
はてなキーワード:シャリアとは
ガンダムジークアクスの最終回を称賛する声の多さって、現実において参政党が支持されるような風潮とも多分重なっているよなーと個人的に思う。
あの最終回について、
「シャアが政治にも軍にも関わらないでただの人として生きるの愛すぎる」と言っていたる人を見掛けて心の底からびっくりした。
えーと、「ただの人」…?軍はともかくとして政治を何だと思っている?政治ってそれこそ「ただの人」が集まって作っていくものなのに?
政治への参加権を奪われたのはただの人などではなく、特別に虐げられた人だ。それこそ逆襲のシャアにおいてゲストヒロインとその父の名字に与えられたインドの「パラヤ」(不可触民)のように。最終回でのシャアはその立場に落とされたんだよ。
個人から政治に参加する権利を暴力で奪う最終回と、それを「自由を与えた」として称賛するファンの多さが本当にグロテスクだと思う。
これって映画の続編が決まった閃光のハサウェイにおいて主人公達のテロを迷惑がるタクシーの運転手の台詞を庶民の実感の籠もった声だとして称賛するのとも通じる。
要は政治を特別なもの、一部の選ばれた特殊な能力がある者が独占する特別な業務だと思っている。
ジークアクスにおいてはアルテイシアにはその能力があるとして選ばれ、シャアは能力がないとして選ばれなかった。ジオン国民の声ではなくてシャリア・ブルやその仲間達という神の如き洞察力を持った存在によって、だ。
分かりやすい、間違わない、皆が正しいと言っているリーダーを求める。間違っても自分達の手で正して作って行こうという発想がない。
あの参政党が支持される基盤とも重なっていると思う。
アマテは、学校にジュニアMSやホモアビスの大会の「準」優勝者が現れるなどして、「移動の自由」を両親から奪われ、焼け太りするサイド6の役人になるレールが敷かれてきたことを悟るエピソードがなければならなかった。
アマテが、機能安全に頼るコロニーの脆弱さに我慢がならない自分に気づくこと、そうした危険が「自由であること」と釣り合うように選べなければならない……と感じている自分に気づくことが、ニャアンとの出会いをもたらすのでなければならなかった。
ニャアンは、「ブツの運び屋」だけでなく、中古MS整備工場での下働きにより、整備士としての技能を身に着けようと必死でなければならず、それはシュウジの赤いガンダムを整備するためでなければならなかった。
アマテは整備の重要性を知らないまま、「エース気取り」であることをニャアンに非難されなければならず、実際にカネバンの整備不良で酷い目に遭わなければならなかった。そしてその結果、ニャアンがジークアクスと赤いガンダムの両方を整備するようになる……のでなければいけなかった。
航続距離の長い船……特に大気圏降下能力のある船が、民間で入手できてはならないため、二人の入手目標は(とりあえず)バンチ間を移動できる程度のボロ船でなければならなかった。それもネットで買えてはならず、入手寸前までいったのはニャアンの尽力(移民人脈)によるのでなければならなかった。
アマテの中で膨れ上がる「外」への飢えが、ニャアンだけでなく、エグザベ、シャリア、ソドンのクルー等との会話に現れていなければならなかった。(出身コロニーや木星について質問攻めにするなど)
アマテはかなり早い時点でシャリアに出会っていなければならず、その際に正体を看過していなければならなかった。(シャリア・ブルは非公表かもしれないが有名人ではあるはず)
超大型可変MSは、NTでも強化人間でもない優秀な搭乗員(複数名)によって運用されなければならず、キシリアへ迫る脅威に緩む要素がないことを見せなければならなかった。
シャリア・ブルのキケロガは、超大型可変MSに対しコロニー内で活躍してはならず、これによりジークアクスに示唆や助言を与えねばならず、ソドンは自力航行できなくなるほど痛めつけられねばならなかった。(キケロガで牽引するなどしてコロニー内から退場)
超大型可変MSは、単騎で多数の砲門を有すために投入されたこと、しかし個々の砲門の火力は制限されていることを、明瞭にしなければならなかった。そして、ジークアクス&赤いガンダムによってキシリアから引き離され、劣勢となった時点で、コクピット(頭部)を分離し、コロニーの壁に(別動隊の爆破工作で)空けた小穴から脱出するなどして、正規部隊の丁寧な作戦であったことを見せなければならなかった。
