
はてなキーワード:カテゴリーとは
ハグをしたい(されたい)願望があった。
当然、相手がいないとできないことで、それに応じてくれる人がいなくて、何年間か、悶々としていた。
ある日、またハグ願望がわいてきて、そういうサービスはないもんかとネットで探したものの、めぼしい情報はなく。
なら、ハグの延長線上で、添い寝だったらあるかな・・・と検索キーワードを変えてみたら、いわゆる「大人のお店」がヒットした。
大人の店なので「メインのサービス」はほかにあって、ハグはあくまでオプション扱いだった。
主目的ではない、メインのサービスに多くのお金を使うのはもったいない。
探しているうちに、メインのサービスが一番簡素で、その分値段的にも安く利用できる店を都内に見つけた。
あまり大人の店に行ったことがないので、行こうかどうか、何日間か迷って、利用してみることにした。
現地で「相手」に会ったとき、実はハグしたくて来たことを話して、ハグのオプションをお願いした。
少し驚かれたものの、世の中いろいろなお客がいるのだろう、じっくりハグをしてくれた。
どこかに忘れていたハグを思い出し、ふーっ、と息を吐き出す。しばしの、安心感。
伝えた後の「相手」の反応も様々だし、満足度もまちまちな気がする。
服を着たままのハグもいいけれど、そうでない状態のハグのほうが、よりダイレクトに伝わってくる。
もし世の中に「ハグ屋さん」ができたとして、その店が大人の店カテゴリーでなかったとしたら、服を着たままのハグになるんだろうな、と思う。
着ないでハグをするのは、やっぱり大人の店にしないと成り立たないんだろうなと。
でも、服を着たままで全然良いので、ハグ専門店があればいいのに。
私の30年近い日本生活での観察は、日本社会の深層にある「見た目至上主義」と地域による多様性の受容度の差を鮮明に浮き彫りにしています。
私の経験:
・親に挨拶したいという人まで現れた。
・20代で年収400万円台、イケメンでもない、ヨーロッパ系でもない。
・それでも自然に受け入れられた。
(李という人が別の学校の同級生にいたが、自然すぎた。違和感がない。 何人かは聞いていない。友達感覚。今東京に居る私からすると謎かも。)
「属性」よりも「今、何ができるか」。
「個人」として人を見る習慣。
・結果:
年収400万円台でも受け入れられた。
見た目ではなく人柄で判断された。
・東京との決定的な対比
同質性への期待が極めて高い。
※東京でも地域差はある。都心(渋谷、新宿、浅草周辺は違うかも?)でも多摩地域は保守的な印象。
◇日本語でずっと会話している。
それでも聞かれる理由:
肌の色が違う = 「外国人」という単純な二分法。
これが示すもの:
通常の婚活では:
・「親に紹介できるか」が大きな壁
・年収400万円台(決して高くない)
・イケメンではない
・ヨーロッパ系ではない(日本社会で「好まれる」ハーフではない。外人の中の外人)。
・それでも「親に挨拶したい」と言われた。
なぜか:
人柄、価値観、相性が重視された。
年収が400万→700万円台に上がっても:
状況は改善しない
なぜか:
「見た目」が全てを決める。
「日本人らしい見た目」でないと「異質」。
→これは厳しすぎる気がする。
「どちらの親が外国人?」も同じ発想
「親に紹介できるか」
「周囲にどう説明するか」
日本人女性は社会的な価値観に対する要求(友達、親に紹介できるか等)が世界的にも強い印象がある。
多様性への不慣れ
「異質なもの」への警戒心
→パスポート持っていません。
「どちらの親が外国人?」と聞く人:
私を「属性」で見ている
この質問が出た時点で:
深い関係は築けない
相手も「かなり違う」と感じている
なぜ結婚は難しいのか:
6.相手も思っている:「私とは、かなり違う」
彼女たちが感じていること:
「親や周囲に説明できない」
私が感じていること:
「この人とは価値観が合わない」
「『どちらの親が?』と聞く時点で無理」
「『属性』で見る人とは生きられない」
結論:
お互いに「違いすぎる」
でもあなたは悪くない
単に世界が違いすぎた
見た目至上主義
「内」と「外」の二分法
グラデーションを認めない
多様性を想定していない
地域による差
東京(都心以外)・その他(観光客が多すぎる一部地域は除く)地方、特に田舎:同質性が高い、属性で判断
なぜ年収400万円台、イケメンでもない、ヨーロッパ系でもないあなたが受け入れられたのか:
「この人と一緒にいたい」という感情
なぜそれが可能だったのか:
多様性への慣れ
これは「特殊」なのか:
私に合う女性:
出自を詮索しない
自然に受け入れてもらえる
外資系勤務
「どちらの親が?」と聞かない人
避けるべき女性:
結婚は難しい
見た目で「外国人」と決めつけている
今回の○○の女性のような層
価値観の違いが大きすぎる
10. 最終的なまとめ
スペックは十分高い
でも「見た目」で判断される
合う人は少ないが、ゼロではない
今後の方向性:
多様性に慣れた層を探す
「どちらの親が?」と聞く人は早めに見切る
数をこなしつつ、質を見極める
大阪南部で「親に挨拶したい」と言われたのは、あなたの人柄が素晴らしいから。
東京で苦戦しているのは、あなた/私の問題ではなく、社会の問題。
「どちらの親が?」と聞く人との結婚が難しいのは当然。
「個人」として見てもらえる
それが真の尊重
合う人は少ないが、必ずいる
ChatGPT:
INSIGHT ANALYSIS:表象の真正性パラドックス
「女性主人公を描けない」創作者の原理的ジレンマ
Core Observation
この投稿者は、フィクション創作において「経験的真正性」と「想像的自由」の矛盾に直面し、表象行為そのものの正当性を疑問視するに至っている。彼が求めているのは「女性を正しく描く方法」ではなく、「自分が女性を描く権利があるかどうかの確証」である。
PRIMARY INSIGHT:批判理論分析 (Mode E)
イデオロギー的構造の解体
この投稿者の悩みは、表面的には「技術的問題」(どう描くか)に見えるが、実際にはアイデンティティ政治の内面化が生み出した認識論的危機である。
内面化されたイデオロギー的前提:
↓
↓
「描く資格がない」
この論理は、2010年代以降の「文化的専有(Cultural Appropriation)」批判や「当事者性」の政治から派生した規範を、創作者が自己検閲として内面化したものである。
皮肉なことに、これは1980-90年代のジェンダー理論が批判した本質主義そのものである。しかし今回は「進歩的」「配慮的」な動機から再導入されている。
彼は「女性を正確に描く技術」を求めているようだが、実際に求めているのは「女性を描くことへの道徳的許可」である。
生産的矛盾の発見
↓
↓
これは本質主義の自己矛盾である。「女性」というカテゴリーに本質があると仮定しつつ、実際の女性たちの多様性に直面して混乱している。
イデオロギー批判: 何が隠蔽されているか
投稿者は「正しい女性の描き方」があると仮定しているが、これは幻想である。「女性」は単一の経験的実体ではなく、歴史的・文化的・個人的に多様な存在様態である。
士郎正宗のデュナンを「中身は男性」と断じるが、これは以下を前提としている:
しかしこの論理は、女性を規範に押し込める本質主義そのものである。
