
はてなキーワード:セルフパロディとは
なべパ 1/3
この漫画の2ページ目の「さっきから誰に向けて配慮してるんですか?」ってメタツッコミ、これかなり悪意高くない?
取るに足らない日常の些細な事を細かく取り上げて、それを勝手に加害行為に認定して、そして勝手に自分の中で勝手に反省して
そんな茶番を延々と繰り返しを見せつけられ、それを読んだ”自分は善性の側に立つ人間だと勘違いしている読者”が「ああ~^よく気がつけたね~~~^^アップデートできたね~~~~^^^えらいね~~~~~~^^^^社会が良くなってゆくねぇ~~~~~^^^^^^^」って精神的なオナニーを促す漫画でしょ?
そんな漫画に対して「さっきから誰に向けて配慮してるんですか?」ってツッコミはかなりクリティカルというか、月刊OUTやファンロード的な底意地の悪い視点から描かれたパロディだと思うんだけど、奥田亜紀子がこんな悪意あるパロディやるんだって驚いちゃった
最近発表した、発達障害の息子と落語見に行く父親の漫画も「さっきから誰に向けて配慮してるんですか?」って描写のオンパレードだったじゃん。ほぼ全ページそんなだったじゃん。
あの漫画、特に「男性の生きづらさもこちらはちゃんと配慮してございますわよ」的な作者の目配せ描写にゲロゲロゲェッってなったんだけど。
"そういう"漫画を描いてる奥田亜紀子が"そういう"漫画に対して悪意ツッコミ入れるって、自分の漫画を客観視できていないの?
それともあれか、"そういう"漫画を描いてる自分に対しての自虐のつもりでやってるのかな?
昔の車田正美が、自分の漫画のワンパターンさを徹底的に自虐したセルフパロディ漫画「リングにこけろ」描いたみたいなのと同じような事?
でもね、それでいいと思うんですよ。
はっきり言って「路傍のフジイ」みたいな漫画、大っっ嫌いなんですけど、でもああいう漫画だってあっていいし存在する意義もあると思うんです。
ああいう漫画で"心のオナニー"することで活力を得られる人間もきっと多いと思うんです。
俺はオナニーは心でするものじゃなく肉体でするものだと思ってるから、「路傍のフジイ」なんかで心のオナニーをすることは出来ないけど
だから「路傍のフジイ」及び「フジイ」的"そういう"漫画は心のオナニーをしないと行きていけない人達のために必要だから存在できるんです。
俺が「生徒会にも穴はある!」や「カナン様はあくまでチョロい」や「よわよわ先生」や「ゆめこねくと」を読んで物理的にシコってる間にも
「路傍のフジイ」や「スキップとローファー」や「違国日記」や「わたしたちは無痛恋愛がしたい」を読みながら心をシコってる人達がいる。
いろんなオナニーの形があってもいい、それって素晴らしい事じゃあないですか。
互いが互いのためのいいオナニーができる、そういう"オナにあい"(オナニー愛)の世の中にしていきたいですね。
Good Vibration and Good Masturbation そしてGood Luck Your Way
(アルコ&ピースのオールナイトニッポンより引用 https://youtu.be/7pDB0rU1yHc?t=2150)
※嫌いな「路傍のフジイ」をコキ下ろしてやろうかと思ったんだけど書いてる途中でオナニーしたらなんかどうでもよくなっちゃった。
水星の魔女もあれこれ不満はあったんだけど(もっと明確にスレミオの結婚式や誓いのキスを見せてくれよとか)、ジークアクス見てて、自分は結構水星の魔女が好きだったんだなと自覚した
日和らずもっとやれとは思うが、ガンダムのTVアニメシリーズで女性主人公にして、しかもいきなり百合でやろうとしてきたのは見ていて楽しかったし、スレッタとミオリネがどんなふうに関係を構築していくのか、毎週気にしていたと思う(そしてスレミオに関係の浅い話のときには残念に思ってた)
ジークアクスも1話目だとそんなふうに興味を持ってたし、2話目のまるまるセルフパロディなのも一応ファーストは見てたから面白かったけど、回が進むに連れて興味の薄い話題の比率が増えていって、「そんなことよりもっとマチュとニャアンを見せてくれ…、でも次回もそんなに見せてくれないんだろうな」と思うことが増えて、そもそも翌週をそんなに楽しみに感じなくなっていった
で、思い返すのは、「水星の魔女はもっと毎週次のエピソードが気になってたし、ファンアートとか見るのも好きだったな」ということ
