
はてなキーワード:オシラとは
で、遠野。
盛岡や花巻あたりから沿岸南部(釜石、大船渡、陸前高田)に行くのに、ほぼ必ず通過するのが遠野である。東日本大震災の時にはボランティアのベースキャンプ的な場所としてもよく使われた。と言っても大抵の人が遠野と聞いて思いつくのは民話の郷という二つ名だと思う。
いちおう遠野はいくつかのアニメで舞台にはなっている。"魔法遣いに大切なこと"第一作ではちょっとだけ遠野が登場したが、聖地と言えるような場所は存在しなかった。唯一主人公の名字"菊池"が遠野に多いってくらいか。"カッパのクゥと夏休み"は有名どころばかりが並んでいる。"咲"については…これは後述する。まあ全般的に言えるのは、大抵の場合は遠野市が推している観光地を巡れば聖地巡礼もほぼ出来るということだ。
まずは遠野市街地近辺。民話と言えばカッパということで、遠野駅周辺にはカッパのオブジェが山ほどある。まあそもそも遠野市のマスコットキャラクターがカッパなので、カッパの図案はここに限らず遠野全体で見られるんだけどね。遠野駅の向かいにある観光協会にはマストのグッズがある。カッパ捕獲許可証。いや単なる許可証は主な観光関連施設で購入可能なんだけど、ここの観光協会だけは写真入りの許可証を作ってもらえるのね。できれば即日発行して欲しいところだけど、まあ料金は送料込みだし。
遠野市街地の主な観光地は、駅近辺から北東に行った土淵近辺にある。伝承園、オシラサマ、カッパ淵。ここから少し離れてるけどここを経由地にして北に行くと遠野ふるさと村という観光施設があり、古民家はここに多く保存されているし、時代劇等で何度もロケ地としても使われている。今回の案内の"春から秋"という期間からは外れてしまうが、ここでは11月から2月にかけて"どべっこ祭り"というイベントが開かれ、この時どぶろく試飲とにごり酒飲み放題の食事が振る舞われるので酒好きな人は日程を確認していただきたい。"どぶろく"、密造酒のことだが、遠野はいくつかの施設が特区としてどぶろく作りの許可をもらって作っている。祭り以外でも酒屋とか道の駅にはどぶろくが売られていることがあるので、上記期間外でも買って飲める可能性はある。
それ以外には地ビール。遠野はホップの生産地ではあるのだけど、地ビールの精算は特に遠野市街地では遅かった。とはいえ最近のクラフトビールブームに乗って、遠野醸造というマイクロブルワリーが市街地に存在する。どぶろくは飲みやすいがアルコール度数が意外と高いんで、飲めるけどたくさんは飲めないと言う人はこちらも選択肢になる。
話が酒から始まってしまったが、遠野のソウルフードと言えばジンギスカンである。以前は遠野近辺ではけっこう羊を多く飼っていたことも要因にあるらしい。現在は全て輸入肉で提供されているが、元祖店のあんべ、もしくは国道沿いの遠野食肉センターあたりで食べられる。なおこの地域では屋外で食べるときのために穴開きのジンギスカンバケツが普及しているが、たぶん観光で食べるときにはこれはお目にかかれないと思う。
遠野には遠野らしい和菓子もいくつかあるが、とりあえず「明けがらす」だけは紹介しておかないといけない。米粉を主体としたお菓子で、和菓子だがそれほど甘くなく、食感も中外で若干違ったりする。探せば盛岡でも売っているけれど、遠野が元祖ということで遠野で探したほうが見つかりやすい。
遠野市街地の西側にある道の駅を越えると旧宮守村になる。例によってここは平成の大合併で遠野と合併したところだが、こちらはこちらで観光名所が多い。中心市街地ではないが、メインとなるところは宮守の道の駅である。ここは背後にめがね橋の鉄道橋となり、遠野としてはここも含めて遠野のシンボルとしている。あまりに有名な場所なので前述の「咲」では2,3回くらい背景に登場しているらしい。ただマンガが古いため既にない聖地もある。宮守女子のモデルになった高校は15年くらい前に閉校しているし、宮守の中心市街地(というほどでもないけれど)にある宮守駅は完全に建て替えられて跡形もない。ただまあ、それ以外の橋とかはいくつかは残っている。
