
はてなキーワード:ジョイスとは
2025年6月8日時点で、日本語圏のどの電子書籍でも購入できない本の一覧。
「ライ麦畑でつかまえて」(日本語訳)(サリンジャー、白水社など)
「百年の孤独」「族長の死」「予告された殺人の記録」(日本語訳)(ガルシア=マルケス、新潮社)
「仮面の告白」「金閣寺」「真夏の死」「豊饒の海」(三島由紀夫、新潮社)(英訳はamazonkindleで購入できる)
15年というと、二葉亭四迷が『浮雲』(1887-1890)を書いてから、『蒲団』(1907-1908)で自然主義文学がはじまったとされるぐらいまでの時期、つまり、現代までつづく(ある程度)こなれた言文一致の文章が一般的になるまでにかかった時間とだいたい同じである。たしか、新聞記事の文章が文語から口語にかわるまでの時間もほぼ同じだったはず。
参考
確かに主張に矛盾が生じるまではそんな話は誰もしようがないが?だからなんなの?俺はお前の主張の矛盾を示唆しただけだぞ?ジョイスが病気じゃないというなら俺も病気じゃないぞ
確かに主張に矛盾が生じるまではそんな話は誰もしようがないが?だからなんなの?俺はお前の主張の矛盾を示唆しただけだぞ?ジョイスが病気じゃないというなら俺も病気じゃないぞ
のっけから申し訳ないのだが、自分は「古事記」を池澤夏樹訳で読んでいない。というか、この池澤夏樹の日本文学全集で読んだ本はほとんどない。しかし、池澤夏樹にはちょっと悪いのだが、リストとして便利なのでダシに使わせてもらった。
自分が最初に「古事記」に触れたのは神代だけを扱った子供向けの講談社青い鳥文庫経由でだ。次に読んだのが確か大学生の頃になる。文芸春秋社の三浦佑之が現代語訳したもので、古老が昔話をする形式で翻訳していた。現代人にはわかりづらいところを語りで補う、初心者に親切なものだった。
さて、内容だが、神話だけでなく、それ以降の歴史時代の記述も面白い。ヤマトタケル物語だけでなく、おそらく戦前は教えられていたであろう神功皇后の朝鮮半島への進軍を知っておくと、昔の人がどんな世界観を持っていたか想像しやすい。権力者の書いた歴史書を鵜呑みにするのは危険だが、歴史の一次資料に(翻刻・翻訳されたものとはいえ)触れるのは非常に楽しい。「学校で習う歴史の出典がこれか!」という素直な驚きがある。
もちろん神話としても面白く、考えてみれば今の皇室は天の住民と海の住民の両方の血を引いているという属性てんこ盛りである。他にも、イザナギノミコトとイザナミノミコトが夫婦生活をする際に「凸を凹に入れて子供を作りませんか?」「それは楽しそうですね」というくだりが何となく好きだ。性に罪悪感がないのがいい。もちろん、最初に生まれた子供ヒルコの描写は、今の感覚では身体障害者差別なんだけれども、後にそれが恵比寿様だということになって崇拝されるようになったのが、何となく流されたヒルコが救われた感じがして、結構好きなエピソードなのだ。捨てられた存在に新しい場所を用意してあげた後世の人の優しさみたいでね。
面白かったので「日本書紀」も確か講談社学術文庫か何かで読んだ。傍論としてさまざまな説を併記しているのが、物語ではなく歴史書の体裁をとっている「日本書紀」の特徴を端的に示していて面白かった。もちろん、これだけでは日本の神話は理解できない。中世の神仏習合や近代の国学、陰陽道などの展開を追わねばなるまい。しかし、その一歩を踏み出せたのはやはりうれしい。
ところで、「記紀」の記述を合わせて池澤夏樹は「ワカタケル」を書いたようだけれど、個人的にはピンとこなかった。「記紀」の文字に書かれたことや考古学的成果の内容とは矛盾しないが、むしろ史実から離れすぎないようにしたため、想像力が少し現実に縛られている気がしたのである。あとは現代中国語の「上に政策あれば下に対策あり」って言葉が引用されていたのに違和感があった。お分かりのように、僕は面倒くさい読者なのである。
「万葉集」は全然読んだことがない。というのも、巻数が膨大なためだ。僕は完璧主義なところがあり、読むならきちんと最初から最後まで読むべきだと感じてしまう。それに詩を読むのなら、一つ一つの詩をきちんと味わって理解したいのである。そうなると膨大な時間がかかり、そこまで詩に興味がない自分としては手が伸びない。ただし、自分にフォークナーを薦めてくれた友人は、「美酒をがぶ飲みするように、次から次へと詩を読んでいくのも贅沢でいいものだよ」とは言っていた。僕の場合、深く刺さった詩は、小説の中のぴったりした場面で引用されたときに出会っているケースがほとんどだ。やはり詩が多すぎると言葉の海に溺れてしまう。
「百人一首」は田辺聖子の解説で読んだ。それぞれの和歌や作者の背景を丁寧に、肩の凝らない文体で説明してくれているので、今でも時々手に取っている。王朝の人物史としても面白かった。田辺聖子とは評価する場所が違うところもたくさんあるけれど、脱線が楽しい。ちなみに、初めて百人一首に出会った小学校高学年のときには、もちろん恋の歌にばかり心が動かされたのである。「しのぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで」。たぶん自分の感傷マゾというか、言い出せない思いをウジウジ、グツグツと自分の中で煮詰めて煮凝りにしてしまう傾向は、この時からあったのだろう。
ところで、王朝文学は世界的に見て女性作家が多かった時期だと聞いたことがあるのだが、調べてみると女性の句は二十一だった。半分くらいだと思っていたのだが、これは女性の句が心に残ることが多かったための錯覚だろう。
「新々百人一首」は未読だ。こうして記事を書こうとしていた時に調べたのだけれど、王朝の歌を二百種に絞って紹介してくれているらしいので、これはぜひ読みたい。昔ほど完璧さにこだわらなくなったし、こういうベスト盤みたいにピックアップしてくれると、きっと散文を好む自分も楽しめることだろう。丸谷才一はジョイスの翻訳で知ったのだけれど、文章のリズムが合ったから今から読むのが楽しみだ。
これらの本はすべて別の訳者で読んだのだけれど、こうして並んでいる訳者にそれぞれ馴染みがあるので、彼らがどのような翻訳をしたのか、ちょっと読みたくなってきた。ちょっと前までは「古典は原文で読んでこそ意味がある」という原理主義的なところがあったのだが、「源氏物語」や「太平記」が長すぎるあまり、開き直って現代語訳で読んでしまったため、最近はそこまで原文にはこだわっていない。今ではいい翻訳がたくさんあるので、普通に現代語訳でストーリーを味わってから、原文を楽しめばいい。このラインアップでは、個々の作家に対しても言いたいことがあるのだが、今回は省こう。
「竹取物語」は、幼いころに聞いた物語の原典を知る楽しみがあった。一番シンプルにされた絵本のバージョンだと、五人の貴公子の物語が省かれてることもあるし。そういう意味では、「御伽草子」なんかもちょっと読みたくなってきたな。
「伊勢物語」は短編集で、古典の授業で東下りを扱ったので前から気になっていた。ただのモテる男の話を読んだって楽しくないかもしれないが、一つ一つがごく短いのでそこまで嫌味ではないし、うまくいかななった恋物語もある。それに、古語で読むから現代日本語で読むのと違ってワンクッションある。僕は感傷マゾだったから、結局は恋の物語が読みたかったのだ。
だが、書かれているのは恋愛遍歴だけではない。「老いぬればさらぬ別れのありといへばいよいよ見まくほしく君かな」「世の中にさらぬ別れのなくもがな千代もといのる人の子のため」。ほんとそれな。無理な願いだとわかっていても、大切な人には永遠に生きていてほしい。これらの歌に出会えたのは幸いだった。
なお、これを読んだ後に祖父を亡くしている。ほんとに、人間がいつまでも生きられないのは寂しいことである。なお、これも阿部俊子訳の講談社学術文庫で読んでいる。
他に当時刺さった歌を日記から書き写しておく。「思ふこといはでぞただにやみぬべき我とひとしき人しなければ」(そんな寂しいこと言わないで……)「心をぞわりなきものと思ひぬるかつ見る人や恋しかるらむ」(それな)。たくさんあるのですべては書き写さない。
「堤中納言物語」は「虫愛づる姫君」で有名だけれども、例えば娘ではなくその祖母を連れ出してしまう話だとか、二人の男が誤った相手と契ってしまうとか、慌てて白粉ではなく墨でメイクしてしまう話とか、奇妙な話も含まれている。あとは手に入れることなど到底できないもので作った「ほしいものリスト」である「よしなしごと」とか。どうも物語に統一感がなく、どういう意図で編纂されたのかはよくわからなかった。これは笠間文庫で読んでいる。
「土佐日記」は小学生時代に塾の先生が「男のくせに女の文章で書いたのが紀貫之って変な奴」って紹介していたのでそんな印象がずっと続いていたし(子供にインパクトを与えて覚えさせるためなのと、当時は平成初期なのでこういう言い方をしていたのである)、文学史的にもそういう評価をする面もあるのだが、今は亡き子供の思い出を語る悲しい話なのである。道中の描写も素敵だし、ラストの「この原稿は捨ててしまおう」というくだりが、例え虚構であってもとっても好き。どうも僕は、一人の人間が読者を意識して書いたテキストであるという臭いが好きらしい。だからメタフィクションも好き。これは角川日本古典文庫で読んだ。図書館で借りたボロボロになった古い本だった。三谷榮一訳註。
「更級日記」はかつての文学少女が「源氏物語」をはじめとする文学への憧れを綴っているが、ラストのあたりで「自分の人生はいったい何だったんだろう」と回顧するので、僕みたいな作家になりそこなった文学少年崩れが、感傷的になりたいときなんかにオススメだ。内容をすっかり忘れているのだが、そこばかりが強く印象に残っている。
そして、「物語なんぞにうつつを抜かすんじゃなかった」的なくだりがある癖に、内容が技巧に富んでいるのだが、それはただの未練というよりも、そうした技巧で妄念を鎮めようとしたのやもしれないし、それもまたパフォーマンスかもしれない。小説家になりそこなった僕にはグッサリと深く刺さっている。よく「更級日記」は文学少女の物語だと言われているが、文学少女崩れの物語でもあるのだ。実際、興味深いことに「更級日記」では結婚、子供の誕生、両親の死という重い事柄が、ほとんど触れられていないのである。
それにしても、文学少年や文学少女はとても欲深い。彼らは現世で得られないものを書物の中から得ようとするからだ。そして、創作に手を出すのは、自分の持っていないものを魔術のように作り出そうとする更に深い欲がある人々だ。そして、僕はその欲望を愛していた。
ああ、そうだ。ここまで書いて気づいたのだが、恋だけでない、生きていてふと感じる寂しさを和歌にした作品が、僕はとても好きなのだ。
こういうのは個人のブログでやったほうがいいんじゃないかと思わないでもないのだが、辺境のブログでやってもあまり読者は集まらない。個人のブログを読んでもらうためには、ある程度自分をコンテンツ化する必要がある。言い換えるならば、一定の頻度で、ある程度の品質の記事を、独自色を伴って、継続的に生産し続けなければならない。なかなかできることではない。それに、この動画全盛期の時代に、どれほど文字を読む人がいるだろうか? また、首尾一貫したキャラで書き続けるのも面倒である。
一方、はてな匿名ダイアリーでは、文字を読むのが好きな人が集まっている。また、内容が有益であったり面白かったりすると、きちんと読んでもらえる。虚飾と権威主義真っ盛りの時代にあって、「誰が言ったかではなく、何を言ったか」だけで評価されるという意味では、非常に居心地がいい。もちろん殺伐としているし、暴言も多いが、それを補って余りある素晴らしい点である。有益なまとめを書いたときは褒められ、的外れなことを言えば叩かれ、面白くなければ無視される。残酷だが、内容だけで毎回勝負するのは、文章を書くのが好きな人にとっては鍛錬の場になる。
なお、時折こうして個人的なボヤキを書く。あまりにも古典文学の紹介という話題から逸れ過ぎて、イケメン・モテ男に関する個人的な愚痴になってしまい、読者を笑わせるよりは暗鬱な気分にさせるであろう箇所はこれでもかなり削った。かろうじて残したのは文学に関係する箇所のみだ。
恨みつらみを向けている人や、気に食わない人はたくさんいるのだが、作家以外は実名では論じるつもりはない。名前を出して作品を批判することはあるが、その人の行いに直接何か言いたくなった時はぼかしている。己の負の感情を直視したい一方で、人にネガティブなものをぶつけるのは美しくない。だからせめて、こういう妙な義理を通したいのである。
それでも長い。気に入らなければ読み飛ばしてほしい。ここに書きたいのは古典文学の紹介であり、せめて日常感じていることであり、怨念の垂れ流しではない。ただし前回のように時折脱線しては管を巻くつもりだ。
続く。
ざっと振り返ってみたが、どの本も細部がかなり記憶から零れ落ちている。ほぼ記憶が頼りだから極めていい加減だ。アラフォーの文学少年崩れなのでしょうがない。そして、当時感じていたひがみ根性を思い出して少し苦しくなってしまった。欲望のコントロールに苦しんでいた若いころの感想なので、今になって読み返したらまるで違った感想を持つことだろう。知識も増えたし。
そのドロドロした感情の半分くらいは過去のものとなっている。近頃は心の闇が薄れてきた。これは加齢によるものだろう。読書の好みもすっかり変わってしまった。たぶん今読み返したら全然違う感想を持つはずだ。今となっては、モテない悲哀には昔ほど心が動かされないのではないか。
モテない怒りというのは、自分がプラスの感情を渡したのにそれが返ってこなかったというのが根っこにあるのだろう。しかし、相手の気持ちがどう動くかってのは相手の自由意思なので、こちらの意のままになるはずなんてない。任意の相手の心を開く万能の鍵なんてない。相手をコントロールしようとするのは無駄だ。それで相手に怒りを覚えてしまうのは、共感的に深く理解できるが、己のわがままでしかなく、こんなこだわりはどこかで捨ててしまわないと苦しい。
話を戻そう。前ほど心を動かされないと書いた。そのせいだろうか、読書量は変わらないが、小説を読む量も減った。
今の自分は、何を読んでも似たような感想になってしまう。結局、何を読んでも同じことを思い出すのではあるまいか。そして、前述の感想を見るとわかるように昔からそうだったのだが、自分の境遇に引き寄せてしまって無数の誤読をしているはずだ。結局は自分が、我がどうこうという意識から離れられない。
もしかしたら、凝り固まった大人になってしまったのかもしれない。過去のエントリから大して感想は進歩していない。そしていつの間にか、たとえば「女性作家とはこういうものだ」「この国のこの時代の文学はすべてこうだ」という、偏見に満ちた思想が自分の中でどんどん育っていっているのを感じる。気づいた範囲で修正してはいるものの、怖い。しかもこの半年ばかり、小説を読んでいない。
文学にすがらないと生きていけない段階を、幸福なことに脱したのかもしれない。どろどろとした感傷はすべて過去のものとなり、深い眠りについたようにも見える。それに、小説を読んで感情を揺さぶることが、メンタルヘルスに対してプラスなのかどうかも疑わしくなってきた。穏やかに、つらい出来事の起きないフィクションに移行したほうが、幸福なのかもしれない。クラークが「2001年宇宙の旅」で、最後に生き残ったデイヴィッド・ボーマンが一人ぼっちで音楽鑑賞をするのだが、オペラにうんざりしてクラシックしか聞けなくなり、最後はバッハにたどり着いたのを連想する。人間社会から離れた彼は悲劇の筋書きに対して、「常識を働かせれば解決策があるのでは?」みたいな感想を持ってしまう。そして、感情の激流であるヴェルディのレクイエムにひどく打ちのめされ、物静かで抽象的な音楽に向かうのだ。