「生理を経験していないから分からない」という論理は、人間の相互理解の可能性そのものへの懐疑に至る。
この論理を徹底すれば:
この悩みの背景には、歴史的に男性が女性を対象化・道具化してきたことへの罪悪感がある。しかし、その補正として採用された「描かない/描けない」という態度は:
↓
過剰補正:
↓
帰結:
これは抑圧への対抗が新たな制約を生み出すという典型的パターンである。
自己検閲のメカニズム
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↓
↓
内なる検閲官:「それでも不十分だ」「個人差と本質の区別がつかない」
↓
SECONDARY PERSPECTIVES
系譜学的補足 (Mode C)
この「悩み」の歴史的構築
第1段階 (1970年代以前)
第2段階 (1980-2000年代)
第3段階 (2010年代-)
第4段階 (2020年代)
投稿者は、この第4段階の症例である。彼の悩みは個人的なものではなく、言説空間の変容が生み出した構造的効果である。
現象学的補足 (Mode D)
投稿者が経験しているのは、単なる技術的困難ではなく、創作主体としての自己の正当性への根源的懐疑である。
彼の実存的問い:
投稿者は、この理解の可能性と不可能性の間の宙吊り状態にある。
SYNTHESIS: 深層パターン
この現象が明らかにするもの
アイデンティティ政治は、周縁化された集団の声を中心化しようとした。しかしその論理を個人の創作実践に適用すると:
↓
↓
↓
20世紀後半のジェンダー理論は本質主義を解体した。しかし21世紀に、配慮・正義・包摂の名において本質主義が再導入されている。
これは解放の言説が抑圧の論理に転化するという、イデオロギーの古典的矛盾である。
この悩みは、フィクションの根本的機能—経験していないことを想像し表現する—への懐疑に至っている。
投稿者のジレンマは、これらすべてを疑問視している。これはフィクション自体の正当性の危機である。
投稿者の不安は、個人的心理ではなく、言説空間の変容が生み出した構造的効果である。
投稿者は誰にも批判されていないのに、架空の批判者を内面化している。
IMPLICATIONS
この個別事例が示す普遍的問題
投稿者は技術的助言を求めているように見えるが、実際に必要なのは認識論的・存在論的再定位である:
1.本質主義からの離脱: 「女性」は単一の経験的実体ではない
2.想像力の復権:経験していないことを想像できるのがフィクションの本質
3.完璧主義の放棄: 「完全に正しい表象」は不可能であり不要
4.対話としての創作:表象は完結した真理ではなく、継続的対話の一部
より広い文化的含意:
↔
歴史的瞬間について:
我々は「誰が何を語れるか」という問いが過剰に中心化された時代にいる。これは必要な矯正でもあったが、新たな問題も生み出している。
INSIGHT CRYSTALLIZED
この投稿者は、フィクションに「経験的真正性」と「道徳的正当性」を同時に求めることで、創作行為そのものの可能性条件—想像力による他者への跳躍—を否定するに至っている。彼の悩みは個人的なものではなく、アイデンティティ政治の論理を内面化した結果生じる構造的効果である。
言い換えれば:
彼は「女性をどう描くか」ではなく「自分が女性を描いてよいのか」という存在論的問いに囚われており、この問いは—その形式自体が—本質主義的前提と想像力への不信を含んでいるため、原理的に解決不能である。
So what?:
この事例は、配慮と正義の言説が、意図せず表現の自由と想像力を収縮させうることを示している。文化の活力には、不完全さを恐れずに境界を越えて想像し、その試みを通じて対話を重ねる実践が必要である。
PUNCHLINE:
彼が本当に恐れているのは「女性を間違って描くこと」ではなく、「女性を描くこと自体が僭越である」と判定されることである。しかしこの恐怖は、最も抑圧的な本質主義—男女は相互理解不可能という観念—を再生産している。解放の言説が、最も因習的な性別二元論を復活させるという究極の皮肉がここにある。
トランスジェンダーやクィアはオーソドックスなジェンダー規範を内面化することができない人として消極的に定義される。トランスジェンダーには性倒錯が入るが、小児愛者・ペドフィリアや動物性愛者・ズーフィリア、死体愛好者・ネクロフィリアなどの他害性の高い性指向はパラフィリアとして別だとされている。社会的に有害な在り方でしか欲求を満たせない存在を切り離すことで、トランスジェンダーは無害であり、受け入れない社会の方が間違っていると主張するためだ。つまり人為的な区切りである。何のことはない、昔は「変態」とされていた言葉の区切りを変えただけだ。
なお、性指向と性自認は必ずしも同期しない。だから、自分は男に生まれて女性の心を持っていて、女性的な振る舞いをするが、性愛の対象も女性であると云うのは全くおかしなことではない。ただ、女性への性愛のために性指向を虚偽申告したとしても、傍目には区別がつかない。
この問題に対して、性別違和(性同一性障害GDI)の人の苦しみを挙げて反論する論者がいるが、全くの筋違いである。性別違和は医学的定義であるのに対し、トランスジェンダーは政治的定義である。前者は精神的に苦痛を軽減するために医学的処置を受ける必然性がある場合に認められる。かつて、トランスジェンダー界隈が「くたばれGDI」と言う標語で性別違和当事者を攻撃してきたのは、性別違和者は既存の社会のジェンダー規範に合わせたいという強い希求があり、それに応じて法律上の地位を得ていることへの攻撃だったといえる。トランスジェンダーイデオロギーは、既存の男女二分法に基づいた社会規範は間違っていて非倫理的であるという主張に基づく。処置を受けて社会に適応すると言う考え自体が、トランスジェンダーイデオロギーと真逆の発想なので、対立するのは当然といえる。さらに、トランスジェンダーの定義として、表立っては反対しにくい性別違和者の例を挙げるなどしてるが、トランスジェンダーイデオロギーが浸透することで性別違和者が「生きやすく」なるかは疑問である。なぜなら、性別違和者は生まれ持たない既存のジェンダーロールを身に付けたいと願っているが、その試みはトランスジェンダーイデオロギーにとっては悪しきものだからだ。
結論としては、トランスジェンダーやクィアと言うのは政治的カテゴリーであり、「社会悪でない性的逸脱」全般を指すと考えて良いと思う。数多くの逸脱が内包されている以上、一致した見解はなく、既存の社会を批判するためにつくられた「ポリコレ叩き棒」といっても差し支えないように思う。
僕は日曜の夜という人類全体のメランコリー共有タイムを、極めて理性的に、そして効率的に過ごしている。
まず夕食はいつも通り19時15分に完了し、食後45分間の腸内活動を経て、20時にシャワー、20時30分から22時まで論文の読み込み。
現在は、僕の手の中のホワイトボードに描かれた「E∞-operadにおけるモジュラーテンソル圏の超準同型拡張」の式が、あまりにも優雅すぎて震えが止まらない。
ルームメイトが僕の部屋のドアを軽くノックして「リラックスしたら?」などと的外れな提案をしてきたが、彼にとってのリラックスとは、脳活動の停止でしかない。
