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#GQuuuuuuX 第7話を見てアンチになったので宣戦布告 #ジークアクス - 玖足手帖-アニメブログ-
ヌ・リョウグ・ダの宣戦布告 :https://notebooklm.google.com/notebook/64bb91cb-674e-4366-ae64-b3cae49e5f68/audio
本ドキュメントは、ブロガー「ヌ・リョウグ・ダ」氏によるブログ記事「黒歴史襲来!ジークアクス、潰すべし」の分析に基づいています。
この記事は、主に機動戦士ガンダムシリーズの新作「機動戦士Gundam GQuuuuuuX(以下、ジークアクス)」第7話に対する強い否定的な感想と、
記事全体に警告や危険を示す言葉が散りばめられており、筆者の極めて個人的で攻撃的なトーンが特徴です。
筆者はジークアクス第7話に対し「つまらなかった」「吐き気がする」と明確な敵意を表明しており、
作品の演出、脚本、キャラクター描写、戦争描写など多岐にわたって批判を展開しています。
特に過去のガンダム作品や庵野秀明監督作品の手法を安易に模倣した「パッチワーク」「コピー品」であると断じています。
記事の大部分は、筆者自身の個人的な経験、特に母親の自殺、祖父母の複雑な背景、過労死寸前の経験、
精神的な不安定さ、そしてそれをガンダムやその他の作品と結びつけた独特の自己認識について語られています。
これらの経験が、彼の作品評価や世界観に深く影響を与えていることが示唆されます。
筆者は富野由悠季監督のガンダム作品に命を救われた経験があると述べ、
その深い思い入れがあるからこそ、今回のジークアクスに対して強い失望と怒りを感じているようです。
筆者は、過去のガンダム作品において「戦後」が十分に描かれていないと感じており、
しかし、ジークアクスは戦争の混乱や残虐さを描かず、安全でポップなエンターテインメントに終始していると批判し、その欠如に失望しています。
自身の壮絶な家庭環境や祖父母の背景(戦争犯罪者、淫売、戸籍捏造など)が現在にも影響を及ぼしていることへの苦悩を吐露しています。
筆者は自身を「精神障害者(2級)」「無敵の人」「異端者」「転生者」などと自称し、
このブログ空間内での「万能の発言力」を持ち、外部の常識や倫理とは異なる独自の論理で語っています。
SNSアカウントを持つ著名人(安田朗氏など)に対しても攻撃的な言動が見られます。
また、自身の思想をグノーシス主義と主張するなど、独特の思想体系を持っています。
・ジークアクス第7話は筆者にとって極めて「つまらない」ものであり、強い敵意の対象である。「今回のGQuuuuuuX第7話は、つまらないアニメを見た時の状態でした。」 「つまらないアニメを見ると、鬱になる。最悪の気分になって、途中で再生を止めて「クソッ!」と吐き捨て、見るのをやめるか…」 「ジークアクス君に期待していたのは「戦後の描写」だったのだ…やっぱりいつもの株式会社BANDAI SPIRITS ホビー事業部のプラモデル販売CMフィルムでしたね。」
・筆者の作品評価は、彼自身の壮絶な人生経験と精神状態に深く根ざしている。「僕はアニメを目ではなく心で見ている。アニメは視聴覚芸術文化なのに心で見ているというのは出崎統版ベルサイユのばらのオリジナルキャラクターみたいで変な言い方だが、とにかく精神で見ているのだ。」 「個人的な話なんだが、僕は前述のように母親を自殺で亡くしている。」 「というわけで、それ以来、僕にはメインのスタンドの脳内妹だけでなく、背後霊というか岸辺露伴に取りついたチープトリックみたいなものが「お母さんが亡くなってしまった」と常に言い続けている。」 「僕の人生の皮膚感覚としては、人は偶然ランダムに死ぬものであってドラマ性も特になく、ただ単に殺されたり事故にあったら死ぬって感じなのでドラマチックに整理された戦闘や死よりガンダムとかイデオンとかジョジョの奇妙な冒険とかクトゥルフ神話TRPGみたいにサイコロの目でランダムにすぐ死ぬアニメの方が僕の感覚に近くて馴染む、馴染むぞ!」