それとも、文学は僕にとって生きていくうえで出会う出来事への予行演習だったのかもしれない。今、何気なく「予行演習」と書いたが、これはかなりしっくりする表現だ。振り返れば、若い人間が生きるとはどんなことなのか先が見通せず、答えを得ようとしていたようだ。起こりうる様々な不幸に備えて心の準備をしていたのだろう。
いや、少し矛盾している。何を読んでも似た感想になってしまうのは、モテたいという気持ちがあった若いころもそうだった。感情で消耗するのに、単に疲れているのかもしれない。感情を動かされるのを避けていて、知識をいたずらに溜め込むことしかしていない。最近は阿部勤也の中世の本や、ブルーバックスの地質学の本を読んでいる。これはこれで楽しい。
⑤で触れた「エタンプの預言者」みたいに、最近の海外文学のあらすじを読むと、文学と価値観の変化の速さに正直ついて行けなくなっているようだ。実感をもって何かを理解する間に、すべてがどんどん先に進んでしまう。おそらくこのエントリも古い価値観で書かれていることだろう。僕はもう世界には追い付けない。職場でコンプライアンス違反にならないように表面を糊塗することしかできない。文学を読んで正しく真っ当な人間になろうとしたが、結局はあらゆる欲望からは自由になれなかった。むしろ、意識の高さは自己批判を強め、心のバランスを崩すことになった(余談だが、東大の有名な総長がタフであれと何度も言っていたけれども、心身の障害でタフになれなかった僕は苦しかった。また、十数年後の新入生式辞でジェンダーギャップについて述べたこれまた高名な社会学者がいて、これはニュースにもなった。理屈はまったく正しいし、性別による不平等や扱いの違いは僕も大嫌いなのだが、一方で新入生に私怨から祝福ではなく呪詛を浴びせたように思ったし、自分がされて嫌だったことを次の世代にぶつけているだけではないかと感じた。そして、そのせいで「自分が入学できたのは性別が理由なのか?」と、ものすごく努力していたのにもかかわらず、重篤なインポスター症候群に悩まされることになった。愚痴は以上である)。
そもそも、なんで文学が好きになったのかを考えると、はじめは頭が良くなりたかったからなのだが、究極的にはそこに人間の愚かさが表現されているからだろう。そこにいれば自分のひがみっぽさや醜さを受け入れることができる。少なくとも同じくらい大きくてネガティブな感情を抱えた人間が世界にはたくさんいるのだと慰められる。ダメなところを許してくれるのが文学だった。そんなものを読んでいても、大人は何も言わない。
文学が読めなくなった文学少年崩れになっても、はてな匿名ダイアリーから離れられなかったのも、それが理由だ。人間の偽らざる感情が増田の怪文書にはある。
ところで、僕は障害者であり、二級の手帳を持っている(ただし、弱者だと名乗るつもりはさらさらない。うちの大学を卒業した連中の平均の給与の半分どころか三分の一ももらってはないだろうが、弱者男性とかブサメンとか非モテとかそんな看板を立てるのは正直に働いている自分のプライドが許さない)。加えて、海外在住経験がある。にもかかわらず、社会派の文学にはほとんど心が動かされなかった。その多くで感情よりも理屈が優先されているからだ。政治的な主張がしたければ、直接論理的に分析したほうがわかりやすいし、散文なら書く方も読むほうも時間が短くて済む。イデオロギーに縛られていては展開だって予測できてしまう。政治的な作品で面白いのは全体の一割だろう。最後まで読みたいだけの魅力が薄い。
余談になるが、そういう意味でも、現代アートで深く刺さる作品は少ない。知的には面白いと思っても、心を動かされ、性欲を刺激され、あるいは激しく嫌悪し、内臓が理屈を超えて震えるのが、僕にとっての芸術だ。一昔前の表現でいうと前なら左脳ではなく右脳が刺激されるような作品がいい。ルネサンスや近世の西洋画のように、シンボルを読解するのはそこまで心が動かされない(ごくごく一部の高度に知的な作品、持てる知識を総動員しないと面白くない作品を除く。これは全力で取り組まないといけないため、別の良さがある。ジョイスとか円城塔とかエーコとかね)。そして、優れているのに、言語化が困難なものの評価が一番高い。その点、マグリットの、言葉遊びによる対象の置き換えをモチーフにした作品はピンとこなかった。理詰めで説明がたやすいのは良くない。
もっとも、あらゆる芸術の九割はそもそも刺さらないというのは、普遍的法則である可能性がある。なんであれ、世間がどう言おうとも、作品を好きに読んで好きに解釈する自由は、失われてはならない。唯一の正統的な解釈があるのはつまらん。「丁寧に読解しろ」ってのならわかるけど、どんなものであれ上から押さえつけられるのは相手が正しくても嫌いだ。人間にはどんなに歪んでいても、そして不道徳であっても、正直な気持ちを話せる心理的安全性が担保された場所が必要だ。そして、相手が世間的に正しいとされていると、こちらは反論できないし、反論すること自体が批判される。だからキレて暴れるしかない。正しさへの嫌悪ってそういうことなんじゃなかろうか?
ときどき、「どんな理屈をこねるよりも、目の前の相手に敬意を払うにはどうすればいいのかという実践にのみ意味があるのでは? 知識は参考にしかならんのでは?」って疑念が兆す。それとも、こうなってしまったのは文学に対して心を閉ざしてしまったからだろうか? だから前ほど心が震えなくなってしまった。だとしたら寂しいことだ。
近頃、文学に対して心を閉ざしているとしたらなぜだろう? 政治の季節は理由ではない。他に理由がある。僕は実はかつては小説家になろうとしていた。名作に手を出していたのはそれも理由だ。最終選考まで行ったこともある。だが、その願いは叶いそうにないと気づき、怒りから小説から遠ざかった。
同じ夢を持っていた友人・知人がデビューするのも見てきている。現代作家を読まなかったのもそれが一因だ。自分のほうがいいものが書けると傲慢にも思いこんでいたからだ。彼らの作品を読むと、そんな思い上がりは雲散霧消するけれどね。
今でも、数か月に一度目を覚ます飢えがある。発作的に何かを書きたいという欲望だ(実際、こうやってちょっとした短編小説くらいの長さのエントリを書いていてすごく楽しい。じゃあ増田じゃなくてブログでやればいいんだろうが、少なくとも同レベルのエントリは継続的に書けない。なぜならこの文学全集を読むのに十数年かかっている。こういうネタは量産できない。このエントリでいったい何冊の本に言及してるんだ?)。
しかし、最終選考の講評ではボコボコに批判されたし、これ以上自分の気持ちを書いても自分は幸せにならないと、諦めがついたはずだった。それに、小説は感情の垂れ流しではありえない。読者を楽しませる必要がある。少なくとも読者の受けるであろう感情を計算せねばならない。加えて、デビューした友人はものすごいインプットをしている。これは認めないといけない。活字を読む量は僕のほうが多いが、それ以外に漫画だとかソシャゲだとかエロゲとか映画とか、とかくジャンルを超えて摂取しているものが多い。例えば現代の女子高生を魅力的に書くには、そのキャラがかわいいことと、リアルなティーンエイジャーとしてありそうかという軸がいるが、僕にはどちらもできない!
ヴァージニア・ウルフ「灯台へ」は家族旅行あるあるみたいな感じ。ちょっとした会話のささいなことで不機嫌になったり、いろいろと期待してしまったりする。そして、年を取ってから家族の思い出の場所を訪れたりすると、あのとき気づかなかったことがわかる。
基本的にヴァージニア・ウルフがすごい好きで、上みたいな家族の何気ない感情や小さな苛立ちがきれいに救い上げられていて、それらがシームレスに別の人の感情に繋がっていくのがカットの切り替わらない映画みたいでとにかくきれいで、「意識の流れ」とかそういう文学用語を抜きにして、ひたすら浸っていたい。大体、プルーストとかジョイスとかも同じ言葉でカテゴライズされるけれども、資質が全然違う。同じ理屈で「ダロウェイ夫人」も大好き。最高。神保町で買った「波」はちょっと難しかった。
ジーン・リース「サルガッソーの広い海」は「ジェイン・エア」の二次創作というか、正気を失ったモンスターとして出てくる、つまり人格を持って主人公と関わらない、ロチェスター夫人の背景の話(当時の精神病への偏見が見えるね)。ロチェスターってひどいやつだな、何でこんな奴がモテるんじゃいみたいな気持ちになる。
ところでこの作品の原典の「ジェイン・エア」って、叔母にいびられたり闇を抱えたイケメンが出てきたりと、なんとなく女子受けするフィクションというか、ある種の朝ドラのプロットや女子向けラノベに何となく似ている気がするのだが、それらをろくにきちんと見聞きしたわけじゃないのでエアプと偏見であるし、以前に別の作品をこういう女子受けという論点から語ったところ増田ではものすごく叩かれたので、うかつなことは言えない。ついでに叩かれたせいでその作品にまつわる十代の思い出まで汚してしまったような気がした。増田に常駐していると若干煽るような表現をしてしまうようになるので、いい加減に別のSNSへと移住する潮時かもしれない。
あとはそうだな、ロチェスターがイド、ジェイン・エアが自我、リヴァーズが超自我でラストにロチェスターがおとなしくなったイドなんじゃないかって、初めて読んだときに思ったのだが、これはフロイトの本を斜め読みした僕の偏った知識と解釈だと思う。独学って現在の潮流を知らないから偏るんだよ。
フランツ・カフカ「失踪者」をはじめ、彼の長編は大体未完成で、しかもとにかく主人公が訳も分からないままひどい目にあい続けるのだが、例えば女性と恋に落ちる場面があってもさらなる不幸への入り口に過ぎないのである。性欲を見せたら罰を受ける世界観だなって感じた。カフカは短編を読んで気に入ったら長編を読めばいいと思う。未完成だし。威圧的な父の陰/社会の不条理な規範から抜け出せない人におすすめ。いい作品、心を打つ芸術って苦しんだ人間から生まれる。その点共産圏ではすごいいい芸術が生まれているんだけれど、こういう背景を知っていると喜べない。
あとクリスタ・ヴォルフ「カッサンドラ」ね。古典のパロディは基本的に好き。知っていること前提でどうずらすかってのは、原作を知っている映画を観に行く楽しみに似ている。とはいえ、作品としてはそこまで面白いとは感じなかった。この小説は神殿で犯され、捕虜となって異国の地で殺される運命を知っているカッサンドラの視点で語られる、フェミニズム的再解釈で、ギリシア神話の通説とは異なり、ギリシア方のアキレウスの英雄性を否定し、彼を暴力的なけだものと終始さげすむ。一方、トロイア方のアスカニウスやアイネイアスが女性に理解を示す理想的コミュニティを築いているのが、なんというか、安直な善悪の対立みたいで面白くなかった(僕がトルストイをあまり高く評価しないのもそれが理由)。結局カッサンドラがどんな澄んだ心境に至っても、結局は異国で無残に殺される運命は覆らないしね。
ところで、フェミニズムについてはいろいろ話すと長くなるが、僕は女性への不当な扱いや尊厳を奪う暴力には激しい怒りを覚えるし、平等な教育や選挙権・被選挙権に感謝しているし、きちんと耳を傾けなきゃと思う一方で、フェミニストには一定数のとても失礼な人がいるのでどうしても印象が良くならない。リベラリズムを気に入っていてもリベラリストには疑いの目を向けているし、愛国心があっても愛国者を名乗る人は警戒してしまうのと理屈は同じだ(思想が好きで人間が嫌いってことか?)。
ただし、アンチ・フェミニストにも倍ぐらいヤバい人がおり、つまるところ自分の大嫌いな人や対立する価値観と向きあい続けて正気を保つのは難しいってことなのかもしれない。日常的に他人を見くだしたり嘲笑したりするのは、風刺は有効な文学上のレトリックであるとはいえ、その末路がどうなるかは目に見えている。なので、僕も嫌いな人たちの実例を挙げるのはやめにする。右にも左にもいっぱいいるけれどね。そうするとこのエントリの長さが倍になるし、本筋からも離れてしまう。
しかし、やっぱりジェンダーをめぐる歴史は面白いなとも思う。時折SF・ファンタジーで女性だけの政治的な力を持つ集団が出てくるんだけど(たとえば上橋菜穂子の守り人シリーズ「虚空の旅人」)、これは女人禁制のクラブを裏返しにしたものなのかなとか、イロクォイの社会がモデルなのかなとか考える。他にも、ミノア文明はチグリス・ユーフラテス起源の現代文明と違って、壁のない開放的で平和な「女性的」文明だったとか、面白い仮説があったりする(ただし戦国時代にだって城壁が無かった点には注意するべきだ)。否定されたものを含めて仮説を知るのは、先人が知恵を振り絞って、どう考えてきたかを一緒にたどれる思いがする。どのような誤りをしたかは、時代による制約と、文化による偏見を反映しており、それをどうやって乗り越えたか、筋道をたどるのは楽しいし、自分の考えの偏りにも気づく。
それに、右や左の極端な意見をいう人は、今の社会で辛い思いをしていたり、正しいとされている価値観から救われなかったりしたから暴走している面もあるので、彼ら・彼女らの不寛容を叩けば解決するもんでもない。
ミルチャ・エリアーデ「マイトレイ」は留学先の(それともホームステイ先だったっけ?)インドのお嬢さんに恋をする話なんだけれども、相手の文化を読み誤って結局結ばれずに終わる。「え、これはしていいのにこれはタブーなの? なんか地雷踏んじゃった!」「両親から仲を祝福されていると思ってたのに全然違うじゃん? どうなってんの?」みたいな。
それにしても、失恋して「何もかも破滅だ」って気分になって、遠くまで旅に出るってパターンは万国共通なのね。懐かしい。恋が実らなかった僕は大学の夏休み中何キロも不毛なほど東京都内を歩き回っていた。(ただし僕の場合つきあって振られたのではないので、「それは失恋とさえ言わない」と説教してきた同級生がいた。ひどい)。
アルべルト・モラヴィア「軽蔑」は前にも書いたけれど、妻の心離れを察した夫が、「どうすれば僕のことをまた愛してくれるの?」と情けないくらいに相手の顔色をうかがったり、腕力に頼ろうとしたり、嫌いな相手の前にみっともなく頭を下げたりと、一番やっちゃいけないことを繰り返して、とうとう上司に寝取られるお話。で、これは実際に妻と別れた夫が書いた小説なんだけれども、ラストで寝取った相手と妻がひどい結末を迎える。どんだけ妻を恨んでたんだよ。でも、こういう小説からしか得られない快楽というのは確かにある。僕も「愛してよ愛してよ」という飢えが丸見えだったと思うし、だからまったくモテなかった。チクショー。
ところで、(BSS「僕が先に好きだったのに」を含めた)寝取られについてだけれども、文学では読めるくせに寝取られ系のエロ本はまったく興奮しないし、嫌悪しか感じない。
文学を読んでいる時には、「どうせ自分は愛されないんだ、もうダメだ」という観念をもてあそんでも心はそこまで傷つかないというか、屈折した自己愛にじくじくと浸っていられるのだが、パンツを脱いでいるときに自分は男としてダメなんじゃないかって考えをいじくりまわすには僕は繊細過ぎたというか、裸になってそんなことを認めてしまっては、理想からかけ離れた自分に対する嫌悪と、現実社会の中で何とか自分が機能していくための自己愛の、微妙なバランスが崩れてしまう。知的な文学という鎧をしているときと、本能丸出しの全裸のときとでは、股間にパンチを受けたときのダメージが違うのだ(増田で本音を徒然書いて叩かれるとしんどいのもそれ)。
結局のところ、海外文学という幻想に逃げていて、同世代の人間が普通にセックスしていることが受け入れられなかったし、高校生がセックスしていると考えると嫉妬に狂いそうになっていた。倒れそうなほど空腹なのに目の前でご馳走を食べる人を、指をくわえてみているような痛みだった。十代の激しい性欲を受け止めてくれる誰かがいる空想は自分をさいなんだ。今にして思えば、セックスをしているからと言って、良好な関係であるとは言えないとわかる。なんであれだけ文学を読んできたのに、それがわからなかったんだろう? 手に入らなかったものがとても素晴らしいものに見えるからだろうか?
