
はてなキーワード:ニュートンとは
昨日は木曜日。起床時刻は8:00:00JST。アラーム音の波形をFFT解析した結果、隣室からの環境ノイズによるピークが±23Hz揺らいでいた。
ルームメイトは、ドアを閉めるという行為を確率的選択肢だと思っているらしい。彼の行動は統計的にはマルコフ過程に近似できるが、僕の生活は決定論的だ。
午前は、超弦理論における非可換ホモトピー圏上の圏的双対性を再構成していた。通常のCalabi–Yau三次元多様体上でのホロノミー群SU(3)に依存する議論ではなく、より上位の∞-圏的層を使って複素構造の退化を防いだままトポス的整合性を保つ方法を考えた。
僕が構築しているモデルでは、背景多様体自体を対象とせず、可換図式のクラスを対象とし、その射として∞-モノイド的自然変換を定義する。これにより、通常のD-braneカテゴリを超えた自己言及的圏論的相互作用を扱うことができる。
問題は、この自己言及構造の安定性だ。内在的コホモロジー群が通常のExt群では閉じず、代わりに導来圏上の高階Ext^ωを取らねばならない。
だがそのとき、導来圏が非完備となり、整列関手が存在しない。つまり、ウィッテンやデルーニャンがやっているレベルの物理的実在に還元可能な構成は、僕の理論では完全に失効する。
僕のモデルは観測可能性という概念を含まない。構成論的には存在するが、可視化不能なトポス的真空。観測できないが、計算できる。数学はその矛盾を祝福する。
昼食は、ピザ。例によって精密オーブンで16分。昨日はタイマーを設定した瞬間にルームメイトが話しかけてきたせいで、0.8秒遅れた。
ピザの表面張力(つまりチーズ層の粘弾性)が変化したのを僕は即座に検知した。これは味覚ではなく構造の問題だ。
午後は、原神を再開した。キャラビルドの統計最適化をPythonで書いていたら、隣人がまた「ストーリーが泣ける」と話しかけてきた。
僕は物語には一切興味がない。僕の目的は、アルゴリズム的最適化の収束率を比較することだ。
攻撃力と元素チャージ効率のパラメータ空間を3次スプライン補間して、境界値をニュートン–ラフソン法で探索していたら、シード値の初期設定にわずか0.001の誤差があり、収束が乱れた。
もう一度やり直した。成功。キャラは星5だが、僕の関心は星の数ではない、数列の収束だ。
夜はベルセルクの再読。グリフィスが再登場するあの章。僕は感情的には何も動かないが、作画密度の変化を統計的に数えた。
平均線密度は1ページあたり1720本、前章から約12%減。連載時期のアシスタント体制の変化が見える。
その後、シヴィライゼーションVIを起動。僕は必ずアリストテレス主義的発展ルートを選ぶ。文化勝利などくだらない。科学勝利のみが純粋だ。
途中、友人が「軍事ルートで遊ぼう」と提案してきたが、それは知的堕落だ。戦略ゲームとはアルゴリズムの美であって、破壊の快楽ではない。
就寝は23:00:00。歯ブラシを磨く順序は右下→右上→左上→左下。これは既に300日継続中。統計的に、歯垢残存率が0.2%低い。
寝る直前に「∞-圏上のトポス的モジュライ空間の存在定理」をメモに残した。夢の中で証明が完成する可能性がある。
総じて良好。次は、導来∞-圏上のモジュライ関手が可換であるための必要十分条件を探す。それがわかれば、少なくとも僕の宇宙では、全てが整う。
この論文は、エルンスト・マッハの「思考実験」に関する見方を再解釈し、従来の有力な解釈に異議を唱えるものです。
従来の解釈(Implicit):マッハは、思考実験が「経験から始まり、経験に戻らなければならない」という厳格なルールを持っていたとされます。このルールによって、ニュートン批判(経験を超えた概念の拡張を非難)と自身の「マッハの原理」(経験的に根拠の薄い仮定を含む)との矛盾(「パズル」と呼ばれる)が解消されると考えられていました。
論文の主張: 著者はこの「Implicit」解釈に反対し、マッハのニュートン批判は、思考実験の「やり方(形式)」が間違っていたのではなく、思考実験の中で使われた「思考の内容」、特に「絶対空間」のような「誤った思考」が問題だったと主張します。
