
はてなキーワード:バンクシーとは
正直、戦争に本気で関心がある人なんて、そう多くないと思う。
なのに、SNSを見るとみんなが「平和を願ってます」「どちらも悪い」みたいなコメントを並べている。
それって、本当は関心があるんじゃなくて、関心がある“感じ”を出してるだけなんじゃないか。
ニュースとして、思想の表明として、嫌いな勢力へのアンチ活動として、
バンクシーが描いた、ミッキーと手を繋いだベトナムの爆撃被害の少女の絵。
あの作品は、戦争の悲劇を娯楽として消費する西側社会への皮肉だった。
まさに浴びせられてる側が“いいね”を押してるようにしか見えない。
戦争を語ることは悪くない。
まさに、その通りの現象が多くの場面で見られます。人間社会ではコンテンツの中身よりコンテキスト(誰が、どの立場で、いつ言ったか)が重視されやすいというバイアスが根強く存在しています。
これは心理学的には「権威バイアス」や「ハロー効果」と呼ばれるもので、知名度や肩書きが発言や作品の価値を左右してしまう現象です。
彼の作品が持つ匿名性、社会風刺の鋭さ、ストリートアートという反主流文化の形式は、単に絵画としての価値というより、バンクシーであることが作品価値の本質になっている。
つまり、作品自体より誰がやったかに注目が集まっているわけです。
この構造を冷静に見ると、評価システム自体が知性よりも群衆心理に依存している面が強いとも言えるでしょう。
https://anond.hatelabo.jp/20250422144401
昨日のクレイジージャーニーで、ヴィンテージTシャツブームの話やってて
あるTシャツ好きがセレブに「これカッコいいよ」とTシャツをあげて、そこから流行ってヴィンテージTシャツが高額になっていったらしいんだけど
その火付け役のTシャツ好きは、ヴィンテージTシャツを「金のかからないアート」だと思っていたのに変に流行らせちゃって責任を感じてるって言ってたんだよね
あれが面白くて
それをセレブ(アーティスト)が「カッコいい」と思って、それを着て、皆が真似しようとして、市場ができて、ヴィンテージTシャツを楽しめなくなっていき、着るものじゃなくて飾るものになっていくみたいなの
おもしろいよね、滑稽と言うか、残念というか
あれ裁断された結果、アート的に意味が付与されて皆喜んでさらに金額が上がったんだよね
これも面白くて
拝金主義にNOを突きつけるバンクシーの絵を高額で買うっていう
その話で行くと、ミレーがさ、落穂ひろいを発表した時ってセレブからは「何農民描いとんねん」て反応だったらしいよね
この時のセレブってたぶん「高尚なものが良い」っていう分かりやすいものだったと思うんだよね
あー何が言いたいのか分からなくなった
フィリップ・ウィルキンソン「まぼろしの奇想建築天才が夢みた不可能な挑戦 (NATIONAL GEOGRAPHIC)」
麦原遼「逆数宇宙」
琴柱遥「枝角の冠」★
榛見あきる「虹霓のかたがわ」
田場狩「秘伝隠岐七番歌合」
高野秀行「謎の独立国家ソマリランド そして海賊国家プントランドと戦国南部ソマリア」
ブライアン・インズ、クリス・マクナブブライアン・インズ、クリス・マクナブ「ビジュアル世界の偽物大全 フェイク・詐欺・捏造の全記録」
「開館20周年記念展/帝国ホテル二代目本館100周年フランク・ロイド・ライト 世界を結ぶ建築」
岸見一郎、古賀史健 「嫌われる勇気自己啓発の源流「アドラー」の教え」
キャスリン・ペトラス、ロス・ペトラス 「人体ヒストリア その「体」が歴史を変えた」
岸見一郎、古賀史健 「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」
下村智恵理「AN-BALANCE:日本非科学紀行 第S5話 鳥は見えるか?」
下村智恵理「天網恢々アルケミー Project #34 黄泉からの手紙」
下村智恵理「天網恢々アルケミー Project #35 旧針金山トンネルの悪霊」
「マリー・ローランサン ―時代をうつす眼」
芝崎みゆき「イースター島不可思議大全:モアイと孤島のミステリー」
五十嵐ジャンヌ「なんで洞窟に壁画を描いたの?―美術のはじまりを探る旅 (13歳からの考古学) 」
タイモン・スクリーチ「大江戸異人往来」
北杜夫「楡家の人びと 第二部」
北杜夫「楡家の人びと 第三部」
何となく東アジアの歴史、特に第二次世界大戦ばかり読んでいる。小説も含めて。
テレビ朝日開局65周年記念『MUCA(ムカ)展 ICONS of UrbanArt ~バンクシーからカウズまで~』
「別冊日経サイエンス ホログラフィック宇宙 時空と重力の起源に迫る」
酉島伝法「隔世遺傳(かくりよいでん)『皆勤の徒』設定資料集」
スティーヴン・バクスター「〈ジーリー・クロニクル①〉プランク・ゼロ」
入江亜季「北北西に曇と往け」七巻
1000decillion「Morals under a pagoda I/II」(同人誌)
1000decillion「Morals under a pagoda III/IV」(同人誌)
「北欧の神秘―ノルウェー・スウェーデン・フィンランドの絵画」
スティーヴン・バクスター「〈ジーリー・クロニクル②〉真空ダイヤグラム」
大村幸弘、篠原千絵「ヒッタイトに魅せられて:考古学者に漫画家が質問!!」★★
スティーブン・キング「スタンド・バイ・ミー 恐怖の四季 秋冬編」
スティーブン・キング「ゴールデン・ボーイ 恐怖の四季 春夏編」