この戦闘の結果、シャリア・ブルの評価は下がらなければならず、それにより、若い世代である三人の活躍を引き立てなければならなかった。
ゼクノバをはじめとする地球~月圏に脅威が迫るレベルの超自然的諸エピソードは、アマテやニャアンの力が及ぶスケールと合わず、無理に絡ませると不自然になるから、入れるべきではなかった。
シャアの再登場エピソードは、シュウジの出自や(それまでの)行動の理由を明らかにするものでなければならず、同時にシャリア・ブルを失望させるものでなければならかった。
ララアが洞察力のせいで自ら動かない選択をしているのであっても、アマテは否定する姿勢を見せなければならず、またその結果としてジークアクスを降り、ニャアンと共にいることを選ぶ結末でなければならなかった。
ジークアクスつまらなく感じたけど、具体的になぜ見ててイライラするのかわからない人にジークアクスのつまらなさの構造を解説する。
最終回にこの手のアニメのくだらなさが全部詰まってるんだけど、わかりやすく例えると私生活はめちゃくちゃなのに政治とか世界情勢とか大きな話をしてバランスと取ろうとする
おっさんみたいな構造のアニメなんだよ。「この作品のテーマはなんなのか?」にだけ注目するインテリぶってる奴らにいい作品だと勘違いさせる構造のアニメ。
唐突に「ニュータイプとは〜〜である!」「ニュータイプは○○なんだ!」と叫ぶキャラクター達。釣られたインテリオタクは「シャリア・ブルのニュータイプ論は〜」と語る。
うんうんわかった。 で一つ聞きたいんだけどアマテちゃん私生活で何頑張ってんの。ただのヤンキーでしょ。何も頑張ってないヤンキーが急にしゃしゃり出てニュータイプ論語られても
世界情勢語って自分は偉いと勘違いしてるワーキングプアと変わらんでしょ。ここでみんなモヤモヤするわけ。
これは全部に言えてジークアクスというアニメ自体もめちゃくちゃなのに最終回のニュータイプ論だとかキャラの意図とかテーマで良い作品に見せてバランス取ろうとしてる。
(製作者達は過去の名作なんて自分たちに作るのは無理だと諦めて確信犯でやってる。)
これがアリならアニメとしては微妙だったけど作品のテーマメッセージは素晴らしいので名作であるなんてトンデモ論が溢れちゃう。実際富野作品はそんなのばっか。
東京BABYLONって昔の漫画の桜塚星史郎ってキャラに似てるな
それまで主人公昴流の味方のように思われていた桜塚星史郎は、最後の方になって主人公を何とも思っていなかった事を表明し、主人公を裏切る。
これって相手をずっと騙してきて最後の最後で信頼を裏切る点で、ジークアクスのシャアとシャリア・ブルの関係に似ていると思う。
大切に思っている姉(妹)を利用して傷付ける点も同じ。
問題は、東京BABYLONとは違ってジークアクスでは、こんな極悪人が何故か支持され絶賛されているという事だけど。
出番が多くて表面上主人公っぽければ人はそっちに感情移入するものなのかなあ…だけど視聴者の期待や信頼を裏切った悪役としか思えないんだが…
善良かと思わせていた主人公が実は犯人だった叙述トリックミステリーは世に沢山あるし、ジークアクスのシャリア・ブルもそういう類の話だと思うんだが
ジークアクス最終回でのシャアの扱いって、幸福の王子っぽくもあるけれど、追放もののテンプレのようでもあるな。
シャアから名前を奪い、地位を奪い、経歴を奪い、部下を奪い、妹との絆を奪い、MSを奪い、初代及びCCAのラストバトルという印象的な場面を奪い、
とにかく何もかもを奪い去って
これでシャリア・ブルが成り代われると思ったけれど
シャアの美点で人気の秘訣である、誰にでも分け隔て無く接する人間性だけは奪えないのであった~完
って感じだった。
シャアのどういう所で人気が出たのか、当の富野監督ですらおそらくは完全には分かっていないんだろうから。
豊かで安全な場所で内輪で固まるシャリア・ブル達と、貧困地域で見知らぬ子供達に囲まれるシャアって
象徴的な悪玉と善玉の構図になっているけれど、巷ではシャリア・ブルが持て囃されている以上は制作側にそのつもりはないんだろう。