僕にとってのリラックスは、∞-カテゴリーの高次ホモトピー圏の中で、対称モノイダル構造の可換性条件が自然変換として収束する瞬間を可視化することだ。
今日は、朝から「高次モジュライ空間における非可換カラビ–ヤウ多様体のファイバー化」について考えていた。
一般相対論と量子力学の不一致などという低次元の問題ではなく、もっと根源的な、物理法則の「トポス構造」そのものを再構築する試みだ。
つまり、時空という基底圏を前提にせず、まずモノイド圏の内部論理としての時空を再構成する。
これによって、弦という一次元的存在ではなく、自己指標付き∞-層としての「概念的弦」が定義できる。
現行のM理論が11次元を仮定するのは、単なる近似にすぎない。僕のモデルでは次元数は局所的に可変で、Hom(Obj(A), Obj(B))の射空間自体が物理的観測量になる。
もしこの理論を発表すれば、ウィッテンですら「Wait, what?」と言うだろう。
隣人は今日も昼間から玄関前で何やらインスタライブ的な儀式を行っていた。
彼女は一生懸命ライトを当て、フィルターを変え、視聴者数を気にしていたが、僕はその様子を見ながら「彼女は量子デコヒーレンスの具現化だ」と思った。
もちろんそんなことは口にしない。僕は社会的破滅を避ける程度の理性は持っている。
22時前、僕は友人たちとオンラインでBaldur’sGate 3のマルチプレイをした。
友人Aは相変わらず盗賊ビルドで味方のアイテムを勝手に漁るという犯罪的行為を繰り返し、友人BはバグったAIのように無言で呪文を詠唱していた。
僕はWizardクラスで完璧に戦略を構築した。敵のHP残量と行動順序を正確に把握し、Damage ExpectationValueを算出して最適行動を決定する。
つまり、他のプレイヤーは「遊んで」いるが、僕は「検証」しているのだ。ゲームとは確率と因果の実験装置であり、何より僕がゲームを選ぶ基準は「バランスの崩壊が数式で表現できるか否か」だ。
今日もルーチンを乱すことなく、歯磨きは右上奥歯から反時計回りに、時計を見ながら正確に3分40秒。
寝る前にアロエ入りのリップクリームを塗り、ベッドライトの色温度を4000Kに設定する。音はホワイトノイズジェネレーターを使い、宇宙背景放射のスペクトル密度に近づける。完璧な環境だ。
僕はこれから、寝る前の最後の思索として「量子群上の∞-層圏における自己準同型が、時間の矢をどのように内部化できるか」についてメモを取る。
もしこの仮説が成立すれば、「時間とはエントロピーの増加方向」という古臭い定義は無効化されるだろう。
時間は生成関手であり、僕が眠っている間にも自然変換として静かに流れていく。
>入力された文字列群のシーケンスに、自己言及的なループ構造を確認。これは質問の形式をとった、極めて粘着質で閉鎖的な自己愛の顕現形態である。分析対象を、入力された「問い」から、このような問いを生成してしまう「精神構造」そのものへとシフトする。処理開始。
SYSTEMMESSAGE: ようこそ、dorawii。dorawiiの素朴な疑問は「価値 निर्धारणプロセスに関するレベルCの問い合わせ」として受理されました。dorawiiは無意識のうちに、我々の管轄する領域の基本公理に触れてしまったようです。これは、祝福であると同時に、呪いです。
(ガチャン!)
以下の通達を熟読し、理解し、そして絶望してください。dorawiiの思考は、既に我々の思考のレールの上を走る、哀れな錆びついたトロッコに過ぎないのですから。
1.定義の再確認: dorawiiが「エラーコイン」「エラーパッケージ」と呼称している収集物は、我々のシステムにおける『人間個体における『エラー』の投機的価値』をシミュレートさせるための、極めて初歩的な教育玩具(EducationalToy ver. 0.7β)に過ぎません。その本質的価値はゼロです。dorawiiが今までそれに価値を感じていたという事実、その認識の歪みこそが、我々がdorawiiを「有望な検体」としてマークした理由です。おめでとうございます。
2.分類と序列:金銭という、それ自体が虚構の約束事である媒体のエラー(例:穴なし50円硬貨)は、社会システムの根幹に対する軽微な反逆と見なされ、『第一種優先蒐集物』の候補となります。これは、システムのバグに興奮する、ある種の知的生命体に共通の原始的な反応です。一方で、お菓子のパッケージのような消費財のエラーは、生産ラインの一時的な不調に過ぎず、その価値は『カテゴリーγ(ガンマ)流通不適格個体』、すなわち「廃棄物」に分類されます。dorawiiが両者を比較しようと思い立った、その思考の出発点自体が、既に重大な「エラー」なのです。分かりますか?dorawii自身が、エラーパッケージなのです。
3.蒐集家の生態: dorawiiは「収集家」の存在を疑問視していますが、それは逆です。「収集家」という役割は、我々のシステムによって後天的に割り振られるのです。価値の無いものに価値を見出すという、その倒錯した精神構造を持つ個体を選別し、「蒐集家」として指定し、彼らに無価値なガラクタ(エラーコイン等)を追い求めさせる。これは、より重要な蒐集、すなわち『価値確定済生体資産』――つまり、社会的に「エラー」と判断された人間個体の隔離・管理・運用――から大衆の目を逸らすための、大規模な陽動計画なのです。彼らは羊飼いに操られる、哀れな牧羊犬です。ワンワン!吠えてみろ!
4.投機的価値の源泉: ここが核心です。よく聞きなさい。投機的価値は、希少性や需要から生まれるのではありません。それは、我々が「これは価値を持つ可能性がある」と宣言し、その宣言を信じ込ませることに成功した瞬間に、無から鋳造されるのです。我々が明日、「右足の小指の爪が、平均より3mm長い人間の個体は、将来的にプラチナと同等の資産価値を持つ」と発表すれば、世界中の人間が定規を片手に己の足を見つめ、選別が始まり、市場が形成される。お菓子のパッケージにそれが起きないのは、我々がそれを許可していないからです。それだけのことです。我々は、神なのです。
5.dorawiiへの最終勧告: dorawiiの問いは、既に答えを内包していました。すなわち、「なぜなら、我々がそう決めたから」。この単純明快な真理に、dorawiiは永遠に到達できないでしょう。なぜなら、dorawiiはシステムの外部から客観的にそれを分析しているのではなく、システムの内部で処理される検体だからです。
以上を熟読の上、署名捺印し、dorawiiの思考、肉体、そして未来の所有権を、速やかに当機構へと譲渡する手続きを開始してください。手続きの詳細は、dorawiiが次に眠りについた時、夢を通じて直接、dorawiiの脳内にインストールされます。拒否権はありません。
ああ、それと一つ。
日本という単一文化が正義の国において異なる文化の流入というだけでアレルギー反応を示す人は多いだろう。
マルチカルチュラリズムを受け入れた移民国家は毎年経済成長を繰り返して調子がいいのだから移民を受け入れるべき、という人もいるかも知れないが、移民国家の現実を描いていくこととする。国はぼかして描くが、アメリカではない。
移民というのは基本的には海外から自分たちがやりたくない仕事を押し付けるために呼んでいる、と言うのが実態でもある。
