
はてなキーワード:カタカナ表記とは
chatGPTくんと考えた政策だよ!
【基本理念】
国家は「安全・制度・インフラ」だけを整え、国民の自立と自由を支えるべき
制度はシンプルかつ明確に。曖昧さと過剰な支援を排除し、責任ある自由を育てる
所得税控除は「本人+扶養者1人あたり100万円(物価スライド)」で統一
年金制度を廃止し、老後の保障は「基礎生活扶助制度」に一本化する
給付制度は原則廃止 →現物支給・税控除、最終的には扶助制度で対応
医療費は「生活保護:1割」「その他:一律3割」、高額療養費制度は維持
介護はAI・ロボットの導入を義務化。NPO支援は成果主義で整理
3段階構成:
「生活保護」という呼称を改め、“自立と責任ある自由”を支える制度へ
iDeCo/NISAは恒久化、日本株・ETF限定にし、資産形成と国内経済活性を両立
空き家は接道等の条件を問わず無償で自治体が引き受ける制度を導入
首都機能の地方分散、メディアキー局制度を廃止して情報の多極化を実現
外国人の通名はカタカナ表記限定とし、行政・報道等の文書では本名との併記を義務化
帰化には「長期居住」「日本語能力」「法制度理解」「納税・公共活動歴」など多面的な審査を導入
帰化一世は「段階的統合市民」として位置づけ、次の制限を設ける:
責任ある市民社会参加を前提とし、法の下の平等と社会的統合の調和を図る
有罪判決を受けた外国人は、原則として退去措置とし、重大な犯罪者については再入国制限・国際的な監視対象登録を行う
起訴・不起訴に関わらず、違反歴や治安リスクの蓄積に基づき、在留資格の再審査が可能となる制度を検討
国民との公平な取り扱いを実現し、治安維持と制度の信頼性を両立する
特別永住資格は、歴史的経緯を踏まえて導入された制度であり、一定の配慮は行いつつも、
今後新たに出生する外国籍の子どもについては、原則として一般の在留資格に基づく審査に一本化する方針とする
また、現行の特別永住者についても、将来的には段階的に制度の一元化・公平化を目指す
実刑判決を受けた永住者に対しては、資格の見直しや退去措置も選択肢として制度化を進める
防災は国家直轄インフラ+AI避難指示+公共システムの一元管理
グリーン投資・炭素税は市場ベースで設計、補助金に依存しない環境政策へ
最終理念:
You:
コピー機について質問します。コピー機がコピーできるのはどのような仕組みによりますか。読み取り、トナーの吹き付け、それぞれを中学生のレベルで回答してください。
ChatGPT:
コピー機がコピーできる仕組みは、いくつかの段階を経て行われます。簡単に言うと、読み取り、トナーの吹き付け、そして熱で定着させるというプロセスです。それぞれを詳しく説明しますね。
1. 読み取り(スキャン)
コピー機にはスキャナーがあり、これで元の文書を読み取ります。文書の上に置くと、スキャナーが中の光を使って、白と黒、または色の違いを読み取ります。これは、光を当てて、反射してきた光の強さを測ることで、紙に書かれている内容(文字や図形など)をデジタル信号に変換しているんです。
2. トナーの吹き付け
次に、コピー機の内部でトナーと呼ばれる粉が使われます。このトナーは、紙に文字や図形を印刷するためのインクのようなものです。コピー機の内部には感光体ドラム(写真のようなもの)があり、これがデジタル信号を受け取って、電気的に静電気を使ってトナーを吸い寄せます。
このドラムが、最初にスキャンしたデータを基に、元の文書の形に合わせて静電気を使ってトナーの粉を「くっつける」んです。
3. 定着(熱で押さえる)
最後に、トナーが紙にくっついた状態では、まだ完全に印刷された状態にはなっていません。そこで、コピー機は高温のローラーを使って、そのトナーを紙に定着させます。このローラーが熱を加えることで、トナーの粉が溶けて紙にしっかりとくっつくんです。
このようにして、コピー機は元の文書をコピーします。簡単に言うと、光で情報を読み取って、静電気とトナーで印刷して、熱でそれを定着させるという仕組みです。
You:
コピー機の印刷には静電気が役立っていて、紙にトナーを付けた後に、トナーが取れないように熱でしっかり紙に付ける、とのことですか。
ChatGPT:
はい、その通りです!印刷の仕組みは、静電気と熱が重要な役割を果たしています。
まず、静電気を使ってトナーを紙に「吸い寄せる」ことで、文書の内容が紙に転写されます。静電気によって、感光体ドラムにトナーがくっつき、それが紙に転写される仕組みです。
その後、トナーはまだ紙にしっかり固定されていないので、熱を加えることでトナーを溶かし、紙にしっかりと定着させます。熱でトナーが溶けて、紙にしっかりくっつくため、コピーが完成します。この工程がないと、トナーが紙から簡単に取れてしまうことがあります。
ですので、静電気でトナーを紙に転写し、熱でそれをしっかり定着させるという流れが、コピー機やプリンターでの印刷の基本的な仕組みです。
You:
カタカナについて質問します。「ヴ」というカタカナが使われるようになった経緯を教えてください。
ChatGPT:
「ヴ」というカタカナが使われるようになった経緯については、主に外国語の音を表現するための必要性から始まりました。
もともと、カタカナは日本語の音を表記するために使われていましたが、19世紀後半、特に西洋からの外来語(特に英語)を表記する際に、日本語にはない音をどう表現するかが問題となりました。英語などの外国語には「v」の音があり、これを日本語のカタカナに表す場合、従来は「ブ」(「b」の音)で代用されることが一般的でした。