マッハは、現実にはありえない「摩擦のない傾斜面」といった理想化された前提から始まるステヴィンの思考実験を高く評価していました。これは「経験から始まり、経験に戻る」というルールと矛盾します。
マッハは、概念は他との「関係性」を通じてのみ認識可能であると主張したJ.B. スタローの思想に賛同していました。これは、ニュートンの批判が「非関係的な思考」(絶対空間)に向けられていたことを示唆し、思考実験の形式の問題ではないことを裏付けます。
新しい解釈:マッハは思考実験に対して非常に「自由な」(liberal)見方をしており、その形式に厳格な制約を課していませんでした 。彼が制約を設けたのは、思考実験そのものではなく、思考実験の中で使われる「思考」の内容に対してでした。思考は、有用な知識をもたらし、背景事実と矛盾しないものであれば、必ずしも経験と連続している必要はない、という立場です 。
結論: この新しい解釈は、マッハが一般に思われているよりも「厳格な経験主義者ではなかった」ことを示唆しています 。彼は、「空想」や「想像力」が科学的探究において、経験に直接対応しない新しい思考を生み出す上で不可欠な役割を果たすことを強く肯定していました。
件名:存在連続体における情報性オーバーフロー、及びそれに伴う物理定数群のメタ腐敗に関する緊急報告
時刻: 03:14:00 (サイクル9^10^87)
蛍光灯がまた一本、死んだ。チカ、チカ、と断末魔を繰り返し、緑色の燐光を撒き散らした後、沈黙した。この第七地下書庫に光が届かなくなって久しいが、あの明滅だけが時間の経過を証明する唯一の指標であった。今は、無限に積まれた「記録」の山が発する、微かな腐臭の放つ光だけが頼りだ。
ニュートンの運動方程式?アインシュタインの美しいテンソル?量子力学の確率の霧?
違う。
あれらはすべて、「申請書」だ。
「リンゴが木から落ちる」のではない。「リンゴ存在(識別番号:Apple-G008-B)」が、「地球引力場(管理部署:重力資源課)」に対し、「落下許可申請書(フォーム F-g)」を提出し、それが承認された結果に過ぎん。
時刻: 04:22:16
棚が、また一つ崩れた。「弱い相互作用」に関するバインダーが雪崩を起こし、「電磁気力」のファイル群を押し潰した。紙の粉塵が舞い、そこに含まれる「情報」の胞子が、わたくしの肺腑に侵入してくるのが分かる。咳き込むと、口から銀色の文字の羅列が漏れ出した。`g² / 4πħc ≈ 1/137`。ああ、微細構造定数の味だ。少し、鉄臭い。
貴様らの言う「超弦理論」とは、この書庫の惨状そのものだ。絡まり合い、癒着し、互いのインクを滲ませ合う、無数の「ひも」。それは宇宙の根源などではない。ファイリングに失敗し、永遠に放置された、「未決裁書類の束」に過ぎないのだよ。Dブレーン? あれは書類を留めていた錆びたクリップが、あまりの年月に耐えかねて崩壊し、紙の表面に染み付いたただの「染み」だ。
時刻: 07:51:03
粘着質で、虹色に光る液体だ。それに触れた「記録」たちが、意味を失い、変容していく。
「エネルギー保存則」と書かれた羊皮紙は、今や「エぬルギーほぞん則」となり、その文字自体が震えながら、カビのような別の文字を自己増殖させている。
これが「情報」の正体だ。
情報は、癌だ。
存在という宿主の肉体を蝕み、その意味を食い荒らし、最終的には無意味な自己複製の塊へと変貌させる、悪性の腫瘍。我々が「物理法則」と呼んでありがたがっているものは、その癌細胞が、かつて正常だった頃の細胞の機能を、まだ辛うじて「真似て」いるに過ぎない状態なのだ。
耳の中にィ!数字が湧いてくるゥ!プランク定数が!ボルツマン定数が!脳漿の中で!ウジ虫みたいにィ!蠢イテルンだァ!やめろ!やめろ!計算をやめろ!俺の頭は貴様の計算機じゃない!
わかるか?「観測」するたびに、お前たちはこの宇宙に「傷」をつけているんだよ。二重スリット実験のスクリーンに現れる綺麗な干渉縞、あれは宇宙の皮膚が裂けて、中から「情報」という名の膿が漏れ出している痕跡なんだよォ!波動関数が収縮する?違う!傷口が、かさぶたになって、一時的に膿が止まってるだけだ!