大学生の僕は文学サークルの後輩カップルが普通にセックスしていることを聞いても、上野動物園を一角獣がうろついていることを考えるほうがまだリアリティがあった。こういう人間が、幸せなカップルが出てくる真っ直ぐな十代向けのフィクションを読めると思うか?
三十代になってから、中高生の頃に現代文の先生が教材として使った石田衣良「4TEEN」やその続編で「6TEEN」を読んだのだが、主人公が美少女と知り合い、幸運なことに彼女が処女を卒業したがっていると聞いてそのままラブホに直行してベッドインし、童貞を卒業するシーンを見つけ、とにかく馬鹿馬鹿しい気持ちになり、なぜこんなものを読まなきゃならんのかと腹が立ってしょうがなかったのである。
ウワァァ━━。゚(゚´Д`゚)゚。━━ン!! それ以外は男子の友情を描いた割といい作品だと思う。
こんなJ-POPの歌詞やポカリスエットのCMのような感傷マゾに浸っていた僕が(どれくらいの感傷マゾヒストだったかっていうと、カラオケではポルノグラフィティの失恋ソングばかり歌っていたし、深夜までネットをしてて、さすがに寝ようかという前に、EOEの「Komm, süsserTod」、「雲のむこう、約束の場所」ED「きみのこえ」、坂本真綾「tune the rainbow」を聞いてすごく感傷的になって布団に入る習慣だった。新海アニメのなかでヒロインが名前を呼んでくれるシーンがあって、それで情緒をぐちゃぐちゃにされていたのである。絶対ラブプラスをやっちゃいけない人間だったと思う)、何でラノベを読まなかったのかというと、ライトノベルではどうせエロイベントがあっても本番はしないだろうと思い込んでいたからだ。そうやって背伸びをし続けた結果良くも悪くも今の自分がある。
とはいえ、今にして思えば、普通に現代の小説を読んでおけばよかった気がしないでもない。
続く。
https://twitter.com/streamkamala/status/1741039252358779113
「彼らを惹きつけ、性的に興奮させるのは、女性としての自分自身です. それはまるで自分自身の女性版に恋をしているかのようなものです.
しかし、この性的欲望と衝動がとても異常で破壊的なのは、他の全員にそれに付き合うことを要求することです. それが彼らのファンタジーの一部なのです.
自分が女性であるかのようなふりを全員に強要することが、人生における最も大切で唯一の欲望である、このハード・コアである男たちがいなければ、このような事態はここまで進展しなかっただろう.
この男性たちは、自己のセクシュアリティを正当化するために、子供たちに不妊になる薬剤を投与することを推進しているのです」
ヘレン・ジョイス
平等から階層へ、男女平等から著しい男女不平等への転換は、一般に農業と関連しており、このことはグレーバーとウェングローにかなりの問題を突きつけている。彼らは選択に関心があるため、唯物論的な議論を避けたり、環境が人々の選択を条件づけ、制限する方法について考察したりすることに固執しているようだ。
農業は、約1万2千年前から世界の多くの場所で独自に発明された。狩猟採集民は食料を共有し、持てる以上のものを所有することはできなかった。しかし農民たちは定住し、畑や作物に投資するようになった。そのため、一部の人々が自分の取り分以上の食料を手にする可能性が生まれた。
やがて、凶悪犯やいじめっ子の集団が集まって領主になることもあった。窃盗や略奪、家賃、小作料、労働力の雇用、税金、貢納、什分の一など、さまざまな方法でこれを行った。どのような形であれ、このような階級的不平等は常に組織的暴力に依存していた。そしてこれこそが、ごく最近まで階級闘争が対象としてきたものなのだ。
農民は狩猟民族にはない弱者だった。彼らは自分の土地、畑を開墾し灌漑するために費やした労働、そして作物の貯蔵に縛られていた。狩猟採集民は離れることができた。農民はそうではなかった。
しかし、グレイバーとウェングローは、農民が余剰を生産し、蓄えることができたからこそ、階級社会、搾取、国家、そして偶然にもジェンダーによる不平等が可能になったのだという、この物語に立ち向かった。
2012年、考古学者のケント・フラナリーとジョイス・マーカスは『不平等の創造』という素晴らしい本を出版した。彼らは、世界のさまざまな地域で農業がどのように不平等をもたらしたかをたどっている。
しかし彼らは、その関連性は自動的に生じたものではないと主張する。農業は階級を可能にしたが、多くの農民は平等主義の社会で暮らしていた。農業の発明と階級の発明の間のギャップは、数世紀単位で測られる場所もあれば、数千年単位で測られる場所もある。
フラナリーとマーカスはまた、地元の凶悪犯や領主が権力を掌握しても、後に打倒されることが多いことを、注意深い実例を通して示している。多くの町や都市では、エリートが考古学的記録に現れ、その後何十年も姿を消し、また現れる。事実上、階級闘争は決して止まらないのである[5]。
ジェームズ・C・スコットフラナリーとマーカスの壮大な比較研究は、人類学を根本的に変えた1954年のエドモンド・リーチの著書『ビルマ高地の政治制度』や、アナーキスト政治学者であり人類学者でもあるジェームズ・C・スコットの研究において先取りされていた。[2009年、スコットは『統治されない技術』(An AnarchistHistory of Upland SoutheastAsia)を出版した。同書は数世紀にわたる東南アジア全域を対象としている。
スコットは、平原の王国の稲作農民の多くが丘陵地帯に逃亡したことに関心を寄せている。彼らはそこで、「焼畑」移動耕作者の新たな民族集団として再出発した。彼らの中には、より小さな階級社会を作り上げた者もいれば、階級を持たずに生活した者もいた。そのすべてが、下の王国や国家からの絶え間ない奴隷化や軍事的襲撃に抵抗しなければならなかった。
ある意味では、グレイバーとウェングローはリーチ、スコット、フラナリー、マーカスの仕事を土台にしている。ウェングローは結局のところ、フラナリーとマーカスが要約している考古学の変化の一端を担っている。そして『万物の黎明』には、スコットの影響が随所に見られる。
しかし、グレイバーとウェングローは、一方では技術や環境と、他方では経済的・政治的変化との間にある、他の著者たちの結びつきを好まない。
フラナリー、マーカス、スコットの3人は、テクノロジーや環境が変化を決定するのではない、と注意深く述べている。それらは変化を可能にする。同様に、穀物農業の発明が自動的に階級格差や国家をもたらしたわけではない。しかし、それがそうした変化を可能にしたのである。
階級関係と階級闘争技術と環境の変化は、階級闘争の舞台を設定した。そして、その階級闘争の結果が、平等と不平等のどちらが勝利するかを決定した。グレーバーとウェングローはこの重要な点を無視している。その代わりに、彼らは常に、そのような変化を即座に必然的なものとする段階論の粗雑な形式を問題にしている。
この生態学的思考に対するアレルギーが、彼らが人類の進化に関する新しい文献を扱おうとしない背景の一つであろう。
これらの文献はすべて、人類となった動物たちが、自分たちの住む環境、自分たちの身体、競合する捕食者、自分たちが発明できる技術、生計を立てる方法に対して、どのように社会的適応を築いたかを理解しようとするものである。偶然にも、彼らはその生態系と状況に対処するために平等主義的な社会を築いた。それは必然的な結果ではなかった。しかし、それは適応だったのだ。
一方、グレーバーとウェングローは唯物論者ではない。彼らにとって、生態系や技術について考えることは、彼らが望む選択や革命を不可能にする恐れがある。例えば、古代メソポタミアに関するスコットの本が、特に穀物農業が不平等をもたらした物質的な理由を強調しているため、彼らが満足していないのはこのためである。
これは些細な問題ではない。私たちが今直面している気候危機は、人類が新しい技術と新しい環境に適応するために、社会をどのように変えていくかという問題を浮き彫りにしている。平等や人類存続のための政治は、今や深遠なまでに唯物論的でなければならない。
グレーバーとウェングローが環境や人間存在の物質的基盤にほとんど関心がないことは、これまで見てきたとおりである。
同じように、彼らは階級という概念や、階級関係や階級闘争についての議論をほとんど宗教的に避けている。グレーバーは確かに、そしておそらくウェングローも、階級関係と階級闘争について理解している。彼らは、階級が何をするのか、そして実際、自分がどの階級の人間なのかを知っているが、階級関係を社会変革の原動力として扱うことはできないし、また扱おうともしない。
これと同様に目を引くのは、グレーバーとウェングローがジェンダーの社会的構築に対して関心を示さないことである。彼らはミノア・クレタ島における母系制のほぼバコフェンを再現する一方で、女性は養育者であり、男性はいじめっ子であるという家父長制的なステレオタイプを散見する。
不平等は常に私たちとともにあったというのが彼らの主張であるため、グレーバーとウェングローは、人類の性別による不平等の起源についてほとんど何も語っていない。
男女関係の進化については、基本的に3つの学派がある。まず、進化心理学者たちであるが、彼らの主張は非常に保守的である。ジャレド・ダイアモンド、ナポレオン・シャグノン、スティーブン・ピンカーは、不平等、暴力、競争は人間の本性の基本であると主張する。彼らは、男性は進化によって他の男性と競争するようにプログラムされているため、強い者が女性を支配し、より多くの子どもをもうけることができるからだと言う。これは残念なことであり、幸いにも西洋文明はそのような原始的な感情を部分的に手なずけてきたとピンカーは言う。
偉大な生物学者であり、トランス活動家であるジョーン・ラフガーデンは、こうした考えを『薄く偽装されたレイプ物語』と正しく表現している。このような議論は実に忌まわしいものであり、そのためだけにグレーバーやウェングローが否定したのは間違いない。
非常に長い間、フェミニスト人類学者の間では、第二の学派の考え方が支配的であった。この学派もまた、女性と男性の間の差異を本質化し、女性と男性の間に何らかの不平等があることをあらゆる社会で当然のこととして受け入れていた。
私たちが支持するのは第3の選択肢である。歴史学、人類学、考古学の記録に顕著な特徴がある。人々が経済的、政治的に平等な社会で暮らしていたほとんどの場合、女性と男性も平等であった。また、経済的に不平等な階級社会が存在したところでは、そこでも男性が女性を支配していた。
私たちにつきまとう疑問はこうだ:なぜなのか?
グレーバーとウェングローはこの問いに取り組んでいない。彼らは性差別について何の説明もしないし、男女関係がどのように、あるいはなぜ変化するのかにも関心がない。しかし、彼らは性差別主義者ではない。彼らは何度も女性抑圧の事例に触れているが、それは一過性のものである。彼らの関心事の中心にはないのだ。だから、私たちには印象的な一致に見えるが、彼らにとっては蜃気楼なのだ。
グレイバーとウェングローの説明の重要な部分は、農耕と階級的不平等、そして国家の出現との関連を軽視しようとする決意のもと、階級的不平等や戦争、さらには奴隷制さえも存在した狩猟採集民のグループに焦点を当てている。考古学者は彼らを「複合狩猟採集民」あるいは「複合採集民」と呼んでいる。
グレバーとウェングローは、先史時代の人々が無国籍で平等主義的であったか、暴力的で不平等であったかのどちらかであったという証拠として、これらの人々を取り上げている。それは証拠が示すところとは違う。[7]
典型的な例は、フランツ・ボースによって研究されたクワキウトル族と、カナダの西海岸、コロンビア川とフレイザー川の近隣の人々である。この川と海岸では、莫大な数のサケが遡上していた。限られた数の隘路や漁場を支配する者は、莫大な余剰を蓄えることができた。コロンビア川のギャレスがその一例だ。少人数で10万ポンドのサケを獲ることができた日もあった。
それは例外的なことだった。場所によって差はあった。しかし、沿岸部や河川全域にわたって、サケの資源が豊富であればあるほど、考古学や文献記録には階級間の不平等が表れている。富の不平等はしばしば極端であった。また、これらの人々は複雑な軍事技術を持っており、大勢の戦士を乗せ、数人で何カ月もかけて作るような大きなカヌーを使っていた。
事実上、農民が田畑に囚われていたように、これらの人々は漁場に囚われていた。そして農民と同じように、サケ漁師たちにとって貯蔵は不可欠だった。考古学上の記録を遥かに遡ると、彼らの骨や歯を調べると、年間の食生活の40%から60%がサケからもたらされていたことがわかる。サケは数週間しか獲れないので、その食生活の大半は乾燥サケによるものだったに違いない。
農民と同じように、環境的制約と新技術が階級社会の可能性を開いていたのだ。こうした過程は、『万物の黎明』にはまったく見られない。そのかわりに、50年前の学部生がクワキウトル族について語った、浪費的で貪欲なポトラッチの饗宴の民という、お決まりの説明がなされている。この説明は、その後の膨大な研究成果を無視している。
天然痘と梅毒で人口の6分の5を失い、金鉱探鉱者によって征服され、そして蹂躙され、最終的にはカナダ政府によってポトラッチの宴が禁止された人々の中で、あの無秩序な宴は、権力にしがみつこうと必死だった支配階級によって管理された伝統的な生活の祭典であったことが、今ではわかっている。深い物質的な悲劇が、非合理的な茶番劇として語られている[8]。
西海岸の漁民だけが「複雑な採集者」だったわけではない。世界中には他にも例がある。しかし、それがいかに少ないかは注目に値する。さらに考古学者たちは、現在より7,000年前より古いものはひとつも見つかっておらず、14,000年前より前に戦争があった証拠もない。
複雑な採集民の数が少なく、その起源が新しいのは、技術の問題かもしれない。確かに、カリフォルニア沿岸のチュマシュ族が不平等と戦争を発展させたのは、紀元600年以前に大型の外洋用板カヌーの建造を習得してからである。
彼らは「複合型採集民」の第三の例として、フロリダ南部のカルーサ族を選んでいる。ある意味では、これらもまた、支配的な首長、戦士、階級格差、奴隷制度、高価な戦争用カヌー、海の哺乳類、ワニ、大型魚の漁業に依存する漁民であった。
グレーバーとウェングローは、カルサ人を「非農耕民族」と表現している。しかし、彼らが認めているように、カルサの漁民はもっと大きな政治の中で支配的なグループであった。他のすべての集団は農耕民であり、カルサ人の支配者に大量の食料、金、奴隷にされたヨーロッパ人やアフリカ人の捕虜を貢納していた。その食料によって、カルサ族のエリートたち、そして300人のフルタイムの戦士たちは働かずに生活することができた[10]。
そして、この行き詰まりを乗り越えるために、私たちは私たちの種の歴史から何を学ぶことができるのか?
