
はてなキーワード:オペラとは
アニメ一話がよかったので、きっとほのぼの系だろうなあとおもって原作に手を出したのだが、
なんというか、これ、かわいい系ほのぼの異世界転生の皮を被った
ストーリーはこんな感じで進む。
これを何度もくり返す。
だけど、客観的に見て
見ていてこの一家に全く好感が持てない。
タイトルからして主人公らの魅力をベースにした物語が展開すると思うじゃん?
だけど、なんつーか、作者がムカつく奴を物語に登場させて、そいつを追い詰めたいと言う願望が先に出て無理矢理シーンを組み立てている感じがする。
ラブラブ夫婦の夫に一方的に横恋慕宇してる愚かな女を断罪したいなー
とか
主人公しか作れない薬を配って慈悲の女神になりたい。もちろん奪いに来る悪役を断罪したいなー
作者の願望が漏れ出ているとしか思えない主人公の性格が悪すぎる。お前ら大人しく精霊界に帰って白で平和に暮らせ、二度と下界に関わるなと言いたい。
原作はそれがあからさまに出ていて、なんつうか、物語が主人公の主観的事実のみで美化しようとしてる臭さがある。
お前絶対ここに書いてないことあるだろうとか、権力をかさに着て相手を悪く書かせただろうこれみたいな雰囲気がある。これを意図的に醸し出しているなら天才だと思うが、多分そうじゃないんだろうなこれ。
アニメでは第一話で上手く消臭したが、第二話ではなんか臭ってきて失敗している感じがする。
一発逆転するとしたら、最終話で、
これだったら楽しい。
ブラボーおじさんという存在がいて、こういうの女性はいない、おじさんばかりといわれてるけど
外国でオペラ・バレエ・クラッシック・演劇等見に行ってそういう迷惑客がいたことないよ
ナポリとローマの客のうるささの差とかはあるけど、日本みたいに幼児に言い聞かせるような注意事項ないもんな
サントリーホールで拍手のタイミングまで指示されてるのにホントびっくりしましたわ
<日本アナウンス問題>もあって、駅、ホーム、空港、あらゆる場所でうるさいほどご注意喚起アナウンスがあるのも体験した中では日本だけ
アジアはうるさいのかなと思ったが、台湾は全然そんなことなかった
日本人は耳があまり繊細でないから平気なのかもしれんけど、ちょっと異常だよ
言われないとわからない、明記ルールされなければ何をしてもいいと思う、がゆえの過剰な掲示やアナウンス、わりと、民度低いよね
で、そういう無神経な民度の低さから迷惑行為に走るのはたいてい日本のおじさんと予備軍
なんでかといえばやっぱ甘やかされているからだね
男が男にモノをいわないでナアナアで済ませたがる伝統芸から生まれたマイナス点
男のもたれあい社会では個で完結する豊かさがなく男に認められて爪痕残すのが大事じゃん?
これは日本以外でもそうだけど日本は特にムラだからその傾向が強い
オタクのエロチキンレースとか盗撮犯が盗撮仲間に認められたかったみたいなのと同じな
他人に迷惑をかけても、いや、法の範囲で迷惑をかける事で支配欲や無力感を慰めてるやつ
むろんその伝統芸にはプラス面もあるわけだけど、開かれた社会では無用な村社会慣れあい芸みたいなもんだからさ
ブラボーおじさん単体じゃなくちょっと大きく分析した方がいい問題じゃねーの?