しかしこれを元にして追放ものテンプレみたいな二次創作が書けそうだな。
地球で地道に人助けをしているシャアの元には自然と人が集まり求心力を発揮し、ついにジオンの覇権をも揺るがすようになったので戻ってきてくれと縋るも断られるみたいな。
まあそれはヘイト創作と呼ばれる類のものにしかならないだろうから、多分書かないけどさ。
いやしかしマジでジークアクス自体が、追放もの二次創作が量産されておかしくないレベルに酷いヘイト創作だったぞ。東野圭吾の「悪意」以上に念が入っていた。これの準備に何年もかけたという執念が凄い。
赤いガンダム(シャア)VSキケロガ(シャリア・ブル)で乗っ取り
CCAのνガンダム(アムロ)&サザビーの脱出ポッド(シャア)を
ギャン(エグザベ)&キケロガの脱出ポッド(シャリア・ブル)で乗っ取り
そして仮面の男(シャア)を仮面の男(シャリア・ブル)にして仕上げ
要はガンダムを監督のオリキャラで乗っ取り完了したかったんだろうな
ガンダムジークアクス最終回でマチュがお咎めなしのまま終わったって叩いている人が多くてびっくりした。
いやお尋ね者エンドじゃん…家に帰れてねーじゃん…好きな男の子とも離れて終わったじゃん…
笑顔で楽しそうだからお咎めなしって事になるの?シュウジを探すと前向きだからいいの?
その理屈なら逆にマチュが家に帰って元の生活続行だとしても、暗い顔をして落ち込んでたら報いを受けたって判断になるのかな。
しかもシャアに至っては友人と妹に裏切られて国を追われ、その笑顔すらないんだが。
泣き叫んでないからシャリア・ブルの行為を気にしてなんかない!トラウマになんかなってない!……って
人の外面だけで決め付ける短絡的な理論こえーよ
やっぱりガンダムオタクの中でも宇宙世紀のガノタが異常過ぎると思うんだよな
例えば試しにSEEDと比べてみても、ストーリーやキャラクターを語る際の真面目さが段違い
宇宙世紀ガノタはシャアの行動の全てをアムロやララァ個人への執着で終わらせ、シャリア・ブルが一方的なジャッジで殺すのは当然だとして愚弄する。
「悪いのはアル・ダ・フラガだけなんだろ」「関係ない人間を巻き込んだ時点で問答無用でクズ」で済まされるんだろ?
シャアと同じ声のデュランダルも「女に振られた逆恨み」で済まされ、「代わりの女を見付けてそっちと付き合えばよかったのに馬鹿」と愚弄されてたんじゃね?
キャラの行動原理を全て個人の家庭環境等に矮小化して物事を単純化したがる。
クルーゼの絶望に寄り添ったりデスティニープランを真面目に検討するような視聴態度は
制作側のアバターキャラ的な格好良さを持っているのってシャリアじゃなかった?キケロガの戦闘作画がなんだかんだで一番かっこよかったし。ガンダムよりかっこよかったよね実際…。
マチュやニャアンについては親の目線だったり、教師の目線だったり、大人として子供のお世話係をやり振り回されている側の目線を感じて、JK自身が思うJK像とは違うように感じた。
シュウジの描写が薄いのも、親の目線で「シュウジに夢中になってるウチの娘」的な距離感で見ていて、シュウジ本人の魅力を直接食らったとされる立場とはかなりの距離があるからじゃないかと思う。
「何がいいんだかわかんないけど、ウチの娘、K-POPのナントカいうメンバーに夢中なんだよなぁ…」的な。あくまでマチュとニャアンは夢中なようですという外野フィルター通すから、シュウジの魅力が視聴者には直に伝わってこない感じ。
そしてJKの描き方が本当に親から見た子供というか。タマキなんかマチュの存在にキャリアとか人生とか破壊しかされてない。エグい迷惑。でも親は娘が生きてるだけでいいと思っちゃって…というのは子供にとっての都合が良い描き方というより、親の自己憐憫というか自己陶酔に近いものを感じて。
タマキの反対の存在としてのシイコも…親に迷惑かけてると指摘するコモリも…地球で売春させられていて館に放火して憎悪の表情を見せた少女も。親が!娘を守ってあげてるんです!的な目線。そして、何が起ころうと親に対してとことん雑なマチュ。
高校生のワガママさ、思春期の厄介さをリアルに描きすぎると高校生には逆に飲み込みにくくないか?美化されてたほうがリアルな自分像に感じるものじゃないか?
