
はてなキーワード:シャッター街とは
ウェブ版『美術手帖』の編集長が「イオンモールしかない地方都市には美術の美もない」というようなことを言って、案の定、少し燃えたのは記憶に新しい。
僕も地方出身だから、その言葉にカチンとくる人の気持ちは痛いほどわかる。「どうせ俺たちの日常なんて、文化の欠片もない退屈なものなんだろ」と、見下されたような気分になる。週末に行くイオンが、家族にとっての一大イベントだったりする、そういう暮らしの機微を全否定されたような気さえする。だってほかにないじゃん。
ただ同時に、編集長が言わんとしていることも、なんとなく想像はつく。地方都市の、あの画一的な風景。どこまで行っても同じようなチェーン店と住宅街が広がり、かつて街の中心だった商店街はシャッターを下ろしている。そういう風景を前にして、アートに関わる人間として一種の絶望というか、嘆きのようなものを感じてしまう瞬間があるのはよくわかる。それは、地方に対する愛憎半ばする感情なのだろうとも思う。
そんな小さなモヤモヤをずっと抱えていたら、実に興味深いニュースが飛び込んできた。
他ならぬそのウェブ版『美術手帖』が報じた、「東京藝術大学取手キャンパスに10億円の寄付」という記事(件の編集長もこの記事へのリンクをリポストしている)。
これは、なかなかに美しい皮肉じゃないか、と苦笑してしまった。
http://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/31541
東京藝術大学といっても、取手市であって上野ではない。東京ではない。茨城県にある。都心から見れば、それは紛れもなく「地方」だろう。
どころか市内に日本最大級のイオンモールが計画されているという報道もまた、記憶に新しいではないか。
しかしその「地方都市」日本代表メンバーに選ばれるであろう取手のキャンパスに、安田容昌氏という方が10億円もの大金を寄付した。
「取手キャンパスには、素晴らしい施設に加え、土の匂いと、川の風と、地域に暮らす人々の息遣いがあります。」
「これまで日本の発展は、とかく都市を中心に語られてきました。しかし、真に新しい価値は、しばしば周縁から生まれます。」
「芸術に触れる機会が都市部に集中している現状において、この取手キャンパスから、日本の新たな文化のうねりを起こすことができると信じてやみません。」
「地方で事業を成し、その恩恵を受けてきた者として、次世代のために文化的な社会資本を築くことこそが、私にできる最後の恩返しです。」
(ちなみに最初の2行は、『美術手帖』の記事ではなぜか省略され、大学の公式リリースにだけ載っている)
https://www.geidai.ac.jp/news/20251008152520.html
つまり、これは「田舎には美術がない」という嘆きに対する、あまりにも力強いアンチテーゼなのだ。それも、10億円というリアルな数字を伴って。
アートは都市だけの専有物じゃない。地方にこそ、これから育まれるべき豊かな土壌がある。そう高らかに宣言しているように聞こえる。
編集長の炎上した発言は、確かに言葉足らずで、多くの人を傷つけたかもしれない。
でも、彼が投げかけた「地方とアート」という問いは、奇しくもこの10億円の寄付によって、新たなステージに進んだ気がする。
「イオンモールしかない田舎」と切り捨てられた場所で、アートは育つのか。
いや、育つに決まっている。
誰かが「ここには何もない」と嘆いた場所にこそ、新しい価値が生まれる種が蒔かれるのだ。
今回の寄付は、まさにその種だ。この種が、取手の地で、どんな芽を出し、どんな花を咲かせるのか。
それは、都会のギャラリーに飾られる洗練されたアートとは、全く違う形かもしれない。泥臭くて、生活の匂いがして、不格好だけど、力強い何か。
心のどこかで、あの編集長の嘆きにまだ共感している自分もいる。「東京藝大」という権威と「10億円」という資本。
結局、そうした巨大な「外部の力」がなければ、地方のアートは話題にすらならないという現実。それは、彼の「田舎には美術がない」という言葉を、残酷な形で裏付けてはいないだろうか。
編集長の発言も、10億円の寄付も、「お前のいる場所の『美』とは何か?」と問いかけている。
イオンモールのフードコートで談笑する高校生に、夕暮れの田んぼ道に、シャッター街の錆びた看板に、目を凝らせば「美」のかけらは見つかるんだろうか。
かなり具体的な描写ですね。
この条件を整理して推定してみましょう。
→候補は以下の6駅:
-西調布
-飛田給
-柴崎
-布田
「シャッター街」「古びた団地」「老人多い」「空き家あり」「子育て世帯もいる」
「スーパーはレジ1人」「テナント募集中」など生活感はあるが衰退気味。
駅 特徴 該当度
西調布駅前に商店街があるがシャッター多め。旧甲州街道沿いに古い団地・空き店舗が点在。スーパーも少なめ。 ★★★★★
飛田給味の素スタジアム最寄りでイベント時は混むが、普段は閑散。住宅街が広がる。団地もあるが、商店街は小規模。 ★★★★☆
布田再開発進行中で駅前がきれい。空き店舗は少なめ。 ★★☆☆☆
柴崎駅前に昔ながらの商店が並ぶが、空き店舗目立つ。高齢者多め。住宅街・団地もあり。 ★★★★★
🪧 補足
柴崎駅周辺(特に甲州街道北側)には昭和の香りが残る小規模商店街や団地が多く、空き店舗・シャッター通りが見られます。
西調布駅も「旧甲州街道沿いのロードサイド空き店舗」「団地の1階店舗シャッター」「高齢者の多い落ち着いた雰囲気」といった描写にかなり一致します。
例えば「上海はシャッター街だらけ、ゴーストタウン」みたいな動画がたくさんあるんだけど
現地の日本人Youtuberが上海を歩く動画で「上海は栄えてない、ゴーストタウンのはずだ」ってコメントが沢山来たらしくて困惑していた
というか「シャッター街だらけ、ゴーストタン」っていう動画、東京でもあるよね、あと地方の動画もたくさんある
(俺もゴーストタウンでヤバい!失敗した街!みたいなの好きだったけど、ネタ切れなのか誇張が見られるようになって最近は不快になってきた、もっとブラタモリ的なの見てる)
上海市はちなみに2000万人以上いる、調べればすぐわかるはずだが、想像力が足りないんだろうなあ
そういえばこの前話題になった韓国の釜山の人口流出も、皆ひょっとしたらゴーストタウンだと思ってないだろうか?
