
はてなキーワード:スラムとは
正直、AI に命令を出すリード、マネージャ、リーダーの能力が上がらないと、AI でコードを大量生産すると手に負えないスラムが根深く絡み合った構造で広がっていくことになるだろうというのが既に見えている。
というのも、AIほとんど影響ないちょい前の時点ですら「うちはDDD、TDD、クリーンアーキテクチャ、k8s、アジャイル、スクラム等々を採用して云々」ってプロダクトが、リリースから半年、1年で開発がスタックしている、という事例は一般が想像する以上に存在している。
リリース時は、CTOやマネージャが腕組みしてWebページで華々しい成果発表するものだが、その裏で手動運用のオンパレード、一箇所変更したらどこに影響が及ぶかわからない地雷原、不具合障害が発生するたびに増える監視サービス、手動運用マニュアル。
その前で、「圧倒的ではないか、我がプロダクトは」って悦に入る経営陣、の図。
それ見て「SaaS界のネズミー王国や〜」って妄想を迸らせる利用者側経営陣と、ブルシットな手数だけ増えて、業績給与はぴくりくらいしか動かないで悶絶する利用者側従業員。
この状態で、「いや〜、新技術の導入、失敗しましたわ〜。経費が5倍くらいに膨れ上がってます。ごめんちゃい」なんてリリース出せないでしょ。
それ見て教科書ガイドエンジニア、カタログショッピングエンジニアが「世界を変える! 俺(の業務経歴書)が変わる!!」って初見手探りで導入して、連れション地獄。
これが現状よ。
ここにAI が入ってくると、ますます「中身も、他の処理との関係性もよくわからんけどプロダクトに組み込まれた謎プログラムの塊」が、「これ以上機能を載せるとバランスを崩して全体が倒れる」寸前のサイズまで育つわけよ。
ここまで行っちゃったら、どこをどうしたらどうなるか、「AI 使ってふふふふ〜ん」ってレベルのエンジニアでは太刀打ちできなくなってるだろう。
すっと
「動くな!」
となって、対策のための会議とドキュメントづくりが延々と半年とかいうオーダーで繰り広げられることになる。
その間やれること、というかやらなきゃならないことは、障害対応手動運用。
こういう状態に陥らせたリーダーやリードテック、CTOは「新しいことに挑戦したいので」と敵前逃亡、成果発表のWebページを担いで次の犠牲者の元へ。
ちゃんと設計したら、生成AIを駆使する必要、あまりないはずなんだよなー。
で、テストも書いてくれる、っていうけど、AI に全投げ似非エンジニアにその妥当性とか、判断できんのかな?
カバレッジを100%に近づけるためだけのテストを手動で大量に書くのを代替してくれるかもしれないけど、あのテストが品質保証、障害対策になってる現場が一つでもあるか?
今流行りらしい、業務ドメイン分割マイクロサービスだと、AI で辻褄合わせてテストとか、無理やぞ。
という地獄が、2、3年後訪れるだろう。
楽しみやなぁ〜w
という話をすると、AI使いこなせないオールドタイプの負け犬の遠吠え、みたいにいうてくるのがいるんだけど、むしろAI を効果的に活用するための構造、構成とか模索してんのよ。
SNSのスラムっぷりが示すのはSNSというシステム自体の邪悪さではなくて、もともとこの社会に共通の言論空間など無かったということ。
対立する意見が対立するなりに同じ土俵で切り結んでいたのではなくて、全く通じない言語同士で吠え合っていただけで、SNSはその状況をわかりやすく可視化した。
言論空間というものは特権的知的エリート層が存在している前提での閉鎖的サロンとしてしか存在し得ない。
話の通じないアホの荒野に似たようなアホばかりが群れ集うエコチェンコロニーがあるだけというのがもとより世界の実相であった。
「SNSに絶望した〜」とかいう嘆きが間抜けに響くのはそういうことだ。「何を今さら」という。
可能そうなのは少しでもマシなコロニーを再建することぐらい。アホを排除したサロンを作ってとりあえずの足場とすること。でもそういう方向性の試みもあっさりポシャるのが定例。
「マウントを取りたい」という願望を満たすための手段でしかなかったオタク趣味に、青春と働き盛りを足した30年を終えてから気づいてしまった。
宇宙世紀の知識とか、神話のキャラ名とか、ネトゲのレートとか、全部人生において贅肉でしかないだろ。
後悔しか残ってない。
マウント合戦に負けた悲しみが俺達の友情をいつも引き裂いてきた。
何も残ってない。
本当に。
今までの興奮の全てが「ヨッシ!これでまた一歩マウントのネタが増えたぞ!」でしかなかったことに気づいてしまったから。
「世のアホ共がなろうアニメでシコシコする間、ダークホースの質アニメを嗜む上流オタクの俺様」という夢を見せて頂きました。
俺の好きだったアニメも!ゲームも!漫画も!全部こういう楽しみ方だったんだよ!
