
はてなキーワード:デフォルトとは
こんなツイートを目にした。
https://x.com/yasufuminagawa/status/1981977854423540174
読んで、ああ、と思った。
私も同じことを感じていた。でもそれを言葉にできずにいた。
このツイートをきっかけに、自分が何に苦しんでいるのか、整理してみようと思う。
TRPGを遊ぶとき、周りの人たちはビジュアル情報をすごく重視している。少なくとも、私のいるコミュニティでは、そうだ。
立ち絵やイラストを用意する。「どんな表情をしてる?」「どんな服を着てる?」と視覚的な詳細を求める。KPが善意でコマ絵を用意してくれる。ビジュアルで彩られたセッションが、当たり前のように存在している。
「絵を描かなくてもいい」と明示的に言われることもある。しかし実際には、ほとんどの人が絵を用意してくる。用意してこなかった人は「立ち絵ないんですよ」と、謝るように断りを入れている。暗黙の規範として、ビジュアル情報を提供することがデフォルトになっている。
私の経験では、「立ち絵合わせしよう」と誘ってくる人もいる。絵を用意する人全員がそうだというわけではないが、断ったときにパッシブ・アグレッション(直接的ではない、遠回しな攻撃性)を受けることがある。はっきりとした攻撃ではないから反論も防御もしづらいが、確実にダメージがある。不機嫌にされたり、八つ当たりされたりする。
一方、私にとって、ビジュアル情報は「どうでもいい」わけではない。マップや配置図など、実用的なビジュアルは役に立つ。しかしキャラクターの立ち絵や表情、服装といった演出的なビジュアルは、文字だけで十分だ。認知特性として、文字の方が処理しやすい。結果として、想像の余地がある方が楽しめる。
周りの人たちは、ビジュアル情報に価値を置いている。この価値観のギャップが、根本にある。
孤独だ。周りの空気を気にせず遊べたらいいのに、気にしてしまう。
「気にしなければいい」「描きたくなければ描かなければいい」と言われても、それができない。気にしないでいたら、実際にパッシブ・アグレッションを受ける。傷つけられる。建前では「自由にしていい」と言われているのに、実態として自由を感じられない。
KPが善意でコマ絵を用意してくれることも、侵襲されているように感じる。自分のイメージしていたキャラクターが勝手に視覚化される。善意だから、断れない。
「どんな表情してる?」という自然な質問も、重荷だ。視覚情報を求められること自体が、プレッシャーになる。
「ビジュアル重視」という価値観が主流のコミュニティで、「文字だけで十分」という認知特性を持つ自分が、常に多数派に合わせることを求められ続けている。
外部からの要請や期待に応え続けている。「立ち絵を描く約束」があると描く。描きたいときもあるが、基本的には外部からの要請で動いている。
私は立ち絵が描ける。描けるからこそ、「描いてよ」という要請が来る。描けるから、描くのが楽しいと思われている。しかし、描けることと描きたいかは別だ。描けるからこそ、「描かない」選択がさらに説明しづらくなる。描けない人なら「描けないので」で終わる話が、描ける人だと「じゃあ描いてよ」「描けるのになんで描かないの?」という圧力になる。
自分のペースを決められない。TRPGだけではない。常に、叶えないと文句を言ってくる人がいる環境で、自分を調整し続けている。いつも我慢してしまう。
この苦しみが「コミュニティの問題」なのか「私の問題」なのか、境界線が分からなかった。しかし整理してみると、二つの層があることが見えてきた。
パッシブ・アグレッションは証明しづらい。だから「私の気にしすぎかも」と自分を疑ってしまう。それでも、実際にダメージを受けている。
ビジュアル情報がないと想像できない人にとっては、ビジュアルがないことが苦しみなのだと理解している。相手にとっては、ビジュアルがあることが楽しみでもある。それを理解しているから、「ビジュアルなしでもいい世界を」と主張することに、ためらいがある。相手の楽しみを奪うようで、罪悪感すら感じる。