これで大体イメージつくだろうか?栄えてないわけはない、あくまで「昔より栄えてない」「若者が流出している」だけで、ゴーストタウンは言い過ぎでシャッター街が局所的に存在するだけだ
TikTokも似た感じだし
そう言えば中国に関しては「実は中国は14億人もいない、5億人くらいだ」って言い始めててヤバかった
でもこのネタって中国国内から出てきたネタらしいんだよね、アホなんかこいつら(最初は研究者が14億人も居ないかもと言ったのが始まりだったが、その後エスカレートした)
地方で前時代的な問題が起きるたびに滅びろと叫ぶ人が幾らかいる
でも、そういう人の多くは地方を恐らく知らないと思う
なぜなら、地方で生きている人間にとって「滅び」は、うっすらとした現実で、多かれ少なかれ感じていることだから
この地方民が感じる「滅び」というのは、大都市の人間には、なかなか分からないと思う
地方を観光で訪れるという人もいるだろうがそういう人でも簡単には分からない
地方にはミニ東京、ミニミニ東京、ミニミニミニ東京みたいな都市がありその地域で一番栄えている所が周辺の人や物を吸い上げている
だから、この「東京」を他所から来た人が訪れると結構、都会じゃんとか賑やかだねという感想を持つことが多い
実際、東京からやってきた従兄弟のお嫁さんが、うちの隣町(10万人規模)を初めて訪れた時、都会だねと驚いてた
でも、地元民からした昔に比べ寂れてきたねというのが実感なのだ
地元の商店街はシャッター街になり、かつての地場のデパートは廃墟になり、バスの本数も減った、子供は減っている、確かに全国的なチェーン店は増えた、コンビニも増えた
でも、そこに街が元気という実感は、あまりない
「東京」を観光で訪れた人が周辺の地域に足を伸ばした時、多くの場合、田舎だね、のんびりしているねという感想を持つと思うが
そこにも昔は、商店街あったり、街に元気があり栄えていた、小さいながらも街があったんだ
ただ、一時的に訪れる人は過去の姿を知らないから単純に今の景色を見ての感想、地元民の実感とはズレてくる
しかし、今ではこの「東京」に人や物を供給する地域の体力が尽きて、「東京」も危うくなってきている
ぼくの地元は、25年ぐらいで子供の数が半減して、小中の校数は半分以下になった、高校もなくなった
山に飲まれていく民家、荒れた田畑が、目に付くようになっている
少子化等で日本の将来に危機感というのは、全国の人が持つ変わらないものだと思うけど地方はそれが目に見える
その街の一等地なのに空き家のまま、自動車が生命線なのに減るガソリンスタンド、生活していく中で「滅び」がどこかに潜んでいる
香港民主化デモの本質は、中国本土に対するルサンチマンの爆発だった。
香港では中国本土からの観光客に対するヘイトスピーチが雨傘運動以降盛んに行われた。
ヘイトスピーカーはマナーの悪さやら、越境出産やらを槍玉にあげて、香港停滞の責任を中国人になすりつけた。
ヘイト願望が先に来て、つじつま合わせに悪口をひねくりだしてるにだけであって、現状への不満を攻撃しやすい相手に向けているだけだ。
中国人のマナーが良くなろうが、越境出産がなくなろうが、惨めな現状など変わらない。
香港民主化デモが示したのは、実態がルサンチマンとヘイトの政治運動だとしても、民主だの人権だの自由だのというキレイゴトを掲げれば、多くの支持を得られるということである。
だが民主だの自由だのといった言葉はは考えなしでも思いつく平凡なスローガンに過ぎない。
そして区議選の民主派の地すべり的勝利でかれらの市場価格は最高に達した。
本当であればキレイゴトで自分たちの本音をごまかさず、ルサンチマンとヘイト感情にしっかりと向き合えばよかった。
民主化デモの連中は「自分」というものを問い直さずに、ひたすら他人を攻撃し続けた。
本来なら、デモ隊はかれらを叩きのめす敵というよりも交渉相手とみなすべきだった。
高まった市場価格を取引材料に譲歩を引き出すのが政治運動のセオリーである。
が、コンプレックスにまみれた人間はとやかく人を攻撃したがるものである。
こうして収拾のつかない自体に陥ったデモ隊は、結局本気を出した中国政府に叩きのめされてしまった。
中国政府の強硬な姿勢に文句を言う人が多いが(実際問題も多い)、仮に民主化運動が成功したとしても決して香港は良い方向には向かわなかっただろう。
民主や自由で経済が上向くでもなし、中国と香港の力関係が変わるでもなし、当然ルサンチマンは解消しない。
亡命した民主派の闘志たちはウジウジ恨み節をのたまわっているだけで、民主化デモがなぜ失敗したのかというと反省はなんらしていないようだ。
ルサンチマンにむきあわず、お題目のように民主・自由を言い続けても香港は何も変わらない。
応援したいとも思えないし、実際、日本ではすでに飽きられている。
香港デモは天安門事件と同じようにかつてニュースを騒がした一事件になりさがった。
天安門事件の関係者たちも現在ではお行儀のいいことを並べるばかりで、はっきり言ってつまらない。
いまやデモ発生から6年にして香港の人々はあれだけ嫌っていた中国に「北上消費」しに盛んに通っているという。
どうも香港は中国より下、ということを認めざるをえないらしく、ある北上消費をする香港市民によると深センは香港より物価も安いしサービスも良いそうである。https://www.fnn.jp/articles/-/896155
民主と自由への願いが切実なら、それを叩き潰した中国への憎悪はすさまじいだろう。
しかし彼らの「願い」とやらの強さは香港の中心街をシャッター街にするかわりに深センに金を落とす程度のものらしい。
ルサンチマンをごまかすための民主や自由にふさわしい末路である。
香港民主化運動は中国政府の弾圧により挫折した、というのが一般の評価である。
民主化運動の目的が「自由で民主的な香港の実現」とするならば正しい評価と言えよう。
しかし、少なくとも雨傘運動以後の民主化運動は大陸へのルサンチマンとヘイトを解消する道具として民主と自由を掲げたに過ぎない。
このように民主化運動の目的を見直せば、2019年の香港民主化デモは大成功だったと言える。
お題目の民主と自由は叩き潰されたが、これによって香港と中国の上下関係は疑う余地なく確定した。
「こちらのほうが上だったのに・・・」というくだらない思い込みが崩れ、中国が香港の上に立つということが自然なことになった。
香港人は香港が中国に飲み込まれることを受け入れていれてしまえば、なんのことなくルサンチマンは見事に解消される。
