
はてなキーワード:デモ行為とは
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.nikkei.com/article/DGXZQOUA209Z90Q5A021C2000000/
日本国旗を対象にした損壊行為を刑事罰の対象とする国旗損壊罪を制定する方針が、自民党と維新の会との連立合意書に明記された。高市自民党総裁としては従前から何度も法案を出してきた悲願の一つでもあり、今の日本において最も早期に行うべき施策の一つと考えているということだろう。その認識自体あまりにばかばかしいが、普段創作表現の自由を声高に叫ぶ一部ブクマカ達に安易に賛同されている様子で、その変わらぬ権威主義にほっとしたので少し反対意見を書いておきたい。なお、増田が確認した時点で人気コメントの趨勢は違憲可能性を指摘するものが多数派であり、その意味でははてな全体ではまだ正気は保たれているようなので、別にこんなものを書く必要もないが、まあ、必要なものを書くなどという意義のある行為は匿名ダイアリーのなすべき仕事ではないだろう。
まず、高市氏が従前からしつこく主張を続ける、自国旗と他国旗との扱いの差だが、他国の国章への損壊行為が犯罪として定められているのは、他国への侮辱を防止することによる外交の円滑や国際的な安全性の保護などが目的とされており、自国旗にはこのような目的が成り立たないことが当然である以上、むしろ差を設けない方が不自然であると言えるだろう。なお、外国国章損壊罪の適用については、条文上、訴追に当該国の請求を要するとされているだけでなく、「国章」の解釈について公的に掲げられたものに限定され、私的な所有物等は対象外とする等、慎重な運用を行うべきと解するのが学説の通説的見解とさており、実務上も事件化には慎重な姿勢が取られているようである。
国旗は国民統合の象徴であるとともに、国家権力の象徴ともみなされており、往々にして政治的デモ活動において、破壊行為の対象となりがちであることは言を俟たないだろう。その視覚効果はあまりに雄弁である。デモ行為を野蛮なものや、「左翼」がやるようなものとして、自分と切り離している人間であっても、自国政府が例えば全体主義的な政治弾圧活動を行動を行いだし、自身も立ち上がらないといけないときが来た時に、抗議の意思を国旗を燃やすという形でやるという考え自体がおよそ理解できないということはないのではないだろうか。この点で、国旗への損壊行為への処罰が、「表現」への規制ではない、国家への批判行為の委縮効果を持たない、というのはおためごかしに過ぎないことは理解できるだろうと思われる(まあ、とは書いたが、「国旗を傷つける必要はない」「むしろ国民のために立ちがるのであれば国旗を掲げるべき」というような反論をして満足する人も実際には多いだろう。する必要がない表現であれば刑事罰による規制をしていいのかは考えてほしいものではあるが。)。
これに対し、欧州各国等、先進国も含めた多くの国で自国旗の損壊が処罰されていることを根拠に、問題がないという理解をしていると思われるコメントがいくつか見られるが、それぞれの国において当該行為を処罰対象とすることにはそれぞれの国の歴史、経緯があるものと思われ、日本に当てはめる根拠とするのであれば、その必要性を別に議論するべきだろう。性的表現について規制をするのであれば科学的エビデンスを出せという言論がよくもてはやされるが、その理屈を借りれば、日本において自国旗の損壊行為を処罰すべき立法事実が存在するのであれば、その「科学的エビデンス」を上げるべきである。日本人の名誉感情が当然害されるのだからそれでいいというのであれば、非実在児童のポルノも一般人の性的羞恥心を著しく害し、性道徳を乱すのは当然であるので刑事罰の対象としてもいいという暴論と変わらないだろう。まして、「外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試み」た日本の歴史を振り返れば、他国と比較しても、国粋主義的な高まりを批判するための自由が確保されることに、やり過ぎということはあり得ないのではないだろうか。なお、他国国章損壊罪に該当する規制は明治時代から存在していたようであるが、これに対応する自国旗への損壊の刑事罰は当時から存在していなかったようである。
言論の多様性はそれが保障されなければ消えてしまうかもしれない少数派、反体制派に対してこそ与えられるべきものであり、体制の象徴である日本国旗を損壊する行為への規制は、そのような行為に出たくなる気持ちを理解できない人であればこそより慎重に必要性を検討するべきものである。それを犠牲にして、一時的な国粋的な感情や、あるいは、「左派」を懲らしめてやったという感情を満足させておきながら、表現の自由の重要性を恥ずかしげもなく掲げ続けるというのは私には理解できないところではある。
worrisポストイットに怒り狂ってる人たちは、電信柱の違反広告も剥がして回っているのだろうか。やってないなら「ダブスタ」だね。結局「女が意見を述べること」が憎いんだよね。
ちげーーーーよ!
