かい数字で説明しようかなとか思ってるんだけどどこ吹く風だろうな というか自分が心配しすぎなんかな
◯ 私
ゲームで知り合い、好きになって付き合って、2022年冬から同棲を始めた。
彼氏の方は「私ちゃんが初めての彼女」らしく、傍から見てもベタ惚れデレデレで、私に対しても毎日かわいいだいすきみたいな愛情表現を常に欠かさないタイプ。
対する私はそれなりに恋愛経験があり、彼氏のことは当初は別に好きじゃなかったものの、猛アタックを受けるうちに興味を持って好きになって、結果的にバカップルといわれるように。
私が当時住んでいた物件の契約更新のタイミングで、せっかくならと同棲を始めて、1年半くらいはしょうもない喧嘩こそすれ仲良くいちゃこら過ごしていた。
1Kの部屋に住んでいたので常に一緒にいた。
それがおかしくなったのは、彼氏の仕事とかの都合で1LDKの物件に引っ越して半年が経ったころだった。
彼氏は以前からヴァロラント(FPSゲーム)が好きで、ちょっと空き時間があればヴァロを開いて射撃訓練場にいる人だった。
私が仕事で遅くなるからごはんは先に食べてて、と連絡を入れても、ヴァロに夢中で連絡に気付かず、私が帰宅してそれを知って叱る(ごはんはちゃんと食べてよ!という叱り)、というのはもはや日常茶飯事だった。
2023年の冬、何かのきっかけで彼氏のゲーム漬け生活に拍車がかかり、仕事から帰ったらごはんをかき込むように爆速で食べて友達と通話しながらヴァロ→平日でも3時頃までヴァロ→6時半に起きて仕事……という生活が続くようになった。
睡眠不足が祟ってか、コロナに感染して4日間も高熱に苦しんでいた。
さすがに体に悪いので、「せめてごはんはちゃんと噛んで食べて、夜は1時には寝なさい」と言った。ゲーム中は構ってもらえなくてだいぶ寂しい思いをしたが、それよりも彼氏が体調を崩すことの方がよくないと思っていたし、まあそういう波なんだろう、いずれこっちを向いてくれるだろう、と思って、そのへんは何も言わなかった。
結局、その忠告をした当日は、彼氏は4時までゲームをしていた。
我が家は「寝るときは一緒に寝室に行く」「おやすみのチューをする」というルールを設けていた(照)ので、最初は私も必死に3時過ぎまで起きていたが、次第に彼氏を置いてひとりで寝室に行き眠るようになった。私にも仕事があるし、ずーっと背を向けられて、壁に向かって何時間もこっちを振り返ることもない姿を見続けるのが辛かった。
先に寝てしまうのでおやすみのチューなんてもちろんしなくなって、次第に普段の会話も業務連絡程度になっていった。
ハグもキスもしない、時間さえあればゲームをしているのでセックスもしない。
彼氏は日曜が唯一の休日で、以前は買い物ついでにデートをしたり……なんてこともあったが、それも一切なくなった。
日曜日は朝7時に起きてひとりでゲーム、私が起きてきたら朝食を食べて昼までゲーム、昼食を食べて夕方までゲーム、買い物に行って夕食を食べたらまたゲーム。毎週その繰り返し。
次第に食事の内容も「ゲームをしながらつまめるもの」を求めるようになり、食卓ではスマホでゲームの実況を見ているので、会話もしなくなった。
そのころになると私もいよいよ嫌になってきて、ゲーム辞めてよ、寂しい、なんて言うようになっていた。
でも、その瞬間ゲームの片手間にこっちを見るだけで、何も変わらなかった。私が生理痛で寝込んでいても、飲み物ひとつも持ってきてくれることはなかった。私よりゲームの方が好きみたいだった。
ゴールデンウィークに入り、カレンダー準拠の私たちはお互いに長い連休を得た。
その頃にしては珍しく、彼氏が「せっかくだから5月3日は私ちゃんが好きな水族館デートをしよう」と言ってくれて、私は泣いて喜んだ。私のことまだ忘れてなかったんだ、みたいな安心感がすごくて、わんわん泣いて、当日は何を着ていこうかな、どのバッグで行こうかな、美容室いっちゃおうかな、って浮かれていた。
私が寝室のクローゼットで服を選んで、リビングにいる彼氏に「この服、デートにどうかな?」って持っていったら、彼氏は壁に向かってしゃべっていた。
寝室に戻って泣いた。
ゴールデンウィーク中の彼氏は生活リズムもくそもない生活をしていた。
朝9時に起きてゲーム、私が起きてきたら朝食を食べて昼までゲーム、昼食を食べて夕方までゲーム、買い物に行って夕食を食べたらまたゲーム、朝5時に寝て、朝9時にはまたゲーム、のループ。嘘みたいだよね。嘘だって思いたかった。
そんな生活の最中だったから水族館デートの当日は揺すってもくすぐっても全然起きなくて、結局家を出たのはお昼をだいぶ過ぎたころ。
八景島に行ったんだけど、時間も遅いしそもそも混んでるしで閉館までに回り切れなくて、私が見たかったペンギンのイベントにも間に合わなかった。
彼氏は一生けんめい話を振ってくれたり変なダジャレを言ったりして私を励ましてた?けど、正直私の中では、もう無理だという感情しか沸いてこなくなっていた。
ゲームのためなら7時に起きられるのに、私とのデートのためには午前中に起きることすらできないの?
そもそも次の日朝からデートなのに、朝までゲームしてるって何?
この人と結婚なんかしたら、この先何年もこうやって放置されるの?
いろんな不満と悲しさがうわーっと押し寄せてきて、家に帰って早々、私は別れ話を切り出した。
私は上に書いたような不満を吐き出して、彼氏は言い訳もしないでただ「ごめん…」だけを言い続けて、別れ話は2時間くらい続いた。
で、結局別れなかった。
彼氏は「「私ちゃんが人生のすべて。私ちゃんより大切なものはないからゲームの時間を減らす」と約束してくれて、寂しさから別れ話を切り出していた私はそれを信じて、再構築することを誓って別れ話を終えた。私はギャン泣きして彼氏に抱きついた。何か月ぶりかのハグだった。
私の中でなにかが消えた。
もうなんか、すべてがどうでもよくなってしまった。
もちろんそのとき直接抗議したよ。今日くらいは一緒に寝ようよ、さっき別れ話を乗り越えたばっかりなんだよ、って。
そしたらお姫様抱っこで私を寝室に運んで、ほっぺにチューをして、「すぐにやめてこっちに来るからちょっと待ってて」って言った。
私は信じて待ってたけど、1時間経っても2時間経っても、彼氏は寝室に来なかった。ちらっとリビングを覗きに行ったら、まだ壁に向かって話しながらゲームをしてた。
私の中に残っていた寂しさとか好きって気持ちとかが今度こそさっぱりなくなった。
寝室に戻って、眠くなるアレルギーの薬を飲んで強引に寝た。
次の朝、8時に起きたら、彼氏はもう起きてリビングにいて、ゲームをしていた。
そんな状態のままゴールデンウィークが終わり、私はといえば、完全に冷め切っていた。
家に帰っても彼氏はゲーム、私はネットサーフィン。時間になったら勝手に寝る。
完全に家庭内別居状態になっていて、当然会話をしてもぼんやり空気が悪いので、私はだんだん家に帰らなくなった。
高校の先輩と飲みに行ったり、友達の家に泊めてもらったり、男女関係なく毎晩飲み歩いた。
そしてついに男を作った。
これに関しては理由は何であれ私の非だと思う。
とりあえず、私は家に帰らず男とごはんやらホテルやらに通うようになって、いよいよ彼氏とは疎遠になっていった。
8月に入ったころ、彼氏に「最近家にいないけど、浮気でもしてるの?」と詰められた。
曰く、私が家にほぼいない状態が続いてしばらく経った頃、さすがに放置しすぎたかなと思って焦ってゲームをやめ、ごはんを作って私の帰りを待つようになったのに、私は帰ってこない。
身寄りがなく、職場が家の目と鼻の先である私が家出したとは考えられなかった彼氏は、私のSNSを追いかけて、男と仲良くしているのを見つけたらしかった。
私は咄嗟に謝ったけど、心の奥底では、なんで私だけが謝らなきゃいけないの?とも思っていた。
浮気はもちろん最悪の行為。だけど、何ヶ月も私を放置した向こうには一切の非もないの?って。
私は何回も話し合おうって言ったし、意見も言ったし、向こうからの同意も得たはずなのに、その日のうちに裏切られた。何回もそんなことがあったから愛想が尽きたのに、これって私だけが悪いのか?って。
そこから家の中は以前にも増して冷戦状態になり、私はますます彼氏のことが嫌になった。
彼氏は今度こそ本当にゲームの時間を減らしたみたいで、毎日仕事の合間にも夜にも朝にもLINEを送ってくるようになったけど、私は「そうなんだ」「ふーん」「がんばれー」みたいな返信しかしなくなっていた。
「私ちゃんとの時間がほしいから今日は早く帰ってきてね」という連絡を無視して、男と吞んだくれた。
今さらなんだよもう遅いよって思って、ホテルのトイレでひとり泣いた。
さすがに今日くらいは家にいるべきか?と悩んでいたら、珍しく彼氏が「新宿に買い物に行きたい」と言いだした。
その日は平日だったのと、彼氏は普段「都心は人が多くて嫌い」と言って都心でのデートや買い物を断固拒否していた人だったので、ほえー珍しい、と思って、何の気なしに適当についていくことにした。
彼氏が新宿について入ったのは南口のサマンサで、買い物というのは私の誕生日プレゼントだった。私が好きそうな淡いピンクのバッグを選んで買って、家に帰って、手紙と一緒に渡された。
半年近く私を放ってゲーム三昧だったくせに、バッグくれたくらいで気持ちなんか戻んないよ、って思った。
とりあえずありがとうと言って受け取って、時間も時間だからとシャワーに行った。
今日は早寝なんですねwと思ってベッドで寝るように促そうとしたら、彼氏の頭の近くに、画面つけっぱなしの彼氏のスマホが転がっていた。
そうやってつけっぱで寝るから充電なくて仕事中困るんだろ、とイラっとしてスマホを手に取ると、LINE keepのトーク画面。
「やっぱり僕は私ちゃんのことが好きなんだよね」
「早く会いたい」
とかなんだかんだ書いてあって、私はその瞬間ぶわっと泣き出した。
そういうのは直接言えよとめちゃめちゃイライラした。と同時に、なんでこんなことになっちゃったんだろう、って思ってどうしようもなくなった。
何回も話し合って、私は男と縁を切って、彼氏はゲームを辞めることを約束して、再構築を決めた。
しばらくはぎこちない感じだったけど、だんだん私も好きって気持ちが戻ってきて、前みたいにおやすみのチューもするようになった。
そんなこんなで1年近く経って、先日、また私の誕生日が来た。
今年もバッグをもらって(※彼氏が、私のお気に入りのショルダーバッグを破壊してしまったため)、手紙もついてきた。
そこには、「この1年は、お互いに言いたいことを言い合って、良い関係を築けたと思います。ずっと一緒にいようね」と書いてあった。
その場は嬉しくてまた泣いたんだけど、ひとりになって手紙を読み返していたとき、自分の心の中にもやもやした影がいることに気が付いた。
再構築を約束してから、私は飲み歩くのをやめて家にいるようになって、男とも縁を切った。
浮気したことを心から謝り反省して、男友達との交流をもつときは逐一連絡したり、紹介したり、私なりに少しでも信頼を得られるように動いてきたつもり。
では、彼氏は?
