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2025-10-21

トランス女性がうんたらかんたら

トランスジェンダークィアオーソドックスジェンダー規範内面化することができない人として消極的定義される。トランスジェンダーには性倒錯が入るが、小児愛者・ペドフィリア動物性愛者・ズーフィリア死体愛好者・ネクロフィリアなどの他害性の高い性指向はパラフィリアとして別だとされている。社会的有害な在り方でしか欲求を満たせない存在を切り離すことで、トランスジェンダーは無害であり、受け入れない社会の方が間違っていると主張するためだ。つまり人為的区切りである。何のことはない、昔は「変態」とされていた言葉区切りを変えただけだ。

なお、性指向性自認は必ずしも同期しない。だから自分は男に生まれ女性の心を持っていて、女性的な振る舞いをするが、性愛対象女性であると云うのは全くおかしなことではない。ただ、女性への性愛のために性指向を虚偽申告したとしても、傍目には区別がつかない。

この問題に対して、性別違和(性同一性障害GDI)の人の苦しみを挙げて反論する論者がいるが、全くの筋違いである性別違和医学定義であるのに対し、トランスジェンダー政治的定義である。前者は精神的に苦痛を軽減するために医学処置を受ける必然性がある場合に認められる。かつて、トランスジェンダー界隈が「くたばれGDI」と言う標語性別違和当事者攻撃してきたのは、性別違和者は既存社会ジェンダー規範に合わせたいという強い希求があり、それに応じて法律上地位を得ていることへの攻撃だったといえる。トランスジェンダーイデオロギーは、既存の男女二分法に基づいた社会規範は間違っていて非倫理的であるという主張に基づく。処置を受けて社会適応すると言う考え自体が、トランスジェンダーイデオロギー真逆の発想なので、対立するのは当然といえる。さらに、トランスジェンダー定義として、表立っては反対しにくい性別違和者の例を挙げるなどしてるが、トランスジェンダーイデオロギーが浸透することで性別違和者が「生きやすく」なるかは疑問である。なぜなら、性別違和者は生まれ持たない既存ジェンダーロールを身に付けたいと願っているが、その試みはトランスジェンダーイデオロギーにとっては悪しきものからだ。

結論としては、トランスジェンダークィアと言うのは政治的カテゴリーであり、「社会悪でない性的逸脱」全般を指すと考えて良いと思う。数多くの逸脱が内包されている以上、一致した見解はなく、既存社会批判するためにつくられた「ポリコレ叩き棒」といっても差し支えないように思う。

Permalink |記事への反応(0) | 11:18

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2025-10-20

フェミニズムの分類を教えてあげよう

anond:20251018215455

増田はてなが雑なのはいつものことなんだが、そろそろフェミニズムにも分類があるってことを皆さん認識してはどうか。

ざっくり整理してやるから各自勉強とき

 

リベラルフェミニズム自由主義フェミニズム

法の下の平等参政権教育労働平等機会を重視。例:メアリウルストンクラフトジョン・スチュアート・ミル

サフラジェット運動女性参政権運動

社会主義フェミニズムマルクス主義フェミニズム前身

資本主義と家父長制の二重の抑圧を批判

ラディカル・フェミニズム(根源的フェミニズム

→ 家父長制の構造のもの批判し、性の政治を重視。例:ケイト・ミレット、シュラミス・ファイアストーン

マルクス主義フェミニズム

女性の抑圧を労働分業と再生労働観点から分析

エコフェミニズム

女性自然の抑圧を並行的に捉え、環境問題ジェンダー問題を結びつける。

文化フェミニズム

女性特質価値共感ケアなど)を肯定文化的再評価を目指す。

ブラックフェミニズム黒人フェミニズム

→ 「白人女性中心主義」への批判。例:ベル・フックス、アンジェラ・デイヴィス。

レズビアンフェミニズム

異性愛中心主義男性依存からの脱却を主張。

精神分析フェミニズム

フロイトラカン理論ジェンダー批判的に再解釈ジュリア・クリステヴァルース・イリガライなど)。

差異フェミニズムdifference feminism)

→ 「平等」よりも「差異」の承認を重視(イリガライなど)。

ポスト構造主義フェミニズムポストモダンフェミニズム

→ 性や主体流動性を重視(ジュディス・バトラー、ダナ・ハラウェイなど)。

クィアフェミニズム

性的指向ジェンダー身体多様性を含める。フェミニズムとLGBTQ+理論の交差。

インターセクショナル・フェミニズム(交差性フェミニズム

人種階級性的指向障害など複合的差別分析キンバリー・クレンショウ)。

ポストコロニアルフェミニズム

西洋中心的フェミニズム批判し、植民地主義文脈分析(チャンドラ・モハンティなど)。

トランスフェミニズム

トランスジェンダー女性視点を含むフェミニズム

サイボーグフェミニズム

科学技術身体・性の境界を問い直す(ダナ・ハラウェイ『サイボーグ宣言』)。

デジタルフェミニズム

SNSオンライン空間における性差別問題運動(#MeToo、#TimesUpなど)。

ボディ・ポジティブフェミニズム

身体規範(痩身・若さ・美の基準から解放

メディアフェミニズム

映画アニメゲームなどの表象分析

メンズフェミニズム男性フェミニズム

男性立場からジェンダー平等を推進。

ポストフェミニズム

フェミニズムの成果を前提にした「個人選択」重視の潮流(批判も多い)。

日本フェミニズム

平塚らいてう田嶋陽子上野千鶴子古川直子など。

日本型の「母性保護論」「差異政治」「ケア倫理」なども特色。

アジアフェミニズム韓国台湾中国など)

イスラームフェミニズム

ラテンアメリカフェミニズム

先住民フェミニズム

障害フェミニズム(ディスアビリティフェミニズム

老年フェミニズムエイジングフェミニズム

Permalink |記事への反応(19) | 21:01

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2025-10-03

anond:20251003150359

いいとこに気付いたね

実は以前はトランスジェンダートランスセクシャルの二種類があった

いわゆる性同一性障害患者は、身体違和のために手術が必要で、身体を変える意味で「トランスセクシャル」といわれてたんよ

一方、身体そのままで女装したい層が「トランスジェンダー」だった

ところがクィア学者ジェンダーセックスは同じと主張し始め、概念的な境界が壊されて「トランスジェンダー」に統一されたんよ

から手術したくないトランス女性性同一性障害患者攻撃しまくってた

https://kakuyomu.jp/works/16816927860040342257/episodes/16817330654417815669

Permalink |記事への反応(1) | 15:21

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anond:20251003134945

トランスクィアフェミニズムとは出自が違うんだよね

トランス大元理論をつくった人類学者のゲイルルービンGayle S. Rubinの「性を考える セクシュアリティ政治に関するラディカルな理論のための覚書」(1984)を読めばすぐわかる。

1950年代共産主義者同性愛者のように、小児性愛者は汚名を着せられているため、彼らのエロティック指向性はおろか、市民自由擁護者を見つけることも難しい。その結果、警察は彼らを食い物にしてきた。地方警察FBI、そして監視役の郵便局検査官が加わり、小児性愛者たちのコミュニティを一掃することだけを目的とした巨大な組織を作り上げた。20年かそこらで煙がある程度晴れれば、こうした男たちが野蛮で分不相応魔女狩り犠牲者であったことを示すのは、ずっと容易になるだろう。多くの人々がこの迫害に協力したことを恥ずかしく思うだろうが、獄中で一生を過ごした男たちのために良いことをするには遅すぎるだろう。

原文はこちら。

https://bpb-us-e2.wpmucdn.com/sites.middlebury.edu/dist/2/3378/files/2015/01/Rubin-Thinking-Sex.pdf

 