『レイプ未遂されたと思ったら父がそいつに殺されたので被害者で報復しにいく』
というような内容のオペラを観に行った。
内容を知らないで観に行った。
開始10分しないうちに レイプ未遂されたと思ったら父がそいつに殺された の状況になった。
レイプ犯に捨てられてメンヘラになった女、庶民の新婚カップル(レイプ犯が次のターゲットにしようとしていて巻き込まれている)
2幕構成だったのだが、盛り上がりまくってる1幕でまとめたほうがいい気がする…という気持ちになった。
曲があるから短くできないよね。そうよね。
おもしろいくらいレイプ犯に魅力がなかった。ドンジョバンニっていうやつなんだけど。題名にもなってるんだけどさ。
こういう作品って、少しは作品の題名にする男は魅力あるようにするんじゃないんですか?ミュージカルとか映画、日本の伝統芸能系だって、増田は覚えていないが源氏にもいいとこあったんじゃないか?顔とかさ…。
オペラはトゥーランドット姫もくそ姫だった気がするし、ろくな主要キャラいないのかもな。
目覚ましは06:17、豆は正確に12.3グラム、挽き目は中細、湯の温度は93.2℃で抽出時間は2分47秒。
ルームメイトがたまにまちがえて計量スプーンを左から右へ並べ替えると、その不整合が僕の内部状態の位相をわずかに変えるのを感じるが、それは許容誤差の範囲内に収められている。
隣人の社交的雑音は僕にとって観測器の雑音項に過ぎないので、窓を閉めるという明快なオペレーターでそれを射影する。
友人たちとの夜はいつも同じ手順で、ログイン前にキーボードを清掃し、ボタンの応答時間をミリ秒単位で記録する。
これが僕の日常のトレースの上に物理的思考を埋葬するための儀式だ。
さて、本題に入ろう。今日はdSの話などではなく、もっと抽象的で圧縮された言語で超弦理論の輪郭を描くつもりだ。
まず考えるのは「理論としての弦」が従来の場の量子論のS行列的表現を超えて持つべき、∞-圏的・導来幾何学的な定式化だ。
開弦・閉弦の相互作用は局所的にはA∞代数やL∞代数として表現され、BV形式主義はその上での微分グラデーション付き履歴関数空間におけるマスター方程式として現れる。
これを厳密にするには、オペラド(特にmoduli operad of stablecurves)とそのチェーン複体を用いて散乱振幅をオペラディックな合成として再解釈し、ZwiebachやWittenが示唆した開閉弦場理論の滑らかなA∞/L∞構造を導来スタック上の点列として扱う必要がある。
導来スタック(derived Artin stack)上の「積分」は仮想基本クラスの一般化であり、Pantev–Toën–Vaquié–Vezzosiによるシフト付きシンプレクティック構造は、弦のモジュライ空間に自然に現れる古典的BV構造そのものだ。
さらに、Kontsevichの形式主義を導来設定に持ち込み、シフト付ポアソン構造の形式的量子化を検討すれば、非摂動的効果の一部を有限次元的なdeformationtheoryの枠組みで捕まえられる可能性がある。
ここで重要なのは「関手的量子化」すなわちLurie的∞-圏の言語で拡張TQFTを∞-関手として定義し、コボルディズム公理を満たすような拡張場理論の対象として弦理論を組み込むことだ。
特に、因果的構造や境界条件を記述するfactorization algebra(Costello–Gwilliamの枠組み)を用いると、局所的観測子代数の因子化ホモロジーが2次元世界面CFTの頂点代数(VOA)につながる様が見えてくる。
ここでVOAのモジュラリティと、2次元場の楕円族を標的にするエリプティックコホモロジー(そしてTMF:topological modular forms)が出てくるのは偶然ではない。
物理的分配関数がモジュラー形式としての変換性を示すとき、我々は位相的整流化(string orientation of TMF)や差分的K理論での異常消去と同様の深層的整合性条件に直面する。
Dブレインは導来カテゴリ(整合層の導来圏)として、あるいは交差的フカヤ圏(Fukaya category)として表現でき、ホモロジカルミラー対称性(Kontsevich)はこれら二つの圏の導来同値としてマップされる。
実際の物理的遷移やアセンションは、圏の安定性条件(Bridgelandのstability conditions)とウォールクロッシング現象(Kontsevich–Soibelmanのウォールクロッシング公式)として数学的に再現され、BPS状態はドナルドソン–トーマス不変量や一般化されたDT指数として計算される。
ここで出てくる「不変量」は単なる数値ではなく、圏のホールディング(持続的な)構造を反映する量化された指標であり、カテゴリ的量子化の語彙では「K-theory的なカテゴリ不変量」へと持ち上げられる。