俺が参考にした人生のモデルが、たまたまこのしょーもない「マウンター型オタク」というアーキタイプだっただけだよ!
ガンダムや寄生獣が流行ったのだってさ、「俺はアニメや漫画を子供向けと決めつけず、価値観のアーリーアダプターが集う場所だと見抜いたハイセンス(ニチャッ」って連中が跋扈してた影響だろ結局!
たまたまその時代に流行ってたからってオウムや創価に流れた阿呆や、新しい生き方としてフリーターを選んだ間抜けと何が違うっていうのさ!
よくある馬鹿げた失敗だよ!
在り来りな嘆きだ!
問題は残された俺の人生が、趣味にも醒めきって孤独死まっしぐらで、仕事もロクに出来ず金もないってことだよ!
どうすんだよ!
格ゲーのコマンドなんて練習せずに受験勉強するべきだったんだよ!
2次元のロリババァでシコシコしてないで現実で三十路と付き合ってりゃ良かったんだよ!
ミリタリーの知識なんて詰め込んでないで自衛隊にでも入ってりゃ・・いやこれについては入らなくて正解だわ・・俺の人生の数少ない成功ポイント!
どうすんだよ!
こっからどうすんだよ!
アニメで学生共が夢を追ったり論文を書いたり恋をしたり美味いもの食ったりするの見ても、全部俺の人生にないんですよね。
ドラマで親父共が仕事で成功したり絆を深めたり技術が役に立ったり子供が反抗期迎えたりするけど、俺の人生とは無縁なんですよね。
辛いんだよ。
もうフィクションでさえ。
スラムのガキはミリオネアになり、冴えないハゲデブが本当の恋をして、金だけはある男が新たな趣味を拓く、そんなの現実では起きないからフィクションは楽しいんだよな!
違うな!
現実でもごくたまに起きるからフィクションとして最低限のリアリティが成立するんだよな!
ごくたまに!
畜生!
俺が本当に悔しいのはそっちかもな!
ふう・・・
寝るか。
追記:
綺麗なオチがついたのに蛇足で申し訳ないが、俺に対して「オマエまじでくだらねえな!」とマウント取ってきてるコメントはどの立ち位置からのマウントなんだろうか・・・。
50歩逃げた自分を卑下していたら1000歩先から「だっさwwwww」の叫び声が聞こえたような心持ちだぜ。
Permalink |記事への反応(17) | 20:35
子の付き添い入院を経験してそれを何かの形にしたいと思っているのだけれど、その「形」とエスノグラフィは8割くらい被ってる気がする。「当事者研究」とも近い。
この本は、私が付き添い入院と付き添い入院の間、数ヶ月の在宅治療中に、「なんかメンタルが整うような本ないかな」と思って立ち寄ったスーパーの中にある本屋で、めぼしいものが見つからず、「じゃあ新しい学びでも得るか」と立ち寄った新書コーナーで見つけた本だ。「エスノグラフィってなんだっけ?」と思って手に取ったが、初めて知った言葉だった。
買って一日で読み切ってしまった。
この本では「エスノグラフィとは何か?」という問いに対し、冒頭に結論となる文章が書かれている。初見では分かりにくい文章だが、その中で登場するキーワードを、各章で細かく説明する形で理解を深めていくようになっている。
私の感想もその文章の各キーワードについて、「付き添い入院中に私がやってたのってエスノグラフィなのかな〜違うかな〜」など、思ったことを書いていく。
その文章の説明をするところの前に「はじめに」と第一章の「エスノグラフィを体感する」があるので、そこの感想。
エスノグラフィは社会学の一部らしい。私は社会学部卒だったのでこの本を手に取ったのも必然だったか、という気持ち。あとこの「はじめに」の中に「在宅酸素療法」という言葉が出てくるのにも驚き。子がまさに酸素療法中だったので、「空気って大事なんだな」って話に非常に縁を感じた。