これは有能な同僚に対して劣等感を抱くとしても、社長にはそんな感情を持たないことに似ている。
こう考えると中国政府の強硬な姿勢も国家安全維持法の極めて厳しい内容も香港人への温情だったかのように思える。
中途半端に妥協しても鬱屈した香港人のコンプレックスは残り続ける。
そうであれば、ここは徹底的に香港人の反抗心を潰し、中国の一都市として香港アイデンティティを「再編集」し、ルサンチマンを解消させるほうが愛情と言うもんだ。
香港はいまや「中国の香港」となった。人々の意識の上でそうなりつつある。
教育も変わっているし、海外移住と本土からの香港へ移民の増加はこれに拍車をかけている。
これに外野から文句を言うのもそれはそれで自由だが、民主と自由を勝手に香港に期待したために出る言説にすぎない。
パチンコ店が日本から消えることについて、あなたの意見、非常に分かりやすく拝見しました。特に、依存症や社会問題の温床になっているという点、そして若者の興味が薄れているという点については、多くの人が感じていることだと思います。おっしゃる通り、パチンコがなくなることで「困らない」と感じる人、むしろ歓迎する人は少なくないでしょう。
ただ、「困る」という観点から見た場合、いくつか考慮すべき点もあります。あなたの「どう思う?」という問いに対し、社会全体への影響としてどのような側面があるかを考えてみましょう。
パチンコ店がなくなると「困ること」として考えられる側面
おっしゃるように、パチンコ産業は非常に大きな経済規模を持っています。警察庁のデータ(令和4年における風俗営業等の概況)によると、パチンコとパチスロを合わせた貸玉・貸メダル料金の総額は約24.2兆円に上ります。これは、遊技客が使ったお金の総額であり、そのまま業界の利益ではありませんが、これだけの巨大な金額が動いている市場が突如消滅すれば、経済全体への影響は無視できません。関連産業も含めると、その影響範囲はさらに広がります。
全国に多数存在するパチンコ店で働く従業員の数は相当数に上ります。店舗スタッフだけでなく、本部機能やメンテナンス、清掃など、業界全体で多くの雇用を創出しています。これらの雇用が一気に失われることになれば、失業者の増加という形で社会に影響が出ます。
*関連産業への打撃:
パチンコ産業は、遊技機メーカー、部品メーカー、景品問屋、設備業者、メンテナンス業者、コンサルティング会社など、多岐にわたる関連産業を支えています。パチンコ店がなくなれば、これらの産業も成り立たなくなり、多くの企業が経営危機に陥ったり、廃業したりする可能性があります。
*地域経済への影響:
特定の地域においては、パチンコ店が一定の雇用を生み出し、地域住民の消費の場として機能している側面もあります。もちろん、パチンコ店に多額のお金が吸い上げられているという批判もありますが、閉店によってその地域から人の流れや消費が減少し、シャッター街化を加速させる可能性も指摘されています。
あなたの言うように、別の娯楽を見つければ良いという考え方もありますが、特に高齢者など一部の人々にとっては、パチンコ店が手軽な娯楽であり、あるいは地域のコミュニティにおける一つの交流の場となっているケースもあります。そうした人々にとっては、日々の楽しみや居場所が失われることになります。
一方で、「困らない」「むしろ良い影響がある」側面
*社会問題の軽減:
パチンコ依存症に起因する多重債務、自己破産、家庭崩壊、育児放棄、そしてそれに伴う犯罪の増加といった深刻な社会問題が大きく軽減される可能性が高いです。これは、パチンコがなくなることの最大のメリットと言えるでしょう。
パチンコに使われていた巨額の資金が、他の消費や投資に回ることで、より生産的で健全な経済活動が活性化する可能性があります。
*青少年への悪影響の減少:
パチンコ店がなくなることで、未成年者が誤って立ち入ったり、パチンコに触れる機会が減り、将来的な依存症のリスクを低減できます。
まとめ
パチンコ店が日本から消えることには、経済的な側面や雇用の問題、関連産業への影響、地域経済への影響といった「困る」側面があることは間違いありません。一方で、依存症をはじめとする深刻な社会問題が軽減されるという「困らない」、あるいは「むしろ良い影響がある」側面も非常に大きいと言えます。
最終的に、パチンコがなくなることで社会全体としてプラスになるかマイナスになるかは、これらの様々な影響をどのように評価するか、そして失われる経済活動や雇用に対するセーフティネットをどう構築できるかといった点にかかってくるでしょう。
「時代の変化」という観点では、おっしゃる通り、若者のパチンコ離れは顕著であり、このまま市場が縮小していく可能性も十分にあります。カジノ(IR)の登場も、一部の顧客層を奪う可能性を秘めています。
ご提示いただいたように、パチンコが抱える負の側面は非常に大きく、それらが解消されることによるメリットは計り知れません。しかし、一方で経済的な影響も無視できない規模であるという、光と影の両面を持つ複雑な問題と言えるでしょう。
富山出た女、今30前半
話違うけど富山に住む魅力がないのに出て行った側のことばっかり言われても困るよねーと同じように出た人と話す
これは富山に限った話ではない
価値観は人それぞれだから富山が合ってる人は住むし、合わない人は出ていく、お家事情は私の家もあったけど、それ含めた独特の地域の空気が嫌だから出た
それは若い世代だけでなくその上の世代でも普通にいる、そういうのを鑑みて土地の価値や産業や娯楽をどうにかしなかった富山県自体が悪い
高岡駅前のシャッター街、何十年放置してるんだろう、土地開発って生活そのものを作らないとダメだから商業施設と仕事と住居合わせて再開発したらいいのにね
富山出た女、今30前半
話違うけど富山に住む魅力がないのに出て行った側のことばっかり言われても困るよねーと同じように出た人と話す
これは富山に限った話ではない
価値観は人それぞれだから富山が合ってる人は住むし、合わない人は出ていく、お家事情は私の家もあったけど、それ含めた独特の地域の空気が嫌だから出た
それは若い世代だけでなくその上の世代でも普通にいる、そういうのを鑑みて土地の価値や産業や娯楽をどうにかしなかった富山県自体が悪い
高岡駅前のシャッター街、何十年放置してるんだろう、土地開発って生活そのものを作らないとダメだから商業施設と仕事と住居合わせて再開発したらいいのにね