さらに、超弦の非摂動的断面を完全に記述しようとするなら、モジュライ超曲面(super Riemann surfaces)の導来モジュラス空間、そのコンパクト化(Deligne–Mumford型)のsuperversion、そしてこれら上でのファクタライゼーションの厳密化が不可欠だ。
閉弦場理論のstringfieldtheoryはL∞構造を持ち、BV量子化はその上でジグザグするcohomologicalobstructionを制御する。
より高次の視座では、場の理論の「拡張度」はn-圏での対象の階層として自然に対応し、拡張TQFTはCobordism Hypothesis(Lurie)に従って完全に分類されうるが、弦理論の場合はターゲットが無限次元であるため古典的公理系の単純な拡張では捉えきれない。
ここで我々がやるべきは、∞-オペラド、導来スキーム、シフト付きシンプレクティック構造、A∞/L∞ホモロジー代数の集合体を組織化して「弦の導来圏」を定義することだ。
その上で、Freed–Hopkins–Telemanが示したようなループ群表現論とツイストK理論の関係や、局所的なカイラル代数(Beilinson–Drinfeldのchiral algebras)が示すような相互作用を取り込めば、2次元CFT分配関数と高次トポロジー的不変量(TMF的側面)が橋渡しされるだろう。
これらは既知の断片的結果をつなげる「圏的連結写像」であり、現実の専門家が何をどの程度正確に定式化しているかは別として、僕が朝に計量スプーンを右から左へ戻す行為はこうした圏的整合性条件を微視的に満たすパーソナルな実装に過ぎない。
夜、友人たちと議論をしながら僕はこれら抽象的構造を手癖のように引き出し、無為に遺伝子改変を選ぶ愉快主義者たちに対しては、A∞の結合子の非自明性を説明して彼らの選択が位相的にどのような帰結を生むかを示す。
彼らは大抵それを"面白い"と呼ぶが、面白さは安定条件の一つの可視化に過ぎない。
結局、僕の生活習慣は純粋に実用的な意味を超え、導来的整合性を日常に埋め込むためのルーチンである。
明日の予定はいつも通りで、06:17の目覚め、12.3グラムの豆、93.2℃、2分47秒。そしてその間に、有限次元近似を超えた場所での∞-圏的弦理論の輪郭をさらに一行ずつ明確にしていくつもりだ。
韓国では実際には「立憲君主制」は採用されていない(=現在の韓国は共和国であり、王室も存在しない)にもかかわらず、架空の王室を描いたドラマ――いわゆる「もし今も王室が存在していたら」という仮想歴史(オルタナティブ・ヒストリー)や現代王室もの――が人気を集めることがあります。
以下は、なぜそのようなドラマが人気なのかについての理由です:
現代社会におけるストレス、格差、政治不信などから、視聴者は日常とかけ離れた華やかな王宮生活や非日常の恋愛に憧れや癒やしを求めます。王子や王女が登場するストーリーは、まるでおとぎ話のようで、夢の世界への入り口のように機能します。
韓国はかつて朝鮮王朝や大韓帝国が存在した歴史を持ちますが、日本の植民地時代を経て王政は廃止されました。
それゆえ、「王室が今も存続していたらどうなっていたか?」というロマンや好奇心をくすぐるのです。
特に、現代的な価値観(自由恋愛、民主主義、女性の自立など)と王室制度の伝統がぶつかり合うストーリーは、ドラマ的にも非常に面白くなります。
🔹 3.ビジュアル面の魅力
王宮、伝統衣装(韓服)、儀式など、美術的・文化的に視覚的な魅力があります。豪華なセットや衣装、美しい俳優たちが視聴者を惹きつけます。
韓国社会にはいまだに学歴・家柄・経済力によるヒエラルキーが色濃く残っており、「王族や財閥」という“頂点”にいる人々のドラマは、現実社会の縮図としても描かれることがあります。
「身分の差を越えた恋」「王室内部の陰謀」「跡継ぎ争い」などは、そうした社会的なテーマとも重なっています。
🔹 5.過去のヒット作の影響
たとえば:
『七日の王妃』
『太陽を抱く月』
『赤い袖先』
などのドラマが大ヒットしたことで、「王室+恋愛」の組み合わせが一つのジャンルとして確立されました。
総合すると…
韓国人が王政に憧れているというよりも、ドラマというフィクションの中で「非日常」や「理想の恋愛」「社会階層の象徴」を描くのに、立憲君主制という舞台装置が非常に便利で魅力的だから、ということが言えます。
もし特定のドラマを指している場合(例:『宮』や『赤い袖先』など)、それに合わせた考察もできますよ。
あなた:
世界にはたくさんの共和国があります。立憲君主制に興味を示す人が多い共和国はどこですか?