このような問いは、歴史を通じて真剣な思想家や活動家たちを駆り立ててきた。そして今、地球温暖化に直面している私たちは、緊急に説得力のある答えを必要としている。これらはグレーバーとウェングローも問いかけていることであり、本書が人々の注目を集めた理由であることは間違いない。しかし、私たちの多くが抱く3つ目の疑問がある:
意外なことに、グレーバーとウェングローはこの問いに関心がない。第1章のタイトルは「人類の幼年期よ、さらば」である:あるいは、なぜこれは不平等の起源についての本ではないのか」と。
この本の中心的な主張のひとつは、不平等、ヒエラルキー、暴力は、あらゆる人間社会を組織する方法として常にあり得たということだ。不平等以前の時代などなかったのだ、と彼らは言う。そして、「平等」や「平等主義」という言葉を多用するが、平等は空虚な関心事であり、おとぎ話であり、「平等主義社会」について語ることは何も語らないことだと主張する。
これには奇妙な解釈がある。グレーバーとウェングローは、霊長類の祖先や初期の人類が平等であることによって見出した適応、つまり生態学的ニッチについて説明する新しい注目すべき学問を無視している。つまり、かつて人類は平等であったのだから、再びそうなる可能性があるという古典的な無政府主義者やマルクス主義者の見解も無視しているのだ。
保守派の主張は、農耕や都市生活、経済の複雑化の結果として不平等が現れてしまえば、世界を変える希望はないというものだ。グレーバーとウェングローは、農業に関するこの議論に抵抗し、明らかに変化が可能であることを望んでいる。そして明らかになるのは、彼らの敵は不平等ではなく、国家だということだ。
彼らが問うのは、権威主義的、官僚主義的、中央集権的な国家に支配されるようになったのはなぜか、ということだ。そして、植民地主義、奴隷制、階級差別、人種差別、性差別といった不平等が本書の随所に出てくるが、これらは彼らの中心的な関心事ではない。
グレーバーとウェングローが主張する政治的論点は、太古の昔から、人は常に支配と自由のどちらかを選ぶことができたということだ。彼らにとって、人々は彼らが国家支配の「小規模な」行き詰まりから逃れ、「自由な人々」になることを選ぶことができる。
彼らが否定するのは、環境的・技術的な限界によって人々が選択できること、そして選択できることである。要するに、人々は自ら選択した状況で歴史を作るのである。
この立場の見返りは、政治的な意志さえあれば、革命を起こし、コンセンサスを通じて働く民衆の集まりによって社会を運営することができると主張できることだ。どれも素晴らしく、解放的に聞こえるが、その根拠には問題がある。
グレーバーとウェングローはこの本の冒頭で、善であれ悪であれ、「元来の」人間社会が存在したという考えを否定することを目的としている。そのために彼らは、ルソーとホッブズの間で長年続いてきた議論を復活させる。
さらに重要なのは、19世紀の社会ダーウィニズムや、より最近のスターリン主義的な「歴史の段階」理論に対する、彼らの完璧なまでの嫌悪が冒頭に示されていることだ。そしてここでもまた、ジャレド・ダイアモンド、ナポレオン・シャグノン、スティーブン・ピンカーのような進化心理学の現代ホッブズ主義者に対する深い軽蔑を表明している。歴史の段階説も進化心理学も、深刻かつ重要な対象であり、私たちはその両方を共有している。
社会ダーウィニズムと歴史の段階説。ハーバート・スペンサーとルイス・ヘンリー・モーガンの19世紀の社会ダーウィニズムと、それ以降のバージョンでは、最初の人類は原始人であり、次に未開人、野蛮な園芸民と牧畜民が続き、その後に農耕の出現、古代文明の発展、中世を経て近代資本主義社会の夜明けまで続く。それぞれの段階は、道徳的・知的進歩のシグナルであると理解されている。
しかし、社会ダーウィニズムはいたるところに潜んでおり、ほとんどの主流政治思想の醜い礎石であり続けている。そしてそれは、現代の人種差別主義や新植民地主義を支え続けている。
左派を含む多くの人々にとって、グレーバーとウェングローによる段階的な歴史理論の解体は目新しいものであり、啓示と安堵の両方として体験されるだろう。そして、その理由は容易に理解できる。
そして、グレーバーとウェングローの攻撃には、さらなる特効薬がある。彼らはこの本の中で、マルクスとエンゲルスの仕事についてはほとんど何も語っていないが、歴史の段階説を否定することで、伝統的なマルクス主義者の進化論的説明も暗黙のうちに否定しているのだ。
これはフリードリヒ・エンゲルスの著書『家族の起源私有財産と国家』において最も顕著である。エンゲルスはそこで、人間は平等の中で進化してきたが、農耕の発明によってあらゆる形態の不平等が生まれたと主張した。ここまではいい。
しかし、エンゲルスはその枠組みを、白人差別主義に彩られたスペンサーとモルガンから直接学んだのである。例えば、エンゲルスがなぜ動物の群れを持つ牧畜民が他の未開の民族よりも人種的に優位に立つと考えたのか考えてみよう。
「アーリア人とセム系民族の発達が優れているのは、牛乳と肉が豊富に供給され、特にこれらの食物が子供の成長に有益な影響を与えるからであろう。ニューメキシコのプエブロ・インディアンは、ほぼ完全な菜食主義者であるが、肉や魚を多く食べる野蛮の下層にあるインディアンよりも脳が小さいという事実がある」[1]。
エンゲルスの著書にはそのような箇所がたくさんあり、このように書いているのは決して彼だけではない。
フランツ・ボアスグレバーとウェングローが、このような反感を買うような議論を破壊したいと思うのはまったく正しい。しかし、彼らはあたかも自分たちがそうする最初の一人であるかのように自らを装っているが、これは明らかに違う。フランツ・ボアスは、太平洋北西海岸のクワキウトル族に関する初期の民族誌で、グレーバーとウェングローはこれを大いに参考にしている。
フランツ・ボースは、ユダヤ人フェミニストで、1848年にヴェストファーレンのミンデンという町で起きたドイツ革命の指導者の一人であったソフィー・メイヤーの息子である。1851年までに、彼女の読書グループはマルクスとエンゲルスの『共産党宣言』を読んでいた。
ボースは人類学者になった。カナダではバフィン島のイヌイット族やバンクーバー島のクワキウトル族を現地調査し、最終的にはニューヨークのコロンビア大学の教授となった[2]。
1913年、彼は段階説の人種差別主義を打ち破り、近代人類学の基礎を築いた。ボースは『原始人の心』の中で、「原始人」は誰よりも賢く、賢く、創造的であると主張した。1913年当時、ボースは母親の政治を否定していたわけではなく、ユダヤ人として、またアメリカ先住民の党派として、人種差別を憎んでいた。
ボースは生涯社会主義者だった。母親の影響は、ルース・ベネディクト、マーガレット・ミード、ゾラ・ニール・ハーストンなど、多くの女性人類学者の世代を育てたことにも表れている。ボアスと彼の教え子たちは、人種差別的な段階という問題を、人類の文化の進化について話すのをやめるという単純な決定によって解決した。
しかし、私たちはもはや1913年の時代ではない。1982年、エリック・ウルフの皮肉なタイトルの『ヨーロッパと歴史なき人々』は、反帝国主義、反人種主義、そして歴史を真摯に受け止める人類学の波を起こした。
人類学者は長い間、単純と複雑、野蛮と文明、後進と先進、先進と後退、先進と未開発、高位と低位、世俗と宗教、伝統と現代といった二項対立から滴り落ちる人種差別に敏感に反応してきた。しかし悲劇的なことに、こうした二項対立は、アメリカ先住民の大量虐殺、アフリカの奴隷貿易、白人帝国による植民地支配、そして今日の対イスラム戦争を正当化するために展開され続けている。
人類学者や考古学者たちは、現在、人類の不平等の起源について、まったく妥当な説明を構築している。ケント・フラナリー、ジョイス・マーカス、ジェームズ・C・スコットがその中心人物である。
残念なことに、グレーバーとウェングローは、人類の進化に関する膨大な数の新しい学問に取り組んでいない。これらの新しい研究を無視することで、グレーバーとウェングローは、霊長類の比較進化とヒトの適応に関する、注意深く、そして現在では極めて十分に文書化された議論に逆らうことになる。彼らの問題は、この資料が「オリジナルの」人類社会は存在しないという彼らの主張を覆し、選択についての彼らの議論をむしろ愚かにしてしまうことである。
グレーバーとウェングローは、かつて人類が狩猟採集によって生活していたことを否定はしない。しかし、彼らは環境や人間存在の物質的基盤には深い関心がない。そして、これらの社会が必然的に平等であったことを否定している。
彼らの主張の第一歩は、人類の進化はすべて過去のことであり、当時何が起こったかを知ることはできない、というものだ。すべては推測にすぎない。しかし、これは単純に真実ではない。
過去40年間、科学革命は目覚ましく、人類進化の分野では膨大な研究が花開いた。今では、人間以外の霊長類や霊長類の行動に関する驚くべき新しい研究、初期人類に関する新しい考古学、近現代の狩猟採集民に関する新しい民族誌が数多くある。
化学的微量分析、DNAサンプリング、放射性炭素年代測定、質素な家庭での忍耐強い考古学のおかげで、私たちは先階級社会、そして初期階級社会に住んでいた人々について多くのことを学んだ。私たちのヒーローの中には、読み応えのあるクリストファー・ボーム、フランズ・デ・ワール、R・ブライアン・ファーガソン、サラ・フルディ、マーティン・ジョーンズ、ローラ・ライヴァルの広範な出版物がある。
このような研究は、人類の進化と人類史の研究を一変させつつある。その出発点は意外なものだった。私たちは平等になることで人間になったのだ。これは驚くべき貴重な洞察である。しかし、それはグレバーとウェングローの説明の根幹を突く洞察である。
現在、さまざまな類人猿やサルを対象とした何十回もの長期野外調査プロジェクトによって、それぞれの種について、特定の複雑な適応が、特定の環境で生き残ることを可能にしていることが明らかになっている。その適応には、主食、悪い時の代替食、脳、手、足、胃、歯、生殖器、うなり声、歌、支配関係、共有関係、子育て、攻撃性、愛情、毛づくろい、群れの構造がどのように組み合わされているかが詳細に含まれている。[これが基本であり、人類の進化を理解するための私たちの方法でもある。
時を経て、新しい適応のいくつかの部分が組み合わさって、現代人が誕生した。要するに、初期の人類はちっぽけな霊長類だったということだ。生き延びるためには、肉や野菜を共有し、育児を共有し、性的な喜びを共有することを学ばなければならなかった。そのためには、いじめっ子を懲らしめ、霊長類の祖先が持っていた支配階層を超越しなければならなかった。そして少なくとも20万年もの間、彼らは男女も平等である平等主義的な社会で生きてきた。
Stranger ThingsはS3までは、Huge Fanて程じゃないけど普通に好きなドラマだった。でもS4、てめーはダメだ!
何がダメって、とにかくストレスが強すぎる。嫌な事しかない。良い事は嫌な事に対してほんのちょっとしかない。
話を大きくしたから被害・ストレスも大きくなるんだろうが、それでも俺にはやりすぎとしか思えない。
メインキャラクターの一人、エルは特にひどい目にあわされ続ける。学校でいじめられ、久しぶりに会ったボーイフレンドにも嘘をついて誤魔化しギクシャク、挙句の果てに傷害事件まで起こしてしまう。失った力を取り戻すために悲惨なトラウマとなってる過去をほぼ強制的に見せられ、やっと仲間と再開して心からの笑顔が出るのが全9話中第8話のラスト。しかも悲しさ混じりで、笑顔の時間ほんの数秒。最終話でもすべてが終わったあとのエピローグというか、次シーズンへの繋ぎシーンで笑顔を見せるが、S4全部で782分、9エピソードあって最後5分はスタッフロールだから45分引いたら737分。12時間以上あって、最後の25分までずっと酷い目にあいっぱなし。
24 -TWENTY FOUR- のジャック・バウアーとか、(性別関係無く)大人がボッコボコにされてコテンパンにされ、なんとか最後に勝利するってのは、勿論ストレスはあるにはあるが楽しめる。でもダメだ、未成年がここまでボコボコに精神的にも肉体的にもやられるのは楽しめない。よほどひどい業でもあるのなら話は変わってくるが、エルはそういうキャラでもない。勿論業がないわけではないが本人の選択によるものというよりは境遇によるある程度仕方のない物だからだ。これは今シーズンでシーズンボスヴェクナのターゲットとなり酷い目に遭い続けるメインキャラNo.2マックスも同じだ。
それなのに12時間もずっとエルがしんどい顔してるのを見せ続けてくる。どんな拷問だよ!
ちなみに1~7話が第一部として5/27に配信、8,9話は第二部として7/1配信だ。つまり7/1までエルが心から笑うシーンは無かった。
マックスも笑うシーンがあるのは8,9話だけじゃないだろうか。彼女の方はエピローグでも意識不明の重体だが。
自分の命を狙ってきた兵士とはいえ、エルが自らの意思で「殺人」してるのもしんどい。多分死んでるよな?あのヘリにのってた兵士。狙撃銃持ってエルを殺そうとしてたんだから正当防衛ではあるんだろうけど……銃が身近ではない日本人的には理解はできても納得しがたい。「正当防衛」なら一切の業、カルマなぞ発生しないって割り切れるの、アメリカか治安が相当悪い所に限られるのでは。
1話でまず視聴者が見せられるのは、キレキャラっぽいエディがマイクやダスティンに、TRPGキャンペーンの重要なセッション(ドラマに例えるとシーズンとエピソード)に出られないルーカスの代わりを探してこいとパワハラかましてるところ。意図したのかどうか分からんが、少なくともS1~3までメインキャラクター達が遊んでた対等さはない。高校のクラブならそんなもんだっていうならそれでもいいけど。自分がつるんでたオタ仲間、先輩風吹かせて圧力掛けてくるような人ほんとに一人もいなかったんだよね。高校時代は先輩とのそういう付き合いなかったし、大学時代の話でそれも2桁はいないんだけどさ。自分が幸運すぎただけなのか?それにそもそもTRPGで1人たりないからプレイできないなんてそんな馬鹿な話ある?って論点もある。
実はエディも悪い奴じゃない。1話最後の方で一緒に楽しく遊んでる姿は描かれてはいる。
これが楽しい日常の最後のシーンで、この後1話ラストからひたすら重たい話が続く。
シーズンボスヴェクナのターゲットになったマックスは別にしても、その元カレルーカスやお調子者ダスティンは見せ場がいっぱいあるのに、マイクはエルの彼氏役、ウィルはマイクへの恋愛感情を隠して(るようなニュアンスで、明言はないのだが)喧嘩して仲直りするだけ。だけって言うと異論はとんでくるんだろうけど、他に記憶に残った見せ場が無い。一番主体的な見せ場がなかったのはマイクか?別シーズンでつり合いとればいいのかもしれんけど、それでも今回ほんとエルとマックスだらけでウィル・マイクの影が薄すぎた。
シーズンボスは何故高校生ばかり殺すのか。心理的トラウマ持ちを狙うというが、殺された高校生のトラウマは大して描かれず、高校生である必然性も俺には分からなかった。俺は安易に子供を殺すのが大嫌いだ!!!!(勿論フィクション上のことで、現実では安易じゃなくても大嫌いだ)
1話で下級生にパワハラかましたりドラッグ売ろうとしたりチアリーダー殺害者の汚名を着せられたエディは実はいい奴で主人公たちと一緒になって戦うのだが、最後は「俺が囮になって時間をかせいでやる」というクリシェを発動して犠牲になる。これも誘導が甘いというか、理由付けが余りに雑。殺すために殺しただろ、としか俺には思えなかった。後日避難所で、ジャスティンがエディの父親に形見を渡しながら、町の住人ほとんどが殺人者だと思ってるエディだが、「本当はいい奴だったことを知っている」なんて伝えるお涙頂戴シーンまでねじ込んでくるの。泣くよ。そりゃ泣くだろ普通。でも無理矢理泣かされてる感しかねえんだよこっちは!!!!雑だから!!!理由が納得できないから!!!!!俺は安易に子供を殺すのが大嫌いだ!!!!