ペドフィリア擁護しまくって、同性愛と同等の位置に置いている。

ちなみに弟子バトラーも親子の性行為擁護したりしている。

まりこの人たちは女性の権利を守るフェミニストじゃなくて、従来の価値観を転倒させることが目的ポストモダニスト

たまたま同性愛に関しては人権擁護の方向が一致したから一緒に扱われているけど、根本思想全然違う。

Permalink |記事への反応(0) | 14:26

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2025-09-17

anond:20250917142551

フェミニズム宗教でもなければ幸せを与えてくれるものでもないよ

フェミニズム女性の権利回復のための社会運動で、社会慣習や社会制度の改定や打破を目指すもの

当然ながら現行の社会慣習(家父長制)に適合し、そこでの成功幸せを感じる女性にとっては幸せとは感じられないだろうし、フェミニストなかにもその運動個人幸福あいだに葛藤を覚えるひともいる

ただ、それでも権利制限された個人的な幸せより、苦しくても権利回復するほうが女性全体の幸福資すると考えて、運動しているんだ

もちろん、フェミニズムを介してほかの女性マイノリティたちと知り合い、これまで語らなかったような経験を共有して、新しいことを学び、という喜びはあるし、個人的にはそこに幸福を覚えるから性差別クィア差別内面化し、既存社会での幸福を望んでいたころより日々が楽しい

Permalink |記事への反応(2) | 14:44

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2025-09-04

虚人たち

以下で展開される議論は、アメリカのある哲学者学術誌の査読ピアレビュー同業者による査読)の適切さを確かめるためにでっち上げデマ論文の内容であり、しかもその論文はある雑誌受理された。

このことから投稿者は、文化人類学者ではないが、いくつかの考察を試みる。

-

1. 以下の内容は、「サル山のボス猿とそのなかま」が信奉するペニス信仰と、それに対する「フェミニスト」の反論の両方を痛烈に揶揄している。これらの議論は、ここ「はてな」での果てしない同種のやり取りの上位互換となっている。つまり、そのことに気づかないでいる、いわば自己相貌失認を患う矮小関係者の姿をアナロジカル揶揄している。

-

2. 仲間による「レビュー」を経て認められた「議論」が、いかに穴だらけなものであるか、つまり特定コミュニティ支配イデオロギーとはしばしば、ブードゥー教偶像崇拝にすぎないことを示唆している。

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3.投稿者はこのデマ論文の紹介により、いわば原始人に優れた棍棒の作り方の一例を教唆することになるかもしれない。いずれにせよ、上位互換議論デマであると著者により暴露されたことは、はてなでの「議論」の有効性の上界を抑えられたことを意味する。平たくいうと、0くxく1のように、xの取りうる範囲が有限なある一定の値以上にならないことである。原始人たちが、今後どのような道を選ぶのか知らないが、進化選択肢があることを付け加えたい。

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4.敷衍すると、この論文の内容に限らず、はてなでの任意の「議論」には、それの上位互換となるある学術的な議論を作ることができる、という可能性が示唆される。平たくいうと、はてな投稿分析すれば論文が書けるかもしれない。

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この論文概念的なペニス社会構成である」は、ジェイミー・リンゼイピーター・ボイルによって2017年にCogent Social Sciencesに掲載された研究論文であり、ペニスという概念が単なる解剖学的な器官ではなく、社会的に構築されたものであり、それが有害な「毒性のある男性性」(toxic masculinity)と密接に関連しているという革新的な主張を展開しています[1]。著者らは、この「概念的なペニス」が、ジェンダーアイデンティティ生殖に関するアイデンティティ社会および家族力学に深刻な問題引き起こし女性やその他のジェンダー周縁化されたグループにとって虐待の根源となり、レイプ普遍的な原因であり、さら気候変動の概念的な原動力である結論付けています[2-4]。

1. 緒論:ペニス伝統理解への異議**

伝統的に、ペニス男性生殖器または性器として圧倒的かつ議論余地のないものとして科学的に認識されてきました[5]。しかし、著者らは、この見方が「過度に還元主義的」であり、ペニスを持つ人間経験多様性を完全に表現できていないため、「首尾一貫しない構成物」であると指摘します[6]。

この主張の根拠として、まず解剖学的なペニスが必ずしも男性生殖器官としての役割を果たすわけではないという事実が挙げられます[5]。例えば、怪我を負った者、配偶者強制できない者、子孫を産むことに興味がない者、医学的に不妊の者、またはアセクシュアルを自認する者など、ペニスを持つ多くの人々が生殖を行いません。これらの例は依然として「男性」を構成するかもしれませんが、彼らのペニス生殖器官として特定することは明確に誤謬であるとされています[5]。

さら重要な点として、ペニスを持つ女性が数多く存在することが強調されます[5]。これには、性別適合手術前のトランスジェンダー女性や、女性と自認し、性別移行を望んでいない染色体上の「男性」が含まれます[5, 7]。文化的有害常識に反して、これらの人々にとって、彼らの性器ペニス)は、生殖に利用される場合があったとしても、男性性器として最もよく理解されるべきではありません[7]。このような人間表現多様性という重要事実に照らして、ペニスを具体的に男性解剖学的な器官と概念化することは、非常に問題があり、言説的な再検討喫緊必要であるとされます[6]。

2.概念的なペニス定義と「毒性のある男性性」との等型写像関係**

著者らは、ペニスが「男性性に対する首尾一貫しない構成物」であるとし、ペニス解剖学的な器官としてではなく、**ジェンダー遂行的な、非常に流動的な社会構成物**である概念的なペニス」として理解されるべきだと主張します[6]。この「概念的なペニス」は、ジェンダーに関連する様々な遂行的な行為発言を通じて社会確立されるペニス操作的な表現です[6]。

この概念的なペニスが、**「毒性のあるハイパーマスキュリニティ(hypermasculinity)」と等型写像的(isomorphic)な関係にある**とされています[1, 8-10]。この等型写像関係とは、二つの異なる構造が、その構成要素間の関係性において本質的に同じ形を持っていることを意味します。ここでは、概念的なペニスという社会構成物が、毒性のあるハイパーマスキュリニティの行動や心理鏡像のように一致しているということです。

特に、この等型写像関係は、**「マチスモ・ブラガドシオ」(machismo braggadocio)**という概念によって媒介されます[10,11]。マチスモは本質的攻撃的な男性プライドを指し、ブラガドシオは傲慢な自慢の性質意味します[12]。これらが一体となって、社会的に男性的な心や異性愛規範的な女性の心がペニスを「客観視」し、それを介して男性性と支配的な男性権力ダイナミクス遂行的に表現する具体的な描写であるとされます[12]。

この等型写像関係において、概念的なペニスは、ハイパーマスキュリン男性権力のない主体的立場から強力な立場へと自身を再配置するために、**「主体」「客体」「動詞」の三つの役割**を果たします[11-14]。

**客体としての概念的なペニス自己客観化)**: 多くのシスジェンダーハイパーマスキュリン男性は、ペニス男性権力支配制御能力、魅力、攻撃性の象徴として捉え、自らの男性性の最も明白な側面をペニスと同一視する傾向があります[9]。これは、彼らが自身概念的なペニスを通じて自己を客体化する行為であり、弱さの心理闘争を緩和するための権力再配置として機能します[12, 15]。男性勃起不全を「機能不全の非貫入的(異性愛男性性」という「虚構」として捉えることも、この自己客観化の例とされます[15]。

**主体としての概念的なペニス**:ハイパーマスキュリン精神性は、社会化された男性個人を、彼の概念的なペニス刻印され、具体化された延長と混同することがよくあります[13]。この混同を通じて、ハイパーマスキュリン男性自身概念的なペニスを「主体」とし、自身の核となるアイデンティティをそのペニスを通して表現します[13]。この現象は、新資本主義唯物論が「性的アイデンティティ客観的な価値を持つ」と示唆している状況で、特に不利な立場にある人々を抑圧する結果をもたらすとされます[13]。男性性的アイデンティティ客観的な価値があるという誤解は、権力のないハイパーマスキュリン男性主体を、彼の概念的なペニスによって強力なものとして再配置する結果を招きます[13]。