県二位の人口22万人の中核市であり、太平洋に面する港町、臨海工業地帯、外航・内陸航路の工業港を有し、東北新幹線八戸駅、東北自動車道八戸線、三陸復興道路の北の終点がある。東北有数の商圏63万人の街。
しかし、八戸市にはイオンモールがなく、イトーヨーカドーは2024年の夏に閉店する。
八戸市の映画館はかつて7館あったが、現在は完全になくなった。
2000年代前半4万平米級のイオンモール計画が立ち上がるも、中心市街地の地権者や有力者等で構成する市の商工会が大反対運動を展開。当時の市長はイオンモール反対を表明するも次の選挙で市民の支持を得られず落選。
イオンモールを待望した市民は、官僚出身の新市長を当選させた。しかし、外部の反対派寄りの専門家や学識経験者を交えた委員会を開き、最終的にイオンは過剰な商業施設であり不要と決定。そして、八戸市は事実上の1万平米以上の商業施設立地規制条例を制定し、イオン予定地は、当初計画を大幅縮小した売場面積7千平米級の中途半端なイオンが開店した。
さらに、市はそのイオンの隣により大きな建坪で市の総合検診センターを建設。土地区画整理組合への補償のためだと思うが、未来永劫、増床してイオンモールにすることはできなくなった。
その結果、市民は昔からある隣町のイオンまで車で約15kmから20km車で行く。
車がない高校生は1日に4便しかない直行バスに長い行列をつくり30,40分かけていく。
街の顔である中心市街地は、税金や補助金を投入し続けたが商業エリアとして魅力は下がり続け集客力は改善せず、事実上シャッター街に近い状態になった。
かつて市民のデパートとして親しまれたヨーカドーは市内に2店舗あった。1980年中心街の再開発ビル(地下1階、地上7階建、屋上遊園地)にヨーカドー八戸店出店計画が出て、当時の市商工会議所は大反対をした。市民には大歓迎されて開店してから東京の有名なデパートとして八戸の目抜き通りのシンボルとなった。その後2003年閉店。
古いビルは壊され屋台村になり、かつての長崎屋は1階がタリーズコーヒーで、2階から13階建のマンションになった。
市は20年ぐらい前には既に中心市街地活性化対策に乗り出し、再開発計画が出ては消えを繰り返し、最終的に新市長が市営の箱物をたくさん新設したり、建て替えた。
中心街は仙台に次ぐ飲み屋街として名高く、屋台村のみろく横丁周辺が酒豪の呑んべいたちで賑わう。新幹線開通後、新たなホテルやマンションはいくつか建設された。
市内は、北東北を中心に展開する売上高1300億円、58店舗を展開するスーパーのユニバースが本社を置き市中を治めつつ、他社も含め無数にスーパーとドラッグストアがある。イオン系列マックスバリュー、ホームセンターのサンデー、ヤマダ、ケーズデンキ、ユニクロ、GU、しまむら、西松屋、ワークマンもある。日常の買い物には困らない。
しかし、市民は屋内一体型モールのイオンモールが欲しかったのだ。大規模な市総合検診センターでもなく、市の観光文化交流施設や、市民屋内広場ではなく、イオンシネマやゲームセンターやボーリング場や、未来屋書店や、東京のアパレルテナント、東京で話題のある飲食店のフードコートが欲しかった。
明治時代に日本鉄道が東北本線を八戸町の中心部に伸ばすかどうかで議論になった。
当時は他の町と同じく蒸気機関車忌諱説があり、流行病の懸念や軍部の要望があり外国軍上陸の脅威を減らすべく、市街地から4kmも内陸の尻内(しりうち)という辺鄙な場所に駅をつくった。あとで町民たちは鉄道は便利だと知ることになり、数年後に本線から分岐して八戸線が開通し中心市街地の800m北寄りに旧八戸駅、現在の本八戸駅を開設する。
そのあと100年以上が経ち、尻内駅は八戸駅に駅名が変わり、やがて新幹線駅に昇格した。しかし、あまりに市街地から離れすぎた立地のため、郊外の地方空港の様相であるかのように、22万人都市の玄関口としてはお察しくださいの状態である。
大正末期に八戸大火が発生し中心商業地区が焦土と化したが、田舎町には後藤新平のような都市計画家はおらず、当時の八戸町議会は多額の予算は出せないとして狭い道は藩政時代のままとなった。
太平洋戦争では基幹産業の日東工場爆撃が海側の地域で爆撃を受けるも、中心市街地の空襲被害はほとんどなかった。
市の北側に位置する旧日本軍の飛行場と基地は米軍に接収され、3,200人の米兵により飛行場を拡張し基地の街と化す。その後、陸海自衛隊基地として運用される。
八戸の中心市街地は、戦後しばらくして、東映、東宝、テアトルなどの7つの映画館が開店し、地元百貨店が開店し、緑屋、ニチイ、丸光(さくら野)、長崎屋、そしてイトーヨーカドー、地元資本のファッションビルが開店し、中心市街地は岩手県北を含め商圏62万人ともいわれ栄華を極めた。私はその時代を生きていないのでよくわならない。
八戸は昭和30年代に新産業都市に指定され臨海都市建設工事が始まり、八戸鉱山の石灰石産出、三菱製紙工場、八戸火力発電所、非鉄金属の精錬所、鉄工所、造船所が建設された。
漁業は栄光を極め、八戸港の水揚げ量・金額が日本一を記録し、第一・第二・第三魚市場は全国の漁船が集まったという。浜の景気は大変良く、飲み屋街や風俗街も発展した。北海道室蘭・苫小牧港へのフェリー航路が開設され北への玄関口となった。中心市街地を迂回する国道45号バイパスが整備され、市道の4車線の環状道路が次々と開通し、田畑の区画整理が次々と進み新興戸建住宅地や住宅団地は郊外に市街地は拡大し、市営バスは路線網を拡大し小中高校は増設を続けた。
一方で、青森寄りの天間林村(現七戸町)の上北鉱山は銅が枯渇のため閉山。また、八戸から60キロ北の六ヶ所村では新全国総合開発計画による巨大石油化学コンビナートや製鉄所を中心とした、1万7000ha開発計画は発表されたが、二度のオイルショックで完全に頓挫した。石油備蓄基地のみがつくられ、のちの日本原燃による核燃料サイクル施設建設を待つことになる。
青森県議会は東北新幹線建設に際し、八戸経由か弘前経由か決められずに結局盛岡駅止まりのまま以後八戸延伸まで20年待ちとなる。あの頃、早く決めていればとおもうと悔やまれる。
1991年に長崎屋が郊外に移転。屋内遊園地つきのラピア長崎屋が開店
1994年年末に三陸はるか沖地震(震度6)が発生、旧市庁舎、旧市民病院に大きな被害、中心市街地のビルが倒壊し死者発生、道路の崩落、水道管破裂など多数被害
1995年 隣町にイオンモール下田が開店(現在は売場拡張し53,277平米)県南地域では最大の売り場面積を持ち、当時は大観覧車があり田んぼと山がよく見えた。
