
はてなキーワード:ナイナイとは
めんどくさ。
そんなことよりハリケーン災害の時にトランプ支持者の家は見捨てろと指示した方が1000倍くらいやばいと思うわ
トランプ支持を表明してたら災害時に見捨てられる可能性があるんだから
B:議会襲撃もハリケーン災害の時にトランプ支持者の家は見捨てろと指示した人間(米連邦緊急事態管理庁(FEMA)の女性職員)がいたこともどちらもやばく、民主主義の危機であることには変わりないけどな。
A:議会襲撃なんてデモの一部が暴徒化しただけだろ場所が議会だったらやばいのかよデモの一部が暴徒化なんてどこでもやってる
選挙結果の認定プロセスそのものを暴力で阻止しようとしたことが、民主主義という制度そのものを脅かしかねない大問題なの。
選挙結果が気に食わなかったら議会襲撃して選挙結果をナイナイすればいいなんて認めたら、民主主義が成り立たないことは小学生でも理解できると思うけど、増田ちゃんはそうじゃないみたいね。
逆にトランプ支持者は日々差別され、隠れトランプという支持を表明したら差別されると考える人間をうみ、表現の自由を制限されてたわけ
そして、これがトランプ支持者見殺し指示という現実もあって命に関わるレベルの事態なことが判明した
後者で選挙結果が覆る可能性はすくなくとも議会襲撃(笑)よりは圧倒的に高い
A.
##1月6日の連邦議会襲撃について両方の主張を検証した結果、以下の評価を行います:
Aの主張(「たかだか議会襲撃」「デモの一部が暴徒化しただけ」)は重要な点を見落としています。この事件は:
- 選挙認定プロセスを暴力で阻止しようとした行為であり、単なる暴動とは性質が異なります
- FBI が国内テロ行為として分類し、約140名の警察官が負傷した深刻な事件です
- 少なくとも7名が死亡し、140名以上の警察官が負傷した重大な暴力事件です
Aの「選挙結果が変更される可能性は1%もない」という主張は結果論であり、民主的プロセスへの暴力的介入という行為の重大性を軽視しています。
Bの主張により妥当性があります。**
1. **事実認識の正確性**: Bは両方の事件を重大視する一方、Aは1月6日事件を過小評価しています
2. **民主主義への影響**:選挙認定プロセスへの暴力的介入は、実際に成功する可能性の有無に関わらず、民主的制度への根本的な脅威です
3. **比較の妥当性**: 両方とも深刻な問題ですが、Aの「FEMA問題の方が1000倍やばい」という比較は、組織的な政治的暴力と個人職員の不適切行為を同列に扱っており、適切ではありません
4. **責任の所在**:FEMA問題は組織が迅速に対処し職員を解雇したのに対し、1月6日事件は政治指導者レベルでの扇動があったとされています
Bが指摘するように、どちらも民主主義の健全性に関わる問題ですが、その規模、性質、制度への影響を考慮すると、Aの相対化は適切ではありません。
表現規制に関する議論で「自殺すれば殺されずに済む」理論を唱える連中が多くてマジで辟易する。
「過激な」水着やポーズもNG 県営公園での水着撮影会新ルール公表:朝日新聞デジタル のブクマ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/ASS356S3FS35UTNB00G.html
規制の不在や曖昧さをタテに「自由に」やった結果がコレ。オレは「規制派」だが、これは最悪に近い落としどころと思う。行政の介入の口実を与えただけだ。こういう事態を避けるために自主的な規制は行うべきなのよ。
典型的な、「自由」より「行政に介入されないこと」の方が重要だと言っている例。
群馬の森の朝鮮人追悼碑も、自主的に撤去していれば、行政の介入(代執行)は無かっただろうね。
単なる偏見。
この件で得られたのは公共施設でバカがチキンレースやると行政が無駄なルールを作らなければいけなくなる、という当たり前かつ不毛な教訓。なぜ過激なのがダメなのか説明しろやって人らが他者の自由を奪ってる。
そうだね、各地の公共施設で行われ、自治体の冠付けが行われてきた反戦、平和、歴史認識問題に関する催し物について、行政がルールを作って排除するようにしてきましたけど、素晴らしいことなんでしょうね。
表自界隈が毎度の如く暴走した結果、アホな規制を呼び込んでしまった例がまたひとつ。暴走族が二輪通行規制を呼び込むのと同じ。
黙ってたら、単に排除されて終わりでしたね。
日本共産党が破防法(規則)に基づき監視されているのは、日本共産党が悪いってことですね。
そうだね、ちゃんと社会の暗黙のルールに逆らわずに生きてくださいね。
左翼が騒ぐから、警察が細かいルール決めざるを得なかったんですね。
自由を「俺らのやり放題」と曲解すると首を絞めるという話。社会性に欠ける表自戦士は他者の存在という観念がないので公共を私物視する。逆に他者の政治主張を排除したがるのも公共空間を私物と勘違いしているから。
そりゃ、最初から水着撮影会なんかやらなければ規制もされないですけど、それって意味あるんですか?
あと、公共において、一方の自由を「私物視」として、別の一方の「政治主張」をたれ流すことはそうではないとするのは、非常に恣意的ですね。
社会的調整の領域でコンセンサスを取る努力をしないで「禁止されてること以外は全て自由だ」というスタンスで好き勝手やってると、結局その中間領域もどんどん統制側がコントロールするようになるのよね
正義や道徳を笠に着て、政治的圧力をかけてくる民主集中制の連中は交渉不可能でしょ? こっちが譲歩したら許すの? そんなわけないでしょ?
「コンセンサスを取る」って、人民裁判でコンセンサスを取るのは屈従しかないですからね。まだ、行政のルールのほうがなんぼかマシでしょ。役人は憲法擁護義務があるし、変なことをすれば裁判で負けるからね。
良識に照らせば判断できるものをバカの振りしてナイナイしてきた馬鹿どもがこういうルールを呼び込む。馬鹿は表現の敵でしかない。
なるほど、良識に照らせば、慰安婦などの歴史認識問題についての展覧会については判断できるでしょうね。(なんせ、各地で排除されてきてますからね)
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