しかし、外国語の音により忠実な表現が求められるようになり、「v」の音を正確に表すために「ヴ」という表記が考案されました。
2. 「ヴ」の登場
「ヴ」のカタカナは、明治時代末期から大正時代にかけて、特に外国語に対応するために使われるようになったとされています。その発端としては、1890年代に英語やその他の言語の音を正確に表記するための日本語のカタカナの改訂がありました。
その後、特に英語における「v」の音を表記するため、「ヴ」は20世紀に入ってから正式に使用されるようになり、特に外来語をカタカナで表記する際に広まりました。例えば、「ヴァイオリン」(violin)や「ヴェルサイユ」(Versailles)などがその例です。
4.現在
現在では、「ヴ」の使用は主に外来語や外国の名前などで見られます。正式な日本語辞書やメディアでも使用されるようになっていますが、まだ一般的には「ブ」と使われることもあり、特に日本語を学ぶ際には混乱することもあります。
このように、カタカナ「ヴ」は、日本語にない音を表現するために生まれ、主に外来語を正確に表記するために使われています。
You:
近代日本の西洋化で、福沢諭吉が「ヴ」を使い始めたようです。その後、森鴎外は『ヰタ・セクスアリス』のタイトル表記で小説を発表しました。
ChatGPT:
「ヴ」のカタカナ表記の生まれた経緯について、以下のようにまとめることができます。
近代日本の西洋化が進む中で、特に明治時代には欧米諸国からの文化や技術が急速に流入しました。それに伴い、英語やフランス語、ドイツ語などの外来語が日本に取り入れられ、これらの言語の音を日本語のカタカナで表現する必要が生じました。特に、「v」の音を表現する手段として、「ヴ」が考案されるようになったのです。
福沢諭吉は、日本の近代化に大きな影響を与えた思想家であり、教育者でもありました。彼は、外国語を日本語で表現する際に「ヴ」を使い始めたことで知られています。具体的には、英語やフランス語からの外来語を正確に表記するために、「ヴ」を使用する必要性を感じ、その表記法を採用しました。
福沢諭吉の影響を受け、次第に他の知識人や翻訳家たちもこの表記を採用し、広まりました。彼の使用によって「ヴ」の表記が一定の権威を持つようになったと言えるでしょう。
その後、森鴎外も「v」の表記を積極的に使用しました。特に、彼の小説『ヰタ・セクスアリス』(1909年)のタイトルに見られるように、「ヰ」は、外国語の音を表現するために使われました。この作品は、西洋文化への関心と、それに伴う西洋の価値観や考え方を日本語で表現する試みとして注目されました。
『ヰタ・セクスアリス』における「ヰ」の使用は、外来語の音をより忠実にカタカナで再現するための試みの一環であり、森鴎外自身が西洋の文化や哲学に精通していたことが影響していると考えられます。この小説のタイトルは、「v」の音を表すために「ヰ」を使った、重要な文化的な象徴となったのです。
4. まとめ
近代日本の西洋化が進む中で、外来語を表記するためにカタカナの表記法が進化。
福沢諭吉が「ヴ」を用いて、英語やフランス語の「v」の音を正確に表現し始めた。
森鴎外が『ヰタ・セクスアリス』のタイトルに「ヰ」を使うことで、この表記が文学的にも定着。
「ヴ」の表記は、外来語や西洋の音を正確に表現するための手段として、徐々に広まりました。
このように、「ヴ」のカタカナ表記は、近代日本の西洋化とともに発展し、特に福沢諭吉や森鴎外といった文化的影響力のある人物によって広められました。
You:
福沢諭吉がフランス語の「v」音を日本語で表記するために「ヴ」の表記を生み出した。続いて森鴎外らもそれまで日本語で使われなかった音を、日本語の文脈で使うために「ヰタ」(vita)など、西洋語の音の表記に気を配ったということですか。
ChatGPT:
はい、その通りです。
福沢諭吉は、特にフランス語などの外来語を日本語で表記する際に、「v」の音を正確に表現する必要性を感じ、「ヴ」というカタカナ表記を生み出しました。フランス語や英語には日本語にはない音が多く、特に「v」の音をどう表現するかが課題でした。福沢はこの音を日本語に取り入れるために「ヴ」を使い始め、これが広まりました。
その後、森鴎外などの文学者たちも、同様に西洋の言語(特にラテン語、フランス語、ドイツ語)からの外来語やその発音を日本語で表現するために「ヴ」を積極的に使用しました。例えば、森鴎外が『ヰタ・セクスアリス』(vita sexualis)というタイトルに使ったように、「ヴ」や「ヰ」を使うことで、外国語の発音に近い表記を実現しようとしました。
これにより、これまで日本語にはなかった音が表記として定着し、日本語に西洋の音を導入するための重要なステップとなりました。「ヴ」は、まさにこのような文脈で生まれた、外国語の音を日本語で表現するための工夫の一つと言えます。
要するに、福沢諭吉や森鴎外らは、西洋の音を日本語に合わせるためにカタカナ表記に注意を払い、日本語文脈で西洋語の音を表現するための革新的な取り組みを行ったということです。
You:
余談です。森鴎外は自らの子供にヨーロッパ風の名前を付けました。
杏奴(次女)…アンヌ
不律(二男)…フリッツ
類(三男)…ルイ
ChatGPT:
森鴎外が自らの子供たちにヨーロッパ風の名前を付けたことは、彼の西洋文化への深い関心や影響を感じさせるエピソードですね。特に、彼の時代背景や西洋化が進む中で、子供たちにフランス語やドイツ語など、ヨーロッパの名前を付けたことは、彼の思想や文化的な意識を反映していると言えるでしょう。