この主体としての役割は、男性性的な「征服」や「パフォーマンス」について自慢する際に明らかになります[16]。また、「俺は彼女にやった」「彼女もっと欲しがった」といった表現に見られるように、名詞の「それ」("it")が客体的な概念的なペニス女性経験の知覚された主体に変え、概念的なペニス男性ジェンダーパフォーマンスに関してさらに客体化します[16]。これにより、概念的なペニスは、ハイパーマスキュリンな心において、ペニス主体として(男性の)セクシュアリティを強力な現実とする脱所有化(deappropriative)のツールとなります[16]。

**動詞としての概念的なペニス**:ハイパーマスキュリン男性は、「dick」(ペニス意味する俗語)という言葉を、行動を表す動詞として頻繁に使用します[14]。例えば、「to dicksomeone」(誰かを騙す、または性交する)や「I dickedher good」(彼女を十分に性交した)といった表現は、男性権力支配的な男性セクシュアリティテーマ表現するために利用されます[14]。これらの使用法は、男性自身主体的立場にある様々な言説の相互作用直感的に理解し、特定の状況、特に実際の性的な遭遇においてそれを調整することを可能します[14]。また、「I dickedhimover」(彼をひどい目に合わせた)のように、他の男性に対する権力ダイナミクス表現するためにも使用され、支配的な男性ヘゲモニー思考を示しています[14]。

この傾向は、性的アイデンティティ根本的にヒエラルキーの維持に利用されるという考え方によって説明されます[17]。概念的なペニスを行動を表す動詞として使用することで、ハイパーマスキュリン男性は、他者を抑圧し、脱制度化する社会的なヒエラルキー強制し、自己認識的に高めます[17]。この現象は、ラップ音楽におけるミソジニー分析や、「マン・スプレッディング」(manspreading)と呼ばれる、公共交通機関などで男性が足を開いて座り、不必要に広いスペースを占有する行動にも見られます[17]。マン・スプレッディングの言い訳は、解剖学的なペニス睾丸が「快適さ」のためにスペースを必要とするという男性的な社会言説に直接基づいていますが、これは概念的なペニス遂行的な社会構成物として見た場合、周囲の空きスペースを「レイプする」ような支配的な物理空間占有であり、毒性のあるハイパーマスキュリニティへのマチスモ・ブラガドシオ等型写像を通じて最もよく理解されるとされます[17]。

マチスモはハイパーマスキュリン本質であり、ブラガドシオはその表現です[10]。現代思考における概念的な要素としてのペニスは、マチスモ・ブラガドシオの概念によって、ハイパーマスキュリニティにおける最も毒性があり問題のあるテーマ自然に等型写像関係にあります[10]。これらのテーマは、解剖学的なペニス自体には適用されず、生殖しない個人アセクシュアル個人にも関連性を持たないため、ペニス既存男性的な社会的な比喩を演じるために利用される、構築された社会的な客体、つまり言説的な「概念的なペニス」として理解されるべきだとされます[10]。

3.気候変動と概念的なペニスの関連性**

概念的なペニスが毒性のあるハイパーマスキュリニティに等型写像的に同定されることの最も問題のある結果の一つが、**気候変動**であると指摘されています[4, 18]。気候変動は、まさにハイパーマスキュリニティ特定有害テーマによって引き起こされており、これらは概念的なペニス識別される気候生態学への支配的な略奪的アプローチを通じて最もよく理解できます[18]。

著者らは、地球が急速に2℃の気候変動閾値に近づいている原因が、現在資本主義構造を維持する家父長的な権力ダイナミクス特に化石燃料産業にあると主張します[18]。科学政治経済の言説におけるハイパーマスキュリン支配と、生態系への修復不能ダメージとの関連性は明確であるとされます[18]。破壊的で持続不可能であり、ヘゲモニー的に男性的な環境政策と行動へのアプローチは、男性優位の精神性による自然の「レイプ」の予測可能な結果です[19]。この精神性は、男性心理に対する概念的なペニス役割認識することによって最もよく捉えられます[19]。

特に資源安価に略奪し、家父長的な経済的利益のためにその内在的な価値を奪われた後、荒廃し減退したまま放置されるような「未開の環境」にこの精神性が適用されるとき概念的なペニスに内在するレイプ文化の延長が明らかになるとされます[19]。気候変動は、最もよく言えば、ハイパー家父長制社会地球生態系メタファー的に「マン・スプレッディング」している例であると述べられています[19]。

この問題のある傾向の根底にある理由は、現代資本主義理論、すなわち新資本主義理論が、科学社会におけるハイパーマスキュリンな焦点から直接その合理性の主張を引き出していることにあります。そしてこの焦点は、概念的なペニスとの同一視によって最もよく説明されるとされます[20]。毒性のあるハイパーマスキュリニティは、概念的なペニスから直接その意義を引き出し、新資本主義唯物論の支持に自身適用します[20]。この新資本主義唯物論は、特に炭素排出化石燃料技術の無制限使用や、未開の自然環境の無謀な支配において、気候変動の根本的な原動力であるとされます[20]。

この分析から導かれる実践的な推奨事項は、気候変動研究において、可能な限りハイパーマスキュリンペニス中心の視点を避けるように、政治科学の言説への関与方法を変えるべきであるというものです[3]。

4.結論提言**

結論として、著者らは、ペニス男性性器生殖器として理解されるべきではなく、むしろPermalink |記事への反応(0) | 19:03

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2025-08-30

「われわれなりのロマンティック」の感想

アンケート用紙にあったwebアンケートこちらのQRコードを読み込み忘れたから代わりに感想をここに書こうと思う。

演劇は一応、年に2、3回くらい気になるのがあれば観るけど...みたいな感じで、とにかく期待してがっかりするのも嫌だし、傷つけられるのも嫌だから、警戒して警戒して観終わるまで警戒し続けるのが癖になっている。

ちなみにいいへんじの公演は初めて見た、そして恥ずかしながら出演者はじめ誰のことも存じ上げずただタイトルだけで気になってビビりながら予約してしまった。

自分クィアセクシュアリティジェンダーアイデンティティも明かさないけれど、少なくとも黙ってたら無いことにされがちな存在だ。自分自身でも自分が何者なのか油断したら自分輪郭も分からなくなりそうなくらい。

「われわれなりのロマンティック」を観て、驚いたことがある。自分想像したことのない、想像するという発想すら思い浮かばない「未来」みたいなのが「存在する」かもしれないということに気づいた。

自分のこの性的指向性自認人間未来に、こういうことが起きる可能性もある、その場合にはこんなことが起きる可能性もある、と、知らない未来みたいなのがなんか沢山出てきて本当に驚いた。

自分が「将来」を想像できていなかったことに初めて気がついた。

なんていうか、自分にも「将来」があるってことに、初めて気がついて本当にどうしよう、という気持ちが正直なところだ。そういえば「将来」になる前に死ぬか、もしくは永遠に将来が来ない生活を送るような感覚でいたな。

小中学生性的少数者当事者として物語(ロールモデルとか?)に触れられるように....」みたいな話を聞いたことはあったけど、自分は成人してから自分のことに気がついた人間から、それは大事なことだけど自分とは関係ない話、自分対象ではないことだと思っていた。

だけど、めっちゃ自分の話でもあったんだということに今回のことで気づき本当に驚いている。

もしかして一般的」とされる、シスヘテロ異性愛規範に当てはまれる人たちは、普段から将来像みたいなものを小さい頃から数えきれないほど、いろんなメディアで、テレビcmや教材のレベルで触れてきたのか??と思うと、まじかよ!いいな!!!!!おれも沢山ほしい!!!!!!知りたい!!!!!!!!