賭けトランプと棺の話面白い。ざっくりこの辺まで立ち読みして買うのを決めた。
『エスノグラフィは何も隠されてはいない、ありふれた日々の「生活を書く」ことを基本にします』。付き添い入院が行われている小児病棟は、隠されているわけではないけど、限られた条件の人しか参加できない。ただ、そこでは少し変わってはいるものの確実に生活が営まれている。
フィールドで見た場面と研究主題の接続:これが私の書きたいこととエスノグラフィの違い。私特に主題っぽいものを持ってない。「貧困」とか「差別」みたいな。多分。問題意識はあるんだけどそれをいま書いて訴えたいかと言われると、ちょっとピントがズレる。
フィールドと自分の普段の生活を二重写しにみる:これはそう。付き添い入院を知らなかった私には戻れない。
フィールド調査の十戒:これは基本的に「部外者」としての考え方だ。「当事者」として病棟にいた私が、より理性的に振る舞うために何が必要だったか考えさせられた。寛大であることと関わる人を中傷しないことは難しかった。私は「奪われた」寄りの人間だったから、無駄に奪われないために戦う必要があったし、中傷もした。「そういう考え方もあるね」と俯瞰することもないではなかったけど。フィールドの文化と歴史を知るために調べて歩き回ることは意識した。付き添い入院がどういった背景で行われているのか調べ、実際に入院する前に病棟の見学もさせてもらった。情報があまりにも少ないことが不安を生んでたからだ。偉そうにしないこととただの見学にならないように記録することも「部外者」の発想だと思う。
書くことについては、私は完璧に考えがまとまってから書くのでも、書きながら考えが立ち上がってくるのでもなく、考えた端から書きつけていかないと気が済まないタチ。不安や怒りといった感情とこれからすべきことは何かといった思考が絡まった状態で脳内にあるので、言語化して要らない感情は捨てて、必要な思考を拾い上げていく。整理してまとめ上げるというよりは断捨離。
章間にあるコラム全部面白い。ストリートコーナーソサエティの付則が面白いって書いてあるのと似てるかもしれない。
エスノグラフィは、経験科学の中でもフィールド科学に収まるものであり、なかでも①不可量のものに注目し記述するアプローチである。不可量のものの記述とは、具体的には②生活を書くことによって進められる。そして生活を書くために調査者は、フィールドで流れている③時間に参与することが必要になる。こうしておこなわれたフィールド調査は、関連文献を④対比的に読むことで着眼点が定まっていく。そうして出来上がった⑤事例の記述を通して、特定の主題(「貧困」「身体」など)についての洗練された説明へと結実させる。
妊娠中に子が先天性心疾患を持っていることがわかった。付き添い入院の必要があることが分かったのは生まれて1か月が経ったころ。2か月で手術をし、付き添い入院が始まり、4か月で退院した。現在子は7か月で、この先もう一度、手術と付き添い入院の予定がある。そしてその母親である私は、大変な記録魔である。それも、数字の記録はあまり続かず、起きたことを起きた時に感情と共に記録することを、携帯が普及し始めた学生時代からずっと続けてきた。そのため、子の病気に関することや私の生活についての数千件にも及ぶメモが分単位で記録されている。これは、不可量のものが記録されたフィールドノートになるのか?