於菟(オットー):ドイツ語の「Otto」に由来しており、ドイツの伝統的な名前です。オットーは、ドイツ語圏ではよく見られる名前で、強い意味を持つ名前でもあります。
茉莉(マリー):フランス語の「Marie」に由来しており、フランス語圏で非常に一般的な女性の名前です。マリーは西洋文学や王族に多く見られる名前でもあります。
杏奴(アンヌ):これもフランス語の「Anne」に由来しており、フランス語圏の女性名です。シンプルで優雅な響きが特徴的です。
不律(フリッツ):ドイツ語の「Fritz」に由来しており、ドイツ語圏で親しみやすく使われる男性名です。日本では珍しい名前ですが、ドイツではよく使われる名前の一つです。
類(ルイ):フランス語の「Louis」に由来しており、フランス王族に多く見られる名前です。ルイは西洋の王族名として非常に有名で、歴史的にも多くのルイ王が存在します。
これらの名前を子供たちに付けたことは、森鴎外が西洋文化に対して敬意を持ち、また自らがその文化の中に身を置こうとしていたことを示しています。ヨーロッパ風の名前をつけることによって、彼は自分の家族にも西洋文化を象徴的に取り入れ、近代化の一環として日本の伝統と西洋文化の融合を目指していたのかもしれません。
You:
西洋語の「v」「w」の音を日本語の文脈で使用するため、近代になり「ヴ」が生まれた。一般的に日本語文章で外国語、外来語を表記する場合にカタカナを用います。したがって、カタカナの「ヴ」はあっても、ひらがなの「う゛」が使われないと考えます。
ChatGPT:
はい、正確です。「ヴ」はカタカナにおいて使用され、ひらがなでは「う゛」は使われません。
日本語では、外国語や外来語を表記する際にカタカナを使用します。カタカナは、もともと外来語を取り入れるために発展した文字体系であり、特に西洋の言語の音を日本語に適応させるために用いられます。「ヴ」はその一例で、「v」の音を正確に表記するためにカタカナの一部として導入されました。
一方で、ひらがなには「う゛」という形は存在せず、「゛(濁点)」はカタカナの中で使用されるものです。ひらがなでの濁音(「が」「ざ」「だ」「ば」など)は、通常、「う」や他のひらがなに直接濁点を付けて表記されますが、「う゛」という形は基本的に使われません。
ひらがなの役割:ひらがなは、主に日本語の語尾や助詞、助動詞、または和語(純粋な日本語)の表記に使われます。外来語や外国語を表すのはカタカナの役割であり、「ヴ」のような表記はカタカナで行われます。
日本語の音体系:日本語の音韻体系には「v」の音が存在しないため、外来語を日本語に適応させるためにカタカナがその役割を果たします。ひらがなは、古来の日本語の音の表現に基づいており、外国語の音を表記するために無理にひらがなを使うことはありません。
したがって、「ヴ」はあくまでカタカナで使われる表記であり、ひらがなでは「う゛」は使われません。外来語を表す際には、カタカナを使うことが一般的であり、「ヴ」のような表記はその一部として定着しています。
・カイゼン活動 → 上のトラバにもあるけど、トヨタがワールドワイドに広めたからね、KAIZENを。輸出して再輸入したことを示しているね。
・政治とカネの問題 →カネの方が読みやすい? ……のは、goldとmoneyが見分けがつかないから。キンじゃなくてカネとつたえたいならおをつければいいとおもうかな。「お金の問題」というと、「ちゃんと使いたいのに足りない家計、身近な問題」の感じがするけど「カネの問題」とかくと政治家=金持ちがカネを粗末につかってそう、上の方で遠い問題、という意図が伝わる。
・罠/ワナ→なんかカタカナ表記が多い気がする。 ……のは、常用漢字に罠という字がないから。
・ガクチカ →「学生時代に力を入れたこと」はそのままだと「学力」になるから。
・ハレとケ →漢字だと読めない。霽れと褻。 →昭和だと「晴れ」と褻で普通に習ったけどそれでも確かにケは猥褻のセツでもあるから誤読を誘う。
立法府の補助をして法案作成に携わる官僚のトる(図る)、ケイる(計る)、ソクる(測る)、シる(諮る)のつかいわけもおもしろいよ。
「バゲット」と聞いて、多くの人がフランスの細長いパンを思い浮かべるでしょう。しかし、日本ではこの「バゲット」を「バケット」と誤って呼ぶ現象が散見されます。一見些細な間違いに見えますが、言葉は文化を伝える重要な道具です。この誤用が広まることは、フランス文化への理解を浅薄なものにし、日本語自体の美しさも損なうことになりかねません。
「バゲット」はフランス語で「棒」や「杖」を意味し、その名の通り細長く焼き上げられたパンです。シンプルな材料ながら、表面はカリッと、中はしっとり柔らかく、職人の技術が光る一品です。フランスではこのパンに対して厳密な規定が設けられ、日常生活に深く根付いています。その「バゲット」を「バケット」と呼ぶのは、発音の曖昧さからくる誤りですが、文化への敬意を欠いた行為とも言えるでしょう。
日本語のカタカナ表記は便利な反面、外国語の微妙なニュアンスを誤って伝えてしまうことがあります。「バケット」と言うと英語の「バケツ(bucket)」を思い浮かべる人もいるかもしれません。パンとバケツではあまりにかけ離れており、聞き手に無用な誤解や軽い笑いを招くだけでなく、文化的な背景を理解する機会を失うことにもつながります。