やっぱり親目線が強いように思う。オタクはマチュがカバスの館でソープ嬢をする同人誌を夏コミで買うんだろうと思うけど、本編がそういう方向性だったかというと全くそんなことはなかったよね。館でおとなしく働くわけがない…シュウジを思い描いて客の股間を蹴飛ばして脱走するよあいつは。
若者に対する期待みたいなものはエグザベとコモリに向けられているように感じた。社会人3年目。メンタル安定しててよくできた連中。
エグザベはキシリアの兵士だったけどスパイに来たシャリアに懐いてしまっているし、コモリもめんどくさくない程度にシャリアに興味や配慮を向けてきて職場の華として丁度いい。
やっぱ本体シャリアなんじゃないすか?エグザベみたいな若者に敬意を払われたいし本気で慕われたい、あとコモリと付き合う体力なり結婚してやる責任感はないけど「うっすらとした興味や配慮」を向けられると「丁度いい癒し」になる。
マチュ目線の物語だったようには全然感じなかった。もうマチュの親の世代に目線がシフトしてしまっていて、ぬめりけのある期待は社会人3年目世代に向けられてる。ロリペド感が薄い。
もちろん視聴者側のオタクにはロリペドもいる(二次創作エロのマチュがおとなしすぎてエアプかお前?みたいなのもいる)けど、制作側の感じはリアルすぎるJKを親目線で見ちゃって、ロリペドみがなくなってるという風に思いました。
キスシーンとかもなんか…娘に「色気づくな」とか言わない、毒親じゃない、理解のある親が、娘が喜びそうなものをプレゼントした感じというか。なんだろ…、なんだろねえ…。
ジークアクスについてのこのブログの感想、賛同出来る部分もあるけれど。しかし。
私はジークアクスは全体的に酷すぎた中でことシャアに関しては割と再現度高いと思ったが。
シャアの構成要素?と言うならば私は最も重要な要素の一つとして
「考えを常に表に出すとは限らない」があると思っている。
つまりは余白、想像の余地がある。ジークアクスはそれに限ってはそんなに悪くなかった(他は酷すぎた)。
その最たるものが1stの最終話で、瀕死の重傷を負ったキシリアの部下に対して「安心しろ。貴様に代わって閣下は必ずお守りする」と言う。
で、その直後にセイラに対し「やはりザビ家は許せんと分かった」と言い、それからキシリアを撃つ。
いくら何でもこんな短時間で考えを変えるとは考え難いので、兵士に向けて話している時点で多分キシリアを殺す決意を固めている。でもそれを表には出していない。
つまり「素顔を晒し」「唯一の肉親である妹の前で」嘘を付いている。
「シャアはこういう奴なんだよ」と言いたいならば、この場面は物凄く重要では?
でもどいつもこいつもそこを無視して、直接描かれてはいないシャアの内面、余白であるべき部分やそこから想定される行動を勝手に決めつけ、「シャアはこういう奴なんだよ」と断言する。そして嘲笑って愚弄し、ヘイトする。
そして最終回のシャリア・ブルのやった事ってまさにこれと同じなんだよね。お前はこういう奴なんだと勝手に決め付けて後方理解者し、その上で加害するという。
Z見ないと間埋まんないからわかんなくね
カミーユに殴られてた時代が一番シャアの精神安定してそうだった