だから、自分の願いを主張しづらい。誠実であろうとすればするほど、自分が傷つきやすくなる。
多様性を認めてほしい。
具体的には、安全に断れる環境と「ビジュアル重視」だけが正解ではない世界がほしい。
文字だけで楽しむ人も、ビジュアルで楽しむ人も、どちらも「普通」として認められる世界。本来は、これはトレードオフではないはずだ。ビジュアルを使いたい人は使えばいい。ビジュアルなしでいい人は使わなくてもいい。両立できるはずだ。
しかし実際には、「みんなで合わせる」という暗黙の前提があるため、両立できていない。誰かが立ち絵を用意しないと、全体の統一感が崩れるように感じられる。この「合わせなきゃいけない」という前提が、問題なのだと思う。
ビジュアル情報を提供しないことが「例外」ではなく、一つの選択肢として当たり前に存在する世界。
断ったときに、パッシブ・アグレッションを受けない世界。冷たくされたり、遠回しに批判されたりしない世界。
「どんな表情してる?」と聞かれたときに、「そこは想像に任せたい」と答えても、受け入れられる世界。
KPが善意でコマ絵を用意してくれることは理解している。しかし、断ったときの相手の反応や、普段からのビジュアル重視の姿勢を見ていると、本当の意味で「断ってもいい」とは思えない。断っても、それが尊重される世界がほしい。
「立ち絵ないんですよ」と謝らなくていい世界。自分のやり方で楽しむことが、言い訳や説明なしに、否定されない世界。
でも、これは願いだ。
今いるコミュニティが、本当にそうなるかは分からない。もしかしたら、私が去るか、自分が変わるか、どちらかを選ぶしかないのかもしれない。それは、私自身が決めることだ。
「ビジュアル重視」という流れが主流になっている今、ビジュアル重視でないTRPGの楽しみを、改めて考え直してもいいのではないだろうか。
視覚情報が少ないからこそ、想像の余地が広がる。「絶世の美人」が、人によって違う顔をする。各自が思い描くイメージの自由がある。
それは、TRPGが本来持っていた豊かさの一つではないだろうか。
ただし、それは簡単なことではない。
「ビジュアルで楽しむ」方法は、立ち絵、セッションの部屋素材、カットインなど、具体的なノウハウが共有され、洗練されてきた。一方で、「文字だけで楽しむ」方法は、まだ十分に言語化されていない。「想像を膨らませる」「余白を楽しむ」と言うのは簡単だが、それを実践する具体的な方法論は、手薄だ。
どちらが正しいわけでもない。どちらも、それぞれの楽しみ方だ。
つくのがデフォルトだからな。短文かどうかでついたの消すほうが手間。
dorawiiより
-----BEGINPGP SIGNEDMESSAGE-----Hash: SHA512https://anond.hatelabo.jp/20251025141950# -----BEGINPGP SIGNATURE-----iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaPxd9gAKCRBwMdsubs4+SPNvAQDo7SO5gDOBwzmQHPZ4wVelZchPKG87k+XPAKnlDVNTzwEAt6SVFm79mJt4wEAgzrXTAHD0ejO05ED+vZYi09R4Cwo==uC5a-----ENDPGP SIGNATURE-----
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲
広げなくても見えるのはデフォルトでの表示領域が著しく広いからだろ?
でもそれでもさすがに1000字とかじゃないだろ?そんなのは0.1パーセントぐらいだろ
99.9%のブクマカに三角形しか見えなければいいんだよ。それに必要な文字数は?