これまで好きなガンダムはと聞かれるとターンエーとばかり言ってたんだけど、こんなに好きだったとわかったからには、水星の魔女もきちんと加えてあげるようにしよう
物語は〈もしシャアがガンダムを盗んでいたら〉という二次創作的 if を出発点に、ゲームのセーブポイントやマルチバース的分岐を前提とした軽い世界観を採用している。
キャラクターの死は重みを持たず、制作側もオマージュとセルフパロディを重ねることで、現実感を極端に希薄化させた「アニメを模したアニメ」を志向している。
演出面でも同じ軽さが際立つ。キャラクター描写は余白というより「落丁」に近い粗さで、カットのつなぎも総集編のようにぎこちない。
放送されたばかりの10話でもマチュのケツカメラからシャリアの壁ドンへの飛び方が非常に荒かった。目的は物語の自然さではなく、SNSで映える瞬間を切り出すことにあり、ショート動画的。
こうした作りの結果、視聴者は「短いのに濃密だった」という快い感覚は得られず、視聴中に「情報を詰め込まれている」という圧迫感を覚え続ける。
統一テーマはなく、12話という尺の中で①マチュ娼婦堕ちネタを代表とする夏コミ向けの薄い本ネタ、②毒ケーキ3連発などSNSでバズる雑ネタ、③ガンプラ販促という三つのノルマだけが明確に見えてくる。
ターゲットは国内の中高年オタク男性だ。彼らは「作品やファン自身に深みがなければならない」という長年の圧力から解放され、浅い流行りものを堂々と楽しめる。
乃木坂由来のキャラだろうが、JKが突然下着になる場面だろうが、旧作キャラの同窓会だろうが、「楽しければいい」というスタンスが肯定される。
この姿勢は、重度障害者を主人公に据え「女性の障害者は天使のように純粋」という固定観念を壊した小説『ハンチバック』と相似形をなす。
あちらが障害者の性格への幻想を壊した解放文学なら、ジークアクスは「中年オタクは深遠であるべき」という幻想を砕く解放アニメと言える。
そもそもガンダムの収益の核はロボット玩具だ。一旦ちゃんと終わったはずのファーストから卒業できない視聴者に合わせ、シリーズは Z、ZZ、さらにはマーベル的マルチバースへと広がり続けた。
近年の『水星の魔女』が海外市場に目配せしたのに対し、ジークアクスは完全に国内の高齢層へ照準を定める。
「40歳を過ぎてもJKのパンツとロボットおもちゃで盛り上がって何が悪い?」
「ガンダムは深くなくてもいい。浅いまま騒いでいい。」
深読みや衒学的な言い訳を不要とし、SNSでつるみ、大量のモブ死や露悪ネタで盛り上がる――それこそが本作の価値であり、「軽薄な空っぽおじさん完全解放」の到達点なのである。
ジークアクスはキャラクターの死が軽い。作品自体が「アムロでなくシャアがガンダムを盗んでたら」というifの二次創作であり、
分岐ややり直しが容易にできるゲーム感覚がベースになっているのもあるし、制作側がアニメのオマージュ・セルフパロディを繰り返して「アニメを模したアニメ」として現実から非常に遠ざかった記号化の極みにいるというのもある。
別に日本の二次元カルチャーを叩きたいのではない。こういうゲーム的だったりマルチバース的な感覚に基づいた作品作りはアメリカのヒーローもののほうが先行しているからだ。
キャラクターの描写も浅い。行間が広い、余白を残してある、といった美化した解釈が難しい「落丁」に近いような雑さ。カットの繋ぎが滑らかでなく、総集編のような粗い繋ぎ目の急展開。
(10話ではマチュのケツカメラからシャリアの壁ドンへの繋ぎが酷いものだった。9話の予告に壁ドン赤面を入れてバズらせることが重要であり、キャラクターの動きを自然にすることには意味がない)
だから短いわりに内容が濃かったと視聴後に感じるのではなく、視聴しながら「詰め込まれている」という感覚を常に覚え続ける。
作品として何が言いたいのかも軸がなく毎話うろうろして繋がっていないし、12話という尺が限られているなかでマチュ娼婦落ちなどの夏コミネタの提供と、SNSバズネタの提供、ガンプラの販促を行わなければならないという、『ノルマ』の存在だけが感じられる。
しかしそれこそがミーハーなオタク中高年男性が今求めている流行りのコンテンツであり、底が浅かろうが楽しければいい、なぜ中高年男性は深みを持っていなければならないのか?という問いにも感じられる。
元ネタが乃木坂で何が悪いのか?アイドルの何が罪なのか?ジャニオタの女子と同じように「若い、ビジュの良い異性のガワ」に中高年男性が喜んでいたとして何が悪いのか?