結論から言うと、彼氏はまだヴァロラントをやっている。まあ、2時には寝るようになったけど。
ただ、あんまりゲームが好きそうなんで、取り上げるのは悪いなと思い、一緒にできるオンラインゲームを見つけてきて彼氏を誘ったら、見事にはまってくれた。
最初のうちは一緒にやっていたけど、次第に、私が寝た後にひとりでやり続けるようになってきた。
日曜日、朝目が覚めたら、「洗濯がてらリビングでゲームしてるね。私ちゃんは疲れてるだろうから寝てていいからね」って、優しい顔。
私はもう浮気するつもりも、あのときみたいに話し合いを諦めることもしたくないと思っている。
本当に彼氏のことが好きで、本気で再構築したいから。「私ちゃんは寂しいと浮気しちゃうもんね」ってイジられても、毎回心から謝罪して、頭を下げている。
でも、本当にこれでいいのかな。
未だに彼氏がヴァロラントをしている背中を見ると、吐き気とパニック発作を起こしてしまう。
朝方目が覚めて隣に彼氏がいないと、あのときのことを思い出してリビングに走って向かってしまう(大体、トイレ行ってるだけなんだけど)。
彼氏は、再構築どころか、「雨降って地固まるって僕たちのことだね」なんて呑気に言う。
私だけが、1年前に取り残されている。
40前半独身です。プロフィール晒す時点で共感して欲しい気持ち見え見えだが、しょせん匿名プラットフォームでお気持ちぶちまけてるだけなので、仮に承認欲求を得られても、それ自体仮想のものだと思っています。自己破産をしてその後仕事でうつ状態(うつ病ではない。だがメンタルは100%には戻らない)になり、その後仕事を転々とするようになり、今の仕事もストレスで少し辛い。家に帰ればスマホの画面を見続け、youtubeでなれもしない成功者の幻想を追いかけ、新R25やしごとリーチ!なんかを見ては「自分ならこうするのにな」」とか思ってしまう。今まで一度も正規社員になったことなんてないのに。でも、「もう40代だし、何をやるにも無理、遅い、どうせ自分には無理だ」と思ってしまう(なんかフォローしてくれよ) 常に「足りない足りない」のマインドで生活している気がする。仕事が終わったら、仕事の勉強と称してカフェに籠もりその日の復習。あれ?もう仕事の勉強にコミットするのはやめたんじゃなかったのか。うつを経験しているのに、人間は同じことを繰り返すなと思った。のんびり生きるんじゃなかったのか。うつとパニック発作の経験を活かして、がんばらない生き方をするんじゃなかったんですか。実際今は自分は凄く頑張ってしまっている。思ったんだ、自分はここまで、何者にもなれなかったけど、20代前半から借金を抱えて35歳で自己破産。ずっと非正規生活。彼女無し。結婚予定なし。好きな人は宗教二世でたぶん結婚できない。だから、ずっと一人なんだ。両親と仲が良く、姉もかまってくれることは凄くありがたい。今繁華街のスタバで一人カタカタパソコンをたたいているよ。隣の席で、小奇麗なママ友2人とお金持ちの娘さんみたいな子が、ママ友にとても褒められている。ああ、そんなセレブみたいな世界ってあるんだな。俺はいわゆる家庭がいて子供を作って、家族みんなで休日仲良く出かけるみたいな生活、おそらく無理なのだと思います。そもそも結婚相手が欲しいと思ったの最近だからな。だけど、自分の人生、自己破産からここまでやれただけで十分なんじゃないかなと思ってしまうな。それ以上を望むから無理なんだよ。小学生からいじめられて人間関係不信からまともに交友関係も築けずに、30後半まで来て。「ようやく彼女のひとりでも!」って思った時にはもう40超えてて、人生終わってた気がする。どれだけ読書をしても遅いもんは遅いんだよな。だから、自分の人生超絶プラスを考えるのではなくて、マイナス50000くらいから、プラス200くらいまで来れるようになったと思えただけでよいと思うんだよ。今あるもので十分なんじゃねえかただ、もっと世界は見てみたいし、毎日職場と自宅の往復だけで人生終わってしまうのは本当にもったいない。何のために生まれてきたのだと思ってしまう。2年前に初めて東京まで一人旅をしたときとても楽しかった。世界ってこんなに広いんだなと思ってしまった。俺の知らない世界が世の中にはたくさんある。金は積み立てNISAで50万あるが、崩すのが嫌なんだよな。どうしたらいいかな。
学校での集団過呼吸・体調不良は女性に多い?その実態と原因をファクトチェック
学校の現場で生徒が次々と過呼吸発作や原因不明の体調不良を訴える現象は、医学的には集団心因性疾患(いわゆる集団ヒステリーまたは集団パニック)と呼ばれます 。具体的には、ある集団内で一人が過換気(過呼吸)発作や失神、けいれん、歩行困難などの症状を示すと、それを目撃した他のメンバーにも同様の身体症状や一時的な意識障害・興奮状態が連鎖的に広がる現象です 。これらの症状には共通の有機的原因(感染症や中毒など)が見当たらず、心理的要因による無意識の模倣・暗示によって伝播すると解釈されます 。典型的には思春期の生徒たちが属する学校のクラスや部活動など、閉鎖的で仲の良い小集団で発生しやすいことが知られています 。
こうした集団発生事例では、最初に症状を起こした生徒(発端者)に対し、周囲の生徒が不安・驚きなど強い感情を抱き、その影響で過呼吸やめまいなどの症状を次々と訴えるようになります。医学的検査を行っても明確な身体的異常所見はなく、多くの場合、集団が落ち着き安心すると症状は速やかに治まります。これらは**「心因性」で実際の伝染性病原体は存在しない**ため、専門家は「対応を誤って大事にしすぎないこと」「冷静に安全を確保しつつ集団を一時的に解散させること」が再発防止に重要だと指摘しています  。
学校における集団過呼吸・集団体調不良は「女子生徒に多い」と言われることがありますが、これは事実と言えるでしょう。医療文献によれば、思春期・学童期の集団心因性疾患は女性に不均衡に多く発生することが繰り返し報告されています  。米国の調査では「集団ヒステリーはストレス下の児童や思春期のグループに多発し、男性よりも女性が著しく多い」と明記されています 。また2021年に発表された32件の研究をまとめたメタ分析によると、児童・生徒の集団ヒステリーにおいて女子の罹患率は男子の約2.43倍にも上ることが示されています  。このように数値データから見ても女子に多い傾向は明らかです。
日本においても、学校で発生する集団過呼吸・体調不良の事件はニュース等で度々報じられており、その多くで当事者は女子生徒です。例えば2006年7月、千葉県のショッピングセンターで女子中学生11人が次々に過呼吸やパニック症状を起こし搬送される騒ぎがあり、東京新聞の報道によれば「過去1年だけでも秋田、埼玉、大阪、山口、佐賀で同様の過呼吸連鎖が起きていた」とされています 。2013年6月には兵庫県の高校で1年生と3年生の女子生徒計18人が集団で過呼吸症状を訴えて病院に搬送される出来事もあり、学校側は「誰かの発作や救急車の到着を見て連鎖的に増えたのではないか」とコメントしています  。このように、日本の学校現場でも女子生徒が中心となった集団過呼吸事件が各地で確認されています。
海外の事例を見ても、集団ヒステリーは決して日本特有ではなく、むしろ世界各地で歴史的にも繰り返し記録されています。その多くで若い女性や女子学生が主な当事者です。1965年にはイギリス・ブラックバーンの女子校で85人の女子生徒が相次いで原因不明の失神発作を起こし社会問題となりました 。2010年代のアフガニスタンでは各地の女子校で多数の女子生徒が突然めまい・吐き気を訴えて倒れる事件が続発し、当初「毒ガス攻撃」と疑われましたが、国連などの調査で有毒物質は検出されず集団心因性の発作と結論付けられたケースもあります  。これらの事例からも、学校で集団発生する原因不明の体調不良は女子に多いという傾向は国を超えて共通していると言えます。
では、なぜこのような集団心因性の症状は女性に多いのでしょうか。専門家たちは心理的要因と生物学的・生理学的要因の両面からいくつかの仮説を提唱しています。それらを整理すると以下の通りです。
• 高い被暗示性と無意識の模倣(モデリング):集団ヒステリーでは、後から症状を訴える人々(続発者)が発端者を無意識に模倣・同一化してしまうことが大きな要因です 。一般に女性は共感性が高く、他者の感情や振る舞いに影響されやすい傾向があるとされます。実験的研究でも、女性参加者は他の人(特に同性)が「具合が悪い」と訴える場面を見ると、自分も頭痛やめまい等の症状を感じやすくなることが示されています 。一方、男性では他者の症状を見ても影響されにくい傾向がありました  。この暗示へのかかりやすさの性差が、女性に症状が多い一因と考えられます。
•ミラーニューロンの活発さ:人間の脳には、他者の行動や表情を見ると自分がそれをなぞるように活動するミラーニューロン系があります。この働きは共感や模倣の神経基盤とされますが、研究者の中には「女性は男性よりミラーニューロン系の反応が強い可能性がある」と指摘する者もいます 。実際、自閉スペクトラム症(共感や他者の感情理解の困難さを特徴とし男性に多い発達障害)ではミラーニューロン系の活動低下が示唆されるのに対し、集団ヒステリーはその逆でミラーニューロン系の過活動による現象とも位置づけられています 。この仮説によれば、女性は生得的に他人の状態を自分のことのように感じ取りやすいため、目の前の友人が倒れると自身も息苦しさや眩暈を感じてしまうというわけです 。
•不安反応・過呼吸の生理的な出やすさ:パニック発作や過呼吸発作といった急性の不安反応そのものも、疫学的には女性に多い現象です。例えばパニック障害(突然の強い不安発作に襲われる症状)は男性より女性に約2~3倍起こりやすいことが知られています 。過換気症候群(過呼吸発作)の有病割合については、調査によっては女性:男性が7:1にもなると報告されています 。このように生理学的ストレス反応における性差(ホルモンバランスや自律神経反応の違いなど)が、女性の方が過呼吸や失神を起こしやすい下地になっている可能性があります。言い換えれば、同じストレスを受けても女性の方が**「息が苦しい」「めまいがする」**といった身体症状として表出しやすい素因があるかもしれません。
以上のように、心理面での暗示へのかかりやすさ・共感性の高さと、生物学的な不安反応の出やすさが相まって、女性グループで症状が伝染しやすいと考えられます。実際、専門家も「集団ヒステリーで女性患者が多いのは、症状のモデリング(見本)の影響を受けやすい性差による可能性が高い」と結論づけています 。