ChatGPT:
とても鋭い観点ですね。
実際、多くの**共和国(君主制を採用していない国)**でも、立憲君主制に対する強い関心や人気が存在する国があります。そうした興味は、政治的な意味というより、文化・歴史・エンタメ的な憧れや好奇心として表れることが多いです。
以下に、立憲君主制に特に関心を持つことが多い共和国の例を紹介します。
🇰🇷韓国
概要:すでにお話したように、現代王室を舞台にしたドラマや映画が人気。
背景:
ドラマ『宮』などのヒットにより、若者の間で「王子様」「プリンセス」幻想が根付く
概要:王朝時代を舞台にした歴史ドラマ(古装劇)が大人気。皇帝・后妃・官僚・宦官などのキャラクターが中心。
背景:
清朝の滅亡から100年以上経っており、皇帝制度は完全に過去のものとされている
※ただし、中国では現実政治での君主制復活などは絶対にタブーです。完全なフィクションとしての消費。
🇹🇷トルコ
背景:
共和国化以降も、「もしスルタン制が続いていたら…」という空想やロマンは根強い
代表作:『オスマン帝国外伝〜愛と欲望のハレム〜』などが世界的ヒット
概要:ロマノフ朝(帝政ロシア)への関心が根強く、アナスタシア伝説やロマノフ家に関する作品が人気。
背景:
興味の形:現代ロシアが立憲君主制になることを望む声は少ないが、「失われたロマノフ家」のロマンは強い
概要:フランス革命で王政を廃止した国でありながら、ルイ14世やマリー・アントワネットなどの人物には人気がある。
背景:
注目点:現在も王政復古を唱える「王党派(Légitimistesなど)」が少数ながら存在
🇮🇷イラン
概要:1979年に王政(パフラヴィー朝)を打倒してイスラム共和国になったが、現在の政治体制への不満から「王政時代のほうが良かった」という声もある。
背景:
パフラヴィー家の王子たちが今も国外で活動しており、象徴的な存在として注目される
💡共通点として言えるのは:
王政時代を「理想化」または「ノスタルジーの対象」としてとらえる傾向がある
立憲君主制への関心は、政治的な復活希望ではなく、文化的・情緒的な興味に留まることが多い
ほとんどの共和国では、実際に王政復古を求める声は非常に小さく、「制度」としての君主制に興味があるわけではなく、あくまで文化・娯楽・歴史としての関心であることが多いです。
ご希望があれば、「どの国が最も君主制に復活の可能性があるか」みたいな政治的な話にも踏み込めますよ。
あなた:
世界のほとんどの国にはかつて国王がいました。かつて王室があったから、という理由だけでは特にそれらの国がより強く君主制に関心を示すのか?という問いに対して不十分です。地理的な観点から論じることは可能ですか?