言葉を正しく使うことは、異国の文化を尊重し、その価値を正しく受け取る姿勢を示すことです。フランスの食文化において「バゲット」は単なるパンではなく、職人技と伝統の象徴です。名前を正確に呼ぶことによって、その背後にある歴史や情熱を感じ取ることができるでしょう。そして同時に、日本語の美しさや言葉の正確さを守ることにもつながります。
些細なことと思わず、次にフランスパンを手に取る際には「バゲット」と意識して呼んでみてください。その一本が、ただのパンではなく、文化を味わう架け橋となるはずです。正しい言葉遣いを心がけることで、私たちはより豊かに異国の文化と触れ合うことができるのです。
思いのほか多くの方に読んで頂けたことに当惑しつつ、大変感謝しています。
そんなに人の興味のあることではないとは思うのですが、せっかくの機会なので、自分の考える(自分の出会ってきた)アラビア語とイスラームのことを、ちょっと書かせて頂きます。
大前提ですが、自分は基本、道楽で勉強してきた人間で、職業的な研究者ではありません。大学の専門も西南アジア史とかではないです。あくまで個人の体験を元にした個人の感想で、学問的裏付けのあやふやな大雑把なお話だとご理解下さい。
(いきなり余談ですが、わたしが出会ってきた「アラビア語の達者な日本人」は必ずしも研究者ではなく、一番多いのはマリッジムスリム、つまりムスリムと結婚した日本人です。彼女たちはエジプト社会に溶け込んで普通に暮らしているので、普通は言葉が達者です……十年いても全然ダメでかつ謎の力で意思疎通できる不思議な人もいましたが(笑)。
シリア人と結婚しシリア在住の女性とは、帰りの飛行機で隣り合わせて、息継ぐ間もなく喋り続けて良い思い出です。彼女から聞いた当時のシリア事情は外から見た「残虐なバッシャールvs自由シリア軍」みたいな構図とは全然違って、目を開かされました。
また日本在住のマリッジムスリムでも、家族親族との交流やクルアーンのために熱心に勉強し、大変流暢な方がおられます。
ほとんどの場合、ムスリム男性と日本人女性で、これはイスラーム圏において異教徒の嫁を貰って改宗してもらうのは敷居が低い一方、女性をよその男性にさらすのは極めてハードルが高いせいでしょう。逆のパターンを1組だけ知っていますが、これは女性側の家が相当裕福なインテリ層で、留学経験などもあるためでした)
先述の通り、わたしがアラビア語に関心をもったのはイスラームへの興味からでした。
イラン人についての書かれた元増田の方が、「クルアーンのアラビア語はお経みたいなもの、イラン人にはわからん」といったことを記されていましたが、本当にクルアーンはお経的だと思います。
お経的というのは、意味内容以前に「音をそのまま」読誦することが重視されている、という点においてです。
日本の仏教徒で熱心にお経を読まれている方も、楽譜みたいな感じで音そのものを覚えつつ、意味も勉強すると思います。非アラビア語話者のムスリムにとって、クルアーンはちょうどそんな感じです。
何ならアラブ人にとっても、クルアーンのアラビア語は非常に古い言葉ですので、普通に読んだら意味のわからないところは沢山あります。ただ幼少期から声に出して読誦し丸暗記しているし、その意味も大抵は教えられているので、特に疑問に思わないだけです。
(お世話になっていたエジプト人の先生とクルアーンについて話していた時、「アン=ナージアートとかぶっちゃけ全然わからん!」と言っていたのを覚えています。これはクルアーンの後半の方にある非常に韻文的で語彙的に難しい章で、短いので多くのムスリムが丸暗記していますが、初見のアラビア語として見たら大学出のエジプト人でも「全然わからん」ものです)
一点留保をつけると、「古いからわからない」という意味では日本人にとっての平安時代の言葉に似てはいるのですが、前のエントリでも書いた通りアラブ世界ではフスハーという形で古いアラビア語が割と保存されているため、日本人における古語ほどは難しく感じないと思います。
ついでに言えば、少なくとも大多数のエジプト人は、アラビア語と言えばこのフスハーのことだと信じていて、学校の「国語」にあたる時間ではフスハーを勉強します。普段使っているアーンミーヤ、エジプト方言はその「崩れたもの」くらいの認識で、「勉強するに値しない」「文法なんかない」と本気で思っています。大学出の語学教師さえ、「この仕事につくまで、アーンミーヤをわざわざ勉強するなんて考えたこともなかった」「文法なんかなくて、自然にできると思っていた」とか言い出すほどです。
外国人視点で見れば、フスハーとアーンミーヤはラテン語とフランス語くらい離れていて、勉強すれば連続性がわかり、「ここがこう変化して今こうなのか!」と感動するのですが、最初に耳で聞くとまったく別言語に聞こえます。勉強しないで自然にできるわけがありません。
話がズレましたが、クルアーンは(お経のように)そのままのアラビア語を声に出して読み丸暗記するのが基本です。
キリスト教の聖書は色んな言語に訳されていて、普通は各自の言語で読むものだと思うので、その点がかなり異なります。ただ、周知の通り聖書の大衆口語への翻訳が本格的に行われるようになったのは宗教改革以降で、元来はキリスト教でも「音そのまま」が基本だったのではないかと思います。おそらく大抵の聖典とか、宗教的行為というのは、意味以前に音や身体操作をそのまま発して覚える、反復することが大切だったのではないでしょうか。
何が言いたいかと言うと、現代日本に生きるわたしたちは、宗教というと信念体系とか戒律とか、知的に理解できるものを第一に考えてしまいがちですが、元々はもっと音楽的で、意味や論理性よりも「ノリ」みたいなものを重視していたはず、ということです。