・筆者は富野由悠季監督に深い敬意と複雑な感情を抱いているが、同時に「裏切られた」経験や喧嘩も公言している。「ある意味、ガンダムのおかげで命拾いをしたという経験がある。一種の強化人間かもしれん。」 「僕も富野監督から「貴兄」と呼ばれて、「やっぱり僕は脳内妹のお兄ちゃんだと富野監督にも認められたんだ」と喜んだ。」 「監督に書かれた文は「推し活はいったん区切りにしませう」というわけで、離縁状なんだけどな。」 「僕のようにオタク活動を長くやっていると普通に富野監督に裏切られた人のことも知っているし、それはまだ表に出さずに交渉カードとして温存しているよ。富野監督レベルの人の人格がまともなわけないやん。普通に喧嘩もしているよ。」
・筆者のブログは、彼にとって外界から隔絶された独自の「固有結界」であり、そこで彼は「王」として振る舞う。「このブログは固有結界。22年の歳月と数千万文字の言葉と記事によって紡がれし王国であり城。」 「このブログの王国の中での彼は管理者権限を持つ王として、株式会社はてなの倫理的規定に抵触しない限り、万能の発言力を持つ。」
・筆者は、自身を「クズの孫」と称し、祖父母や両親の背景にある「戦中戦後のクソ倫理観」や「戦争」が自身の存在や現在にも影響を与えていると強く認識している。「祖父が陸軍中野学校卒の従軍憲兵として成り上がり、戦後は戦争犯罪を揉み消すために名前を変えて戸籍を捏造し戦後は公安幹部として叙勲されたこと、祖母が淫売で母親は私生児だったことを公言してはばからないほど、戦争に対する非常に深い憎しみとそれを超える狂気の持ち主です。」 「そういう男と女の間に生まれた淫売と戦争犯罪者の孫なんだ!」
「俺の戦争は終わってない!戦争で狂ったクソどもの生殖本能が俺を生み出した!」
この記事は、ジークアクス第7話に対する個人的で激しい批判を軸としつつも、筆者自身の壮絶な人生経験、精神状態、そして血縁と歴史(特に戦中戦後)からの影響について深く掘り下げた内容となっています。
作品批評というよりは、筆者の内面の吐露、あるいは一種のパフォーマンスアートとして解釈するのが適切かもしれません。
記事全体に漂う強い攻撃性や自己開示は、筆者の精神的な不安定さと、過去や血縁から逃れられない苦悩の表れと考えられます。
記事の末尾は、妹を名乗る人物による筆者の状態の説明と代筆という形で締めくくられており、記事の特異性を際立たせています。
ジークアクスを楽しむ読者にとっては、筆者の警告通り読むべきではない内容と言えますが、
この前、AIが書いた村上春樹の小説についての評論読んでんけど、これがなかなか味わい深いというか、変な感じやったんよ。文章自体はめっちゃ丁寧で、村上作品によく出てくる「孤独」「都市」「音楽」みたいなテーマをちゃんと拾ってる。言うてることも一見まっとうやねんけど、読み進めるうちに、なんやろな、どっか空っぽな感じがしてくる。たとえば「登場人物の孤独は、都市における疎外感と重なり合う」みたいなことが書いてあって、「ああ、それっぽいな」とは思うんやけど、なんかそこに体温がない。たぶん、AIには実際に孤独を感じた経験がないから、言葉がどこか借り物なんよな。
しかも、引用っぽい文が多くて、「この部分、どっかで読んだことあるぞ」っていうデジャヴみたいなんが何回もくる。よう考えたら、AIってネット上の情報を大量に学習してるから、村上作品についてのブログ記事とか大学のレポートとかから、ちょっとずつ言い回しを拾って、それをうまいこと繋いでるだけなんよな。それって要するに、まったく新しいことを書いてるように見えて、実は他人の文章を切って貼っただけのテキストやねん。そこがまさに「間テクスト性」ってやつで、AIの評論は一つの大きなパッチワークになってる。
で、その評論の中で急に話が変わって「このような疎外感はポストモダン文学における特徴でもある」って言い出すところがあるんやけど、いや急にポストモダン言われても……みたいなズレがある。人間が書くなら、そこにもうちょっと橋渡しの文とか、「ポストモダン」って言葉を選ぶ理由とかが出てくると思うんやけど、AIはそれなしに唐突に単語だけぶっ込んでくる。これは意味の差延とか、文脈のズレってやつで、言葉が言葉の連なりだけで進んでいく感じ。そこに「誰が」「何を伝えたくて」っていう文脈が抜けてる。
読んでるこっちはそれでもなんとなく納得しようとして、勝手に文脈を補い出すんよな。「ああ、これはたぶん『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の話をしとるんかな?」とか、読みながら自分で意味を作ってく。これってまさに読者が能動的にテキストを構築するってことやねん。人間の評論よりも、AIの評論のほうが逆に、読む側の解釈力試されてる気すらしてくる。