アリク・カーシェンバウム「まじめにエイリアンの姿を想像してみた」
中野京子「怖い絵」
1000decillion「Morals under a pagoda -Kama Sutra-」(同人誌)
1000decillion「Morals under a pagoda -Egypt-」(同人誌)
1000decillion「morals under a pagoda -Greece-」(同人誌)
毎年月ごとの上位三冊を選んでいるが、ある月の四位が別の月の二位を上回って面白いことがある。つまり当たりの多かった月だ。すべての本に対して星の数で評価すべきかもしれない。
「ローリングのトランスジェンダリズムは間違っており差別、
これだけ
バンクシーとかも同じで
世間の声を気にしながら世間に褒めてもらえそうなことをパンク風にやるだけ
アホ向けのパンクスというかパンクがわからないもの向けのパンクス
トランスジェンダリズムは巻き返されつつあるから
そしたらお前やバンクシーみたいなのはローリングの立場を称揚し始めるよ
くっだらねえ
「みんなに褒めてもらえる逸脱」ばっかりやんけ
「みんなからどう思われるか」からしか動き出せないキョロ充パンクなんよ
別の何かを挙げろと言ってる奴がいるから挙げてやると
自国や欧米に吹き荒れるトランスムーブメントに「おかしいやろ」つって
一時は子供のように可愛がってたハリー役ハーマイオニー役のスターからもう公然とディスられて
自分のコンテンツで商売しとる奴等に座組から排除されてエンガチョ状態よ
それで何年も何年も自分の信じること曲げずに言い続けて
近年ついに「「トランスジェンダリズムおかしくねーか?」ってなってきて
再度変節してローリングさん御免なさいって戻ってきたやつ大勢おるけど
そんな奴が離れて行こうが戻ってこようがローリングは動揺を見せねえんだ
俺が言いたいのはトランスジェンダーがいいかわるいかの話じゃねえよ?
自分の心からの信念で世界にぶつかるならそれを恐れないのがパンクスであって
世間から「クール!」 って言われるための議題を選んで安全な反抗や逸脱するのはダサパンクって話よ
写真と同じようなと書きつつ、なぜ新しいモラルを今の延長で考えているんだろう。いや、なぜ今の延長にされなけれならないんだろう。
防潮扉と共に消えるはずだったバンクシー作品らしきネズミの絵がその場から切り離され保存されたのにも似て、写真はその場の文脈から歴史的遺物や建物などの被写体を切り離すし、その唯一性を破壊する。写真や写ったものの大きさが変えられるということは、大きさの持つ意味が失われるということ。ここはかつての作品の意図が壊された後の、写真以前の価値を壊すことを気にもしなくなった時代であるはずだ。
逆に、作者の意図が軽視されない手法や場が見出されて、意図を込めた作品はそこで作られるようになりはするだろう。写真と絵画の関係と同じく、生成AIと絵師の関係でも。
工夫と執念が生み出す作品と作者を愛す、それはそうかもしれない。…観客が望むなら、だけど。
僕は、僕の「特別」に入り込む手口を使い、お金を受け取りながら、法でまだ付与されてもいない権利を不当に主張することで、僕の心から「特別」をもぎ取って穴を開けていった奴を忘れはしない。これが許されるのがモラルであってたまるものか。
少なくとも僕は、作品と作者が必要以上に特別とはされない世の中を望む。作品を拒絶するというのは違う。それは稀少な特別にするということに他ならない。
僕は、作品をただの消耗品として、ありふれた娯楽の1つとして、作者を一般的なただのプロとして、グッズやライブやクラウドファンディングやクリエイター支援サービスなど特別な形での支払いを今後は行わないことを望んでいる。
精密肖像画の価値を基準にすれば、写真は未だに100点ではないはず。写真が肖像画の全てに取って代わったことはない。だけど、家族と撮ったスナップ写真にも、証明写真にも、絵師ではその特別さに取って代われはしない。
「技術の民主化」「AIの民主化」が進むことで同様に、観客自身の手で作られた「特別」がより多く生まれるようになり、政治のポスターデザインも「特別」な作者の影響無しに作られるなど、自身やその属するコミュの中から生まれた「特別」がありふれた選択肢になっていくことが望ましい。
僕にとっての「特別」が無くなることはないけれど、心の「特別」を預けすぎることで作者を替えの効かない横暴の許される才能にさせたくない。それが言葉の元ネタとなったパブコメとは違う意味の、僕にとっての「才能の民主化」になるだろう。
「正当な理由がなければ、道路に寝転んじゃダメ!」って法律だよ。
軽犯罪法第1条第13号によると、道路で寝てると罰せられる可能性があるんだ。
お祭りの後や、飲みすぎて路上で寝てしまう人もいるけど、これ実は法律で禁止されてるんだよ!ちょっと意外だよね。
鉄道営業法第34条では、酔っぱらいすぎて他の乗客に迷惑をかけると、鉄道会社がその人を車両から降ろす権利があるんだ。
酔ってもほどほどにしないと、降ろされても文句言えないんだね。
これは今ではほとんど使われないけど、昔は決闘っていうのが真剣勝負であったんだよね。
刑法第718条によると、決闘に応じたり、それを主催したりした人は罪に問われるんだよ。
時代劇の世界みたいだけど、今でも正式な法律として残っているってのが面白いね。
普通にダメなことだけど、ここがポイント。「正当な理由がなければ」という部分!