お前なあ!そうういうドヤ顔が透けて見えるコメントがしたいならちゃんと調べてからしゃべれよ!
めちゃくちゃ恥ずかしいこと言ってるぞお前!共感性羞恥凄いわ!
この件で一番悪いのはクボユウスケ氏だからな
・軽犯罪と認識しつつ駅で無許可のポストイットというビラ貼りの扇動
・被害者支援の寄付をした大勢の人にストーカーのレッテル貼りで妨害
コレで社会が良くなるの?
目的も手段も不明な行為で謎デモ行為をやって他人に迷惑をかけたあげく
一番ダメだったのは「被害者支援の寄付をした大勢の人にストーカーのレッテル貼りで妨害」をしたことがもう忘れられてる!
小田急刺傷事件に関連し、被害者支援団体に寄付を行った人達を、クボユウスケ氏と石川優実氏が「ネット誹謗中傷粘着ストーカー行為常習犯」と侮辱 -Togetter
この件で最悪だったのはクボユウスケだよ。このせいでめちゃくちゃヘイトたまったんだよ。
自分たちの意味不明な活動を自画自賛したあげく、他人の善意の行動を腐すような連中が批判されないわけないだろ。
もちろん誹謗中傷はだめだし、皆本夏樹のことなんかどーでもいいんだがこの件だけはちゃんと批判されるべきだろ。
どーーーーーー考えてもポストイットはるだけで承認欲求満たそうとしてるだけのやつより身銭切って寄付したやつの方が偉いだろ。
にもかかわらず、クボユウスケは「自分のポストイット活動のチャチさをバカにされた」と逆恨みしたのかなんか知らんけどストーカー呼ばわりしたんだぞ。
これのせいで、ポストイット活動してた連中が「自分の承認欲求満たすためだけにやってて他人の行動にケチをつける器の小さい連中」ってことになったんだよ。
若い子が善意で行動しただけだったらここまでひどくならんかったよ。
こういう経緯全く知らないで
「ポストイットに怒り狂ってる人たちは、電信柱の違反広告も剥がして回っているのだろうか。やってないなら「ダブスタ」だね。結局「女が意見を述べること」が憎いんだよね。
worrisって人初めて見たけどほんっとひどいな! 頭ちょっとくらい使えよ!
やっぱりはてブフェミ「ポストイットに怒る男たち―」って感じで現実を捻じ曲げて、自分の都合の悪い現実から目をそらしてるんだなってのがよくわかったわ
今後なんか偉そうに発言しても「ああ、この人あの時何もわからんくせに事実捻じ曲げてデマ流してた人か」って記憶しておくのだわ。
あーもうほんっとひどい。長年はてなブックマークやってるとこんなに残念な思考をするようになるのか。
はてブだけはやらんといてくださいよ
例えばヘイトスピーチ規制法を制定するかしないかの段階で問題となったのは、デモ行為っていう権利の観点からすれば明らかに保護されるべき、しかし社会全体に対して悪影響が見込まれる行為を「差別」と認定するかどうかという話だった。
男女平等という運動が求めているのは例えば、おっさんの個人史に基づく体験からあくまでも個人の思考として「女がお茶を汲むべき」と考えている、その個人の選好を修正せよ、ということだ。
現実問題として、反差別っていうのは、差別的な選択をするなと個人に対して社会から圧力をかけるってこと。選択肢を奪うことでしか達成されない。
そもそも反差別運動っていうのは、いま法律に制定されていないことを法律にせよ、と求めることなんだから法哲学からは何の答えもでない(んじゃないか? 法律は専門じゃないけど)。
トランプ政権に対する一部の過激なデモ行為によって、左翼の本性が明らかになったと言う人がいた。
でも、同じことはたくさんの人について言えると思う。
最近(昔からそんな人はたくさんいると思うが)、他人の意見に対して過剰なまでに攻撃を加える人が多いように思う。
その人の中では自分は正義であって、相手は悪であるから、自分の行為は正当化されるとでも思っているようで、質が悪い。
だけど正義というものは相対的なものであって、人によって違うのだと思う。