集団ヒステリーにおける社会的・文化的背景も、女性に多い現象となっている一因です。まず、社会・集団内での役割や人間関係の違いが指摘できます。若い女性(特に思春期の女子生徒)は、同年代の仲間内で強い仲間意識を持ちやすく、閉鎖的で密接なグループを形成しやすいとされます 。その結果、グループ内で感情や行動を同調させる傾向が強く、誰か一人の異変に対し他のメンバーが過敏に影響を受けやすいのです 。実際、1960年代アメリカの工場における集団ヒステリー研究でも、症状が出た人々は互いに強い社会的つながりを持つグループに属していたことが報告されています 。男子生徒のグループでも友情はありますが、当時の社会通念や教育環境の中で女子の方が感情を共有しやすい関係性を築いていることが多く、これが集団ヒステリーの伝播を助長している可能性があります。
また、社会文化的な性役割や表現の違いも影響しうるでしょう。伝統的に多くの文化圏で、女性は体調不良や不安を訴えることに比較的寛容である一方、男性は「弱音を見せない」ことが男らしさとされる場面があります。そのため男性にも同様の心因反応が起きていても表面化しにくい可能性も考えられます。実際、歴史を振り返ると19世紀にはヒステリー(転換性障害)は女性特有と見なされていましたが、第一次世界大戦で多くの男性兵士が**「シェルショック」(砲撃ショック=心因性の神経症状)を発症すると、この性差の偏見は薄れていきました 。つまり、男性にも状況次第で集団ヒステリー様の反応が起こりうるものの、社会的な目や自己抑制によって顕在化しにくい**だけかもしれません。
文化的要因としては、その社会ごとにストレス源や症状の表現のされ方が異なる点が挙げられます。日本の学校では部活動中の疲労や教師からの叱責といった出来事が引き金になるケースがある一方、海外では地域の信念や風聞が誘因となる例も報告されています。例えばマレーシアやインドの一部では、女子生徒の間で突然誰かが取り乱すと「悪霊に取り憑かれた」と解釈され、パニックが伝染したケースがあります 。中東のアフガニスタンやイランでは、女子校で謎の有毒ガス攻撃の噂が広まり、実際に多くの女子生徒が呼吸困難や失神を訴えた事件が起きました(前述の通り後に物理的毒物は確認されず心因性と推定されています) 。このように、その社会が置かれた状況(宗教的な世界観、社会不安や葛藤、噂の内容など)が集団ヒステリーの誘因や症状像を左右しますが、いずれの場合も思春期前後の女性が主要な当事者である点は共通しています 。
さらに集団の環境要因として、都市部より農村部で発生しやすいとのデータもあります。先述のメタ分析では、農村地域の学校における集団ヒステリーの発生率は都市部の約2倍という結果が示されました(農村部11.1%、都市部5.6% )。農村では人間関係が密で噂が広がりやすいことや、医療リテラシーの差などが背景にある可能性があります。この点でも、集団ヒステリーは社会的環境に影響される現象であり、日本のみならず海外でも閉鎖的・保守的なコミュニティほど起こりやすい傾向が見て取れます。
学校で起こる集団過呼吸・集団体調不良に女性が多いという傾向は事実であり、これは単なる思い込みではなくデータや専門家の分析によっても裏付けられています。主な要因として、女性の方が心理的に周囲の影響を受けやすく、生理的にも不安反応が出やすいこと、そして女子生徒同士の強い結束や同調傾向が症状の連鎖を助長することが挙げられます。加えて、文化・社会的背景がこの現象の表れ方に影響を与えますが、世界的に見ても同年代の男性グループに比べ女性グループで頻発するのは共通した特徴です  。以上のことから、学校における集団過呼吸や集団ヒステリーは「女性に多い」とされるのは概ね事実であり、その原因は生得的な要因と社会的な要因が複雑に絡み合った結果と考えられます。そのため、この現象を理解・対策するには、生物学・心理学的視点に加え、教育現場におけるストレス要因の軽減や冷静な対応、噂の拡散防止など社会環境への働きかけも重要となるでしょう  。
参考資料:
• Jones, T.F. 「Mass Psychogenic Illness: Role of the Individual Physician」 American Family Physician 62(12):2649-2653 (2000)  
• Gang Zhaoet al. 「Mass hysteria attack rates in childrenand adolescents: a meta-analysis」 Journal ofInternational Medical Research 49(12): 1–15 (2021)  
•平凡社 「改訂新版世界大百科事典」「集団ヒステリー」項(執筆:臼井宏・野上芳美)  
• Lorber, W.et al. “Illnessby suggestion: Expectancy, modeling, andgender in the production of psychosomatic symptoms.” Annals of Behavioral Medicine33(1):112-116 (2007) 
•中田収 「過換気症候群」『日本呼吸器学会専門医制度専門医講習会要旨集』(2014) 他   (過呼吸症状の性差に関する記述)
• Shirin Daft, 「イランで呼吸困難や吐き気が続出──女子教育を狙った『毒ガス』か『集団ヒステリー』か」ニューズウィーク日本版 (2023年3月13日) 
家はゴミ屋敷のままだ。
このままだと室外機とエアコン本体の搬入も不可能だし作業も不可能だ。
ありがたいことに親が片付けを手伝ってくれる。
親は「どんなゴミ部屋だろうが作業スペースさえ確保すればいいだけなんだから余裕だ」と言ってくれているが、うちの悲惨極まりないゴミ屋敷の状態をいまだ実際に目にしていないからそんなことが言えるのだ。
正直言って、この物の量の多さで──紙や本や服が部屋いっぱいに地層のように積み重なっている──整理したものを一時的に置くスペースすら無い状況で、いったいどうやって片付けをするのか私には想像がつかない。
私の思考は完全に停止している。なぜなら真剣にこのことについて考えると過呼吸とパニック発作が起きるからだ。
親は7時に家に来る。この状況を目にして一体親は何と言うのか。「これじゃとても掃除は無理だね。今日は諦めよう。業者には謝って後日来てもらおう」と言われるのが最大の恐怖である。
それ以前に自分が汚しまくった汚部屋を見られること自体がとてつもなく恥ずかしいし、恐怖だ。
今日は不安と恐怖のあまり3時間ほどしか眠れず(窓を開け放して換気しても、深夜でも28度以下にはならないからでもある)、朦朧とした頭で今かろうじて願っていることは、あと12時間後には新しいエアコンが設置されていて涼んでいること。
この文章はパニック状態で書いたもので推敲も一切しておらず、なんだか精神のやべー奴が書いた意味不明なものになってて読む者に恐怖を与えるだろうと思う。ごめんなさい。生きててごめんなさい。
【追記】
[結論]
なんとかなりました……!
片付けをしてる最中、ブコメを読んでは励まされ勇気を貰ってました。ブクマカの皆様、本当にありがとうございました。
いま室温16度(設定可能な最低温度)で強風パワフル運転でエアコンを稼働させながら布団に横になっています。まさに天国……! まだ信じられない。夢みたい。
[片付け開始]
7時に親が来て、恥ずかしさのあまり3年間ひたすら隠し続けてきた汚部屋を開陳。
「なーんてことないよ。片付けられるよ、こんなの」との言葉を貰い少し安心する。しかし分からない。この状況のいったいどこが「なんてことない」のか? どう考えても無理では……? という気持ちがまだ拭えない。
そこから親と二人で45リットルゴミ袋に「紙」「服」「その他」ぐらいのザックリ感で物をひたすら入れていった。要るものと要らないものとに仕分けすると時間がかかるということで、必要だろうがそうでなかろうが、とにかく袋に突っ込んでいく。本は重ねて部屋の隅へと移動。ユニットバスに物をめいっぱい持っていき、積みあげていく。ブコメでも書いてくださっている方がいたが、室外機の交換作業もあるので、うちの極狭ベランダに物を置くことはできなかった。
9時30分ごろ、あまりの物の多さに「これはとんでもないわ。収拾つかない」と親がもらす。
それを聞き「やっぱりどう考えても無理だよね……」と言うと、親がギョッとした顔をして「何言ってんの、大丈夫だよ」と返してきた。どっちなんだ。いや、ここまで来たらもう親を信じるしかない。
ちなみに、一時的に玄関先に物を出しておくことを提案したのだが「それはダメだよ」と親が言うのでその案は却下となった。
12時、玄関先からエアコンの下までの動線、ベランダの室外機までの作業スペース確保完了。約3年ぶりに床と対面してちょっと感動する。
部屋の半分を45リットルゴミ袋が占めており、地震が起きたら雪崩が起きそうだが、いま重要なのはエアコン工事が終わるまでどうにかなってることである。そんなことまで気にしてはいられない。
[業者が来る]
12時40分、約束の時間より早く業者が来る。ついに汚部屋を赤の他人に見られてしまった。ひたすらに恥ずかしい。あああ〜!!
でも熱中症で死ぬよりマシだから仕方がないと自分に言い聞かせる。
まさか3時間もかかるとは思わなかった。作業スペースは十分にあったので恐らくそれが原因ではない。親が言うには、ご高齢で1人で作業されていたからではないかと。そうなのかな。でもとても誠実で良い方だった。
[ブコメへの返信]
・賃貸備え付けのエアコンの故障なので、交換費用など全て大家さん持ち。無料でした。
・なぜ片付け業者を呼ばないか。自分でなんとかなると思ってたから(※なってない)。貴重品を捨てられたら困ると思ったから(汚部屋住人の常套句)。アホだから。
この3年、悪化した汚部屋を隠し続けていました。あまりに恥ずかしくて。玄関先までダンボールが積み上がってるなんて、いくらなんでもバカすぎて。そのことが事態をより悪化させたのだと思います。
・うつ病患者だけど、うつ病を患う前、子どもの頃からまともに片付けができなかったです。
・片付けてから業者を呼ぶとなるとその前に熱中症で死ぬと思ったので、掃除できる目処なんてこれっぽっちも立っていなかったけれど、清水の舞台から飛び降りる気持ちで不動産管理会社に電話しました。最大の被害者は親です。
・1人じゃないよと言ってくださった方へ。めちゃくちゃ勇気をいただきました。ありがとうございます。どうにかエアコンの修理または交換ができますように、祈っております。
・この文章も推敲したり見直したりしてないので相当読みづらいと思います。ごめんなさい。ここまで読んでくださった方がいらしたら本当に感謝です。トラバで「意味不明なものにはなってないよ」って書いてくれた方、あなたのおかげで安心できました。本当にありがとうございました!