1997年中心市街地の市民病院が郊外に移転し、いよいよ中心市街地の危機が地元紙で叫ばれるようになる
1999年八戸臨海部の神戸製鋼の敷地にピアドゥ(売場面積25,400平米)が開店。核テナントはイトーヨーカドー、ホームセンター、のちにヤマダ電機、スーパー銭湯開店
2002年東北新幹線八戸駅開業。北の玄関口として栄華を極める
2003年イトーヨーカドー八戸店が閉店、跡地に地元出資チーノオープン。市民映画館が開店
2009年 臨海部の八戸魚連跡地、ピアドゥの隣接地にシンフォニープラザ(現在の売場面積17,000平米)が開店
2000年前半イオンモール八戸田向店40,000平米級の建設計画が持ち上がる
当時建設中の4車線の県道八戸環状線沿い一帯の田んぼを区画整理し、中心街から八戸市民病院が移転した付近に立地計画。
市民の多くは歓喜に沸いたと思う。わざわざ隣町のイオン下田まで行く必要がなくなるからだ。
しかし、中心市街地の商業者を中心とした商工会が猛烈に反対し、当時の市長も大反対。
地元新聞の投書には、商店街関係者と思しき女性が「イオンが来たら中心街がシャッター商店街になってしまう。そんなところで祭り(八戸三社大祭という由緒ある山車の祭り)は見たくない!」などと書いていた記憶。
ほかに、市民病院の近くが週末渋滞して救急車が到着できなくなるから反対との投書もあった。
その後、市長は1期で落選し、新市長が当選し立地規制条例を制定
2012年郊外にイオン田向ショッピングセンター開設(7000平米級)
新市長は、空洞化した市街地を再建すべく、市営の箱を次々と建設。
2011年 市営のポータルミュージアムはっちが開設、中心市街地にタリーズコーヒが初出店
2016年 ガーデンテラスが竣工し市営の八戸ブックセンターが開設、Yahoo八戸センターが同ビルに拠点開設
2019年国際大会用の屋内スピードスケートリンクが開館(中心市街地から徒歩圏の運動公園に建設)
2020年 元長崎屋跡地にDEVELD八日町が竣工 13階建で2階以上はマンション
2023年イトーヨーカドー八戸店跡地のはっちが閉店。解体されマンションになる予定
2023年八戸港の水揚げ量が昭和19年レベルに激減(戦後最悪水準、金額ベースで最盛期の10%の漁獲高)
2025年青森銀行とみちのく銀行が合併し青森みちのく銀行設立予定
東日本大震災のあと、国の復興予算で約10年で三陸復興道路が完成し、県道の環状道路は大半が開通した。市内のロードサイドにはセブンイレブンも、タリーズも、コメダ珈琲も、スタバもできた。新しいスーパーやホームセンターがあちこちにできた。
中心市街地は市営の観光施設や屋内広場、箱物と、市営書店ができて大変モダンな空間になった。
地元商工会議所は、中心市街地活性化のために、巨大イオンモール進出を阻止に成功し、街中に新たな商業施設として、ローソンとファミマが合計6店舗できた。モスとドトールしかなかった街中にタリーズができた。
しかし、市経済の低迷も相まって中心街へ商業施設誘導を果たせず、三春屋とチーノは閉店し、今やさくらの百貨店が残るのみである。かつての商業ビルはマンションへ建て替えが進む。
商業地としてのポテンシャルが低下してマンションになるのであれば、郊外に予定通り40,000平米のイオンモールを建設してもよかってのではないか。
結果、GMSは衰退し臨海部のヨーカドー八戸沼館店は閉店。後継テナントは未定で、市民は1991年開店の江陽のラピア長崎屋と、臨海部のシンフォニープラザ、2012年開店のイオン田向(リテール)のみになる。
よく巨大郊外型モールが撤退したあと社会問題になるため開発抑制が必要だという。都市計画的には正しいが、近隣県を含め広域自治体レベルで規制誘導しない限り、一自治体が規制をかけても無意味だった。
結局、市民は1995年以降、隣町のイオンモール下田まで行き、買い物客が流出し続けた。
中心市街地の地権者はコンビニ6店やマンション1棟やホテル2棟をオープンさせたが、新たに集客力のある商業施設を建てたては言えず、中心市街地の魅力向上のため、市営の文化的施設の建設に資金が投入され続けている。
2050年までに、八戸市の人口は社会保障人口問題研究所の推定で14万人台になるとしている(最盛期より10万人減少する)
人口減少社会は、かつての拡大した市街化区域を減らし、都市軸の再形成、まちなか居住、コンパクトシティの形成、魅力ある歩いて暮らせるまちづくりをするなど、さまざまなメニューがあるものの、あまりにも中心市街地再興への道のりが長すぎる。その過渡期に過ごす市民は、これからもイオンモール下田に通うことにになる。
せめて20年前に八戸市や市商工会議所は、イオンモール立地に反対しなければ、あの長い行列をつくりバスを待つ市内の高校生たちは、自転車でいける距離でイオンモールに遊びに行けただろう。
新幹線計画が具体的になった80年代から市街地の住民からは”新幹線乗り入れ絶対反対”の声が大きく、まちなかに看板も立っていた。そして具体的なルート図が決まってアセスメント段階になってから慌てて市長を中心に誘致活動をしたが”後の祭り”
北陸自動車道建設のときも反対運動が激しく起こり、結局インターチェンジは砺波にとられた。後から慌てて能登自動車道の高岡インターで”お茶を濁す”。
高岡駅の駅北と駅南を地下道で結んで利便性を高めようという計画が出たら”自分たちの客がとられる”とすさまじい反対運動が起こり、計画は潰れて結局両方の商店街・デパートも廃れてしまう。
相鉄いずみの線と横浜市営地下鉄ブルーラインの延伸にも似てる話ですね。
相鉄と横浜市が路線を延長する際に、小田急の急行停車駅の長後駅に当時は接続する予定でした。
ところが、当時の地元商店街が長後駅接続に猛反対したため、仕方なく相鉄と横浜市は接続駅を湘南台駅に変更して現在に至ります。
その結果、長後駅の利用客がどんどん減っていって逆に湘南台駅は乗客が増えてますます栄えてしまい、長後駅の商店街はシャッター街になってしまいました。
長後駅商店街に住んでいる現在の住人は、自分の親の世代がやった反対運動に後悔している様です。
https://www.youtube.com/watch?v=3K111mf9YPg
こういう話をもっと知りたい
https://hamarepo.com/story.php?story_id=5343
2016年06月29日 横浜市営地下鉄は「長後駅」から通るはずだったって本当?