-----BEGINPGP SIGNEDMESSAGE-----Hash: SHA512https://anond.hatelabo.jp/20251020185044# -----BEGINPGP SIGNATURE-----iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaPYF8wAKCRBwMdsubs4+SJk8AQCpupFEkWAEWMxM9mXIzwPFxBeI6PG96pxXysx24qYU6wD8DHsj0LP7/0rRh/n8KP8oKeXb19FMpMjjTn9IvPmwGQM==PzPI-----ENDPGP SIGNATURE-----
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
退化はやや特殊な条件付けだから。その条件付けさえなかったら今の状態に反論するのに過去の状態を持ち出して反論するのは普通だと思う。
普通は「過去と今はつながってて状態もそう変化しない」という条件のほうが暗黙の了解、デフォルトの条件だと思う。
-----BEGINPGP SIGNEDMESSAGE-----Hash: SHA512https://anond.hatelabo.jp/20251020182414# -----BEGINPGP SIGNATURE-----iHQEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaPX/wQAKCRBwMdsubs4+SOZZAPMHE32lLExzpHsH9e4bk98h8sdVfQ8jUhmPNzZZcOPoAP9hGAEIkQxISdAXSeECJvnqFqGm7EUPSj1dIdd+jAcuDA===88pV-----ENDPGP SIGNATURE-----
今日職場(病院)で現役で使われてるWindowsXPパソコンを見かけて(さすがにネットには繋いでおらず、パワポ表示用)、驚きのあまりXP!!!!って興奮してたら周囲が俺を見る目線が完全にパソコンオタクを見る目線だった
知ってるんですか?って聞かれたから、XPは自分が学生の時に現役だったOSでとか言ったら既に雲行きが怪しい。それでも現役のXPパソコンを見た興奮でごく一般的なこと(このデフォルト壁紙がとかこのアイコン懐かしいな〜とか)言ってたら俺を見る目線がオタクを冷ややかに見る目線になってて、「な、なんで……」ってなった。確かにスマホネイティブでパソコンを持たない若い世代にはこの程度でもパソコンオタクに見えるのかもしれないけど、俺と同年代のやつつもパソコンオタクを見る目で俺を見ている。なんでや。この程度でパソコンオタクはおかしいだろさすがに
これは本当にそう
大雑把に見れば性犯罪も同じ枠組みだけどね
婚活サービスなのに既婚者が紛れ込むから独身証明書を提出するのがデフォルトになってきてるくらいクソ
結婚すると嘘をつかれて妊娠して堕ろせなくなってから既婚者なのが発覚して父親のいない子供を生むハメになった裁判も複数発生してるし
櫻井孝宏のように既婚を隠して複数女性をキープして人生を台無しにするケースもある
男が恋愛と性欲に対して責任を持ってなさすぎるんだよね、そしてそれを社会が許してきた
ゴールドで測ると、同じ1万円で買えるモノの量が半分になっています。
| 時期 | ゴールド価格(円/g) | ゴールド建てで見た円の購買力 |
| 2024年3月 | 約10,000円 | 1.0 |
| 2025年10月 | 約20,000円 | 0.5 |
つまり、ゴールドを基準にすれば「円が半分の通貨」になったということです。
スーパーの1000円弁当は、ゴールド建てで見ると500円に見えます。
円を現金で持っている人は、円安とインフレによって「静かに損している」状態にあります。
一方、ゴールドは通貨の劣化に連動して値上がりするため、ゴールドを保有している人にとっては
通貨の信頼が崩れる時代における合理的な自己防衛手段なのです。
円が下がり続けている今、1グラム2万円という価格は「高い」のではなく、“円が安い”からそう見えているだけです。