宮守の方には遠野市街地よりも前から地ビールの会社があって、特産のわさびを配合したわさびエール(発泡酒)とかも出していた。今もいちおう出しているがここの醸造樽では作っていないらしい。
この宮守の市街地から北に少し行ったところに稲荷穴、という湧き水があって、実はそこに併設されている蕎麦屋のそばが美味かったんだが、今は蕎麦屋は跡形もないそうだ。残念だね。
オシラサマ思い出した
Japaaanマガジン歴史・文化 なんと馬と結婚した女性の末路…「遠野物語」より、オシラサマのエピソードを紹介
@2019/08/18
世の中は実に広いもので、結婚と一口に言っても人間同士とは限らず、イルカや抱き枕など、様々な相手と結婚した方のニュースにふれると、愛情の形は実に色々あるものだと実感します。
と言っても別に昨日今日の話ではなく、日本でも人間と人間以外のパートナーが夫婦となったエピソードが残されています。
そこで今回は柳田國男『遠野物語』から、オシラサマの話を紹介したいと思います。
あまりに馬が好き過ぎて……
むかす、あったづもな(昔、こんな事があったそうだ)。
とある農家に一人娘がおりまして、気立ても器量もいいのに、年頃になっても縁談を断り続けていました。
あまりの事に、将来を心配した父親がその理由を糺したところ、娘はなんと「おらァ、ウチの馬と夫婦(めおと)になりてぇ」などと言い出します。
この申し出には父親も仰天しましたが、確かに以前から、厩(うまや)に一人で籠もって馬に向かってずっと独り言を続けている様子を目撃していました。
確かに馬は昔から、単なる家畜ではない「家族」だけれど……(イメージ)
馬といるのが何でそんなに楽しいのかと訝っていたら、なるほどそんな眼で見ていたとは夢にも思っていませんでした。
「バカもん!お前を永年、手塩にかけて育てたのは馬なんぞにくれてやるためじゃない!」
父親として当然の思いを伝えると、思い切って遠野城下へ出かけていきます。
「……お前が『馬と夫婦になりたい』などと言い出すのは、村にロクな男がいないからに違いない。よぅし、これからお町でこれ以上ない好青年との縁談を取りつけてきてやるから、楽しみに待っておれ!」
父親が出かけてしまうと、娘は馬と夫婦になりました(具体的なやりとりについては割愛されています)。
馬の首に縋りついた娘が……
さぁ、娘が馬と「夫婦になった」ことを知った父親は、烈火の如く怒り狂います。
「おっ父ぅ、やめてけろ!」
懇願する娘も顧みず、父親は馬を裏庭にある桑の木につるし上げ、斧でその首を叩っ斬ってしまいました。
「あぁ……何てむぞい(かわいそう)!」
娘が叩っ斬られた馬の首に縋りついて泣いていると、どういう訳か、馬の首ともども飛んでいってしまったそうです。
たった一人の大切な娘を失った悲しみに暮れていた父親は、ある晩不思議な夢を見ました。
「おっ父ぅ、親不孝な娘でごめんなぁ……その代わりって訳じゃあねぇんだども……」
「裏庭の桑の木で、私たち夫婦を彫ってお祀り下されば、きっと功徳がありましょう」
自分たちの結婚を認めて欲しい……そんな娘の思いに、とうとう父親も折れて馬と娘の像をお祀りするようになりました。
その像は桑を削った棒の先端に顔を彫り込んだ素朴なもので、幾重にも布を着せて支えるのですが、どういう訳か迷い事などある時には馬の顔がどちらかへ向いて「お知らせ」してくれるので、いつしか「お知らせ様」と呼ばれるようになり、それが転じて「オシラサマ」として今日に伝わっているそうです。