連想したのはハンチバックである。これは重度身体障害者を主人公とした小説で、主人公の思考・発想などが信じられないほど性格が悪い。ネタバレにならないよう一応詳細は伏せるが、はっきり言って腐っている。怠惰系の屑さではなく、積極的・加害的に腐っている。
しかし障害者の女性は天使のように心が美しいものである、という24時間テレビ的な圧力・幻想・期待に抗って、フィクションの世界では非常に尖った「性格が腐っている」という女性障害者像を打ち出したという点で、高く評価されるべき作品である。これは解放である。
ガンダムジークアクスも、中高年男性への「中身があるべき」という圧力・幻想・期待からの解放につながるのでは。ガノタはリアルロボットものに対して「深みのあるキャラクター描写」であるとか「説得力のある政治描写」があると言い張ってきた。
しかし、ジークアクスには明らかにそのような重さはなく、二次創作・マーベルっぽいマルチバース妄想、女子高生オリキャラ、女子高生がいきなり男の前で下着になったり、目が死んでいる子どもが娼館にいたりするエロ、
バスク・オムがどうたらという旧作同窓会的な大騒ぎ、毒ケーキという雑すぎて二次創作で騒ぐしかないネタ、モブが大量に死んで「大きな爆発のパワーを感じる」という小学生感覚のおかしみ、などなど
ひたすら軽薄でミーハーでバズ的で、オタクのおじさんの文化祭的だ。おじさんだって中身が無くて良いのだ。ゲームのような大量死を面白がって良いのだ。
やりたいことは結局、射精と、つるんで騒ぐことと、ロボットおもちゃ遊びである。子供向けロボットアニメとリアルロボットは違うという主張を必死で行っているグループもいるが、さすがに無理がある。
ガンダムの収益化のコアは、ロボットおもちゃ遊びである。ガンプラが売られているコーナーは玩具のコーナーである。ロボットおもちゃは男児が遊ぶもので、いずれ卒業するものとされていたのを、
一生卒業せずにおじさんになっても遊び続けられるようにして少子高齢化社会に適応したのがガンダムである。
(水星の魔女には外国人に売って市場を広げようとした努力が感じられたが、海外のLGBTQ+活動家が度が過ぎた暴れ方をして複雑な状況になってしまった。ジークアクスには水星の魔女で見たような海外目配せの試みは感じられない。完全に国内の高齢層を向いている)
視聴者がおもちゃから卒業したくないから、ファーストは終わらせてもらえずにZ、ZZと続き、マーベルのようなマルチバースに至った。それが2025年のガンダムである。
中身が何もないことについて、SNSでつるんで騒いでいて良い。エロと露悪という、浪人生が好きそうな内容で一生騒ぎ続け、現実では友達がいない分SNSで集団になって騒ぎ、一歩も成長していないままおもちゃ遊びをしていて良い。
これはおじさんの解放である。ガノタは必死に衒学的に理屈をこね回して深い人間であるふりなどしなくて良い。オリキャラJKのパンツと、乳比べと、おもちゃが好きなだけの軽薄な人間で良いのだ。論理的である必要性もない。
「40歳なのに、ずっとガンダムの話してるの!」これの何が悪いのか?という無条件肯定である。
「ガンダムは普通のアニメと違って深いから良いのだ」こういう言い訳は要らないのだ。深いオタクであるふりをしなくて良い。懐かしいオマージュ早押しクイズと、JKの乳と売春と、ロボットおもちゃだけで良い。
重度女性障害者は天使のような性格をしていなくてはならないという客体化の圧力を振り払い、腐った性格を打ち出したハンチバックに似た、これは「軽薄おじさん」「空っぽおじさん」「無成長おじさん」完全解放の金字塔だ。
これ、すごい感覚的な問題で分析とかそういうのではないんだけれどね。
あれ、富野由悠季監督とかですら、Gのレコンギスタとか見てると、セルフパロディっぽいな、って感じる所あるじゃないですか?