俺 は 安 易 に 子 供 を 殺 す の が 大 嫌 い だ ! ! ! !
3話の冒頭のシーンなんだけど、S4で一番納得いかなかったのがこのニヤつくジェイソン。1話でガールフレンドが殺されて、その犯人だとされるエディ(真犯人ではない)を狩り(探し)にいこうと車で準備中、メインキャラの一人であるルーカスに近寄る時に気持ち悪くニヤつくの。これがもう本当に無理だった。なんでガールフレンド殺した犯人捕まえにいく文脈でこんな笑い顔が出てくるの?アメリカ人ならわかるの?日本人でもわからないとおかしいの?俺がおかしいの?ガールフレンドが殺された直後でも、場合によっては笑顔出る事もあるだろうよ、それでも犯人狩りにいこうと誘う時に出るか?これがずっと強烈ひっかかってて、ワンチャン邪悪な物に操られてるんなら筋は通るよな、と思ったけどそういうのも一切無し。アホか!!!!!!!!!!!!!
もうこうなってくるとS3までなら気にならなかったところまでガンガン嫌になってくる。
これは翻訳上の問題だけど、1話のTRPGセッション中の大逆転シーンで、20面体ダイスで20だして「Crit Hit!」て言ってる。
これを吹替で「やった~!」字幕で「命中」て訳してるのブチキレたくなる。
簡単に、一般化しないといけないのはわかるけどさすがにはしょりすぎでは???
「クリティカルだ!」でも相当割合わかるでしょ?分からない人ちょっとでもだしたらだめなの?
ジョイス(ウィルの母親)とマレー(眼鏡のさえない陰謀論系の元ジャーナリスト)がソ連の収容所にいるホッパーを助けに行く。ド素人2人がガチ収容所にどうすんだよ、と思ったらあっさり捕まって捕虜になったかとおもえば、マレーが実はカラテかなんかの達人でした!ってなろうもびっくりなコミカル珍道中。子供組が超シリアスやってるのになぜ大人組がコミックリリーフ担当なの……??正直リリーフする前には?ってなる。
4話の残り時間38:08あたり。階段下の、マイクたちが逃げてきた部屋に入ってきた兵士が護衛に撃たれるんだけど、撃たれた位置からすれば完全に撃たれるために発砲しないで待ってる。兵士目線では絶対に護衛を先に撃てる状況にある。カメラ外に居るやられ役モブは発砲しないとか随分初心者向けな無双系FPSだな。
6話のラスト、湖底のゲートに引きずり込まれたスティーブを追ってみんな湖に飛び込んでいくんだけど、時系列的にその直後の7話冒頭で濡れてるやつだれもいないの。みんな髪の毛ふわふわだし服も濡れてない。なんだそれ……
ベタだったりあまり好きじゃない演出があったのはちゃんと分かってた。それでもお話が面白かったから大して気にならなかったのに、S4で気に入らないポイントがでてくると粗探しばっかしてしまってご覧の有様になってしまった。
いやね、S3でも薄々ちょっと気配はあったんですよ、話が大きくなりすぎる気配が薄々ね。それでも好きか嫌いかって聞かれたらノータイムで好きって答えられる作品だったの、S3までは。
自分はそれなりにタイトルにたいするLoyaltyが高い方で、好きなタイトルが途中で評判悪くなってもそれなりに好きなままでいる方だと思う。Game of Thronesの最終シーズンは酷評されまくってたけど、期待外れ感はわかるけどそこまで酷評されるほどじゃない、と思ったし、Netflix版House of Cardsの最終シーズンも、ファンなら楽しめるんじゃない?位には好きだ(見返す事は多分ないけど)。
でもストレンジャーシングスS4、世間の評判は悪くないし、Twitterなんか絶賛一色だし、imdbみたらS3までより盛り上がる部分では高レート。Rotten TomatoではTOMATOMETER/AUDIENCESCOREが、S1から97/96 94/90 89/86 90/89。Rottenではシーズンすすむと評価若干下がってるけど、俺の中じゃこんなもんじゃない落第点だ。あまり否定的な意見てネットに出にくいんだろうけど。
自分がS4ダメな理由の大部分を占めてるのが、いくらなんでもエルを酷い目に合わせすぎってこと。ここさえクリアできれば楽しめるのかな、とも思う。ホーキンス組は1話後半で楽しんでるシーンあるけど、カリフォルニア組はそれすら無いからね。そもそもエルはS3まで十分に酷い目にあってきたんだよ。それなのにまたさらにひどい目に合わせるのか!
でもなんでみんなそんな普通に楽しめるの?こんだけ子供が辛い目にあいまくってて。
自分はホラー映画好きじゃなくて殆ど見ないんだけど、ホラー映画では子供も普通に酷い目に遭いまくってるの?でも映画ならせいぜい2時間前後じゃん?ドラマで12時間以上あるんだよS4。その殆どで強烈なストレスに晒されてるの、未成年が。3人も殺されて、エル以外にも、メインの1人であるマックスまで重大な死の危険と長い間隣り合わせで、最後は意識不明で入院中。なんでこんなに未成年がひどい目にあうの嫌いなのか自分でもわかんないけどほんとダメだ。年取りすぎたのかね?S1とかではウィルが酷い目に遭ってるシーンはここまで徹底的に描かれなかったから許容できただけ?
あれをやっちゃう制作陣を俺は信用できないわ。あれみんなどうやって納得してんの?確実に意図した演出だよね?俺が知らないだけでホラージャンルにはあれを説明できるコードがあるの?
自分はジャンルの好き嫌いが多い方だ。興味の無いジャンルはそもそも見ない。好きな人らで盛り上がっててくれって思ってる。
オカルト・ホラーは昔から好きじゃなかった。それでも楽しめたStrangerThingsが何故S4で楽しめなくなったのか。それを少しでも知りたくてこれを書いた。imdbやRotten Tomatoを見ればそれなりの評価なので、俺が少数派なんだろう。
だからこそどうやって他人がS4を楽しんだのか楽しめたのかが知りたい。俺が問題だと思った事はみんな問題なんかじゃないしそれどころか楽しい要素だったんだろうか。80年代アメリカンポップカルチャー(音楽・映画)にさほど思い入れ(そもそも見てないから知識も)が無いからなのか?TRPGは大好きだけど、1話でやっただけだしな。話が大きくなってホラー要素が強くなりすぎて、俺にとってnot for meになってしまっただけなのか?
教えてほしい。
パクリ元→ https://anond.hatelabo.jp/20210212080317
だって楽しそうだったから...(自分は文学的な教育は受けてないし、誰かと読んだ本の感想を共有することなんてないので、元増田に文学サークルとか友人とか出てくるのがうらやましい)
ネタバレありだけど、ちゃんと確認せず書いてるので記憶違いがあるかも。あと、後半になると全然読んでなかったわ。
オデュッセウスがトロイ戦争から帰る途中で船が難破して右往左往頑張るのを眺めるお話なのだけど、勇敢で直情的な普通のおっさんなので苦労するところは苦労してて良い。あと、イリアスと比べても昔の神話らしく出てくる人物とか神様の類がガチで理不尽なので良い。話がズレるけど、イリアスにはディオメデスというやつが主人公然として出ずっぱりなのだけど、オデュッセイアの回想には全く出てこないし、アガメムノンとかアイアスとかと違って他の作者の物語にも出てこないのだけど、あいつなんなん?
途中で読むのをやめた記憶がある。
エディプスコンプレックス(父親に対向心を燃やし、母親に恋慕する、的なやつ)の語源だと聞いて読んだら、全然そういうノリの話じゃなくて「へぇ」ってなったやつ。オイディプス自身は預かり知らぬところで運命に弄ばれて、最後にはすべてを理解してしまって絶望する可哀想な話なのだけど、どうでもよいことで人を殺したことがトリガーでもある(それも運命ではあるのだけど)ので、自業自得感もある。気楽に人を殺してはだめ、絶対。シェイクスピアの悲劇とかもだけど、「100%落ち度がない悲劇の被害者」ってあんまり昔の物語には出てこないね。
タイトルすら知らないやつ、その1
いまいち印象に残ってないけど、なんかずっと酒を楽しんでて幸せそうだなって思ったような気がする。
地獄編の半分くらいまで読んだ。作者(ダンテ)が古代の詩人だか哲学者だかに褒められて地獄めぐりを導いてもらうところから始まって、自分の嫌いなやつ(政敵とか批判者)が地獄で苦しんでるのを巡ってはひたすら口汚く罵って回るという、その性格の悪さというか根暗さに嫌気がさして読むのをやめた。原文だと詩的というか言語的な美しさとかあるらしいけど、こちとら娯楽としてしか本は読まないので日本語で読むからそんなん知らん、こいつは陰湿。
確か冒頭に「酒でも飲みつつゲラゲラ笑いながら聞くためのもんだから」みたいな説明が入るのだけど、そんな感じ。すごいでかい巨人の話だけど、家を椅子にしたと思ったら小便で洪水を起こして家を押し流したりするので、巨人としてのサイズも大概統一性がないんだったはず。なんか「人間の絆」だったかで、大真面目なキャラがラブレーを手放さなかった、みたいな描写があった気がするのだけど、ニュアンスがわかるようなわからんような...と思った記憶がある。
シェイクスピア作品は、意図はどうあれよく「様々な作品の元祖とも言えるものなので、読むと後続の作品がより楽しめる」的に紹介されるのだけど、普通に単体で楽しめると思う。そもそも、別作品を読んでて「あ、これシェイクスピアで見たやつだ!」ってなったからって楽しいか?という感覚が個人的にはある。ひとつ上にラブレー云々も別に良い要素だと思わなかったし。で、ハムレットはシェイクスピアの戯曲の中でも登場人物の精神性の完成度が一番高いと思っていて、劇的さでは「オセロー」とか、キャラクターの鮮烈さでは「リチャード三世」とかには劣るかもしれないけど、舞台装置としてのキャラクターではなく、"異なる価値観、教育etc...の元に自分で考えて行動する登場人物たちがつくる物語"としての面白さが本当に高いと思う。歴史的価値とかは忘れろ、楽しめ。
パルケエスパーニャにいた。
巻末の解説すら読まないことが多いので、アイルランド云々の話をパクリ元で見て「そうだったんだー」ってなった。それぞれの国には短編小説くらいの分量しか滞在しないので、それぞれ短編SFとか的なノリで読んで面白かった記憶がある。自分は自然科学系の研究者なので、科学なき探求(無為)をひたすらやってる国の印象が強い。なんかおまじない的なやつで作物の収穫量が増えるのでは?ってそれを試してるんだけど、当たり前に効果はまったくないし、それを評価するというプロセスが存在しないので無限に無為を繰り返してた。
タイトルすら知らないやつ、その2。
「目玉の話」は読んだけど、その結果として「悪徳の栄え」は読まなくて良いかな。ってなったやつ。
最強天才のファウスト博士が悪魔と契約して、「悪魔の力で楽しませてやる代わりに、人生楽しみきって満足したら魂もらうからな」って契約をする話なのだけど、すべての学問を修めた最強天才のはずのファウスト博士は普通に精神的に未熟なおっさんなので、酒飲んで暴れたり恋愛ごとやったり神話的な体験したりと色々していくなかでの言動がいちいち子供じみてるのが面白い。最後の理想国家のために働く的なパートでいきなり聖人的になってたり、全体の流れが説教臭いのが多少鼻につくのだけど、ラストシーンの迫力は自分の読書歴の中でトップクラスだと思う。ちなみにこの作品は「時よ止まれ、お前は美しい」って言葉の元祖なのだけど、これってファウスト博士からの「この世界を楽しみ尽くして満足した。これ以上の瞬間などこれ以降はありえない(だからもう魂を持っていって良いよ)」という悪魔への宣言で、なんかラブロマンス的なシーンで使われてるの見ると、「ん?」てなるんよね。
「面白かったな」という感想を持った記憶はあるのに内容はまったく思い出せない。なんか年上美人と若者が恋愛する話だったと思う。多分登場人物が本気で生きてる感があって各シーンは面白いって読めたけど、全体の流れにはさほどの興味が持てなかったタイプの話だと思う。
うだつの上がらない貧乏役人のおじさんが一念発起して外套を新しく買うのだけど、可哀想な目にあう。っていう胸糞の悪い類の話。どこかユーモラスなので面白がりつつも、「可哀想じゃんヒドイよ!」って思いながら読んだ。みじめな人間をみじめな人間の視点で描ききるって案外すごいことだと思う。でもゴーゴリのナンセンス小説ならもっとポップな「鼻」のほうが好きだし、大真面目な雰囲気でナンセンスをやっている感のある「死せる魂」も良い。死せる魂は未完だけど、なんだかんだ一つのエピソードがちゃんと完結してるので、未完だからって敬遠しないで良いと思うよ。
タイトルとあらすじを知ってて、なので読んでいない。
主人公の女性の半生記的なところがある物語なのだけど、主要登場人物であるキャサリン(主人公)やヒースクリフの主観的感情があまり描写されない(まったくされない?)ので、なんかヒステリックで意味不明な言動のキャサリンと内心が読み取れないヒースクリフが読者を置いてけぼりにしながらすごく力強くて迫力があって得体のしれない物語を作っていく話だったと思う。主観的情報がないからこそ感じられるキャラクターたちの感情の力強さってなんかあるよね。
クジラに関する雑学(どう考えてもガセのものがある)がしょっちゅうはいってくるクジラ漁船の物語(体感で全体の3割)。エイハブ船長とクイークエグのキャラクターの良さを傍観者主人公の視点で楽しむ感じだった気がする。ラストシーンの映像的な迫力は「ファウスト」のラストシーンの迫力にも匹敵するものがあると思う。文章の映像的迫力ってなんよ?って自分も思うけど、なんかそういうのはあるんだ。多分。
間違えなく読んでるし、面白かったと思った記憶もあるけど内容が思い出せないやつその2。多分、貴族の恋愛ものってジャンルはいろんな作品があるので、自分の中でごっちゃになってるところがあるんだと思う。あらすじを読むとなんとなく思い出すのだけど...