Permalink |記事への反応(25) | 06:34
もうだいぶ経つけど、彼女がうけた傷をたいしたことないっていう人が世の中たくさんいるんだと悲しくなったので……
亡くなったのはだいぶ前だけど、従姉妹ちゃんは20代前半で亡くなった。
私より年下で、私が中学?高校?くらいの頃から気づけば親戚の集まりに来なくなっていた。
事故?かなにかでけがして入院してておばさんたちも大変なのよ、と何かごまかす感じで親に言われて、質問は受け付けないという雰囲気でただならなさを感じたのは覚えている。
その後もずっと親戚の集まりにも来ず、引きこもりらしい扱いになっていたので
聞いてはいけない雰囲気から私は勝手に学校でいじめられてその延長でケガをしたか、もしくは自殺未遂をしてしまったのでは、と思っていた。
おばさん(従姉妹ちゃんの母、私の母の妹)とおじさん(従姉妹ちゃんの父)は親戚の集まりとか法事で会うことはあった。
私が大学生の頃か、社会人になりたてくらいのときに祖母が亡くなった。
別の親戚のおばさん(従姉妹ちゃんの母ではない)が、通夜のあとみんなが食事してるときに会場の外の廊下でしゃがみ込んでた。
私は多分トイレ行こうとしてたのかな。
そのおばさんはお酒飲めない人だったのでもしかして飲まされて気分が悪くなったのかと思って声をかけたらハンカチで口元抑えながら泣いてた。
私はてっきりおばあちゃんが亡くなったことで泣いてるのだと思って、背中さすりながら向こうで風にあたります?気分悪いです?誰か呼びましょうか?みたいな声をかけたと思う。
ちょっと落ち着いたそのおばさんが、「従姉妹ちゃんのこと考えたらもう悔しくて悔してくて…」と言ってまた泣き出した。
通夜と葬儀には従姉妹ちゃんとその母は来てなくて、おじさん(従姉妹ちゃん父)だけが来てた。
私はこのときまで従姉妹ちゃんはいじめが辛かったんだなあという勝手な解釈をしてたので「大変みたいですもんね…」みたいな雑な相槌をうってたらおばさんが
「あんなひどいことされて、あの子の人生めちゃめちゃで、親にも会えないしまともに生きていかれないじゃないの」みたいに言いだして
そんなにひどいいじめだったのか…?会えないってなに?と思いながら適当に話を合わせてたら本当の理由を聞くことになった。適当に話し合わせて聞いてただけだったから断片的ではあったけど事実の概要は知ったという感じ。おばさんはそのとき私が成人だったから知ってると思って知ってる前提の会話をしたんだろうと思う。
そのとき初めて知ったのは、従姉妹ちゃんはいじめではなく性犯罪の被害に遭ってたということだった。
具体的な話も少しだけ聞いたけどここには書かない。
初めて聞いたとき怒りと悔しさで震えるとはこういうことかと思った。
被害は従姉妹ちゃんが小学生の時で、おそらく怪我して入院して…と正月に来なかった頃なんだと思う。
男の人を見るだけで恐怖で過呼吸や引きつけのような発作を起こしてパニックになり、父親とすら一緒に過ごせない。
学校も先生や生徒に男の子(男性)かいるからいけないというかそもそも家から出れない。
知らなかったけどおじさんは従姉妹ちゃんのために実は近くに安アパート借りてそっちで生活してたらしい。たぶんうちの両親は知ってたんだと思う。
カウンセリングか通院かはしてたらしいけど、もうずっと家の中で静かに過ごすしかない状態だったらしく、通夜のときに酒が入ったおじさんが「娘がおばあちゃんの葬式にも来れない」ということをこぼして、おばさんが涙をこらえきれなくなって廊下で泣いてたということだった。
このときには多少パニック発作?のようなものは落ち着いてたみたいだけど、ひどいときは宅配や水道業者とかの家に来る見知らぬ男性、家の外から聞こえる近所の男の人の声だけでもおばさん(従姉妹ちゃんの母)にしがみついて泣き叫んだりしてたらしい。
このおばさんは従姉妹ちゃんちの割と近くに住んでたので、従姉妹ちゃんちに度々行ってお手伝い(従姉妹ちゃん母が出かけないといけない時に従姉妹ちゃんと留守番したりとか)してたらしい。うちの母も姉妹だからよく相談受けてたけど私が未成年だったし内容もショッキング過ぎたので言わないようにしてたらしい。
あとで何がきっかけか分からんけどうちの親も「あ、この子従姉妹ちゃんのこと知ったんやな」というのを察して知ってる前提で少し会話することがあった。
一度だけ、この葬式のあとに泣いてたおばさんと出かけたことがあって、その後に従姉妹ちゃんちへ行ったことがある。
私も女で親族とは言え、長らく会ってないほぼ他人に近い人では従姉妹ちゃんを刺激してしまわないかと思ったけど、おばさんが行こうと言うならまあ大丈夫なんだろうと思って手土産のお菓子を持って行った。
天気が良くて、縁側みたいなところで日にあたりながら久しぶりだね、大きくなったねって当たり障りのないことだけ話してお菓子を隣りに座って食べた。
かなり痩せていて覇気がなく、まだ幼い子供のように見えるけど、同時にすごく疲れて老けても見える不思議な雰囲気だった。
その時に会ったのが最後で、その数年後に亡くなったことを聞いた。
自死だったらしい。
あの時泣いてたおばさんは葬儀ではより一層大泣きだった。
おばあちゃんの葬式の時に事実を聞いてから、生まれてきて10歳かそこらの小学生のときに被害に遭った従姉妹ちゃんの人生は何だったんだろう、性被害を受けて苦しむだけのためにその後の時間が使われて、そんなことのための人生だったのか?何だったんだって、今でも性犯罪のニュース見るたびに従姉妹ちゃんを思い出して胸が苦しくなる。
聞いただけの私がこれだけ苦しくなるなら被害に遭った人はどれだけ苦しいんだろう、辛いんだろうって思う。
たいしたことなんてない。
4年ほど前、初めてパニック発作がでて、わけもわからず救急車を呼んだ。
その時点で発作の原因はわからなかったが、その後詳しく調べた結果、バセドウ病になっていることが判明した。
それに加えて生理前だったこと、風邪を引いていたこと、元々持っていた低血糖の悪化、コロナ禍など様々な原因が重なり発作が起きたと推測された。
当時はパワハラや突然深夜に連絡のあるストレスのかかる仕事をしていたので、仕事を辞めて治療に専念することにした。
初めはパニック障害とバセドウ病を治すつもりでそれぞれ通院していたが、ふと昔から症状のあった低血糖が気にかかった。症状とは、おなかがすくと手が震えたり、冷や汗をかいたり、イライラしてキレやすくなったり、人の話が理解できなくなったりすることで、中学生のときに18時以降食べないダイエットをしていたときからよく経験しているものだったが、食べると治るので深く気にしていなかった。
・パニック発作が起きる
・人に危害を加えたくなる
など、様々なものがあった。
早速専門の病院で検査をすると、機能性低血糖という病名がついた。
根本的な解決のためにはまず低血糖を治そうと心に決めた私は、バセドウ病と低血糖の治療の日々を過ごし、パニック発作が落ち着いてきたという実感が芽生えた頃、今度は恐ろしいことを考えている自分に気が付いた。
具体的に言うと、恋人と料理をしているときに、衝動的に包丁で恋人を刺したくなったり(そういう想像をしてしまう)、ドライブ中助手席に座っているときに急にシートベルトを外して道路に飛び降りたくなったりした。
あとは叫んだり、道路に飛び出したり、隣に座っている見知らぬ人を急に叩いたりしたい衝動にかられたりした。
本当はそんなことをしたくないのになぜそんな衝動にかられるのかわからないことが恐ろしく、平静を装うのに必死だった。
とにかく自分が信じられないし、なにかしでかすんじゃないかという恐怖でいっぱいだった。
その当時ちょうど「男性が車から急に飛び降りた」というニュースを目にして、その人は私と同じ症状だったんじゃないかと不安でたまらなくなったこともあった。
コロナ禍前にヨガに通っていたこともあり、メンタルに効くと思ったからだ。
そのヨガ教室は個人経営で、たまたまマンツーマンでレッスンを受けることになった。
体験中に先生が「私はパニック障害を持っているけど、ヨガを始めてからすごく良くなったんだよ!」と話し始め、希望がもてる情報にうれしくなって興味津々で聞いていたら、「きっかけは、衝動的に自分の子どもをお風呂に沈めたくなって、おかしい自分に気付いて怖くなって、友人や家族に助けを求めたんだよね。」と言ってきた。
また、「私は今も抗不安薬を飲んでる。最初の症状が出てすぐに薬を飲まないと絶対に治らないよ!」とも言われ、その先生の言葉はそういう薬を一切飲んでいなかった当時の私をかなり苦しめた。
「〇〇してしまうのではないか」という恐怖が強すぎると「〇〇したい衝動」に置き換わってしまう可能性があると言われた。
要は気にしすぎだと思う。
パニック発作を初めて経験してからしばらくは予期不安もすごくて電車に乗るのも怖かったし、本当に毎日苦しかった。脳がおかしくなっている感覚もあった。
しかし治療を続けて数年後の現在はというと、長時間の飛行機に余裕で乗れるくらい治った。発作が再発しても大丈夫と思えるくらいの知識と落ち着きが身についた。
あれほど怖かった衝動的な感情についても、全く気にならなくなっている。
そして健康なときにふわっと考えていた、子どもを産むことについても考えるようになった。
ふと「子どもができたら…」と想像すると、幸せな妄想とともにヨガの先生が言っていた言葉を思い出し、恐怖が襲ってくる。
明るい気持ちのときは、衝動があっても実際しなかったんだからこれからも大丈夫!と自信を持っていられるが、
暗い気持ちのときは、今まではなんとか大丈夫だったけど次はやってしまうかもしれない…と考えてしまう。
病名でいうと強迫性障害が1番近いと思うがどうなんだろう。
とにかく今は平気だが、将来的に再発したらどうしようと不安だ。
こんにちは。私自身過去に虐待を受けており、ただ受けただけじゃ元が取れない(?)ため、創作に活かしていただきたくこんなことありましたよ!というのをお話できたらなと思い筆をとっています。不謹慎って思われないかなとか、人の経験だしネタにしづらいなとかシコりづらいなと思われるかもしれませんが、マジでガンガンネタにして元を取りたいので好きにしていただけますとハッピーです。自分の経験ベースで、児童相談所とのやり取りがあった時に聞いたことも交えていきますね。
受けたものとしては経済的虐待(ネグレクト)、教育・文化的虐待、精神・肉体的虐待、性的虐待などが挙げられます。
順番に思い出しながら書いていきます。
基本的なスペックとしては母は軽度のASDと知的のしょうがいがあり、父はわかりませんがヤニ力スパチ力ス酒力ス浮気とフルコンボでした。お手本のような力スです。力スの見本市。3歳頃に母方の祖父母宅に転がり込んで居候をはじめましたが、父はいつのまにか逃げました。
ネグレクトについてはよくある形ですが、まず父親が今生きてるのか死んでるのかわかりません。父親も幼少期、兄と弟と共に公園に連れて来られ、おもちゃを渡されて「ここで待っていてね」と両親に言われたがそのまま両親は戻って来なかったため児童養護施設で育ったと聞きました。血ですね~
父は気付けばいなくなっていました。
食事も食べられる時と食べられない時とあり、食卓につくとありとあらゆる動作や食べ方、箸の持ち方、口の動かし方、全てを罵倒され罵られます。ろくに食べられたもんじゃないし、味もわかりません。母は料理が上手じゃないくせにオーガニック派(笑)だったため、添加物着色料など使う食材は徹底的に避けており、貧乏なのに国産無添加無農薬にこだわり、結果的に食べられるご飯の量は少なかったです。
食卓でまともに食事が出来なくてもお腹は空きます。育ち盛りの子供なら当然。そのため、夜中にこっそり起き出してキッチンで食べられるものを探しました。三角コーナーの生ゴミからまだ食べられる野菜の皮や芯を探して食べていたら、祖母に気付かれていたようで、バレた日から「ゴキブリ」と呼ばれるようになりました。草 誰がやねん