客観化の客観化:エスノグラファーが研究対象に参加しようと努力するのに似て、私は自身や自身の置かれている環境を観察できるよう、自分の心から離れた位置から事象を捉えようと心がけてたように思う。発生時点では一人称的な見方になるし、ショックも受けるが、落ち着いたら、相手の立場に立ったり、制度面での欠陥がどこにあるのかを考えたりもした。冷静になりたかったし、付き添い入院で経験したことを有益にしたかった。
この章に出てくる市について『2024年の能登半島地震で被害に遭った地域にある』との記述を見て驚く。待ってこの本いつ出たの?2024年9月!!??出版されて一年経ってない本を私はいま手に取って「やべ〜めっちゃ今私が知りたかった視点だ〜」とか思ってるの!?「いまーここ」すぎる。
私が付き添い入院中記録していたことは100%これだ。事件もあったが、日常をひたすら記録していた。というか、育児日記を書いているママは大勢いるから、生活を書いている人はたくさんいるんだろう。参与ではなく当事者研究に近い行い。
アフリカの毒については、退院後の外来で、他のママが「あの環境って独特ですよね。なんか連帯感というか」となんだか楽しげに言っていたのが印象深い。子の命が懸かっているので、アフリカのように無限に往復したい場所ではないのだが、そこを無視すれば、一種の寮のような共同生活は他にはない体験ができる場所だ。具体的にどこがとは言いづらいが、非常に「日本的」だとも感じた。
フィールドを『問題地域としてのみみなすような態度を取らない』ことは、付き添いが始まる前はどうしてもできなかったことで、始まってみて「どこにいようが日常は続くな」と思うようになったことを思い出した。ちょっと石岡先生の言いたいこととズレてる気もする。
ここで『かわいそうでもたくましいでもない』という記述がある。かわいそう、たくましい。この二つは患者家族がめちゃくちゃ言われる言葉トップ2だ。そうね。かわいそうだし、たくましくもある。そのあっさい感想で、あっさい関係性の人たちについてはもういい。だがもうちょっと地に着いた、実際どうなの?というところを知りたい人に対して、私はものを書きたい。この記述太字で書いてあって、後半にも出てくるから、先生の中で通底してる考えなんだろうと思うととても嬉しい。
部落の話を通じて「いまーここ」を見つめようという話は、目を逸らしたい気持ちだった。自身の中にもいろんな偏見があって、正すべきだとわかっているけれど、今ちょっとそんな余裕がない。ごめん。の気持ち。
エスノグラフィで記述されるのはすでにあるものって話も、私を勇気づけるものだった。こんな当たり前のこと書いてなんになるんだろうと思うような話ばかりだが、丁寧に調べて書けば、論文にすらなるんだと思うと心が晴れた。
買ってから気づいたのだけど、この本には挿絵が入っている。印象的な場面やキーワードをページ一枚のイラストという形でも表している。図表は一個もない。大学教授が自身の研究と参考文献を大量に提示した、論文に近い新書でこの形式はとても珍しいと思うが、文章だけでなく絵で切り取ってみるのも、エスノグラフィが一つの事例を深掘りし、「何が」を調べるものではなく、「いかに」を調べる学問であるという説明を強化しているなあと思った。
その場に見学者としているだけではなく役割を持って参加することを持って「時間に参与する」と表現しているようだ。私は当事者なので参与も何も、強制参加させられて日常に帰ってきたのちに、「あの経験をエスノグラフィにできないか?」と、入り口ではなく出口としてエスノグラフィを使おうとしている立場である。
参与観察はもう少ししたかった。他の家族がどうやって子を看病しているか、一日のスケジュールがどうなっているか、経済状況、家族構成、抱えている困難。知り合いになった結果面倒ごとを押し付けられそうで、退院が確定するまで(いざとなったら逃げられる状況になるまで)他者を詮索するリスクを取れなかった。逆に言えば退院が決まってからはめっちゃ人と話した。
この本を読む以前に私がやってきたことがエスノグラフィ(というか研究)じゃないのはここだなあと。大学時代にやったことだが、研究には先行論文を読むステップが欠かせない。ただ単に「これってこうだと思うんですよ!」だけじゃダメで、「この論文ではこう言ってて、この研究ではこういう結果で、でも自分はここの部分はこう思ってて。で実際調査してみた結果がこれ。ね?あってるでしょ?」みたいな。
そして今日この本を読み終わって思ったのが、「この本を読んだことで、私のエスノグラフィ始まったんじゃない?」ということ。まあ当事者なので完全にエスノグラフィにはならないし、仮説を立てるとか主題を持つとかする気はないのだけど、この部分はエスノグラフィっぽい、ここは違うな、と「対比的に読んだ」ことで、ただの雑記が、研究や分析みたいな深みを得そうな気配がした。