たとえば、2024年に1グラム1万円だったときに買わなかった人が、 今「2万円は高い」と言っているなら、 実際には円を持っていたせいで購買力を半分失ったことになります。
本質的に、ゴールドは“上がった”のではなく、通貨が下がった結果として、同じ価値を維持しているのです。
ゴールドの価格は過去最高でも、通貨の信頼が過去最低なら、それは「まだ高くない」ということです。
円をゴールドに替えると、確かに普段の買い物をお得に感じます。
しかしそれは「自分が賢く儲けている」のではなく、周囲の通貨が沈んでいるから浮いて見えるだけです。
ゴールドを持っている人が乗っているのは、沈む船から離れた救命ボートです。
ボートが上がったのではなく、大半の人が乗っている船が沈んでいるのです。
行動経済学のプロスペクト理論では、人は「損失の痛み」を避けようとします。
しかし実際には、確実な小さな損よりも不確実な大損を選ぶ傾向があります。
円の購買力が落ちていることを知っていても、「ゴールドを買うのが怖いから」と動かないのはこの心理の典型例です。
確実に損する現金を選ぶのは、損失回避バイアスの裏返しなのです。
つまり「何も考えていない」のではなく、損を感じないように社会と教育が設計されているのです。
いま世界では、中国、ポーランド、シンガポールなどが過去最大ペースでゴールドを買っています。
一方、日本は外貨準備のほとんどが米国債で、ゴールドはわずか数%です。
トランプ関税でインフレになって、FRBが利下げどころか利上げをせざるを得なくなり、万が一米国が借金を返せなくなり、アメリカがデフォルトすれば、日本の資産価値は大幅に毀損します。
つまり国家レベルでは「ゴールドを持たないリスク」が存在しています。
個人がゴールドを保有することは、国家が持っていないものを自分で持つという、極めて合理的な行動です。
円が沈む時代に、日本に住みながらゴールドで世界を測る人はまだ少数派です。
しかし、その少数派こそが「目に見えない損失」を避けているのです。
言いたいことは分からんでも無いが、いくつか事実と違う部分がある
今の「政党政治をやっていない」状態が続く場合、国民民主党はじかんをかさねようとも「間に合う」時は来ないので、間に合っていないと言う表現は間違っていると考える。
私としては、国民民主党が最終的に目指しているような共産党のようなポジションで、いつも一見申し上げる、第三の視点を提供するのは上手いが、最前線には立たないと言う所をのらりくらりとやっていく連中だと思っていた。特に幹事長の榛葉なんて共産党の記者会見にそっくりなテンションでいつもやっているから。
近年では多くの地方自治体の財政が悪化し殆どの公共施設の維持費が足りなくなっている
ここらへんは社会保障費が莫大に膨れ上がった結果としてまともな行政を運営する収支が破綻したからだが
自国建て通貨を発行できる国家は国債を発行しても破綻しない理論なわけだが
地方自治体に通貨発行権はないし、債権によってデフォルトは起こり得るため債権だよりの財政はできずに財政規律が求められる
そのため、現在進行系で地方自治体の公共施設や道路、上下水道、教育、役所などはどんどん予算を削られている
一方で国政では過去の安倍政権をはじめとして今の高市や国民の玉木や参政党など国債を発行して経済を立て直そうとする流れが支持され始めている
この場合、地方自治体は税収が増えにくい割にインフレによって行政の維持費ばかりが増えていき破綻が目に見えてくる
また国全体でインフレすれば当然地方行政も高い質が求められるが、それに応えられるだけの収入がMMT理論からは地方にはもたらされない
地方自治体の財政はそのインフレを乗り切るだけのシステムがなにも用意されていない
https://www.kantei.go.jp/jp/content/20251010shokan.pdf
内容はともかく、フォントがどうにかならなかったのかと思う
最近、SNS上では「BLは性的消費なのにフェミは男性の性的表現を叩くのはダブスタじゃないか?」というスレッドがトレンド入りしていた。
だがこの議論、よく見るとアーキテクチャの層が違う。つまり、話しているプロトコルが合っていない。
オタク文化圏では、「女性が描くBL」と「男性が描く女性向け性表現」を同一のAPIとして扱う傾向がある。