ほんでずっと自分が遠い話として見てきたいろんな物語はなんだったんだろう。友達とどっちのキャラがいい?みたいなのも、もしかして互いに違う感覚のまま話してたんかな、とか色々思い出した。

引っかからない点がないわけではなかった、グラウンドルールの1番に「何でも話していい」があるのに、「相手ジェンダーセクシュアリティを決めつけない」とかがないのは気になったし、あと開演前と終演後のBGMが割とガチャガチャしていてプレイリストを順番に流している感じも気になった。上演の中にある音楽と同じくらい大切に扱ってくれたらいいのにとちょっと思った。

そんなんもちょこちょこ思ったりもしたけど、でもとにかく、本当に、自分にとっては本当にびっくりする出来事で、とんでもないことを教えてくれたかありがとうという気持ちでいっぱいである。

自分登場人物全員をキャラクターと俳優の姿をしっかり認識して観終われたのは、書いた人が、つくった人たちが丁寧に向き合ったからだと思う。2人とか、3人だけじゃなくて、9人で書いてくれたから、9人の俳優がいてくれたか最後まで座って観ていられたし、助けられた。

最終公演まで、みんな元気に駆け抜けてほしい。

そして座席の数がゆるす限りできるだけ多くの人がこの公演を見て、分からなくても考え続けて生きていってくれたら、自分は多分どこかでほんの少し救われる。

もし自分みたいな人がいたら、演劇を観たことがない人でも、試しに、恐る恐るでいいから観に行ってみてほしい。東京三鷹ってとこでやってるよ。

https://wareroma.studio.site/

Permalink |記事への反応(1) | 16:09

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「われわれなりのロマンティック」の感想

アンケート用紙にあったwebアンケートこちらのQRコードを読み込み忘れたから代わりに感想をここに書こうと思う。

演劇は一応、年に2、3回くらい気になるのがあれば観るけど...みたいな感じで、とにかく期待してがっかりするのも嫌だし、傷つけられるのも嫌だから、警戒して警戒して観終わるまで警戒し続けるのが癖になっている。

ちなみにいいへんじの公演は初めて見た、そして恥ずかしながら出演者はじめ誰のことも存じ上げずただタイトルだけで気になってビビりながら予約してしまった。

自分クィアセクシュアリティジェンダーアイデンティティも明かさないけれど、少なくとも黙ってたら無いことにされがちな存在だ。自分自身でも自分が何者なのか油断したら自分輪郭も分からなくなりそうなくらい。

「われわれなりのロマンティック」を観て、驚いたことがある。自分想像したことのない、想像するという発想すら思い浮かばない「未来」みたいなのが「存在する」かもしれないということに気づいた。

自分のこの性的指向性自認人間未来に、こういうことが起きる可能性もある、その場合にはこんなことが起きる可能性もある、と、知らない未来みたいなのがなんか沢山出てきて本当に驚いた。

自分が「将来」を想像できていなかったことに初めて気がついた。

なんていうか、自分にも「将来」があるってことに、初めて気がついて本当にどうしよう、という気持ちが正直なところだ。そういえば「将来」になる前に死ぬか、もしくは永遠に将来が来ない生活を送るような感覚でいたな。

小中学生性的少数者当事者として物語(ロールモデルとか?)に触れられるように....」みたいな話を聞いたことはあったけど、自分は成人してから自分のことに気がついた人間から、それは大事なことだけど自分とは関係ない話、自分対象ではないことだと思っていた。

だけど、めっちゃ自分の話でもあったんだということに今回のことで気づき本当に驚いている。

もしかして一般的」とされる、シスヘテロ異性愛規範に当てはまれる人たちは、普段から将来像みたいなものを小さい頃から数えきれないほど、いろんなメディアで、テレビcmや教材のレベルで触れてきたのか??と思うと、まじかよ!いいな!!!!!おれも沢山ほしい!!!!!!知りたい!!!!!!!!

ほんでずっと自分が遠い話として見てきたいろんな物語はなんだったんだろう。友達とどっちのキャラがいい?みたいなのも、もしかして互いに違う感覚のまま話してたんかな、とか色々思い出した。

引っかからない点がないわけではなかった、グラウンドルールの1番に「何でも話していい」があるのに、「相手ジェンダーセクシュアリティを決めつけない」とかがないのは気になったし、あと開演前と終演後のBGMが割とガチャガチャしていてプレイリストを順番に流している感じも気になった。上演の中にある音楽と同じくらい大切に扱ってくれたらいいのにとちょっと思った。

そんなんもちょこちょこ思ったりもしたけど、でもとにかく、本当に、自分にとっては本当にびっくりする出来事で、とんでもないことを教えてくれたかありがとうという気持ちでいっぱいである。

自分登場人物全員をキャラクターと俳優の姿をしっかり認識して観終われたのは、書いた人が、つくった人たちが丁寧に向き合ったからだと思う。2人とか、3人だけじゃなくて、9人で書いてくれたから、9人の俳優がいてくれたか最後まで座って観ていられたし、助けられた。

最終公演まで、みんな元気に駆け抜けてほしい。

そして座席の数がゆるす限りできるだけ多くの人がこの公演を見て、分からなくても考え続けて生きていってくれたら、自分は多分どこかでほんの少し救われる。

もし自分みたいな人がいたら、演劇を観たことがない人でも、試しに、恐る恐るでいいから観に行ってみてほしい。東京三鷹ってとこでやってるよ。

https://wareroma.studio.site/

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2025-08-14

ポリコレやめますか? それともBLやめますか?

突然だが、現代ポリティカル・コレクトネスには程度がある。以下、制作者への縛りが強い順に並べてみたい。

強いポリコレ

マイノリティを主役にした作品マジョリティ(=当該マイノリティではない人)が作ってはいけない」「役を演じてはいけない」「翻訳してもいけない」

→仮に「強いポリコレ」を適用するなら、女性が書いてるBLはすべてアウト(女性という時点で男性同性愛当事者ではないことが明白であるため)。

この場合「女がBLを書くなんてけしからん」がポリコレ的な正解となるだろう。

中程度のポリコレ

クィアベイティング登場人物性的マイノリティであるかのように匂わせて視聴者・読者を「釣る」こと)は搾取であるからやめるべき」「当事者からの監修を受けなければならない」

→仮に「中程度のポリコレ」を適用するなら、「BL営業」はクィアベイティングのもので一発アウトだし、仲の良い男の子たちが親密に絡むけど決して恋愛感情とは明言しないようなタイプ作品糾弾される必要がある。『SHERLOCKレベルで駄目だということらしいので、日本BLウケを狙った作品はたいていアウトということになるだろう。また、BL作品出版する際にはゲイ団体の監修を受けること、のような話にもなりえる。

弱いポリコレ

偏見ステレオタイプ助長する描写をしてはならない」「不正確な描写をしてはならない」「人格尊重されていなければいけない」「差別を透明化してはいけない」

→仮に「弱いポリコレ」を適用するなら、

ということになってしまい、イケメンばかりが出てきて「受け」「攻め」普通に流通していたりカップリングの左右が固定されていたり差別のない世界ハッピー恋愛する「優しい世界」を描いたりするのはポリコレ的には完全にアウトという結論になる。

この場合「受け」「攻め」禁止ワードにし、カップリングへの執着を消し去り、現実的な容姿の男キャラや彼らが差別に苦しむ展開を描写してようやくポリコレスタートラインに立ったことになるだろう。

繰り返しておくが、これは今いわれているポリコレの中でもっとも「程度が軽い」「弱い」ものである。さて、あなたは「弱いポリコレ」に耐えられるだろうか?

ポリコレやめますか? それともBLやめますか?