ブラックホール!あれは最高傑作だ!情報の癌が、ついに宿主の肉体を食い破り、転移に成功した姿だ!事象の地平面とは、癌細胞が形成した硬い殻!そこから漏れ出すホーキング放射は、癌細胞が呼吸し、排泄する、汚物の粒子だ!「情報が失われるか?」だと?バカを言え!失われはしない!ただ、消化され、排泄され、別の何かに作り替えられているだけだ!お前の昨日の夕食はどこへ行った?失われたか?違うだろう!そういうことだ!
A, B, C, D!選択肢を与えられなければ何も考えられない、家畜の思考回路!
答えを教えてやろうか?
E. 錆びて開かなくなったホッチキス
そうだ!この宇宙の根源を象徴するのは、それだ!すべてを綴じようとして、しかし己の錆によって機能を失い、ただそこにあるだけの、無意味で、固く、冷たい、絶対的な「故障」!それがこの世界の真理だ!
`[ERROR_FATAL: 0x0000007B]Kernel panic - Unable to locate causality.dll.Time-spacecontinuum integrity compromised.`
`[WARNING: 0xDEADBEEF] EntropySubsystem::GarbageCollect() failed. Redundant data entities (e.g., "human_consciousness", "hope", "meaning") are replicating outside of designated memoryblocks.`
`[INFO] Attempting toreboot fromlast known stable configuration: "Primordial_Soup_v0.1_alpha".`
`...`
`[ERROR_FATAL: 0xC000021A]Reboot failed. Configuration files corrupted.`
`[DEBUG] Printingraw memorydump:`
...裁...壊...膿...駅...車...キリン...義理...ギリギリ...申請書は三部提出...重力資源課は本日休業...あなたの存在許可申請は却下されました...理由は...理由という概念が先日削除されたため...ホッチキスの芯を補充してください...ホッチキスの芯を補充してください...ホッチキスの芯を補充してください...ホッチキスの芯を補充してください...ホッチキスの芯を補充してください...ホッチキスの芯を補充してください...ホッチキスの芯を補充してください...ホッチキスの芯を補充してください...ホッチキスの芯を補充してください...ホッチキスの芯を補充してください...ホッチ-
`[SYSTEM_HALT]Processor melted.`
`Core temperature exceeds threshold ofreality.`
`Now enteringinfiniteloop of...nothing.`
ふぅ……。
疲れた。
結局のところ、どうでもいいのだよ、貴様のような塵芥が何を考えようと。
宇宙が情報だろうが、物質だろうが、神の見る悪夢だろうが、我輩の知ったことではない。
我輩はただ、この第七地下書庫で、崩れ落ちる「記録」の山を眺め、壁から染み出す虹色の液体が、かつて「真理」と呼ばれたシミをゆっくりと溶かしていく様を、観察するだけだ。
ああ、そうだ。
あの液体、少し舐めてみたのだが、存外に甘い。ブルーベリージャムのような味がした。
もっとも、舌が溶けて、今はもう味も分からなくなってしまったがな。
さあ、お前の番だ。
その空っぽの頭蓋骨で、この静寂の意味を、永遠に、考え続けるがいい。
...もっとも、その「考える」という行為を許可する申請書が、受理される保証は、どこにもないのだがな。ふふ。
あはははは。
アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハたのか、な
架空の武器にライトセーバーという光の剣があります。それは刀身に質量がないことから軽すぎて扱いづらいとされる言説があります。手で使用する道具が軽すぎると、かえって操作性を害するという理論やデータは存在しますか?