どんどはれ(昔話などで「おしまい」の意)。
北海道広尾町には音調津(おしらべつ)と言う小さな漁港がある。
元はアイヌ語でo-shirar-un-pet と発し「川尻に・岩・がある・川」の意味になると言われている。
川はアイヌ語で「ベッ」「ペッ」で、芦別とか遠別とか「別」で漢字表記することが多い。
だからオシラベツを例えば「尾白別」とかにしても良かったんだけど、
江戸時代の文人か漁場の請負人か松前藩士か幕臣か、あるいは明治時代の開拓使の役人か、とにかく誰か知らないけどアイヌ語地名を漢字で表記しようとした時にセンスを発揮した。
すなわち、オシラベツの音から連想させて、港を意味する「津」の字を地名に当てた。当時から小さな港があったのだ。
音と調べ(メロディ)という字面も文脈的だ。音色が聞こえてくる港のような印象を与える良い地名にした。
もちろんこれは問題で、もともとの「川尻に岩がある川」の意味は日本語で上書きされた。
アイヌの人々が住んでいた土地に日本語(漢字)で地名をつけるとはこういうことなのだが、ここではその問題は置いておいて、
アフガニスタンの軍事基地や施設が米軍によって空爆され、タリバン政権が崩壊、アルカィーダはイェーメンからスーダンへ逃げた。2001年暮れのことである。
どうやらテロリストらは陸路、イランへ潜入し、イランのイスラム・コネクションを経由して次の拠点に向かったらしい。
それはスーダンだった。
昨年来、イスラエルはガザから打ち込まれるロケットの襲撃に悩まされた。
4月5日、北朝鮮が発射したミサイルは日本の上空を通過した。あれが日本にばんばん打ち込まれたらどうするか。実際にイスラエルは、毎日のようにガザからミサイルを撃ち込まれた。
報復にでたイスラエルが戦車を投入したのも主権行為として当然だろう。
ハマスが撃ち込んだミサイルは、エジプトから秘密のトンネルを通じて大量の武器はガザに持ちこまれていたものである。
イランからイェーメンを経由してスーダンの沿岸部ポート・オブ・スーダンに集荷され、そこからエジプトへ密輸されていた事実をイスラエル情報機関「モサッド」が把握した(英誌『エコノミスト』、09年4月4日号)。
一月下旬、ポート・オブ・スーダンを出航した23隻の小型船が、おそらくイスラエル空軍機によって爆撃され、沈没した。
イスラエル空軍機の練度の良さは世界がしっているように、81年にはイラクのオシラク原子炉を襲い破壊した。2007年にはシリアで建設途中だった原子炉(北朝鮮の技術)を破壊した。
この武器密輸船舶の沈没事件以後、ハマスのロケット砲攻撃は数週間、なりを潜めた。
ここで歴史を振り返る。
スーダンのバシル独裁政権は、背後にイランの策動があった。1989年、スーダンは、イランの革命防衛隊にクーデタの方法を学んだハッサン・アル・ツラビ師によって策定され、バシルは軍事権力を、ツラビ師はアヤトラ・ホメイニ師のスーダン版になる予定だった。
スーダンの革命成功後、当時のラフサンジャニ(イラン)大統領は157名の大型使節団を率いてハルツームを訪問した。1991年だった。
「テヘラン―ハルツーム枢軸」が形成された。
レバノンでヒズボラに軍事訓練を施してきたハッサン・アズダが、以後、ハルツームに送り込まれた。ハルツームの北側にはイランの肝いりで武器工場がつくられ、いまやスーダンはアフリカ第三位の武器大国ともなっている。
08年にはイランの国防相がハルツームを四日間にわたって訪問し軍事技術協力、軍事訓練などの協定に署名した。国連でイラン制裁に断固反対する側にスーダンがおり、スーダンのバシル大統領の国際法廷喚問にはイランが断固、反対票を投じるという両国の蜜月関係は密接に続いている。
ダルフールの虐殺に武器を供与して間接的に手を貸したのは北京だけではなかった。