それ以外にも「対比的に読む」ことはしていて、いま書こうとしているのと同じ媒体の、似たタイプの作者の書いたものを大量に読んで勉強している。書きながらやっているので、自分がぶち当たっている壁をどう解決しているのか教えてくれる最良の教科書として機能しているし、自分が書くもののどこがユニークなのかを都度確認もしている。
あとここで先生は『容赦なく書き込む』ことを推奨しているので、ここで初めてマーカーを手に取った。私は本を汚している感じがして書き込みをしない。けど、書いた人がそうしてというなら遠慮なくそうする。「はじめに」に書いていてほしかったな。なんでこんなど真ん中で…。先生の言うように初読の読むペースの時間的経験の中で重要と思われる部分にマークしていくべきだった。珍しく凄まじいスピードで読んだから、この文章を書きながら再読している時の咀嚼感と全然違う。
対比的に読むことがデータをつくることに関連している:一回目の付き添い入院は初体験だったので新鮮な驚きや緊張感で乗り越えられた気がするが、待ち受けている二回目に向けてのモチベがなくて困っていた。どういった姿勢で臨むべきか決めかねていて。そんな悩みに光を差す記述として、『フィールドで得た漠然とした問題意識を明確にするために文献を読み、着眼点を得て、その着眼点、気づきを持ってフィールドに戻って、「データをつくる」ためにインタビューやフィールドノートの記述をするのだ』(要約)と書いてありました。なるほどな〜と。二回目もやはり逃げられる状況になるまで他者のインタビューはリスキーではあるけれど、とりあえず一回目の振り返りをして、二回目はどんな記録をしていきたいか見定め、関連資料を探すことをしようと思う。
私は日常を書きたいだけで主題がないので、この章は自分のやってることとはちょっと違うかなということが多かったのだけど、主題があるとすればできることはあるなあと思った。前章の対比的に読むことや、社会学の文脈で書くこともそうだし、比較するのではなく、対比することもそう。
子の闘病において、病棟で暮らすことと、家で暮らすことのほかに、「外来」という場所がある。退院後も月に一回程度はその病院の外来に足を運んで検査をするし、外来を重ねてまた入院することもある。病棟にいるとよく聞く会話に「外来来るよね?」というものがある。最初耳にした時はそんなこと確認してなんになるのかと思ったが、別の日、外来に来た母親が病棟にも顔を出すというので、病棟の外に大量の母親たちに、なんと医師と看護師と病棟保育士まで集合しているのを見た。主題を「人間関係」とかに置いた場合、「病棟」と「家」だけで見たら抜け落ちてしまうものがこの「外来」という場所にありそう、対比して調査する場所として必須なのではと感じた。外来もまた病棟とは違った、独特な空気感を感じる場所である。
時間的予見を奪う:これは私に取って大きな学びだった。本書ではフィリピンの立ち退きに遭ったスラム住人の例が挙げられていたが、付き添い入院もこの困難を抱えていることを自覚したからだ。付き添い入院は始まる時も終わる時も未定で、予告されるのが数日前だったりする。病気を抱えているから当然だと思うだろうか?では、その入院する病棟が、盆正月やGWといった長期休暇にはガラガラになることを知っても同じ感想を持つだろうか?病気の子を人質に医療者の都合が押し付けられているのだ。あーあ書いちゃった。まだ治療が続くので今は敵に回したくないんだけど、気づいたら書かずにはいられない性分で。先の見通しが立たないことは病児看護において日常になる。生まれてから、治療が終わるまで、年単位でスケジュールが未定になる。純粋に病気のせいの部分もあるが、先に書いたように医療者の都合による部分が確実にあるにも関わらず、それは私たちには容易には分からない上、付き添い入院は「家族がどうしてもやりたいっていうからやらせてあげている」ていになっているので、余計にストレスが溜まる。この気づきを得たのは大きかったな。
病棟が長期休暇になると患者が減ることは他の家族のインスタで知った。付き添い入院において背景や論理を知ることは難しい。先にも書いたように詮索することで子の手術や看護といった医療サービスが適切なタイミングや質で受けられなくなるかもしれない不安が付きまとうからだ。医療者の側から観察できればいいのだけど。もしくは保育士や清掃員とかで入るのもいい。
ある人々にとっての現実の把握:この、たった一つの真相を知るでもなく、多元的な見方をするのでもなく、バイアスがかかっていることを自覚しながら観察するのは、当事者としてもいい見方だなと思った。私は当然患者家族であるので、その立場からものを見て言いますよと、自省的なのか開き直りなのか分からない姿勢にも自信が持てるというもの。