はまれぽ調査結果! 町内の商店会の決定権を持つ会員に保守的な人が多く、地下鉄建設の反対が起こった。当時若い世代の会員など賛成派は多かった。
例として山口市と下関市、小諸市と佐久市、長野市と須坂市、成田とインチョン、栃木市と宇都宮市が挙がってるな
小諸市や山口市は線形の問題や技術の問題で誘致が難しかったのであって住民運動のせいではないという意見もあるな
追記2:沖縄の米軍基地は的外れだと思う。軍事的な都合で神立地だから選ばれてしまっている。横須賀もそう。自衛隊の基地の立地もそうだが防衛戦略や地形への依存度が高いので、新幹線や地下鉄を歓迎するかどうか、人流とカネの流れを作れるかどうかとは話のレベルが違う
追記3:
kkkirikkk 規模は小さいけど横浜の陸の孤島こと本牧。アクセスの悪さからどんどん寂れていってるけど地下鉄駅作る計画が反対でつぶれてるhttps://hamarepo.com/story.php?story_id=4338
三渓園に自家用車で行ったときに、本牧辺りの駐車のしづらさも何もかもが不便に感じて二度と行くものかと思った。公共交通機関で行っても相当不便そうだな。住民が生活のための回遊をするだけで、外部の人間は来るなと言っているような街の状態だと思うが、通勤にも不便だろうし、自家用車が無い人間は買い物も不便そうな街だったし、どうやって生きていくつもりなのだろうか。三浦半島、千葉、大山方面、静岡方面でこの種の面倒に直面したことはない。鎌倉には車を停められないが電車で行けば良いし、そうするだけの見どころがある。本牧は三渓園があるほかはただ不便なだけの、住んでいる人間以外には用がない、金も落としにくい地域という状態なので、もうこのまま衰退していくばかりなのだろう。
衰退例で挙げられている長後は商店街は衰退しているが、住居に建て替わってベッドタウンとしては生き延びる余地があると思う。小田急線で新宿通勤が可能だからだ。SFCの学生なんかもあの辺りまでなら住むかもしれない。本牧に住むのはどういうライフスタイルなのか全く分からない。職場はどこなのか?どう日々を生きているのか?
追記4:
Permalink |記事への反応(38) | 12:36
何かと言うと、10年ほど前にとあるセンセーショナルな事件があった場所を見に行ってきたのだ。女子高生による同級生殺人事件である。今回は、そのレポとそんな悪趣味な聖地巡礼を決行するに至った経緯の2点を、書き手である私の過去の自語りを多大に含めながら書いていこうと思う。事件の現場を特定して見に行ったイチ野次馬の実録として読んでもらえれば幸いである。
はじめに言っておくが、私はこういった事件が起きるたびに容疑者の地元は出身高校は云々……と嗅ぎ回るような野次馬ではない、とだけ表明しておく。しかしこういった行動に出ている以上、完全否定はできないところはあるが。
はじめに、その事件の内容を説明する。2014年に起きた、女子高生による同級生の殺害事件である。当時15歳の加害生徒Aが、同級生であるBさんを自室に連れ込んで絞殺。動機は「体の中を見てみたかった」「人を殺して解体してみたかった」といったものだった。(以下、それぞれ加害生徒=A、被害生徒=Bさんと表記)
事件の具体的な名称・地名については関係者に迷惑をおかけしてはいけないので伏せさせていただいたが、手口が特徴的なため、調べれば聡明な読者諸君においてはすぐピンとくるであろう。
事件の現場となった場所は、事件発生からほどなくしてネット上では特定されていた。私は現場となったマンション名をgoogleマップで検索、自宅からのルートを検索し向かった。
(ちなみに事件現場のマンションは、事故物件掲載サイトの「大島てる」さんにも掲載されている。Aの実家も)自家用車を走らせ、現場に到着した。所要時間は割愛させていただく。
現場は国道に面しており、すぐ近くには駅や大きなアーケード街があった。駅が近い故か、市営のコインパーキングが現場マンションの向かいにあった。車をそちらに止め、徒歩で現場に向かった。
ここで、あらかじめ大事な前提を記載しておく。現場の敷地内には立ち入っていない。
敷 地 内 に は 立 ち 入 っ て い な い
そこまですると流石に不法侵入になってしまうので、面した道路から歩いて観察するだけにとどめた。私もそんなことでお縄になりたくないので、その点はご理解いただきたい。
現着し、まずはマンションの外観を観察してみる。10階建てでおそらくオートロック。今ではどの部屋にも人が住んでいる気配がある。現場となった5階にもまた、どの部屋にもカーテンがはまっていた。10年も経ってしまえば、その近くの人々の生活もすっかり元通りのはずだろう、という考えが自分にはすっぽり抜け落ちていたことに気づかされた。
マンションの裏手には駐車場が2台分ほどある。ただしもしかしたら、隣のビルに入っているクリニックの患者用かもしれない。駐車場付近から見上げると、当然マンションのベランダが頭上にずらっと見える。AはBさんの殺害後、証拠隠滅のためにスマートフォンを5階のベランダから投げ落としたのだという。彼女のスマートフォンが落ちていたのはこの辺りだろうか、と思いをはせる。
駐車場からさらに路地を入ると、住宅が斜面に立ち並んでいた。ここから先は進んでいない。途中で引き返したのは、非常に坂道が急でその後の体力を考慮したためだ。この町の特徴的な地形ではあるが、国道から一本細い路地に入っただけで急峻な坂道になる。西側には海があり、その海岸線近くまで山地が迫ったこの街の地形故だ。
マンションに数秒黙祷し、周辺の探索に移った。国道の向かい側には小さな商業施設があり、昔ながらのブティックを中心に、1フロアだけのイオンやダイソーが入っていた。ブティック中心だからか、店内は年配の女性が多い。日本のどこにでもある、田舎の商業施設の風景に心が安らぐ。商業施設の1Fからはアーケード街に通じており、今どき珍しく賑わいのある商店街が広がっていた。雰囲気で言うなら、福岡市天神の新天町商店街にかなり近い。
