はてなキーワード:ザッカーバーグとは
わたしも年を取った。というより、過剰に「年を取った」と思わされる社会に住んでしまった。だから、それに対する抵抗として、年下にどうしても伝えたい言葉を書いていくことにする。
その1 脳みそをフル回転させずに大事な情報を得られると絶対に思うな。
「脳みそを」がポイントである。筋肉だけ、金だけいくら使っても、脳みそをフル回転させずに大事な情報を得られることは絶対にない。わたしが断言する。「大事な情報」というのはそういうものなのだ。コンロの火や包丁やノコギリを脳みそをフル回転させずに一定のレベル以上に使えると思うか? そんなことはぜったいにない。それと同じだ。
情けないことに、イーロンマスクやマークザッカーバーグやジェフペゾスなどの連中は、世界最悪レベルの傲慢という病気にかかって、そのことが見えなくなっている。人生そまつにしたくないなら、脳みその使いおしみは絶対にするな。
その2 世の中で長い目で見て一番精神的に楽なのはギブアンドテイクの関係だ。
政治家の自己責任論の言説だけでなく、インターネットを中心とした情報の自由市場化も、自己責任論と人間疎外を強力におしすすめたといえる。ほとんど言われていないことだが。
考えすぎ? ちがうと思う。
すくなくとも、情報でも当然直面する人間の限界、これを一般的な経験としてとらえられなかった時点で、傲慢と卑屈というインターネット文化のゆがみは当然だったと反省をこめておもう。
「なんかのんきなだなあ、まちがったら自分で損をかぶらないといけないときにどうするつもりなんだろう。」ということは多少不安に思っていたし、実際当時の記録を読み返してもそう思っていた。もっと言うべきだったかとも反省しているが。
天気、株価、そして商品の売り上げ、これについて人間はどうやっても全知の立場に立てない。イーロンマスクでもマークザッカーバーグでもほとんど同じこと。
高木仁三郎氏の心配は、予想以上に正しかった。「そんなはずはない」という余談を排して、経営者たちの動きをみれば、あきらかだ。
「なぜ原発事故は繰り返すのか」の最終章で、「インターネットの発達で人間の感覚がバーチャルになっているのではないか。わたしがインターネットについていけないだけかもしれないが、倫理綱領は必要だろう」と書いているのを読んで、「いやーさすがに心配しすぎですよ、高木先生。そこまでアホが出てくるとは思えない」と思ったのが、15年ぐらい前。
イーロンマスクとマークザッカーバーグがここ3年ぐらいやっていることを見て、アホでかつ傲慢な連中が世界最強クラスの企業の経営者だということに気がついた。わたしはもう幻想をもてない。
これはあまり指摘されないが、テック企業ということはテクノロジー企業の略のはず。それ自体ほとんど意味のある言葉ではないし、実質的にIT企業ばかりで、工科大学をのぞいても、既存のジェネラルエレクトリックとかジェネラルモーターズとかそれこそトヨタ、日産とか、そういう既存のハイテク企業はあまりテック企業との連合に熱心ではないようにみえる。火星に行きたがっているイーロンマスクがNASAとあまり仲がよくなさそうなこともあげられる。
わたしの予想だが、あれは中曽根と同じように「技術者を札束でひっぱたいて言うことを聞かせている」という面があるのではないか。これは原子力産業が50年ぐらい前に進んだ道とほとんど同じだ。楽観はとてもできないが、技術面ですら、そう簡単に経営者たちの思い通りになるとは思えない。別に技術者に良心があるということではなく、技術に求められる最低限の基準というものが予想以上に厳しいからという理由からだ。
絵を描く能力もストーリーを考える能力もないのに、漫画家として成功した自分を想像することがある。
プログラミングもできないのにITで成功してTEDで講演しXで老害(と見做されている著名人)を論破したり、弱者を切り捨てる発言を堂々と言い切る自分を想像することがある。
作曲はおろか楽器すら触れないのに、シンガーソングライターになって武道館で大勢の観客の前で自分で作詞して作曲した歌(ミセスか髭男の歌)を歌って歓声を浴びる姿を想像することがある。