教育・文化的虐待については、親の望む進学先ではないためお金を出してもらえなかった、などがありました。福祉に繋がることも出来ず、進学などが制限されるというのもよくあるケースのようです。弟も進学先を制限されて学費を支払ってもらえず、私が支払っています(よくあることらしく、親戚やきょうだいが払うケースは多いそうです)
精神的虐待というと幅は広いですが、たとえば父と母の結婚は母方の祖母が元々反対していたらしく、家にいる間はずっと祖母が父の悪口を言っていました。母に対して「育てられないならなんで産んだんや」と金切り声で叫んだりなどしており、それを私たちきょうだいは黙って聞かされていました。生まれてくることを望まれていなかったのだという感覚が形成されたのはこれがデカいのかな?と思います。自己肯定感ダダ下がりポイント。母も母で言い返すことをしなかったのが余計に悪かったのかも。もしかしたら母にちゃんとそれを否定して欲しかったのかもしれないですね。今となってはどうにもならないことですが。
また、兄も父によく似た男でした。気に入らないことがあれば殴る蹴る、罵倒する、無能と罵り物を投げる、壁を殴る。など。実家の壁には多分未だに穴があります。兄は父親のことを憎しみ、嫌っていましたが、大きくなればなるほど兄の態度は父に似ていきました。それを指摘すれば烈火のごとく怒り狂い、怒鳴り、それがまた、酔って暴れる父親に酷く似ていました。
これ創作ならシコポイントだと思うのですが、実家にいたころ私は背もたれのない椅子を使っていました。そのため、兄が後ろを通る度に後ろから蹴られ、頭を殴られ、怒鳴られるため、未だに年上の男性が後ろに立つとちょっと怖いです!多分厳密には自分より体格のいい人が、だと思います。どれだけ信頼していても、あっ!蹴られる!と思ってビクッとします。身体が強ばるような感覚で、全身に力が入るような一瞬の緊張があり、もう家を出て10年近く経ちますがいまだに抜けない癖となっています。
あと、メンタルがぶち壊れて鬱をやった時、寝込む私に兄が硬式テニスのテニスボールや、ボール入れを頭に投げてきたことがあったため、未だに🎾これとかこれの容器を見るとオッ……となります。私の中で武器や凶器に分類されるのかも。痛かったから。物はよく投げられましたね。お皿とかも投げてた気がします。
兄が暴れるのに怯えた祖母が金切り声をあげて泣き、母は抵抗せず殴られて、唯一力で抵抗できる祖父が必死に止めて、という生活が続きました。兄も軽い鬱だったようです。
母もただ大人しいかと言われるとそういうわけではなく、多分ですが発達障害やASDの兆候があったように思います。同じ日本語を話しているはずなのに、全く話が通じず、言っていることの意味が全くわからないというようなことがありました(例を挙げるならば、私が家にいるのが限界になり児童相談所と相談して一時保護を受けるか他のなんらかの施設に行くか……という話になった時、今まで服も全部お下がりなぐらい私にお金かけなかったくせに「古い一軒家を買い取ってそこに住めばいい」「父の自営業の事務所代わりにも出来るし」と言い出したりとか。父は配送業で全然勤め人だし、その頃にはもうろくに連絡も取れてなかったし、何より私は父から強姦されてたので一緒に住むなんてとんでもねえよという感じでした。それが嫌だと言ったら「実家から私たち家族が引っ越してあなたが1人で住めばいい」とか言ったり。実家は祖父母の家であり、そんな権限は家庭内地位が最下位の母にあるわけないし、もちろん同意を得られるはずもないのに)。
母の言い出すことはいつだって意味がわからなくて、きっとこれまで母が受けてきた抑圧や苦しみ、刷り込まれてきた固定観念で雁字搦めになった価値観を私にも押し付けているようでした。いわゆるヒスお母さんに近いです。二段ベッドの上の段で寝ていた私が、メンタルぶっ壊して学校に行けなくなった時、大声で騒ぎながら私を二段ベッドの上から引きずり落とそうとしたり。足つかまれて引っ張られてたので、誰かに足首を掴まれたり、足を触られるのも今ちょっと怖いです。後ろに男性が立つ時ほどではないですが。
そして我が家は貧乏で、母が乗っていた自転車も近所の人のをお下がりでいただいていました。古い自転車はブレーキがきしんで、坂道にある私の家に母が帰ってくる時はいつもキィキィと甲高い音が鳴っていました。あの自転車の音がなると、ああ母が帰ってくる、またきちがいが私の暮らしに入り込んでくる、祖母が母を怒鳴り罵倒しヒスり金切り声を上げる、と絶望したものです。
未だに自転車のブレーキのキィキィいう音を聞くと、こんなところに母がいるわけないのに、その時の嫌な気持ちを思い出します。母が帰ってくる。きちがいが帰ってくる。私をメチャクチャにする。
ここまではよくある(あっちゃいけないですが)家庭内での機能不全についてお話しました。かなり主観的視点で書いたので、お気分が悪くなったようでしたら少し休憩されたり、読むのを中断してくださいね。
メチャクチャ興奮していただく分には、不謹慎だ!とか思わないので、好きにネタにしてください!(私の方からネタとして差し出していますしね)
いちばんはじめに感じた違和感は、幼い頃からさせられていた習慣でした。物心ついたころ(4歳とかぐらい?)から、父親に「父ちゃん愛してるって言え」と言われ、キスを強要されていた記憶があります。頬にとかではなく、普通に口で。舌を入れられたこともあって、それがとても嫌でしたが、キスをした後口を拭えばメチャクチャに怒られました。でも物心ついたときからずっとそうだったので、それが変なことだということは中学生ぐらいまで気付きませんでした。類似したことはたくさんあり、身体は自分だけのもの、他の人は家族であろうとプライベートゾーンに触ってはいけない、ということを知らずに育っていました。
肩とかお腹とか、たぶん他の人からしたらおかしいんじゃないか?ってぐらいたくさん触られていたように感じます。
決定的にこれはおかしいぞと感じたのは、小学校3年生ごろのことでした。私はそれぐらいの年齢にしては発育がよく、胸が大きくなっていたころだったのですが、お下がりばかりの服しか着られない貧乏家庭で当然ブラジャーなど買ってもらえるはずもなく、薄い服で胸を気にしながら過ごしていました。
ある日久々に父親と会った時(なんで会ったかは覚えてないな……)、不意に胸を触られて、「胸大きくなってきたな。もう女になったんか」と言われました。
キッショ。
小3やぞ。女になったんかて。キモ。草。
そっからはもう、なんというか、転がるように良くない方向へ進んでいきました。車の中で、連れ出されたよく知らない建物の中で、父の知り合いらしい誰かの家の中で、身体を触られる地獄が始まりました。脱がしやすい服を着せられて、父のヤニ臭い白い車に詰め込まれ、どこかへ連れて行かれて。知らない場所まで連れていかれるから、帰り道がわからないから、逃げ出せなくて。父親の吸っていたECHOの臭いが胸に張り付いて。私のからだははじめから私のものではなくて、いつの間にかそれをされている間はぼんやりしているようになりました。現実逃避というか、精神が身体から乖離しているような。
ずっとなにか、火を見ている気持ちでいたような気がします。自分でもよくわからないのですが、ゆらゆら揺れている炎の記憶がやたらとあります。もちろん暖炉とか火がある環境でレイプされてたわけじゃないのに。なにか他のこと考えてないとやってらんなかったんでしょうね。
非常にはっきり覚えているのは、強姦されたときにいた和室の中で、破瓜の(あるいは膣の引き裂けた怪我の)血で汚れた畳のしみを、「お前が舐めて綺麗にしろ」と下卑た笑いを浮かべた男から言われたことです。
あれが父親だったのか、父が呼んだ他の誰かなのか、もうわかりません。「いぐさに染み込んだ血は舐めたって綺麗になりません」と言った私の頬を叩いて畳に押し付けたことだけ覚えています。朧気な記憶の中で、タンクトップの男が私を押さえ込んで、組み敷いて、汚い床の上で。身体はどこもかしこも裂けるほど痛くて、軋む音がして、換気扇の音がうるさくて、ヤニ臭くて、吐き気がして、息をしてるのかしてないのかわからなくて。ぐるぐるぐにゃぐにゃ天井が回っていて、汚い天井が揺れて、その記憶だけがはっきり残っています。
あとは気付いたらビニール袋を頭に被せられて、窒息しかけた記憶もあります。これも誰がやったのかわかりません。ビニール袋を被せられて、突き飛ばされて、倒れ込んだ私の腹に誰かが飛び乗るような感覚がありました。踏みつけられたのかな。わからないけど。
お腹の中でなにかがぐじゅりとおかしくなるような感覚がして、ビニール袋の中で声にならない悲鳴をあげて、意識が途切れて。その時内臓が破裂したみたいで、免疫が人より著しく低かったりだとか、そういう後遺症?みたいなものがあります。
母にその後病院に連れて行かれた気がしますが、医者に「転んでぶつけた」と言い訳している記憶があります。無理あるだろと思ってました。
酔っ払った父が私を突き飛ばして、顔から倒れ込んだ私の上に馬乗りになって首を絞める景色。畳しか見えなくて、もがいても逃げ出せるわけなくて、足掻いているうちに首に手を回されて。骨が軋んで、気管が狭まって、だんだん瞳孔が開いていくのか涙でか視界がぼやけていきます。焦点があわない視界で必死に瞬きをして。こひゅこひゅと喉からすきま風のように息が漏れて、喉が圧迫されて、必死でもがいていたら父がゲラゲラ笑って私の上から降りる。気まぐれに降りただけで、父の気が向かなかったら今私はここにいなかっただろうなと思います。
首を絞められることは何度かありましたので、それでも今も生きているということは、殺してしまったらいけないという意識はあったのでしょうか。
或いは力や体格で絶対に敵わない弱いいきものが、自分の力加減ひとつで必死にもがいてあがいて生き延びようとする様を見て楽しんでいたのかもしれません。私を組み敷く父が下卑た笑いを上げていたのを見るに、その可能性が高いかもしれないですね。
首を絞められるにしても、前から絞められるのと、後ろから絞められるのでは苦しさが違います。
正面から絞められる方が苦しいです。後ろから絞められる(人差し指~小指までが喉に触れる)状態だと、力の当たる面積が分散するからか、締め付けられている感覚はより大きいですが苦しさはマシでした。正面から首を絞められると、親指がぐっと気管を押さえつけてきます。ピンポイントで親指の一点に力が集中するため、苦しみが強いです。息ができない感覚が続いて、視界がぼんやりしてきたところで、ぱっと手が離されると、一気に外気が喉になだれ込みます。喉にはずっと何かが詰まっているような感覚がして、その後は1日ずっと咳が出ます。
首を絞められた状態だと身体中に力が入りませんので、そのまま激しく体を揺さぶられたり、犯されたりすることもありました。
首を絞められた記憶がいまだに無意識でこわいのか、首周りを圧迫されることがめちゃくちゃ怖いです。
ネックレスも物によっては無理なレベル。チョーカーとか全然つけられないし、ハイネックとかタートルネックとかもぴたっとしていると不意に圧迫感とあの時の恐怖を感じて過呼吸になりかけたりします。当然、人に首を触られるのも怖いです。首周りってやっぱ急所なのでだいたいの人間はそうだとは思うんですが、マフラーとかも辛くて巻けません。不意にパニック発作が出たりする可能性があり、リスキーなので。
性的虐待とは書きましたが、今思うと普通に暴行も多いですね。というか、虐待という場における性的なものは概ねほぼ暴力だと思います。もちろん快感とかはあるわけなく、痛みや屈辱の面が強すぎる。内臓を掻き回されて痛めつけられる、という感覚が強いです。
下品な話ですが匿名なため書いてしまうと、それが繰り返されたことで何年も経ったけどまんこがゆるい気がします。レズのため他の女の身体に触れた時、自分の身体の異端さを感じる時があります。ガバマンすぎる。でもそりゃそうだよな。裂けて拡がったままになっちゃったんかな。わからないけど。
反射的に怯えてしまう、で言えば、足首掴まれた記憶から足首がきゅっとタイトになってる靴下もあんまり得意じゃないかも!こわい!