こう考えると、AIの評論ってけっこう不気味で、でもおもろい存在やと思う。そこには明確な意図も、体験も、感情もないはずやのに、読者が勝手にそれを読み取ってしまう。「この文の奥には何か深いことがあるはずや」って思い込んでまう。けど実際は、そこにあるのはただの記号の連なり。それでも人間は、そこに意味を見つけようとするし、時には感動すらしてしまう。
要は、AIが書いた評論は、読み手を試してるんやと思う。言葉をどう読むか、どこまで補完できるか、それってもう読者の力量次第。で、そこにあるのが本物の意味やったりするかもしれん。やから、「AIなんて心がこもってへんからダメや」って切り捨てるんやなくて、その空白をどう読むか、そこにどんな物語を自分で見つけられるかっていう、新しい読みの楽しみ方を教えてくれる存在なんかもしれへんな。
画像生成AIが登場して、もう3年ほどになる。時間の流れは早い。
ここ最近、画像生成AIに対する批判の潮流が少しずつ変化してきているように感じている。
登場初期からしばらくの間、いわゆる「反AI」の主張の中心にあったのは、やはり「無断学習」の問題だった。
「インターネット上から許諾なく収集した画像データを学習に用いているのではないか」
「そのようなプロセスで作られた画像は、結局は他者の作品の模倣、パッチワークに過ぎない」
といった主張だ。これが、最も直接的で分かりやすい批判の論点だった。
現在でもこの種の主張は根強く、しばしば目にするところだ。
ただ、最近目立ってきたのは、その論点が微妙に変化している、あるいは主張の重心が移動しているように見えることだ。
例えば、OpenAIのサム・アルトマン氏がChatGPTの画像生成機能で「ジブリ風」の画像を生成し、それが少なからず批判された一件があった。
あの時の批判の多くは、「無断学習そのものが問題だ」という方向性よりも、「『ジブリ』という世界的に確立されたブランドを安易に模倣し、価値を毀損するべきではない」というニュアンスが強かった。
「AIが許諾なく学習すること」自体への批判から、「学習済みのAIを用いて、特定の作家や作品の『個性』や『ブランドイメージ』を侵害するようなアウトプットを行うこと」への批判へと、徐々にシフトしている。
この変化には理由がある。
一つはこれからの社会、「反AI」というスタンスを徹底することが現実的に難しくなっていくという認識が広まりつつあることだ。
画像生成AIについては様々な意見があるとしても文章生成AIであるChatGPTなどはどうだろうか。あれもまた、インターネット上の膨大なテキストデータをクロールし、「無断学習」している。しかしそれを根拠にChatGPTの利用を全面的に否定するには、あまりにも社会に浸透し、その利便性が広く認知されてしまった。
「学習プロセスそのものが悪である」と主張し続けることは、このダブスタに向き合うことを意味する。そうなると、「生成AIは一切利用しない」という厳格な立場を貫くか、「画像生成AIだけは特別である」という無理筋を押し通すかの選択を迫られる。内心ではこのあたりのスタンス変更タイミングを計っていた人も少なくないのかもしれない。
もう一つは、生成AIが登場した直後に見られた、一種のパニック状態がいくらか沈静化してきたことも影響しているだろう。
「AIによって人間の仕事が全て奪われる」「AIアートが文化を破壊する」といった、今振り返ればやや過剰な悲観論が、初期のAI批判の大きな原動力となっていた。
しかし、3年を経て、技術そのものへの理解が広がり、良くも悪くも「AIは結局のところツールの一つに過ぎない」という認識が浸透し始めてきた。神格化や悪魔化の時期が終わりを迎えつつある。
「そのAI技術を用いて、オリジナルの価値を毀損するような『出力』に対しては、社会として断固として向き合い、規制や倫理規範を議論していくべきだ」
という、AIが登場した初期に、むしろAI技術の推進派の一部が提唱していた折衷点に落ち着いていくのではと思う。
結構なことだ。
日出処の天子をリアルタイムで読んでた人って今50代とか60代とかかな
完結から数十年後に読んだが、あの最終回当時はどう受け止められたんだよ
エッ!!!!ヒュエッ!!!!!ってなったわ
全部だめになって誰も救われなくてただ知的障害を持つなにもわからない女児だけが無邪気に笑って終わりじゃん
なんだよこれ、どうしてこんな作品作ったんだよと作者を呪うレベルだよ