宇宙に関する歴史に残る発見をして、ノーベル物理学賞を受賞してスピーチをし、子供向け教育テレビでサイエンスコミュニケーターをする姿を想像することがある。
医者になってプロフェッショナルに出演する自分の姿を想像することがある。
上記の想像は仕事に向かう電車の中、帰りの電車の中、布団の中などで行われる。
その瞬間はとても楽しく日々の苦労と虚しさを忘れられる瞬間だ。
俺は田舎に生まれ地元公立小学校・中学校を卒業した。近所で学校名を言えば誰もが「すごいね」と言ってくれる県立進学校に進み、旧帝大・上位国立理系・慶應を除く大抵の人が「すごいね」と言ってくれる私立大学の法学部を卒業し、大手メーカーに入社した。
昔は自分のことが大好きだった。
頭が良くて、足が速くて、ドッジボールが得意で、サッカーも上手で、人気者の自分が大好きだった。
小中学生の頃、休み時間にイラストを描いているクラスメートをよく馬鹿にしていたし、自分は彼らが嫌いで見下していた。
高校時代、バンドをやってる奴らは本当はサッカーや野球で活躍して女の子にモテたいのだと思っていた。
それ以外の奴らもそうだ。
パソコンやアニメや科学の世界に逃げ込んで自分たちの世界に閉じこもって生きているのだと思っていた。
理系学部はカッコ悪いと思っており、医学部は学力的に無理で、かと言って文学部は人生終わりだろと考えていた。
だから母校の政治経済学部と法学部、慶應義塾大学の経済学部と法学部を受験した。
自分のことを好きじゃなくなったのは大学2年の終わり頃だった。
先輩たちが就活に励み話を聞く中で、自分も来年に向けて備えようと本屋に行き、参考書コーナーと漫画コーナー以外のコーナーを初めてまともに散策した。
ビジネス書のコーナーでイーロン・マスクを知り、そこからマークザッカーバーグやビルゲイツの存在ややってきたことを知った。
彼らの持つ技術や功績、名声が自分の能力では手に入らないものであると知り、自分にコンプレックスを持った。
就活が本格的に始まると、自分が見下していたMARCHや日東駒専の文系学生と自分の間に何らの格差もないことを知った。
英語、国語、世界史だけで入れる大学とそこで学ぶものにはなんの価値もないことがわかった。
そこに何の価値も見出すことができない。
価値は存在するのだろうが、あまりにも細分化されすぎており、一つ一つの作業工程に価値を見出すことができない。
こんなことをしないと生活費を稼ぐことができない自分が恥ずかしい。
自分が惨めだ。
俺があんなにも見下していた人たちが持っている技術や知識、経験が羨ましくて仕方がない。
大学時代、俺が彼女にはできないプレイをするために手懐けていたサークルの同期のセフレがいた。
その子は俺のことが好きだと何度も言った。
俺の彼女になりたいと何度も言った。
俺はそう言われる自分のことが大好きだったし、彼女のことは見下していた。
彼女は俺が無価値な人間であることに気がついたのだ。だから何の未練もなく他の、もっと有能で価値のある男を選んだ。
そう思うと、自分が惨めになる。
今交際している自分の彼女まで、無価値な男を選んでいる無価値な女に見える。
みんなと同じことをしていても価値がない。
俺はサッカーが得意だったが、所詮は田舎の公立中高で1年生からミッドフィルダーとして試合に出られるくらいのものでしかなかった。
それで生きていくことはできない。
大多数の人が目をつけていない、やっていないことに対して目をつけ、人より早く始めてこそ、凡人とは違うスキルを身につけて人生を豊かにすることができる。
ミニマリズムとは、自分にとって重要なことに注意を当てるために、他を排するプロセスです。このプロセスでは、消費社会に抗い、いらないものは買わず、いらなくなったものは捨てる、といった行為に関係します。今回は、私が数年間ミニマリズムを試してわかったことを書きます。
私はマークザッカーバーグやスティーブ・ジョブズの習慣を真似て、大半を1種類の服で過ごすということをしています。
具体的には、インナーTシャツとパーカーとベルトなしジーンズと下着。もちろん冬は一種類のジャンパーを着てでかけますけどね。