現代で言えば、ヒップホップみたいな感じでしょうか。ヒップホップに全然詳しくないので的外れだったら申し訳ありませんが、フロウとかライムとかは、意味的整合性が全然どうでもいいとは言いませんが、音ノリと意味があいまって全体の美しさが練られると思います。歌詞を紙に書き出して意味を深堀りする、みたいな作業は、批評的・研究的には意味があると思いますが、そこに第一義があるわけではありません。
英語のヒップホップの歌詞を全部翻訳して、その意味内容だけをじっと見つめていても、多分その曲の本質にはあまり近づけません。同様に、イスラームについて「戒律が厳しい」とか「豚肉はダメ」とかそんなところだけ見ても、実際にムスリムたちが行っている、あるいは身体化している「それ」からすると、的を外してしまっている可能性が大いにあります。そしてイスラームに限らず、(現代的にはただの迷妄のように片付けられがちな)宗教行為、信仰というものは、容易に翻訳可能で知的に了解しやすい部分だけ追っても、なかなか「肝」のところが見えてこないのではないでしょうか。
特に聖典のような古い言語は韻文的性質が強いです。アラビア語とヘブライ語のような近い言語ならともかく、日本語のような遠い言語に翻訳すると、どうしても元々の「ノリ」が失われてしまいます。やはり対象言語を基本だけでも学び、翻訳と原典の両方を活用しないと、うまく「詠む」ことはできません。
クルアーン、特にマッカ期と呼ばれる初期に啓示された後半部分は、大変韻文的性質が強いです(クルアーンは概ね時系列と逆に章が並んでいます)。日本では「戒律の厳しい宗教のルールブック」みたいなイメージが強いかもしれませんが、そういう約束事みたいなことを書いている部分は、まったくないとは言いませんが極めて少なく、では何が書かれているかというと、概ね「神様スゴイ」ということを手を変え品を変え表現しているだけです。本当に同じことを言い方を変えて反復しています。あとは「現世は戯れ」「不信仰者を待つのは火獄の責め苦」「楽園には川が流れている」みたいな抽象的イメージが多いですね。
音楽的ノリが強いので「サビ」みたいな部分もあって、ごにょごにょとエピソード的な話が続くと、とてもわかりやすい言葉で「まことアッラーは慈悲深い」みたいなお決まりのフレーズがビシッと入ります。ごにょごにょのところが言語的にちょっと難しくても、サビだけは聞き取れるので外国人にやさしいです。
またヘブライ語聖書(旧約聖書)のエピソードが知識として前提されている雰囲気があり、ちょっと二次創作っぽいというか、ユースフ(ヨセフ)とかイブラーヒーム(アブラハム)とかヌーフ(ノア)とか、旧約キャラの話が脈絡なくフラッシュバックのようにパッパッと入ります。旧約エピソードがアラビア語的にカッコイイ韻文で表現されているのは、こんなことを言うと怒られそうですがファンアートっぽいというか、音楽的に昇華されている感じです。
こうしたエピソードっぽいフレーズは時系列で並んでいるわけでは全然なく、「そういえばアイツもこうだった」みたいに話題ごとに何度も引っ張り出されます。
この文体は翻訳で読むと非常に冗長で退屈極まりないのですが、音で聞くと大変心地良く、カッコイイのです。情報として全然新規性がなくても、「出ました! ムーサー(モーセ)の話!」みたいに盛り上がります。
わたしは今でも、車を運転する時は「今日はアル=アアラーフでいくか」みたいに、正に音楽をかけるノリでクルアーンの読誦を流しています。心が落ち着いて安全運転です。
良く言えばノリが良く、悪く言うと深く考えてない感じです。
余談に次ぐ余談ですが、「クルアーン」というカタカナ表記は学問的な界隈では結構前からポピュラーだと思いますが、昔から一般的なのは「コーラン」ですよね。
カタカナで正確に書けるわけがないのだからどっちでもいいんじゃない?とは思いますが、ちょっと疑問に思っていることがあります。
「クルアーン」というのは表記に忠実な感じの書き方で、あまり良い例ではないかもしれませんが、「stand up」を(ステァンダッではなく)「スタンドアップ」と書くみたいな方針だと思います。
では「コーラン」の方が音に忠実かというと、そうではなく、これは多分、英語表記からカタカナに起こしたものです。ラテン文字表記でquranとかkoranとか書かれていたのを、カタカナにする時に「コーラン」にしたのでしょう。
英語圏の人たちが一般にこれをどう発音しているのかよく知らないのですが、もしアラビア語の音に似せるなら、後半にアクセントがあるはずです。
ところが、理由はわかりませんが、カタカナにする時になぜか前半アクセントのイメージで「コ」の後に伸ばし棒をつけて、擬似的に強弱アクセントを表現したようです。
実際に耳で聞けば後半にアクセントがあるのは歴然としていて、日本人の感覚で簡単なカタカナ表記を考えるなら「コラーン」あたりが音的には一番近いと思います。これを普通にカタカナ読みしても多分通じますが、「クルアーン」「コーラン」はまずわからないでしょう。
別にどっちでもいいのですが、アラビア語には日本語のように長母音的な概念があるので、素直に似せていけばいいものを、わざわざ第三言語のラテン文字表記に引っ張られているのがちょっと悔しいです。
同様にラテン文字表記(英語圏での表記)に引っ張られているらしいものとして、「メッカ」はどう考えても「マッカ」で、これはカタカナ読みでも通じます。「カタール」は普通に聞いたら「カタル」が断然近いです。
