
はてなキーワード:トナカイとは
さっきさ、なんでもない感じで車を運転してたんだよ。
そしたらさ、交差点のとこ曲がった瞬間──「バコンッ!!」ってすごい音。
何が起きたか一瞬わからなくて、慌ててブレーキ踏んで車停めた。
外に出て見てみたら、誰かが倒れてる。
近づいてみたら……弱者男性だった。
うっそでしょ。こんなとこにも出んのかよ。
車の前部分、けっこうへこんでてさ。
これ修理に出したら、アボカド50個は買えないなって思った。
保険、降りるかな……いや、ていうか俺悪くないよな?
「うわー、やっちまった」とか思ってたら、
ピキピキッ……って音がして、体が勝手に動き始めた。
骨がグニャグニャ戻って、傷もスーッと消えてくの。
と思ってたら、
「ギュイイイイイイン……」って音がして、空間が歪んだ。
時間巻き戻してるような視界になって、気づいたらそいつが立ち上がってて。
爽やかに言いながらポストイット差し出してきた。いやそれ連絡先?何?
で、次の瞬間──
ビュババババ!!
……はあ!?いやいやいや。
生きてるんなら修理費置いてけよ。置き手紙でもいいよ。マグロでもいい。
ほんと、こういうところなんだよなって思った。
俺たちは氷の中で生まれた。
狩りの最中に仲間の耳が凍り落ちるのは日常茶飯事だったし、マンモスの肉が腐る前に食べきれなければ、次の食料まで飢えるしかなかった。
寒さに負けて死んだ子どもを数えたらキリがない。
それでも、俺たちは生きた。
最近「氷河期世代への支援」とか言ってるのを見るたびに、胸がざわつく。
でもな、俺たちはマジで氷の中だったんだよ。リアルで氷河の中。ツンドラ。永久凍土。石しかない。
履歴書なんて書いたことないし、字すら知らんかった。でも、木の枝から槍を削るスキルだけで、群れの中に居場所をつくってきた。
それが社会ってもんだった。
あの頃はな、火を知ってるってだけでマウントが取れた。
「お前の部族、まだ火知らねぇの?」って。
今で言うと、たぶんスマホ持ってないやつくらいの扱いだった。
あと、洞窟の壁に絵を描くやつがいて、正直ちょっとウザかった。
「これ、俺たちの文化の記録だから」って言うけど、俺は見てのとおりマンモスしか描かれてないあれを文化と呼ぶ勇気はない。
でもそうやって、バカみたいな寒さの中でも笑いながら、俺たちは生きてた。
火を囲んで、肉を焼いて、凍った鹿の内臓をすすって。
あれが青春だった。
あの後、温暖化が進んで、獲物が減って、どこに行っても水ばっかりで、
結局、火も槍も使いどころがなくなって、俺たちは過去の世代になってしまった。
だから今、氷河期世代とか軽々しく言う若いのを見ると、思わず言いたくなる。
お前らが履歴書で苦しんでたとき、俺は氷の洞窟でトナカイの骨を煮ていた、と。
こっちは履歴書どころか、紙すらなかったんだよ。
筆記用具? 黒曜石しかない。
でも誰も労ってくれない。
せめてこうして、記録を残しておく
自分が親になったら親の気持ちが分かるようになるよ、というやつ、私は自分が親になって自分の親の気持ちがどんどん分からなくなっている。
子供の誕生日を祝わないこと、国旗敬礼のときに一人だけ直立不動を取らせること、子供の柔らかいお尻をアクリル板を4枚重ねた自作のムチ棒で叩くこと。
全部私には理解できない。
クリスマスツリーの横にプレゼントを見つけた瞬間、ねぼけまなこだった顔がパッと輝くのを見るのは一年に一度の私にとってのご褒美だ。
クリスマスはキリストの誕生日ではない、そもそも誕生日を祝うべきではないと否定する親の元では、私はサンタクロースの存在を信じることもその逆に疑うことすらもできなかった。
だけどあの当時の自分は間違っていたとも言う。
けれどあの当時はああするしかなかった、仕方なかった、私の苦しみを知らないくせに、私がどんな思いでいたか知らないくせに、と言う。
知らないよ、あなたの苦しみなんて。
自分で選んで入った宗教で、自分の信仰心の強さを証明するために我が子のお尻にみみず腫れを作る人間の気持ちを、みみず腫れを作られて正座すらできなくなる子供時代を過ごした人間に何を推し量れと言うの。
私は自分の子供に毎年サンタからのプレゼントと親からのプレゼントを用意している。