しかし実際には、両者は別レイヤーで動いているアプリケーションだ。
フェミニズムの文脈で語られる「性的表象の問題」は、主に「社会的リソースの不均衡」や「ジェンダー権力の構造」についての議論であって、単なる「表現内容」の良し悪しを審査しているわけではない。
つまり、BLを「性的に描いてるからフェミ的にアウト」と言うのは、仕様書を読まずにバグ報告を出すようなものなのだ。
歴史的に男性中心に最適化されてきた社会システムに、女性視点のパッチをあてて再コンパイルする運動と言える。
だから、「男性と女性を同じように扱うべき」という一般論をそのまま適用しようとすると、互換性エラーが出る。
たとえば「女性の性的表象は抑制されるべきだが、BLはOK」とされるのは、「権力構造上の対称性が存在しない」という前提で最適化されているからだ。
一方、「普通の女性はフェミと違う」「まともな女はそんな主張しない」という定番フレーズが出てくる。
だがそれは多くの場合、ユーザーの気分を和らげるためのUX的演出にすぎない。
実際、ほとんどの人間は制度的優遇(レディースデー、女性専用車両、離婚時の親権バイアスなど)という「プリインストールされた特権OS」の上で動いている。
たとえ本人が「私はフェミじゃない」と言っても、使っているAPIがすでにフェミ思想ベースで動作しているのだ。
つまり、「私は違う」という自己申告は、ただのUIレイヤー上の装飾にすぎない。
平等を掲げるなら、優遇措置をアンインストールする覚悟が必要になる。
だが現実には、多くの人が「平等という概念を口では支持しつつ、既得権のキャッシュを維持」している。
これはエンジニアリング的に言えば、「レガシーコードをリファクタリングすると言いながら結局コメントアウトで誤魔化している状態」だ。
男女平等を“動作保証付き”で実装しようとするなら、既存の社会制度をルート権限で書き換える必要がある。
だが、ほとんどの人はroot権限を持つどころか、ユーザーレベルの設定すらいじる気がない。
もっと根本的に言えば、日本社会の多くの仕組みは、女性優遇をデフォルト設定としてビルドされている。
その構造はあまりにも自然化されていて、誰もコードレビューをしようとしない。
アンチフェミを自称する男性すら、「女性は守るべき対象」という社会的テンプレートを内面化していることが多く、それが構造の永続化を促している。
結果として、「BLは性的消費」「フェミはダブスタ」という批判は、異なるフレームワーク間の非互換問題にすぎない。
BLは「個人の妄想の自由」をレンダリングするローカルアプリだが、フェミニズムは「社会構造の更新」を目指すサーバーサイドのシステム。
同じメソッド名を呼んでいるように見えても、実行される関数の意味がまったく違う。
つまり、「BL=性的消費」「フェミ=ダブスタ」という批判構造は、コードのバージョンが違うままマージしようとしている状態に近い。
根本的にAPI設計思想が違うのだから、いくら議論を積み重ねても互換性は取れない。
必要なのは、「どの層で話しているのか」「どの権力構造を前提にしているのか」を明示することだ。
この論文が端的に示しているのは、政治的言説が**「ドッグ・ホイッスル(隠されたメッセージ)」と「ウルフ・クライ(証明できない危険の主張)」**という、本質的に証明が難しい二種類の発話行為(スピーチ・アクト)を互いに非難し合うことで、**解決不能な悪循環(弁証法)**に陥るメカニズムです。
---
この論文は、**ドッグ・ホイッスリング(DW)**と**ウルフ・クライイング(WC)**といった特定の**スピーチ・アクト(発話行為)**に対する**帰属(Attribution)**が、現代の政治的言説において、どのようにして敵対的な弁証法と新たな**発散(Divergence)**を生み出し、解決不能な膠着状態に陥るのかを分析しています [1]。