これ、富野っぽい、な、みたいなのを意識しながら作ってるんじゃないかな、って感じるほど白々しさがある部分っていうのかな?
これへんな話をしてるのはわかってる。
でも、そういう話じゃなくて、つくってる本人も富野っぽさをすでに意識しながらつくってしまってる段階でそれはセルフパロディを感じさせるんだよね。
押井守とかでも、うる星やつらのセルフパロディみたいなアニメつくっちゃうじゃないですか?
ひょっとしたら結論としては見る側の勝手な思い込みでしかない。
ということになるのかもしれない。
でもね。
セルフパロディっぽさが出ない人、というのもいるのよね。
と、ここまで読んで、どこがやねん!?宮崎なんてセルフパロディの羅列でしかないやろ!!
と、思う人もいるかもしんない。
【余談】
黒い三連星やジェット・ストリーム・アタックは多くの作品に影響を及ぼし、同じガンダムシリーズでもドムトルーパーやトライスター、ファントム3など、黒い三連星を意識したチームが登場している。
また、1983年に放送された富野由悠季監督によるアニメ『聖戦士ダンバイン』にはガイア似のガラミティ・マンガン、マッシュ似のニェット、オルテガ似のダーによる「赤い三騎士」と呼ばれる黒い三連星のセルフパロディキャラが登場している。
「トリプラー」というジェット・ストリーム・アタック風の連携攻撃を得意とし、元ネタ同様に踏み台にされた。
これ以外にも多数の作品、果ては特撮でもジェット・ストリーム・アタックを彷彿とさせる攻撃を行う敵も現れた。
近年のネットでは「ガイア!マッシュ!オルテガ! 奴にジェット・ストリーム・アタックをかけるぞ!!」と謎の4人目が発言しているような使い方をされ、「お前誰だよ」と突っ込まれるパロディネタも存在する。
真面目な話、もしこの1人がジェット・ストリーム・アタックに加わっていたらガンダムがマッシュのドムにサーベルを刺した時に一撃食らわせられてアムロを倒せたかもしれない。
LAZARUS ラザロ
いきなりドレイデルが出るけど日本人の何割がこれ見てあっドレイデルだってなるんや
キャロチューに至ってはクソアニメと呼ばれさえしなかった渡辺信一郎が
2025年の今やってることがビバップの劣化コピー、セルフパロディ
つ、つまらん!
「ただの鎮痛剤ではない」「体内に留まり続け」
「突然変異して」「人を死に至らしめる」
フワッとしすぎ 馬鹿かよ 具体的なこと何も言ってない
その鎮痛剤の何がどこにどう留まって、何がどう"突然変異"して、どう人を死に至らしめるんだよ
こんな具体的なこと何も言ってない動画を見てみんなして「マジかよ!」ってならんわ
「もう学校とか意味ないんで~」「人類最大のピンチだ~」って? ならんわ馬鹿
細かいこと気にしないで!とにかく死ぬの!治す方法無いの!それで納得して!って懇願してる
馬鹿すぎ 理屈なしでは誰も動かん、暴動も起きない、視聴者も納得しない 説得力ゼロ
話の流れってものを作る努力を放棄してる つまんないオリジナルアニメは全部こう 100万回見た
ほら見ろ「ワクチン」って言葉使った このアニメ作ってるやつ何も考えてない馬鹿だぞ
ワクチンって言葉を出したらハプロに仕込まれていたものが菌かウイルスに限定される
だからその場面の英語字幕はvaccineではなくcureになってる まともな設定作ってない証拠
放送前の予想通りこのアニメは「渡辺信一郎のぶらどらぶ」だった
LAZARUS ラザロ
いきなりドレイデルが出るけど日本人の何割がこれ見てあっドレイデルだってなるんや
キャロチューに至ってはクソアニメと呼ばれさえしなかった渡辺信一郎が
2025年の今やってることがビバップの劣化コピー、セルフパロディ
つ、つまらん!