たとえば、人工妊娠中絶は殺人なのだろうか。換言すれば、お腹の中の赤ちゃんは「人」なのか。色々な考えがあるはずだ。
「正義」なんていうものは、その人がこれまで経験してきたことや、その人の政治的・宗教的信念などによって作られるものであって、極めて個人的なもののはず。
他人が胸に抱く「正義」を受け入れる必要なんてないけれど、自分の中にある「正義」が絶対的なもので、それを他人が受け入れてくれる(あるいは、受け入れるべきだ)なんて勘違いをしてはならないと思う。
民主主義の制度は、そういうことを前提に、人々がお互いの意見(そして、ひいては人権そのもの)を尊重し合うことができるようにするための、一種のツールといっても過言ではないと思う。
それなのに、どうして過剰なまでに他人の考えを否定し、相手を攻撃する人が多いのだろう。
自分にとって身近な問題としては、「法科大学院の存続問題」がある。
全国に法科大学院が発足し、旧司法試験が廃止されてから久しいけれども、法科大学院は廃止すべきだろうか。
ここでも、色々な考え方があると思う。法科大学院には、良い面も悪い面もあるはずだ。
ただ個人的には、法科大学院には是非とも存続してほしいと願ってやまない。
詳しい理由については割愛するが、法科大学院での日々は楽しかったし、学部では経験できないこともたくさん経験できた。
タイムマシンで昔に戻ることができたとしても、私はまた法科大学院に入学したい。
少し大げさに書いてしまっただろうか。それはいいとして、こうした意見が存在することすら許せない人たちがいる。
彼ら(彼女ら)はたとえば、「どうせ教授に書かされているんだろう」とか、「法科大学院関係者が自画自賛しているだけだ」などと言うのである。
たしかに、私の考えは個人的なものであって、それがすべての人たちに妥当したりなんてしない。
だけど、同じことは彼らの意見にもいえる。
こうした意見の相違は、ただ単に、法科大学院のことを好きな人もいれば、嫌いな人もいるというだけのことのはず。
どちらの意見も、正しくもなければ、間違ってもいない。
あるべき議論の方向性は、ただ一つのはず。そうした意見が混在する中で、お互いの意見を尊重しつつ、みんなにとって最善の答えは何であろうかを議論することなのではないかな。
間違っても、自分だけが正しいと信じて、自分の考えと相容れない人たちを頭から否定したり、攻撃したりなんてしてはならないと思う。
安倍のことは好きでも嫌いでもないし、そもそも政治にあんまり興味もないが、この文言に妙なモヤモヤ感がある。
こういった文言を掲げている人の目的は、安倍を総理大臣から引きずり下ろすことなの?
たぶん違う。
例えば安保法案反対だとか、そんな理由が背景に潜んでいると思う。
でも安保法案に反対だからといって「NO 安倍」はないでしょ。
安倍は誰かの代表として国会で話しているだけであって、安保法案を進めている人たちは安倍以外にもたくさんいる。
「NO安倍」と言って安倍を引きずり下ろしたとしても、他の人がまた代表として同じようなことするだけなんじゃないかな?
だから、デモにおいては「NO」ではなくて「GO」であるべきだと思う。
何かを否定するだけではなくて、何か代わりのものを見つけてor作ってそれを支持する方がよっぽど建設的だと思うんですよ。
デモやってる人の大半が大人なんだから、いい年して嫌だ嫌だしか言わないのもどうかと…
どうですかね?
試しに大雑把な試案でも作ってみよう。そうしなきゃ始まらん。
で、ヘイトスピーチ規制に乗じて政府権力による濫用が行えないようにする必要は、誰も異論がないと思う。
なんで、限界まで範囲が狭い試案として、とりあえず民族と人種に関する差別のみを規制するような方向で考えてみる。
差別には直接の被害者個人は存在しないので、刑事罰になる。(個人に対するものは名誉毀損で対応できる。)
また、個人的な見解の表明は対象とならない。あくまで不特定多数に対する扇動を防止する。
つまりこういう感じ。