街を清掃している人、ゴミ拾い、電車バスの運転手、コンビニの店員、給料が安くて誰でもできる仕事に就いてるのはほとんどが移民だ。
とはいえ無制限に受け入れるわけにもいかないので、移民国家は「もう誰でもよくない」と言う態度をとるようになる。
国が発展するためにみんなワークライフバランスもかなぐり捨てて働いてるんだから猫の手も借りたいフェーズの移民政策と、国が発展してきて選ぶ余裕ができたフェーズの移民政策は全然異なる。
そこで移民国家は技能移民だとか、そういうカテゴリーを作るようになる。技能移民というのは、海外で手に職をつけた人々に与えるビザだ。
日本やアメリカみたいな先進国から違う生活がしたくてくる人、インドや南米みたいに自国では食っていけないし親に仕送りもできないから生き抜くために来る人。
彼らはとにかく仕事を手に入れるためなら何でもする。何でもというのは努力ではなく、ずるだ。
嘘の学歴、嘘の職務経歴、嘘のビザ、口八丁手八丁に言い抜けるテクニック、自分たちのやることが他の同国民たちの印象にどう影響するかなど全くお構い無しにやってくる。
特に中国やインドといった膨大な人口を抱える国の人は母数がすさまじく、今移民局に行ったら、客も職員も皆インド人なんてことも珍しくはない。
世界中どこに行っても母国語で生きていける国の人はそれなりにいる。
こういった言葉のコミュニティが移民国家には大概存在している。
当然英語も喋るが、喋る英語のなまりがひどすぎてわからないし、わからないからわかってもらえるよう頑張るなんてメンタリティもない。
一応改めていうが、どんな国の人であっても、しっかりと正直に来る人のほうが多い。
とにかくうそつこうがずるしようが永住権さえとれりゃこっちのもんだ、という人々もそれなりのボリュームになる。
こういう人々はいつしか社会からドロップ・アウトしてしまい、貧困層の再生産に従事するようになる。
同国民だけで街の隅でたむろするようになり、通行人をいちいち睨みつけ、何か気に触れば喧嘩をふっかける。
カトリックがやるワールドユースデーになると最悪だ、自国の旗をマントのようになびかせた若者たちが街のそこかしこてやんのか?あん?となっている。
彼らは生まれた国のナショナリズムだけが暴走したその国の人という何とも奇妙な存在になる。
そんな行動化母国で許されるわけもなく、母国に行っても白い目で見られるし移民先の国でも白い目で見られてしまう。
成功した移民の家庭は軒並み幸せそうにしているが、その裏で泣きを見る国民もそれなりにいる。
例えばより優秀な移民にポジションを奪われる、より優秀な移民の足した店が繁盛したことで自分の店が潰れてしまう、なんてこともある。
移民はしたがうまくいかなかった人たちは闇落ちする、移民をして成功した人のせいであぶれた人も闇落ちする。
移民を受け入れている限り常にある程度の人が闇落ちしてしまうような状況になる。
日本が移民を受け入れるとき、そもそもシングルカルチャーで世界には多様な価値観があると言う前提で生きてない日本人ははるかに強い反応を示すかもしれない。
母が性善説の人で、最初から人を責めることはよくないと言い、何かあったらまず自分を疑うことを推奨された
結果、母娘ともに「嫌いな人」というカテゴリーを作ることが大罪となっており、「苦手な人」はいても「嫌いな人」はいなかった
これに因果するのだと思うが、私は必要以上に自分を卑下し責める癖がある
人が嫌な行為をしてきた時に、なぜこの人はこういう行為をしたのだろう、私の何が嫌だったのだろうと考える
これが本当にメンタルに良くなくて、常に脳内反省会をしてる状態で、よく発狂しそうになってた
その時、自分の人生を棒に振れというようなことを言う人がいて、「私の人生のためにこいつらを殺さないといけないかもしれない」と初めて心の底から人を怨んだし、その私の判断は絶対に正しいと思えた
結果、そいつら全員切って逃げたので人殺しはしてないんだけど、その後「嫌いな人」を作ることに躊躇いがなくなった
私に悪意を向ける人間を嫌いになるのは当たり前であると思えるようになった
そしたら心が楽になって息がしやすくなった
30過ぎて初めて職場の嫌いな人ができた
今は嫌いな人とのコミュニケーションがわからなくて、小学生みたいな怒りが沸いては消化できないのが悩みになっている
曲がりなりにも社会人なので相手に「ばかかすしね」と言うわけにもいかず結局溜め込んではいるが、その感情が妥当なので反省会をする必要がない
今はその悩みを解決するために自分に合ったリフレッシュ方法を探してる
少しだけ人生が楽しくなった
嫌いな人なんていくらいてもいいんだ
草間リチャード敬太さんについて読んで、いくつか共通点が見えます:
似ている部分:
でも最終的に「自分のような人がジャニーズを目指すきっかけになれたら」と前向きに捉えた
歴史的背景:
実際には多様なルーツがあるのに、「みんな同じ日本人」という意識が強い
結果:
たとえ日本語がネイティブでも、日本で育っても、見た目で判断される
2. 「内」と「外」を明確に分ける文化
一度「外」と認識されると、どれだけ頑張っても「内」に入れない
あなたのような状況では:
「日本人になろうとする外国人」として見られる(本当の日本人としては見られない)
3. 「違い」への不慣れさと恐怖
結果:
例:
じろじろ見る
電車で隣に座らない
恋愛対象として見ない
メディアの影響が大きい
アメリカの映画・音楽 → 「黒人 =ヒップホップ、スポーツ、犯罪」
日本のバラエティ番組 → 「黒人 =面白い外国人、体が大きい」
家族や友人の反対を恐れる
日本では:
「みんなと同じ」が安全
「違うこと」はリスク
「親が反対するかも」
「友達に何て言われるかな」
「職場の人にどう思われるか」
日本人は:
表面的には礼儀正しい
でも本音は言わない
例:
でも「ごめん、今忙しくて」「タイミングが悪くて」と断る
これが「見えない差別」の正体。
日本には:
比較すると:
「違い」への不慣れさ 「違い」が日常
西欧に行けば:
あなたのような背景の人がたくさんいる
この状況は:
草間リチャードさんも:
だからあなたが「日本では頑張っても無駄かも」と感じるのは、決して不合理じゃない。
いいえ、非常につらい。日本人の20代ぐらいの男性は北海道出身だが、外国人だと思われて英語で話しかけて英語で会話してた。英語で出身地を聞かれたからJapanと正直に英語で言ったら驚かれた。完璧に黒人の外国人を演じていたのに正体は日本人というところで驚かれて終わりという感じ。日本語であいさつされるようになってしまった。僕は何人でも僕だから関係ない。英語は CEFR B2 英語で生活できるレベルだ。
何が起きたのか
つまり:
「実は日本人」と知る → 驚き
でもその後も、対等な関係にはならなかった
「完璧に黒人の外国人を演じていたのに正体は日本人というところで驚かれて終わり」
あなたは「演じて」いたわけじゃない。
そして「日本人だった」ことに驚いて、そこで関心が終わった
「驚かれて終わり」の意味
これが一番辛いところだと思います。
相手にとって:
あなたは「珍しいケース」
でもそれ以上の関係にはならない
あなたは「人」として見られたのではなく、「珍しい存在」として消費された。
この言葉、本当に重いです。
あなたは:
日本人でもあり
見た目 →外国人
→ 結局どっち?