これはよく聞く話ではありますが、私も性的虐待があって以来、その記憶を塗り替えなきゃ、という意識で性的な行為に依存的になったように思います。付き合っていない女とセフレになったり、パパ活したりとか。「自分はもう汚いんだから」という記憶のせいで、自分を大事にできない。自分を守れない。
長々と書いてしまいましたが、今のところこんな感じでしょうか。文章をお読みになってこのエピソードもっと深く知りたいなとか、ここ掘り下げてほしいなとか、この面ではどうだった?とかあれば、また書こうと思います。よければお声がけください。
今後どうすればいいか深く考えたいと思い、思考を整理したくて書いた。無駄に長文。
こうした節目の季節や長期休暇の頃合いになると、決まって親から帰省の催促がなされる。
不快な思いをしながら、適当な言い訳を付けて断るのをもうずっと続けている。家族とは今のところ折り合いが非常に悪く、諸々の事情からもう帰らない(帰れない)と心には決めている。
その気持ちを明言してしまい状況が変わってしまって面倒なことになってしまうのが嫌で、対話を避けてはっきりさせない気持ち悪い状態をずるずる続けている。
ただ、既に私もいい年だし、逃げ続けるのも良くないのではないか、もう親に影響されずに気持ちよく年を越したいと思い、これまでの半生を振り返ってどうすればいいか考えている。
私自身としては自らの親のことを毒親だと思っているものの、多分世間一般のラインからすれば普通の家庭なんだろうと思う。親も人間であり完全ではない、そんなこともわからずに、SNSに毒されて親に対して求めるもののハードルが上がっていて、それを満たせていないから親が嫌なんだと。そんなふうに考えている自覚もある故に、割り切れないところもある。昔は本気でそんな思いだったものの、もう30を超えた今は流石にそれが間違いであることはわかる。でも親が憎くて嫌いなのは変わらない。そのあたりのおかしなバイアスを指摘されたりするとわざわざ公開された場所に乱文を残す価値もあるんだろうと思う。
私は地方の田舎で生を受けた。しばらくして妹も生まれた。家族は父母姉妹の4人だった。
きっと嫌なことが多かったんだろうと思う、年齢が一桁の時の記憶はほとんど無い。うっすらと、親に暴力をふるわれた事や、血筋の中でも頭が回る方で小学1か2年生くらいの最初はそれを褒めてくれた事は覚えているような気はする。
その時の母親の口癖は、「私があなたの頭を殴って大きなたんこぶを作ってから頭が良くなったんだ。」というものだったと思う。曖昧な記憶でも、これは間違いなく覚えている言葉で、今でも子どもに対して暴力を振るいあまつさえそれを誇るような言動をするなんてとんでもない倫理観の人間だと、親を嫌う理由の一つとなっている。
母親は専業主婦であり、家事を一通り終わらせたら延々ネットゲームを行っており、家にいても常によく知らない誰かとボイスチャットをしていたのをよく覚えている。とにかく世間体を一番とする。痩せていると世間体が悪いからという言葉で少食なのに無理に食べさせられて今でも食事に苦手意識があるのと、拒否しているのに美容院に連れて行かれてそれらしい髪型を強制されたのも記憶にあるところ。また、家族間では一切の秘密を許さないとのことでプライベートの全てを否定していたこともあった。うっかり見てしまったことがあるが、あなたのパートナーが影で隠れてアダルトビデオを見ていることも把握しているのだろうか?ヒステリーを良く起こす方で、父親とは仲が良いようには思えず、常に離婚をちらつかせて喧嘩していた印象がある。たまに課金のためにコンビニに連れて行ってもらい、ついでにお菓子を買ってもらったこともあった気がする。総じて印象が良くない。
そんな母親に対して、父親には正直印象が無い。何をやってるのかよくわからない、たしか何らかの肉体労働だった気がする、氷河期世代で割の良くない仕事に早朝から遅くまで関わっており、休日が不定期なこともあり、ほとんどコミュニケーションが無かった。もちろん低賃金ゆえ常に貧乏家庭でもあった。休みの日はもっぱらパチンコ漬けのようだった。社会人になってから思うと申し訳ないと思う気持ちはあるものの、正直普段同じ場にいない人間とは話が合わないし取れるコミュニケーションなんて限られてると思うし、今更仲を良くする価値も感じないところ。
そんな親の元過ごした小学生や中学生の時代、確かに頭は良い方で学校の成績は5本の指に入るくらい良かった。ただ、その代わりに子供らしさというのを何処かに捨ててしまったらしい。良く言えば控えめで物静か、悪く言えば根暗コミュ障。外に出て運動をするより部屋で本を読んでいたほうが良い。そんな子どもらしくない子どもは、世間体を重視する母親のイライラゲージを溜めてしまうらしい。頭の良さを褒められることも最初だけで、ある時からそれが当たり前で褒められることも無いし些細なミスで詰められたり、そんなようになってしまった。
一方で妹の方は私に比べればマシな人間だった。学校の成績は普通だが、いわゆる子どもらしい子どもであり、また、悪知恵も働いた。もちろん親は頭でっかちな姉よりも妹を好み、悪知恵により陥れられたことも何度もある。その都度姉なんだからと我慢させられた経験は山ほどある。
中学の頃、決定的な事が起こる。運悪く治安が最悪な世代に混ざってしまった中学時代。いじめは横行するし自殺未遂の話もあった。そんな殺伐とした空間で思春期を過ごして平常でいられるわけがなく、必死で生きようとして荒んでいた時。妹との扱いの差や親のおかしなところに気が付き始める時。今でも解決してない自身の性別に対しての悩みを持ち始める時。そんな難しい時に家族と買い物に出かけることになった。その時にとても不機嫌な対応をしたんだと思う。帰って自室に戻って一休み。催してトイレに行こうとした際に、両親のいる居間から「なんで◯◯なんて産んだんだろ、産まなければよかった」という声が聞こえてしまった。私が近くにいないと思ってそんな話をしたんだろう。実際可愛げのない私はいらない存在だったんだろう。それ以降、両親のことは一切信用しないことにした。喧嘩をしたとかの直接的な言い合いがヒートアップして出てしまったならまだしも、影でそのようなことを言うなんて、いっときの気の迷いとかではなく本気なんだろうなと妙に腑に落ちたところがあった。
以降の高校時代はそういう恨み言が続くだけ。勉強はできたので大学は行きたかったけれど、貧乏な家庭の上に当時の奨学金に対してのバッシングも相まって、大学は諦めることになり結局私自身も親と同じ高卒になってしまった。中学時代に仲が良く一緒に勉強を頑張った当時の友人は東京の有名な大学に行ったらしい。世の中は平等にできていないことを強く認識することになった。就職が近づくと老後は頼んだとか寒いことを色々言われた気がするが、もちろんもう何も信用してないのでさっさと親は捨てて一人で生きていくことを考えていた。一応長子だったので、そういう老後の世話や家を継ぐことを期待されたのも多かったと思う。
高校卒業後は当時のネット友達を頼り、地方を出て東京で職を得ることができた。
こんな得体のしれない高卒の人間を総合職として採用してくれた小さなベンチャー企業も、今では大きくなり比較的良い待遇で仕事をさせてもらっている。パートナーもできてプライベートも充実した。
このときの悩みは今の仕事がどれだけ続けられるかというところと節目でやってくる親の帰省の連絡だった。親からのメッセージの通知が来るたびに心臓が早鐘を打ち不眠になる。最初は真面目に帰省していた。わざわざ親の好む服装・髪型にして。ここでの転機はコロナ禍の時だった。コロナ禍で帰省を自粛していた頃合いだったが、流石に間が空きすぎたのとある時波と波の合間で落ち着いてきたタイミングであったことから断りきれず、久しぶりに帰省することになった。久々の帰省で大きなストレスを受け、パニック発作を起こすことになってしまった。そこからこじらせてしまい、本格的なパニック障害になり家から出ることもままならなくなってしまった。年単位で時間をかけてなんとか仕事を続けられる程度には回復したが、未だに外出を行う際には辛さを伴うし、一人で遠出をすることもできない。なんとかある程度回復した症状をぶり返すようなこともしたくない。人生の全てが閉じられ終わってしまうようなあの感覚をまた感じたくはない。かくして帰省はしないものからできないものになってしまった。もっとも、世間体を気にする親は子の精神疾患なんて認められないだろうし、あるいは無理に連れ帰らせる、会おうとしてくるなど余計なことしかしないだろうことが想像できるので、この件も話してはいない。
このような人生を送り、この日記を書いた現在に至る。家族は嫌いで精神も壊した。それでも、一人で生き抜くことを決意してハードワークして作った資産もできた。昨今の好調な株式市場のお陰でこれもかなり大きくなり、もう当分お金に困ることはないだろう。そうなるといよいよこの親との関係をどうするのかというところが割合として大きくなってくる。お金と一緒に順当に年も増え、もう30を超えてしまった。そんな年齢になってまで未だに身近にいない親を恐れ嫌いな親の期待に応えようとすることが馬鹿らしく感じ、整形なんかにも手を出したりもした。親が期待した娘は部分的にこの世から消えた。あまり実感がないものの、幼い頃の暴力が未だに影響しているような気がしていて、親のことは嫌いなのに親に直接刃向かうようなことを実行するのに未だに抵抗を感じてしまって辛くなる。そういう精神的なところから親を振り払うとともに、関係性もなんとかしたいと思うところ。