「ただの鎮痛剤ではない」「体内に留まり続け」
「突然変異して」「人を死に至らしめる」
フワッとしすぎ 馬鹿かよ 具体的なこと何も言ってない
その鎮痛剤の何がどこにどう留まって、何がどう"突然変異"して、どう人を死に至らしめるんだよ
こんな具体的なこと何も言ってない動画を見てみんなして「マジかよ!」ってならんわ
「もう学校とか意味ないんで~」「人類最大のピンチだ~」って? ならんわ馬鹿
細かいこと気にしないで!とにかく死ぬの!治す方法無いの!それで納得して!って懇願してる
馬鹿すぎ 理屈なしでは誰も動かん、暴動も起きない、視聴者も納得しない 説得力ゼロ
話の流れってものを作る努力を放棄してる つまんないオリジナルアニメは全部こう 100万回見た
ほら見ろ「ワクチン」って言葉使った このアニメ作ってるやつ何も考えてない馬鹿だぞ
ワクチンって言葉を出したらハプロに仕込まれていたものが菌かウイルスに限定される
だからその場面の英語字幕はvaccineではなくcureになってる まともな設定作ってない証拠
放送前の予想通りこのアニメは「渡辺信一郎のぶらどらぶ」だった
そういう意味では、村上春樹のスプートニクの恋人と同種の作品と言える。
そういう意味では、富野由悠季の機動戦士Vガンダムと同種の作品と言える。
そういう意味では、宮崎駿の千と千尋の神隠しと同種の作品と言える。
その作家はそのひとつのスタイルを用いて、多数の作品を作り上げていく。
そうしているうちに、好むと好まざるとに関わらず、そのひとつのスタイルの極地に至る作品を作り上げることがある。
あるいは、そうしているうちに、意識的無意識的には関わらず、その一つのスタイルの極地に至る作品を作り上げることがある。
そのひとつのスタイルの極地に達すると、その作家は、ひとつのアガリを迎える。
その作家は、次の作品からは、それまでのスタイルと同じものを作れなくなるor作らなくなる。
最早、セルフパロディーか?と言いたくなるほどに
ただ、ここでいう村上春樹的、押井守的というのは、その当時の、という但し書きがつく。
今現在の我々は、それぞれの作家が当時持っていたスタイルから脱却した姿をすでに知っているので
現在の我々が抱く、押井守的、村上春樹的は、その当時のものとは大きく違っていて当たり前だ。
それはともかく、当時そのように凝縮されたそれぞれの作家性を生み出した二人は、
その次作ではそれまでの作品とは、違ったものを作り上げていくようになる。
富野由悠季のVガンダムは、富野由悠季という作家のひとつの極致の作品であったといえる。
これ以後、富野由悠季の作品はそれまでのスタイルとは変化を迎えることになる。
宮崎駿という作家が作り出した数々の映画のひとつの極致の作品だ。
彼の以後の作品は、それまでの作品の発展系とは異なる道を歩む。
ポニョなどはここまでの説明をハッキリとわかりやすくしてくれる好例だ。
それまで追求してきた宮崎ジブリアニメ的なものから袂を分かつ作品となっている。
押井守もイノセンスのあとは、劇場版のパトレイバーから発展していった系譜とは違う道へと歩むこととなった。
スカイ・クロラなども、ポニョ同様にかなりハッキリ違っているのだが、そうは感じない人もいるのは知っている。
このタイトルを見て、手にとって中身を見て、
ジョーク本・パロディ本だとわからないレベルの知能の人に配慮する必要あんのか?
真面目な辞典のパロディとして「~辞典」を名乗ってる本なんかいくらでもあるだろう。
最近だと「公務員版悪魔の辞典」なんかがあるけど、あれだって極限の馬鹿を想定すれば「公務員について書かれた公式の本だと誤解され、Wikipediaなどに引用される恐れがある」とか無茶な因縁つけようと思えばつけられる。
「そんな馬鹿いるわけないでしょ」は今回のオタク用語辞典にも該当するだろって。
といって文句つける奴がこんなにたくさんいることまで想定しなきゃキャンセルされるのか?
というか、いねえよそんな誤解する馬鹿。万が一いてもごくごくわずかだろ。日本人の知能どんだけ低いと見積もってるんだよ。
仮にそんな馬鹿が現れて真面目に「三省堂の辞典に書いてあるので引用します」とか言い出したら、
そんな極限レア馬鹿はみんなで指さして笑ってやればそれで済むだろ。それで不都合あるか?
三省堂ってただの出版社やぞ。国の事業かなんかと勘違いしてねえか?