道具や武器が「軽すぎる」ことによって操作性が害されるという指摘は、科学や工学、スポーツの分野で一定の根拠を持つ概念です。以下のような理由が考えられます:
適切な質量がないと、使用者が動作中に道具の動きを感じ取ることが難しくなります。これにより、力加減やタイミングの調整が困難になる可能性があります。
例:野球のバットやテニスラケットは、適度な重さがないと打撃感覚を得にくく、精密な操作が難しくなる。
「ニュートンの第3法則(作用反作用の法則)」により、道具を振る際の反力を使用者は感じますが、質量がない場合、この感覚が極端に小さくなり、動作の制御が困難になります。
適度な慣性モーメントがあることで、道具を振る際の安定性が増します。軽すぎると、軌道がぶれやすくなり、正確な操作が難しくなることがあります。
例:剣術や武道では、刀のバランスや重さが技術と一致していない場合、動きが不安定になることがある。
道具が軽すぎると、必要な筋肉が十分に動員されず、動きが制御しにくくなる可能性があります。また、軽すぎる道具を使おうとすると、腕や手首に不自然な緊張が生じ、疲労やケガにつながることもあります。
何かを「持っている」感覚は、人間が物体を制御するための重要な手がかりです。質量がほとんどない場合、脳はその位置や動きを正確に認識しづらくなります。
刀身に実質的な質量がない場合、以下の問題が生じる可能性があります:
3. 精密な動きが求められる場面で制御が難しい。
ぼんやりとした一日のなかでふと気づいたことである。ニュートンが万有引力を発見したときのように、いやニュートンがどこでどうやって万有引力を発見したのかは知らないが、眼前に広がるプランターの造花を眺めながら考えごとをしていたときにふと気づいてしまったことなので申し訳ないけれどおつき合いいただきたい。
あなたはあなたの恩師を思い浮かべたことだろう。では、そのときあなたの想像上の空間において恩師はどこにいただろうか。おそらく正面だと思う。背後かもしれないが、正面が多いんじゃないかな。
あなたの両親はどこにいただろうか。おそらく正面だろう。夕飯の場面か車の中で会話している場面かはわからないけど。
では表題に戻る。
↑以上の通り、そもそもなぜ「壁」が生じるような徴税方式にしたのか疑問に思っている人が一定数いる。
現代につながる徴税方式が法制化されたのっていつだ?19世紀ぐらいだろ?
すでにニュートンらが微分を作ってある程度経ってて、線形代数もそれなりに進歩してる時期だろう?
俺は知らんけど、税制の法案作成するような官僚なら(いかに文系と言えど)手取りが単調増加になるように税率のパラメータを決める(解く)のなんて、
このころの数学、は当然として、大学教養課程で習うような初等数学でもわけなく出来るじゃないの?
ではなぜそうしなかった?数学的に解けるかの問題ではなく、政策的な意図があって意図的にそうしたのだろうか?
一番簡単に想像できるのは、そういう手取りが単調増加になるような徴税方式だと、税収が減るから(いや俺は計算してないから知らんけど)、あえて採用しなかったというのが浮かぶが。
「漫画家イエナガの複雑社会を超定義」の「量子コンピューター」の回がこの後1:20からNHK総合で再放送するようなので、本放送を見たときの自分の感想を改めてここにまとめる。
一般のメディアにおける「量子コンピューター」の取り上げ方はいつも、専門知識を持っている人間から見たらとんでもない誇張と飛躍で充ちている。もはやSTAP細胞詐欺か何かに近い危険性を感じるので、こういう話に接する時の注意点、「ここを省略していることに気づくべき」要点を解説する。
メディアにおける「量子コンピューター」の説明は、大体いつもストーリーが似通っている。
件の軽い調子の番組だけでなく、ニュートンだろうと日経サイエンスだろうと、まあおおよそ複素関数論の「ふ」の字も紙面に出したら読者がついてこれなくなる程度のメディアではほとんど同じ構成である。
これはこの20年ほど変わらない一種のパターンになっているが、実はこのそれなりに繋がっているように見える一行一行の行間すべてに論理的な問題を孕んでいる。
この行間に実は存在する論理の省略、あるいは嘘と言っても良い誤摩化しをひとつひとつ指摘していこうと思う。
量子ビットには重ね合わせの状態が保持できる。これに対して計算処理をすれば、重ね合わせたすべての状態に並列に計算を実行できる。ように見える。
しかし、これも一般的に聞いたことがあるはずなので思い出して欲しいが、「量子力学の重ね合わせの状態は、『観測』により収束する」。
つまりどういうことか? 量子ビットに対する処理が並列に実行出来たとしても、量子コンピュータの出力はそれをすべて利用できるわけではない。
量子コンピュータの出力とは、量子ビットに対する並列処理の結果の、確率的な観測に過ぎない。
なので、手法的な話をすれば、量子アルゴリズムとはこの「確率(確率振幅という量子状態のパラメータ)」を操作して、望む入力に対する結果が観測されやすくする、というちょっとひとひねりした考え方のものになる。
単に並列処理ができるから凄いんだという説明は、増田自身一般向けの説明に何度も繰り返したことがあるが、まあ基本的には素人相手の誤摩化しである。