ディズニーの映画って、ノートルダムの鐘とかを筆頭にとんでもなく改変されてるもんだけど、不思議の国のアリスについては、その「不思議の国」感は素敵に映像化されてると思う。一方で、原作の「ひねくれイギリス人が伝わるかどうかは無視してそのアイロニーを子供にぶつけてる感」はなくなってるので、そういうひねくれたおっさんのノリのために読んでみても良いと思う。
ドストエフスキーはノイローゼ(死語)患者の独白を描かせると人類史最強だと思っているのだけど、この作品でも割とそういうところがある。ノイローゼ感のヤバさだけなら地下室の手記とか白夜でも良い。でも個人的には「罪と罰」の主人公の単純なノイローゼ患者ではないせめぎあい感が一番好き。
由緒ある一家が没落していくんだけど、正常化バイアスなのかなんなのかどこか他人事で、お母さんなんて特に事が進む毎に悲しんではいるんだけど、一切その精神性が変わらなくて(成長しなくて)、「多分この人死ぬまでこうなんだろうな...」感があってすごい。ラストにお年寄りの使用人に対する家族全員に関するシーンがあるのだけど、それがすごい印象的で、チェーホフの他の作品や戯曲を抑えてこれが良く代表作として出てくるのはこのシーンのせいだな、って個人的には思ってる。自分はチェーホフは戯曲より小説のほうが好き。
5冊だか6冊だかにのうちの一冊目だけ読んで続きを読んでなかった。忘れてたわ。
読んだけどあんまり好きになれなかった記憶がある。カフカは基本的にキャラクターに人間味がないのが面白いところなのだと思っているんだけど、「変身」とかの短編ならともかく、「城」とかこれくらいの分量になると、人間味のないお話は自分には楽しめないのだな、と思った。
読んでないけど、なぜかあらすじは知ってる。
読んでない。「ダブリン市民」があまり楽しめなかったという記憶があって手を出していない。ダブリン市民はどんな話だったか覚えてない。
結核患者の療養施設であるところのサナトリウムで生活するおっさんの話。ワナビー小説家だか学者だか(主人公ではない)のエピソードや、立派な紳士とその子供の印象的な挿話があったかと思うと主人公と別の患者の哲学かなにかの論争がてんやわんやあったり、女性患者との恋愛未満関係の話があったりと色々な要素がある。ただ、どの部分でも人物の精神性についてバリエーション豊かで不思議なリアリティのあるキャラクターが独特な言動をするので楽しめた。でも、突然こっくりさんをはじめたときは「作者どうした?」って思ったよ。なんなら今でも思ってるよ。
タイトルすら知らないやつその4にして作者名も知らないやつその2。
タイトルすら知らないやつその5にして作者名も知らないやつその3。自分は1900年あたりを境に新しい作品に苦手意識があってあんまり読んでないんだなって実感する。
このへんはすごい現代的なんだけど結構好き。現代的というのは勝手な自分の定義なのだけど、この辺の世代になるとやっぱり文章が少なからず技巧的になって、観念的な表現とか比喩とかが増えてくるので、「うるせぇ、自分の感情はもっとわかりやすく説明しろ!」って要求をしたくなるのだった。でもこの話は割とそれでもなんだかんだ心理がわかるので楽しめた。
このお話はすごい好き。南北戦争前の南部(黒人がバリバリ奴隷として使われてる時代・地域)のある町にトマス・サトペンというヤバげなおっさんがやってきて領地を開拓し、南北戦争を挟みつつ色々する話なのだけど、時系列で出来事を追っかけずに何人かの周囲の人達の回想などでだんだんとそのおっさんの人生の全体像を見せてくる構造になっていて、ただのヤバげなチンピラおっさんだったサトペンが、相応の過去と野望をもったクソチンピラになっていく(自分の中で)のがすごい迫力満点で面白かった。この作者の有名どころの読みにくさは、「響きと怒り」>「アブロサム、アブロサム!」>「八月の光」なので、この逆順に読むのがおすすめ、短編集から読むのも良いけど、「ウォッシュ」だけは「アブロサム、アブロサム!」のネタバレだから後に回すのがおすすめ。
タイトルすら知らないやつその6にして作者名も知らないやつその4
そこまで好きにはなれなかった。説教臭さとも違うなんか面倒臭い思想みたいなものが全体に漂ってる感じで、個人的にはそれが鼻に付いたんだろうなぁって思う。
読もうと思ってたけど読んでなかったのを思い出した。読もう。
なんか意味がありそうで(少なくとも自分が考える限りは)何も意味がないという、意味ありげさで成り立っている戯曲。ただ、それぞれのシーンが映像としてかなり印象的なので、その力でのめり込みながら読んた。で、読んだあと思い返すんだけど、結局何がなんだったのかイマイチわからないのだった。偉そうなご主人様とその奴隷のシーンとかあったけど、結局なんだったんだあいつら。
タイトルすら知らないやつその7にして作者名も知らないやつその5
読んだはずだけどちょっと印象が薄い。同じ作者の「愛人」がそうだったと思うのだけど、登場人物の心情描写が変に淡々としていて、でも行動はどこか直情的で不思議だなぁと思いながら読んだ気がする。その不思議さを楽しむのかな。なんか村上春樹の小説の登場人物の行動を感情的にしたような感じ。
タイトルすら知らないやつその8にして作者名も知らないやつその6。自然科学の研究者なのにSFは全然読まないのだった。でも、SFに興味のない研究者って外部の人が思うよりは多いと思うよ。そもそも本を読まない人をおいておいたとしても。
ラテンアメリカの文学って魔術的リアリズムとかなんとかって、「なんかありそうにない魔術的なシーンだけど、不思議とリアリティがある」みたいな評価がされてるらしいのだけど、それってヨーロッパ人の感性で日本人はヨーロッパ文学も大概魔術的なものとして受容してるところあるよなって思う。ただ、それはともかくとして、この作者の作品ではその言葉がしっくりくるとは思う。同じ作者の「族長の秋」とか短編の「エレンディラ」とかは割とお話全体のストーリーが意味と(場合によっては)ある種の寓意を持っているのだけど、この作品だけは全体の流れとかはあまり意味ないんじゃないかと個人的に思う(何度も読めばなにか見えるのかもだけど...)。それぞれのシーンをただただ楽しんでいたら、読む前に覚悟した長さの4分の1くらいの体感長さで読みきっていた。
タイトルすら知らないやつその9にして作者名も知らないやつその7。なんかすごそうなあらすじだね。
詩はたしなまないから知らない。ツエランはなんか親が読んでて好きだと言ってた気がする。ブレイクって多分宗教画を描く人でもあると思うんだけど、この人の絵はどっかで見てすごいなぁって思った気がする。
ちなみに、「哲学・思想」のパートと「日本文学」のパートは両方合わせても5~6作品しか読んでなかった。多分後30年経ってもさほど増えないだろうなと思う。
(1)はこちら。anond:20210212080317
好き。ただし、当時の人にしかわからないパロディやジョークが多く、というかこの本を通じてしか残っていないのもあるので、純粋に笑えるかどうかはわからない。とはいえ、わからないなりにナンセンスさは楽しく(「ぽっぺん先生」シリーズにも引き継がれている)、トーベ・ヤンソンなどいろいろな人の挿絵も楽しめるし、こじらせ文学少年・文学少女とも仲良くなれるかもしれない。大学時代の読書サークルは楽しかったなあ。
ドストエフスキーの小説は基本的に頭がおかしい。ドストエフスキー自身がギャンブル依存症でユダヤ人嫌いのヤバいやつだし。
登場人物は基本的に自己主張が激しくて感情に溺れやすく、数段落数ページにまたがって独白する。プライドが無駄に高くて空想癖がひどく、思い込みが激しくて人の話を聞いちゃおらず、愛されていないのに愛を語る。そしてそんな奴らが大好きだ。
ぜひとも増田をロシア文学沼に落としたいのだが、いかんせん「悪霊」を含む五大長編から挑戦するのはハードルがあまりにも高いので、「永遠の夫」か「賭博者」か「地下室の手記」か「白夜」からがおすすめ。ロシア文学はいいぞ。
ところで、高校時代の友人曰く「ドストエフスキーにはまるのは自己愛と自己嫌悪の衝突を必死にプライドで支える人間、言い換えるとモテない」とのこと。ひどい。
こっちはスマートなほうのロシア文学。一家が没落して家や土地を売らないといけないのに、家の経済状態をわかっておらず(認めず)すぐに物乞いに金貨を上げちゃう、現実の見えていないお母さんのキャラが強烈。ギトギト描写するドストエフスキーに対し、勘所をびしりと抑えるチェーホフ。
実家のお母さんと(特にお金関係で)うまくいっていない人におすすめ。
未読。怪作「木曜日だった男」は読んだんだが。ミステリはあまり読んでいないのでそのうち読む。
誰もが冒頭のマドレーヌの香りから想起されるママンとの思い出についてしか語らず、たぶんみんなちゃんと読んでないからなのだが、実は無職のマザコンが自分の性の目覚め(野外オナニーを含む)やソープ通いや失恋の思い出について延々と語っている話で、何度語り手に向かって「働け!」と言いたくなったことか。
しかし、実のところ登場人物の九割がLGBTという当時としては非常に先進的な小説で、さらに当時炎上していたドレフュス事件という両陣営を真っ二つに分断した冤罪事件をネタにもしているので(今でいえばMeTooやBLMに相当する)、実は差別反差別についていろいろ語っている増田たちにすごく刺さる内容だと思う。俺差別してないし~、あいつは〇〇人だけどいいやつだよ~、的な態度もぐさりとやられている。最高でしかない。
ちなみに、金に苦労しないボンボンがうだうだ恋愛で悩む小説が好きになったのはこの本のせい。「アレクサンドリア四重奏」とかね。
不条理ギャグすれすれで訳もわからずひどい目に合う小説。いきなりこの小説にチャレンジするのはしんどいので、まずは「変身」か岩波文庫の短編集を読んで、カフカのノリが気に入ったら読むといいんじゃないかな。
読んでいるとカフカがお父さんのことめちゃくちゃ苦手だったってのがびりびり伝わってきて気の毒(カフカは線の細い文学青年、父は叩き上げのビジネスマン。想像できるでしょ?)。お父さんとの関係がこじれている人におすすめ。
最高のダメ人間小説。精神勝利法なることばはどこかで聞いたことがあるんじゃないだろうか。作者は当時の中国人の意識の低さを批判したつもりらしいが、万人に刺さる内容。
ちなみに自分はダメな人間、情けないやつ、どうしようもないやつが大好きなので「指輪物語」のゴクリ(ゴラム)だとか、「沈黙」のキチジローだとかが大好きです。
さえないおっさんが妻の浮気を知りながら一日中ダブリンの町をウロウロするだけの寝取られ小説で(途中で女の子のスカートをのぞいて野外オナニーもする)、このリストの前に出てきた「オデュッセイア」のパロディでもある。
これだけだと何が面白いのかよくわからないのだが、実は当時の反英的な機運の高まっているアイルランドの空気を活写している。それだけではなく小説の様々な実験的手法の見本市みたいになっており、和訳もすごい。たとえばある章では英文学の様々な文体を歴史順に真似て英文学の発展をパロるのだけれど、和訳ではその章は祝詞に始まって漢文になり、漱石や芥川の文体を経て現代小説になるという離れ業で訳している。これがもっと無茶苦茶になると「フィネガンズウェイク」になるのだけれど、すでに言語の体をなしていないのでまだ読めてない。
上記の説明でドン引きしないでください。「ダブリン市民」をお勧めします。
結核療養サナトリウム小説。北杜夫ファンの間で有名な「ねーんげん的」の元ネタ。あらゆる知識を山のサナトリウムで吸収した主人公の運命やいかに! 「ノルウェイの森」で主人公が京都山中の精神病院にこの本を持っていくのは村上春樹なりのジョークか。
ただし、やっぱり長いので美少年萌えな「ヴェニスに死す」か陰キャの悲哀「トニオ・クレーゲル」にまずチャレンジするのがおすすめ。
はまったら「ブッデンブローク家の人々」や「ファウストゥス博士」を読もう。
洗脳エンドのディストピア小説なんだけど、増田で「一九八四年」が古いと言われてしまうんだったらこれはどうなるんだろ。読むんだったら他の「すばらしい新世界」とか「ハーモニー」とかと読み比べて、ディストピアの概念が現実の社会の変化に合わせてどんな風に発展してきたからを考えながら読むと面白いのかも。
未読。長すぎる。
未読。
文学サークルの友人に勧められて読んだんだけど、とんでもない小説だった。あらすじとしては、野望に取りつかれた南部の人種差別主義者が自分の帝国を作るために理想の女性と結婚するが、その女性に黒人の血が混じっていたために離婚して別の女性と結婚することから始まる、二つの家系の因縁話なのだが、時系列がしっちゃかめっちゃかなのでとにかくその男の妄念とその子孫の不幸ばかりがじりじりと迫ってくる。あまりにもすごかったのでフォークナーの他の作品は読めておらず、黒人差別を扱った小説も怖くて読めていない。
未読。
読んだがよくわからなかった。うつ状態のときには時間の経過さえも苦痛で、それを救ってくれるのは音楽だけだ、的な話だったか。とにかく本を読み漁っていたころ、新潮文庫のサルトル短篇集を意味も分からず読んでいたのを思い出す。わけもわからないままヌーベルヴァーグを観ていた頃だ。さっき出てきた高校時代の友人曰く「フランス映画のあらすじはセックスして車で逃げて殺されるだけだ」とのことだが、起承転結に還元できない小説を楽しむようになったのはこの頃からだった。
未読。
短いのですぐ読める。ゴドーはいまだに再臨しないキリストのアレゴリーだという説もあるが、実際のところはよくわからない。意味の分からない話だけど、僕らの人生も結構意味不明だよね、みたいな感じか。
未読。「愛人」は読んだが記憶のかなた。まだ幼くて没落する富裕層とその爛れた愛を十分に楽しめなかった。
どうでもいいが自分が年上萌えに目覚めたのは「海辺のカフカ」のおねショタシーンです。
レムの作品の中では一番好き。たとえ出てくる科学技術の描写が古くなっても(SFだとこういうことはよくある)、理解できない対象として立ちふさがるソラリスという惑星の描写は古びない。
SFは考えうるあらゆる可能性を検討し、人類の達成しうることや宇宙の中での意味について想像力の境界をどこまでも遠くまで広げていく文学だ。中には人類がろくでもない理由で滅亡してしまったり、人間など取るに足りないという悲観的なヴィジョンに至ってしまったりするものまであるが、それでさえ美しい。なぜなら、想像力がヒトという種の肉体に縛られまいと羽ばたいた結果なのだから。
最近SFをろくに読んでいないが、元気が出たらまた読みたいものだ。
初めて読んだラテンアメリカ文学。起こりえないことが起こり、名前がややこしいので誰が誰だかすぐに混同され、しかもそのすべてが意図的である。混乱してもとにかく読み進めてほしい。目の前で起きる不可解な出来事をまずは楽しもう。
慣れてきたら、これが不条理としか言いようのない南米の歴史の縮図だとかそんなことを考えてみるのもいいかもしれない。この本のおかげでボルヘスに、バルガス=リョサに、ドノソに出会うことができた。
一説によるとこの本が文庫化されるとき世界の終末が近づくという本の一つ(未確認情報)。新潮社がなぜか頑なにハードカバーしか出さない。ちなみに「薔薇の名前」にもそうした風説がある。
インド独立の瞬間に生まれた子供たちが全員テレパシーの使い手だった! こんな話があの岩波文庫に収録されるんだから世の中わからない。
主人公は裕福な家で育つが、じつはそれは出産時の取り違えによるものであり、誤って貧しいほうで育ってしまった子供が復讐にやってくる。それも、真夜中の子どもたち全員を巻き込む恐ろしい方法で。
インドとパキスタンの分裂、人口抑制政策、そういったインドの歴史をちょっと頭の隅っこに入れておくと面白いが、昼ドラ的な入れ替わりの悲劇の要素のあるSFとして娯楽的に読める。権力を持った強い女性に対する嫌悪感がほんのりあるのが難点か。
ちなみに、「悪魔の詩」も読んだが、(亡くなった訳者には本当に申し訳ないが)こっちのほうが面白かった。あれは当時のイギリスのポップカルチャーがわかっていないと理解が難しい。
独自の神話的なヴィジョンで有名らしいんだが、邦訳あったっけ?