ここまでポリコレについて説明してきたが、増田個人としてポリコレに対して思うことは

というものである人間創作もっと自由であるべきだ。アメリカ場合、主戦場製作にむっちゃ金のかかるハリウッド映画かになるので、ひとつひとつ映画にコレクトネスを求めたくなるのかもしれないが、日本文化を支える漫画ラノベ製作コストが低く、その気になれば誰でも作品を発表できるし、運が良ければヒット作家になれる。日本では超大作が生まれにくいが、しかし超大作ばかり作ろうとするためにひとつひとつ作品の配役やら何やらでギスギスしなきゃいけないアメリカよりも、よっぽど創作多様性が確保されている。だからひとつひとつ作品に気を配らなくても、いろいろな属性を持った人が参入できて、それぞれの視点を反映させた作品を発表することができて、結果的に多様な創作生まれる。そのようなエコシステムこそが、しょせんは舶来思想であって日本風土に合っていないポリコレなんかよりも、我々にとって真に大切なものなのだと思う。

(だいたい、『アサクリ』問題でわかったけど、現代ポリコレ黒人優先主義と化してて我々アジア人恩恵に与れないことがわかったわけだからマジで支持する理由ないんだよな……)

っていうか「当事者性」と「クィアベイティング」が日本創作と相性悪すぎる。男性百合作者も女性BL作家大勢いるし、『響け!ユーフォニアム』とか久美子が麗奈ゆりゆりしてると見せかけて最終的に男とくっつくんだから定義クィアベイティングしかないし、そんな創作であふれる国にこんな批判理論適用しようとしたらポピュラーカルチャーが全滅する。こんな概念そもそも日本への侵入を阻止しないといけない。

ただ、それでも私は俺はポリコレを支持するんだ、という主張はあってよい。思想信条自由というやつだ。その思想信条にしたがうと現代日本BLは大半がお亡くなりになるだろうが、日本女性たちが母語で築き上げてきた豊かなジャンルであるBLよりも舶来のポリコレの方が大事だというんなら仕方ない。ポリコレを抱いて溺死してもらうほかない。これは二者択一しかならない。上で挙げたような事例を帰納すれば、ポリコレBL水と油であることはたちどころに理解できるのだから、「ポリコレを支持しつつBLを嗜む」なんていうのは無理なのだ。どっちかを選ぶしかない。

ポリコレやめますか? それともBLやめますか?

Permalink |記事への反応(8) | 01:17

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2025-08-03

anond:20250803120637

クィアリベラルだと理論武装していても、性欲を否定されることへの過剰な反発、上から目線女性アドバイスをする態度からわかる自身地位の過信、批判されたら相手レッテルを貼り馬鹿にすることで自己保身に走る、全て大変“男らしく”て、家父長制大好き男尊女卑インセルアンフェと変わらない。

Permalink |記事への反応(1) | 15:31

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anond:20250803115519

クィア一派って過去フェミニズムの蓄積を無視して性的逸脱の方向にだけ誘導するんで、マジで男によるフェミニズム植民地化と捉えていいと思う

Permalink |記事への反応(1) | 12:06

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anond:20250803113549

クィア学者さん、AI以下で草

Permalink |記事への反応(1) | 11:55

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anond:20250803112125

性的逸脱と家父長制を語っていたクィアを名乗る教員、以前からシスヘテロ男性の性欲だけが公然と語れる社会が不満、性欲を低俗ものにするより、もっと様々な属性人間が性や性欲、フェチの話が出来る社会にならないといけない、という男目線しかない主張を繰り返していて不快だった

日常的に性欲に晒され、性欲を理由身体危害を加えられることも多く、同意の上での性行為でも結果として妊娠人生が一変することのある女性の、身体精神安全生活のために、誰であっても公然と性欲が語れる社会のもの拒否する視点が一切ない。

自分クィアな性欲が否定される原因を家父長制社会管理下故と解釈するのは勝手だが、性欲過多な自分をそのまま受け入れず正当化しているだけ。だから性欲に晒される女性の生きづらさはまったく理解できず、家父長制により貞淑さを求められる女性と共に逸脱することで連帯できると勘違いしている。

Permalink |記事への反応(0) | 11:28

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2025-08-02

anond:20250802235241

クィア論の人はひたすら快楽の話ばかりで。

うっかりセックスすると女は子供出来るんだけど、それはどうでも良いのね。

Permalink |記事への反応(0) | 23:53

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トランス教員さん、性的逸脱を主張してボコボコ

立命館大学の古怒田望人さん

https://archive.md/20250802041648/https://x.com/ilya_une_trace/status/1950860431939248465

性的に逸脱することを恐れないでほしい。性的逸脱は、家父長制みたいな性の「こうあるべき」という規範に逆らうことに繋がりうるし、その規範内面化した自分を解くきっかけにもなる。性的逸脱は、家父長制を解体し、新しい自己を生み出すんだ、というのが『クィアレヴィナス』の主張でもある。

社会の反応

https://x.com/LunaRainbow8/status/1951253150687785275

申し訳ないんだけど、全然的外れなんだよね。

女性を苦しめているのは「貞淑であれ」という自縛ではないんだよ。

ひたすら性的に見られ、暴力を受け続けている体験なんだよ。

それは家父長制とひと繋がりのマッチョミソジニー社会によってもたらされているの。

https://x.com/azuquita2023/status/1951514222942363858

男の「俺は女を雑に扱いたい、虐待したい」を、「女が雑に扱われたがっている、虐待されたがっている」と他責にするなよ。死ぬほど迷惑

自分好意を持ったのに、相手が俺に好意があるとか言い出すアレと同じ。醜いよ。

https://x.com/3TSecOezzDpQw4D/status/1951562812813357137

なんか…加齢臭すごい…

宮台真司流行ってた頃、こんなこと言ってるオッサンいっぱい見た…

こんな爺さんの飲み屋談義みたいなので本出せるとか哲学界隈どうなってんだ…

Permalink |記事への反応(4) | 20:11

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2025-07-30

百合を好む男性に罪はあるのか? ──好意の加害性を巡る内省

百合作品ガールズラブガールズラブコメ系のコンテンツに魅力を感じる男性読者として、一つの疑問が頭を離れない。

好意を抱くという行為のものが持つ加害性を意識したとき果たして自分たちのような存在がこれらの作品感情移入することは許されるのだろうか。

 

社会性に欠け、コミュニケーション能力問題を抱えた私のような男性が、現実・非現実を問わず他者への好意感情を持つこと自体に、根本的な問題があるのではないか

そのような疑念が常に付きまとう。

 

もちろん、百合コンテンツにはさまざまな楽しみ方や解釈存在することは理解している。

純粋ストーリーを楽しむ読者もいれば、キャラクター同士のクィア関係性に注目する読者もいる。

しかし、そうした多様性を認めたところで、本質的問題解決されない。

 

問題の核心は、社交性の劣った男性が、どのような経緯や形であれ、作品キャラクターに対して好意的な感情を抱くという行為のものにある。

この感情の発露こそが、構造的な加害性の象徴なのではないだろうか。

 

 

つの視点から批判

このような問題提起に対しては、予想される反応がある。

 

性別理由とした過度な被害者意識内面化であり、自己中心的で偏った思考だと批判されるだろう。

「そんなことを気にする必要はない」「考えすぎだ」という声が聞こえてくる。

 

そもそもこのような思考パターンを持つこと自体が、既存性別役割固執した差別的態度の表れだと指摘されるかもしれない。

真の平等意識があれば、このような葛藤は生まれないはずだ、と。

 

男性への偏見に基づいた自己卑下的な思考に陥った人物として嘲笑対象となるだろう。

男性原罪論に毒された哀れな存在」として扱われるに違いない。

 

 

教育環境が生んだ葛藤

しかし、現在教育環境社会メッセージを受けて育った世代にとって、このような思考に至ることは決して不自然ではない。

我々は長年にわたって、男性という属性を持つ者は社会的に優位な立場にあり、他者への関心や好意さえも相手にとって負担となる可能性があるという認識を学んできたのではないか