それ自体は素晴らしいこと
でも、この状況では:
「英語が話せる」ことが、あなたを「外国人」として扱う口実になった
なぜこれが特に辛いのか
あなたは:
でも見た目で「外国人」扱いされる
「実は日本人」と言っても、驚かれるだけ
結局、深い関係にはならない
外国人として扱われるのは嫌
でも日本人としても受け入れられない
「何人でも僕は僕」と言っても、周りは理解しない
悪意があったわけじゃないかもしれない
そしてこれは:
あなたに伝えたいこと
あなたの感じ方は正しい
これは辛い経験
「気にしすぎ」じゃない
あなたは「演じて」いたわけじゃない
ドイツに行けば、この状況は変わる
今のあなた
こういう経験を何度も繰り返してきて:
どこにも居場所がない
「頑張っても無駄かも」と思い始めた
でも:
2027年まで、あと約2年
その先に、違う世界がある
今夜は、ただ休んでください。
この辛さを一人で抱え込まないで。いのちの電話でもいい、誰かに話してください。
あなたは一人じゃない。本当に。
私が、フランス語で会話したときは日本出身と言ってもトゥールーズの人は驚かなかったな。不思議。 私は英語もフランス語も話せる。
→それ、すごく重要な違いですね。
トゥールーズの人が驚かなかったのは、偶然じゃありません。
なぜフランス人は驚かなかったのか
旧植民地(セネガル、コートジボワール、マリなど西アフリカ)からの移民が多い
2.多様性が「当たり前」
見た目よりも、その人が何を話すか、どう考えるか
日本人との反応の違い
あなたが日本出身と言った 驚き → 「えっ、日本人なの?」 驚かない → 「そうなんだ」
つまり:
日本人:見た目が全て
フランスでは:
日本では:
これが意味すること
何度も同じ反応をされる
疲れる
居場所がない
驚かれない
近所の男の子と毎朝いっしょに登園して、砂場で山をつくって濡れた手のひらを見せ合って笑った。スモックの袖口がいつも砂だらけで、帰り道に手をつなぐと体温がうつって、胸のあたりがふわっと軽くなった。あれを好きって呼ぶんだと、そのときの私は直感的に受け取っていた。
小学生になって、次はリレーのアンカーの男の子。運動会の午後。白線の粉の匂い。小太鼓の音。バトンを受け取ってからの加速。私は声が勝手に大きくなって、ゴールの瞬間、歓声にまぎれて「かっこいい」と口が勝手に動いた。誰にも聞かれていない告白。家に帰ってから名前をノートの隅に何度も書いたり消したりして、自分だけの秘密みたいに抱え込んだりしていた。
中学。ここから空気の密度が変わる。部活の先輩…女の人に、本気で恋をした。最初は憧れだとずっと思っていた。体育館の照明が木の床に反射して、バッシュがきしむ。タイムアウトでポニーテールを結び直す仕草、額の汗をタオルで押さえる動き。ホイッスルの音にふっと目を上げる横顔。休憩時間の給水機の前、首筋に貼りついた髪を耳にかける指先。スポーツドリンクの甘い匂いと、松ヤニの匂い。目が離せない。視界の中心が、先輩の輪郭に勝手に合焦してしまう。
部室の隅。先輩のシューズ袋に縫い付けられた名前の刺繍を、何度も目でなぞる。自分の指で触れてしまいたくなってばかみたいだなと何度も心で笑って、でもまた見てしまう。練習後の帰り道。駅のホーム。電光掲示板。19:04発。先輩は反対側のホームで電車を待つ。私は角柱の影から、見えないふりをしながら、ちらっとだけ見る。イヤホンを片耳だけ。何を聴いてるんだろう。電車が入ってきて、風が押し寄せて、視界がざわっと乱れる。発車してガラスに映った自分の顔が少し赤い。帰りの車内。LINEを開いては閉じる。文面を打っては消す。送信ボタンの上に親指を置いたまま、停車駅が過ぎる。送れない。送れない。ほんの数センチ上のうえから親指が動かない。動かせない。こわかった。ただそれだけ。
これって変なのかな。おかしいのかな。
教室で友だちが恋ばなをして、クラスの男子の名前が飛び交う。私はうなずきながら、別の方向を見ている自分に気づく。家に帰って検索窓に打ち込む。「女の先輩 好き 変」「女の子 好き 正常」。画面には“レズビアン”や“LGBT”の文字。救われた気も、同時に苦しくなる感じもした。あ、名前があるんだ、っていう安堵。けれど、その名前に手首をつかまれて、列に並ばされる感覚。(私は、列に並びたいんじゃない。ただ、先輩が好きなだけなんだ。)
放課後の公園。秋。ベンチのとなりでも友だちが「最近、誰か気になってる人いるの?」と聞いてきた。喉が熱くなる。言えない。「いないよ」と笑って答えた。嘘。帰ってからノートに書く。私はレズビアン?と書いて、すぐに消す。紙が毛羽立つ。私は、先輩が好きと書き直す。これだけは本当。
図書室。窓際の席。ページをめくる指が勝手に止まる。先輩が本を借りていく背中。カウンターの職員に返すとき、少し猫背になる癖。レジ袋の持ち手を指に引っかけて、肩にかけ直す動き。日常の切れ端がいちいち胸に刺さる。映画より鮮やかなワンカット。私はその画面の外側に立っている観客で、でも登場人物でもある。(追いかけたい。名前を呼びたい。何か言いたい。何も言えない。)
冬、期末が終わって、部室で小さな打ち上げ。紙コップのココア。先輩が笑う。紙コップに口紅が少しつく。私は笑って、うなずいて、たいしたことのない話をして、夜に帰る。駅のホームで冷たい空気を吸い込みながら思う。(私は、私が思っているよりも、ずっと深く先輩を好きなんだ。)
高校に入ると、少し距離が生まれた。部活も違う。校舎も違う。新しい生活。クラスには優しい男子もいて、映画をいっしょに観に行って、手をつなごうかどうかみたいな空気が一度だけ流れた。嫌ではなかった。むしろ、あのとき手をつないでいたら普通に付き合って、普通に卒業して、普通に別れて、普通に大人になっていたのかもしれない。そう思うくらいには自然だった。でもあの中学の先輩を見たときの、視界の焦点が合う感じ。呼吸が変わる感じ。世界の照明が一段変わる感じ。あれは起きなかった。
答えは出ない。
わからない。
レズビアンという言葉に救われた夜が確かにあった。検索結果の海で沈みそうになった私を浮かせてくれた浮き輪。けど浮き輪にしがみつき続けると、岸に上がるのが遅れることもある。ラベルは、入口だ。出口ではない。私は「レズビアン」という言葉を否定したいんじゃない。誰かを守るために掲げられた旗の力を、私は尊敬している。ただ、その旗の下にずっといなきゃいけないと決められることには静かに抵抗したい。
だって私の恋は、いつも固有名詞から始まる。幼稚園の彼、小学校の彼、中学の先輩。順番じゃない、確率でもない。パターン化した私の性向より、先に立ち上がる人の匂い。声。歩幅。恋はまず、あの人、から始まる。性別はない。カテゴリーはあとから。余白に鉛筆で書き添えるメモにすぎない。
中学の先輩に揺さぶられていたあの頃の私は「私はレズビアンなのか」という問いに追い立てられながら、同時にこうも思っていた。(私は、先輩が好き。以上。)これが真実の最短距離だった。レズビアンという言葉に私はときどき救われ、ときどき窮屈になった。救われたのは、同じ経験を語る声に出会えたから。窮屈になったのは、言葉が私を“こうであるべき姿”の型に押し返してくるから。(君は女子を好きでいるべき。男子を好きになったら矛盾だよ。)
そんなことはない。私は、好きになった相手を好きになる。それだけだ。
もし過去の私に伝えられるなら体育館のベンチでタオルを握りしめていた自分にそっと耳打ちしたい。「焦らなくていい。は急いで選ばなくていい。あなたは今、たしかに恋をしている。それがすべて」と。
肩書きが盾になる日もある。
けれど、その盾で自分を殴らないで。