子は文字が書けるようになってからはクリスマスの2週間くらい前にサンタへの手紙を書いて、窓の外に向けてそれを貼ってサンタに読んでもらうようにしている。
今年は「サンタさんへ。わたしはプレゼントはいりません。」という手紙を書いていた。
遠回しにサンタ業終了を通告されてるのか?と思ったりもしたけれど、我が子はサンタの存在は変わらず信じている。らしい。
Eテレに日本人唯一の公認サンタが出演していたのを見て、子は『サンタという職業があり、その人たちが世界中にプレゼントを配っている。人間だから本人は空は飛べないが、空を飛ぶ乗り物に乗るのであれば人間も空を飛べる』という認識でいる。と、思う。かわいい。
24日の夜、一緒に風呂に入り、私より先に風呂を上がった子は洗面所でスキンケアをしている私のところへコップとお椀を持ってきた。
「これでいいかなぁ?」と言う子に「何のこと?」と尋ねると、トナカイはコップだと飲みにくいだろうからお椀なら牛乳飲めるだろうっていう話だった。かわいい。
子はクリスマスツリーの横に小さな折りたたみテーブルを用意して、牛乳を入れたコップとお椀を置き、お椀の横には「トナカイさんへ、このぎゅにゅうのんでいいよ」と手紙を添えていた。
日本人の公認サンタがテレビで『サンタはお菓子をこぼして食べる』言っていたのを見たので、ポケモンのスナックを入れたお皿の下にはティッシュを敷いていた。
玄関からの動線を考えて、「ここにこうやって座って食べるんじゃない?」とテーブルの向きを考えていた。
プレゼントをもらう気はないけれど、サンタをもてなす気持ちはあるらしい。かわいい。
サンタは、「プレゼントはいらないって書いてある手紙は読んだけど、君はいい子だったからちょっとしたプレゼントをあげるよ」という英語のメッセージを書いたサンタクロースのイラスト入りのポストカードと、小さなサンタのぬいぐるみとお菓子のセットを置いていった。
寝起きでそれを見つけた子は喜んだ。
牛乳が減っているのもお菓子がなくなってまわりに食べカスが落ちているのも確認して、私に「見て!」と言って、サンタのぬいぐるみを早く袋から出してほしがった。
サンタのぬいぐるみを膝の上で踊らせ、「これサンタが作ったのかな」と言っていた。
私はあくびをしながら「サンタ来たねぇ、よかったねぇ」と言って、朝食作りに取り掛かった。
そのあといつも通り出社して、同僚とそれぞれの家に来たサンタの話をした。
そして、サンタって親のために来るんですよね、という話もした。
我が子は多分まだサンタを信じていると思うけど、もしかしたらそうじゃないのかもしれない。
だけど、もう少し信じていてほしいなあ、と思う。
私は我が子にサンタ業務をすることで、サンタを信じる余地すら与えられなかった子供時代の私をあやしているのかもしれない。
そう思うと、子に申し訳なさもある。
もう少し信じていてほしいなぁ、と思うのも、もしかしたら健全じゃないのかもしれない。
それも私にはよく分からない。
だけど、私は子が喜んでいる姿を見るのが好きだ。
みじめな思いをしているのは見たくない。
私は子供の頃、「誕生日に何もらった?」「クリスマスプレゼントなんだった?」という話題が、本当に苦手だった。
誕生日おめでとうを言われるのも苦手だった。
メリークリスマスやあけましておめでとうを口にすることには、罪悪感すらあった。
いい子だったらサンタはやってくる、という、幼少期だけ真の理として存在するそれを、信じられる環境にいてほしい。
私は私の子供が大人になったとき、誰かとサンタの思い出を話してあるある話と盛り上がれるような大人になってほしい。
私は今年でサンタになって6年目、サンタがいなかった私の世界にサンタが存在し始めて6年目ということでもある。
そしてサンタがいる世界にやってきて、この世の全てを憎むように子育てしていた私の親のことが、私はいよいよ分からなくなった。
私はサンタのいる現世で生きていくよ。
楽園での復活は信じないけど、輪廻転生はあるかもなぁと思いながら生きていく。
増田は赤スパチャのトナカイというタイトルの童話を知っているかな。
むかしむかし、赤いスーパーチャットをするトナカイがいました。彼の名前はトナカイで、友達からは「スパチャートナカイ」と呼ばれていました。トナカイはいつもクリスマスイブになると、サンタクロースのお手伝いをしながら、インターネットで人気の動画配信者に大きなスーパーチャットを送るのが楽しみでした。