未読。
卒業旅行でパリに持って行った。たぶん時期的には最高だったと思う。とにかく血だとか死だとか堕落だとか退廃だとかそういうのに惹かれる人生の時期というのがあり、まさにそのときに読めたのは幸せだった。もっとも、所詮自分はそれらを安全圏から眺めていただけだったが。
同じく卒業旅行でパリに持って行った。残念ながらフランス語はわからないのだが、フランスのサンドイッチは最高だった。当時はまだピュアだったのでキャバレーやフレンチカンカンは見に行っていない。
未読。
未読。
ドストエフスキーの作品がカーニバル的、つまり一斉にいろんな出来事が起きてしっちゃかめっちゃかになって、日常の価値観が転倒する、みたいな内容。確かにドストエフスキーの作品は爆弾抱えた人間が一か所に集まってその爆弾が一斉に大爆発、的な内容が多い。
ただ、これ以上のことは覚えていない。実はあまり文芸批評は読まない。
未読。
疲れたので続編をやるかは不明。日本文学や哲学・思想は海外文学ほど読んでないし。まとめてみて、遠ざかっていた文学に久しぶりに手を伸ばしたくなった。
「イリアス」は捕虜の奴隷女の配分をめぐった交渉がこじれた結果、勇者が拗ねて戦場に出ず、味方がどんどん死ぬところからスタートするので、昨今の倫理観からは問題があり、神話初心者にはこっちをお勧めしたい。「オデュッセイア」も家で待っている妻を忘れてよその女のところで数年過ごすが、まあ魔法をかけられていたということでこっちのほうがマシだ。舞台もあちこち移動するから飽きないし。
ユニークなのは、劇中劇的にオデュッセウスが時間をさかのぼって事件の進展を語る箇所があることで、ホメロスの時代にはすでに出来事が起きた通りに語る手法が飽きられ始めていたのかな、と想像できる。
実は「ラーマーヤナ」とある共通点があるが読んでみてのお楽しみ。
聖書はなんせ二千年前以上の宗教書だから、原典に当たる前に基本的な出来事の流れと時代背景や当時の常識を理解していないと読解が難しい。当時のユダヤ民族の偏見も混じっているし。加えて、ところどころ立法全書的に当時の習慣や禁忌を延々述べる箇所があり、通読はさすがにできてない。新約聖書だけは何とか意地で読破した。
ところで、どうして「創世記」だけを取り上げたのだろう。たとえば物語として盛り上がるのは「十戒」の「出エジプト記」だ。「ハムナプトラ」とかでエジプトが悪役になるのは大体これのせい。いきなりこれにチャレンジするのなら、手塚治虫の聖書物語のほうがいいかもしれない。
犯人探しが不幸を呼ぶことから嫌ミス的な要素もあるし、ギリシア神話の「不幸な運命を避けるために必死になって行動した結果、結局その運命を呼び寄せてしまう」というアイロニーが大好きな自分としては、その典型例なので好物だ(予言を鵜呑みにした結果ドツボにはまる「マクベス」も好き)。
これが面白かったら、アイスキュロスの「オレステイア三部作」もおすすめしたい。何世代にもわたる恨みの念が恵みの女神として祀られることで鎮められるというモチーフは、異国のものとは思えない。
一般教養で唐詩の授業を取ったので岩波文庫でぱらぱらとめくった覚えがある。なにぶん昔のことなので記憶は曖昧なのだが、はっきり覚えているのが王梵志の「我昔未生時」で、天帝に生まれる前の時代の安らぎを返してくれるように願う詩だ。当時は反出生主義が哲学・思想界隈でここまでホットなトピックになるとは予想してはいなかった。
酔っ払いの詩。酒が飲める酒が飲める酒が飲めるぞーという内容。著者は文学者であっただけでなく天文学者・数学者としても知られるが(三次方程式を解いた実績がある)、ここで展開されている詩はひたすら現世の美しさとはかなさをうたったもので、酔っ払いは世の東西を問わず、というところか。イスラム世界の厳格なイメージをひっくり返してくれるので面白い。ガラン版のアラビアンナイトや高野秀行の「イスラム飲酒紀行」とあわせてどうぞ。
フィレンツェを追放されたダンテが苦しみの中生み出したキリスト教最高峰の文学のはずだけれど、とにかく気に食わない政敵を地獄でめちゃくちゃな責め苦に合わせているところを面白がる下世話な楽しみ方ができる。地獄にいる人物は聖書やギリシア神話、歴史上の人物も多く、ヨーロッパの歴史や文学をざっくり知っているとダンテがどれだけやりたい放題やったかがわかるので愉快。
ただし、地獄編の続きの煉獄編・天国編はキリスト教哲学をかじっていないと結構しんどく、しかも風景が山あり谷ありの地獄と比べてひたすら恵みの光が明るくなっていくだけなので、絵的に面白いのは地獄のほうだ。
ついでに、ヒロインがかつて片思いをしていたベアトリーチェという女性なので、ベアトリーチェの美しさを歌う箇所も下世話な目線で楽しめる。妻帯者の癖に未練たらたら。
未読。後述のラテンアメリカ文学とかジョイスとかは読んだんだが、そこに出てくる過剰なものや糞尿譚も結構楽しんだので、いつかは読みたいと思っている。
四大悲劇と「ロミオとジュリエット」はざっくりと読んでおくと、いまにも受け継がれているネタが結構あることがわかって楽しいし、意外と下ネタのオンパレードなので当時のイギリス人に親しみを持つことができる。ついでに上記のうち二作は黒澤明の映画の元ネタでもある。
興味深いのは、劇中劇というかメタフィクションが必然性を持って登場することだ(父を殺した叔父の目の前で、その殺人の場面そっくりの劇を演じて動揺させるシーン)。すごく先進的だ。かっこいいぞシェイクスピア。
基本的には正気を失ったおじさんが繰り広げるドタバタ劇で、下巻では著名になったドン・キホーテをからかう公爵夫妻までも出てくる。これだけだと精神を病んだ人をおちょくる悪趣味な書物だとしか思えないのだが(というか最初は時代遅れの騎士道精神を批判するために書かれた)、昨今はドン・キホーテに同情的な解釈が主流。最近テリー・ギリアムが映画化した。
自分が道を踏み外した元凶。誰だこんな子供を人間嫌いにする本を児童書の棚に並べたのは。クレヨンしんちゃんを夕方アニメにするレベルの蛮勇だ。四部作だが、最後の馬の国では人間という存在の醜悪さをこれでもかと暴き立てており、おかげさまですっかり自分は人間嫌いで偏屈な人になってしまった。作者の女嫌いの影響を受けなくて本当に良かった。
とはいえ、当時のアイルランド支配はこれほどまでの告発の書を書かせるほどひどかった、ということは知っておきたい。
夏目漱石「吾輩は猫である」に出てくる。基本的にはふざけた話であり、著者が自分の誕生から一生を語り起こそうとするがなかなか著者自身が誕生せず、しかも物語の進捗が遅いせいで半年ごとに本を出す約束なのにこのままでは永遠に現在の自分に追いつかない、みたいな語りで笑わせてくる。挙句の果てに著者が途中でフランス旅行に出かけてしまう。英文学というジャンルがまだ黎明期なのに、こんな愉快なのが出てくる懐の深さよ。
だが、これだけふざけているのに、登場人物の一人がうっとうしい蝿を「この世の中にはおれとおまえと両方を入れる余地はあるはずだ」といって逃がしてやるシーンはいい。
未読。「毛皮を着たヴィーナス」と「眼球譚」は読んだんだが。バタイユどんだけおしっこフェチなんだよ。自分もお尻とかブルマーとか競泳水着が好きだから笑わないけどさ。
個人的にはとても好き。人生できっと何かを成し遂げられるはずという万能感ある思春期に読みたい。主人公の行為は決して褒められたものではない。様々な悪事を働き、幼い少女を妊娠させたうえ捨ててしまう。このシーンのせいで、もしかしたら二十一世紀には読み継がれない古典になってしまうかもしれない。しかし、主人公が最後にたどり着いた境地の尊さの価値は失われることはないと信じている。現世で最も美しい瞬間とは何か、あらゆる物質的な快楽を手に入れた主人公が見つけた答えを読んでほしい。後半はギリシア神話を知らないとつらいかもしれないが、そのためにギリシア神話入門を読む値打ちはある。
未読。同著者の「赤と黒」は貧乏な青年がひたすらのしあがろうとする話で、あまりピンとこなかったのだが、文学サークルの友人から最近来たメールに「訳者を変えて再読したら面白かった」と書いてあった。
さえないかわいそうなおじさんが好きなので好き。ロシア文学というものは、名前がややこしいうえに同じ人物が様々に呼ばれるので敬遠されがちなのだが(イワンが何の説明もなくワーニャと呼ばれるなど)、登場人物をメモしたり、ロシア人名の愛称の一覧を頼りにしたりして飛び込んでほしい。このハードルさえ超えれば最高の読書体験が待っていることは保証する。ロシア文学はいいぞ。
ポーは大好きなんだけどどうしてこれを代表作に選んだのかはよくわからない。個人的には王道の「黒猫」とか「アッシャー家の崩壊」とかを最初に読むのがいいと思う。中学生の頃、狂気や暗鬱さにどっぷり浸っていた頃に読んだのだが楽しかったし、作中の詩が今でも世界で一番好きな詩のひとつだ。ちなみに、東京創元社のポー全集には、ポーのユーモア作品もいくつか収録されており、意外な顔を知ることができる。もっとも、今読んで面白いジョークかどうかまでは保証しないが、こじらせ文学少年・文学少女としては必読か。
最高の昼ドラにして非モテ文学。俺は愛されずに育った、俺は永遠に誰からも愛されない、だから他人の幸福を破壊してもいい、的な気分に一度もでもなった人は何としても読んでほしい。
映画「マチルダ」の中で児童書に飽きた天才少女がこれを読もうとする場面があるんだけど、これ小学生が読む本じゃないだろ。単純に難しいのではなく、とにかく話が脱線しまくる。まともにストーリーが進まずに、著者自身のクジラに関するうんちくが延々と続く箇所もある。雑学隙の自分は楽しく読んだが。
敵のクジラを殺してやろうとするエイハブ船長の狂気についていけるかどうか。
自分が人妻萌えを発症した元凶の一つであり、世界文学初のカーセックスシーンがあることでも知られている(自動車ではなく馬車でだが)。ストーリーは夢見がちな女性が夫に幻滅して若い男やチャラ男と浮気し、サラ金から借金を重ねて自殺するという「闇金ウシジマくん」的なノリ。妻の浮気を知ったさえないボヴァリー氏の哀れな反応は必見。自分が寝とられ文学が好きになってしまった元凶の一つ。
セワシ君問題の解答候補「セワシ・タイムパトロール隊員説」まとめ・その2
☆https://anond.hatelabo.jp/20190502082818 の続き
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◇ドラえもんの所有するひみつ道具は「未来デパートの商品」などではなく、政府機関・軍隊・T・Pなど、公権力だけに製造・所有・使用が許可されている非買品である。ドラえもんがその所持を許されているのは、前述の通り英雄の特権であり、その使用はT・Pによって絶えず監視されている。
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そもそも「未来デパート」というブランド名がおかしい。22世紀の人間にとって、22世紀は「現代」なのだから。余談だが韓国には現代グループ資本の現代百貨店というのがあるそうだ。
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危険なひみつ道具の民間所有、特に個人所有が許されているはずがない。特に、時間犯罪を可能にするタイムマシンは製造・所有・使用が厳しく制限されているはずである。
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ドラえもんがひみつ道具を「注文」をすると、T・Pによる審議を経て許可されたひみつ道具だけが「未来デパートから配送された」という体裁をとって送られてくるシステムだろう(許可されなかった場合は在庫切れとかなんとか口実をつけて購入できない)。ドラえもんも騙されている可能性が高い。この裏舞台こそがひみつ道具の「秘密」だろう。
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ヒーローマシンのグラフィックがショボかったのも官制品だからかもしれない
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そもそもセワシの家が貧しいなら、いくつもひみつ道具を持っているのはおかしい。
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ドラえもんに危険なひみつ道具の所有が許されているのは、前述の通り、それが歴史の安定に必要と判断された故。
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他の未来人がひみつ道具やタイムマシンを利用しているような描写もあるが、ドラえもんたちほど無制限には使えないはずだ。
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ドラえもんのひみつ道具使用についても、T・Pよって24時間監視されており、深刻な影響(少数人命の被害程度は容認)があると判断された場合はひみつ道具の強制機能停止か、T・Pによる被害の修復・隠蔽工作が行われているはずだ。秘密裏に。
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おそらく、ドラえもんのひみつ道具は遠隔操作で外部から機能停止できるようなバックドアが設けられており、いざというときはT・Pのオペレータが強制的に機能停止をしているはず(壊れた・電池切れという体裁をとって)。秘密裏に。
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コメントでもあったけれど、宇宙の彼方に飛ばされたバイバイン栗まんじゅうは、タイムパトロールが密かに回収し、解除薬剤のようなものを使って無害化しているはず。秘密裏に。
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時間犯罪者達の持つひみつ道具やそれに準ずるメカは違法開発・違法改造したものだろう。
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気になるのは「ドラビアンナイト」で船乗りシンドバッドが助けたというタイムトラベラーだ。彼はただの旅行者ではなく、任務中に遭難したT・P隊員か政府職員、あるいは時間犯罪者である可能性が高い。
もし彼がT・P隊員だったとすれば、彼がシンドバッドに多くのひみつ道具相当の"王様のコレクション"を与えたのは単なる謝礼ではなく、シンドバッドもまたドラえもん・のび太と同じく、歴史の安定に必要な因子と判断され、利用されているのだろう。
そうなると、絵本世界に入ったはずのしずかちゃんが、現実世界のバグダードに現れたのも、怪奇現象ではなくT・Pの差し金と考えられる。四人はしずかちゃんという餌に釣られて、まんまと呼び寄せられたということになる。
その目的はシンドバッドの保護とアブジルの打倒。アブジルはいわゆる時間犯罪者ではないが、歴史の安定にとって危険な存在なのだろう。歴代ヴィランの中でも、アブジルはずる賢く直接戦闘にも優れた強敵と評判である。倒されなければ歴史を揺るがすとんでもない事件を起こしていたのかもしれない。
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※追記 islecape様の情報より。なんと、ドラえもんは「気象庁専用」と書かれたひみつ道具「天気決定表」を所有していた!そんなものが民間に出回っているはずがない。やはりドラえもんのひみつ道具は公権力に与えられたものとみて間違いないだろう。
※さらに追記 コメントでご指摘。「気象庁専用」というのは「子ども銀行」みたいなジョークかも。
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「セワシT・P説」とは相反するが、「未来デパート」は合法的な店舗などではなく、違法にひみつ道具の売買をしている闇マーケット・非合法組織の類であるという説もある。「未来デパート」とは正規の店の名前ではなく、T・Pによる捜査の目から逃れるための暗号名のようなものであると考えると、ネーミングのおかしさも納得である。ひみつ道具の外見が子供向けのオモチャのようで、その名前のセンスが小林製薬のようなのも、T・Pの目を欺くためのカモフラージュだろう。そして「ひみつ道具」の「ひみつ」とは「犯罪だからT・Pに見つからないように秘密にしなければならない」という意味ということになる。
当然、ドラえもんの違法行為にセワシが関知していないはずはないので、これは「セワシ時間犯罪者説」となる。その場合、ドラえもんが堂々とT・Pと会っている理由が謎だが。ひみつ道具を買うのに必要な資金も時間犯罪で稼いでいるのだろう。時間犯罪で金を稼ぎつつ、その金で次の犯罪に必要なひみつ道具を買うというサイクルだ。「セワシ時間犯罪者説」ではセワシの真の目的は自らの時間犯罪の協力者にのび太を仕立てることだろうか。
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◇ドラえもんの耳と体色と声が修理できないということになっているのは、それらの欠損がドラえもんにとっての「英雄因子」であるとT・Pに信じられており、修理すると歴史に悪影響があると判断されたから。