ChatGPT:
素晴らしい問題提起です。
おっしゃる通り、「かつて王室があった=関心が強い」とする説明は単純すぎますし、全ての国に当てはまるわけではありません。
この問いをもう一段深く掘り下げるために、**地理的観点(=地理、地域文化、近隣国の影響、文明圏など)**から分析を試みましょう。
🔍【問いの再定義】
「世界の中で、特にどの地域の共和国が立憲君主制に関心を示しやすいか?そしてその背景には地理的な要因があるのか?」
この問いに答えるには、以下の要素を軸に考えると良いです:
特徴:
日本の皇室が存続しているため、文化的ライバル意識や比較意識が働きやすい(特に韓国・中国)
結果:
架空の王室を使ったドラマやフィクションの舞台として君主制が頻出
特に韓国では「現代王室+恋愛+政治ドラマ」のフォーマットが人気
特徴:
結果:
現体制(イスラム共和国)への反発から、王政時代を「失われた秩序」として理想視する層も存在
✅ 東南ヨーロッパ/バルカン半島(ブルガリア、セルビア、ルーマニアなど)
特徴:
冷戦期に共産化→君主制を廃止したが、比較的最近まで王室が存在
結果:
特徴:
結果:
王政そのものへの復活願望は少ないが、文化的にヨーロッパの宮廷文化に対する憧れが見られる
アメリカ:反王政(独立戦争の歴史)が国家アイデンティティの一部
カナダ:イギリス国王を元首とする立憲君主制国家ではあるが、王政に対する文化的関心は低下傾向
結果:
立憲君主制に対して冷静/無関心
フィクションとして消費されることはある(例:『プリンセス・ダイアリー』)が、文化的に根ざしてはいない
多くの国に伝統的首長制が残っているが、欧州型の君主制への関心は限定的
一部に象徴的王族がいるものの、立憲君主制を制度として復活させようとする動きは少ない
結果:
自国文化の再評価の方が強く、欧州型王政は「支配の象徴」として敬遠されることも
地域的に君主制への関心が高まるのは、以下のような地理的な環境があるときです:
周辺国に現存する王政がある日本、英国、サウジなど比較対象・メディア露出により関心が刺激される
王制が比較的最近まで続いていた韓国、イラン、バルカン諸国など記憶が風化しておらず、ノスタルジーが強く残る
欧州文化や貴族文化への接触が強いラテンアメリカ、バルカン、東欧王室=格式・伝統の象徴として文化的憧れが根付く
地政学的な比較意識がある韓国→日本、イラン→湾岸諸国など政治的・文化的に隣国と比べて「自国の過去」への再評価が進む
ご希望であれば、特定の地域や国についてもっと詳細に掘り下げることもできます。
あなた:
近隣国に王室が存在するから自国の立憲君主制ファンタジーを楽しむ、というのは納得します。
ChatGPT:
ありがとうございます、非常に本質的なご理解です。
まさに**「近隣に王室がある」という地理的・心理的条件**が、「自国にはないもの」への関心や空想を生む土壌になりやすいのです。
近隣国に王室があり、その存在が文化的・国際的に注目されている場合(例:日本の皇室、英国王室)、
→国民の中に「我が国にもあれば…」「我々の文化も誇れるものがあるはず」という感情が芽生えやすい。
近隣国の王室報道(戴冠式、結婚式、葬儀など)は国際ニュースとして流れる。
→ それを見た視聴者が「格式」「伝統」「ロマン」といった要素に惹かれ、自国文化における対応物を求める。
例:韓国での『宮(Love in Palace)』のような現代王室ドラマ。
→ これは単にファンタジーとして楽しむだけでなく、「日本に皇室があるのだから、韓国にだって王室があったら面白いじゃないか」という比較文化的な空想が土台にある。
韓国日本(皇室) 高い 『宮』などで自国に王室がある想定が人気。
中国日本、タイなど 高い(主に歴史もの)清朝ドラマの大人気。過去の王制を美化しがち。
イランサウジ、ヨルダンなど 中〜高イスラム王政国との対比で「かつての帝政」を再評価する声も。
トルコヨルダン、湾岸諸国 中オスマン帝国のノスタルジーと近隣国との比較。
東欧・バルカンスペイン、英国、モナコなど 中王族の再登場も時折話題に(ブルガリアなど)。