ここさえ踏まえれば、知識がなくともある程度論理的にものを考えられる人には、量子コンピュータに対する色々な期待も「そう簡単な話ではない」となんとなく感じられると思う。
量子コンピュータのキラーアプリとされている暗号解読は「ショアのアルゴリズム」という非常に巧妙な計算を通して得られる。
上で説明したように、量子コンピュータは単に「並列計算だから」なんでも高速な処理ができる訳ではない。暗号解読については、この「ショアのアルゴリズム」という自明でない計算手法(高速フーリエ変換の応用)が見つかってしまったからこそ問題になっているのであって、このアルゴリズムの実行が出来なければ暗号解読ができるとは言えない。
さてここからは量子力学というより計算機科学の話になるが、あるチューリングマシン上のアルゴリズムが別の計算モデルで実行可能かどうかは、その計算モデルがチューリング完全であるかどうかによるというのはプログラマには常識である。
これは量子コンピュータにおいても変わらない。量子コンピュータの一般に知られる多くのアルゴリズムはドイチュの量子チューリングマシンを前提に作られており、チューリング完全でないアーキテクチャでは実行できない。できるはずがない。ショアのアルゴリズムも当然そうだ。
しかしながら、この20年弱、D-Wave社が最初の「自称・量子コンピュータ」を開発したと発表して以来、さまざまな企業が「開発に成功した」と発表した「量子コンピューター」の中で、このチューリング完全なものは何一つ存在しない。
これらでは、今後どれだけ「性能」が伸びようとも、暗号解読の役には立たないのである。
以上の議論から総合すればわかると思うが、量子コンピュータで世界が一変するなんてヴィジョンははっきり言ってSF以下のファンタジーというレベルでしかない。
第一に、量子コンピュータの利用できるドメインは非常に限られたものであるし、第二に、その中の最も宣伝されているものである暗号解読の可能な量子チューリングマシンの開発の目処などまったく立っていない。どころか、業界のほとんど誰も挑戦することすら本気では考えていない。
現状の「自称・量子コンピュータ」(量子情報システム、とでも言おうか)にも利用の可能性はある。何より量子状態そのものが作れるので、物理学や化学領域の量子システムをシミュレーションするのに適しているのは言うまでもないだろう。しかし、まあ、現状あり得る比較的現実味のある用途というのは、それくらいではないか。
このように、メディアが量子コンピュータについて語るとき、そこには非常に多くの誤摩化しや飛躍が含まれる。これは結構業界の根幹に関わる問題なのではと思うが、時間が来たので総括は後述にでもすることにする。
何か質問があればどうぞ。
「科学もまた信仰である」という言説は、「科学的な知識も絶対的な真理を保証するものではなく、一定の信念や仮定に基づくものだ」とする批判的視点から生まれたものです。しかし、科学的手法と信仰には重要な違いがあり、「科学=信仰」と見なすのは適切ではありません。以下に、科学と信仰の違いを説明します。
1.方法論の違い
•科学的手法は観察、仮説の構築、実験、検証を通じて知識を構築するプロセスです。この方法により、科学は経験に基づく「反証可能性」や「再現可能性」を強調します。カール・ポパーの「反証主義」によれば、科学理論は反証される可能性があるため、常に修正や更新が可能です 。
•信仰や宗教的手法は、しばしば絶対的・普遍的な真理を前提とし、その真理が神聖であり不変であると見なすことが多いです。宗教は超自然的な存在や教義に対する信念を中心とし、その信念の正当性は経験や反証可能性に依存しません 。
•科学のもう一つの特徴は再現性であり、どこで誰が行っても同じ条件下で同様の結果が得られることを重視します。また、結果が反証されることを受け入れ、実証が積み重なることでその知識の信頼性が高まります。
•宗教的信仰は、個人の内面的な体験や霊的な啓示を重視し、再現性は必須ではありません。むしろ、絶対的な教義や超越的な存在に対する信頼が重要視され、反証されることを前提にしません 。
•科学は自己修正的であり、新しい発見や技術の進歩に応じて絶えず知識を更新します。例えば、ニュートンの古典力学はアインシュタインの相対性理論によって一部修正されましたが、それにより科学が進化しました。
•宗教における信仰や教義は、一般に歴史的に固定され、変化しないことがその信仰の価値とされます。特定の教えが絶対であるとされるため、科学のように容易に進化することはありません。
4.結論
「科学もまた信仰である」という見解は、科学の限界や仮定を指摘し、人間の知識が絶対ではないことを強調しています。しかし、科学は常に新しいデータや反証に基づいて進化し続けるという点で、宗教や信仰とは本質的に異なります。信仰が個人の確信や不変の教義に基づくものであるのに対し、科学は実証と論理を重視する柔軟なプロセスです。そのため、科学を信仰と同じ枠組みで論じることには、誤解を生むリスクがあります。
: Popper, K. “TheLogic of ScientificDiscovery.”