ミクロな視点からマクロを見る:付き添い入院がマクロにまで射程が届く研究対象なのは明らかだろう。付き添い家族をターゲットにしたNPOあるくらいだし。一方でその実態は泣く子と眠れない夜を明かし洗濯をし食器を洗いシャワーを浴びて食事をする、とても地味でありふれたミクロな場面の連続だ。
ルポルタージュとの違い:エスノグラフィは時間の縛りがない事がルポとの違いらしい。なるほど。昨日『ダーウィンが来た』で、動物写真家がシロイワヤギを40年追っかけてるっての見たけど、そっちと近いんだろうか。文学とも重なる感じ。先生も書いてるけどエスノグラフィは「読み物として面白い」ものが多そう。まだ私一冊も読んでないけど、本書で引用されたものだけでも十分面白かった。けど、「研究」でもあるので、主題と紐付けて研究結果が出てくるところが、エッセイやルポとの違いだろうか。エッセイでも面白いものはそうした「発見」みたいなのはちょいちょい見る気がするけど。社会学の文脈にびたびたに浸って先人たちのあれやこれやを紐づけまくってその上に自分の見た事象からの発見を記載できればエスノグラフィなのかな。知らんけど。ここは明確な区切りがわからなかった。
長文の研究計画書を書くって書いてあったけど、そこに何書くんだろう?私は主題はなくてフィールドが強制的に決められて問題意識(不平不満)と記録は大量にあるわけだけど、大学生とかは、①エスノグラフィというものがあるのを知り、②「子供の貧困について研究したい!」とかって主題を決め、③エスノグラフィで調査しようと決めて、④主題と関係が深そうなフィールドを探して(こども食堂とか?)、⑤主題に繋がりそうな場面に遭遇しないかな〜と思いながら参与観察するみたいな感じだろうか。やりてえ〜大学生に戻って。
研究とお金の話は文系も理系も似たような感じだな〜と思った。応用研究は金出るけど基礎研究にはなかなか出ないし長期での研究も難しいみたいなの話。
私が今付き添い入院をフィールドにエスノグラフィができない理由はここまで書いた通りで、問題意識を表出すると角が立つからだなあ。当事者は奪われる側なので。できない分ここで社会学の視点からみれそうな表現で問題意識については書いたつもりなので、誰かやってください。ほんとはやりたいよ。今すぐ石油王になって付き添い入院病棟を全て個人産院並の、シャワートイレ冷凍冷蔵庫付きで親と子それぞれのベッドがある広めの個室にして、食事もついて、付き添い保育士を外注できるようにして、その病棟の看護師と患者家族全員が参加Permalink |記事への反応(2) | 17:51
・俺19〜20くらい
・ボロいエスティマを乗り回す仲間がいる
・仲間は自分入れて3人。背が高い自分とエスティマ乗り、背が低い仲間が1人。
・ヒットハウスというテイクアウト専門の中華屋があって、そこでバイトするダンス好きの女子高生が2人いて、エスティマを乗り回す仲間の友達らしい
・ヒットハウスは実は殺し屋の斡旋ギルドなのだが、中華屋の方が流行ってしまって困ってる
・ヒットハウスはLINE的なやつで注文を取るサービスを利用してるのだけど、そこに裏メニューの殺し屋の依頼も出来るようになってる
パクリかな?思ったが全く同じ設定はなさそう。でもどっかから拾ってきたような設定なので、似たような話があっても全然おかしくない。しょうもない夢。
外国人犯罪を黙認するとか
俺の実家のある場所は南米からの出稼ぎ労働者が多くて、治安もスラムとまではいかないけれど、地元の学校やPTAで「◯◯川の向こう(外国人労働者が多くたむろする地域)には絶対に行かないように」みたいな連絡がしょっちゅうあるようなところなんたけど、以前俺の従兄の中学生の娘が下校中に出稼ぎ労働者数人に腕を掴まれて車に引き込まれそうになった事件があって警察に通報しようとしたとき、祖父だけは大反対して親族一同から総スカン食らうという出来事があった
祖父曰く「外国人労働者なしでこの国は成り立たない。だから慎重になれ」「そんなことで警察沙汰にしたらこの街は彼らから見捨てられる。そうなったらお前らは責任を取れるのか」「彼らは本当に乱暴しようとしたのか分からない。孫に好意を寄せて仲良くなろうとしただけかもしれない。なのにいきなり警察沙汰はやり過ぎだ」だそうで、当然だが祖父の家には誰も近寄らなくなった(同居していた祖母は既に他界してる)
特にキレたのは娘の父である従兄で、じゃあ親父の全財産売り払って◯◯団地(外国人労働者が多く住むことで有名)に行って、風俗代あげるからうちの孫に手を出すのは辞めてくださいとお願いしてこい!と胸ぐらをつかんで怒鳴り散らしてたが、それでも祖父は考えを曲げなかった
その後警察に被害届を出したが、被疑者が捕まったという話はなく、従兄一家は娘の中学卒業を機に遠方へ引っ越していった