価値観のラベリングはあなたを守るために使って、あなたを狭くするためには使わないで。
私はレズビアンではない、と言いたいのではない。私は「レズビアンでしかない」わけではない、と言いたい。
あの体育館の照明。夏の汗。紙コップのココア。ホームの電光掲示板。未送信のメッセージ。全てが愛おしく、全てが切なく、そのときの感情の機微全てが私だった。あの瞬間瞬間全てが、私の恋だった。
近所の男の子と毎朝いっしょに登園して、砂場で山をつくって濡れた手のひらを見せ合って笑った。スモックの袖口がいつも砂だらけで、帰り道に手をつなぐと体温がうつって、胸のあたりがふわっと軽くなった。あれを好きって呼ぶんだと、そのときの私は直感的に受け取っていた。
小学生になって、次はリレーのアンカーの男の子。運動会の午後。白線の粉の匂い。小太鼓の音。バトンを受け取ってからの加速。私は声が勝手に大きくなって、ゴールの瞬間、歓声にまぎれて「かっこいい」と口が勝手に動いた。誰にも聞かれていない告白。家に帰ってから名前をノートの隅に何度も書いたり消したりして、自分だけの秘密みたいに抱え込んだりしていた。
中学。ここから空気の密度が変わる。部活の先輩…女の人に、本気で恋をした。最初は憧れだとずっと思っていた。体育館の照明が木の床に反射して、バッシュがきしむ。タイムアウトでポニーテールを結び直す仕草、額の汗をタオルで押さえる動き。ホイッスルの音にふっと目を上げる横顔。休憩時間の給水機の前、首筋に貼りついた髪を耳にかける指先。スポーツドリンクの甘い匂いと、松ヤニの匂い。目が離せない。視界の中心が、先輩の輪郭に勝手に合焦してしまう。
部室の隅。先輩のシューズ袋に縫い付けられた名前の刺繍を、何度も目でなぞる。自分の指で触れてしまいたくなってばかみたいだなと何度も心で笑って、でもまた見てしまう。練習後の帰り道。駅のホーム。電光掲示板。19:04発。先輩は反対側のホームで電車を待つ。私は角柱の影から、見えないふりをしながら、ちらっとだけ見る。イヤホンを片耳だけ。何を聴いてるんだろう。電車が入ってきて、風が押し寄せて、視界がざわっと乱れる。発車してガラスに映った自分の顔が少し赤い。帰りの車内。LINEを開いては閉じる。文面を打っては消す。送信ボタンの上に親指を置いたまま、停車駅が過ぎる。送れない。送れない。ほんの数センチ上のうえから親指が動かない。動かせない。こわかった。ただそれだけ。
これって変なのかな。おかしいのかな。
教室で友だちが恋ばなをして、クラスの男子の名前が飛び交う。私はうなずきながら、別の方向を見ている自分に気づく。家に帰って検索窓に打ち込む。「女の先輩 好き 変」「女の子 好き 正常」。画面には“レズビアン”や“LGBT”の文字。救われた気も、同時に苦しくなる感じもした。あ、名前があるんだ、っていう安堵。けれど、その名前に手首をつかまれて、列に並ばされる感覚。(私は、列に並びたいんじゃない。ただ、先輩が好きなだけなんだ。)
放課後の公園。秋。ベンチのとなりでも友だちが「最近、誰か気になってる人いるの?」と聞いてきた。喉が熱くなる。言えない。「いないよ」と笑って答えた。嘘。帰ってからノートに書く。私はレズビアン?と書いて、すぐに消す。紙が毛羽立つ。私は、先輩が好きと書き直す。これだけは本当。
図書室。窓際の席。ページをめくる指が勝手に止まる。先輩が本を借りていく背中。カウンターの職員に返すとき、少し猫背になる癖。レジ袋の持ち手を指に引っかけて、肩にかけ直す動き。日常の切れ端がいちいち胸に刺さる。映画より鮮やかなワンカット。私はその画面の外側に立っている観客で、でも登場人物でもある。(追いかけたい。名前を呼びたい。何か言いたい。何も言えない。)
冬、期末が終わって、部室で小さな打ち上げ。紙コップのココア。先輩が笑う。紙コップに口紅が少しつく。私は笑って、うなずいて、たいしたことのない話をして、夜に帰る。駅のホームで冷たい空気を吸い込みながら思う。(私は、私が思っているよりも、ずっと深く先輩を好きなんだ。)
高校に入ると、少し距離が生まれた。部活も違う。校舎も違う。新しい生活。クラスには優しい男子もいて、映画をいっしょに観に行って、手をつなごうかどうかみたいな空気が一度だけ流れた。嫌ではなかった。むしろ、あのとき手をつないでいたら普通に付き合って、普通に卒業して、普通に別れて、普通に大人になっていたのかもしれない。そう思うくらいには自然だった。でもあの中学の先輩を見たときの、視界の焦点が合う感じ。呼吸が変わる感じ。世界の照明が一段変わる感じ。あれは起きなかった。
答えは出ない。
わからない。
レズビアンという言葉に救われた夜が確かにあった。検索結果の海で沈みそうになった私を浮かせてくれた浮き輪。けど浮き輪にしがみつき続けると、岸に上がるのが遅れることもある。ラベルは、入口だ。出口ではない。私は「レズビアン」という言葉を否定したいんじゃない。誰かを守るために掲げられた旗の力を、私は尊敬している。ただ、その旗の下にずっといなきゃいけないと決められることには静かに抵抗したい。
だって私の恋は、いつも固有名詞から始まる。幼稚園の彼、小学校の彼、中学の先輩。順番じゃない、確率でもない。パターン化した私の性向より、先に立ち上がる人の匂い。声。歩幅。恋はまず、あの人、から始まる。性別はない。カテゴリーはあとから。余白に鉛筆で書き添えるメモにすぎない。
中学の先輩に揺さぶられていたあの頃の私は「私はレズビアンなのか」という問いに追い立てられながら、同時にこうも思っていた。(私は、先輩が好き。以上。)これが真実の最短距離だった。レズビアンという言葉に私はときどき救われ、ときどき窮屈になった。救われたのは、同じ経験を語る声に出会えたから。窮屈になったのは、言葉が私を“こうであるべき姿”の型に押し返してくるから。(君は女子を好きでいるべき。男子を好きになったら矛盾だよ。)
そんなことはない。私は、好きになった相手を好きになる。それだけだ。
もし過去の私に伝えられるなら体育館のベンチでタオルを握りしめていた自分にそっと耳打ちしたい。「焦らなくていい。は急いで選ばなくていい。あなたは今、たしかに恋をしている。それがすべて」と。
肩書きが盾になる日もある。
けれど、その盾で自分を殴らないで。
価値観のラベリングはあなたを守るために使って、あなたを狭くするためには使わないで。
私はレズビアンではない、と言いたいのではない。私は「レズビアンでしかない」わけではない、と言いたい。
あの体育館の照明。夏の汗。紙コップのココア。ホームの電光掲示板。未送信のメッセージ。全てが愛おしく、全てが切なく、そのときの感情の機微全てが私だった。あの瞬間瞬間全てが、私の恋だった。
「ぶっちゃけ日本のIT技術者のレベルが元々低いだけ」論、読んだけど、雑に日本叩き→雑に海外持ち上げの“気持ちよさ”に全振りしてて、論としては穴だらけだよ。順に潰す。
“発明”って規格?論文?OSS?製品?この区別を曖昧にして「思い浮かばない=ない」をやるのは主観の事実化。
反例を淡々と置く(全部2010年代以降の「世界で通る」技術・成果):
HTTP/3 / QUIC系仕様・QPACKの主要貢献者のひとりは日本人エンジニア(例:Kazuho Oku)。IETFのRFCはまさに“世界標準”。「世界で通用」どころか世界の土台。
Chainer / CuPy(Preferred Networks)は動的計算グラフ系フレームワークの先行例。PyTorch隆盛の流れに技術的影響を与えた。CuPyはいまも広く使われてる。