なお、俺は「三省堂が出す本がジョークやパロディであるはずがない」という前提で文句言ってる連中にマジでいってんの?と問うているだけなので、内容の話はしない。
先に断っておくと,今から私は極めて(藤本タツキ氏に対して)無神経なことを書くつもりであり,その点については先に謝罪しておく.ごめんなさい.じゃあなぜわざわざ書くのかといえば,既に以下のようなコメントがネットに散見される状況ならまあ書いてしまってもいいかと思ったから.
https://twitter.com/imaitetsuya/status/1416946323043979267?s=21
『ルックバック』、すごく面白くてすごい作品だったんだけど、あの事件をこうやってすばらしいエンタメに昇華することやその世界に共振して祈りや救いのような気持ちに包まれること、になんというかすごい恐ろしさのようなものも感じる気持ちもあってうまく考えがまとまらない。すごく面白くはあった
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/shonenjumpplus.com/episode/3269754496401369355
masa_bob どんなに才能があったとしても2年前の実在の事件にDon'tLook Back In Angerと言って公表する権利があるのかが気になったことはブコメしておく
world24 ”Don'tlook back in anger”は遺族しか言えない言葉だと思うけど。なんか事件が読者には「エモさを強調するもの」として消費されちゃってるな。
端的に言ってしまえば,藤本タツキ先生はその事件の「遺族」だったんではないの,という話である.それがどこまで文字通りの意味でそうだったのか私は知らないし特に知りたいとも思わないが,マンガの描かれ方からして私はそう読み取った.
この作品に倫理的な危うさを感じてしまう人が一定数出てきてしまうのは理解できる.作者情報ゼロで読んでいたら私もそう感じていたと思う.そのような目線で読むと,この作品はまるで読者に対して「事件からもう二年も経ったんだし,うじうじしてねーで前向こうぜ」と語りかけているようではないか.何様のつもりだ.
でも,このマンガのタイトルは『ドントルックバック』ではないのだ.作者はルックバックしているのである.作者自身の過去を.
このマンガは,作者自身のリアルな経歴に対する自己言及の量が度を越している.ちょっとした遊び心のあるセルフパロディといった次元で片付けられるものではない.
登場人物の名称「藤野」+「京本」=「藤本」.京本の大学は明らかに作者の出身大学だし,『シャークキック』は明らかに『チェンソーマン』である.
https://twitter.com/12_Popo_36/status/1416781566928244742
って考察があったけど
だから,私はこのマンガを藤本タツキ先生の自伝だと思って読んだ.おそらく先生は,あの事件で自分の中のおよそ半分くらいを奪われたのだと思う(藤本の「本」=京本).それがどこまで文字通りの意味なのか,藤本先生に「では君は当事者なのか」と踏み絵を迫るが如く問い詰めることは,それこそとんでもなく無神経な行為となるので私は望まない.先生がこのような形で自分の思いを弔うことを選択したのだから,ドヤドヤと首を突っ込む権利はこちらにはないと思う.
では仮に当事者だったら許されるのかとか,事件に対する関係性を濁したままで許されるのかとか,ああいったトラウマ的な事象を表現として扱う際の手つきとしていかがなのか,とかいった問題は,私は詳しくないのでここでは触れられない.こーいう問題系ってホロコーストの表象不可能性に関して『シンドラーのリスト』や『ショア』と絡めてめちゃくちゃ論じられてきた話でしょ.誰か詳しい人論じてくれ.
ともかく,このマンガは藤本タツキ先生の極めて私的な回顧録かつ決意表明であって,それ以上の何かは特に込められていないのではなかろうか.
https://tomoko.fanbox.cc/posts/2500517
つまり『ルックバック』という作品はそのまま藤本タツキ先生のメメント・モっている状況、葛藤を描いたもので……ラストシーンは「充分にメメント・モったのでここからはやっていきをやります」というお話なんだと思った。
↑この記事には概ね同意するが,特に読者が「べき」を感じる必要性はないと思う.何か規範的なものを論じているわけではなくて,藤本タツキ先生の「やっていきますうおお」という日記が半ばフィクショナルな漫画作品として結実したものに過ぎない.そのマンガ的技巧の卓越さに驚嘆しようが,あまりの圧倒的な才能の発露に心を折られようが自由では.
メタ的なことばっかり書いてきたが,以上を踏まえての私なりの『ルックバック』に対する感想はシンプルである.
『チェンソーマン』で一番好きなのはアキくんです.高校編楽しみに待ってます.
加害者の描かれ方について苦言を呈するコメントに対して,「そもそもこのマンガはそういうテーマを扱う話ではないのだからその指摘は的外れ」という指摘もちょっと的外れだと思っている.まだ二年しか経ってないんだぜ.今の段階で,そもそも遺族に加害者側へ多少の同情をするよう強要できるのか?