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正史には「耳を失い、体色が変わり、声が変わってしまったネコ型ロボット」としてのドラえもんの活躍が書かれていたのだろう。そこを改変すると歴史全体に何かマイナスの影響があると判断したのだろう。
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なにかしらのトラウマ体験、肉体的な欠落など、人生に負債を背負っていることが英雄の条件と考える発想は古代からある(例えば英雄ヘラクレスは女神ヘラに気を狂わされ我が子を自分の手で殺してしまった)。耳をかじられたトラウマこそがドラえもんの英雄因子であるとT・Pや政府要人が判断しても不思議はない。T・Pのトップが合田一人みたいな人なのかも。
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修理工場の修理工達や製造メーカーはT・Pからの工作で「修理できない」と嘘をつき、全員で口裏を合わせている。非協力的な人間には抹消(T・Pぼん参照)処分があったかもしれない。
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賢いドラミちゃんは事の真相に気づいているが、T・Pの報復を恐れてドラえもんに真実を話せないのだろう。悲しいね。
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アンチ新ドラじゃないけどやっぱり大山ドラは味があっていいよね。
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◇のび太とドラえもんが歴史の英雄であることは、トップシークレットであり、彼ら自身にも伏せられている。
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ビギナーズラックという言葉もあるように、未来世界や時間犯罪に無知である方がかえってプロの捜査官であるタイムパトロール(以下T・Pと表記)にはできない柔軟な発想ができるという考えなのだろう。
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「自らが英雄であることを知らないまま世界を救う英雄」というのはトリックスター的でもある。
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また、のび太とドラえもんがT・Pの協力者であることが暴露すると時間犯罪者に命を狙われる危険もある。
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◇T・Pも無制限にドラえもんたちの行為を容認しているわけではなく、歴史に深刻な影響(少数人命の被害程度は容認)があると判断された行為にはストップをかけている。空想動物の徴収など。
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おそらく24時間ドラえもんたちの行為は監視・分析されているはず。
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◇セワシT・P隊員説が正しいとすると、「ドラえもん」は「SF(すこしふしぎ)生活ギャグ漫画」の皮をかぶった「時間旅行系ハードコアSF(サイエンスフィクション)漫画」ということになるだろう。
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作者・藤子・F・不二雄の大人向けSF短編集の内容や、彼の幅広い文学に対する造詣と関心を考えれば、そういう背景設定があったことは想像に難くない。
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T・Pぼんや藤子・F・不二雄先生のSF短編集は面白いからみんな機会があったら読んでみてね♪
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◇セワシT・P隊員説というのは詰まるところ「ドラえもんはギャグ漫画であって、のび太は世界を救うヒーローじゃない」というのはやっぱり嘘だったという話だ。
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「世界を救うのはもうやめた」マリーのアトリエでも結局魔王倒してるし(任意だけど)、「俺たちは、正義の味方、なんかじゃない」リジョイスも結局魔王倒してるし、つまりそういうこと。
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※返答2
https://anond.hatelabo.jp/20190503093926 "「恐竜狩りはスポーツとして大人気なんだ」と「恐竜狩りは犯罪でTPに捕縛される」の矛盾はどうなんだ"
この説で言うと、「恐竜狩りは犯罪でTPに捕縛される」が真実で、「恐竜狩りがスポーツとして大人気なんだ」の方がウソだったということになります。ドラえもんに与えられた「子ども騙し」設定の一種でしょう、そういう話をすればのび太が喜ぶだろうと考えての。その後都合が悪くなったので、全員の記憶改竄が行われたはずです。
id:islecape ご注意ありがとうございます。 そうですね、書いてあるから正しいとは限りませんしね。 ただ、「天気決定表」のドラえもんのセリフに22世紀では気象庁が天気を決めているというような趣旨のものがあるらしいので、もしそうならそれも傍証になると思います。
https://www.nikkei.com/article/DGXDZO45715160U2A900C1MM8000/孫引きですみません。
"Web等で喧伝される極端なドラミあげドラさげって片倉設定由来みたいな気がする" なるほど。
なんというかドラミちゃん自体が、結構微妙なポジションな気はします。例えばジャイ子なんかは出番が多い文、初期の役割を脱した、キャラの深みを与えられたのに対して、ドラミちゃんは出番が少なくて、「劣等生な兄と比べられる優等生な妹」という初期に役割として与えられたキャラ付けを脱せなかったんじゃないかな~、なんて思います。関係ないけど私は「ミニドラSOS」が他のドラ映画と比べてもかなり好きです。子どもだけの冒険って雰囲気がして。
https://anond.hatelabo.jp/20190506045507すみません"真相"は不適切なので、各論に変えました。あと筆者、男です。
文学ベスト100と検索すると、国内に限ってもいろいろなランキングが出てくる。英語圏では、ベスト100を選んだときどのような小説がランクインするのか、気になって調べてみた。
そうすると、日本と同様にたくさんの種類のランキングが出てくるが、これらをひとつひとつ紹介するのも退屈だ。
だから、それなりに信頼がありそうないくつかのランキングを選んで、それらにくり返し選出されている作品名をここに挙げてみたいと思う。
なにをもって信頼があるというのかは難しい問題だが、だいたい以下のような基準を満たしているランキングだけを取り上げることにした。
英語で検索しているからには、英語で書かれた小説が多くランクインするのは当然なのだが、英語圏に限らず、世界の文学を選出の対象にしていることを条件とした。なので英米文学オンリーとかなのは避けた。
2000年以降に発表された小説の割合が高すぎたり、「ハリー・ポッターシリーズ」のような、あまりにエンタメ寄りの小説を選出しているものは除外した。
「ハリー・ポッター」が文学かどうかは知らないが、それが文学ベスト100に選ばれているランキングが参考になるかというと、あまりならないんじゃないかな。
どのランキングにしても19世紀以降の西洋文学に偏りすぎなのだが、そこはもう仕方がない。
このような基準で選んだランキングは以下の4つ。検索すればソースはすぐ出てくると思う。
・ガーディアン誌による「The 100 greatest novels ofalltime」(いつ誌上に掲載されたのかはわからなかった)
・Goodreadsによる 「Top 100 Literary Novels ofAllTime」(国内でいうと読書メーターや読書ログみたいな位置づけのサイト。ユーザーが投票して選出している)
・Modern Library(アメリカの出版社)による「100 best novels」
・アメリカの文学者Daniel S. Burtによる「the Novel 100: A Ranking ofthe Greatest Novels ofAllTime」(同タイトルの書籍がある。Burtは英文学の講師をしていたらしい)
4つのランキングのうちすべてに選出された作品は、ナボコフの「ロリータ」と、ジョイスの「ユリシーズ」の2つだった。ロリータすごい。
4つのランキングのうち3つに選出されたのは、以下の28作品。
このうち22作品はすでに読んでいた。
けっこうそれっぽいタイトルが並んでいるように見えるが、日本ではほとんどなじみのない作家も中にはいる。ジョセフ・ヘラーとかフォード・マドックス・フォードとか。
フォードの「善良な軍人」が翻訳されているかはわからなかったが、これを除けばすべて翻訳で読むことができる。すばらしい。
ブコメの指摘から、フォードの"The Good Soldier"(上では「善良な軍人」と訳した)は、「かくも悲しい話を…」という邦題で翻訳されていることがわかった。ありがとう。
1→https://anond.hatelabo.jp/20180829184304 2→https://anond.hatelabo.jp/20180829184954
「文句言うなら二次創作で好きなもの主張しなよ!」みたいに言いたい人もおりましょうが、それならもうやってるよ。
たくさん描いたし、イベントも出る。
でも、手応えなし。
何故なら回りくどいから。
だからもう回りくどいのはやめだ。
あちらさんはいつも直球だし。
ムカついてきた。
絵も投稿してから色々見えなかったとこが見えてくるっていうし。
なんかごめんね。
正直色々腹立たしいポイントが多すぎてどこから突っ込んでいいかわからないよ。
正直相談もできず常態化しすぎて第三者の人からしたらどこからが気になるポイントなのかもわからないし。
あのカップリングを嫌いとは言いたくない。(真意はノーコメント)
何故なら興味が無いので。
ただ自分の好きな作品が平然と他社の無関係作品の腰巾着扱いされてるのを延々と見せつけられるのが胸糞悪くて仕方ない。これは相手がディズニーキャラじゃなくたってそう。
普通にRotGの話だけ聞きたいからマジモンの頭痛と吐き気に見舞われながらマイナス検索とミュートを繰り返す人間の気持ちがわかるか?
その日の夜中に原因不明の腹痛が起きたのもひょっとしてそのせい?
何で俺が興味ないジャンル(あちらの某ディズニーアニメ自体の事ではない)のためにこんな労力を強いられてるの?
マイナス検索?やっちゃいるけど打つのめんどくさいんだぞ。想定外のワードも出てくるし。検索エンジンの調子が悪い日にはマイナスが認識されないでそのキーワードと一緒に出てきたりして。(はらわた煮えくりかえり案件)
正直この案件が特殊すぎて他に例が無いため他の似たような案件の意見を見て消化の代償行為すらできない。
某他社アニメの属国扱い前提のブームの後に残るのはイナゴが食い荒らした荒野だけ。
そっとしておかれてればただ静かに過ごせただけだったのに、
さんざん期待を煽られた挙句、植民地状態になった動きの無え界隈だけが残った。
なあ。
どう落とし前
つけてくれるの?
どう責任
とってくれるの?
これもみんな配給会社のごたごたとガーディアンズ伝を某雪の女王アニメの腰巾着扱いした連中が悪い。
あと、本当にうっかり間違えてたんなら仕方ないけど、意図的にRotGをディズニーと偽って誰かに紹介した者がいたとしたら。
あとテレビ局がもしもRotGを紹介する時に
「某ディズニーアニメとのコラボネタが大人気!」みたいな感じで腰巾着紹介しやがったら、
本当に許さねえからな。
幸い今まで公な放送でそんな事件は起きてない。これからも起きないでほしい。お互いの平和のためにも。超えちゃいけない一線は超えないようにしよう。
このクソ状況を覆すには
3. RotGが地上波放送される(ドリームワークス特集とかいって他のドリワ作品も共に放送されるのがベスト。ジブリ特集みたいに。)
5. 続編出て今度こそ上映される。
のどれかが起こるか、なんなら全部起こってほしい。
でもどうしても選ぶなら一番起こってほしいのは1かな。
1、 すなわちウィリアム・ジョイス氏の原作本とか関連書籍が出れば自然と人気は出ていきそうだから。
それが2以降の理想的な展開により繋がっていく。
ちなみに1の展望ですが、実際複数の日本の会社でウィリアム・ジョイス氏の絵本出版の話は持ち上がっているそうです。
ちなみにウィリアム・ジョイス氏の日本語版絵本は一冊出てます。
徳間書店様にて「モリス・レスモアとふしぎな空とぶ本」が発売中です。
ねえ、日本のみなさん。
(ちなみに日本語でウィリアム・ジョイスでググると1946年没のイギリスのファシストのウィキペディアが出てくるけど全く関係ないよ。絵本作家のジョイス氏はご存命だよ。)
…実を言うと3が実現してほしくって、金曜ロードSHOW!の公式メールフォームのリクエスト欄から送ったりしてるんだ。届いてっかな、へへ…(鼻の下をこする)
リンクはこちらです。→https://apps.ntv.co.jp/kinro/form/30655be5-f93c-4d0c-b96f-3ed87c903896.html#__utma=1.73706199.1526713188.1526713188.1533457533.2&__utmb=1.2.9.1533457551565&__utmc=1&__utmx=-&__utmz=1.1526713188.1.1.utmcsr=google%7Cutmccn=(organic)%7Cutmcmd=organic%7Cutmctr=(not%20provided)&__utmv=-&__utmk=34723617
もう一度言うね。
疲れた。
にしてもこんなにそこそこ色々書くと、
「本当にマイナス検索したんですか?wwwwわざわざ見に行ってません?wwww」
とか思われたりもするんでしょうが、
私はわざわざ石の裏をひっくり返して裏の虫を覗く趣味は無いよ。
その証拠に事故で見かけた一枚絵みたいなやつ以外は見たことないしマンガ形式とか小説形式みたいなストーリー形式のものは一ミクロンも読んだことないのであの界隈のセオリーも知らない。
知ってるのはRotGを他社作品某Aの事を味付けエキス扱いした紹介分のような類のものだけ。
なあ。
私何か間違った事言ってるか?
間違った情報はあるかもしれないけどこの怒りは確実に本物だよ。
RotGを勧める時の常套句で、「ディズニーの某Aが好きな人見て!」みたいなやつすら見るのが恐ろしい。
やってる事は「ドラゴンボール好きならヒックとドラゴン観て!」みたいなかんじだぞ
氷の演出が好きって意味ならまあわかるけど某雪の女王アニメを引き合いに出す必要なくない?
もしこの記事を出したことによって「○○(例のカップリング名)再熱しました!」とか言われたら草すら生えない。荒野だからね。
まあどうせもはやそれ自体が無関係の別ジャンルとしか思ってないし…
どうせウチらとは関係ないから勝手にしろって感じだ。やる夫スレみたいなもんだし…
私に「ジャックフロストはジャ某(仮称)で知った」と言い放ったあの人、
ピクシブでジャ某(仮称)のタグをよく検索したことを喜々として語ってたし。
何にしろ、ドリームワークスアニメのRotGをディズニーアニメの調味料扱いしたのは許さんからな。
ちなみに、この記事のタイトルはこのカップリングに反感を抱く人の某主人公側の方の人の人の言い方を真似したものです。
「某Aに男をあてがうなんて…」とか言ってたんです。
うるせえこっちも同じなんだよばかやろう。
ちがう馬鹿野郎じゃない。
こっちも同じ。
こっちだってジャックがお付き合いとかまだはえーよ!って感じなんだよ。
考えすぎかもしれないけどジャックを雑に男ってくくってんのめっちゃやだな。
君は某Aにあてがってほしくない。
これほど利害が一致してることなんてある???(元々無関係なんで利害も何も無関係って感じではあるけど)いわば同志じゃないか。(本来は無関係だけど)
あーあ。
元はといえば。
配給会社のごたごたさえなければ。
20世紀フォックスとのごたごたが無ければ。
こんなに状況がこじれることなんてなかったのにな。
罪は償えよ。
日本の出版社さん。ウィリアム・ジョイス氏の絵本出版応援してます。
あとユニバーサルスタジオさん。ユニバーサルスタジオジャパンさん。ドリームワークスアニメーションのこと、よろしくおねがいします。
ひとまず今回はこれで以上です。
書いてる途中ストレス性っぽいムカムカと発熱と原因不明の腹痛と味覚が一時的におかしくなるなどの諸症状が出ましたがなんとか書き終わることによっておさまりました。
やっぱ溜め込むのはよくないですね。問題というのは。