商店街は今どきのカフェや居酒屋といった飲食店から、昔ながらの八百屋にかばん屋、チェーン店のドラッグストアにアニメイトまであった。筆者は商店街と言えばシャッター街と化した薄暗い故郷の商店街しか頭になかったためまあまあ驚いた。にぎわうアーケードの喧騒の中で、AもBさんもここで一緒に買い物を楽しんでいたのだろうか。楽しい時間をすごしたのちに、あのような凶行に及んだのだろうか。そんな、彼女と一緒にお出かけを楽しんだ後にお持ち帰りして夜はムフフなことをして、じゃないんだから……と下世話で邪な形容をした。凡人かつ俗物の私にはそういった想像が限界だった。勿論、真相はAにしかわからない。
横断歩道を渡り、マンションのある側に戻る。国道沿いに北西に進むと、5分もせずに県の弁護士事務所が見えた。Aの父は敏腕弁護士だったと聞く。Aの父は、Aの母が亡くなった後まもなくして若い女性と再婚した。それがトリガーになったかは知らないが、2014年3月にAは父の殺人未遂事件を起こしている。Aと一緒には住めないと判断したAの父は、Aの戸籍を外してAの祖母の養子にし、マンションで一人暮らしをさせることに決めたという。この事実だけ見ると父親もAの扱いに手を焼いていたのと同時に、法的には娘を切り捨てた薄情者、という印象を受ける。
しかし、現地を歩いてみると、現場の近くには県の弁護士事務所があり、父の職に大いに関係していたであろう場所がある。2014年当時からあったのかはわからないが、もしかしたら父は、自分の業務で関わることの多い場所の近くに娘を住まわせようと、ひいては見守りたい意思があったのかもしれない。娘のために駅の近くかつオートロック、自分の職場からも近い賃貸物件を見繕って用意してあげていたのかもしれない、と思いをはせる。やはりやるせなさを覚える。
結果としてAの父親は2014年10月に自宅で首を吊っているのが発見され、そちらの実家もそれで「大島てる」さんに掲載されている。Aの父親の行動には怒りを覚えるところも多いが、同時にどうにもできなかったのだろうと痛ましさを覚えた。
ここまで想像を巡らせたのち、私はマンション近辺を後にした。名物のハンバーガーが食べたくなった、ヤニを吸いたくなった。そういったその時湧きあがった欲求が、私を2014年から2024年へと引きずり戻してくれた。
参考程度に記載するが、賃貸サイトによる2024年2月現在の家賃相場は、その市はワンルームで3.72万円。現場となったマンションはワンルームだが4Fの家賃が4.9万円と、その地域では少しお高めな印象は受ける。築年数も浅く何より駅近物件だからだろう。ちなみに、現場となった502号室はどの賃貸サイトにおいても今は入居者募集されていなかった。
では、なぜそのような不謹慎な聖地巡礼を決行したのか? その理由は、「私がこれまでの人生で1番執着した事件だったから」にほかならない。少し回りくどいが、私自身について、この増田の匿名性を損なわない程度にお話しする。
筆者である私は、Aと同年齢である。そして2014年に何をしていたかというと、やはり高校1年生をしていた。私とAの経歴には非常に共通点が多い。もっとも、Aの方が実家は太く彼女自身の才能も豊かなのは間違いないのだが、その内面には非常に共感できるところが多かった。Aも私も、住んでいる県も学校もまるで違うのだが、だいたい同じくらいの偏差値帯の公立中高一貫校に中学受験で入っている。抜けきらない中二病で一人称は女なのに「ボク」だったし、Aのようなかなり短いショートヘアをしていた。高1の途中から不登校児になったのまで同じだった。(一つだけ自慢。今でこそ私はうだつの上がらない無職だが、高1当時は県内模試で2ケタの順位につけるくらいには学力もあった。)
問題はここからである。高1当時の私は、少年事件について調べるのが大好きで、それをモチーフにして同級生を殺しまくるお話をケータイ小説で執筆・投稿していた。今思うと二重に恥ずかしい子どもである。
事件発生当時まず何を私が考えたか。「A、私の書いたの読んだの?」である。今考えると普通にそんなのはあり得ない確率であるし、ほぼ妄想の域だった。しかしそれくらい手口が酷似していた。後ろ暗い喜びと同時に、思考回路が同じという点でかなり精神的に追い詰められた。二律背反で感情が板挟みになっていた。学校に行っても、やはり同じ高校1年生が起こした事件ということでクラスでの関心も高く、「キ〇ガイだよね~(笑)」とクラスメイトが笑っているところも見かけた。今でも思い出して動悸がする瞬間である。
そしてそのケータイ小説の掲載に関しては、投稿を削除した。そのうえで、もう創作はしないと筆を折った。
そしてその後、連日ニュースがそれを報じてどんどん事件の全容が見えてきた頃には、私はネットでAの情報を漁りまくっていた。私はもともといじめられっ子で、当時はいじめっ子たちのピグやTwitterを特定して、特にアカウントは作らず毎日のように静観するという人聞きの悪い趣味を持っていたから、そういうのが大好きではあった。また、AにはASD(自閉スペクトラム症)があり、その点も考慮して医療少年院送致がふさわしいとの判決が出た2015年頃、実は私もASDの診断を受けていた。偶然にしてはあまりにも近すぎると、一方的にシンパシーを感じていた。
そしてそのうちに、Aに対してどんどん惹かれていったのだ。Aのような人の内面の深淵をのぞき込みたい、という気持ちになり、進路希望調査では心理学部のある大学を書くようになった。その後、急速にメンタルの調子を崩して精神科医療にかかったり、卒業も危ぶまれるくらいには学校に行かなかったりしたが、どうにか高校は卒業した。
犯罪心理学をやりたいです!と意気揚々と心理学部のある大学に入り、臨床心理学系の大学院にまで進み、少年司法の分野に行きたいと思い公務員試験を受け、児童相談所に勤務した。今振り返ると、「心理学がやりたい!」の起点はさかのぼればすべてAへの関心に行きつくと思う。我ながらどうかしている。