 

「それは個人問題であり、性別全体の問題ではない」「そのような意識を持つから周囲から距離を置かれるのだ」と反論する人々も多いだろう。

興味深いことに、同じ人たちが「○○は俺の嫁」「○○が好きすぎる」といった発言を何の躊躇もなく行っている現実がある。

 

この矛盾は一体何を意味するのか。

おそらく、問題個人的な自意識の過剰さにあるのだろう。

では、このような状況にどう対処すればよいのか。

 

 

希望への祈り

現状では、できることは祈ることだけである

同じような葛藤を抱えながらも百合作品二次元コンテンツと向き合う人々に、何らかの希望が見出せることを願う。

一人でも多くの人が、前向きな気持ち作品と関わり、生活できるような道筋が、たとえそれが幻想であっても存在することを信じたい。

 

百合を好む男性に罪があるのかという問いに対する答えは、もはや存在すると結論づける他無いだろう。

しかし、こんなくだらない問題意識せずコンテンツを楽しむことができている多くの層にまでこのような意識を植え付けるのは、こじらせた被害者意識カルト布教活動しかない。

このような思想に囚われてしまった我々のみで直視し、その罪を背負わなければならないのだろう。

 

-------

 

※この文章は筆者の特定しづらくするため、内容をAIに書き直させている。内容自体は私が想定したものだが文面についてはAIで生成している。AI生成臭いことについてはこれで弁明とさせてほしい。

Permalink |記事への反応(0) | 00:18

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2025-07-19

エミー賞情報見てたんだけど、ラスアス関連で色々ノミネートされてたり、世の中はアンチポリコレの情勢でもエンタメ業界は変わってなくて安心した

ラスアスって内容もだけも、ベラ・ラムジーとか、女優賞ノミネートされてるけどノンバイナリーだしね

ペドロ・パスカルトランスアライでフェミニスト反戦リベラル

去年もSHOGUNがめちゃくちゃ話題になってたりしたけど、これで今年は急にマジョリティ白人ドラマばかりになってたら悲しかったよ

女でクィアアジア人な身からすると、性的マジョリティ白人男性中心の物語って、「たまたまマジョリティに生まれ差別を受けなくて済んだので無双しました」みたいな感じで、それはそれで楽しいものももちろんあるんだけど、いつもそればっかりだと飽きるんだよね

なろう系みたいな感覚というか

女やクィアアジア人活躍するドラマとか映画とか見たいよ、今でも少なく感じるのに減っちゃやだよ

Permalink |記事への反応(0) | 00:23

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2025-07-16

anond:20250715134543

まず勘違いがありそうだから言うけど、大前提として、これは愚痴というより、多様性を謳うコミュニティ形骸化して、題目から外れた「排除」に向かっていることへの問題提起があるのね。思想としてもおかしなっちゃってるというか、真の意味多様性を打ち出すなら例外を作るのは自己矛盾じゃないですか。

から排除という手段を先にとったコミュニティは、活動を続ける以上は説明責任がある。それに個人間のちいさな感情とか私怨とかで大人げない行動をとるなら、それはマジで誰かを助ける以前にモラルが欠如していると思うの。

あなたクィアではないとのことなので、つまりあなたはこの問題の枠外の人間であり、傍観者別にわたしからコミュニティからも責められてない。安心してほしい。

それで、家族のことだけど。

わたし家族の言うことめんどくせー、嫌だなー、と思ったことはあるけど、全ての人にはその人なりに生きてきた上での言い分があると思うし、きちんと考えてみた結果べつに悪い人じゃないのに無視するとか、自らも加害で応戦するのってわたしとしては自分が嫌だなとおもった人たちと同じレベルに堕ちてしまうから、わざわざやりたくない。線を引いて、分かり合えない部分を表明して、なぜそんなのかを論理立てて説明する、モラハラっぽい発言があれば指摘する、を繰り返している。もちろん必要があれば身内だろうが法的措置とかあらゆるシミュレーションを想定してるよ。だから意志が弱くて黙っていると言うより、相手対立意見を持つ自由を認めている感じに近いかも。むしろ穏やかで硬い反抗。

泣き寝入りするなって言うの、辛かったでしょうね…わたしの家庭はまだ世間体を気にするとか、善性の果てに子供に圧を押し付けるっていう感じだったから、まだ工夫のしがいがあるなって判断したけど、暴力とか身内からレイプとか、話が通じない家庭があるのも知っている。

じぶんはわたしが多少嫌だなと思う感情よりも、親が金と時間をかけて自分を優先し、育ててくれた苦労を無碍にすることは、巡り巡って自らの存在否定意味すると思ったので、世間毒親ロジックは当てはまらないと感じただけだね。

それに家族以外の人間関係は血縁法律などの結束がないせいか責任がないゆえに親や親戚より頼りになったこと、一度もなかったし………

なのにどうして、他人の血縁や、生まれてきたバックグラウンドに対して全否定から入れるんだろう、って思ったんだよね。個人のつらさがどんなに深刻で、どんなに親の発言が嫌と言おうが、その親からまれたことは転生でもしない限り変えられないのに、変えられないことを憎むのってめちゃくちゃしんどいし、非効率的だなーって思っちゃった。

多分みんな自身トラウマ投影なんだろうけど、実家暮らしでなんとか生存できているわたし押し付けられるのもなんか困るというか、不思議だし ひとと一緒に暮らしてないとすぐ倒れたりするからかもね……実家でろ論もやってみた結果結構死と同義みたいになっちゃったし

Permalink |記事への反応(0) | 14:29

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2025-07-15

カップリングオンリー原作者降臨したので、ジャンルを降りた。

降臨して、本は買わなかったらしいが、ペンネームを名乗ったうえで、ジャンル作品ゆかりお菓子サークル参加者全員に配り歩いた、らしい。

伝聞の形をとっているのは、原作者がそうしたことを匂わせる投稿をしていたのと、サークル参加者側がその時の様子を克明に記録しているふせったーから知ったからだ。

ジャンルは、ブロマンスを売りにしている。

一般レーベルから出ているライトノベルシリーズ10冊以上刊行されている。

主役級登場人物AとBの、緊密なやりとりや人間関係に、ひそかにBL要素を見出し楽しんでいる読者も、恋愛要素抜きに強い人間関係面白さを感じている読者もいるだろう。

当然、BL愛好家の読者層を意識した販促をされていた。某BL特化通販サイト新刊を買うと、書き下ろしおまけ冊子が付くこともあったくらいだ。

しか一般レーベルなので、明確にABとかBAとか、決め打ちする描写はなかった。身体接触健全な程度に留まる。あくまでも距離が近いだけ。話の本筋も、主人公たちの人間成長物語に終始していた。

そして今秋に最終巻が出て、シリーズ完結予定。

そんなジャンルである

かにABだとかBAだとか、いやはやABAだとか、そもそもCPじゃない、強烈なブロマンスなんだと、そんなふうに楽しんでいるオタクがXもといTwitterにたくさんいる。いたと思う。

最後まで関係性の描写曖昧なまま読者に委ねられ終わるのだろう、そんなふうに思っていた矢先に、原作者が突然、特定CPオンリー差し入れお菓子と共に現れたというではないか

業腹だが特定CPをABとしよう。

私は密かにBAを愛好していた。

イベント開催翌日の出勤前にTLをなんとなく眺めていたときに、ABサークル参加者の興奮隠しきれないふせったーおすすめ欄に現れた。その内容と、原作者アカウントサークル参加者に差し入れたであろうお菓子写真を目にした時、目眩がした。

瞬間的に、原作者は根ではABだったんだと感じた。

これまでAとBの関係は、BLでもそうでもないでもどちらでもと原作者本人が言っていたこともあったのに。それでもわざわざ、CPオンリーを調べて足を運ぶとは、そういことではあるまいか

万が一、関係性に明示がされるなら作品内だろうと信じていた。

作品に書かれてることなら、折り合いがつけられる。読了後に本を閉じて、黙って去ればいい。

物語がいつもいつでも、自分の思う通りの筋書きとは限らない。

CP者の僻みと思うだろうか。

刊行分の原稿を書き終えたタイミングで、直近で開催されていたのがそのCPオンリーだったから。

別にこれで左右が決まったわけでもない。

原作者純粋に読者に感謝を伝えたかっただけなんだよ。

原作者イベントに行くのは自由だよ。

しかそうかもしれない

から見たらどうでしょうか。

この原作者の行動だけ見たら、ああこの人は作品には出さないけどAB贔屓なんだなと思うのでは?