この問題は、DWもWCも、その性質上、**認識論的に(知識の観点から)帰属が困難な**発話行為であることから発生します [1]。この困難さが原因で、DWやWCに対する**非難や指摘(帰属)**自体が、合理的であるにもかかわらず、**確定的に検証または反証できない**主張となってしまうのです [1]。その結果、これらの帰属のパターンは、DWとWCが相互に強化し合い、固定化する**相互的な悪循環(viciouscycle)**へと発展し、「不幸な現状(unhappystatus quo)」を築き上げます [1, 2]。
DWとWCは、政治的環境において特定の影響力を持ち、政治的言説を構成するスピーチ・アクトです [3]。スピーチ・アクトとは、話し手が直接述べた文字通りの意味(locutionary meaning)を超えて、間接的に暗示された力(illocutionary force)や、世界との相互作用において追加された力(perlocutionary force)を持つ発話の形式を指します [4]。
DWは、**論争的ではない公のメッセージ**の中に**論争的な隠されたメッセージ**を埋め込んで送るスピーチ・アクトです [5]。
WCは、**危険が実際には存在しないか、あるいは証明できない**場合に、危険が存在すると主張するスピーチ・アクトです [3]。
これらDWやWCを**「〜という発話行為である」とみなす**行為が、第二階次のスピーチ・アクトであるSAAです [7]。ドッグタウンのシナリオでは、Alphaを除いて、すべての参加者が互いにSAAを行っています [7]。SAAは、他者の行為を指摘する役割と、それ自体が新たなスピーチ・アクトであるという二重の役割を持ちます [7]。
DWとWCがこの弁証法的な問題を引き起こすのは、それらが定義上、間接的で**隠された(covert)**スピーチ・アクトであるため、**誤導的(misdirecting)**な性質を持つからです [8]。
DWは、公衆には無害なメッセージとして聞こえる一方で、特定の受け手にだけ私的なメッセージを送る、話者と受け手の**私的な意図と解釈**に依存するスピーチ・アクトです [8]。
WCは、私的に観察されたとされる危険についての公的なメッセージですが、**その主張の真偽**が外部から証明されていません [9]。
これらのスピーチ・アクトの帰属を行う人々は、証拠の一部しか得られず、全体像の一部のみを見て全体を判断する「盲人と象」のような、**認識論的に不利な立場**に置かれてしまいます [10-12]。
認識論的な困難さの結果、あるスピーチ・アクト(DWまたはWC)を非難する行為(SAA)自体が、相手からは敵対的な別の種類のスピーチ・アクトとして解釈されるという非対称性が生じます [13, 14]。
DWの帰属者(DWA「あいつはDogwhistlerだ」と指摘する人)は、隠された秘密のメッセージを証明しなければならない立場に置かれますが、DWの主体は常に自身の意図の直接的な(私的な)証拠に訴えて否定することができます [11, 15]。そのため、DWAは常に**認識論的に不利な立場**に立たされます [11]。
WCの帰属者(WCA「あいつはWolf crierだ」と指摘する人)は、クライアーの個人的な経験に反して、「狼」が存在しないことを証明しなければならない立場に置かれます [12]。WCAは、非観察者でありながら、第一人称の観察者よりも権威ある知識を持っていると主張する不利な立場に置かれます [12]。
この相互に敵対的な帰属の非対称性が、DW帰属がWCとして返され、WC帰属がDWとして返されるという**多極的な相互作用**を生み出し、**認識論的な発散(epistemic divergence)**のプロセスを構成します [18, 19]。
帰属自体がスピーチ・アクトであるため、帰属はそれ自体に再帰的に適用されます。これは**スピーチ・アクト帰属の帰属**として例示されます [20]。ドッグタウンの例では、Alpha(DW候補)→Buddy(DWA)→Charlie(WC A)→Duke(DWA)というサイクルが**無限に継続**します [2, 21]。
このプロセスは、**多極スピーチ・アクト帰属相互性**(DW帰属がWCとして、WC帰属がDWとして相互に強化し合うこと)であり、反復されることで**悪循環**となります [2, 19]。対話参加者全員が、互いの主張が共通の基盤として受け入れられないまま、**非難の応酬**を繰り返します [19]。これは、単に敵意や内集団バイアスから生じるのではなく、**相互的な認識論的な膠着状態**から生じる現象です [18]。