そして現在、2024年2月。児相勤務は上司や先輩からの陰湿ないやがらせに遭い、私はひっそりと公務員を退職した。今は退職してから3か月が経つ。公務員時代の蓄えでギリギリなんとか食えているが、正直来月以降の生活は先が知れない。なんでこの分野に焦がれ続けて10年間走ってきたのか? その疑問を問い詰めた時、この事件の存在が頭をよぎった。2024年のあの現場を、Aが生きていた町の2024年を見れば、私のこの思いを終わらせられると思った。以上が、私がこんな不謹慎な聖地巡礼をもくろみ、決行した理由である。
ちなみにわたしは結局、大人になってから二次創作という形で再び筆を執るようになった。どれだけ思考回路が狂気の側に近く、そのリビドーを表出させたいと願ったとしても、創作という法に触れない表現方法を選ぶことができた。私はその点で非常に適応的でポジティブな強みを持つことができたのだと、今は肯定出来ている。
話を本筋に戻すと、私はこの旅で、ようやくAへの執着に諦めがついたように思う。私は間違っていたかもしれないとはいえ、10年間走り続けてきた。そしてきっと、AはAで、医療少年院かあるいはどこかで、償いとAの人生を生きているのだろうと思い至った。やっと私は2024年の自分を生きていけるようになったと思えた。不謹慎だろうが、ようやく私はこれで前を、未来の方を向いて歩いていけそうな気がしたのだ。
最後に、被害者の方のご冥福をお祈りすると同時に、Aの更生と治療がうまくいっていることを祈る次第である。
ちなみにこの後、普通に私はその街の名所を一通り回り、観光して帰宅した。軍港の町なので、港に停泊している米軍の大きな船を眺め、海上自衛隊の博物館を見学してきた。他にも、ネイルチップが取れて応急処置にシールを買うためダイソーに入ったら、パンキッシュな服装のマダムと談笑したり。名物のバーガーを食べていたらバラエティ番組のロケの一団が店に入ってきてびっくりしたり。〇本雅美に似ていたが、声が違ったのでおそらくローカルタレントかなにかだろう。
引き戸の扉を開けると鈴が鳴り、「いらっしゃい」というマスターの渋い声。
はい。と僕。
釣竿を渡され、店の奥へと進んで行く。
扉を一つ抜けると曇り空が出迎え、屋上のような広間に出る。
中央には蓮池がひとつ。丸いような、それでいて歪んだ輪郭をしている。
水は濁っており、中は見通せない。
僕は隅の方へ眼をやり、手ごろな椅子を見つけては、それを手で引っ張り池の前に置く。
そこに座って池へと糸を垂らした。
魚の名は増田。
しかし誰も自分が魚だとは気づいていなんだよ、とマスターはいつの日にか僕に言った。
いつの間にかマスターは僕の隣にビールケースを逆さに置き、椅子として座っていた。
どういう意味ですか?
「…ふぅ。誰も、自分が何者かなんて考えもせずに暮らしてる。それで十分だし、それで十分なんだ」
はぁ、と僕。
「だったら魚みたいなもんだ」
店長は笑って言う。
そういうものなのか…もしれない。
お店の方はいいんですか?
「ああ、今日はどうせもう、店じまいにしようと思ってた」
何か飲むかい?
そう聞かれて答え損ねていると「ビールだな、今持ってくる」と店長は立ち上がる。
あ、ありがとうございます。
言おうとした手前、竿が大きく撓った。
「大物だな、逃がすんじゃねぇぞ」
竿は唸るように撓り、ゆっくり慎重に糸を巻いていく。
すると増田が僕の前に姿を見せはじめた。
それは大きくて立派な増田で、自分のことを増田であるとは思っていないような増田だった。
その後ハッと我に返り、増田をもとの池に戻してやることにした。
パラ、パラと服が濡れる。
顔を上げると小雨が顔を見せている。
それは次第に大きな雨となり、この池を世界にするかもしれない。
そうすることで僕もきっと、増田になるのだろう。
「水曜日のダウンタウン」で柳ヶ瀬(西柳ヶ瀬)がシャッター商店街のワースト一位となってたので、地元出身としてコメントする。
番組の中では、西柳ヶ瀬衰退の理由が「国体開催に合わせた浄化作戦」という声を紹介していたが、これは半分正しくて半分間違っている。
西柳ヶ瀬は柳ヶ瀬の中でも風俗店などが多い歓楽街だが、西柳ヶ瀬のシャッター街化が進んだ本質的な要因は、岐阜市エリアの経済基盤の崩壊である。岐阜は昔から繊維工業が盛んな地域で、工場関連の問屋やアパレルの周旋をやってるような自営業の小金持ちが山ほどいた。彼らが顧客を連れて接待に向かうのが柳ヶ瀬エリアの飲食店で、その後の二次会的な行き先が西柳ヶ瀬であったわけだ。こうした旦那衆以外の工場の労働者連中の利用者も多かったことと思う。上の人間も下の人間も、その周りの人間も、繊維工業で潤った金を握りしめて西柳ヶ瀬に集まっていたというわかりやすい構造である。
90年代以降に岐阜や一宮あたりの繊維産業が軒並み倒れた。基幹産業の繊維が傾くと、地方ゼネコンやらの周辺産業も煽りを受け、全国規模の企業が岐阜に構えていた支店も畳まれるなどして、岐阜の経済はあっという間に萎んだ。私は80年代後半から90年代を岐阜で過ごしたが、当時も羽振りの良かった同級生が「家庭の事情で」家を売って引っ越していくと言うようなことが増えていた。
岐阜というと、今回話の上がった西柳ヶ瀬以外にも、駅前の空洞化や、駅南の風俗街(金津園)の凋落や、長良川鵜飼の寂れ方などなどが報じられることがあるが、これらは全て一つの要因に行き着く。繊維産業衰退に伴う地場経済の崩壊である。
なお、シャッター街化の要因として今回の番組では取り上げられることのなかった、大手小売業の郊外ショッピングモールの存在もあるが、岐阜や一宮エリアに90年代以降に建設されたショッピングモールは基本的に廃業した繊維工場の跡地であることが多い。「郊外型の大型ショッピングセンターによって商店街が焼け尽くされた」という言い方を仮にしたとしても、つまりは繊維工業の衰退が背後にあるということは変わらない。
国体による浄化作戦なるものが、西柳ヶ瀬のシャッター街化への最後の一撃となったということはあるのかもしれないが、長期的かつ本質的な要因はそれではない。そして、これは地元の人間ならみんな知っていることではある。