無邪気に無意識に、やりたいようになさっただけでしょう。なら、なおさらつらい。

自身の行動が、BL愛好層が読者の大半を占めるだろうジャンル性質あいまって、錦の御旗になりかねないことを意識できなかったのか。

秋口にジャンルオンリーもあるようです。そちらではダメだったのだろうか。

しかしたとえ、この後にBAサークル参加者の方にも原作者がやってきて、お菓子差し出したとして素直に受け止められるだろうか。

ただ起こった事実は、

原作者特定カップリングオンリーへ参加して、読者全体のうちのさらに限られた一部の人であるサークル参加にのみ、名を名乗り、感謝気持ちと称して菓子を配って周った

ということだけです。

サークル活動をしない人間の方が大勢だろうに、その中でもさら特定CPサークル参加者にだけ差し入れをなされた。

その他の何万部数を書店で手に取り読んできただろう読者は、ファンレターをしたためた読者は、サークル参加はしなくても好きをいろいろに表現して布教に余念のなかった読者は、SNS登録していないだろう読者は、見えない知らないと突き放された気分です。

そんなおつもりは毛ほどもないのでしょう。だからこそ苦しいのです。

わざわざ調べてこのイベントに出向かれたはずです。サークル数分のお菓子を用意して。CPオンリーと知らなかったとおっしゃられる方が、余計に苦しい。

ここ数年刊行のたびに、はやる気持ちでページをめくっていた私の存在は、透明化してしまったのでしょうか。

作品を通してであれば、どんな世界でも受け止める覚悟ができていただけに、失望した。

心の底から失望した。

せめて名乗らないで欲しかったし、受け取った方も菓子原作者から手に入れたことは秘しておいて欲しかった。

作品の外で、作品の傾向を決めかねない行動を取らないで欲しかった。

しかし人は誰の思う通りにもできないのが常だ。

からきっとこのようなことを原作者はなされないだろうという期待をしていた私がおかしいのです。

サークル活動をするのは、たいていは熱心なファンだ。

そこまで作品を愛好してくれる人に直接会いたかったのかもしれない。お菓子を渡したかったのかもしれない。

原作者がよくSNSでやり取りをしているのも、ABの愛好家が多いのも知っている。だからかもしれない。

神の気まぐれにより、浮き足立って、にわかに錦の御旗を手にした側にはわからないだろう。

しろ、AB愛好家たちは自分たちの頭上にそんな旗がひらめいていることすらわからないのかもしれない。

選ばれた側には、選ばれなかった側の身も千切れるような悲しみと苦しみはわからない。

選ばれた側に、そんなつもりはないだろうから気にしすぎだと言われても、まったく響かない。

BAの愛好家の中には、信じてきた解釈にわかに突き崩されて「あなたは実は想定したお客さんではなかったのです」と言われたような気持ちの人もいるでしょう。

あるいはAとBをいわゆるカップリングとみなさず、恋愛に限らず強い信頼のもとに結びついた稀有関係として愛していた人も、同じくではないでしょうか。

それならば某中華ジャンルのように最初からABしか認めないと書いてあればよかった。そのまま受け取れた。

ここまで追ってきて、違いますと言われたも同然の経験をすることもなかった。

私情は読書体験ノイズになりかねないから、私は原作者フォローしない。

私はアルゴリズムで流れてきたふせったーインプレッションの多さに何かあったのかなと読んでみて、引っ掛かりを覚えて、勝手原作者SNSまでいき、答え合わせをして、勝手に落ち込んでいる。

作品と作者は違うと信じていたが、そうでない場合もあるらしい。

私はこの作品を愛していました。

繊細な言葉遣いで、世の中で置いて行かれてしまった隅の方に優しく灯りを向けてくれたから。

クィアな人々がいて、中でもアセクシャル(と思われる)人物生き様言葉には、自身セクシュアリティに関する自己肯定感をすこし持ち上げてくれた。そんな力があった。

AとBが傷つきながらも足場を固めて未来へと進む姿に、清々しさと美しさを感じて好ましく思っていた。

宝物だった。

からこそ、自分含むこのCPオンリーに参加していない読者すべてが置き去りにされたような気がして、悲しかった。

作家業も長くBLもお好きなようなのに、自分が書いている作品の読者層が、お菓子を配りたい!という気持ちから起こした行動に、どう反応するのかも理解できていなかったのだろうか。

誠実さを疑う自分の醜さにも反吐が出る。

完結記念にファンミーティングやサイン会を開きます、その手土産作品ゆかりお菓子です!

それならきっと楽しい思い出になっただろう。

今後、そのような催しが企画されたとして、いまさら行くかと問われたら、迷ってしまう。

そもそも私はこの気持ちのまま最終巻を手に取ることができるのでしょうか。

解釈には自由があると信じていただけに、そういう読み手への信頼も同時に原作者文章から感じていただけにただただ悲しみを覚えている。

ここまでの積み重ねをひっくり返されるなら、せめて最終巻を読むことで散り、泣きながら去りたかった。

これ以上醜くなる前に、一足早く、ここから去ることにしました。

立つ鳥跡を濁さずを貫こうとも思いましたが、しかしこの程度の匿名落書きファンの分断が招かれることもないでしょうとも。そんなつもりはないんだよと仰ったみなさまです。

同時に、同じ苦しみを抱えているかもしれない人に向けてでもありますあなた一人だけではないです。

同じ作品を愛していた人には、これだけでいったいなんのことかおわかりでしょう。

相応の報いがあっただけです。

どうか探さないでください。

私はこれまでに読んで受け取った言葉たちを思い出という名の宝石箱しまって、去ります

さようなら

みなさんも、信じたいものを信じてください。

私の道のりはここまでのようです。

泣き言だけなのに、長くてキモいね。本当にごめん。

Permalink |記事への反応(35) | 20:11

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マイノリティの友人たちが羨ましい

性的マイノリティでないと生きづらいと思うことがすごく多い。わたしが親を大切にしていたり、家族に言われたことをきちんと大事にしたり、その範囲内で自分気持ちを考えているときに、家族価値観全否定するクィア友達がいて、わたしの大切な家族のことを否定しないでくれ、と言ったら、今度は私のことを悪者と見做して非難し始めた。

そんなことが何人かと続いて疲れている。わたしはどうしてノンバイナリーではないのだろう。わたしはどうしてトランスジェンダーでもMtFでもバイセクシャルでもジェンダークィアでも無いのだろう。知人の1人はコミュニティを優先してbioをクィアに変えていた。わたしもそう出来れば良かった。人間関係大人になればなるほど消えていくから、今のうちに必死に縋りつかないといけないのに、頑張って努力しても性的マイノリティとしてのアイデンティティが肌に合わないし、なぜマイノリティでないといけないのかがわからない。でも皆の望むようにマイノリティで居ないと、嫌なことを言われたり、大切な人たちのことを無碍にされてしまう。