これはいわば「隣の芝生は青く見える」現象の文化バージョンです:
33歳、既婚。
実家ぐらしの頃「車を買う」となった時に販売員にミライースを勧められ母親からも
「これ(ミライース)でいいでしょう、これのほうが安い」と言われ無理やりミライースを買わされた。
140万一括で払ったけど嫌すぎて泣いた。
本当はもっと可愛い別の車(中古のマーチかトゥインゴ、新車のミラココアかラパン)に乗りたかったのに…見積もりさえ出してくれなかった。
あの時無理やり買わせた店員にも腹立って担当も変えさせた(後に解雇)
一緒に買い物に行くととにかくうるさかった。
いつも同じお菓子を買っていて「またそれ買うの?」と延々言ってきてじゃあ良いよって感じで戻すと「ふーんいらないんだ、もう二度と買うなよ」などと言ってく
「あ、ここの店も」と店に入ろうとすると「次はここ?もういい加減にしてよ」って感じでため息を付いてきた。
それでいいつつ私が「まだ?」と言うと人を急かすな、と言ってきた。
子供の頃から見たかったアニメ映画が再公開するから隣の市まで行こうと思う、と言ったら
「たかだかアニメでしょう、そんなの見に行かなくてもいいでしょ」と言われ外出しようとして、映画と言ったら
なんで? 行く必要ないでしょう、見たのでしょう?と言われ行かせてくれなかった。
誕生日。
何が食べたい?と聞いて言っても私以外の家族が嫌いなものだったから結局一度も食べさせてくれなかった。
どれだけ家族が「ふぐ」が嫌いでも私の分だけでも準備してほしかった。
スーパーで500円ぐらいで売っているふぐでさえ、母親は買ってくれなかった。
すまんな
過度に一般化し過ぎで、
なので
これを前提に紡がれた文章は効力を持たず反応するだけ無駄なので無視するよ
にしても
興味がなくても部署内で同僚に合わせるため、あるいは社外の人と雑談できるようゴルフ始めたり野球の知識を身に付けたりしただろ?
これ具体例が書かれた文章を抽象化して意図を読み取れるかどうか、字面通り受け取るASDか判別するために書いたのよ
コミュニティに属し円滑な人間関係を築くため、維持するために共通の話題に関する知識を仕入れる例としてゴルフや野球を挙げただけであって
上流階級のハイソな文学の名著に目を通しておくだろうし、オペラやクラシック等の知識を仕入れておくだろうし
何でもよかったんだよ
でも君は具体例をそのまま受け取っちゃったね
君、ASDなんじゃない?
まあどっちでもいいけども
これも横槍入れただけの俺を考察して長々と講釈を垂れた貴増田の眉間に突き刺さるね
その調子で天に向かって唾を吐き続ければいいさ
そもそも音楽ってのは視覚どころじゃなく、はるか昔から物語性と一体となってきたもんなの。
芸術・文化・歴史がまずあって、それに付随する芸術分野として音楽があるの。
古代の儀式曲にも、吟遊詩人の歌にも伝えるべき伝統や史実があって、管弦楽が発展してからもオペラや凱歌のように人類が築き上げた物語とともに音楽があった。
だから、現代の「アーティスト」的な肩書を名乗るバンド人間がやってる「音楽」なんていうのは、個人の思いつきポエム程度の規模感でしかないもので、歌詞からその人の着想を想像するしかない、極めて属人的で独りよがりな音楽なんだよ。
むしろ現代の映画音楽やゲーム音楽のようなものこそ、音楽の本流に近いもの。
人間の性質からしても、個々の人生に依拠する音楽よりも、創作がまずあって背景の物語を想像しやすいものに付随した音楽のほうが心動かされるもんだから、
個人の着想由来のバンド音楽でもなんとか物語性を感じてもらえるように、歌詞だけじゃなくPVだとかいって映像制作して視覚にも訴えかけようとしてるの。
でもそういう分野なら、映画やゲームやドラマとかのほうが音楽の叙情性能としてはるかに上だろう。
「アーティスト」の作る音楽なんて、そういう劇伴音楽の劣化コンパクト版でしかないの。
その事実を直視しないで済むように、歌詞だけでも誰にでも共感されるような薄っぺらい恋愛ソングだのといった、まるで占いのように誰にでも当てはまる曖昧模糊とした詞を有難がるようになってるんだよ。