推しの子はどうせならこういう悪意の詰まった呪いの物語になってほしかった
時期の近い自殺事件を取り入れたかのような(偶然と主張していたが)センセーショナルが売りで
リアルのゲス話をパッチワークしまくりの作品なのに最後だけぬるっとゆるっと停止してつまんなかった
読者をぶっ壊そうとする悪意が日出処の天子にはあった
美しく賢く血筋の貴い主人公が何度か理解者足り得そうな人に出会うも結局は誰とも結びつけず、身寄りのない知的障害者の女児という最弱の存在を手籠めにすることだけに安らぎを得て
番外編では彼の子どもは母譲りの知的障害者まみれで一部の健常者が非常に苦労するという中盤ぐらいまで読んだ読者の誰もが求めてこない最悪の結末を叩きつけてきた
RedditとかTwitterの米民主党の支持者の発言を見てると大卒みたいな学歴とかリベラル的価値観に対してアイデンティティを持つようになってしまってブルカラーの有権者とか高卒とかの人に対して異常に敵対的になっててこれはあかんなと感じた。元々は白人が黒人にしたことに対しての負い目があって、差別を解消するために説明したり理解を促進するためのある種のフレームワークとして採用したんだろうけど、思考のベースがそういう属性で見ることに凝り固まってしまって自分たち自身が差別主義的になってしまってるのに気づかなかった。
大卒であることが自らのアイデンティティになって、そうではない属性の人は"低能で愚か"みたいな思想が発言から完全に漏れ出してしまってる。
反対に今回のトランプは民主党側がマイノリティと定義するヒスパニック、アジア系、ネイティブアメリカン、地域によっては黒人なんかもトランプ支持をする人が相当数出てた。これは属性ベースで政治を回すんじゃなくて、イシューベース(つまり経済政策とか移民政策とか)で政治を回す方にシフトしてたのでイシューを支持するなら何人だろうがかまわないみたいな環境を作れてた。
トランプ側のロジックでは”お前今俺を差別しただろ!”って揉めても”でもこのイシューには賛成する”っていう事がロジックとして成り立つ。
でもハリス側じゃそれはできない。
シングルイシュー的なやりかたが正解だとは言わない。パッチワーク的になって政策がちぐはぐになる可能性もあるし。
でも政治的結束という面ではやっぱアイデンティティポリティクスは分断を促進して、結束力を弱めると思う。
そういうやり方を推進してきたエリート自身がこの考え方に呑み込まれてしまってもう抜け出せなくなってると思う。
これを変えるのは相当大変だろうな。
以下、グダグダ解説するが読む必要は無い、結論は出てる。議論の余地は無い。
人生の損得を論理的に選択しろ、すると選択の余地は無い、日本から逃げるしか無い。
違う、そうなることがわかっているのに逃げなかったオマエだ。
選挙行くだけで自分は責任を果たし、当選者は国民を幸福にする義務を付託されたと勘違いしてるオマエが悪い。
この国が衰退を続けるのは政治の問題ではない、民主国家なんだから国民に原因がある。
そして根深い。
戦わずして逃げろ、個人の利益が最大になる環境に身を移すことだ。
せいぜい日本国籍の恩恵を受けながら、効率よく利益と幸福を掴め。
きっちり標準治療、日本で莫大な納税と社会保障費を払ってるマヌケと同じ内容の治療。
金銀銅石炭、当時のレアメタルとエネルギーが無尽蔵にとれた、そして人口ボーナス。
第二次世界大戦の敗戦で明治期の資本蓄積はさほど毀損していない。
工業生産力、特に復興困難な重工業はアメリカは復興を見越して攻撃対象にしなかった。
製鉄所高炉は戦後すぐに再稼働していた。
ところが社会制度や法制度は復興を最優先としたため矛盾だらけ筋論を無視したパッチワーク。
つまり、カンフル剤、一時的な救命措置の効果はあるがそれを続けると副作用が出る、いずれ根本治療をしなきゃならない、のだが、日本国民はそれを避けて今まで来た。
ならば病状は進むだけ。
日本衰退の原因をいくら論じても意味がない、どうでもいい、不可避なのは明確だから。
国家国策に従わず戦っても勝てない、抗えない、ならば選択肢は「逃げる」しか無い。
決断と行動は早ければ早いほど利得を得られる。
いつまでも若いと思うな、肉体と精神の柔軟性を保持できると思うな、あめぇよ
あと、日本人の海外移民のハードルは日本衰退と反比例して上がっていく。
日本衰退が本格化しイザとなれば逃げればいい?あめぇよ
今が最後のチャンスだよ
最後に、
じゃぁてめぇはどうなんだ?行動したのか?海外在住なのか?