だから、もし塀の持ち主から「ここにアートを描いてくれ!」って頼まれたら、法律的にはOKなんだよ。
もちろん、勝手にやったらアウトだけどね!バンクシーならOKかもしれないけど。
公園でパンくずを鳩にあげる人は多いけど、鳥獣保護法では鳩を捕まえるのは違法なんだよ。
鳩は「鳥獣」に含まれていて、勝手に捕まえたり、飼おうとすると罰せられるんだ。
「え、鳩捕まえたくなる人なんている?」って思うかもしれないけど、昔は食べるために捕まえることがあったみたい。
これは要するに「のぞき見禁止」なんだけど、法律でしっかり明記されてる。
どんな理由でも「覗き見」は絶対ダメだけど、正当な理由があれば…例えば、家の外から何か異変に気づいて助けを呼ぶ場合などは別なんだ。
例えば、無許可でラジオ局を開設したり、自分のデバイスから強力な電波を発信すると、電波法に違反するんだよ。
つまり、街中で「ラジオ番組やるぞ!」って気軽にやったらダメ。地味に意外じゃない?
もし自分の飼っている犬がずっと吠え続けて、近隣住民に迷惑をかけた場合、騒音として罰せられる可能性があるんだよ!
可愛いワンちゃんでも、鳴き声がうるさすぎると法律違反になるんだ。
他人の郵便物を開けたら罪になるのは分かるけど、この法律では、例え道に落ちている封筒を拾っても開けちゃダメなんだよ。
バンクシーの「ナパーム弾の少女」withミッキーのツイ見たが,ロリコンとしてこれに意見が一つある.
少し前にどっかが「ナパーム弾の少女」を児ポだとして規制して,それに対して多くの「まっとうな大人達」が抗議してたわけだが,僕はそれこそが児童ポルノに対する本質的なエゴやと思う.
僕のようなペドにとって,そもそも「ナパーム弾の少女」はかなり魅力的や.つまり低俗な言い方をすれば抜ける.
あれ一番有名なのは真正面から遠目に撮った写真だが,実は他にも何種類かあり,中には全裸のロリに大分近づいた,それこそ割れ目とかもくっきり見えるほど近づいたものもある.
正直エロい.
なので僕はこの話題に対して理性的に論じるなら,当然「ナパーム弾の少女」はネットから抹消されるべきやろう.ほかの児ポがそうなっているように.
ただそうはなっていない,ただ報道写真として価値があると言うだけで.
具体的な名前はださんが,エロさよりもその芸術性が高い作品はいくらでもある.
もう一つは児童を性欲の対象として見る風潮,つまりは社会的法益
なるほど確かに「ナパーム弾の少女」は「善良な人たち」にとって児童を性欲の対象として見ることにはつながらないだろう.たぶん.あいにく僕はそのような人たちでは無いから推測にしかならないが.
しかし本邦においては児ポの要件に実在性をおいている,つまり僕がcomicloを持っていても逮捕されないことからもわかるように,児童ポルノ規制は対象児童の個人的法益の保護を重視しているのは自明だろう(無論法規制はより複雑なプロセスを経ていることを前提にして)
では,「ナパーム弾の少女」は他の児童ポルノとは違い被写体を保護していると言えるのか.否だ
ベトナムで,戦禍に見舞われ,命からがら逃げている写真を,先進国の人々が何十年にエアコンの下でネットサーフィンをしながら見ている現状は,とうてい彼女を保護しているとは思えない
彼女に写真に撮られない選択肢がなかったとは思えない.そもそもそんな判断すら出来なかっただろう.
女性の写真家に,自由意志(未熟者に自由意志がないといえばそれまでだが)で,十分な対価をもらってヌードを提供し成立した児童ポルノより,「ナパーム弾の少女」が健全だとは到底思えない
結局のところ,「ナパーム弾の少女」は「高尚」だから存在を許されているに過ぎない.
高尚だから,「善良な人たち」はそれを性欲の対象としないから.
ただ自分たちが善良で清廉で正常であるために,「低俗」な児童ポルノは規制し,「高尚」なものは残す.
その気が無くともついつい道行くこどもを視姦して,あわよくばロリとがっちゃんこすることを望んでるのだから.
ただ,異常者の一人として,「善良な人たち」にたいしてとても腹が立った