種類は1種類ですが、枚数は複数枚持っています。およそ3着づつ。これは、服を洗わなければならないので当然です。
家の中では1種類のパジャマを着るのですが、全体として見れば種類と枚数が少ないことは確かです。
さて、私はこのシンプルな習慣によって何を得たのでしょうか。
まず「かっこよく見られたい」といった執着はなくなりました。誰にどう見られても構わないと思うようになったのです。
これは良いことでしょうか?「モテたい」は煩悩なので、これを手放せば「モテること」を基準にした行動をしなくて済むようになります。
結婚願望が強いならそれだと困るかもしれませんが、私は結婚するつもりがないので、この習慣が機能します。
最近、私のような「パーカーを着るおじさん」があるインフルエンサーによって見下されていたようですが、ひろゆきやホリエモンなどは「パーカーの何が悪いんだ」といって反発しました。
このように、同じ習慣を続けると、確率的に時代の風に抗うようなことをしなければなりませんが、「モテることはどうでもいい」と思ってさえいれば、インフルエンサーが何を言ったところで信念は揺るぎません。
ちなみに、高校生の時に着ていたような服は、すべて古着屋に売ってしまいました。
好奇心が強いと、様々なジャンルの本を買ってしまって大変です。
私は理論物理学や抽象数学について学ぶために大量の本を持っていました。宇宙の真理を知りたい、と思っていたからです。
しかし冷静に振り返ってみると、私はアカデミックなバックグラウンドがないため、研究を発表する機会が存在しません。
なので部屋の中で一人で「宇宙の真理」を発見したところで、虚しいと思ったのです。
私はプログラマーなので、もっと仕事に関係する本のほうが重要です。
あるいは仕事とは直接関係がなくとも、健康や自己啓発の知識が役立つこともあるでしょう。
また、ソロモン王の箴言など、現代に役立つ知恵が聖書に書かれていることもありますし、タルムードに興味深いことが書かれている場合もあります。
趣味があるなら、趣味関連の書籍が趣味を充実させることにもなるでしょう。
物理学や数学の本を部屋に置いておくと、「勉強しなきゃ」と思ってしまい、かえって苦痛を味わうことになります。
物理学者ですら、超弦理論がなんの役に立つのかわかっていません。
繰り返し読むことを考慮すると、自分にとって精神を費やす価値のある本だけが残せるはずです。
そして、物理学や数学の本をしまってからは仕事に集中できるようになっています。
両親と同居しているので、ミニマリズムを実践し始めは「お母さん、これを片付けてよ」などと言うことがありました。
しかし、これはトラブルのもとです。同居人はものに独自の愛着を持っているので、片付けを要求すると喧嘩になります。
基本的に同居人に対しては、ミニマリズムを押し付けるべきではありません。
掃除機による掃除は許容範囲ですが、他人のモノを片付けるというのはやめておいたほうが良いです。
「どこにでかけるの?」と母は父と私に尋ねます。「古着屋だよ。どんな服でも、どんなに大量でも、買い取ってくれるんだ」と私は伝えます。
このことを母が知って、母も同じ古着屋を利用するようになりました。
確かに、私のようにごっそりと売ることはないかもしれませんが、片付けのために喧嘩をしなくてもいいのです。
今では、いくつかのプラクティスに基づいてSNSの利用を制限することに成功しています。
スマホからはSNSを消し、いらないアカウントは削除するか、二度とログインできないように設定します。
ファストメディアは、愚を開陳するだけになってしまいがちです。
最近知った事例としては、エセ科学を批判していた日本の物理学者が、経済についての陰謀論を信じるようになったようです。
SNSの情報は玉石混交ですが、よほど強い精神がないと、くだらない言い争いに巻き込まれたり、フェイクを信じてしまうのです。
SNSは「いいね」や「フォロワー数」を比較する文化があるので、エンゲージメント競争に参加させられている気分になります。
情報の質ではなく、感情的反応でいいねの数は決まるので、まともな情報を見つけることが困難なのです。