この悪循環が政治的言説の領域内で修辞的な規範として安定化すると、**定常状態の均衡(steady-state equilibrium)**が出現します [2]。これは、参加者が戦略を変えるインセンティブを提供しないため、持続します [2]。
最終的に、**ドッグ・ホイッスル/ウルフ・クライ帰属均衡**が形成され、誰もがデフォルトで互いをDWまたはWCのいずれかであると見なすようになります [22]。これは、相互に矛盾する信念から構成される**信念均衡(belief equilibrium)**の一種です [23]。
この均衡は、参加者が真実を追求しようとする**認識論的な美徳**から生じているにもかかわらず、以下の3つの深刻な問題を引き起こします [24, 25]。
これは、**相互に認識論的に強化し合うが、相互に認識論的に不適合な**視点のシステムです [26]。DWやWCの帰属は、合理的であるにもかかわらず**不確定**である可能性があり、この合理性と確定性の間のギャップが、相互に合理的だが相反する立場が**未解決のまま均衡**することを可能にします [26]。これにより、真実に到達するための「理想的な発話状況」の実現が不可能になり、会話の前提条件が満たされなくなります [26]。
この状態では、**スピーチ・アクトの帰属**が、**事実に関する帰属**を圧倒します [27]。政治的言説の内容は、ほとんどが「あなたの言葉はDWだ」「あなたの主張はWCだ」といった帰属で占められ、事実に関する議論はわずかになります [27]。
この飽和は、最初の扇動的な事実(犬の噛みつき事件など)自体が忘れ去られたり、無関係になったり、解決されたりした後でも継続する可能性があります [28]。なぜなら、最初の出来事Aそのものよりも、「Aに関するスピーチ・アクトの疑わしさ」の方が、政治的に重要であるように見えてしまうからです [28]。帰属飽和は、事実から独立した状態となり得ます [28]。
帰属を行う者の動機が**真実の探求**であるにもかかわらず、その追求自体が、実際には真実に到達しない均衡を生み出すという点で**自己敗北的**になり得ます [25]。
DWやWCの帰属は、特定の認識論的視点から見て合理的であったり、あるいは実際に正しい場合もあります [29]。しかし、不確実性が支配的な状況でこれらの帰属を提案することは、政治的に不安定化をもたらします [29]。したがって、帰属者の真実追求的な衝動こそが、言説をこの悪い均衡の罠に陥れる原因となり得るのです [29]。
この弁証法的な問題は、相互に合理的な認識論的視点から生じる**自己組織化された社会現象**であるため、単一の加害者を特定することはできません [30]。均衡から脱出するためには、政治的コミュニティにおける参加者の**満場一致の同意**が必要ですが、これは強力な反対者によって容易に崩壊する可能性があり、困難です(「一方主義者の呪い」) [30]。
帰属の伝播を防ぐため、すべての当事者に高い検証・反証基準を課すことが提案されます [31]。しかし、誤導的なスピーチ・アクトの性質上、単純な検証や反証はできません [31]。より現実的な解決策は、スピーチ・アクト帰属の飽和を減らし、事実に関する問いを再び顕著にすることです [31]。これには、相互理解を深めるための**修辞的傾聴(rhetorical listening)**のスキルセットが必要となるかもしれません [31]。
帰属の落とし穴を認識し、増幅サイクルを抑制するために、新しい用語を導入する提案もあります [32]。
これらの新しいラベルが、過剰なSAAの力を無力化し、サイクルを終結させることが期待されますが、これらのラベル自体が新たなスピーチ・アクト帰属としてサイクルに貢献する可能性もあります [33]。
最も重要なことは、この問題を真に解決したいと望む人々は、**自分たちのスピーチ・アクト帰属自体が問題を引き起こし、構成している**という痛みを伴う自己認識を持つことです [34]。