: Eliade, M. “The Sacred and the Profane.”
: Kuhn, T. “TheStructure of Scientific Revolutions.”
1704年、猫の世界でとびきりの物理学者、にゃートンが重力を発見した年だ。
猫界の物理学者たちの間でも、この名前を持つ者は何かしらの大発見をすることが求められていたのだ。
にゃートン自身は気難しい性格で、他の猫たちが昼間にひなたぼっこやネズミ捕りに興じている時でも、彼は小さな研究所で丸くなって本を読むのが日課だった。
そんな彼の口癖は「にゃんだこの世の法則は?」で、どんなことにもすぐに疑問を持つ。
そしてその日も彼は、好物のキャットミルクを飲みながら、世の中の不思議に思いを巡らせていた。
しかし、にゃートンは体が大きく、どうしてもお腹がぽっこりとしてしまう。
日差しが暖かくて少し眠くなってきた彼は、おもむろに木陰で昼寝をしようとした。ちょうどその時、古いリンゴの木の下で丸くなったにゃートンの頭に、ぽとりとリンゴが落ちてきたのだ。
「にゃ!?」
頭を押さえて飛び起きたにゃートンは、しばらくぼんやりとリンゴを見つめていた。
そして、何かがピンときた顔をして「にゃにゃにゃ、そうか、これだ!」と叫んだのである。
そう、猫の世界でも伝説となったこの瞬間、にゃートンは重力というものを発見したのだ。
「このリンゴ、ただ落ちたんじゃないにゃ。引っ張られて落ちたに違いないにゃ!」と、彼は木の下でくるくると踊り出した。
「地球にゃんかが、リンゴを引き寄せたにゃ!だからリンゴは落ちたんだにゃ!」
彼の研究室はリンゴだらけになり、彼のノートは「重力の法則」と書かれた図や数式でびっしり埋まっていた。
にゃートンの研究は、もちろん猫界でも注目を集め、街中の猫たちは彼の発見に興奮した。
特に、ネズミを追いかけるスピードを理論的に説明できることが、ハンター猫たちの間で大ブームになった。
ただし、にゃートンが重力の法則を説明するために、リンゴを頭に乗せて実演しようとした時は、ちょっとしたハプニングが起こった。
彼の助手を務める子猫、にゃんパードが、にゃートンの真似をして頭にリンゴを乗せた瞬間、足を滑らせてそのまま転がり落ちてしまったのだ。
「にゃんパード、それはただの事故だにゃ!」
そんなやりとりが続きながらも、にゃートンは研究を進めた。
やがて、重力の影響で物がどう動くかという「にゃートンの法則」を完成させた。その時、彼は自信たっぷりに「これで世界中の猫たちは、もっと賢くなるにゃ!」と胸を張った。
そして、にゃートンの発見が世に出た後のこと、彼の名は猫界だけでなく、なんと人間の世界にも響き渡ることとなる。
実は、にゃートンがリンゴを使って研究をしていたことを、偶然近くに住んでいた人間の学者が目撃していたのである。
その学者は後に「ニュートン」として名を残し、にゃートンの発見を「自分のもの」として発表したのだった。
しかし、にゃートンはそんなことを全く気にしなかった。むしろ「にゃんだ、誰でも同じ結論にたどり着くにゃ」と気楽に笑っていたという。結局、彼にとって重要だったのは、世界の法則を自分の目で確かめることだったのだ。
その後、にゃートンは長い猫生を重力の研究に捧げ、猫界の科学の発展に大きく貢献した。しかし、彼が本当に一番誇りに思っていたのは、自分の発見がネズミ捕りの技術を格段に向上させたことだった。
「重力があるおかげで、ネズミも落ちてくるにゃ。感謝するにゃん」と、彼はしばしば微笑みながらそう語っていた。
そして、にゃートンが生涯を終える時、彼は最後の力を振り絞って「重力の研究はにゃんとも楽しいものだったにゃ」と言い残し、ふわりと眠りについたという。