あと不思議なのは「アッバース朝」とPLOの「アッバス議長」は同じ名前なのですが、なぜか文脈で表記が違いますよね。「アッバース」の方がアクセント的に近いです。これも多分、議長の方がラテン文字表記に引っ張られたのでしょうね。
これは完全に自分語りですが、わたしは割とキリスト教の影響のある環境に育ちました(信者ではありません)。子供時代はどちらかというと反発し、宗教とはなんてアホで小うるさいものなんだ、くらいの幼稚な考えを抱いていたのですが、肯定否定はともかく、信仰なるものについて考える機会は日本人としては多い方だったと思います。
その中でイスラームは、911やその後の騒動もあって印象が強烈でした。行為そのものは単なる殺戮で肯定できるものではありませんが、何年もかけて潜伏し飛行機の操縦を学び、自分の命を投げ捨てて突っ込むというのは尋常ではありません。一方で、世界に16億いるというムスリムが皆こんなぶっ飛んだ感覚の殺戮者であるのは、常識的に考えてありえないと思いました。
では実際のところ、平々凡々たる市井のムスリムたちはどうなのか? 彼らが信じている、その中で生まれ育ち生きているイスラームとはどんなものなのか? というのが、今思うと出発点だったと思います。
色々本を読むとそれなりにイスラームについての一般常識はつくのですが、それらはあくまで、頭の良い人が外から観察してまとめたものです。しかしわたしが知りたかったのは、もっとレベルの低い大衆的な肌感覚みたいなもので、それを知るには内的に追体験するというか、彼ら自身の立ち位置になるべく入ってみて、そこから世界を眺めてみないといけない思いました。
キリスト教でも仏教でも熱心な信徒もいればなんちゃってクリスチャンみたいのもいるわけですから、ムスリムだって色々なはずで、「さほど熱心ではないけどやっぱり信じてる」みたいな人もいるはずです。どちらかというとヘボいムスリムの感覚に同化してみたかったです。わたしはヘボい日本人ですから。
この低水準の信仰感覚というのは、あくまでわたし個人の感じてきたところでは、幼い頃から聞いている歌がつい口をついて出てしまうみたいなものかと思います。
大人ですから知的に敷衍して約束事のように語る部分もありますが、多分そこは本質ではなく(彼ら自身は見栄っ張りなので、よそ行きにもっともらしいことを語るものなのですが)、もっと身体的で音楽的なものこそが大元なのだと、自分は感じています。
そしてこの感覚は、サピア・ウォーフの仮説ではないですが、言語と密接に繋がっています。言語、文化、宗教は連続体で、どれか一個だけ取り出して眺めようとしてもなかなかうまくいきません。
まぁ、そんな風に見てみると、意味のわからない人々についてもちょっとは親しく感じられるんじゃないかなぁ、と思います。
そんなこと興味ない、親しみたくなんかない、という人が大勢でしょうが、違う場所から違う視点でものを見てみるのは、何でもすごく面白いものだとわたしは思いますよ。
人生、旅じゃないですか。
書いたら色々思い出したので、言語に関する単なる思い出語りをちょっとメモさせて頂きます。別に面白くないと思います。
わたしが滞在していた時はアラブ革命の前後だったので、段々シリアの方が物騒になってきて、シリアにいた外国人留学生がエジプトに逃げてきました。
それで何人かの子と同じフラットで住むことになったのですが、シリアで勉強していた人は当然シリア方言です。そしてエジプト方言に馴染んだ日本人から見ると、シリア方言を話す青い目の西洋人がめっちゃかわいくて上品に見えました。
前提のお話をすると、アラブ世界というのは中世ヨーロッパみたいな感じに、「正式な言葉」と「普段使う言葉」がかなり乖離しています。フスハーと呼ばれる「正式な言葉」は、書き言葉のほか、宗教関係や法曹関係、演説やテレビのニュースなどで話し言葉としても使われます。テレビのアニメも教育目的でフスハーが使われていたりします。このフスハーはアラブ世界共通です。
一方、アーンミーヤは地域差が激しく、それぞれの方言があります。
で、日頃この方言で話している場で急にフスハーで喋る人がいると、日本で言えば「ござる言葉」で話す人みたいで滑稽で、なんか可愛い感じもします。
シリア方言はエジプトの感覚からすると少しフスハーに近いというか、古くて伝統的な感じがするのですが、外国人が喋っているとそれも相まってめっちゃ可愛いのです。まぁ、わたしがエジプト方言を喋るのもエジプト人からするとかわいかったのかもしれませんが。
これも単なる自分の思い出語りですが、わたしは元々ずっとフスハーを勉強していて、アラビア語愛が高まりすぎて仕事を辞めてエジプトに行ってしまった人間なので、エジプトに行ったばかりの頃は、「あの美しいフスハーを喋らない現代エジプト人は、なんて堕落しているんだ!」「エジプト方言はイーイー言ってる感じで下品!」と思っていました。
アニメがきっかけで日本語を勉強した外国人が、実際に日本に行くと誰もナルトとか悟空みたいな喋り方をしていなくて愕然とする、みたいな感じでしょうか。
最初の頃はひたすらフスハーを学び、関わりのあるエジプト人もフスハーで喋ってくれていました(教育水準によりますが、なんちゃってフスハーでよければ皆んな多少は喋れます)。
でもしばらく暮らしていると、買い物をするのにも不便だし、その辺の無学なおっちゃんの喋っていることは全然わからないし、普段周りにいる人達の会話に入っていけないのはすごく辛いです。
で、途中からエジプト方言も積極的に学ぶようになり、エジプト人同様に二刀流になりました。