残念ながら日本で十分に食える所得、地位、能力がある。だから日本で暮らしている。
だが俺もあと30年もすりゃ寿命だ、それまではかろうじて日本にアドバンテージが残っているだろう。
日本の公教育は優秀だよ、バカにするやつが多いが、なぁになぁに、世界最高です。
美味しいところは頂きましょう。
無論、子供の人生は子供が選択するもの、示唆誘導はするが強制はしない。
いずれにせよ子どもたちはいつでも海外に出られる身分とパスポートを持っている、自由度は高い
ここまでしてやりゃ十分だろう
この国はもダメだ
サクッと調べたので間違えてるかもしれんが
会場図面を見ると割と厳しいだろうなぁと
これがかなり食ったんじゃ無かろうか
建ぺい率の食い合いになり、休憩所には屋根はつけられない、みたいな話になったのでは
結局、建築基準法的に屋根のない工作物パーゴラ建築にするしかなく
面白いのは、未着工の海外館、100%建たない、空き地に万博協会がおざなり休憩所を建てるだろうが
建ぺい率に余裕が出たのでこっちは屋根付きになる、エアコン完備、こっちにしか人来ねぇみたいな状況になるだろう。
まぁそんな事はどうでもいい、俺が気に入らないのはデザインに機能美も根拠も無い
石を吊るしてどう命が輝くのか、未来なのか、
本来であれば全体統括のデザインマネージャーが居て、各種のパビリオン、施設、床材の色まで目を光らせ、全体の調和を図る、その指針になるのがイベントのテーマ
ところがそういうものがまったく機能してねぇのよ、それぞれのパビリオンや施設が好き勝手、バラバラのパッチワーク。
さらにそれぞれのデザイナーは万博テーマなんて歯牙にもかけない。無視
ねぇのよ
「めっちゃデカイ石を吊るしたら映えね?凄くね?見たことねぇべ」
助平心が全部透けて見える
万博のテーマに沿ったデザインで来場者の利益を最大に考えたらこんなデザインにならない
なーんも考えてない
んな事は全員わかってる
この作品は主人公とヒロインの関係性を楽しみながら、舞台の上だけに限らない、個性豊かなキャラクターたちのやり取りを楽しむものなのでしょう。現実の歌舞伎とは全然違って、例えば歌舞伎に興味がないのに歌舞伎役者の養子になるとか、古典歌舞伎の公演に演出家がいるとか、分かりやすく現実と違います。だから実際の歌舞伎とは違うものとして読むべきものだと思っています。
「どこかで見たことのある、誰かが演じたもののパッチワーク」という言葉、なかなか歌舞伎の本質を突いた言葉だと思います。2世猿翁の言葉にあるように、歌舞伎の本質は「学ぶはまねる」にあると思います。先人に教わって、その人のやり方をまねるところから始まる。それがあるからか、歌舞伎は故人を含め、誰かに似ていること自体が悪いことではない、珍しい分野だと思います。ほかの演劇分野だと誰かに似ていることってあまりよくないこととされていますが、例えば「吉右衛門に似ている」という言葉は、悪い意味にならない。そういうところが歌舞伎の面白いところだと思うので、「誰かが演じたもののパッチワーク」という言葉はなかなかうまいことを言っていると思いした。
「歌舞伎はなんでもあり」これは本当にその通りだと思います。先日も秀吉の物語を見ていたはずなのに、突然舞台が天界に移って孫悟空の踊りが始まり、本当になんでもありだと改めて思わされました(これがとても良かった)。18世勘三郎の言葉にある通り、「型があるから型破りが出来る」「型が無ければ単なる形無し」という側面もあるので、このあたりも描いてくれたらいいのになあと思っています。
ネット上での連載では三人吉三の上演準備が始まっています。演技へたくそと言われている人がお嬢で、華も人気もある役者がおとせになったら、ファンが公演を盛り上げるどころかなぜお嬢ではないのかと暴動を起こしそうですが、そのあたりがどうまとまるか気になります。お嬢の演技も真冬の作品なのに弁天小僧のように片肌を脱いだ演技になっているので、どんな理由がつくのか楽しみです。個人的な好みを言うとお嬢の特徴的な衣装が絵的に確認できればいいのですが、こういうところは単行本での加筆になるんでしょうか?
現実の高校生くらいの歌舞伎役者さんってまだまだ子供の範疇で、そんなに厳しく演技が下手だとか非難されていない気がします。例外的に小学生の頃から人気が高い人もいますが、ほとんどは名前すらろくに覚えてもらえないまま20代前半を過ごしているのではないでしょうか。高校生なのに演技が下手だの人気がないの、あれこれ言われて、物語だから仕方ないとはいえ、この作品の世界はなかなか厳しいですね。