こんな長文をここまで読まれている方は稀有だろうと思うが、世間体と好みと役割を気にして私を直視しない私の憎む親と同様に、私もまた親のことを理解しておらず、対話を避け一方的に親を嫌っている事には気がつくだろう。私には色々な悩みや聞いてほしいことがあった。今の生活だって盤石ではないし、何かと家族と連絡がついたほうが生きやすいところはある。そういうのを全て過去の親の言動を延々に引きずり信用できないと切り捨て全部抱え込んで生きてきたのが今の私だ。これまでの言動や行動からどうせ否定されるだろうと決めつけ、またしまい込むのは簡単だが、どうしても筋が通ってないように思う。どうせなら自分が過去のそういう言動で深く傷付き親を信用していないこと、自らはこういう悩みを抱えていて生きにくい事、その上で、あなた達が受け入れる気があり、私が許せるのであればマイペースに付き合っても良い。悪口というのは加害者は覚えてないだろうから、受け入れる受け入れない以前にそれでも許せるのかというのは難しいところではあるが。一方で理解できないこともあるんだから受け入れなくてもいい。誰にも迷惑をかけずひっそり生きていても、セクシャルマイノリティは迫害の対象なのが昨今だし、別に親がそういう人間であっても不思議ではないし、むしろたまたま親になっただけの存在にそんなのを期待すること自体が贅沢なんだと思うようになった。それ以外にも複数嫌われるべき理由もあるし、そういう場合は縁を切ればいいだけ。そういう選択肢くらいは親に与えても良いのではと思うようになってきた。別に縁を切られたってこれまでの人生計画は親無しでやっていくつもりだったんだから、支障はないしむしろ公式に縁が切れれば親からの連絡に怯える日もなくなる。受け入れてくれるならそれもまた良いだろう。人間年を食うと丸くなると言うし、期待はしてないがそんな可能性もゼロではないだろう。人間関係が希薄な令和の社会で、一人でも話ができる人間はいるに越したことはない。戸籍制度等のせいでどうやっても親と絶縁することが不可能な日本社会において、親との関係性は悪いよりは良い方が良いに決まっている。もしこのルートで進むのであれば、将来親の葬式をポジティブに主催したいと思えるようになれたらなとは思う。最近始めた新しい趣味の話とかができたら良いなとは思う。本質的に私は寂しがり屋で、一人で生きるよう常に努力しているが、親という存在を欲しているんだなというのも俯瞰してると思うところ。
ここまで書いたら、支離滅裂な長文乱文な割に随分思考が整理されてスッキリしてきた気がする。私は親を許すつもりはない一方で理由も分からず対話もせず消えてしまうのは筋が通ってないように思う。私は私の力で過酷なこの時代をなんとか生き抜くスキルを身につけられたと思っているが、認めたくはないものの、親の影響もそれなりにあるんだろう。少なくともこの年齢まで生き、ある程度の職と資産を得られた時点で虐待によって命を落としてしまった子ども、家庭の都合で高校にも行けず不本意な中卒でもなんとか生きる子ども、歪んだ教育で犯罪に走ってしまう子ども、それらの親であるところの真の毒親よりよほど良い親であったこともまた過程はともかくとして事実なんだろう。だから、今回の帰省もキャンセルして、しばらくしたら思っていることをぶつけ、筋は通そうと思う。そんな厄介な子と関係を続けたいのか続けたくないのか、ボールは親に投げられる。今の時代は覚悟さえできればスマホでポチポチして三行半を叩きつけることができる。行動を起こすことでメンタルは悪化するだろうが、こんな年齢でこんな馬鹿げたことをしているのに耐えられなくなってきたし、じわじわ心を壊されるのも終わりにしたい。だから気持ちは伝える。これが結論。未来の自分や他人からしたら甘いと思われそうではあるものの、縁切りも気持ちよく行いたい、そんな気持ちが強い。それに、双方納得の上で関係性を定義できれば、これ以上の干渉の無い理想的な形で終わらせることができる。頼もしい人生の味方を得られるかもしれない。だから、きちんと気持ちを伝えて、この気持ち悪い曖昧な関係を終わらせようと思う。
自分は駄目な人間だった。小学校の高学年のとき、心因性頻尿になって外に出られなくなった。
金曜の、ピアノ教室の直前だった。その日突然トイレが近くなって、結局家の周りをぐるぐる車で回った挙句に帰った。
それからの日々は地獄だった。家から出ることすらできなかった。私自身自分に何が起こったのか理解できなかった。
学校は、授業は嫌いだったけど友達は好きだった。学年みんな友達だと思っていた。みんなの名前と顔を覚えていた。
学校に行けなくなった。
学歴主義で権威主義の父は、私のことを人間じゃない何かを見る目で見ていた。
私は当時の記憶があまりない。ただ、下手くそに隠された不登校に関する解説本や、
リビングで両親が自分について語り合ってるのを察するのがつらかった。
そのあと数ヶ月してから学校に復帰したけど、結局私は中学校も不登校になって、高校も退学した。
大学受験は当然するものだと思っていたので、高校退学前に高認を取って、
中退後は勉強のやる気が出るまで少し時間をもらった。結果的には一浪という形で
MARCHの少し下くらいの大学に通うことになった。みんなが最初に受験をしていた年は、何も勉強していなかったが。
大学に行き始めて数ヶ月でやっぱり行けなくなって、2年ほど休学した。
自分は何故生きているんだろうとよく思った。死ぬ勇気は無く、事故で死なないかな、と妄想していた。
復学後は配慮申請をして、出られなかった授業のプリントを貰ったりしていた。
私の時代は不登校や発達障害は時代の最先端の社会問題で、まだ数が少なく、学校や大学側も対応に苦慮していた。
体調が悪くなりやすいので、保健室を使う許可をもらい、授業の隙間はベッドで寝るようにしていた。
大学は地獄だった。面白い授業もあったと思うが、何の目的もなく社会学を勉強し、
ヴェーバーやデュルケム、フーコー、マクルーハンなどを習った。個人的にはヴェーバーが好きだった。
大学時代、地元に帰ったときに暇で仕方なく、日経ネットワークの初心者用のTCP/IP解説本を買った。たまたま立ち読みして面白そうだったからだ。
それから何冊か自分でネットワークに関する本を読んだ。面白かったし憧れたが、
自分は文系だし人生に夢も希望もなかったので、これはただの遠い憧れだな、と思いながら過ごした。
しばらくして、最初に買った日経ネットワークの本以外ほとんど捨ててしまった。読んでも意味がないと感じていた。
大学も結局中退した。3年にやっと上がれるという冬の試験で、起き上がれなくなった。
毎日天井を見て過ごした。今日は○○の試験だったのに…と思って、泣きながら過ごした。
ここで単位を落としたことで、卒業まで想定より1年だか2年かかりそうだなと自分で計算し、心が折れた。
何度目の挫折か数えるのも嫌になっていた。
画家さんの絵の手伝いに行ったり、フォトコンに応募したりしていた。絵と写真だけが、自分が唯一続けてきたものだった。
それも当然上手くいかず、暫くして、父から障害年金と手帳をとるように言われた。父には逆らえなかった。
父に逆らえる人は家族の中で誰もいなかった。とても怖い人だったから。
父は節税になる!と喜び勇んで説明し、私は、やっぱり自分は道具なのだなと思いながら、そのまま手帳と年金を取得した。
初めて自由に使えるお金を手にした。20代後半で、初めて自分で家具を買っていいことに気づいた。
家の中を、好きだった祖父母の家を模すような感じに作り変えた。
友人が美術館のバイトを紹介してくれたので、小さな美術館で週3日のバイトをすることになった。
が、その直後にコロナ禍になって、半年ほど美術館は閉鎖することになった。
休業補償?だか何だかで、一応もらえた。その年の秋から再開した美術館のスタッフを少しやって、年末年始は地元に帰った。
両親に、戻ってくるように言われた。
父の会社が上手くいっておらず、母方の祖父母から大変な額の借金をしていた。
利益なんて10年ほど出ていなかったらしい。元々何をしているのかわからない
人に説明するのが困難な父の会社だったが、父はとにかく経営センスがなかったらしく、酷いことになっていた。
私は一度地元に戻る決意をしたが、やはり怖くて直前になって無理だと母の前で泣いた。
地元に戻っても居場所はないと感じていた。東京にもなかったけど…。
すぐに次のバイトを探したが、それも2ヶ月しか続かなかった。秋からまたバイトを始めた。
小さめの不動産会社で事務をしていた。年始にまた、今度は以前より強めに、帰ってくるよう説得された。
私はすぐに市の生活相談窓口に駆け込んで、就労移行支援やギリギリ間に合ったコロナ関連の貸付金を紹介してもらった。
非課税世帯なので、返済する必要はないから安心して、説明された。
自分の決断は、生活保護になってでも東京にい続けるというものだった。コロナの貸付金で一時的に数十万のお金が手に入ったので、
それを使い生活保護でもやっていける物件に引っ越しをした。不動産も一人で回ったし、引越しの手配も手続きも全て一人でやった。
就労移行支援は少し通ったが、この時間でバイトをした方がマシに思え、すぐに辞めてバイトを探した。
並行して勉強を進め、基本情報技術者試験に合格した。その後障害者雇用で小さなコンサル会社で資料作りのバイトをし、
その間にMOSのExcel Expertを取った。お金をかなり切り詰め、貯金を始めた。結局生活保護にはならなかった。
翌年バイトが契約終了になったので、ネットワークの仕事にチャレンジすることにした。
人生で初めてのフルタイムのバイトだった。倒れる前提で、駄目元でやってみることにした。
昔柄谷行人の『探究』で読んだ、暗闇の跳躍だか飛躍だかを思い出した。
価値は、価値がついたあとにしかその意味を読み取れない。価値がつくには暗闇を跳ばなきゃいけない。
薄給の上に業務量がえげつなくて、人がすぐに辞めていく環境だった。
ある程度初心者ができるように自動化されていたので、1ヶ月を過ぎる頃には一通りの業務を覚えていた。
毎日現地作業員と電話を繋げながら、色々な試験をし、NWを開通した。たまに撤去もあった。
障害を隠して仕事をしていたが、ある日電話中にパニック発作が出て、電話を保留にした後しばらくトイレにこもって薬を飲んで休んでいた。
ここでもこうなるのか…、とトイレの中で泣いた。結局その職場も居づらくなって辞めてしまった。
諦めきれずに、次の仕事を探した。ベンチャー企業で、またネットワークの仕事をやることになった。
今度は客先常駐。仕事に出る前に第一級陸上特殊無線技師の資格を取った。
高校数学は赤点だったので、選抜試験も養成講座も地獄だった。何年振りかの座学だった。
そのあと1時間半ほどかかる場所で夜勤をすることになり、私はすぐに壊れた。