フスハーはクルアーンの時代の言葉をベースにかなり無理して人工的に保存している言語なので、純度が高いですが、アーンミーヤには前のエントリで書いたようにトルコ語とかアラブ化以前のコプトの言葉、古いイタリア語由来らしい言葉などが結構混ざっています。もちろん現代語彙では英語やフランス語由来のものもあります。その辺のごった煮な感じに現代方言ならではの魅力があります。
ちなみに文法の超絶難しい正則アラビア語に比べると、現代方言は簡略化されていますが(ラテン語とフランス語くらいの感じ)、その分不規則要素が多くなり、なんというか、英語みたいに「ノリ」で話している感じがあります。
これも余談ですが、アラビア語とヘブライ語は兄弟言語なので、会話などはまったくわからないものの、古い言葉はなんとなく類推で意味がわかるものもあります(そもそもアラビー=アラビア語とイブリー=ヘブライ語は同じ子音の順番を変えた言葉で縁が深い)。
ヘブライ語ではなくアラム語みたいですが、イエスが最後に言った「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」とかも、アラビア語風にカタカナ表記をすれば多分「イラーヒー、イラーヒー、リマーザー、タラクタニー」(إلهي إلهي لماذا تركتني)で、すごく似ています。tとthが入れ替わったのかなぁ、とか想像が膨らみます。アラビア語訳の聖書とかも重々しい感じでジーンと来ますよ!(もちろん、本当はヘブライ語やギリシャ語で読むべき)
この辺は言語の本物の研究者の方たちがめっちゃ深堀りされているでしょうね。自分は中途半端にかじったレベルなので、本物に色々教えてもらいたいです。
Scrapboxという割と重宝するWebサービスがあるが、最近「Cosense」というサービス名に変わった。
自分はまだ「Scrapbox」のネーミングの方がいいと思った。「Cosense」だとボヤっとしている感じがした(そうなった名前の由来も含めて)。大局的に括って抽象化に抽象化を重ねたような。
小学生でも「Cosense」の読み方に戸惑うと思う。「コsセ…?」みたいに。(または「こせんせ?」)
あと「Cosense」という単語を聞いた際に連想がピンと来ない。
なんなら例えばまだ「feelbox」ぐらいの方が、まだどういうサービスなのか連想しやすい。
「Cosense」にするなら「コセンス」とカタカナ表記の方がまだ素直で良いと思う。
Scrapboxは小学生も使いたくなるようなWebサービスだと思うので、「Scrapbox」から名前を変えるなら小学生でも識読できるネーミングにした方が良いと思う。
「Cosense」のネーミングはユニークではあるけども。
ちなみに、英語圏の人から見て「Cosense」のネーミングは、どう思われるのだろうかと思う。英語圏の人もしっくり来なかったり?
まあ、中の人はたぶん会社内でCosenseのネーミングを滅茶苦茶に練って決めたのだろうから、上記のような候補も挙がってて合理的に検討されているんだと思うので、とやかく自分が言う必要無い感じもするが。
余談:最近知ったCosenseと同じ所が作ったHelpfeelのネーミングは、これでいいと思う。(まあ、アンカリング効果的に「Helpfeel」以外のネーミング候補を知らないからだと思うが。)
余談: 随想的にこの記事を書いたので文章構成が悪い感じが否めない。
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追記:
ポケモンカードをしている未婚アラサー女なんだけど、PJCS(というポケモンカードの世界予選みたいなもの)が終わったらやめることにした。
ポケカ歴は片手より少ない。
前は女友達と一緒に行きつけのカドショに行ってたんだけど、帰郷したので今は別のカドショに一人で通っている。
ので、私が知っているカドショは2つだけ。あとは物見遊山で何件かジムバ出てみたくらい。
辞めるに至った原因は二つある。
まったく話が通じないので「近いです」「離れてもらってもいいですか?」が通じない。暖簾に腕押し。
私は昔そういう人と遭遇して怖い目にあったことがあるので、これは本当にきつかったし、一度すごく驚かされたことがあってカドショのトイレで泣いたことがある。誰にも言ってないけど。
止めてくれたり、注意したりしてくれる人もいるけど、一度退かしてもすぐ寄ってくる。いたら終わり。帰るしかない。来たら終わり。帰るしかない。
あなたの息子さん、カドショで女に近づいてすごく怖い思いをさせてますよ。見えない振りしてこちら側に放り込めば、楽でいいですよね。
現在私は地元に住んでいて、今行ってるカドショは何駅か離れたまあまあ遠いところにある。
わざわざそこに通うのは、地元の人にポケカやってるのバレると面倒だからだ。そういう人もよくいるよね。
んで、地元のショップにポケカ買いに行ったら、よくジムバでよく会う人に遭遇した。
私が仕事帰りの恰好だったので「家ここらへんなんですか」「そうなんですよ」「僕は当選したからわざわざこっちまで~」みたいな日常会話をした翌週カドショに行くと、遭遇した人とは別の人に「私さん~~の人なんですね」といわれる。いや、言うなよな。本当に。
まあそこまではよかったんだけど、次は年齢が出回った。
ジムバの対戦が終わって次戦待ちの途中、なんかうるさいタイプのオタクと話してたら誘導尋問みたいなことされて、「まあいっか」と思って言ったら広まった。いや、言うなよ。本当によ。って感じ。