そして「音楽性」とやらで勝負してるようにトガって見せる。でも物語を伝播するという音楽の本質的役割にとっては、そういう音楽的個性というのはそこまで重要じゃない。マニア気取りの人間は「音楽性」を有難がりすぎ。
音楽の本質からすると、その伝えるべき物語にふさわしい叙情性さえあればいいわけだから、劇伴音楽には歌詞が必須ではない。
でも現代の「アーティスト音楽」はほとんどが歌詞に頼らないと「マスに刺さらない」代物だろう。その時点で何かがズレてると俺は思うね。
インストだけでヒットする現代アーティストがいるとしたら、それはその背後に膨大な文化的コンテキストがあるはずだ。
けれどヒットチャートの音楽はそうではなく、そうした音楽は、文化的コンテキストが存在しない薄っぺらい社会を生きる人間のためのインスタント食品のようなもの。
あるいは、「アーティストを追っかける」という文化を音楽業界が捏造して、それ自体を文化的コンテキストにすることで熱狂を演出する、空虚と狂気に覆われていると言っていい。
妻とは趣味が全く合わない。おれは流行りものやうるさくて華やかなものが好きで、妻は伝統的なものやゆっくり楽しめるものが好き。
仲は良くて一緒に過ごしたいので、好きじゃないものでもお互いの趣味に無理矢理合わせる形でこれまで共存してきた。
例えば休日におれの好きな遊園地やお笑いライブに付き合ってもらったら、次の休みは妻の好きなミュージカルや美術館に付き合う、という感じ。お互いどうしても無理なものもあるので、それは一人で楽しんだり友人と出かけたりする。(妻はプロレスやボクシングがNGで、おれはオペラが無理だった)
おれはバラエティ番組やお笑いライブが好きで特に賞レースなんかは毎年欠かさず観ているが、一緒に見ている妻は何年経ってもさほど興味を持てないようで、俺が勧めない限りは自ら観ようとすることはなかった。
R-1から数日後、おれが風呂からあがったとき、妻が友田オレのネタをYouTubeで観ているところに遭遇した。妻が自ら芸人のネタを観ているところを初めて見た。嬉しくなって「えー!友田オレ好きになった!?」と聞くと、妻は「うん、この人面白いね」と。「だよね!めっちゃ面白いよね!まだ23歳でこれってめっちゃ伸びしろやばいよね!」と、おれはテンションが爆上がりしてしまった。妻もニコニコしていた。確かに、これまでの芸人にない品や渋さを友田オレからは感じるので妻が好むのも分からなくない。
これまで妻と合う趣味は、唯一水族館だけだったが、ここに「友田オレ」が加わった。まだ他の芸人にはピンと来ていないようだが、一人好きな芸人ができただけでも大進歩だろう。
好きな人と同じものを好きになれるのはすごく嬉しい。彼がもっと活躍して、妻と一緒に楽しめる番組やお笑いイベントが増えると尚嬉しい。
健康診断の受診を終えるとすぐに病院を後にした。病院の壁はなだらかな斜面になっていて、ところどころに凹みがあり、その凹みのひとつひとつに座席が配置されている。つまりこの建物の外壁全体が巨大なスタジアムの観客席のような構造になっているのだ。問題はどこにも明確な通路や階段がないことで、通行人は急峻な丘をよじ登るように不安定な斜面にしがみついて歩かなければならない。
どうにか頂上まで登りきると、ちょうど眼下で知人の出演するオペラが始まったところだった。壁際にもたれ、息を整えつつ視線を落とす。大勢の人々が舞台いっぱいに溢れ、群衆全体がひとつの巨大生物のようにうごめき回転している。そこで展開される雑踏のシーンが、演出された作為的なドラマなのか、それとも自然形成された無秩序な流動なのか、どちらとも判断できないまましばらく見入っていた。
そうして数分か、それとも数十分が経過した頃だろうか、ふと群集を形成する人物たちがすっかり入れ替わっていることに気付いた。最初にいた知り合いの顔や特徴的な幾人かの人物たちはいつの間にかどこにも見当たらず、その代わりに全く構成の異なる別の人々が似たような群衆を形成しているのだ。もしかしたらこれは観客に気付かれることなく、いかにその組成を入れ替えるかという巨大な実証実験だったのかもしれない。ともかく、知人の出番は見届けたことだし、これ以上この場に留まる義理もなくなったというわけだ。