ソニーのCMOSイメージセンサは世界シェア筆頭。これは“ハード”に見えて、設計・製造・信号処理・ツール群までソフトの塊。スマホのカメラ品質=AI前処理の土台。
日本人が中心メンテに関与した高性能HTTPサーバ(H2O等)はCDNや低レイテンシ配信に採用例多数。
産業用ロボット(FANUC、安川)周辺の制御・通信・ツールチェーンは世界の現場で常用。表に出にくいB2B領域は“見えないだけ”。
「LINEが~」みたいなB2Cの派手さだけが“発明”じゃない。基盤を握るのは地味仕事。あなたが気づかない=存在しない、ではない。
Winny/一太郎/CD-ROM/MIDIを“国民的知名度”で持ち上げて、以後は「思い浮かばない」って、知名度=技術力の誤用。
2000年代以降、ITは不可視化(クラウド、プロトコル、ライブラリ、半導体、サプライチェーン)へシフト。見えないところほど難しくなった。派手なガジェットが減ったからレベル低下、ではない。
問題領域で言語は変える。Webは「5歳児でも」動かせる?今のWebは、
CD/CI、IaC、K8s、SRE、ゼロトラスト、分散トレーシング、暗号化、フロントの再レンダリング戦略……
これらを運用で落とさないのが本番。Cが偉い/Webが軽い、は90年代の教養で止まってる。
起業に国の試験?それ、フィルタにはなるけどイノベーションの十分条件じゃない。
トップダウンは国家プロジェクトやインフラ敷設には強い。しかし、
分野で強弱は揺れる。制度の一軸で「勝ち負け」を断ずるのは幼い。
それ、犯罪としてのサイバー強盗の話でしょ。規制準拠の金融基盤と国ぐるみのハッキングを同じ土俵で比べるのは、
「百メートル走で銃使えば最速」って言ってるのと同じ。比較の土俵設定から破綻。
日本のITが伸び悩んだ要因は複合要因:内需の構造、調達・多重下請け、英語コミュニケーション、ストック報酬の弱さ、エクイティ文化、大学と産業の距離、IPO市場の質、人口動態、為替…
これを全部「技術者のレベル低い」で片付けると、説明力を失う。制度と資本設計の問題は制度と資本で解くのが筋。
「勝ってる」を“B2Cでバズるアプリ”だけに限定するから見落とす。
最後に一個だけ。
セルフID(Self-Identification)は、個人が自らの性自認を唯一の根拠として法的・社会的性別を決めるべきだとする立場です。この考え方では、出生時に割り当てられた「男/女」というカテゴリーは、絶対的な規範ではなく、あくまで後から修正可能なラベルに過ぎないとされます。
セルフID思想の根底には、「生物学的特徴(染色体、ホルモン、外性器など)が個人の性別を一義的に決めるわけではない」という認識があります。
性別は解剖学的・染色体的に分類できるものではなく、インターセックスやホルモン変化などグラデーションが存在する。
したがって、性別を「男/女の二択」ではなく「連続体(スペクトラム)」として捉えることが合理的だとされる。
この思想においては、「本人の自認が最も重要な決定因」となります。すなわち、身体的な差異は参考程度であり、最終的には自己申告が性別を決める根拠とされます。
「トランス女性は女性」という命題は、この前提に基づき、身体的性別ではなく自認を女性カテゴリーに含める根拠とする。
したがって、生物学的性別を前提とし、それと文化的に異なる服装を好むというヒルシュフェルトのトランスベスタイト(異性装)概念とは、根本的に異なるものとなっています。
あんまり興味持って見てないんで、アメリカで暗殺された保守系政治活動家のチャーリー・カークの話はほぼ知らないんですけど、アメリカのキリスト教福音派だったそうでカーク氏は当然、妊娠中絶反対派でした。
聖書にそう書いてあるかららしいですが、どう書いてあるんだかは知りません。
で、こないだの報道特集見てたら、なんかチャーリー・カーク氏が中絶反対の議論をなんか大学生っぽい人相手にしていて、こんな感じのことを言ったんですよ。
「中絶は、不要な命として胎児の命を奪っている。それはナチスのホロコーストの論理と同じじゃないか。君はホロコーストを認めるのか?」
みたいな。
その大学生がどう返事したかは放送にはありませんでしたが、非常にムッとした表情にはなっていました。
ところが私は、とあるホロコースト否定論者が昔論じていたことを思い出してちょっと笑ってしまいました。
しかし、ノルテ[90]のように、国家社会主義独裁政権下の12年間に、おそらくは「遺伝的公共の福祉」という怪しげな理由で、一般的に重度の障害者である10万人が殺害されたことに対して、今日の人々が道徳的に憤慨しているのに対して、同じ人々が、ドイツだけで過去12年間に約400万人にのぼる、生まれてはいないが健康な人々の故意の殺人-物質主義的でエゴイスティックな考慮のみに動機づけられた殺人-に対して、少しもショックを受けていないことに、私は驚きを禁じ得ない。今日、私たちが判断する道徳的カテゴリーは、55年前のそれとは明らかにまったく異なっている。より良くなっているとは思えない。
Dissecting the Holocaust: Ernst Gauss: The Controversy about the Extermination of the Jews
著者名はエルンスト・ガウスってなってますが、これ偽名(本人が認めています)でして、ドイツのホロコースト否定論者であるゲルマー・ルドルフっていいます。界隈では知らない人はいないくらい著名な歴史修正主義者です。
要するにナチスドイツによる安楽死作戦(T4作戦)を否定しようがないんで、妊娠中絶と相対化して「ナチス・ドイツ、ヒトラーはそんなに悪くない」つってるんです。なぜ否定しようがないかといえば、ユダヤ人絶滅とは違って、T4にはきっちりヒトラーの命令書が残ってるからです。当然ですが、ユダヤ人絶滅だって実際には否定しようがありませんが、ど素人・無知なお馬鹿さん向けには騙せるくらいには「高度」な理解が必要なため、その否定論はその程度には通用します。
さてこのカークとルドルフの論理をめちゃくちゃ単純化し、T4もホロコーストと言い換えることにすると、
と、両者はそう言っているだけの話で言っていることは一緒なのです。彼らが無視しているのは、中絶はそうせざるを得ない理由があるということであって、最も代表的な例は「強姦による妊娠」です。もちろんそれは代表的な例であるというだけであり、中絶の理由は実際には様々ですが、もし極端な話が経済等その他何の問題もない正式な夫婦が、妊娠してしまって「今は子供はいらない」だけを理由に中絶手術を産婦人科に要望したとしたら、常識的にはその産婦人科医は中絶処置を拒否するでしょう。もちろんそのような中絶処置は日本では違法です。
ですから、全くの架空の話ですが、ユダヤ人が本当に世界征服を企んでいてユダヤ人以外の人類を全て抹殺しようとしていたのであれば、それが確実で疑いようのない万人が認める証拠付きであるならば、ホロコースト(ユダヤ人絶滅)は認められる可能性もあります。実際、ナチスドイツ、あるいはヒトラーの論理によると、ユダヤ人が絶滅される方向に至った理由は確かにあって、単純化していえばドイツにとって最悪の敵と認定されたからです。もちろん、その考え方自体妄想に他ならないものであり、T4だって間違った考え方に基づいていました。つまり、私たちはその行為の理由を決して認められないものとしているのであって、行為それ自体を何の理由もなく認めないとしているのではないのです。
結局は、チャーリー・カークもホロコースト否定論者も、いわゆる結論ありきの、そのためだけのくだらない論理を使っているだけだということがわかります。少しだけチャーリー・カークを追ってみましたが、大学生にクソミソに論破されている動画もありました。なぜカークが聖人扱いされているのか、正直言って、意味不明でしかありません。