私が思ったより年上だったらしく、そして年上未婚アラサーはそういう人たちから見れば「弱者女性」に見えたみたいで、つっかかっても良いという対象になったらしい。
「この年でポケカきつくないっすかw」「こんなことしてる暇w」「平日なのにジムバ来てるんすかw」みたいな半角単芝生やされて、お前もだろとは思いつつ「そうなんですよ~」「暇で~」とか対応してると、調子に乗って余計に言ってくる。
別にいいだろうが、ポケカしてても。平日に数時間使ったって、週末丸一日やったって。おもしろいんだからしょうがないだろ。うるせー。
もちろん、そんなこと面と向かって言ってくる人なんてほんの少数。
ただ、そのいい人たちも後ろでなんか言ってたみたいで「あーあ」となってしまった。
LINEのスクショ送られてきたよ。告げ口してくる人ってどこにでもいるしね。
「満遍なくいろんな人と対戦出来たらいいな」というポケカ人生計画はつぶれてしまった。男がこんな噂好きなの知らなかったし、見通しがあまかったらしい。
そんなこんなで障碍者の相手と噂話に疲れてしまっていた私を、チームに誘ってくれた人が現れた。彗星のごとく。
厳格に言うとチームではない、チームというよりかは「ジムバ始まる時間ぴったりに集まれないから、それまでフリーでやってようかな」みたいなゆるい仲良しチームみたいな感じ。
ポケカしてる人たちの言う本当の意味での競技的なチームではないけど、便宜上チームとしておく。
そのチームの人とはよく対戦するし、よくお話ししていたので「なんかあっちでやるの大変そうじゃない?よかったら相手してほしいんだけど、こっちでしませんか?」というのは本当に鶴の一声に思えた。実際そうだったし。
それ以来、ジムバに出るのは月1くらいになった。まさにノーストレス。
障碍者が近づいて来ないように奥側の席譲ってくれたり、なんか言ってくる人には注意してくれたり。本当にありがたすぎる。
それでまあ一年くらいそんな感じで過ごしてたんだけど、それでも言ってくる人は言ってくる。
「あれって囲いなのw」「あの年でオタサーやってんのw」みたいなやつ。
前に言われてたことは自分で受け止めて嫌な思いをすれば済んだのが、今度はチームの人たちも言われるようになってしまった。
迷惑な存在から守ってくれたのを、「ナイトw」とか言って茶化して、それでいいの?本当に?私一人で嫌な思いしてろよってことなの?
囲い発言なんか、からかいとか冗談交じりに私たちへ言ってくる人もいるし、裏で言ってくる人もいる。あなたたちの中に告げ口してくる人いますよ。前回に引き続き。
チームの人たちって本当に本当に本当にいい人たちばっかりで、私より年上だろう人もいれば、年下だろう人もいるのにみんな優しくて、だから私もできるだけ優しくして、でもそれが周りの人たちから見れば鼻についたのかな。
別にカード乞食したわけでもないし、出会いを求めに来てたわけでもないよ。
結局はポケカでつながってるだけだから、本名のカタカナ表記(大型大会で明らかになる)くらいしか知らないし。みんながどこに住んでるとか、そういうのまともに聞いてないからあやふやにしか覚えてないし。ツイッターのDMで連絡してるからLINEもしらない。
でも、それでも私がちやほやされているように見えて、チームの人が私を特別扱いしてるように見えて、なんかそういうのが許せないくらい妬ましかったのかな。ポケカしてただけだよ、友達と。
だからもう、ああだこうだ言われるのが億劫になってきたので、私が抜けることにした。これで一件落着ですか?
あなた達が言うように、もういい年なんだからやめますわ。それでいいんでしょう。
なんかもう疲れてしまった。クソチンカスたちが悪いのか、私が悪いのかわからない。
でも前にやめてった女の人もこんな話してたし、そういうことなんだろう。
チーム内にPJCSへ出場する人がいるので、その人がWCSに行けなければそこで終わりだ。
壁しにカドショへは行ってるけど、今月入ってジムバには出てない。
やめると思えば楽なもので、何を言われても、障碍者が仲間に入りたそうにこっち見てくるのも、本当にどうでもよくなってしまった。
でも私はもっと遊びたかったよ。あーあ、我慢しきれなかったな。
ここまでかなりフェイクを入れたけど、フェイク入れなくても大抵の女プレイヤーに当てはまらない?これって。
女性ポケカプレイヤーの人が読むと「わかる」と思ってくれるところが多いと思うんだけど、どうなんだろうか。
結局女の人って最終的に身内でやっていく感じになるじゃん。
変な人が湧くのもあるあるだし、でかい大会で会った女の人も「うちもそういう(障害)人がたまに来てて」みたいな話は聞いていたので、どこに行ってもそうなのかなと思う。
チームの皆さん、本当にありがとうございました。
みなさんと出会えたことは本当に奇跡だと思っていて、いつも感謝でいっぱいです。
このままフェードアウトしていくのは本当にさみしい。帰るときいつも涙ぐんでしまう。
私が手札事故ってるときに煽る、やり慣れないへたくそなシャカパチの音だとか。
最後の60枚目を探して、食べる時間も惜しくなった12時間とか。
カドショ閉店後、日付が変わるまで構築の話をした夜だとか。
たくさん迷惑をかけたのは申し訳ないけど、みんなも楽しかったと思っててくれたらうれしいな。独りよがりじゃなければ、それで。
noteはCL優勝したらって言ってたから、私も書かないでおいたよ。
勝っても負けても楽しそうな皆だけど、いつか公式で応援できるときがあればうれしいな。
私にちんぽが生えてりゃこんなことになんなかったのかな。