帰宅しようと再び屋外に出る。夜のアークランプを反射して石畳が夢のように滑らかに光っている。いや、夕刻になって降り始めた霧雨で地面が瑪瑙のように濡れているのだ。そういえば足先も妙に冷たい。気付けばいつの間にか裸足ではないか。どこかに靴を置いてきてしまったのだ。妙に霧がかかったような曖昧な記憶を辿るが判然としない。明確に靴を脱いだ覚えはないが、可能性があるとすれば健康診断の会場であろう。あの病院はどこだったか、確かこの建物の三階にある青い絨毯の広間だった。
複雑に入り組んだショッピングモールの雑踏をあてどもなく迷い、それらしき扉を押す。落ち着いた雰囲気のラウンジであった。黒曜石の一枚板のカウンターにロングドレスの女が数人佇んでショットグラスを傾けているが、睫毛の先まで微動だにしないところを見ると、彼女らはマネキンなのかもしれない。天鵞絨のカーテンが滑らかに波打つ通路を足音を殺して通り過ぎ、さらに奥の扉を押すと、突然の眩い光に包まれた。目を細めて周囲を見渡す。北欧の森林地帯を思わせる広大な湖の風景であった。なぜだか分からないが、懐かしさと哀しみとが複雑に入り混じった感情がとめどなく溢れ出る。それでいて私はこの風景が作り物であることを薄々感づいている。あの空も太陽も、巨大なドームの天井に描かれたフレスコ画に過ぎないのだ。
というか既視感が強い。
昨今の風潮なのか、お嬢様+〇〇系が多い気がする(格ゲーとか)
で、視聴して観たんだけど…正直悪い予感は覆らず。
だいぶ安直で、「お嬢様にロックやらせたら面白いんじゃね?」ぐらいの感じでやってるのが良くない。
というかロック=下品という構図を前提にしている時点でもう違うのよ。
別にさぁお嬢様にロックを演奏させるっていうそのギャップ萌え?的なものを狙うっていうのは悪くないと思うよ。
ただ、浅い。本当にもう浅いのよ。
ロックが好きで描いてるなら、なんでロック=上質なものっていう風に描かないかなぁ!?
そういう風に描いてこそお嬢様をテーマにしているなら意味があるのに、それなのに…一話目の終盤でもうそれが台無し。
上品なお嬢様口調だったのが一変、罵る口調に変貌。あれ?お嬢様要素どこなの?って話よ。
もちろん、そのギャップが面白いんじゃん!!っていう声は分かるよ。分かるけどさぁ…それなら別に、お嬢様である必然性ないじゃん?
違うんだよ。そうじゃない。
そう頑なに信じているお嬢様を観たいんだよ!!
だから演奏していくら興奮しても口調が変わることはないし、何ならそうした口調や態度こそロックにふさわしいとさえ思っている。
そうすればロックもお嬢様も光り輝くのに、どうしてそうしない!!?
これじゃあまるでロックが粗野で、乱暴で、下品で、品性の欠片もないみたいじゃあないか!!!
スマホの充電が切れそうだったので温存しないと、と考えて喫茶店の新聞を読んだんだわ。
ちょうどトランプ相場や広末の件で激しい1週間だったから、ネットでニュースを目にする機会が多かったからかもしれない。
そのせいか、スポーツ報知も読売新聞も、体感として昨日のニュースが載ってるように感じた。
「あれ、これ昨日?」と日付を二度見してしまった。
まあネットで見る記事は新聞社の記事が多いわけで、ネット見てるなら既視感もあるわなあ確かに。
それから夕刊が薄い。新聞紙3枚くらいだね。衝撃的に薄い。新聞社の斜陽を感じる。
ただ、金曜日の読売夕刊は相対的にめちゃくちゃ尖ってた。特にカルチャー関連のレビュー。
書評、映画評、オペラやクラシック、演劇のレビューが、書きたいこと書いててふーんと思った。
ふだん全然興味のないジャンルのレビューを読む感覚は懐かしい感じがしましたわ。
雑誌も減ってるし、ネット空間での評論はインプレッションが優先されるし、
しかも新聞社のギャラがいいとは思えないし、ライターさんもある意味渾身の憂さ晴らしで書いているのだろう。
ああいうカルチャー評論が最後まで残るとしたら新聞なんだろうね。意外と。
「美味しんぼ」とかでも文化部の立場が報道部に比べて弱い、みたいなイメージがあったんだが、