
はてなキーワード:ガレー船とは
1571年、レパントの海戦。オスマン帝国の無敵艦隊を、スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊が撃破したあの日は、ヨーロッパにおける「旧秩序の最後の勝利」として記憶されている。だがそれは同時に、火薬と風帆の交錯する時代における“過去の戦い方”の終焉でもあった。
そして、2025年の『PokémonLEGENDS Z-A』――これもまた、ゲーム業界におけるレパントの海戦である。
任天堂とポケモン社は、革新を標榜しながらも、その本質は“帆船の艦列戦”に固執する連合艦隊だ。巨大なIPの威光を盾に、数値と懐古の煙幕でプレイヤーを包み込む。だが、海はすでに変わっている。Steam、Epic、モバイルの潮流は、帆ではなく蒸気と電力で駆動する――それが現代の“海戦”だ。
ポケモンZAが選んだのは、その新海域を航海することではなく、旧式のガレー船を金箔で飾り、再び出港する道だった。
確かに、レパントの海戦ではオスマンの拡張を止めた。しかし、あの勝利は一時の幻影に過ぎず、やがて地中海の覇権は沈黙のうちに移り変わった。同じく、ポケモンZAも短期的には話題と売上で勝利を収めるだろう。だがその勝利の背後で、ゲームの「航海技術」は停滞し、革新の風は他の海原へと流れていく。
“伝統”の名のもとに惰性を正当化するその姿勢は、まさにガレー船の鎖に繋がれた漕ぎ手のようだ。美しく整った列を組みながら、どこへ向かうのかを誰も知らない。
レパントの海戦は、旧世界の最後の勝利であり、新時代の前夜であった。
ポケモンZAもまた、ポケモン帝国の最終的な「勝利」であり、同時に「終わりの始まり」なのかもしれない。任天堂がいまだに風を読み違えるなら、その船団は次の嵐で、二度と帰港できないだろう。
・第一幕の七福神の船にバルバスバウがある。 手漕ぎガレー船(木造和船)にバルバスバウがあるなんて、設定の今井みどり氏は仕事をしたのか? (衝角なら有りうるが、形態・位置・サイズ的に違う)
・なめ茸しめじ憔悴声優オーディションシーン。「どうして昨日と今日が同じだなんて言うんだ」の前「このまましずかに消えていくんだと思っていた」のせりふを坂木しずかが読むところ。
・遠藤VS瀬川対戦シーン。瀬川氏が立ち去るとき大きめ長財布しか持ってないんだけど、ゲームセンターに行くときそういう外出の仕方する?
・エンドロール後Cパートの興津氏。左側からみた横顔なので前髪先端が左右反転「ノの字」(乀)になっており、それが眉毛に見える。 最初なんでこの人はこんなに困った表情をしているのだろう?と思った。(実際の眉毛はもっと上にある)
http://anond.hatelabo.jp/20141007125424 を読んで、「最近よくある意見」だなあ、と思ったので一言。まずは、例え話から。
たとえば、船同士が海戦で戦って、片方が「勝った」としても、それは、船の内燃機関にとっての勝利なのか? と言えば、違う。内燃機関は「道具」の一つであって、戦って勝利したのはそれを「道具」として=自らの戦いの条件の一つとして利用した人だよね。
内燃機関にとっての「戦い」って、たとえばもっとシンプルな他の内燃機関との性能競争とかそういうものであって、道具として利用され期待されたパフォーマンスを出したからといって、その成果の割り前が内燃機関にあるわけでなし、それは内燃機関にとっての「戦い」ではないよね。どんな優秀な内燃機関でも、提督がアホだったら戦闘には「負ける」わけだけど、それを内燃機関の「負け」とは言わない。
「道具として利用されたものが、主人の『勝敗』も我が身に負えるものだろうか? = 否。それは幻想に過ぎない。」
ということなんだ。言いたいことは分かっていただけるだろうか?
いや、まあ待て。人間と機械は違う、とか、そういうことを言いたいんだろう? だが、本当にそうだろうか。その内燃機関が、たとえばガレー船のように、人間だったとしたらどうなんだ?