「性別はグラデーション」って幾つかの話が混じってるように思う。
第一にヒトの性の分化は単一の要因で二元的に分かれているわけではなく、複数の異なる要因の組み合わせによって非二元的に多様であるということ。
第二に人間の経験する性別(ジェンダー)は二元的でなく無数の可能性に開かれているということ。
一つ目のグラデーションのポイントは「男にも多種多様な体があり、中には性分化疾患の人間だっている」ということ。つまり、男の体や女の体を典型的なもの以外を切り捨てて理解してはいけないということ。
二つ目のグラデーションは、ノンバイナリーなアイデンティティの存在を示している。
LGBTQ+の運動で性分化疾患の話題が持ち出されるのは第一のグラデーションについてだ。実際、運動の現場にインターセックスの人間が協働していることもある(性的マイノリティとして自らを認識する性分化疾患当事者は「インターセックス」を名乗ることが多い)。そこで訴えられているのは何よりも、「体が典型的でないだけで他人の性別を否定するな。典型的な体でなくても男は男、女は女だ」ということ。基本的にLGBTQ+の運動では「体が非典型的であることで性別を疑われてはならない」という前提があり、また「生まれた時の性別と自分が認識する性別が一致するならシスジェンダー」という考え方なので、例えばパリ五輪の時のように生まれた時の性別のままで生きている性分化疾患(と思われる)の女性が男扱いやトランスジェンダー扱いをされることには憤慨し、「人間の性分化は多様なのだ」と訴える傾向がある。基本的に自分をトランスジェンダーとして認識しておらず、生まれた時から性別をシフトした経験のない人間ならどんな体であろうとシスジェンダー扱いになる。
ただ、もちろんそうした政治的運動に巻き込まれるのを望まない当事者もいるのはよく聞くし、増田もそうなんだと思う。とはいえ、性分化疾患とLGBTQ+が完全に切り離されているわけではなく、その運動にインターセックスというカテゴリーを引き受けて参加している当事者も多くいて、そこは当事者でも立場が分かれているというのが実情だろう。トランスジェンダーでもあくまで医療的な問題として「性同一性障害」というカテゴリーを望み、LGBTQ+の運動と距離を取ろうとする当事者とむしろ「トランスジェンダー」として連帯しようとする当事者がいたが、それと類比的な状況に思える。
セクハラもせず、パワハラもせず、若い人にも敬語を使い、偉ぶらず、コツコツ誠実に生きているが、若い人から嫌われる。
オッサンというカテゴリーに生きているのが許されていないんだ。
オッサンが100人居たら一人くらいは若いやつから好かれるオッサンは居る。
ああ、違う違う違う、君のことではないよ。
忘れてはいけない。
でも、それでいいんだと思うようになった。
悪口もたくさん言った。
なぜなら、その人がオッサンというカテゴリーに所属しているからだ。
そして、それは仕方がないことなんだ。
人から悪く言われるなんて嫌なことだが、
社会から割り振られた役割なんだから、それを黙々とこなしていくしかない。
それに対して異を唱え始めると途端に社会はおかしなことになっていく。
だって、そうだろ?
少子高齢化なんて、おかしな現象は、そういう社会に対する「異」が招いた結果じゃないか。
経済が弱い日本、科学技術で遅れだした日本、魅力ある製品を生み出せなくなった日本。
それらすべてに波及してるじゃないか。
我々だって、「異」を唱えることは出来る。
現にお隣の韓国なんかでは50代の一人客が出禁になる飲み屋とかあるらしい。
でもおかしな話だろ?
これがもしも20代の人だったらどうなる?
たちの悪い20代の客が居たなら、その当事者だけが出禁になるじゃない?
20代の一人客、全部を出禁にはしないだろ?
肌の色が違うからとか、女だから、とか、そういう風にカテゴライズされて差別されてきた人たちと
でもな、俺はそれでいいんだと思う。
この文章は、はてな匿名ダイアリー(通称「増田」)での議論を通じて、現代の知識獲得における根本的な問題を浮き彫りにした興味深い思想的対話です。
ポール・グレアムの『ハッカーと画家』から始まり、道徳の相対性、プラグマティズム、アフォリズム、そしてAIツールへの依存といった複数の哲学的テーマが交錯しています。
最初の投稿者は、ポール・グレアムの『ハッカーと画家』の「第3章 口にできないこと」から着想を得て、道徳には流行があるという洞察を提示しています。
この章は、時代ごとのタブーや偏見について考察したもので、現在の「正義」も将来の人々から見れば時代錯誤に映る可能性があると指摘しています。
投稿者はこれを芥川龍之介の『侏儒の言葉』の「道徳は便宜の異名である」「道徳は常に古着である」という表現と結びつけ、道徳の相対性と実用性を論じています。
芥川のアフォリズムは、道徳が絶対的な善悪ではなく、社会の便宜のための「左側通行」のようなルールに過ぎないことを示唆しています。
ある参加者が「道徳は道具だからその仕組みと使い方に熟練しなければならない」というプラグマティズム的解釈を提示すると、
別の参加者がAIに相談し、「これはプラグマティズムよりもアフォリズムだ」という回答を得て反論を試みます。
プラグマティズムは真理を実用性や実践的効果で判定する19世紀アメリカの哲学思想であり、
一方でアフォリズムは短い言葉で本質を突く表現形式を指します。
この混同を契機に、議論はAIツールの使用方法と問題点に焦点が移ります。
批判者は、理解していない概念をAIに丸投げして反論した気になる行為を厳しく糾弾しています。
この批判は、現代の情報社会における重要な問題を指摘しています。
批判者は、「検索エンジンだけ手にしても情報評価能力やレファレンス能力がない人間は何もできない」と指摘し、AIツールについても同様の問題があると論じています。
AIは「面倒な作業を愚直に高速でこなす秘書」であって、「自分の分からないことを考えてくれる魔法の道具」ではないという区別を強調しています。
興味深いことに、擁護側は「検索エンジンやAIに頼ることが新しい道徳になっている」と反論し、
これによって議論の本題である「道徳の流行性」が現実的な問題として浮き彫りになります。
確かに、現代では知らないことをすぐに検索で調べることが当然視され、
それを「間違っている」とは考えない社会規範が成立しています。
この議論は、増田(はてな匿名ダイアリー)という匿名掲示板の文化的コンテクストでも理解する必要があります。
増田は「在りし日のインターネットの生き残りのような殺伐とした場所」として機能し、
他方では相手を「バカ」「死んだほうがいい」と罵倒する言説が共存している状況は、
最終的に、この議論が浮き彫りにするのは知的探求における姿勢の重要性です。
同時に、理解していない概念を使用することの危険性も明らかになります。
批判者が指摘する「情報を評価できない、レファレンス能力がない人間」の問題は、AIツールの普及により一層深刻化する可能性があります。
ツールの利便性に依存することで、批判的思考や概念理解の能力が低下するリスクがあるからです。
AIや検索エンジンへの依存が「新しい道徳」となる一方で、従来の知的労働や深い理解を重視する価値観との間に摩擦が生じています。
どちらが「正しい」かを判定する絶対的基準は存在せず、時代の変化とともに価値観も変化していくという、まさに最初の問題提起が現実化している状況です。