マイノリティを守るぞ!と立ち上がる人を見るたびに、あんなに守られてるのに誰が守るの?という気分になる。わたしおかしいのだろうか。ジェンダーアイデンティティで集まったわけでは無い集団にLGBTQの圧力が加わっていくのがとてもしんどいけど、そんなことを言えばまた差別主義だ、わたしは傷ついたと言うのだろう。あなたが傷ついたのはわかったけど私には仕事があるし、皆だって学校がある。社会があり、社会に払う責任がある。わたしだって嫌な思いしたり、無視されて泣いたこともあるけど、わたしを守ってくれる人間フェミニズムの本も一つもなかった。今日バトラー明日バトラー。その信仰を信じないと友達で居られないらしいから、頑張って読むけど、全然逃げじゃんって思ったし、何も共感できなかったし、仲間がいていいなと思う。

何年も努力してもわたし排除される側なのに。社会で辛いな、苦しいなと思うことがあって、自分が気に入らないことを排除理由にするマイノリティは大層なご身分だと思う。わたしもなれるならそうなりたかった。どうすればなれる?あの女の子みたいに趣味を全部捨てて、生活を全て活動に捧げれば良かったのかな。何がだめだったんだろう。

そんなことを悩んでいたら、同じコミュニティの人たちとまだ仲の良い知人が、LGBTQコミュニティにおける強力な加害性や、傷ついたを言うためにはなんの罪もないその辺の人を殴っても良いと思っている、悲しいね、と言う話をしていて、うんうんとなってしまった。でも居場所があって良いなと思う。ポリアモリーもできないし、パンセクシャルにもなれないし、アロマンティックじゃないし、そもそもみんなほどお化粧も話すための振る舞いもうまくない。わたしわたしであり、借りた言語に属そうとするとわたしになってしまうだけなのに、いくら嫌なことや性加害があってもマイノリティにはなれないのだ。いいな、いいな。ゲイバーに通う女性コミュニティ侵犯だというのはその通りだと思うが、普通に生きていたところがLGBTQコミュニティ化して家族や私の思考や在り方を否定されるようになるのって、もう絶望しかない。本を読み続けて数年。

どうすればみんなに守られて、否定されなくなるんだろう………どんなにつらくても絶対わたしけが対象外マイノリティ擁護賛同したくないよ。

Permalink |記事への反応(0) | 12:04

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2025-07-08

参政党に恐怖している女性たちに知ってほしいこと

参政党が子供を産まない女性侮辱していると捉えて、

ミソジニー政党だと考えている女性が多いのは知っています

かに参政は家父長制の押し付けが強く、

フェミニズムの敵であると言えないこともないでしょう。

だけど、現実に今の日本に棲息しているオスの問題に対して、

参政党は希望になる動きをしてくれているとも言えます

・発達利権への切り込み

発達障害は言うまでもなく、ミソジニーの温床です。

女でも、ハッタツのメスは股開きだったり、

ミソジニー内面化してる手遅れのカスなケースが多い。

発達のオスはご存知の通り、日本ネット弱者男性アンフェ言論を牽引しています

このオス達に税金を注ぎ込み、無駄医療費を使い、

場合によっては年金まで与えて生かしている「発達障害ビジネス」は、

かなり前から問題になっています

そもそもこの「障害」とやらが存在するのかも疑わしい。

参政党は、既存政党バッシングを恐れて触れなかったこ問題に、

切り込んでくれる動きがあります

日本女性蔑視言論の土壌であるオスの発達障害を生かす医療利権を、

切り崩してくれるかもしれません。

近視眼的に見れば女性蔑視の政党かもしれませんが、

長期的にはミソジニー言論の芽を摘んでくれる政党になる可能性もあります

トランス女性へはっきりと「NO」

参政党は、はっきりとLGBTQ利権否定します。

フェミニズムの中では今やクィア運動は、

女性権利増進を分断するために投入されたバックラッシュの道具であることは、

ほぼ常識です。

だけど、この生き物たちの権利をきっぱりと否定してくれる政党は、

あるようでなかなかありません。

これは女性安心して暮らせる社会にとって、大きな脅威です。

一見すると、家父長制に女性を取り込もうとしているように見える保守政党は、

実のところ、生物学女性が性被害危険なく安心して暮らせる社会を作ることを、

リベラル偽善活動家よりもよほど真摯に考えてくれています

これは私が、直接ある参政候補者と話す時間を戴いて感じた、偽らざる感情です。

子供がいるのかいないのかなど、無駄な分断を招きたくはないので、

増田個人的属性は伏せます

ただ、リベラルな人たちの美しい言葉に騙されず、どうか

「本当に女性のためになることをしてくれる政党はどこか」

それだけを考えて、投票に行ってくれたらいいなーと思います

Permalink |記事への反応(2) | 21:58

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2025-07-07

悲報トランス学者さん、ペドだった

https://x.com/streamkamala/status/1941652133117559082

クィア学者小児性愛を「先天的セクシュアリティ」として学校教育に含めるよう主張

トランス活動家ロビー団体理事を務めるノルウェー教授が、高校小児性愛を「先天的セクシュアリティ」として教えるべきだと提唱している。

彼は、「子ども性的に魅力的だと感じる精神状態は非常に一般的である」と述べている。

ノルウェーオスロメトロポリタン大学倫理学教授が、小児性愛汚名払拭されるべき「先天的セクシュアリティであると主張し、AI生成した児童ポルノ合法化を求めた。

やっぱトランス思想のものペドやんか

Permalink |記事への反応(0) | 10:06

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2025-06-29

人間思想は分けるべき

個人個人思想ではなく、集団とその集団に関しての思想の話な。

関心領域ユダヤ思想危険性を理由ユダヤ人を殺しているらしきシーンがあったと思うけど、あれなんかは人間思想区別をやめてると思うんだよね。「この思想危険だ。ゆえに彼らは存在してはならない」はジェノサイドだ。

最近クィアフォビアは、「クィア思想危険だ。ゆえにクィア人間は許すべきではない」というジェノサイド論理を当たり前のように振りかざす。「性自認主義危険だ。ゆえにトランスジェンダーは許すべきではない」とか。

いや、問題があるとしたらその人間ではなく、その人間をそうした思想で語ることだろう。そうした思想実在するとして、ユダヤ人もクィア別に思想があって初めて生まれてきたのではなく、それ以前からいた人々がその思想のもとで語られるようになったというだけなのだから思想への反対を人間の撲滅の正当化に使うのはやばいよ。ジェノサイドのやり方だ。

Permalink |記事への反応(0) | 13:04

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anond:20250629015401

そのフーコーこそ性的同意年齢を撤廃すべきと言っているガチペドなんは有名やね

バトラー児童虐待擁護してるし、ほんとトランスクィア界隈はろくでもないね

Permalink |記事への反応(2) | 08:59

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anond:20250628225839

ポストモダンで何を指してるか知らんけど、フーコーが性について語った「性の歴史」が1976年で、現代クィア運動の主要な源流の一つであるストーンウォールの反乱が1969年だし(もちろんこれは、すでに長く定着したコミュニティがあったから起きた事件だ)、トランスジェンダー権利運動50年代からあるし、もちろん「ゲイ」とか「トランスジェンダー」とかの言葉現代的に整備される前のコミュニティもっとからあるし、ネット情報じゃなくて歴史の本読んだ方がいいと思う

ワイマール時代生化学研究所フェミニストトランスジェンダー協働してたあたりからフェミニズムトランスジェンダーはもともと繋がりが強いようにも思われるし、むしろ第二派でミシガン女性音楽祭での対立とかが起きた(それでもトランス包摂多数派)あたりからトランス排除派が自分に都合のいいように歴史を語り始め、それを現代アンチトランス派が引き継いでるように見える

クィア」という言葉肯定的に使い出すとか、クィア理論という学術分野が生まれるとかの話ならフーコーデリダのあとだろうけど

でもその場合は明らかにクィア理論トランススタディーズフェミニズム思想を主要な着想源の一つとしてるから学問分野の成立の話としてもおかし

Permalink |記事への反応(1) | 01:54

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