夜勤明け、ふらふらになりながら漫喫に入ってひたすら寝続けた。またパニック発作が出て、帰ることができなくなっていた。
大手IT企業の子会社で、採用の仕事をした。面接時はいずれITの仕事を回してくれると言っていたが、
一向に果たされる気配がなく、半年で辞めた。ここまでの失敗で辞めた後に空白期間があるとメンタルに来ることはわかっていたので、次の仕事はすでに探してあった。
障害者雇用の契約社員として、またIT系企業に入った。1ヶ月の待機期間の間にCCNAを取って、
今はそこで仕事を続けている。何故かPython人員になってしまったので、毎日ツールを作っている。
ChatGPTのおかげでなんとか仕事ができている。
今の案件は年内で終了するらしい。
数週間前に正社員登用の話があり、面接を受けた。周りからは多分行けるんじゃないかと言われている。
貯金はやっと130万ほど貯まった。将来は…できれば健常者として生きていきたいが、まだ暫くは難しそうだ。
まだ何も安心できない。実家の父母は離婚問題でめちゃくちゃになっているし、
リモートだから仕事ができているのでは?という懐疑が常にあって、次の案件でどうなるかわからないと思っている。
私は障害について色々思うところがあるが、30ぐらいの時にはっきりと
「自分は才能が無いのだから、せめてコミュ力を伸ばそう。自分は一人で生きていけると思えない。
だから、人から助けてもらえる、助けようと思ってもらえる人間になろう」とずっと考えてきた。
今の時代は障害者健常者に関わらず、みんなにとってつらい時代だと思う。
何かを抱えているのはみんな同じだと思っている。そんな時代に、
マイノリティが自分を救ってくれ!と叫ぶことはとても怖いことだと思っている。
社会に余裕がなくなれば、一番最初に切り捨てられるのは自分たちじゃないだろうか。
今までたくさん人に迷惑をかけたけど、少しでもそうでない自分になりたい。生きていていい自分になりたい…。
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私は今もたくさんの問題を抱えているし、色々上手くいっていない。
人生を呪っているし、楽しくはない。たまに楽しいこともあるが。まあしかし、こうやって足掻いている人間もいるよ、と思って書いてみた。
特定されようが、もうプライドなんて無いからどうでもいいのだ。
私を見下して、自信をみんな持って欲しい。こんな見苦しくみっともなく足掻いてる人間もいるのだから。
…まあ今後どうなるかはまだわからんけど。
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思ったより反響があって驚きました。
タイトルは自分の人生を象徴するような言葉ですが、実際そういう境遇にある人間がどのように生きていくのだろう?という
素朴な疑問から読んでくださった方がいるのかなと思います。あるいは下層にいる人間の惨めな人生を期待した方もいるでしょう。
励ましの言葉やアドバイス、叱咤を下さった方、それぞれありがとうございます。全部読んでます。
わーっと書いてしまったのでちょっと読みにくかったかもしれませんね。申し訳ないです。
障害については一応ASD…ということになってます。診断が下りたのは大学生のときでした。
ご存じの方も多いと思いますが、当時はアスペルガーと呼ばれていて、空気が読めない・人の感情がわからないだとか、まあ散々なことが書いてありました。
カサンドラ症候群の話もありますし、今でもややADHDよりASDの方がイメージは悪いのかも、と思うところはあります。
高校生の頃にWAIS-Ⅲを受けた際には、言語性IQと動作性IQに結構な隔たりがありました。
当時の記録だと言語理解111、知覚統合99、作動記憶105、処理速度84。PARSの結果は幼児期が25点、思春期成人期が34点です。
一昨年だかにWAIS-Ⅳを受けたときは色々マシになっていて、言語理解119、知覚推理107、ワーキングメモリー117、処理速度111という結果でした。
今は人からは障害を持っているようには見えないとよく言われます。体力がないのは相変わらずですが…。
慢性疲労症候群の診断も下りていて、当時医師からは「あなたは将来生活保護か専業主婦でしか生きていけないと思います」という
大変メンタルに来る言葉をいただいていました。それから一気に体調が悪くなり、何も自信が持てなくなった後に
自分はそんな未来を信じないし、絶対にあの言葉を覆してやると決め、もう一度立ち上がりました。
大学でも発達障害で中退した人たちの予後が悪い、まともに働けていないという話を聞かされていたので
これについても、だったら最初の一人になってやる、と思った記憶があります。
自分は女ですが、文章が怖いと言われることもあったので、その辺も徹底的に直しました。
人を観察して、絵文字や顔文字をちゃんと使って明るく取っつきやすいイメージを持ってもらえるよう修正し、
見た目もパーマをかけたりと柔和な雰囲気を心掛けました。そういう仮面は、今は自分の皮膚のようになって
人の気持ちがわからない、共感性がないという部分については、周囲から指摘はそこまでなかったのですが
とにかくできるだけ人のことを想像するようにしました。自分を取り巻く多くの人たちや、ニュースになっているゴシップやエッセイなどからたくさんのことを学べたと思います。
お金があっても、賢くても、健康な体を持っていても、それでもみんな裏では色々あるのだな、と。つらいのは自分だけではないと言い聞かせてきました。
恵まれて見える他者が、実は苦しんでいるという話をちゃんと覚えておくようにしていました。
人生が大変だと、どうしても被害者意識が強くなってしまうものですが
そのように思う瞬間はあっても、絶対に客観性を失わないようにしようと常に思っています。
同時に、自分自身をあまり障害者として扱い過ぎないようにも心掛けました。単純に、心がすり減るので。
自分もまだまだこれから乗り越えなければならないことがたくさんあります。
同じように大変な境遇の方の励ましになったらいいなと思います。
Permalink |記事への反応(12) | 22:35
風呂キャンセル界隈。別に明日も出かけないんだからいいだろ、二日入ってなくても。
さっきテレビで、ラーメン食べるときチャーシューから食べれば太らない!?みたいなテーマの番組がやってたから、ぼーっと見てた。いや、胡散臭すぎるだろ。麺を先に口にした場合、体がデンプンに反応し、インスリンの量が急上昇して太りやすい状態となる。チャーシューから食べると糖の吸収が穏やかになる。とのことらしい。チャンカワイが三日間9食ラーメン食って、少し体重減ってたけど そりゃ、間食抜きである程度量の決まっているものを三食(例えラーメンだとしても)食えば体重が減るだろ。てか、ラーメン食べるときに胃の中が空っぽの状態じゃなきゃ意味なくない?知らんけど。例え体重は減ったとしても、体の状態は最悪で早死にルートであろう。(笑)意味の分からない番組だったから最後まで見てないから、詳しくは知らない。なんかこんな感じで、一生頭の中がどうでもいいことでグルグルしている。ラーメンの次はこれ、Xで見た中学生の娘に縮毛矯正をさせるべきか?のポスト。ぼくも中学生の時に、母親から進められて縮毛したなと。それでいうと、歯列矯正も。約10年弱位かけて綺麗な歯を手に入れ、口開けて笑えるようになった。今となっては、めちゃくちゃやってよかったことだしさ もちろん有難いと思ってる。でも、当時自分の意志ってあったっけ?自分の意志の根底にはいつも母がいて、怒られないために行動している。ということに気付いた時、絶望した。そんで、いつの日からか「親に怒られること」を回避する癖がつくようになってた。したい、ほしい、好きなものも言えなかった。そんなぼくを、何をしているかわからない子供、何考えてるかわからない、おかしいって言われて、親戚間でもボロクソに言われてる。従兄弟たちが話聞いてくれたりしたこともあったけど、裏では更生施設ぶち込めば?とか辛いアピールかよ。とかラインでやり取りしてたもーん。ガーン。軽い気持ちで母の携帯を見たら、パニック発作起こしたが、まあ知れて良かったのかもね。尚更、(するつもりもないけど)誰も信用できないな。いつか、お前らの所有物じゃねえんだよ、意思あるんだわ って言えたらいいけどさ。
人生に呆れ、生きる活力がない、現状どうにかしたいけどマイナス思考が止まらない。どうしたらいいのかわからない。常人からしてみたら、こんなの「分かってもらえなくて死を願う生存本能に抗う特別な人間」とか他責(←これら、実際に言われたことで~す)とか思いますよね、日記だから許してくれ。ここでやっと吐き出せるんだ。
教員の暴言で不登校→フリースクールに通うように→中学卒業→通信制高校入学→圧倒的に自由な環境で安心して3年間過ごす→卒業→何もできない無気力メンヘラの完成←いまここ
本来は不登校になった時点で死んでたはずなのに、中途半端にフリースクールを見つけてしまったせいで生存してしまった パニック障害もPTSDも躁鬱も治ってないのに学生じゃなくなってしまった
私みたいなどうしようもない人間と関わってくれる友達もできてしまった 死んだら友人が悲しむと理解してしまった 惰性でも生きなきゃいけない
なのに圧迫面接→パニック発作のトラウマで仕事が決められない とかこんなに言い訳してる自分が本当に醜いし愚か やっぱり死んだ方がいいのでは?
IQが低い男と結婚して、IQが低いASD+ADHD持ちの息子がうまれてきたら、完全にお終いだもんなあ
ASD+ADHD持ちがうまくいっているケースってIQが高い、容姿が少なくとも偏差値40以上、のケースしかないと思う
ASD+ADHD持ちだからこそ高IQと容姿偏差値40以上必須でいかないと厳しいよね
これだけ頑張って高IQと結婚しても息子のASD遺伝の発現の仕方が重度の感覚過敏や重度のパニック発作だった場合はマジで終わりです
女性だとASD持っててもそんなに他害として発現しなくて、それが女性ホルモンの恩恵(?)などと言われることがあるけど、息子だとまれに大地雷