ある年のクリスマスイブ、トナカイはスーパーチャットを送るために一生懸命に働いて、お金を貯めていました。そしてついにその日、サンタクロースとともに世界中を飛び回りながら、配信者たちの夢を応援するためのスーパーチャットを送りました。
しかし、誰もトナカイのことを認識してくれず、名前もメッセージも無視されてしまいました。それでもトナカイはがっかりすることなく、次の年も、そしてまた次の年も、変わらずにスーパーチャットを贈り続けました。それは、トナカイ自身が心からプレゼントを贈る喜びを知っていたからなのです。そしてある日、トナカイはふと気づきました。自分が何かを与えることで、最も大切な宝物、つまり「奉仕する心」を手に入れていたことを…。
ドクターヒルルクが死に際に放った名台詞「人はいつ死ぬと思う?」、俺はこの意味をずっと半分しか分かってなかった。
俺が分かっていたのは「自分に嘘をついて死んだように生きるぐらいなら、思いっきり生きて死んだほうがいい」という部分だけ。
あとはまあ「俺を殺したって、第2第3の俺がきっとお前らを倒すだろう」ぐらいの意味に考えていた。
でもそれだけじゃなかったんだよな。
その漫画の主人公は交通事故で両親をなくしているんだが、その死んだ両親が毒親で、主人公はその思い出にずっと苦しんでんだ。
それでふと口にした「いつまで(親のことを)考えなくちゃいけないのかな いつ忘れれる?」という言葉を聞いて、主人公を引き取った親戚は悲しそうな顔を向けた。
「嫌なことを早く忘れたいよね」なんて顔じゃなくて、「お前はその言葉の残酷さをちゃんと分かっているのか」という顔だった。
俺にはそう見えた。
その時、俺の中でスーっと何かが繋がったんだ。
作りかけだった脳の回路にそっと水が迷い込んできて、その上を伝ってピリリと電気が流れ出したような感触。
そうか、主人公が忘れた時は、主人公の中で両親が完全に死ぬときなんだ。
忘れられるまで、人は生きているんだ。
ヒルルクの桜をチョッパー達が覚えている限り、ヒルルクは生きているんだ。
ヒルルクが胸の中に生きているから、チョッパーは最高の医者を目指すんだ。
もしも忘れてしまったら、後ろめたさから道を諦めて、その重荷から逃げるためにヒルルクの思い出にそっと蓋をしたら、そのときは本当にヒルルクが死んでしまうから。
ドクターヒルルクを殺さないために医者であり続けるトナカイだったんだな・・・俺、ワンピース読めてなかった。
ずっとワンピースのこと馬鹿にしててさ、暴走上がりで国道沿いに住んでて10代で子供生んでトラック野郎とかでメシ食ってるような連中が自己啓発本代わりに読んでる頭の悪い本だと思っててさ、だからちゃんと読み込んでなかったんだ。
恥ずかしいわ。
こんなのちゃんと読んでりゃ小学生だってわかるし、ちゃんと読んでるから皆これが名言だと言ってるんだな。
なんで分からなかったのかなあ。
意思を受け継ぐぐらいのイメージで居たんだけどさ、それよりももっと重いんだよな。
第二の命を受け継いでるんだ。
諦めない限りは生き続けるんだな。
つーかあれだ空島とかだってそうだわ。
そっかー……俺本当にワンピース読めてないわ。
『奇面組』に限らず、古いものの良かった探しをして良いところを見つけることはできるとは思う。
それに意味が無いとは思わないけれど、社会正義の議論としてより重要なのはむしろ昔にもあった良さのかけらと現代で正しいとされるものとの差分になるので、古いものの発掘には興味を持たれないのではないか。
具体的なことで言えば……
「どんな不細工な顔でも慣れれば見れる!」とは言うけれど、現代的な感覚では「不細工だけど慣れれば見れる」というのは侮辱でしかない。
「たった一度でいいから自分を輝かせてみたい」というのも疑問視されるところで、赤い花のトナカイでも年に1晩だけ活躍すれば良いというのではなく、もっと日常的な受容が求められている。
あと、少なくとも引用部分は個人主義的すぎで、作品全体としてもこのように当人の気の持ちようが前面に出ているのだとすると、それも批判のポイントにはなるかと思う。
誤解されたくないけど、『奇面組』をディスる気はまったく無いし、元増田の指摘はおもしろく読んだ。