ガレー船の漕ぎ手にも、いろいろな立場の人間がいたそうだ。いまWikipediaで見ただけけど。(※1)
兵士が漕ぎ手を兼ねることもあれば、認められてのし上がることを目指す無産市民、自分用の小さなスペースで交易ができた自由人から、囚人、捕虜などの奴隷まで。
さて、現代社会において「ガレー船」は、一人一人が働く「会社」のことだけでなく、増田がたとえたように「国家」であるとも言えるし、あるいはもっと大きく「資本」そのものであるとも言える(※2)けれども、その「漕ぎ手」である我々の立場は、上のどれに一番近いんだろうか。そう考えてみるのは、それほど無駄なことではないと思うんだ。
管理職以上なら、「会社」というガレー船では「兵士」と言ってもいいかもしれない。与えられた戦いであっても、自分用の武装や場所を与えられ、成果が褒章されるのだからね。もしその「会社」がベンチャーなら、社長以外の誰もが「無産市民」かもしれない。のし上がって、自分の戦いを自分で主宰する立場になることを目指しているのだろうから。
だが、多くの「会社」でほとんどの割合を占める一労働者は、やはりただの「奴隷」ではないだろうか。戦いの場ですりつぶされていくだけの道具。
そして、その全てが……社長も管理職も平も、あるいはその「会社」自身も、「国家」や「資本」といった巨視的な視点から見れば、所詮、代替可能な道具であり、つまりは「奴隷」にすぎないのじゃなかろうか。
「国家」や「資本」が「戦い」(※3)に身を投じるとき、そこに含まれる一個人や一中小企業に、一体どんな「自由」があるだろうか。
ちょっと前に話題になった、堀江貴文氏×瀬戸内寂聴氏の対談の内容の一つが、まさにそういうことだった。
http://news.livedoor.com/article/detail/9301931/
「僕は、(中略)戦争が起こったら、真っ先に逃げますよ。当たり前ですよ」
これに驚いた寂聴は「どこに逃げられる? 逃げる場所がある?」と聞くが、ホリエモンは「逃げる場所あるでしょ。第三国に逃げればいいじゃないですか」と、淡々と返す。
そして、寂聴から「行かれない人はどうするのよ」と突っ込まれると、ホリエモンは平然とこう言い放ったのだ。
「行かれない人はしょうがないんじゃないですか?」
たとえ「国家」や「資本」にまで話を広げても、堀江貴文氏という人間は、上で言う自由人だ。端から見れば国家や資本というガレー船の中でそれに奉仕しているだけに見えても、彼が戦っている戦いは徹頭徹尾「個人」の戦いだ。だから、現代日本でも「自由人」として行動する「自由」は存在する、と堀江氏なら言うだろう。
だが、寂聴氏が指摘するように、大半の人間はそんな「自由人」として振る舞うことなどできはしない、ということも事実だ。自由人になれない人が奴隷としてすりつぶされていくのは「しょうがない」という、堀江氏の立場。「しょうがない」では済まないと言う寂聴氏の立場。
前者から言えば、増田の言うことは別に間違っていない。だが、後者の立場……すなわち、そこで奴隷としてすりつぶされるのが、たとえば自分の「妹」であったとしても、同じ事が言えるのか?というのが、元増田が提起する問題なんだろう、と思った。
その意味で、元増田と増田の話は興味深い。で、ここまで整理して見せれば、結論は不要だろう。それは、各自が考えるべき問題だろうからね。
注※
※1 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AC%E3%83%BC%E8%88%B9 の「乗員」の項参照。
※2 国際的な金融取引の仕組みが整備された現代社会においては、「資本」はもちろん「国家」より大きいよね。
※3 野暮な説明だけれども、この「戦い」とは別に戦争のことだけを意味しているわけではない。戦争もまた、経済活動の一形態に過ぎないのだから、あらゆる経済活動は「戦い」であるとも言える、そういう意味。