ここに興味深い格言があります: 「エキサイティングな地獄よりも、退屈な天国のほうが良い。」
SNSはエキサイティングな地獄です。「刺激的」とは思わないようなことを趣味にしたほうが、結果的に充実できるわけです。
SNSを見る時間があるなら、スローメディアに費やしたり、読書したりしたほうが良いです。
といっても例外はあります。自分から発信さえしなければYoutubeについては良いSNSだと思っています。
私のお気に入りのYoutubeの使い方は、英語のリスニング勉強のために動画を見ることです。
陰謀論やフェイクと言ったものから遠ざかりさえすれば、動画は寂しさを紛らわすのに効果的です。
サブスクとは、月額などの体系で料金を支払い、サービスを受け取ることです。
次から次へとサブスクに加入するのは良い習慣ではありません。浪費が増え、家計を圧迫します。
したがって、サブスクは定期的に見直すべきです。
無制限に使えるというプランでは、月7000円ほど支払いましたが、私の通信量は月に1Gもいかなかったので、4Gプランという小さめのプランで足りたのです。
この見直しにより、月2000円になり、約5000円の節約になったわけです。年で見れば60000円の節約です。
私の買い物の大半は飲食と本なので、いらないものを買うことはありません。
ただ、何年も生活していると、一定の確率で「これが買いたい」という衝動が起こります。
例えば「ホワイトボード」ですが、私は混乱しているときに「Youtuberになりたい」と言っていました。
それで、Youtubeで数学を解説する動画を作るんだと言ってホワイトボードを買ったのです。
この買い物はとても余分な買い物だったと言えます。
あるいは仕事がフルリモートに移行したときに、より快適に仕事をするために巨大なクッションを買いましたが、今ではペットの犬しかこのクッションを使っていません。
人生の中で新しいことをしたくなるのは結構ですが、失敗することによって「この買い物は自分に向いていない」と気がつくのです。
今までトランプと対立してきたザッカーバーグが180度方針転換をしてトランプに全力ですり寄っている。
Metaはファクトチェックをやめ、憎悪コンテンツの投稿に関する利用規定も改定し、今まで禁止されてきた「女性を家庭用品や所有物のように言うこと」、「トランスジェンダーまたはノンバイナリージェンダーの人を『それ(it)』と呼ぶこと」などが削除され、「トランスジェンダーや同性愛に関する政治的・宗教的言説を考慮し、性別や性的指向に基づく精神疾患や異常性の主張」を許容すると項目を追加した。
ザッカーバーグがハーバード時代に作ったFacemashは、ランダムにハーバード大学女子学生の顔写真を2枚ずつ表示して、好みな方を選ばせて、ハーバード大学女子学生の容姿をランク付けするサイトだ。
大学のサーバーに侵入して盗んだ顔写真利用や女子学生達への名誉毀損など、様々な問題から大学から厳しい処分を受け、閉鎖させられた。
肖像権を侵害されて、全世界に顔写真をさらし上げられ、ランク付けされる人の気持ちを彼は考えない。
FacebookやInstagramで金の為に広告の邪魔になる差別発言取り締まってるだけだろうと思っていたが、イーロンのようにトランプに擦り寄れば差別が金になると見たらさっさと飛びついていて、やっぱりなぁと思った。
メタのザッカーバーグがトランプのためにパーティを開き持参金を渡しておもねっていた。
富は一部に集中して格差が広がる。
苦しいと感じている人が大勢いるのに政治はわかりやすく直接的には救いの手を差し伸べているようには見えない。
当時の人々がどんなふうに苦しい気持を抱えていって、そして爆発して群衆化したのかはわからない。
でも施政者たちは人民が苦しそうだとは思っていても反乱を起こすとまでは想像していなかったではないか。
突然着火した小さな火があっというまに延焼したのだと思う。
もしかして今の世の中がこのまま先鋭化していったら新しい形の民衆運動が生まれて国が抑えられないまま世界的に広がるのではないか。
そんな気がしてならない。